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日本におけるシェイクスピア : (2)福原麟太郎とShakespeare

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(1)

- (2)福 原 麟 太 郎 と Shakespeare -中 田 佳 昭

〔1

本稿 の 目的は,明治以来今 日に至 る 日本 の シ ェイ クス ピア受容史にお いて,坪 内遣遥以後 福 田佐存氏 までの期間の中か ら福 原麟太郎を取 り上 げ,そのシ ェイ クス ピア理解 の特徴 と, この間彼の果 した役割 と位置 とについて考察 し よ うとす る ものである。 ここにい う近遥以後 福 田慢存氏に至 るまでの期 間 とは,遣遥の主宰す る文芸協会が 『- ム レッ ト

『ヴェニスの 商人 』,そ して最後に 『ジュ リヤス ・シーザ ー』を上演後解散 に至 る大正初期 か ら昭和30年 福 田僅存訳 ・演 出,芥川比 呂志 主演に よる文 学座 の 『-ム レッ ト』 の上演 までを さ し て い る。 この期問を 日本の シ ェイ クス ピア受 容 史における第二期 とす る根拠紘,拙稿 「日本におけ (1) るシ ェイクス ピア- (1)中野好夫 と教養 としてのShakespeare」に よっている。 そ して第二 期 の中か ら粕 こ福原麟太郎を取 り上げ るの も,その中で中野好夫 とShakespeareを論 じた理 由に変 らない。 手短 かに繰返 せば,本稿 は 日本 の シ ェイ クス ピア受容 史を,坪 内遵遥におけ る r型」か ら,中野好夫 ・福原麟太郎にお け る 「教養」,そ して福 田佐存氏 におけ る 「実存」 的理 解- とた どる一連の試 みの中で,特に第二期 の福原麟太郎に焦 点をあて,彼 の シ ェイ ク ス ピア理解 の姿勢 と,それが受容史全体に対 して持 つ意味 とを明 らかに し よ うとす る-試 論 である。 福原 シ ェイ クス ピアの再検討は, 日本 の シ ェイ クス ピア受容史の一断面 を明 らかに して く れ るであろ う。 さらに-ム レッ トの 「芝居 は世を映す鏡 」 とい う言葉 を敷宿 し,明治以来今 日までのシ ェイ クス ピア理解 の歴史を鏡 として,そ こに 日本近代化百年 の時 々の姿が映 って いる と考えれば,中野好夫の場 合 と同様,福 原 シ ェイ クス ピアの中に 日本 の近代精神史 の一 端を垣間見 る ことも可能 と思われ る。

〔2

大正初期 よ り昭和30年 の半 世紀弱に及ぶ シ ェイ クス ピア受容史の第二期 として提起 され た 期間の特徴は,第1に演劇界におけるシ ェイ クス ピアか らの遊離 と,第 2に大学研究室にお けるシ ェイ クス ピア研究の専門化,そして第3に,第 1,第 2の理 由を背景 として,一般読 書界においては シ ェイ クス ピアの理解が極 めて限 られた ものであった とい う3点に要約 され

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) る。 この点 に関 しては,す でに 「日本におけ るシ ェイ クス ピア

-

(1)」にお いて検討済みの

(2)

