わたしからの
人権メッセージ
第34回
第三十四回
わたしからの人権メッセージ
堺市人権教育推進協議会では、人権を守り、平和で差別のない明るいまちづくりをめざして、市 民主体の活動を進めています。その活動の一つが、本年度で第三十四回を迎える﹁わたしからの人 権メッセージ﹂です。たくさんの市民の皆様が日常生活の中の人権問題に関心を持ち、自ら考え綴 ることによって人権についての認識と理解を深め、さらに作品の共有を通して広く人権啓発につな げることを目的として実施しております。 今年度も、私たちの呼びかけに幅広い年齢層の皆様から、数多くのメッセージを寄せていただき ました。作品を応募していただきました皆様に心からお礼を申し上げます。厳正なる審査の結果、 優秀な作品二十点を入選作品とし、ここに、 ﹁わたしからの人権メッセージ﹂として本冊子を発刊し ます。これらの作品からは、すべての人々の人権が尊重され、平和で差別のない社会を創り出そう という熱い想いが伝わってきます。 堺市は、 憲 法の基本的人権尊重の精神のもと、 人権施策を市の最重点施策の一つに位置づけ、 人 権 感覚にあふれ、すべての人の人権が尊重されるまち堺を実現するため、積極的に取り組んでいます。
﹁わたしからの人権メッセージ﹂発刊にあたって
会長
金
丸
尚
弘
二〇一三年十二月 堺市人権教育推進協議会 しかしながら、今なお、同和問題をはじめ、女性や高齢者・外国人への差別等、さまざまな人権問 題にかかる事象が発生しております。また、東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故につ いて、放射能の影響を心配するあまりか、根拠のない風評に基づく偏見や差別など、被災者への思 いやりを欠く事案も発生しています。 世界に目を向けても、 多くの人々の尊い命が、 戦争や民族紛争等により失われました。 二十一世紀 を真に﹁人権の世紀﹂とするためには、人権が尊重される社会の実現に向けて、継続した取り組み が必要です。 このような状況の中、この作品集が一人でも多くの方々に愛読され、人権や平和、環境に対する 認識を深める契機となり、私たちのまち堺から人権文化の花を咲かせる一助になることを期待して います。もくじ
はながさくといいな
﹁
五体不満足﹂を読んで
戦争と沖縄
﹁
永遠に捨てない服が着たい﹂を読んで
介護される人の人権
友達の意味
特攻隊について
男女平等についてぼくが思ったこと
お互いに尊重し合う社会
公共のマナーと障害者の快適な生活
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5 ・・・・・・・・・・・・・ 7 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 13 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 15 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 19今年の夏に気付いたこと
世界の現状
障害者からのメッセージ
今、私たちが願い届けること
まずは私から
便利なSNSの忘れがちな落とし穴
山本美香さんの死から考えること
戦火の果てに
支え合う
出会いのもつ力
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 21 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 23 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 27 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 31 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 33 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 37 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 39 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 41 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 43 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 45なつやすみのしゅくだいのプリントをままとみていたとき﹁じんけん﹂がありました。ままに ﹁じんけんってなに?﹂ときいたら、ままは、こまったかおをして﹁ゆなちゃんにはむずかしい な。 ﹂といいました。 そのあとで﹁花さき山﹂と﹁ともだち﹂のえほんをかってくれました。このほんは、むずかしか ったです。なんかいもよみました。のびのびルームにきたかみしばいをしてくれたうめぼしばあさ んとおんなじことをいっているとおもいました。うめぼしばあさんは、 ﹁ やさしいひとには、はなが さいて、いじわるをしているひとは、はながしぼみます。ときどきいじわるなひとははながさいた りしぼんだりしています﹂と、いいました。わたしは、ともだちが、ないたりこけたときに﹁だい じょうぶ﹂といってあげます。ないたときには、なきやむまで、いっしょにいたり、こけたときに はおこしてあげます。そのときは、花がさいています。いもうととけんかしたあとは、いやなきも ちになります。けんかしなかったら、よかったのになあとおもいます。そのときは花がしぼんでい ます。だからわたしの花はさいたりしぼんだりしています。 花がさいたときは、うれしくて、はながしぼんでいるときは、かなしいです。いっぱい花がさい
はながさくといいな
小学校一年長
船
優
那
おさ ふね ゆ なたらいいなとおもいます。花がさいたらきれいだからです。ともだちにふわふわことばをいったり、
やさしくしてあげようとおもいます。ままにいうと﹁それが、じんけんやで。
﹂
とおしえてくれま
私が乙武さんを初めて知ったのは、コメンテーターとしてテレビに出えんしていた時で、両手両 足がないことにとてもおどろきました。そんな障がいがあるのに小学校の先生もしていたと知り、 どんな人なのかもっと知りたくなったので、この本を読んでみました。 おどろいたのは、乙武さんは自分の障がいを﹁自分らしさ﹂と思い、全然気にしていなかった点 です。 乙武さんは、ほとんど自分で何でもしてしまいます。例えば、階段も登れるし、ビート板を使え ば泳げるし、ボールのドリブルだってできます。 しかし、乙武さんだけが努力していろんなことができるようになったのではありません。 小学校一年から四年生まで担任だった高木先生の指どうのおかげでした。 一年生のとき、乙武さんは入学してすぐに人気者になりました。子どもたちは、乙武さんが乗っ ている﹁電動車いす﹂がめずらしくて、学校中の注目を集めていました。 そのとき乙武さんは自分のことを﹁王様みたい﹂と言ってはしゃいでいたそうです。 ところがある日、高木先生から電動車いすの使用を禁止されてしまいました。
