生活習慣病の分子遺伝疫学研究
―遺伝子情報の活用と倫理課題―
山 縣 然 太 朗
山梨医科大学保健学Ⅱ講座 要 旨:生活習慣病は単に生活習慣の影響だけで発症し,進行するのではなく,遺伝要因が関与し ていることは以前から知られていた。最近,分子遺伝疫学という新しい研究領域で,感受性遺伝子 という概念のもと,遺伝子レベルで生活習慣病の遺伝要因を明らかにし,素因にあった予防を確立 しようとする研究が進んでいる。また,ヒトゲノム解析計画は感受性遺伝子研究を一層促進させて いる。一方で,遺伝子情報を取り扱うに当っては,その特殊性から,倫理的課題を十分に考慮する 必要があり,我が国でも,遺伝子研究に関するガイドラインが作られようとしているところであ る。 キーワード 分子遺伝疫学,生活習慣病,ヒトゲノム解析計画,倫理、遺伝子情報 1.はじめに ヒトゲノム解析計画や PCR(polymerase chain reaction)などの分子生物学の技術が医 学に及ぼす影響は計り知れない。それは疫学の 領域にも及んでいる。疫学が疾病の発症要因を 明らかにする学問である以上,疾病罹患の一要 因である遺伝要因を明らかにするために分子レ ベルでの遺伝子情報,すなわち,遺伝子情報が 必要であり,疾病罹患における遺伝要因と環境 要因との交互作用を明らかにして,予防に貢献 することが課題となっているからである。 しかし,遺伝子情報を疫学研究に活用するに あたって,他の情報とは異なる性質を有するた めに,いくつかの考慮すべき点がある。本稿で は疫学研究における遺伝子情報の活用を概説し た後,骨粗鬆症についての分子遺伝疫学研究の 成果を紹介する。さらに,国内外の学会や機関 で考案,制定されているヒトの遺伝子情報取り 扱いに関するガイドラインを紹介する。 2.遺伝子情報とは 遺伝の物理的な単位が遺伝子である。遺伝子 はデオキシリボ核酸(DNA)をその化学的な 担い手とし,タンパク質と組み合わさって染色 体と呼ばれる微細構造に凝集されている。卵子 や精子には染色体の 1 セット(ヒトでは 22 本 の常染色体と 1 本の性染色体)が存在し,体細 胞は両親から由来する 2 セットの染色体(二倍 体の染色体)をもつ。染色体にある遺伝子情報 物質全体の一組をゲノム(genome)と定義し, 一倍体の染色体には一組のゲノムが存在するこ とになる。 ヒトゲノム DNA は約 30 億塩基対からなり, その 10 %程度であるといわれるタンパク質決 定部位と発現調節部位を含めた遺伝子領域と残 〒 409-3898 山梨県中巨摩郡玉穂町下河東 1110 受付: 2000 年 10 月 16 日 受理: 2000 年 10 月 24 日総 説
りの 90 %を占める遺伝子以外の塩基配列の部 分に区分される。 遺伝子情報はこれらゲノム DNA 情報だけで なく,塩基配列の情報としては RNA 情報,ミ トコンドリア遺伝子情報がある(以下,これら 塩基配列の情報を DNA 情報と記す)。さらに, 性,人種,家族歴などは広い意味で遺伝情報と 捉えることができよう。本項では主に DNA 情 報を遺伝子情報としてこれからの論を進める。 遺伝情報の入手として性,人種,家族歴は従 来の質問票等によるが,DNA 情報は組織を採 取しなければ得られない。どの組織にも同一塩 基配列のゲノム DNA が存在し,同じ DNA 情 報が得られる。組織として最も頻繁に使用され るのが末梢血白血球である。採血により得られ た白血球から DNA 抽出を行い,分子生物学的 手法を用いて DNA 情報を入手する。例えば, 一塩基置換の塩基配列の違い(遺伝子多型)の 情報を得るために,PCR によりある領域を増 幅し,PCR 産物をある制限酵素で切断して, 電気泳動法により長さの違い(制限酵素断片長 多型)を観察して,遺伝子型という遺伝子情報 を入手することができる。 3.遺伝子情報の必要性 双生児研究や家系分析により,遺伝性疾患だ けでなく,ほぼすべての疾病の罹患に遺伝要因 が関与することが示唆され,生活習慣病もその 多くが多因子遺伝病として認識されている。そ の本体は不明であったが,1992 年に高血圧関 連遺伝子としてアンジオテンシノゲン遺伝子が 同定1)されて以来,遺伝子多型を用いた感受 性遺伝子(susceptibility gene)とも呼ばれる遺 伝子と疾患との関連が多く研究されてきてい る。