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佐藤岳詩(専修大学文学部)

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(1)

高橋隆雄の倫理思想とその展開について一一自由からケア、そして恩の倫

理へ

佐藤岳詩(専修大学文学部)

はじめに

本稿の目的は商橘隆雄の倫理思想をその著作から諒み解こうとするものである。高橋は 倫理学について非燃に数多くの論文を発表しており、編集した書籍も多岐にわたる、論じ たテーマは環境倫理、生命倫理を中心としながらも、その枠は従来の応用倫理学に留まる ことなく、エンハンスメン卜や人工知能などの科学技術にかかわる倫理や、社会調査を用 いた倫理学、実際の被災体験も踏まえた防災の倫理学、道元らによる日本思想など、極め て多彩である。こうした様々な鍍論に通底する一貫した倫理理論は存在するのか、存在す るとすればそれはどのようなものなのか。これは言うならば、高橋の実践倫理学における メタ倫理学、規範倫理学的前提を取り出そうとする試みである。

本稿は彼が遺した三冊の単著『自己決定の時代の倫理学一意識調査に基づく倫理的 思考』『生命・環境・ケアー日本的生命倫理の可能性一』『共災の鯰理』を取り上げ、

そこから彼の倫理理解を抽出し、その思想的展開を追っていく。結論から言えば、彼の倫 理学はそれら三冊の単著を通じて、 自由の倫理、ケアの倫理、恩の倫理という仕方で発展 していく。しかし、同時にその根底には、術に人間とは何かということを知りたいという 強いIW熱があり、またそれゆえに『私たちは何をしているのか」という実践の中から、倫

理理瞼を組み立てようという一貫した姿勢がある。

1. 自由の倫理〜 『自己決定の時代の倫理学一意寵調査にもとづく倫理的思考一

‑j (2001)

商楴の品初の単著である『自己決定の時代の倫理学一一意識調盃にもとづく倫理的思 考‑‑』(以下、『自己決定』)は、 2001年に出版された。同書で用いられたデータは、 1996 年から1999までの科学研究費補助金に基づいて、 1997年から1999年にかけて収集された ものである(高陥[20011ppi・ii).商橘は93年から95年にかけて英国オックスフォード 大学、ジエームズ・グリフィンの元で客員研究員として過ごしているが、後にちょうど渡 英帥くらいから倫理学を研究の中心にしたと回想しており【、実質的に、 90年代にかけて 練り上げられた彼の最初期の倫理学的立場を示すものとして、本番は理解することができ

るだろう。

1.1意職澗交という手法と反省的均衡

『自己決定』の最大の特徴は、高陥が実際に自ら行った大規模な意識調査に基づいてい

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先端倫理研究第15号(2021)

るということにある。これは、彼が中学生、商校生、大学生を相手に行ったアンケートで、

対象となった人はのべ6000人にも及ぶ。とはいえ、本稿の目的は商柵の倫理学上の思想の 展開を追うことであるため、アンケー1,の結果そのものについては、ここでは立ち入らな

い。

しかし、そもそもなぜ意繊訓在なのか。ここでは、反省的均衡という手法が挙げられる。

同手法はJ.ロールズによって有名となったが、発想自体はⅡ、シジウィックなどにも見ら

れるものであり、理論と現実の人々の直観は往復的に捉えられることで、より糖敏なもの へと高められねばならないという考え方である。商柵は、倫理学が‑1‑分な倫理的思考に基 づいて、実行可能な定言を行うためには以下の三つのことが必要であると述べる。

(A) まず、考察すべき問題に側する科学的亦爽や法的問題点、各国の対応等をで きるだけ知ること。

(B) 倫理学や哲学で論じられてきたことの知蹴。ここには思想史の知識も含まれ

る。

(C) それと同時に、その問題に対してわれわれがどのような意見や考えを持って いるか知ること。このためには、当の分野に限定されず、しかも意職という領域に 限定もされないなるべく広い領域を背策として、人為の価値観や道徳意識を把握す

ること。

(ibid. p. 15)。

要するに、現状をしっかり把握した上で、倫理学の知繊を利用し、かつ、それらと相互 規定の関係にある、現実の人々の考え方を考慮に入れて、思考せよということである。従 来の倫理学は反省的均衡を重視しながらも、実際には般初の二つの探究にぱかり注力し、