﹁五体不満足﹂を読んで
小学校四年梅
本
萌
心
うめ もと も ねそれからの乙武さんは大変でした。朝礼が終わり教室にもどるときは、ポツンと校庭に取り残さ れます。階段の上りおりや教室の移動も一人でしないといけません。クラスの子どもたちにも手伝 うのを禁止していたからです。 しかし、そうされるのが高木先生の思いやりでした。何でも手助けすることで乙武さんにあまえ た気持ちが育つし、車いすに乗ってばかりだと筋力がつかなくなってしまうからです。 先生の気持ちは乙武さんにも子どもたちにもちゃんと伝わって、一人ではできないことは手伝っ てあげたり、なるべくいっしょに遊べるように子どもたちだけで﹁オトちゃんルール﹂という特別 ルールを作ったりしました。 そのうちにクラスは乙武さんをクラスメイトの一人として、ケンカをするのも、一緒に遊ぶのも ﹁あたりまえ﹂になりました。 私は、高木先生の指どうと勇気に感動しました。 私は今まで障がいのある人にはすすんでお手伝いをしたり教えたりしてきましたが、少しだけ ﹁してあげないといけないから﹂と思っていました。そんな風に思っていたことが、今はとてもは ずかしいです。 ﹁五体不満足﹂を読んで、私は乙武さんのように一生けん命努力する人になりたいと思います。 そして、障がいがあってもなくてもだれかが困っていたらお手伝いをするのが﹁あたりまえ﹂と思 えるようになりました。
ぼくが、この本を読もうとしたきっかけは、沖縄が好きなことと、戦争にきょうみがあるから です。 すごくむずかしい本だったけど読んでよかったと思うし、みんなにも読んでほしいと思いました。 なぜかというとみんなに読んでもらうことで戦争の苦しみをしり、もう絶対に戦争をしてはいけな いという気持ちをもってほしいからです。 沖縄は、一九四五年アメリカ軍にしゅうげきされ、二十数万人のぎせい者がでました。そのとき は、兵隊だけではなく、中学生や女学校の四・五年生などが戦場へ行かされました。女学校のおよ そ五百人もの十六・十七才の少女がひめゆり学徒隊の名で従軍看護婦として、野戦病院に送りこま れました。 そして洞くつから洞くつにとびまわって働いているときにばくだんに当たって死んだり、洞くつ の中でアメリカ兵のガス弾で殺されたり、つかまるのがいやで手りゅうだんで自殺したりして、 次々と死者がでました。 食べ物も、のみものもほとんどなかったそうです。これは、本にかいてあった内容です。
戦争と沖縄
小学校五年沼
田
峻
志
ぬま た しゅん じそこでぼくは実さいに沖縄に行ってひめゆりの記念館でてんじ物を見たり、当時のえい画を見た り、実さいにひめゆり学徒隊にいて、足にばくだんを受けた人の話を聞いたりしました。本にはの っていなかったひどい実態を見て聞いて、ショックでした。 かべにひめゆり学徒隊の人の写真がいっぱいはってあったのですが、それは全部死んだ人でした。 ひめゆり学徒隊の人たちは、兵隊のうじだらけのほうたいを変えたり、おしっこや便の世話や、死 体をうめたりもしたそうです。おにぎり一こが一日の食事ということも聞きました。 アメリカ軍のこうげきを受けて、友達が目の前で死んでいくという、ひどい話もききました。ば くだんを受けた足は、今もいたいと言っていました。ぼくは沖縄の海が大好きです。けれど、アメ リカ軍からにげるためにその海にとびこんで死んだ人がたくさんいることはしょうげきです。 ぼくは今がふつうだと思っていたのに、七十年ほど前には、こんなひどい世界なんだと思うとこ わくなってきました。 沖縄は海もきれいで、自然もいっぱいあるし、楽しいところです。 七十年前の出来事は、想像できないくらい、明るい所です。また来年も沖縄に行って海でダイビ ングして楽しみたいです。 けれど、沖縄は、楽しいだけの所ではないということをわすれてはいけないと思います。
わたしはこの本の題名を見て、永遠に捨てない服なんて本当にあるんだろうか、どういう意味だ ろうと思いました。でも、読んでみると、リサイクルをして、どんどん、小さい子たちに受けつが れていくという意味なんだなと、分かりました。 このお話は、カメラマンの岡部さんが、地球温暖化のことを考えて、服を着なくなったとき、リ サイクルをして、集められて最新の技術を生かして工場で新しい布によみがえり服になる。この仕 組みの中にいなければならない存在として、子どもが加わっている服である体そう服を考えます。 六年生の着なくなった体そう服をリサイクルし、一年生にまわす活動を実現させていくというお話 です。 この本の中で一番わたしが印象にのこったのは、京都の小学校の人たちが岡部さんといっしょに エコバックを作るのに、リサイクルする材料を、地域の人や学校のほかの生とたちに協力をお願い する場面です。最初は、フリースや体そう服のズボン三着くらいしか集まりませんでした。けれど 家を一けん、一けん、呼びかけることによって、どんどん集まり、クラス全員分のエコバックを作 ることができたのです。クラスの一人一人がやれることを全部やってきたから集まったんだと思い
﹁永遠に捨てない服が着たい﹂を読んで
小学校六年巻
幡
香
乃
まき はた か のます。 わたしは、去年、環境管理委員でした。そのときも、エコキャップを集めるために呼びかけまし た。その活動は朝れいで委員長が呼びかけたり、ポスターをつくったり、いらなくなった紙などで、 エコ新聞をつくったり、工夫をしたのをおぼえています。考えてみると協力してもらえるよう呼び かけたりする活動は、わたしが環境管理委員会でやったことと、ちょっと似ているなと感じました。 わたしはこの本を読んで、地球温暖化がこんなに進んでいくことにおどろかされました。石油は あと五十年ももたないと言われているし最近気温がどんどん高くなってきています。でも、わたし たちのやれることはいっぱいあるということも、この本を読んで気づかされました。これから、わ たしは、今までより地球温暖化のことを考えて、ごみを出さないことなどを意識していこうと思い ます。
私のおじいちゃんとおばあちゃんは、家にいるときはヘルパーさんにお世話になり、今はグルー プホームでお世話になっています。身近で介護してくださっている姿を見て、私は認知症の方の介 護について考えました。 私のおばあちゃんは六十六歳で認知症になったので、私は小さい頃からヘルパーさんを見ていま した。おばあちゃんが認知症だということが分かった頃、そのときはグループホームに入居してい て、介護スタッフの人たちの対応などを見て、私はすごいと思いました。 特に認知症の方の対応は、その人の気持ちになってその人が言うことをまず受け入れ、気持ち、 人権を尊重してくださいます。そんな認知症の方の介護がある中で、人権を侵害するものもあり ます。 私のおばあちゃんは今、髪の毛が短いのですが、お母さんの話を聞くと、おばあちゃんは絶対髪 の毛を短くはしないそうです。きれいに巻いたりしてオシャレをしてたのに、認知症だから何も分 からないからといって、介護の楽のために髪の毛を切るのは百パーセント尊重ではないと感じ、さ みしく思います。
