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佛教大學大學院紀要 27号(19990301) L061近藤裕子「世阿弥能楽書における人間のあり方:看護学生の人間理解への応用」

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Academic year: 2021

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世阿弥能楽書における人間のあり方

一看護学生の人間理解への応用一

近 藤 裕 子

〔抄録〕 人聞を対象とする看護等の職業においては,人聞をどのようにとらえれば,人間全 体を把握できるかの検討は重要である。日本では古来から「身心一如」の考えから, 心身一元論的なとらえ方が一般に行われてきた。しかし人聞は,身体的にはとらえや すくても心理的にはとらえにくい。人聞をどのようにとらえるかは,それぞれの人に よってまた,どのような視点でみるかによっても異なってくる。人間の姿や心を,能 楽を通して演じた世阿弥によって記述された,さまざまな人間の姿から,看護学にお ける人間のとらえ方への応用を考察するO キーワード:世阿弥,能楽書,人間模様,看護学生,人間理解

は じ め に

世阿弥元清(1363-1443)は 当時の室町幕府の将軍個人の思いに翻弄された生涯を送った 能楽者であるO 栄光から奈落へと,目まぐるしく変化する状況にありながらも,彼は81年間の 生涯に,多くの能楽書を著述している。その内容は今日,能楽に止まる事なく,演劇・心理 学・教育学等の分野においても研究されている。それは著述が能を通して,多様な分野に関連 あるように記述されているからであるO 筆者は,世阿弥の教えを看護教育に活用できる方法に ついて検討してきた。その結果からは,彼の著述した書物の中に,現代に通じる教育学的アプ ローチが記述されており,さらに能の稽古の方法は看護技術の修得過程と類似していることが 明らかとなったのであるO ここでは,能からとらえる人間のあり方を分析し,看護教育へどのように活用するかを検討 した。能で演じられる人間の三大基本役柄を,さまざまな角度から考察すれば,人聞を理解す る観点についても提示できると考えたからであるO 世阿弥は三大基本役柄を軍体・女体・老体 の三体でとらえているO これら人間の三種の形態を演じるには,老人を演じるための技術,女 -

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61-世阿弥能楽書における人間のあり方 (近藤 裕子) 性の役を演じるための技術,激しい役を演じるための技術をよく研究し,習得する必要性を説 いている(至花道二曲三体)。そこでこのような稽古から,人聞をどのようにとらえたり,理 解したりするかについて検討した。この三体を演じる稽古では,その基本の稽古をしっかりと 行わずに,最初から個々の役づくりのための末梢、的な演技を行っていると,能に安定性がなく 見劣りがするために,しっかりと三体の基本の稽古が重要であるといわれているO 稽古をする には,人聞をよくよく観察して,その身体的・心理的状態をよく理解して演じないと物まねの 域をでず,見せる能,花を得る能にはならないのである。 看護においても看護の対象である人聞を,心埋・社会・身体的に把握することが必要で=あ る。看護学生は心理は心理学で,身体は解剖生理で学習しており,発達段階別に分けた人間全 体の把握は,各分野ごとにとらえる傾向をもっている。世阿弥は,人間の心身をとらえた稽 古,すなわち身心一如としてとらえて演じるのでなければ,枝葉末節のわざとなってしまう と,人間全体をとらえることの重要性を指摘しているO このような彼の人間のとらえ方や考え 方を,人間を対象とする看護教育へ活用する方法について考察することが大切であるO

1.世阿弥が描く人間

1)人間の基本形一軍体・女体・老体一 『至花道』の「二曲三体のこと」には I三体というのは,あらゆる人間の形態を三種に大 別した演技の基本的役柄のことである」とし I三体とは,老体・女体・軍体,この三種であ る」と記述している。 この三体は「捨玉得花」のなかの I問。諸芸をなす人,面々我意分の所得有。此我意分と 申は,別に心得る所あるべきゃらん」の答えとして, 先、三体において、老体の物まねをなす事、人形云、「関心遠目」と名付たり。心閑かにし て、目を遠く見よと也。<老眼霞テ、遠見サダカナラヌ風姿也

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老体の風体也。 世阿弥は,老人の役柄に扮するこの眼目は I二曲三体人形図」のなかに「閑心遠目」と名 付けておいたところであるとして,その意味は心を聞かに持って,眼は遠くをみるということ である,と説いているO すなわち老人は生理的に視力も衰えてくるので,遠くがはっきりと見 えない,という気持ちをあらわしたものであるという。これが老人の基本的表現であって,体 も心もそれを表すようにし,……立ち振舞う体つきも,それになりきった様子ができれば,老 人の境地に達するというのである。 増田は,能ほど「老いの美」を追求した芸術はまれではなかろうか,という。能の老いは, 惨めさや醜さではなく,流転の人生を超えて,のびやかに澄み,瓢逸味さえ帯びた,強い心境 62ー