三つ目の実際の人々の意見について、十分な関心を払ってこなかった.それに対し、人有 の意見を軽視することは、理誌が現実離れするということ以上の否定的な意味をもつと、

高橋は主張する。

彼に言わせれば、人々の欲求や行勅、思考は単に遊徳的規範や規則によって規制される

ものではなく、実際に規範を支えるものでもある。というのも、人.々の欲求や言動が変わ

れば、規範や規則もまた変化するからである。たとえば、染髪についての人 々の意識の変

化は、実際に髪を染めることにかんする暗黙の規則を変えたり修正したりすることがある

(ibid. pp. 18‑19)。つまり、 (B)に含まれる倫理学や哲学の原理は、それ自体が(C)の

影響のもとに構築されているのであり、またその適切な適用の仕方も、 (C)によって規定

されるのである。それゆえ、 (C)を無視して、 (A) と(B)のみで、十全な倫理的思考はで

きない、と高橋は主張する。結局の所、 「理論を背衆に持つ規則・原理が実践に形を与えつ

つも、規則・原理、そして理瞼さえも広汎な実践のネットワークによって根拠づけられる」

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(ibid. pp、 30‑31)。

さて、こうした考え方の背後には、自分の日本的な考え方があると高橘は述べる(ibid.

41)。ここで言う日本的な考え方とは、霊や生命の重視、理論より現実を重視、人為より自 然を並視する態度だとされる。現実も理論も絶対的な何かではない。特に現実については、

丸山眞男に依拠して、 「『つぎつぎになりゆく勢い」をもって歴史を形成していく慣習的実 践」 (ibid. )と捉えられている。こうした「悩習的実践は、さまざまな理論や原理.規則 を状況に応じて取り込み、呑み込み、消化してしまう』 (ibid. p. 43)。現実は日套止まる ことなく移り変わっていく。理輪もまたその中で変化していく。 こうした世界観は、後の 著作における無秩序と秩序の層という形で世界を捉える発想を先取りしたものとなってい る。あるいは、次作で主に展開されるケアと日本の神舞に対する考え方もまた、 この時点 ですでに萌芽的に示されている(ibid. 50) 2│.

1.2 自由主義原理

では、改めて、ここで実践によって鋳直されるところの理論とはどのようなものか。こ こで商機が想定するのは、 Js・ミルの自由主義原理である。加藤尚武のまとめに従って、

彼はミルの原理を以下のように示している。「判断能力のある大人なら、自分の生命、身体、

財産にかんして、他人に危害を及ぼさない限り、たとえその決定が当人に不利益なことで も自己決定の椛限をもつ」 (高橘[2001] pp. 97‑98)。

商橘はミルの原理がどの程度、中商生に受容されているか3、それを受容する生徒らがど のような行剛傾向をもつか、 ということを調在結果から明らかにしていく。その中で判明 したことの一つは、ミルの原理を受容する生徒らのうちの半数は、他の生徒らと比較して、

他人に迷惑をかける傾向が強く、環境問題などへの関心も低いというネガティブな支持者 であるということである。どうしてそのようになってしまうのか。ここから、彼はミルの 原理は単体では、道徳の原理として機能しないと考え、それが何らかの別の要素によって

補完される必要があると主張する。

ミルの原理を補完するものとしての、 自己を似つけないということと社会における

相互交流・相互扶助は、自己へのケア、他者へのケアと呼ぶこともできる。つまり、

ミルの原理にもとづく自己決定は自他へのケアによって補完されると言える。

(尚橘[2001]p 117)

「他人に危害を及ぼさなければ何をしてもいい」というミルの原理は「自己を傷つけな いという捕完的規範と、人々のキ11互交流という基盤を必要としている」 (ibidp. 116)の であり、それがなければミルの原理は正常に働かないばかりか、ご都合主義的に用いられ、