介護される人の人権
中学校一年奥
野
楽
おく の えでんひどいものには、面倒だからといって人前でおむつを取り替えたり、順序よく食べる食事も混ぜ 合わせ詰めこむだけ詰めこんで食べさせるなどがあります。 このように高齢者が認知症であり、ものの理解ができないとしても人権の尊重を忘れてはいけな いと思います。たとえ認知症の方でも、様々ですが感じることはあると思います。 私は介護される認知症の方の人権についての学習を通して、一人一人の人権を尊重し、大切にし ていこうと思いました。
保育園に通っていた頃 、﹃ 一年生になったら﹄という歌を歌うたびにワクワク・ドキドキしたこと を覚えています。 ﹁友達百人できるかな﹂の歌詞が大好きでした。 学校に行くようになってからは﹁友達百人できるかな﹂を思い出すたび、もしこの歌詞通りに なれば、クラスでいやな思いをしなくてすむかなあ、毎日学校へ行くのも楽しいだろうなあと思 うようになりました。今、考えると私は初めから友達を作ることが学校へ行く目的だったかもし れません。 私は周りの人たちと比べてみると、友達を作ることが上手ではありません。はっきり言って下 手くそです。いろいろ考えて試してみても、いつまでたっても私の周りの出来事は変わりません。 だから私は楽しかった話や悲しかった話・相談事はいつもお母さんやおばあちゃん・おばさんに します。 夏休みになっておばさんと食事に出かけたとき、学校のことを聞かれてあれこれ話していると、 急におばさんから﹁正己は友達の意味がわかっていない。 ﹂と言われました。どういうこと?なん で?﹁友達の意味﹂って何?そんなことばかり気になって、その後に話したことはあまり覚えてい
友達の意味
中学校一年阪
尾
正
己
さか お まさ みません。帰ってからも﹁友達の意味﹂ばかりが気になって仕方がないので、次の日にスカ イ プ ︵ ※ ︶を つないでおばさんに教えてもらえるようにお願いしました。その夜、おばさんから教えてもらった こと、自分自身のこと、周りの人たちのことを考えました。 私は今まで友達というのは、一緒に遊んだり、一緒に学校で過ごしたりできる、そしていやな思 いをしたときにかばってもらえる人だと思っていました。でもおばさんの言う友達は﹁一緒に成長 できる人﹂でした。いつもそばにいなくても、お互いの場所で一所懸命がんばれる人、悪いことを していたらお互い注意できる人、お互いに相手の気持ちを思いやることができる人のことです。私 はこの話を教えてもらってから、少し気持ちが楽になったような気がします。 もうすぐ二学期が始まります。私が考えた友達の作り方がすぐに活かせるかどうかはわかりま せん。自信もありません。でも、これからはあせらずこわがらず、まずは一歩進んでみようと思 います。 ※ スカイプ … インターネット電話サービス
戦争の中で、特別攻撃部隊、通称特攻隊というものが存在しました。それは、爆弾と若者を飛行 機に乗せ、戦死を前提に、相手の艦船等を目標として体当たりするという、人を兵器にした世に存 在してはいけない攻撃部隊です。 特攻隊の飛行機には、行きの燃料しか積まれていません。なぜなら、日本はこの時、とても飢え ていたからです。燃料はほとんど残っていませんでした。それに、突撃すれば死んでしまいます。 だから帰りの燃料は必要なかったのです。私はこれを聞いたとき、ひどい攻撃部隊だと思いました。 それに、そこまでして、戦争をやる意味があるのかと思いました。燃料や兵器が無いのなら、降参 すればいいのに。何を持って無駄な意地を張るのでしょう。それが私には分かりません。 飛行機に乗って軍艦に体当たりする時、みんな﹁お母さーん!﹂と言って死んでいくそうです。 もう胸が張りさけそうです。そんな形で家族と別れるのは絶対いやです。 そんな中、奇跡的に生きて帰ってきた人がいたそうです。良かった、と少し安心しました。しか し、当の本人はこう言うのです。 ﹁自分だけが生き残ってしまった。不様だ。 ﹂と。これはテレビで言 っていたことですが、なぜだろうと思いました。聞いていると、当時の日本は死ぬことが美しいと
特攻隊について
中学校一年立
岩
花
奈
子
たて いわ か な こされていたそうです。その考え方は明らかに間違っていると感じました。死んだら何もかもおしま いです。そこからは何も生まれません。自分にとって大切な人が悲しみの涙を流すだけです。 特攻隊の中で、海軍に属し、飛行機で相手の軍艦に攻撃するものがありました。名は神風特別攻 撃隊。一九四四年十月二十日に最初の攻撃隊が編成され、一九四五年八月十五日終戦まで続いた、 最も有名な特別攻撃隊です。 自らの命を犠牲にしてまで、軍艦に体当たりする若者はどんな気持ちだったのでしょうか。それ は、宮崎県にありました。 ﹁南海に たとえこの身ハ果つるとも いくとせ後の春を想えば﹂これは、当時特攻隊員だった永峯 さんの辞世の句です。南海に、自分の命はほうむるけれど、後に春が来るのなら死んでもかまわな い。そういう意味を持ち、そうやって永峯さんは、覚悟を決めたのだと感じました。私は、この ﹁春﹂という言葉が、 ﹁平和﹂という世界を表わしているのではないかと考えます。神風特別攻撃隊 敷島隊の一人だった永峯さんは、今の日本を見て、ああ春が来たということでしょう。 戦争により生まれた特攻隊。それは、それに携わった何人もの命をうばい、その人たちの家族に 苦しい涙を流させました。もう二度と特攻隊をつくってはいけません。それをつくり出した戦争も 繰り返してはいけません。 過去は変えられないけれど、 ﹁春﹂をつくることならいくらでもできます。 戦争、特攻隊のせいで亡くなってしまった人たちは今、春を見ているのだろうと思います。
ぼくのまわりの女性には強い人が多いように思う。 ぼくの家族は父・母・兄・姉・祖母・ぼくの六人家族だ。働いて給料をもらっているのは父だが、 だからといって父が一番エライというかんじではなく、細かい決定権は母がにぎっているように見 える。兄と姉がケンカしたときも、力では兄のほうが強くても、実さいの口ゲンカでは、姉に言い 負かされていることがよくある。 学校の中でもそうだ。女子の方がしっかりしているので、女子の意見がよく選ばれる。 祖母の時代は、 ﹁男は外で働いているからエライ。女は、家を守るのが役目でおとなしくするのが あたりまえ﹂だったそうだ。姉は﹁女の子なんだから、お母さんの手伝いをしなさい﹂とよく祖母 に言われている。しかし姉は勉強が好きなので机にむかっているときは、家の用事はまずやらない。 ぼくは家事をするのが好きだし、けっこう得意なので母や祖母の手伝いを進んでやっている。 だからぼくは、家事が女の仕事だとは思わないし、男も家事を手伝ったらいいと思う。今は﹁主 夫﹂と言って家事を全てやる男の人もけっこういるようだ。 これからは、男だから、女だからという性別で役割りを決めるのではなく、それぞれが自分に合