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であると述べているO 老人を負のイメージでとらえるのでなく,人生を卓越している人間とし て老いを美的なものととらえているO さらに世阿弥が言った「関心遠目」とは,単に老人の演 戯術の心構えばかりでなく,人生の長い距離を遠望するにたる位置に立った,静誼の心境をも 指しており,老人の機能的あるいは気質的な変化の衰えまでも,プラスのイメージーとして説 明しているのであるO 女性の役柄は「体心捨力」であるというO 女体は、「体心捨力」と名付。心を体に

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て力を捨つるく心ヲ姿に能成サパ、即力ハスタル ベシ>宛てがいに、誠に成かゑりて、……(略)。 女になりきった心を主体として, しなやかに身体の力を抜くO それは女の心になると自然と 力が抜けるということであるが 女性は女に似せようと思って生きている女がいるはずがな い,女は女に生まれてそれもその身分に応じたふるまいをしているのだと,女性はこうあるべ き,身分によってその振る舞い,すなわち生きて来た環境による振る舞いの違いを指摘してい る。男性が女になろうとすれば I体心捨力」の基本設定のやり方で,女の身心になりきった 表現が,女性役の要求する演戯境地であるという。このような配慮なく女に似せようとする と,女性役の要求する境地であるはずがないとしているO 女の姿を対象的に模写するのではな く,内面的にその女になりきることが重要である,と説いているO 能役者は女の能を舞いこなすために一生を捧げた。能では性を否定することによってより高 い「女らしさ」を表現することに努力を傾け I夢幻能」をつくりあげたのである。とくに夢 幻能では,女性が在りし日の装いで現れ,思い出を語り,昔を懐かしんで舞を舞うというの が,基本形として描かれているのである。 武人の役柄については, 軍体、「体力砕心J<力ヲ体ニスル、ソノ心ヲクダカンコト、大事也>と名付。力を体にし て心を砕く所を、よくよく心人に宛てがゐて、さてその態をなさん事・・・ (略)。 「体力砕心」すなわち,身体を激しく使って足踏みなども軽快に見せる心がまえをもったうえ で,実際の体つきは穏やかに保って,荒々しくなってはならぬ限界を十分に心得て演技しなけ ればならない。 表面ばかりを真似ていると役柄は萎縮して どっちつかず、のわけのわからない演戯表現とな る, というのであるO 63

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世阿弥能楽書における人間のあり方 (近藤 裕子) 2) 物狂い 『捨玉得花』の中で世阿弥は,能の物狂いの女のおもしろさを記述している。女性は恋や子 どもに生き別れることによる精神的打撃によって,傍目を意識する心の余裕をもたない女性と して描かれているO 恋に狂う女,子どもを探しての母親の物狂い,主従の物狂い,失った子ど もを探して夫婦が物狂いとなる状況などが演じられている。 物狂なんどの事は、恥をさらし、人目を知らぬ事なれば、是を当道の賦物に入ベき事はなけ れ共、申楽事とは是なり。女なんどは、しとやかに、人目を忍ぶものなれば、見風にさのみ見 所なきに、物狂になぞらえて、舞を舞い、歌を謡いて狂言すれば、もとよりみやびたる女姿 に、花を散らし、色香をほどこす見風、是又なによりも面白き風姿也。 これらの物狂いは,現代社会でも考えられる人間の心理状態であると考えられる。能楽で演 じられるこれらの物狂いは,精神的に打撃を受ける事件とその人の心理状態を表現していると 見ることができる。