自分勝手な振る無いを正当化する道具とされてしまう。なぜそのような事態が生じるのか。

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それはそもそも、 ミル自身が、判断能力のある成人を標的として、この原理の適用を考え ていたことに求められる。この判断能力は十分な教育の他、公的活動への参加、市民とし ての活動によって育てられる。しかし、 「現在の日本においては、……その原理の言莱だけ が浸透しているようであるが、その際に考えられていることはその原理の主張者であるミ ルの本意から外れるものであり個人主雑的自由主義の目指していることとも合致しない」

(ibid. p. 119)。

実際、商棚の診断では、現代日本では自由の価値が称揚される一方で、それ以外の価値 については、人々は口をつぐむ傾向がある。 「「自由」の誘惑に大人たちが屈してしまい、

自由以外の価値を軽視しだして」 (ibid. p. 189)いるのである。このことは、大人同士、

そして大人と子供の│川での「甘えの充満」を通して、すなわち、 自分、他者、子供に対し て厳しく振る舞う大人がいなくなり、誰もが子供っぽくなることを通して、束緋からの解 放としての自由理解ばかりを社会に浸透させることになった。理性や規範に従って行勅す るといった意味での自由は人気がなく、結果として、伝統や慣習一般を軽視する態度が広 がることにもなった(ibid. p. 190‑191)。このような状況では、補助原理が働かないため、

自己中心主義的な生き方が横行することになる。

13 自由主義原理と徳

こうしたことから、 ミルの目指したまつとうな個人主義的自由主義の世界の在り方をも たらすために、各秘の徳に支えられた生き方を高橋は提示する。特に、 自由主雑において 最重要のものである「自己決定」を十全になすためには、知恵、勇気、節制、誠実、礁遜、

思いやりなどの勝徳を身に付けることが不可欠である(ibid. 201‑202)。あるいは、大人 になるとは、こうした徳を身に付けることで幼児的な依存を脱却し、真の責任をともなう 自己決定をなすことができるようになることである。そのような大人とは、 「自らよく考え て決定することができる」という自己決定の徳を身に付けた人物である。

こうして徳を身に付けることで、個人は自律的に様々な規範に従いながら生きることが できる.ようになる。また、地域共同体の活性化によって、子どもたちに対しても、 自由以 外の価値の重要性に触れる場面を増やす。それらを通じて、大人と子供の関係を再椛築し つつ、 日本社会を取り巻く不安に対処していく。それが、病みつつある日本社会への処方 菱になる、 ということが同惑での結蹄である。

簡単にまとめるなら、この頃の高橘は、 ミルのような自由主義原理を中心に瞳きつつ、

ケアによってそれを補完する、 さらには各種の徳がそうした実践を支える、 という倫理学

を鱗想していたと考えることができるだろう。次著との関係で言うならば、 「自己決定や自

律を中心に考えてケアを補助的なものとみなす立場」 (ibid. p. 117) ということが、『自

己決定』において特徴的な倫理理解である。この理解はまさに、意謙調査を通じた人舞の

意識の理解から生み出されたものであり、反省的均衡の実践と言えよう。

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2.ケアの倫理〜『生命・環境・ケアー日本的生命倫理の可能性一』(2008)

前述の調査を進める一方、高橋は1997年に熊本大学生命倫理研究会を立ち上げる4.2007 年には、高橘が中心メンバーを務める第1回UNESCO・KumamotoUniversityBioethics Roundtableも開催されている5sこのように、この時期の高橘は、生命倫理を中心として 研究を行っており.その成果が『生命・環境・ケアーー 日本的生命倫理の可能性一一』

である(以下、『生命』),

2.1ケアの倫理へ

『自己決定』では、ケアはあくまでミルの原理を補完するものとして位世づけられてお り、倫理の主役はあくまで自律としての自由にあった。それに対し、『生命』ではむしろケ アを中心とした倫理が説かれることになる。その理由の一つは、社会がケアに目を向けざ るを得ない状況になってきたことである。高橋によれば、商齢社会、慢性疾患、ターミナ ルケアといった医療におけるキーワードを中心として、一般の人々の間にもケアの必要性 が理解されるようになってきた(高橋[2008] p. 15)。 さらに彼は以下のように続けてい