男女平等についてぼくが思ったこと
中学校一年松
川
隼
瑛
まつ かわ しゅん えいった役目をみつけて生きる時代だと思う。性別や家柄や人種や障害があるなしにかかわらず、自由
僕がまだ小さかったとき、僕の身近には介護を必要とする人が二人いました。一人は九十歳まで 現役で働いて数えの百歳まで生きた曾祖母。もう一人は脳梗塞で何度か倒れ、いろいろな後遺症が 出てしまった祖父です。 曾祖母は高齢のため仕事を引退してから認知症が出ましたが、もともととてもしっかりした人だ ったので自分のことは自分でできるほどでした。ある夏、体調をくずして入院することになってか らは少しずつ体力が低下して車イスに乗るようになってしまいました。僕は時々、父や母に連れら れて曾祖母のお見舞いに行き曾祖母が大好きな草花を見せたくて車イスを押して病室から病院の庭 をめざしました。けれども何度も増改築を繰りかえした病院は、庭に出るまでスロープのある通路 を通ってとても遠回りをする必要がありました。小さい僕にはとてつもなく遠く感じました。段々 と体力の落ちていく曾祖母にとっても、次第にこの小さな楽しみへのお出掛けさえ大変になってい きました。もしエレベーターに乗ってすぐ出ることができるバリアフリーだったら、もっと曾祖母 に小さな楽しみをプレゼントできたのにと今も残念に思います。 祖父は、僕が生まれた年に初めて脳梗塞で倒れたそうですが、最初の頃は後遺症も無く、仕事も
お互いに尊重し合う社会
中学校二年小
畑
匠
お ばた たくみ続け、僕と遊ぶこともできました。公務員の仕事をしながら地域のための活動もたくさんしていて、 小さい僕にも世の中のことをいつもいろいろ教えてくれる立派な優しい祖父でした。何度目かに倒 れたときに後遺症で右半身が不自由になりましたが杖をついて遊んでくれ相変わらずいろいろなこ とを僕に教えてくれました。何度目かの後遺症で言語障害が出てしゃべりづらそうになりましたが、 いつもニコニコと僕の将棋の相手をしてくれ、新しい手も教えてくれました。体が不自由になって も祖父の中身はずっと立派な人のままだと僕は知っていました。けれども病院などに行くと、施設 の人は祖父のことをまるで小学生の僕に話すようにタメ口を使って話したり、ぞんざいに扱ったり するのです。体が不自由になっていても頭はかしこいままの、祖父はきっと辛かったと思います。 年を取ったからといって、人間はぞんざいに扱われてよいとは思いません。 僕の母はいつも僕にこう言います。あなたには柔軟な頭と健康な体がある。お年寄りには経験に 裏打ちされた知識と身を持ってさまざまなことを乗り越えてきた力強く寛容な心がある。どちらも 大切な存在なのだと。 僕は曾祖母も祖父も大好きでした。そして今でも二人は僕の尊敬する存在です。若い僕たちとお 年寄り、そして全ての年代の人が互いを尊重し、互いを活かし合う社会は誰にとっても暮らしやす いはずです。そんな社会をつくる一役を担えるように成長したいです。
僕の毎日の生活は、好きなクラブをし、好きなときに遊び、食べ、何不自由なく暮らせていると 思います。こんな僕にでも日常できる公共のマナーは、守らなくてはいけません。 先日、祖母といとこたちと映画に行きました。帰りの電車の中で僕はイスに座っていました。 年配の方が来たので僕は席をかわろうと思い、声をかけるときには、直ぐ近くのお兄さんが、立ち 上がって席をかわりました。僕の中で、もう少し早く声をかけたらよかったと反省しました。帰っ て来てモヤモヤが残ってたのでお母さんに話したら、 ﹁席をかわろうとしたんやからいいやんか。そ のことを気にしてるなら、更にいい人間やんか。 ﹂と言ってくれたので僕はホッとしました。お年寄 りの人にだけではなく、妊婦の方、ケガをしている人、赤ちゃんを連れている人、席をかわるだけ でなく、ベビーカーを持ってあげるなど、手を差しのべることができる人になりたいと思います。 優先座席は座らない、携帯はマナーモードにする、こんなことは絶対に守らないといけないと思い ます。 僕自身も日常とくに気を付けないといけないことがあります。それは、団地での駐輪のことです。 早く家に入りたいから、駐輪場に半分だけ自転車を入れることです。これでお母さんに何度も怒ら
公共のマナーと障害者の快適な生活
中学校二年阪
本
諒
芽
さか もと りょう がれました。あるとき、僕の自転車を誰かが、直してくれていました。そのとき、とても恥ずかしく 申し訳ないと思いました。それからは、当たり前ですが、自転車も一番奥のとめにくい場所に、と めています。それが僕の反省と他の方に対する気持ちです。そういう思いになると、買い物へ行っ ても、点字ブロックの上へとめている自転車。車イスの方や、杖をついている方にどれだけ障害に なるんだろうと、気付きました。一人一人が気を付けることで障害のある方も快適に暮らせ、道を 歩けるんです。優しい人になりたいだけでなくて、気を付けることは、人として当たり前のことな のです。僕に足りないことは、直ぐに行動すること、声をかける勇気、人としてのマナーを守るこ とです。僕は、クラブで骨折したことがあり、ケガも何度もしています。その度に、友達に助けら れます。心配してくれたり、荷物を持つのを手伝ってくれたり、その時はすごく嬉しくて、足の痛 みも忘れます。僕のケガは一か月ガマンすれば治りますが、障害のある方は、そういう訳にいきま せん。皆が最低限のマナーを守ることができれば、障害者の方も暮らしやすい毎日になるのではな いかと思います。 この人権作文に書いた思いを忘れることなく日常生活をしていくことを約束します。
僕は、障害がある人でも気持ちよく、楽しい気分で外出できる社会であるべきだと考えます。 障害がある人には、いろいろな人の目や、周りの人に心配や迷惑をかけるかもしれないという気 持ちがあって、気楽に外出できないことがあるかもしれない。 それでも、やっぱり、外で思いっきり遊びたい、いろいろな所に行ってみたい、たくさんの人に 出逢いたいという気持ちがあるので周りの人が障害をもつ人のことを少しでも理解して普段通りに 接してもらうことや、施設の整備がすすんでいくことが大切だと思います。 今年の夏、僕は人工肛門を造る手術を受けました。生まれつき、大腸の動きが悪く、ずっと便を 出すことにたくさんの薬を飲んで、たくさん痛い思いをしてきました。中学生になって行動範囲を 広げるため、いつまでも父母に処置や薬のことで頼ることを減らすため、半年以上家族で考えて僕 が手術を受けると決めました。 手術をして、今の体調はとてもよく、毎日が楽になっています。手術をして一か月半、その間 に僕はいろいろな所に出掛けました。出掛けた先で僕がおどろいたことは、県営の公園︵ドーム 形の野球場があるような場所︶に、オストメイト用のトイレがなかったことです。身障者用の広
今年の夏に気付いたこと