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看護における人間のとらえ方

日本の看護界では,人聞は身体的・心理的・社会的側面をもった存在である,ととらえられ てきた。今日では,アメリカを中心とする看護理論が導入され,各看護学者がそれぞれ独自の 考えのもとに,人聞をとらえようとしている。 例えばヘンダーソンは,人間の概念について生物学的,心理学的,社会学的,および精神的 要素を考慮している。基本的看護ケアとして14項目をあげているが 9項目は生理的要素を反 映したものであり 2項目が心理学的要素 1項目が精神的要素 2項目が社会学的要素であ るO ヘンダーソンによると,人間を14の構成要素に反映された基本的欲求(ニード)をもっ者 だと説いているO U3 カリスタ・ロイは,人聞は生物的心理的社会的存在であり, したがって,人聞を正しく理解 するためには,統一体あるいは全体として把握しなければならないと考えているO 人間は絶え ず環境と相互作用しており,生物的,心理的,社会的な適応規制(メカニズム)を用いて,環 境上の変化に対応しているというO そして変化に反応する人間の適応様式として 4つの異な る様式をあげているO それは生理的欲求(ニード),自己概念,役割機能,相互依存という 4 つである。生理的欲求(ニード)の適応様式は,身体統合性の欲求(ニード)に関連してお り,その欲求(ニード)は運動と休息,栄養と排j世,水分と電解質,酸素と循環,温度調節, 感覚調節,内分泌系の調節などに分類されているO この内容は,身体の機能を維持する働きと して把握できる。自己概念様式は,人間の心理的統合性をあらわしている。すなわち人間の欲 - 64ー

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求(ニード)であるO 役割機能の適応様式と相互依存の適応様式は,社会的統合の欲求(ニー ド)としてとらえられている。 マーサー・ロジャーズは人聞を5つの統合体としてとらえている。まず第一に,人間は一つ の総合された総体である,第二に人間と環境は常にエネルギーを相互に交換しあっている,第 三に人間の生命過程は,空間的,時間的な一つの連続体に沿って,一定の方向に進んでいる, 第四に生命のパターンと構造は,人間を人間として特償づけるものであり,人間の革新的な全 体性を反映するのである,第五に人聞は抽象と心象,言語と思考,感覚と感情という能力に よって特徴づけられるというのである。 これらの理論家たちと日本の看護界における人間のとらえ方で共通する部分は,生物学的, 心理的,社会的な統合体としてとらえていることであるO しかしその内容には,それぞれの理 論によって異なっているし,特に心理社会的面においてはそれぞれの国民の特徴がみられる。 その中でもヘンダーソンの人間のとらえ方は,比較的に日本人の考える人間の概念に類似して いるO しかし日本人は自立よりも依存しながら自立している傾向が強く,ロイがいうような自 己概念や相互依存への適応様式でとらえることは困難で、あるO またロジャーズの統一体として の人間の考え方に関しでも,いまひとつ日本人の考え方とは異なっているように思われる。 「日本人は人聞をどのようにとらえるか」との問いには,やはり心理社会的な側面からの日 本人の考え方を活かした分析を必要としているO この部分が明確になれば,他国の借り物でな い,日本人独自の「人間とは何か」の概念が明らかにされると考えるO

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世阿弥の人間像を看護教育に活用すること

看護では対象者を心身一元論で考え,対象者の全体をとらえようとしているO 外国の理論家による人間のとらえ方は,日本人にはひ。ったりこない。日本人が日本人を理解 する方法として世阿弥を取りあげ,彼の著述した能楽書の中で人聞をどのようにとらえている のか,それを看護教育における人間理解に活用するにはどうすればよいかを考察するO 世阿弥は能の稽古において,人間の外観だけをとらえ真似ても,それはその真似ている 「体」にはなっていないという。物まねから「花」を得るには,演じようとする人の心身の状 態が十分に理解できておれば,その演じようとする人が初めて本当にその性,年代の人として 生き生きと生きるのであるO その年代の生理的に変化する身体と,心理的な変化を理解したう えで演じることの重要性を,いろいろな箇所で強調している。すなわち心身の変化を理解した 時に,初めてその人(これはその年代にあるある個人を指している)を演ずることが可能であ るといい,外観だけでは,演じる個人の内面まで、は分かつていないので,演ずる個人を見るこ とはできないというのであるO 世阿弥は演ずる者を心身一元論で理解しなければ,人間を理解できないし,個人も理解でき - 65