30 研究紀要(第7号) ことではあるが,本章 ではそれを概観 しつつ,別 の資料等に よって これを補強してお くこと にす る。 なぜ な らば, この間 シ ェイ クス ピアが置かれ ていた上記の如 き状況を再確認 してお くことは,福原 シ ェイ クス ピアの特徴 とそ の意義を理解す る うえでの欠 くことのできない基 本 的作業 といえ る。 河竹登志夫氏は 『先駆 ける者た ちの系譜 』の 「日本 の シ ェイクス ピア劇」において, この 第二期 を翻訳 ・研究 の時代 と規定 した うえで次の よ うに述べてい る。 イ プセ ンが移入 され,チ ェーホフが入 り,ス トリン ドベ リが入 る。そ うい う近代主義万 能 の時代において, シ ェイクス ピアは古い,思想性がない とい うことで棚上げ された こ とは事実であった と思 います。そ うい う意味 で,第二期は シ ェイ クス ピアが 新 劇 の 本 流- 近代劇 の中か ら, もっ と広 くいえば 日本の近代か ら浮 き上 ってしまっていた時代 だ と,私は考えています。その代わ りこの時 代は, シ ェイ クス ピアが学者 の書斎の中に (3) 入 って行 った時代 であ り,研究が非常 に深 まって来 るのは この時代 なのです。 新劇運動が新たな発 展を見たのは,明治42年の後期文芸 協会 と自由劇場の二劇団の創立を 契機 としてであった。 自由劇場 は同42年 『ジ ョン ・ガブ リエル ・ボル クマ ソ』を,後期文芸 協 会は同44年 『人形 の家』を上演 し 日本近代演劇史第二 期の扉が開かれ たのだが,両劇団が イ プセ ンの作品を取 り上げたのは,その後の演劇界の行方に とって極めて象徴的なできご と であった。河竹氏が指摘す る よ うに,イ プセ ンに続 いたのはチ ェーホフであ り,ス トリン ド ペ ソであ り,その後築地小劇場を中心 とす る演劇運動 の主流 となったのほ, プロレタ リア演 劇 の波 であった。換言すれば,大正か ら昭和 に至 る新劇運動 とは 自然主義に基づ いた西洋近 代 劇偏重の演劇近代化運動 であった ともいえ る。 こ うした潮流の中で, シ ェイ クス ピアが古 くさい西欧の古典劇 として舞台か ら退 け られていった の も自然 な成 り行 きであった といわ ね ば な らない。 確 かに一方 には 日本の文化 を培養 し,国劇 を向上 させ る力 としてシ ェイ クス ピアを研究 . 翻訳 ・上演 し よ うとす る坪 内遣遥の精 力的な活動 を見逃す ことはできない。 しか し造遥の試 みは, シ ェイ クス ピア と歌舞伎の類似 性に着 目し,古 い 「型」に よって国劇刷新をはか ろ う とす る点にお いて当初か ら矛盾 と困難に満 ちた ものであった。昭和9年遵遥校閲になる 『シ ェイ クス ピア入門』は, シ ェイクス ピアに対す る世人の無反応に業を煮や した遵遥が,一人 熱海 に退いて全集の翻訳に没頭 していた当時 の胸 中を

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「知己を百年の後に待 つ」 といった (4) 悲 壮 な心境 であった と伝えている。 これに例えば, 昭和7年 『英語英文学研究』に 寄 せ た

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eareの 研究態度」におけ る本多顕彰氏の次の一文を重 ねれば,大正か ら昭和

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年 代 にかけてシ ェイ クス ピアの置かれ ていた位 置をほぼ確定す ることができる。

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が三 百絵年後の今 日において も不朽の倍旧を 失 ってゐない といふ ことは, 一 般に認め られ てゐるに拘 らず ・-・・・少 くとも彼の名聾 に相鷹 しいだけは読 まれ てほ ゐな

(3)

い と言って もよい と思ふ・・・・・・自己の満足の為にのみ研究に没頭 して,他を顧みないな ら (5) ば,Shakespeareは今後ます ます謹まれな くなるであろ う。 河竹氏が指摘 したのが 「舞台か ら退いて研究室に入った シ ェイクス ピア」であった とすれ ば,本多氏が警告 しているのは 「研究室に閉 じ込め られた シ ェイクス ピア」 とい うことにな ろ うが,舞台にしろ,一般読書界にしろシ ェイクス ピアが不 当に疎外 された状況にかわ りは ない。上記の如 き状況について, さらに昭和12年中野好夫は 「私は Shakespeareが--・も つ とわが国で讃 まれてい ゝ,杏,謹まれ なければな らない作家だ とい う殆 んど不動 の確信を 持 っている。」と述べている。そしてこれ もすでに引いた言葉 ではあるが,戦後に至 って昭和 24年中野は改めて次の よ うに繰返 さざるを得 なかったのである。 この園にシ ェイクス ピアが移植 されて以来,時間の鮎だけか らいえば も うすでに半世紀 を優に越 しているだろ う.だが有掛 こいえばシ ェイ クス ピアは この園では最 も少な く鑑 (6) 質 された作家である。 昭和30年以降今 日に至 る一種のシェイクス ピアブームともいえ る状況 との比較において, 大正初期 よ り昭和二十年代に至 る期間

,

「もつ と謹 まれなければな らない」 シ ェイ クス ピア が 「最 も少な く鑑賞 された作家」 として置かれていた状況については, まさに意外の感を禁 じ得 ない。 しかし前稿を補強しつつ,い くつかの新たな資料に よって見た如 く, この期問は シ ェイクス ピアに とって大衆へのポ ピュラ リテ ィーとい う点に関 して,いわば一種 「冬 の時 代」 とも言えるものであった。 福原 シ ェイクス ピアの特徴 と意義 とが明確になるのは,以上 の ような状況を背景にしてで ある。