中学校二年いトイレはあったけれど、不便だと思いました。高速道路のサービスエリアでは、男女別のトイ レの中にそれぞれオストメイト用の便器がありました。大型スーパーや総合病院の中にも、もち ろんありました。 僕は、一応普通のトイレを使うこともできるけれど、オストメイト用のトイレがある方が使いや すいです。また、オストメイト用のトイレがあると、その施設の人は考えてくれているなあと思い ます。そして、こうやってオストメイト用のトイレが何か所も見つけられるということは、人工肛 門を造る人が世の中にたくさんいるということだと思いました。だからもっと今以上にいろいろな 所に設置していってほしいと思います。もちろん、オストメイト用のトイレだけでなく、車いすの 人とか、目の不自由な人とかも、気持ちよく利用できる折りたたみベッドや着替え用ボードとか、 点字とか、音がなるとか、もっとみんなに優しいトイレが増えてくれるのが、理想です。 僕は、キャンプをしたり、公園で遊んだりプールに行くことが大好きなので、みんなが使いやす いトイレになってほしいです。 今日、僕が感じたトイレのことばかりを書いたけれど、他の障害がある人が困らずに、気楽に外 出できる社会になっていってほしいです。
﹁戦争を取材する﹂この作品は、シリアでの取材中、政府軍のじゅう撃によって殺害される前に、 山本美香さんが書かれた本です。山本美香さんは戦争や紛争がある場所に実際訪れられているので、 残こくな世界の現状をはっきりと知ることができます。けれど、それが本当に起こっていること なので目をそらさずに考えたいです。同じ地球という場所に住んでいながらも知らないことが山 ほどあったので、とてもびっくりしたのと同時に、自分がすごくちっぽけな存在のように思えて きました。 まず、私がこの本を読もうと思ったのは、ニュースで山本さんのことについて報道している時に ﹁ジャーナリスト﹂という言葉を聞いて、もっと﹁ジャーナリスト﹂というのを詳しく知りたい、 どんな仕事をしているのかきちんと分かりたいと思ったからです。 突然ですが、みなさんは﹁地雷を探す犬﹂ ﹁脚を失くした少年﹂ ﹁ゲリラ﹂とは何だか分かります か?これらはすべて世界で起こっている戦争に関係がある言葉なんです。 ﹁地雷を探す犬﹂というの は地雷探知犬。 ﹁脚を失くした少年﹂というのは、地雷によって体の一部を失った少年のこと。 ﹁ゲリ ラ﹂というのは、政府に反抗する武装集団のことで村をおそっては子どもたちを誘拐し、子どもた
世界の現状
中学校二年ちは兵士にならされて戦わされます。ゲリラから受けた暴力などにより戦争のトラウマになる人も 大勢います。人間が作った悪魔の兵器を犬が掘り起こしていること、十五才の男の子が﹁銃でバン バン敵を撃った。 ﹂と話していたことについてみなさんだったらどう思いますか?そう考えると、私 たちは何も不安なく毎日を過ごし、食べ物も水も安全な物ばかり。とても、めぐまれているという ことがすごく分かります。 千五百二十万人。この数字、何の数字だか分かりますか?千五百二十万人、この数字は戦争で家 を失い、故郷を追われた人たち﹁難民﹂と呼ばれる人たちの数なんです。このことは私もこの本を 読んで初めて知ったことです。他にも私が初めて知りおどろいたことがあります。それは、八才∼ 十八才くらいの少年兵が銃を持ち、戦っていることです。戦争を見る・知るっていうのもつらい年 頃なのにそれを自分で体験するっていうのは、どういうことだろう … 。考えるだけで恐ろしくて私 は考えられません。けれど、実際に起こっていること。だから私はしっかりと受け止めたいです。 もし、私が戦争の兵士になるとなったらどうなるだろう?私は考えてみました。きっと私は、実 際に少年兵をやっている方たちと違い、すぐ逃げ出してしまうと思います。まして、一年や二年、 三年とずっとやっていたら … 。 私は、この本を読んで初めは ﹁人ごとだし、自分はいい場所に住んでいるんだからいいや。 ﹂ って思っていました。でも一人一人が世界の戦争の現状に気づいて変えていかなければいけないと
思います。読み終わった後の私は、 ﹁ひどい﹂という気持ちを持ったのと同時に自分が嫌だなって思 っていたことが何だか小さく思えてきました。私は、命の尊さ・あたり前に過ごせる大切さ・それ が、どんなに大切なことかみんなに気づいてほしいです。 最後に、私は戦争を完全に終わらすことは無理でも、みんな一人一人が協力して世界を良い方向 に変えることはできるということをみんなに伝えたいです。あと、もう一つ、自分たちの生活がど んなにめぐまれていてしあわせなことかということを改めて考え、家族の方たちと話し合って下さ い。私もこの話、家族にしました。すると、 ﹁ どんなにめぐまれているかっていうことがすごく分かるね。簡単に死ぬだなんて言っちゃだめ だよ。 ﹂ と母に言われました。ぜひみなさんも、もう一度話してください。世界にはまだ戦争が続いている こと。世界の現状はこうなんだということ。一人一人が意識することできっと良い方向へ向かうと 私は思います。
私は今、中学三年生です。見た目は普通の中学生ですが、本当はそうではありません。なぜなら、 私は障害があるからです。 私の障害は、自閉症という障害です。自閉症というのは、発達障害の一つで、言葉の発達の遅れ、 人とうまく関わるのが苦手、特定のものにこだわりが強いの三つが大きな特徴とされています。症 状によって個人差が大きいため、例えば、言葉の遅れがない人もいます。つまり、人によって特性 が違うのです。 私の場合、言葉の遅れがありません。学習障害がなく、普通に勉強することができるため、学校 ではみんなと同じ教室にいます。しかし、人とうまく関わるのが苦手です。 私はこれまで、自分の障害に苦しみながら生きてきました。自閉症は私たちの目に見えない障害 です。そんなへんてこな障害に私はこれまで苦しんできたことを思うと、胸が痛くなります。 私は人とうまく関わるのが苦手です。だから、学校ではよくクラスメートとトラブルになりまし た。相手が自分に冗談を言っているのに、私が悪口だと思いこんで、すぐにキレてしまったからで す。今では少しずつ人とうまく関わることができるようになった私ですが、今までの自分のことを
障害者からのメッセージ
中学校三年馬
屋
原
悠
平
うま や はら ゆう へい思い出すと、人とうまく関わることができなくて本当に辛かったです。 周りの人と違うことが原因で、いじめられたこともありました。ひどいときには、何人かのいじ めっ子たちに囲まれ、ズボンを脱がされたほどです。いじめは少しずつエスカレートしていき、時 には中学生からいじめを受けました。 差別に苦しんだこともありました。私はある日、外を歩いていたとき、 ﹁おい、障害者。﹂ と言われました。あの日、私は障害者として生きてきた苦しみを味わいました。そして今も、あの 日味わった苦しみを私は忘れていません。 私は今、伝えたいことが三つあります。変なことかもしれませんが、私はこの文章を通じて、ど うしても伝えたいのです。 一つ目は、たとえ障害があっても、障害者も同じ人間だということです。障害者は誰もが生きづ らさを抱えながら生きています。しかし、ただ生きづらさを抱えながら生きているわけではありま せん。同じ人間として、誰もが自分らしく、一生懸命に生きているのです。 二つ目は、障害は個性だということです。障害者は、一人一人が違った生きづらさを抱えていま す。目が見えない人、耳が聞こえない人、足が悪く、車いすに乗っている人もいれば、人とうまく 関わるのが苦手な人、読み書きが苦手な人もいます。生きづらさは人によって違いますが、それは 障害者一人一人の個性だと私は思います。