この感受性遺伝子は変異が即,疾病発症に 結びつくといった遺伝性疾患における責任遺伝 子とは異なり,susceptibility(易罹患性,疾患 感受性)に関連する遺伝子として認識されてい る(図 1)。現在,高血圧,アルツハイマー病, 骨粗鬆症,肺がん等でいくつかの感受性遺伝子 が同定されている。 研究方法は遺伝子情報を用いて,対象者を血 縁者とする Linkage analysis(連鎖解析)と非 血縁者とする Association study(関連研究)が 確立している。 疫学研究における遺伝子情報の必要性は単に 遺伝要因の評価にとどまらない。疫学研究で異 なる結果が出る要因の一つとして,交絡因子の 存在がある。遺伝要因は交絡因子の重要な候補 であり,遺伝子情報を得,調整することにより, 生活習慣を含む環境要因をより正しく評価する ことが可能である。例えば,まだ,議論途上に あるアルツハイマー病の予防因子としての喫煙 について,米国のグループは APOE 遺伝子多 型との交互作用による結果であるとの報告を し,APOE 遺伝子が交絡因子であったと結論し た2)。しかし,この結果は日本人では否定され ることを著者らは明らかにした3)。 さらに,遺伝要因と環境要因の交互作用の評 価をすることが可能となり,病因の解明や個人 の素因を考慮した予防法の確立に貢献できる。 4.生活習慣病の分子遺伝疫学: 骨粗鬆症の感受性遺伝子 骨粗鬆症の原因は骨密度の減少であり,骨密 度に影響を与える要因として,加齢や閉経に加 え,カルシウム摂取,運動などの生活習慣があ げられている。一方で,遺伝要因の存在も双生 児研究などで示唆されていたが,具体的な遺伝 子は明らかになっていなかった。1992 年に Morrison らはビタミンD受容体(VDR)遺伝 子多型が骨代謝のマーカーのひとつである血清 オステオカルシン濃度と関連していることを報 告し,さらに 1994 年に双生児や一般集団でこ の多型が骨密度と関連していることを明らかに した4)。 VDR 遺伝子のイントロン8にある BsmI 遺伝子多型において,対立遺伝子Bが骨 密度低下のリスクであり,遺伝子型 BB は bb に比べ骨密度が約 10%低かった。日本人にお いても著者らは同様の関連を報告し,また,対
立遺伝子 B の頻度は白人に比べて極めて低く, 人種差が存在することを合わせて明らかにした (図 2.3)5–6)。その後,多くの追試が行われ, Cooper らのメタアナリシスの結果,VDR 遺伝 子多型が骨密度に及ぼす影響は 2.5%程度であ るとされた7)。さらに,Ferrari らはカルシウム 投与後の骨密度の変化が VDR 遺伝子多型によ り異なることを報告した8)。同様の結果を著者 らも得ており,遺伝要因と生活習慣の交互作用 の一例として注目される9)。また,ビタミン D 治療との関係で BB 型は骨密度が上昇しにくい との報告がある10)。最近,VDR 遺伝子は翻訳 領域であるエクソン2の多型が骨密度に関連し ているとの報告がされ,ノックアウトマウスな どの研究とともに今後さらに研究の発展が期待 される。 この他にエストロゲン受容体遺伝子多型11) やアポリポ蛋白 E 遺伝子多型,オステオカル シン遺伝子多型との関連などが報告されてい る。 その他の生活習慣病の感受性遺伝子について は他の総説に譲る12–13)。 5.遺伝子情報の質 遺伝子情報は疫学研究で用いる他の多くの情 報と同様にその情報が 100%疾病罹患に結びつ く情報とはならない場合が多い。 遺伝子情報は疾病罹患の因果関係,特に関連 の特異性,強固性の点からいくつかのレベルに 分けることが可能である。関連の特異性の点か らは遺伝性疾患のように,①疾患と遺伝子が 1 対 1 の対応があるもの(この遺伝子を原因遺伝 子という。),②遺伝的異質性(heterogeneity) により疾患に対して複数の原因遺伝子が存在す るもの,③感受性遺伝子のように疾病罹患に対 して特異性は低いが,リスクに関与するものに 分けることが可能であろう。また,①において は原因遺伝子に優性遺伝と劣性遺伝があり,② は一つの原因遺伝子に変異がないからといって 遺伝的リスクがないわけではなく,③の感受性 遺伝子は単独でリスクとなる場合と環境要因と の交互作用でリスクの大きさが変わるものとが あると考えられる。 関連の強固性(相対危険の大小)という点か 図 1. 感受性遺伝子(著者) 感受性遺伝子がリスクとして,質的にも量的にも多くあると,遺伝子そのものの直接的,間接 的影響や環境要因との交互作用によって疾患を発症する。