〔3

中野に よれば

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「シ ェイクス ピアが比較的芝居 の好 きな大衆に理解 され 出したのは, せい ぜ いの ところ戦後」か らの ことであったOそれにして も,それ以前の半世紀に も及ぶ シ ェイ クス ピアの不遇時代は,いかなる理由に よるものであろ うか。単に近代 リア リズム演劇主流 の当時の新劇界 と,そ してシ ェイ クス ピアを研究室に閉 じ込めた当時のアカデ ミィズムの状 況 とにのみ原因を求め うるものなのか。 この問題を福原の 日か ら眺めれば,それは さらに広 い視野 と深い意識 の うちに とらえ られ る。福原は明治以来の英語 ・英文学研究の歴史を概観 しつつ

,

「日本 の英学」の中で次の ように述べている。 大正に至 って英語 は もっ と普遍的に研究 され教授 され るけれ ども, も う日本人 の真の興 味 ではな くなっている。 日本人には英 国以外 のものがた くさん 目に見え出して来た。英

(4)

32 研究紀要(第7号) 学は民衆か ら離jlる。それは専門化 され分業化 され て くる. も うおそ らく社 会公衆の-(7) 般的理解の うちに入 らない もの となって来ていた。 ここには大正時 代に入 っての,大衆の英語 ・英文学離 れ と,そ の専門化,特殊化に よる英 字の大衆離れ といった関越 が表裏か ら指摘 されている。江戸末期蘭学に とって 代 った 英 学 は

,

「外交通商国防文化Jl・.のす く、・れ て現実的文明開化 の学 として, さ らに明治時 代

本が拠 るべ き理想 とす る西欧を艶解 し, よって文 明国に近づ くための国家有用 の学 として,その実 用的かつ文化 的価値を疑 われてほいなか った。 しか し大正時代, ヴィク トリア朝 の栄華の衰 微 とともに英 国は見倣 うべ き強国 としての魅 力をな くし,英語 ・英文学は学習 され る価値を 失 いかかる一方 で, ロシアや フラ ンス文学等が手本 とな り,各 々の国語 の原本か らの翻訳が 行 わ九, 日本国民 の興味 は英 国文化 のみを基幹 とせず広 く西欧一般に 向け られ るよ うになっ た と, 矧京は指摘 している.英語 ・英文学遊離の矧かこ関 して言えば, これに大正13年7 メ リカにおいて改正 された 「排 日移民法」への反発に触発 され た 「英語 教育廃止論」な どの影 響 も加えなければな らない。いずれ にせ よ福原に よれば, こ うした状況 の中で 「思想 として も大正 になってか ら日本の青年 を動 か していた ものは トル ス トイ とか ドス トエ フスキーとか (8) イ プセ ンとか ロマ 1/ ・p-ランであった」 と言 うことになる。 しか し福原に とって, 日本 において広 くシ ェイ クス ピアが受入れ られ る余地 のない こうし た状況は,単 に時代 と大衆 の興味が英語 ・英文学か ら他 の内政諸国の言語 ・文化- と移 った とい う以上に,深 く互 に租 鄭 重す る二つ の問題一 英文学の本

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胃とE]本 の文化的成熟度 とに 係わ る問題 を含 んでいたのである。 福原は昭和15年,有名 な 「叡知 の文学」 の中で,「英文学は人生 の経験 を種 々通 りぬけた 大 人の文学」であ ると規定 し,「日本人が面 白がった文学は, 国境を越え うる, 青年 の文学 (9) に過 ぎなか った のではないか」 との問題 を提起 してい る。英文学の中で も国境を 越 え た の は,例えば ドクター ・ジ ョンソンや シ ェイ クス ピアでは な く若い青年 の文学が 主 流 で あ っ た。福 原に よればそれ らは,弟 1に 日清戦役 の頃 のバ イ ロン, シ ェリー,辛 -ツ, ワ∼ズ ワ -ス,第2に大正初期 の ワイルド,第3に昭和始めの ロ レンス, ジ ョイス とい った詩人やrF (10) 家達であった。 特に大正 ひ とけたの時代について,例えば寿岳文章氏は, ロマ ン派文学 の余 光 が色濃 く, テエ ソン, ブラウニ ング, シ ェリー,キーツ,バ イ ロン等 をtl'.発点 としなけれ

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、 ば,スペ ンサ ーに もシ ェイ クス ピアに も遡れず, また現代 に も進めない風潮 であっ