最後に私が伝えたいのは、差別をしないでほしいということです。障害者は、たとえ障害があっ ても、同じ人間として生きています。それにもかかわらず、差別され、苦しい思いをしています。 私も差別を受けたとき、そんな思いをしました。 では、どうすれば差別をなくすことができるのでしょうか。そのためには、普段から障害につい て理解することだと私は思います。普段から障害について一人一人が理解していれば、差別は少し ずつなくなります。そして、障害のある人もない人も、同じ人間として生きる環境が少しずつ良く なっていきます。そう私は思います。 今、日本には障害者への差別を禁止する法律はありません。しかし、たとえ法律がなくても、差 別をしてはいけないのです。 私はこの文章を通して、三つのメッセージを伝えました。私が伝えたこれらのメッセージを絶対 に忘れないでください。 私は今まで、苦しい思いをしながら生きてきました。しかし、ただ苦しい思いをしながら生きて きたわけではありません。私の障害を、家族や友達、学校の先生は理解し、私を支えてくれました。 私を同じ人間として認めてくれました。私はこうして、いろんな人に支えられながら、しあわせな 気もちで生きてきました。 私はたとえ障害があっても、今まで生きてきて本当に良かったと思います。今まで私のことを支 えてくれた人たちに感謝し、 未来を信じ、 どんな時でも前を向いて、 これからも生きていきたいです。
いじめとは人を傷つけ、楽しむ行為だと思います。私は実際に、何の理由もなく小学三年生から 五年生にわたりいじめを受けました。友達だ、守ってくれると信じていた人にもいじめられ、毎日 が早く終わればいいのにと思いました。学校やいろんな所に﹁イジメをなくそう﹂などのポスター がはってありますが、はっきり言ってムダです。人に相談することができれば、まずいじめなんて 起きません。自分を自分で守るとは、具体的に何でしょうか?私はただ、たえろという風にしか受 けとれません。人は、一人一人、人間らしく生きることができる権利を持っています。弱いからい じめにあうのではなく、強いからあうのだと私は思います。もし、この作文を読んでくれているあ なたの身の回りでいじめが起こっていたら、ただ、声をかけるだけでもいいです。誰もいない所で ﹁おはよう﹂と一言だけでも伝えてあげてください。そうしたら、あなたは少しでも、イジメにあ っている子を助けています。いじめを見て見ぬふりをして自分を守っていると思っていますか?誰 かが犠牲にならなければいけないと思っていますか?そんなことは一つもありません。人に犠牲な どないです。そして、いじめられているあなた。私は一つだけ伝えたいです。あなたは強い人間だ ということを。人に相談せず、自分一人で戦っていることを。でも、たえないでください。止まる
今、私たちが願い届けること
のを待たないでください。負けないでください。私はたえて、待って、負けました。だからこそ言 えます。もう、頑張らなくていいと言えます。泣いていいんです。もう、強くならなくていいんで す。だから、絶対に自殺しようと思わないでください。あなたの命は、本当に大切だからです。ま だまだ、これからの人生を歩んでいく権利があるからです。 そして、いじめているあなた。あなたは負け人間です。自分の感情をうまくコントロールできな いからです。でも、今からでも遅くないです。いじめを止めてください。あなたからの一歩で、い じめられている子はどれだけ救われるでしょうか?﹁ごめん。 ﹂その一言で全てではないけれど、ど れだけ許せるでしょうか?もしも、楽しいなどと思っているのなら、あなたは心の病気です。人を 傷つけて楽しいなどと思える人はいません。気付いてください。いじめだと思っていなくても、嫌 がっているのなら止めてください。あなたの勇気がいじめられている子の命を救うからです。 私たちには、生きるという権利があります。でも、今はその権利を簡単にうばわれてしまいます。 見えないのがイジメです。イジメられている子に耳をかたむけてください。そっと心の声を聞いて ください。そして、いつの日か、生きる権利、基本的人権を尊重した、明るい社会がくることを私 たち、子どもが願っています。
﹁同和問題。 ﹂私がこの問題を考えるきっかけとなったのは、今年の七月、人権に関する研修会で、 同和地区で生まれ育った方からお話を聞いたことでした。 その方は私より年下の女性でした。その方は自分が差別されるという経験を中学生まではしたこ とがなく、進学した高等学校で、自分が住んでいる地区を友だちに言ったとたん、がらの悪い地区 出身だと言われ避けられるようになって、学校に行きたくなくなってしまったという経験を話して くださいました。行きたくない、行きたくないと思いながらもそんな理不尽なことに負けたくない と思って、学校を休まずに行っていたけれど、学校の中ではいつも一人だったそうです。 そんな中で、好きになり、お付き合いするようになった人ができたそうですが、あるとき彼の母 親から突然呼び出されたということでした。そのお母さんは彼女が同和地区に住んでいることを彼 から聞き、うちの息子と付き合わないでほしいと言ったのだそうです。彼女は、お母さんはそのよ うに言ったけれども、彼は違うだろう、彼は分かってくれているだろうと思って、﹁どう思ってい るん?﹂と尋ねたそうです。もちろん、﹁そんなこと関係ない﹂と言ってくれることを信じていた はずです。でも、彼の言ったことは違っていました。﹁お母さんが言ってるんだから、そうなんだ
まずは私から
成 人荒
木
千
香