ら遺伝子情報のレベルを分類することも可能で ある。疾患の原因遺伝子がはっきりしている場 合は遺伝子変異を持っているものが疾病に罹患 する確率(浸透率)の大小により,また,感受 性遺伝子の場合は相対危険度の大小により分け ることができる。一般に,原因遺伝子の存在は 強い強固性をもたらす。 6.遺伝子情報の特殊性と遺伝カウンセリング 遺伝子情報について遺伝医学や疫学研究に用 いる際に注目されるのがその特殊性である。他 の情報に比べてどういった点で特殊であるの か。二つの点があげられよう。それは遺伝子情 報が個人の固有のもので,変えることのできな い個人情報であることと,一方で,血縁者も共 有する情報となるという点である。 遺伝子情報は医学・医療の発展,患者やその 家族の利益を目的として使用される。しかし, 遺伝子情報を健康保険や生命保険に加入する時 の選別や保険料の決定に用いたり,雇用者が採 用時の情報として用いることの可能性が指摘さ れており,遺伝的弱者の差別につながる危険性 がある。これが遺伝子情報を入手し,取り扱う 際に危惧される点である。 図 3. ビタミン D 受容体遺伝子多型と骨密度の関連(Yamagata, et al. 1994) ビタミン D 受容体遺伝子の BsmI 遺伝子多型において,制限酵素 BsmI で切断されない対立遺伝子 B は骨密度に対してリスクとなって いる。 図 2. ビタミン D 受容体(VDR)遺伝子多型(著者)。
また,遺伝子情報は個人に固有のものである ばかりでなく,兄弟,両親,子どもその他の血 縁者も共有する情報である。明らかになった個 人の遺伝的リスクの情報は血縁者の遺伝的リス クに関係してくる。遺伝医学における遺伝子情 報の倫理面で焦点となる点の一つがこの情報の 共有性と血縁者への情報の開示である。 こういった現場での問題を解決する方法のひ とつが,遺伝カウンセリングである。遺伝医学 において,遺伝カウンセリングはすでに重要な 役割を担っているが,生活習慣病の遺伝要因が 明らかになることで,今後さらに対象者が広が り,重要性は増してくる。現在,日本人類遺伝 学会を中心に遺伝カウンセリングについて,資 格や研修システムなどを検討しており,その成 果が期待される。 7.遺伝情報を取り扱う研究における 倫理ガイドライン 疫学研究における遺伝情報取り扱いの倫理問 題に関するガイドラインは我が国には現在のと ころ後述するミレニアム・プロジェクトのガイ ドライン(遺伝子解析研究に付随する倫理問題 等に対応するための指針)以外,確立したもの は存在しない。そこで,現在(2000 年 10 月), 「ヒトゲノム解析研究に関する共通指針」を厚 生省が作成中である。 しかし,これまで,国内外において,医療や 臨床医学研究における遺伝情報取り扱いのガイ ドラインはいくつか検討され,公表されている。 例えば,WHO が提案した「Guidelines on ethi-cal issues in mediethi-cal genetics and the provision of genetic services(遺伝医学の倫理的諸問題お よび遺伝サービスの提供に関するガイドライ ン)」(1995 年,日本語版 1997 年)14),ユネス
コ総会で採択された「Universal Declaration on the Human Genome and Human Rights(ヒト ゲノムおよび人権に関する世界宣言)」(1997 年),米国人類遺伝学会が報告した「Statement on Informed Consent for Genetic Research」