, とい った趣 旨の ことを述べてい る。 この点については,中野 もほぼ 同 じ見方を明 らか に し て い る。 中野は, 明治以来 日本に紹 介 された英文学は殆 ん どが19世紀 ロマ ンテ ィシズム, そ し て ヴィク トリア朝以後 の ものであ り, これは 「英文学に とって取返 しのつかぬ不 幸 で あ っ (12) た」 とす ら断定 してい る。 開国 ・明治維新以来,そ の後進 国意識か ら日本が追 い求めた のは, もっぱ らに西欧近代を 範 としての近代化 の道 であった。福原,中野が提起 してい るのほ,そ うした近代化 の潮流 の 中で,文学,特に この場合は英文学の摂取 において, もてはや されたのは主 として19世紀以

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後 の近 代文学 であ り,その過程 で ヨー ロ ッパ とイギ リス とを理 解す る うえで不可欠 ともい う べ きそれ以前の文学作品の持つ意味を看過 したの ではないか, とい う問題 である. ヨー ロ ッ パ近 代は枝葉 であ り,そjtは深 く歴史に板 をは ってい る.文化,特に文学 の本質的理解 に と って重要 なのは,その作品がいかに深 く民族 的,歴史的価値に根 ざ し,かつそれがいかに広 く普遍的価値 を包 含 してい るか とい うことであるO 福 原に よれば, シ ェイクス ピアは最 もよ くそ うした価値 を体現す る文学 として位置づ け ら れ る。 シ ェイ クス ピアの文学は 「叡智の文 学」であ り

,

「大人の文学」であ り,それ は 「もつ と謹 まれ なければな らない作家」の文学 であった。 しか るに, シ ェイ クス ピアが第二 次大戦 後に至るまで御 世辞に も読 まれた とは言え ない状況につい ては,す でにい くつかの資料 に よ って見た如 くであるO中野はそれを r英文学に とって と りかえ しのつかぬ不幸」 といい,福 原はそ こに

日本文化の未成熟」を見 ていたのであ る。 〔4

福原シ ェイ クス ピアを述べ るにあた って, まず彼の シ ェイ クス ピア作ll,luの翻訳 の少 な さを 指摘 しておかねばな らない。福原の場合翻訳 に関 しては,各 々大 山俊一,大山敏子,岡本靖 正氏 との共訳になる 『リチ ャー ド三世』『十二 夜』『冬の夜語 り』の 3つ と,他に注釈 として

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ひ とつがあるにす ぎない。 大正か ら昭和 にかけて英文学, ジ ャ-ナ リズム の 世界において福原の果 した役割 を考え る とこの翻訳の少 な さは以外 であ り,福 原の ジ ャー ナ リズム界におけ る仕事の多 くは,論文の他に講演,批評,随筆 とい った形に よってな され た もの とい って よい。 この点に関 しては福 原 自身の次の よ うな弁 明があ る。 私は,だか ら,翻訳 とい うことを軽蔑 していたOそれ よ りも作 品- 外 国の ものなら作 品を読 んで 自分 の考えを語 りたかった。 ---本 当の翻訳 とい うことは不可能だ と思 って いた

,翻訳を した ってし ょうがない, し ょせん他人の もの じ ゃないか とい う考 えがあ ったのである。 --・もっとも---英語 の教 師を してい て,訳読 的にやか まし くほ じ くる 習慣 が,訳文を書 く上に も及 んで,いやが上 に もああで もない こ うで もない と,むづ か し く,結局気 に入 らないのがいやで,翻訳 を逃げ る とい うこともあ ったが-・-。 自分 の 著 書 と称 す るものを並べ てみ て篠で もない感想 ,批 評,紹介ばか りであ るのを見 る と, (13) つ まらな く一生 を費 した とい う感が深 いO ここには研究者,教育者そ してジャーナ リス トとしての三人 の矧 京がい る。福 原が英文学 におけ る先達 として も研究者 としても,絶えず 視界におい ていたのほ夏 目擬石 であった。本 当の翻訳を不可能 と考え,外 国の作品を読 んで直接 自分 の考えを語 りたい とい うのは,英文 学 を英国人の よ うに理解す るのは不可能だか ら 日本人 として論評す る, とい う擬石の反語 的 うらみを乗 り越え よ うとす る英文学者 としての福 原の決意の表 明 とも言え る。 「日本の 英文

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34 研究紀要(第7号) 学 は 日本人 の立場 で とい う,世 間にあ る要望 に背 くことを もって 旨とし」