あら き ち かろう﹂と、彼女の信じていたこととは全く違うセリフでした。お母さんの言葉通りに、彼も彼女の ことを嫌がったなど、私には思いもよらないことでした。 その後、彼とは別れたそうですが、この話をしてくれたその日にも、何年たっても、この出来事 は彼女の心に深く刺さっていて、どんな人と出会ってもまた同じことが起こるのではないかと思っ てしまうのだとおっしゃっていました。私は今も根強く残っている問題をこのように実際に聞いた ことがなかったので、ただただショックでなりませんでした。 話を聞いた中で、一番印象に残った言葉は、このような差別をする意識が伝染するということで す。親や先生など周りの大人が住んでいる地区や、その地区の学校を否定し、良くないと教えると 子どもはそれを理由もわからずただ鵜呑みにします。彼女の経験したことでは、息子は母親の根拠 のない差別意識をそのまま受け取って彼女との距離をとってしまいました。理由など何もなく、た だ﹁母親が言ってるからそうなのだ﹂と考えてしまったのです。そこには、自分がどう考えどうす るかは全くなかったのだと思います。学校の授業でも家庭の中でも﹁同和問題﹂について正しく学 ぶことなく、偏見を受け継ぎ、放っておけば、彼はまたそのことを次の世代へと伝えるでしょう。 そんなことを繰り返せば、差別はなくならず、彼女のように傷つき苦しむ人たちはいつまでもなく ならないと思います。この問題が無くならない理由は他にもあるとは思いますが、一人ひとりがも っと正しく学び理解し問題を解決しようと思わなければならないと思います。そう思うきっかけを くれた彼女に出会えたことを私は本当に感謝しています。
﹁同和問題をよく知らない﹂といった人や﹁ただ何となく悪いイメージがある﹂という人が正し い知識を身に付け、その知識を周りの人や次の世代に伝える、そのことが本当に必要だと思います。 今の人たち、そして次の世代の子どもたちが、すべての人の人権を大切にして人と人として向き合 えるようにしていかなければならないと思います。 すぐに変えることは難しいですが、まずは私から。次は私の身近な人へ伝え、人と人とが向き合 える社会になることをめざして努力していきたいと思います。
先日、自分の知らないところで自分が写った写真がインターネット上にアップロードされている ことを知った。アップロードしたのは友人である。アップロードされていることを知って特に不快 に感じたという訳ではない。しかし、不快に感じなかったのは、おそらく仲のよい友人であったた めだろう。インターネットを活用することが身近になった現代において、使い方を誤れば他人を不 快にさせる大きな問題に繋がると感じたため、改めて考えてみることにした。 最近、TwitterやFacebookといったSNS︵ソーシャル・ネットワーキング・サ ービス︶の急速な普及により、誰でも簡単にインターネット上に情報を発信することができるよう になった。友人とのコミュニケーションツールとしてSNSを活用している人も少なくない。私自 身もその中のひとりである。どこかに出かけたときや何かイベントがあったときなど、写真を添付 し日記感覚で情報を発信している。その作業があまりに簡単であるために忘れがちになっているの が、インターネットは一度発信してしまえば不特定多数の人が見るということである。自分のこと は自分自身が発信しているため自己責任と言えよう。しかしそこに自分以外の人が写っていた場合、 自己責任で済まないこともあるのではないか。本人に了解を得ているわけではないため、その人が
便利なSNSの忘れがちな落とし穴
成 人一
原
彰
宏
いち はら あき ひろ不快と感じたならば問題となり得る。例えば、旅行での写真をアップしたとする。アップする側は 写真を選べるが、される側は選ぶことができない。そのアップされた写真の写りが悪かった場合、 その写真を多くの人が見るということを考えれば、アップされた側は不快に感じるだろう。それだ けでもその人の人権を侵害していることになるのではないか。 発言についても同様のことが言える。たまに他人の悪口と言えるような文章を見ることがある。 本人は愚痴のつもりで書いているのかもしれないが、書く側と見る側では捉え方は異なる場合があ ると思う。また、意図的に悪口を書くことも簡単だろう。今や携帯を使いメール感覚で発言できる ようになっている。手軽さで忘れがちになっているが、一度情報を発信してしまえば瞬時に情報が 広まり、いくら後から削除したとしても完全に消すことは難しいということである。 SNSは、昔の友人と交流できたり、共通の趣味を持った人と知り合えたりと、使い方によって はとても有効なツールである。しかし使い方を間違えれば、個人情報を漏らしてしまったり、気づ かぬうちに他人を傷つけてしまったりしてしまう危険性も持っている。結局は、使い手のモラルの 問題と言えよう。使うからには楽しく使えるよう、発言や書き込みには十分な配慮をして活用して いきたいと思う。
二〇一二年八月、女性ジャーナリスト・山本美香さんが、取材中に銃撃戦に巻き込まれ命を落と すという悲惨な出来事があった。当時の新聞やニュースでも毎日のように大きく取り上げられてい たが、私は命の危険を冒してまで行く必要はないのではという風に感じていた。しかし、命を賭け てまで、彼女が伝えたかったことを知り、衝撃を受けた。 イスラム教を独自解釈したタリバンの支配下では特に女性に対して厳しく、その内容も女性一人 で外出してはならない、親族以外の男性と会話してはならない、働いてはならない、教育を受けて はならず女性が通う学校も閉鎖というように本当に自由のない生活を強いられていた。特に衝撃を 受けたのは、病院に行っても、男性の医師には診てもらえず、多くの女性が命を奪われたというこ とだ。しかし、そのような中でも、女性たちは密かに集まり、命がけで勉強をしていた。山本さん は、その密かな集まりをどうしても撮影したかったという。そして、山本さんがインタビューした 女性たちは﹁私たちのことを世界に伝えてください﹂と訴えていた。それが見つかれば、刑に処さ れるにも関わらず、死の覚悟をしてまで伝えて欲しいという彼女たちの言葉に私は胸が締め付けら れる思いになった。
山本美香さんの死から考えること
成 人小
倉
圭
二
お ぐら けい じまた、山本さんがパキスタンでインタビューした女性は全身に大火傷を負っていた。その大火傷 を負わせたのは、彼女の夫であり、日常的に夫の暴力が繰り返された挙げ句、彼女に灯油をかけて 火をつけたという。この地方では、女は男の所有物というような考えであり、家の決めた結婚を拒 んだ女性が、家の名誉を傷つけたとして、父親によって殺害されるというようなこともあるほど信 じがたい現実があった。戦争や差別の中では常に弱い立場の命が無視されているという事実があり、 山本さんはそこから目を背けることができなかったのだろう。同時に、このような問題を投げかけ ていかなければ、彼女たちを取り巻く世界を変えられない、そして、それを伝えることが自分の役 目だと感じたからこそ、危険を冒して戦地での取材を続けたのだと思う。 それまでの私には想像もつかなかったような差別が世界中にあるということを山本さんの事件を 通じて知ることができたが、彼女が命を落とすようなことにならなければ、このように大々的に報 道されることもなく、私が知ることもなかったということを考えると複雑な気持ちになる。しかし、 だからこそ彼女が伝えようとしたことを風化させないということが、大事なのではないか。山本さ んの事件から一年が経ち、最近でもメディアで取り上げられているのを目にしたが、そのような形 でも未だ世界には悲惨な現実があることを我々が忘れないことが、彼女が救おうとした、迫害を受 ける人々が一日でも早く解放されることに繋がるのではないか。