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世阿弥能楽書における人間のあり方 (近藤 裕子) ないと,能の稽古の中で強調しているO ここでは人間のとらえ方,すなわちその人聞を全体的 に理解することの重要性を説いているのであるO 世阿弥は老人を「関心遠目」とプラスのイメージでとらえているが,医学的には機能が低下 するとマイナスのイメージでとらえることで教授されているO 芸術家 赤瀬川原平 (61) 尾 辻克彦の名で作家として活躍,芥川賞など受賞=は I敬老の日」を別名「老人力の日」であ るというO 老人力とは I忘れっぽくなった, トシとった」と嘆くのでなく I老人力がつい た」と表現している。忘れっぽくなると,逆に警戒心がなくなって,新しいものが入りやすく なる,活性化するO と,プラスのイメージでとらえ,老人力は「忘却力」であり,忘却力がつ けば辞書をしばしば引き,人に繰り返しものを尋ねるようになるが,これは貴重な力です。 と,老人になることを称賛しており,このような考え方は世阿弥の老人把握のイメージと類似 しているのである。 人聞をプラスのイメージでとらえようとした世阿弥の教えは I人間とは何か」を考える場 合に参考となる。人間の発達過程について,若い年代をプラスとしてとらえ,年齢を加えて行 くにつれてマイナスとしてとらえる医学的な発想よりは,人間の一生をプラス思考でみる考え 方の方が,人聞をすばらしい価値をもったものとしてとらえることになるO 特に,世代聞を越 えた人間の付き合いの体験の少ない看護学生には I人間とは何か」と疑問を投げかけ,人間 の年代別の心身の変化や,生活背景の違う人の心身の状態などを学習するための手本として能 楽書は役立つのであるo20歳代の自分(看護学生)とどこが違うか,人生をプラスにイメージ できる世阿弥の教えは,自己の生きてきた過程,これから進んで行く過程のイメージにも活用 できるのである。また,現代の社会において,自分の存在がないと,悲観的な考えをもっ人び とにとっても,有益な示唆が得られるものと考えられるのである。

お わ り に

世阿弥は生き生きと能を演じるには,芸の修業の必要性と,演じる者の特徴を知ったうえで 演じることが重要であると指摘している。 そこで演じられる人間の理解には,身体的変化ばかりでなく心理的変化や,あるいは社会的 な側面をもった一個人としての存在が,全面に押し出されるような演じ方が要求されている。 そのためには,演じる個人の身体的・心理的・社会的な側面を十分に把握することの重要性が 説かれており,その把握の方法は看護学生への人間理解の教授法に活用が可能で、あると考えら れる。また,世阿弥の人間をプラスにイメージする思考は,学生だけでなく他の人々への生き がいや,自分の存在の重要性を理解するために重要であると考えられる。 ~ 66ー

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註 (1) 近藤裕子,r花伝書」の内容を看護技術教育に活用する 「かたちJから「かた」へ j r香川医科 大学看護学雑誌J 1 (1), 1997, 1 - 9頁. (2) 近藤裕子「世阿弥「花鏡』における生涯学習論j r悌教大学大学院紀要J26, 1998, 161-168頁. (3) 近藤裕子「看護学生の老人理解に関する研究一能による老体の表現を中心にしてーj r香川医科大 学看護学雑誌J 2 (2), 1998, 41 -45頁. (4) 近藤裕子「能楽書『至花道」における「わざ」教授法 上手の極め至りて J r香川医科大学看護 学雑誌J 2 (1), 1998, 35-45頁. (5) 表 章 『 世 阿 弥 禅 竹J'至花道」二曲三体事のなかの三体として老体・女体・軍体の人間の基本役 柄が記述されているO (6) 至花道」は能の稽古の方法論について記述した世阿弥の書である。この中には「三曲三体事」 「無主風事J'閑位事j ,皮肉骨事J'体用事」の内容から構成されているO (7) 捨玉得花』は,正長元年に能の道を修業するための秘伝として金春大夫に相伝すると記された書 である。その内容は,世阿弥が問答形式で能の花とは,妙とは,安き位とはなどについて記述して いる。「芸の境地と役柄の境地」はこの問答の中の一部であるO (8) 山崎正和「世阿弥~,中央公論社, 1938, 246頁. (9) 増田正造「能への招待」山崎正和『世阿弥J,中央公論社, 1983, 436-438頁. 間 前 掲 香 川 , 424頁. (11) 前掲書(9),446頁. ( 12) Jolia B.George rNursing Theories-thc Base for Professional Nursing PracticeJ (南裕子・野崎佐由 美・近藤房恵訳)W看護理論集ーより高度な看護実践のためにJChiyoko Yamamoto Furukawa. Joan

K Howe 'Verginia Hendersonj, 日本看護協会出版会, 1998, 69-100頁. ( 13) 前掲書(12,) Julica Gallagher Galbreath 'Callista Roy j, 251-278頁. 凶 前 掲 書(12,) Suzannc M.Falco 'Martha E. Rogersj, 229-249頁. ( 15)天声人語j W朝日新聞.11998年9月15日 (こんどう ひ ろ こ 香 川 医 科 大 学 医 学 部 看 護 学 科 1998年10月14日 受 理 - 67

参照

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