,

「英文 学 の 研 究 (14) 杏,英国でや ってい る本式の学問に近づ け よ う」 とい うのが,英文学者 としての 自己の立場 であった と福 原は述べ てい る。 明治以来の 日本 の歴史は文化国家建設の歴史 であ り,その手本 としての当時の先進 国西欧 との距離 をいかにつめ るかは,一種 国家的関心事 であった。福原の姿勢は 日本近 代化の過程 において 日本 が追 いつ くべ き理想 とした西欧文化への 自己 同一化 とい う方法に よって, この 距離 を乗 り越え よ うとす るひ とつの立場 を提示 してい る。学問に対す るこ うした姿勢 が福原 に要求 したのは, まず なに よ りも英文 学者 としてテキス ト第一主義に もとづ き,いかに正確 に また深 く原典 を読 み味 うか とい うことであった.多 くの教 え子たちの回想か らも, また 自 らの述懐 か らも,福原の学問の厳格 さは斯界に有名 な ところであ る。 だが

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「英国人の よ うに」とい う同一化のために,厳格 な学問に よって養われた鋭 い言語感 覚 に よってなに よ りもまず英文を正確 に解釈 し,理解 しよ うとす ることは,一方 では言葉 ・ 文 学を含む イギ リスの文化 について,その 日本文化 との異質性を明確に意識す ることであっ た。福原が持説 として述べ てい る 「文 学は国境 を 出ない」 とい う表 現は,研究の過程 を通 し て至 った英文 学の独 自性の認識に立 って,その 日本文化 との異質 性を乗 り越え ることの困難 さを表 白した もの といえる。 国語 とい うものは,その国民の もの であ る。その国民の人種や風土や文化の中か ら

生ま

(15) れ 出た もので,決 して外国人 には解 らない。 -・-つ ま り文 学は国境 を出ない。 「文 学は国境 を出ない」とい う断定 は,福原の如 き泰斗が, とい うよ りほむ しろ福原ほ どの 学者 だか らこそ言 い得た もの と解すべ きものであろ う。 ま ともに とれば,福 原の言葉 はすべ ての外 国文学研究 を空 し く見せ る。 しか し福原の真意はそ こにはない。我 々はた とえば次の よ うな言葉において,外 国文化 ・文 学研究の辺境 か ら戻 って来 た福原に出会 う。 外 国語を学ぶ とい うことは二 つの道 におい て国民を刺激 し利益を与 え るO-つは言葉に 対す る意識を鋭 くし,従 って国語に対す る自覚を生む ことであ るO も う一つは,その外 国語を通 じその国の文化 に対す る理解を与 え,従 って自国文化に反省を うながす ことに (16) あ る。 一方 で 「文 学は国境を出ない」 との認識に立 ちなが ら,他方 では 「外 国語を通 してその国 の文化」を理解す ることを主張す る福原の言葉 には明らかな矛盾が あ る。 しか しこの方程式 は 「自国文化に反省を うながす」 とい う答に よって容易に解け る。福原に とって 外 国 文 化 は, ま さにその 日国文化 との越えがたい差異 性のゆえに こそ研究 し,学ぶ価値 あ るもの とな る。 なぜ ならばそれ こそは

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「自国の文 化」を省み,成長 させ る手段に他 ならない。 そ してそ の外 国文 化の独 自性, 自国文 化 との異質性を最 も具体的 な形 であらわ してい るもの こそ 「言

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薬」 なのであ る。 福原が大正末期から昭和初期の英語無用論に反対 して英語教育の必要性を説 き, ま た 戦 後

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「英米を取 り入れ るために開けられた窓 としての英学の復興」を主張 したのは,翻訳に よ らず直接 「生 の言葉」 と,その言葉に よって綴 られた文学 とに接 し,それを学ぶ ことが 「英 米の文化の姿を修得す ること」になるとの強い確信に もとづ いての ことであった。 以上長 々と述べたのは,福原の翻訳消極論の説明のためではな く,上述の福原 の 西 欧 文 化,特に英語 ・英文学に対す る学問の方法,姿勢 といった ものが,福原 シ ェイクス ピアを理 解す る上 できわめて重要な意味を持 ってい るために他 な らない。翻訳に限 って言えば,福原 の よ うに明確 な意志に もとづいて翻訳を試みない とい うこともまた, シ ェイクス ピアに対 し てと りうる一つの態度 であ り,解釈 であるともいい うる。本章の最初の引用に帰れば,福原 は 「外 国の作品を読 んで直接 自分の考えを語 りたい」 とい う意図を, 自ら篠 でもない と謙遜 す る 「感想,批評,紹 介」 とい う形において実行す る。そ して この過程 において福原が 旨と したのは,読み抜いて文字通 り血 肉と化 した内容を,面 白 く,平易に読者 に伝え るとい うこ とであった。広い知識,深い造詣が 自家薬篭中の もの として語 られ る時 ,そ こに 「福原英文 学」 といわれ る独得の学風が成立す る.福原シ ェイクス ピアは, トマス ・グレイ,チ ャール ズ ・ラム, ドクター ・ジ ョンソンをへて福原英文学が実 らせたひ とつの成果である。