昭和十九年、私の居た和歌山赤十字病院は陸軍病院となり、入院は皆陸軍の兵士で、院内はすべ て軍隊式に統率され上下関係は厳しく絶対服従の生活であった。次第に空襲も激しくなり﹁空襲警 報﹂が出ると天皇の写真を私一人で運び出す役目を命ぜられ、生涯忘れえぬ思い出となった。それ は一本の長い廊下を雪崩のように駆けてくる職員の群に逆行して私は壁づたいに漸く通り抜け、別 館の三階まで駆け上がり鍵二つ使って写真を取り出し今来た道を戻って壕にたどりつく。そして奥 の備えつけの場所に置く。こんなことをして私が命を失っても何の補償もない。写真はどこの学校 にでもあるものだと言って反論はできない。これが命令だ。 昭和二十年四月、食糧難等のため日赤を退職し個人病院に勤める。院長のはからいで夜は山の観 音寺に避難する。阪和線の鉄橋の枕木を一足一足伝って行く。そして三日目の七月九日和歌山市は 空襲された。一面真っ赤に燃えている下に家々の黒い屋根がくっきり見え、その上を三機のB29 がこれでもかこれでもかとばかりに旋回しながら焼夷弾を次々落としていく。まるで映画を見てい るようであった。そして翌日も翌々日も、市内は灼熱の町と化した。 結局病院は一時解散となり私も疎開先へ向かう。そこで自分に﹁非常召集令状﹂が来ていたこと
戦火の果てに
成 人杉
山
光
子
すぎ やま みつ こを知り、慌てて汽車の切符を交渉、夜中の貨車で日赤支部に向かう。 救護の目的地は新和歌浦の旅館で六館ある。私は一番近い館を選んだ。一階の大広間に布団を敷 きつめて四十名、私の姿を見るや口々に排便排尿を訴える。まず困ったのは水がないこと。衛生上 一番の欠点だ。便器も一つでたらい回し、時間の節約で一ぱいになったら捨てにいく。水がないか ら上手く使わねばならぬ。翌日看護師が一人来たので八時間交替にする。これでやっと休憩もとれ る。三日目に医者らしい人が繃帯ガーゼ薬少々持参して二、三人に当たったが材料がなく帰ってい く。その中、破傷風があちこちで発症し、患者は苦しむが薬もなく医者も一見して帰っていく。蠅 が傷口に卵を産み、うじが傷口一ぱいに広がりやがて蠅になって飛び廻る。何の薬も道具もなく看 護師として成す術もなく見て見ぬ振りするしかない。 亡くなった患者は夜中にトラックが集めに来て新しい患者を置いていく。全く品物と同じだ。そ うした日々を過ごした揚げ句、何の前ぶれもなく﹁召集解除だから﹂と私たちはトラックに載せら れて支部に着く。 ﹁あの患者どうするつもり?﹂と聞いたら﹁心配しなくていい早く帰って下さい﹂と急かす。 戦後六十八年、時は流れたがそのときの光景は今も鮮明に頭の中に残っている。私のめざしてい た﹁救護﹂とは何だったのか。一体何の為に勉強してきたのか。 戦争は物のすべてを無くし、人の命も物となる。そして役に立たねば惜しげもなく捨てられる。 このことを命ある限り語り継いでいかねばと夏が来る度思いを新たにする。
人権について改めて考えてみたときに、いじめや障害者、外国人の問題など漠然と浮かんでくる ものの、 ﹁だから?どうすれば良いのか?﹂といった部分が抜け落ちていることに気づいた。それは 人権をおびやかす戦争や紛争、貧困、差別や偏見などに対して関わり合いが少なく関心が低かった からである。もちろん身近に全くなかったわけではない。 私が小学生の頃、一人のブラジル人の男子が転入してきた。地域柄もあってか外国人はよく見か けたが、小学校では初めてだったため物珍しさからか当初は話題にもなった。しかし彼は日本語が 全くできなかったためコミュニケーションが取りづらく段々と浮いた存在になっていった。私はク ラスが一緒で家が近かったこともあり時々遊んでいたが、細々としたことを伝える困難さに苛立ち 嫌気がさしてしまうこともあった。彼も言葉が伝わらないため、何が駄目なのかが分からないまま 怒られることを繰り返し、物に当たるようになってしまい、次第に不登校気味になってしまった。 私は楽しくなさそうな本人を前に﹁学校に行こう﹂とも言えず、その後別のクラスになったことも 重なって疎遠になっていった。結局彼は不登校になり卒業を迎えてしまった。その後まもなく彼は 引っ越すことになり、家族と共に家に挨拶に来て仲良くしてくれたお礼にとプレゼントをくれた。
支え合う
成 人彼が帰った後で開けてみると、それは﹁和ポ辞典﹂だった。その後連絡が取れなかったため、彼が どういったメッセージで辞典をくれたのかは分からないが、きっともっとコミュニケーションをと り遊びたかったのだろう。彼が周囲からどんなことを言われ何を想ったかは分からないが、見ず知 らずの土地で友人として彼に一番近かったのは私だったのだろう。私は暫くやるせない無力感に苛 まされたが、どうすれば良かったのかを深く考えることをしなかった。 人権を守るというのは自分の力だけでは中々できないと思う。自分の人権は誰かに守ってもらっ ているものでもある。それは家族や友人、周囲の人たちだったりする。また、見ず知らずの人であ っても異端視したり差別したりせず互いの人権を守り合うことが大切なのだと思う。それが人権を 尊重するということではないだろうか。大事なのは一人ひとりが何が差別で何が人権侵害なのかを しっかり考えること、そして相手が何を望み、どう接して欲しいかを相手の立場になって考えるこ とだと思う。 世界のどこにいても、それぞれの人権や自由を守ることのできる社会であれば、人は幸せに生き ていくことができると思う。その社会の実現のために一人ひとりのできることはちっぽけなことか もしれないが、まずは自分の周囲の人たちの人権について考え、それを周りに広げていくことでお 互いを﹁支え合う﹂社会にしていきたいと思う。
私は生まれながら病気があり、そのため身長が病的に低く、非常に目立っていました。そのため、 小学生の頃は特に周囲からもの珍しそうに見る偏見の眼差しを感じたり、言葉で﹁チビ﹂と笑われ るのは日課でした。始業式最中には﹁夏休みが明けたのにみてよ、全然身長伸びてないよね、整列 するときは身長順だし、休めのポーズしかしたことないんじゃない﹂とクスクス笑われました。そ の中で出てきたことは、見下されている感覚と自信の喪失でした。そして周りの身長が目立たず普 通に溶け込む皆が羨ましく、自分は周りとは違うという区別の感覚でした。そんななさけない自分 を認めたくない、逃げたい、家族にみせるまいと笑ってみるも、心の奥で耐え続ける日々でした。 身長一三五でこのままだと止まりますと医師にも言われました。こんな状態で雇ってくれる所は将 来あるのだろうか、生きていけるのかと不安が襲ってきました。自分がなぜこんな目にあうのかと 悔やんで病気を恨んだりしました。家族の支えが不可欠でした。 しかし中学・高校と成長するにつれ、出会う人も増えていき、こんな私を仲間として受け入れて くれる人にも幸い出会えました。そのお陰で治療にも耐えることができました。今ではお陰様で元 気で過ごしています。そして当時そんな中ただふっと行った三国ヶ丘にある美容室の美容師さんに