(1996 年)15),日本人類遺伝学会が会告とした 「遺伝性疾患の遺伝子診断に関するガイドライ ン」(1995 年),家族性腫瘍研究会倫理委員会 のガイドライン作成ワーキンググループが検討 中の「家族性腫瘍における遺伝子診断の研究と こ れ を 応 用 し た 診 察 に 関 す る ガ イ ド ラ イ ン (案)」(1998 年 6 月 26 日)が参考になる。こ の中で疫学的研究に関する項目を設けているも のとしては WHO のガイドラインがある(表 1)。 また,新しい千年紀(ミレニアム)を目前に 控え,新しい産業を生み出す大胆な技術革新に 表 1.遺伝医学(genetic medicine)の一般的ガイド ライン14) 1.全ての遺伝サービスは経済的能力に関わらず誰 でも平等に提供されるべきであり,まず最もサ ービスを必要とする人に提供されるべきである。 2.遺 伝 カ ウ ン セ リ ン グ は で き る だ け 非 指 示 的 (nondirective)であるべきである。 3.スクリーニング,カウンセリング,検査を含む 全ての遺伝サービスは,自発的になされるべき である。例外は早期の有効な治療が確立してい る新生児スクリーニングである。 4.個人または胎児の健康に関係する臨床的に意味 のある情報はすべて伝えるべきである。 5.遺伝的情報の秘密は厳守されるべきである。遺 伝的危険を有する家族に重篤な危険が及ぶ可能 性がきわめて高く,遺伝的情報がこの危害を回 避するために使いうるときはその例外である。 6.個人の秘密は,雇用者,保険会社,学校,民間 会社,政府機関のような第三者機関から守られ るべきである。 7.出生前診断は,胎児の健康に関係し,かつ遺伝 的情報または胎児の奇形発見を目的とする時に のみ行われるべきである。 8.遺伝サービスに関する選択(すなわちカウンセ リング,スクリーニング,検査,避妊,生殖の 補助,出生前診断に続く中絶の選択)は基本的 に自主的であるべきで,その選択は尊重される べきである。 9.養子または提供された配偶子による子どもはガ イドラインのもとに生物学的子どもと平等に扱 われるべきである。 10.研究のプロトコール作成の際には,審査とイン フォームドコンセントのために確立された手順 に従うべきである。着床前診断の研究は認めら れるべきである。 11.人に対する実験的な遺伝子治療のプロトコール は,治療による利益とリスクの可能性を考慮し た国家の審査を受けるべきである。
取り組むために企画されたミレニアム・プロジ ェクトにおいて,厚生省は高齢化社会に対応し, 個人の特徴に応じた革新的医療の実現を目指し たヒトゲノム解析と五大疾患の克服プロジェク トを実施する。このプロジェクトで人の遺伝子 情報を用いた研究が計画されている。特に疾患 感受性遺伝子発見のための研究の一部は前述し たように集団を扱う疫学研究として実施され る。そこで,厚生省は遺伝子解析による疾病対 策・創薬等に関する研究における生命倫理問題 に関する調査研究班を立ち上げ,このミレニア ム・プロジェクトの研究において遺伝解析をと もなう研究に対する研究の倫理ガイドラインを 作成したのが「遺伝子解析研究に付随する倫理 問題等に対応するための指針」である。わが国 で始めての遺伝情報を用いる研究のガイドライ ンとして,大きな影響を与えるであろうと思わ れる。 これらのガイドラインは総じて次のような共 通の内容である。すなわち,①基本理念として 個人の尊重(人権の尊重)をあげ,②実施の目 的を医学,医療をとおして遺伝的に不利な状況 に置かれている人の援助および差別の防止にお き,③遺伝子診断等を実施する際はインフォー ムド・コンセントと遺伝カウンセリングが重要 であること,さらに,④情報の管理・保存,守 秘義務について十分に考慮することなどであ る。 8.おわりに ヒトゲノム計画では 2003 年にヒトゲノムの 30 億 塩 基 対 の す べ て が 決 定 す る と い う16)。 2003 年は Watson と Crick が遺伝子の二重らせ ん構造を発見して 50 年目となる。この恩恵は 計り知れないが,得られる情報のひとつとして 1,000 塩基対に一つは存在する一塩基置換の多 型 ( single nucleotide polymorphisms: SNPs) をはじめとする遺伝子多型がある。これらは遺 伝子と疾患の関連研究(association study)に おいて重要な役割を果たし,疾患に関連する遺 伝子の同定に威力を発揮することが予想され る。これからの遺伝要因に関する疫学研究の中 心となるのがこの遺伝子多型であり,今後,こ の遺伝子多型の情報を用いた研究が数多く実施 されることが予想される。遺伝的弱者を支援す ることを目的とした医学の発展のために,この ような疫学研究が人権と研究の自由を尊重して 実施されることが望まれる。 文 献
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