〔5〕

福原が東京高師 ・岡倉教室において初めてシ ェイクス ピアを読んだのは,大正初期,20代 前半の ことであった。回想は大正12年東洋大学にてMacbethを講読す る も, イギ リス 留 学 前 まではあま りシェイクス ピアを面 白い と思わず,戸川秋骨の 「シ ェイクス ピアはつまらな (17) い」 との意見に一部賛成す るところがあった と記 してい る。福原は昭和4- 6年,35-37歳 の間英国留学,オール ド・ヴィックを中心 に熱心に観劇, シ ェイクス ピアへの関心を深めて 帰国す る。そ して福原 とシ ェイクス ピア との関係が深 まってゆ くのは,おお よそ次の よ うな 過程 においてである。 私が シェイクス ピアを面 白い と思い出したのは三十代の半ばを過 ぎてか らであった よ う に思 う。いちばん感心 して読 んだのは五十歳 くらいの ときで--お りしもさきの大平洋 (18) 戦争で 日本の敗色が濃 くなった ころであ る。 昭和9年 「四十歳は秋の歌 である」 と述べた随筆 「四十歳 の歌」,昭和15年英文学は「人生 の経験 を種 々通 りぬけた--大人の文学 である」 との説を展開 した 「叡智の文学」に示 され た ような一種の転機 を経 て,福原は徐 々にシ ェイクス ピアに近づいてゆ く。福原が積極的に シ ェイクス ピアについて書 き,語 るようになったのは戦後の ことであ る。

(8)

36 研究紀要(第 7号) 英文学には青年の文 学 よ りも大人の文学の方が 多いのでは ないか,む しろそ こに英文学 の特質があ るのでは ないか と考 え るに至 った。大人の文学 とい うのは 自重 した人生感の 下 に眺められた人生の物語で,いかに生 きるか,人はいかに生 きたかを知 って喜ぶ読者 のために書 かれた ものであ る。 --シ ェイ クス ピアは若 々しい。 しか しシ ェイ クス ピア (19) の描 き出した 世界のサ ム ・トータル (総収)は,大人の知 ってい る価値 であ る。 福 原が シ ェイ クス ピアを評価す るのは,その中に 「人生 の物語」が,英文 学の特質 である 「ヒューマニズム

「英 国的笑い

「愚人の哲学」の うちに,いわば 自然に鏡 をかかげ る如 く 生 々と,深い洞察力 と豊 かな想像 力に支え られた言葉 に よって描 き出され てい るか らに他 な らない。 「ここに人生の一つの姿が ある。 ここには別の一つの姿が ある。それは シ ェイ クス ピア劇 の意味 であ る。 シ ェイ クス ピアは思想家で もなければ,改革家で もない- 人生を よ (20) く見 て,それを面 白い芝居 に してその時代 を楽 しませた劇作家 なのである。」福原 に とって 大切 な ことは, シ ェイクス ピアを詮議立 てす るよ りほ,なに よ りもまず 「面 白 く読 み, 潤 き,芝居 として見る」 とい うことであった。 だが しか し,その面白 く読 まれ,見 られ るべ きシ ェイクス ピアが,広 く大衆 に受け入れ ら れ るに至 らなかった第2次大戦 までの状況につい てはす でに述べた如 くであ る。国境を越え たのは主 として ロマ ンテ ィシズム, ヴィク トリア朝 以後の青年の文学であった。 しか し福原 の評価に よれ ば,「国境を 出ない文学の中に英国の文学の真実の相を語 るものが残 ってお り, それ こそが この 世に生 きるさまざまな姿 を写 し,その知恵を読者に与え よ うとす る大人の文 (21) 学」 とい うことにな る。そ してその大人の文 学の典型 こそが シ ェイクス ピアに他 ならない。 だが イギ リス文 学の特質 を, したが って 日本文化 との差異性を巌 も明確に備えた文学 であ る とい うその理 由に よって, シ ェイ クス ピアは 日本-の国境 を越え なかったのである。そ して 原因は英文学の特質にのみかかわ るだけでな く, また 日本の側 に も求め られ るべ きものであ った。 多 くの英文学の作品を面 白 くな く感 じさせ るものが あ りとすれば,それは英文 学の罪 で は な くて,今 日わが国の文学に叡智がす くないか らであ り,英文 学が面 白い とい うため (22) には, まず こちらも世の中の辛酸 を嘗めつつ年を とって大人に なる事が必要 であ る。 福原 に とって シ ェイクス ピアを受 け入れ るか否かほ, ここにおい て一 個人を越えて,一国 の文化 の成熟 度,英知に係わ る問題 となる。

〔6〕

福原 シ ェイクス ピアの特徴のひ とつ として忘れ ては ならないのは,その シ ェイ クス ピア観

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が文学のみならず能,狂言,歌舞伎,新劇 ,映画 とい った演劇,芸能一般-の広 い興味 と造 詣 に支 え られ た ものであ るとい うことであ る。実際,福原の劇評には一見相反す る とも思わ れ る表現があ って,時 々読む者 の焦点 を拡散 させ る。 しか しこれについ ては,遣遥の歌 舞伎 (23) 的 シ ェイ クス ピアに感心す る一万 で,福 田シ ェイ クス ピアを高 く評価す る福 原の姿勢 に,-慣性の な さを指摘す る よ りはむ しろ, とらわれず にその双方を見つめてい る視野の広 さを こ そ評価すべ きものであろ う。福原は新劇の役者が西 洋演劇を演ず るに さい して,舞台の上 で 早 く下駄 か ら卒業 して靴の歩 き方をマス タ-すべ きだ とす る一方 で,彼 らの刀の差 し方が様 (24) に ならな くなった と指摘す るのを忘れない。象徴 的な言い方をすれば, これは下駄 ・刀か ら 靴 へ,坪 内か ら福 田シ ェイ クス ピアへの距離 を明治 ・大正 ・昭和 とい う時代 とともに歩 きな が ら,そのいずれに も偏す ることな く7 1)-- ン ドを保ちなが ら批評を続け ることを可能 な ら しめた平衡感覚,総合感覚に裏づけ られた福原独 自の姿勢 であった ともいえ る。劇 評 にお い ても福原の シェイクス ピアは独得の味わいを持 ってい る。 舞台の シ ェイクス ピアを語 るに しろ,文学 としての シ ェイ クス ピアを論 じるにせ よ,福 原 の語 り口が あま りに も平易 なため,多 くの読者 はその背後にあ るそ うした方法に拠 る福 原の 明確 な意図を看過す る。 しか しそれは,英文 学が福原の考えてい る 「文化 の学問」 としての 役割を果すための一つ の方法 であ った。学問 としての英文 学は大衆 の教養 と文化 に資す るも の であ るべ きだ, とい うのは福原 の変 らぬ信念 であった。 しか るに福 原 の 目には,文 学研究 の現状は 「学問を万法的に押 し詰めて行 ったあげ くま るで身動 きので きない ところ-莱 ,世 (2

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) 俗か ら独立,遊

」 してしまった もの と映 ったのであ る。 こ うした傾 向は 日本 の読者 に英文 学が, シェイ クス ピアが読 まれ ない状況 を助長す る。福原が戦後刊行が再開 され ることに な った 『英文学研究』の巻頭言を 「先づ第一着手は,登問 とヂ ャ-ナ リズムのバ ラ ンスか ら始 (26) まるであら う」 と結 んでい るのは,福原 の学問 とジ ャーナ リズムの分離への危機感 と,その 距離 を埋 め よ うとす るその後 の福原の活動 の方 向 とを知 る上 で極 めて象徴的 ともいえ る。 福原の シェイクス ピアを閉 じるにあた って付言 しておかなければ ならないのは,福 原が西 洋 をそれ 自体 において見つめ,その独 白性, 日本文 化 との差異性を明確 に意識すべ きだ とし なが らも,一万で人間の普遍性への信頼 を 自らの文 学研究 の支えに してい る とい う点 で あ る。福原は 「人間」を手掛か りとして,意外 な容易 さで国境 を乗 り越え る。福 原は シ ェイク ス ピアの創 り出した人間像の中に,人間一般 に, 共通す る普遍的姿を兄い

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HL,それ に共感 す るとい う形 で中野 同様,一種の同時代性の意識におい てシェイクス ピアに対す る位置 に立 ってい る。福 原は後年 「国環を 出ない文 学」を理 解 させ,東西文明の差異を越 え させ る不思 (27) 議 な力を 「理解 と共感に もとづ くイ ンターナ シ ョナル ・マ イン ド」 と呼 んでい るが, ここに は遵遥 よ り一歩先 に進 んだ シェイ クス ピア理解 の姿を見 ることが で きる。遭遥 の脱却 で きな か った 「型」に とらわれた歌舞伎 的 シ ェイ クス ピアに対 し,福原は裸形 の精神 にお い て見つ め,理解 し,共感 しよ うとす る姿勢におい てシ ェイクス ピアに 向ってい る。 そ うして得 られ た理解や共感を,福原は研究室か ら出て,その独 自のス タイルに よって大衆 に伝 え よ うとす る。大衆 と学問,英文 学, シ ェイクス ピアとを結 びつけ ることを 目的 とした福 原の講演, 評

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38 研究紀要(第7号) 請 ,批 評 ,随 筆 等 は, 国民 の教養 ,文 化 の質 と深 く係わ る もの で あ った。 坪 内遭 遥 の 「型 」 と福 田佐存氏 の 「実存 」 との間 に あ って, 中野 の場 合 と同様 ,福 原 シ ェイ クス ピアの特徴 を 「教 養 と しての シ ェイ クス ピア」 とい う観点 か ら とらえ る ことが で き るで あ ろ う。 シ ェイ ク ス ピアが十 分 に理解 され た とは い いが た い受 容 史 第二 期 , 特 に戦 後 か ら昭和30年 代 に か け て, シ ェイ クス ピア流布 の ために福 原が果 した役 割 りの啓 蒙 的意 義 を問い直 す 必 要 が あ る と いわ ねば な らない。 〔注〕 (1) 中LH佳昭 「日本におけるシェイクスピア- (l)「中野好夫 と教養 としてのShakespeare」, 『清泉 女学院短期大学紀要第6号』(昭和63年)pp.71-85.参照。本稿も中野好夫の場合 と同様,福原シェ イクスピアを 「教養的理解」として評価する立場にたっている。 (2) 同上。 (3)河竹Tl至志夫 『先駆ける老たちの系譜』(冬青社,昭和60年)pp.58-590 (4) 坪 内遣遥閲 『シェイクス ピア入門』(中央公論社,昭和9年)p.80 (5) 日本英文撃会編 『英語英文学論集』(研究社,昭和7年)。 (6)中野好夫編 『シェイクス ピア研究』(新月社,昭和24年)あ とがきp.3210 (7) 福原鱗太郎 「日本の英学」,『福原聯太郎著作集

〔以下 『著作集』 と省略〕第9巻 (研究社, 昭 #44*)p.3070 (8)福原麟太郎 「英語教育論」,『著作集』第9巻 (昭和44年)p.150 (9)福原鱗太郎 「叡智の文学」,『著作集』第10巻 (昭和44年)pp.ll-20参,H.1'i。 (10)同上。 (ll)寿岳文章 「英文学を生 きぬいた人」, 『英日L清 年- 福原麟太郎氏池悼特集』 (研 究 社, 1981年 6月号)p.

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(12)中野好夫 「イギ リス文学 と外来文化」,『中野好夫集』第5巻 (筑摩書房,昭和59年)p.274参照. (13)福原麟太郎 「この世に生 きること」,『著作集』第6巻 (昭和44年)p.2170 (14)注(13)前掲書p.4210他に 「現代文学研究の意味」,『著作集』第10巻参/Ef.礼 (15)福原麟太郎 「文学的方法」,『詩心私語』(文芸春秋社,昭和48年)pp.349-350 0 (16) 福原麟太郎 「英学復興」,『著作集』第9巻 p.50 (17) 福原麟太郎 「覚え書」,『著作集』第1巻 (昭和44年)pp.498-505参IIli.0 (18)福原麟太郎 「私 とシェイクス ピア」,『著作集』第1巻 p.1250 (19)福原麟太郎 「大人の文学」,『愚者の知恵』(新潮社,昭和32年)pp.77-78。 (20)注(17) 前掲書 p.170 (21) 荏(19) 前掲書 「大人の文学」参照。 (22) 注(9)前掲書 「叡知の文学」参照。 (23)例えば 「沙翁劇三十年」,『著作集』第8巻, さらに 「シェイクス ピア劇の解釈- 福 田 恒 存 諭

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」,『細原鱗太郎随想全集』第4巻 (福武書店,昭和57年)等参照。 (24)福原麟太郎 「俳優修業注文状」,『著作集』第9巻参照。 (25)注(15)前掲書 「詩心の喪失」p.307。 (26)『英文学研究』第25巻 No.Ⅰ (昭和23年)O (27)例えば 「東京教育大学最終講義」(昭和30年2月26日)- 『英語 占年 Eu (昭和30年6月号掲載)0

参照

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