る。

人々がケアに注目するようになった別の背景として、個人主装的、 自由主轆的な 人間観への疑問視が挙げられる。現在の自由な社会では、個人の独立を強調するあ まり、人間同士のきずなが弱まってきつつある。このような社会において自由な個 人は他者との望ましい仕方での共生や社会全体の幸禰よりも、他人からの批判や 強制なしに自由にしたいことをすることに比重を世きがちである。こうした傾向は、

個人主義的自由主義を提唱したJs・ミルの考えである、個性ある個人が自己と社会 について配賦しつつそれぞれのしかたで生きるということからも逸脱するものであ ろう。

(ibidp. 16)

これは前著における高橋の立場が「人々」に仮託されたものと理解してもよいだろう。

前節で示したように、彼は自由の原理に理解を示しつつ、それを補完すべき相互扶助の不 在を批判していたが、そこではその欠落に対応するための実質的な雛論は与えられていな かった。それに対し、今作でのケアへの注目は、その部分を埋める議論を提示するものに

なっているョ

たとえば、『生命』の大きなテーマの一つである環境倫理について首えば、簡橋は単なる

環境保識ではなく、環境の人工化を問題として取り上げる。 ここで言う人工化とは、原生

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林などの自然を一度、破壊して、人間の手によって公園などの操作可能、管理可能な形に していくことである。こうした操作は、重層的で複雑な環境を、人mlにとって快適な環境 へと単屑化することであると彼は述べる:そして、 「凝境の単届化は不快を快に変えるだけ ではなく、簡単には変えられないような不快なもの、不都合なものを隠す‑ことにもなりう る」 (ibid. p. 162)。

商橘は、 こうした隠蔽のことを不可視化のメカニズムと呼ぶ。このメカニズムは、自分 の幸福だけを追求する個人の態度によって社会の中に生じるものであり、そこでは他者へ の善行は基本的に期待できない二他者にかかわることはわずらわしいことであり、そのよ うな不快で面倒なものは隠蔽の対象なのである。人々はできるだけ自己完結した快適な世 界を求め、それゆえに世界はどんどん単層化されていく。

しかし、現実はそのように単層化しきれるものではないし、そこからこぼれ落ちる存在 も必ず現れる。そして何より、そのような仕方で人は自己を実現し、十全に生きることは できない。そこで、そうした自己中心的な社会への処方霊として、ケアが要諦される。 「不 可視化のメカニズムに対抗するネットワークの形成には、ケアすることの脈絡の存在が不 可欠である。そのような脈絡は原理上は、人間がもともと、他者との結びつきの中で自己 実現する存在であることの自覚に基づいている」 (ibid. 1]. 181)。

このように、ケアを中心とすることで、高橘が80年代から関心をもっていた環境倫理 と、 90年代以降の生命倫理、そして根底にずっと流れていた日本(的)思想への関心が、

すべてつながることになる。

2.2ケアと権利

以上のように、ケアは人間生活において不可欠の重要な役簡llを担っており、『自己決定』

で想定されていたような、単に自律を補完するための補助的なものではない。むしろ倫理 においてはまずケアが中心となり、それを補完するものとして「椛利」が世かれる(ibid.

p、 210)。その権利についても、まず私たちにはケアされる悔利があり、次に自律のための 術利があるとされる

なぜケアは権利や自律に先立つのか。まず、商橋はケアの本質を以下のように示す。

ケアの本質は、傷つきやすい自己と他者の存在を前提にして、相手への要求への共 感・熟慮による応答にもとづくさまざまな種類の善行によって、 自分と他者とのよ き関係を形成・維持することにあると言える。

(ibid. p.207)

傷つきやすい人間が、他者を助け、他者とよい関係を築くことを通じて、 自分自身のア

イデンティティをも確認する、ということがケアの本質にはある。これは、 「自律によって

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自己実現する自由な独立した自己や他者」 (ibi(1)を前提にしている自律の倫理と大きく 異なっている。 自律の倫理があくまで「独立した強い自己」を想定するのに対し、ケアの 倫理は『種々の関係の中にあり、傷つきやすく弱い自己」として人1mを捉える。商蛎の考 えでは、後者の方が、まさに人II11とはどういう存在かということの理解において、当を得

ている。

特に日本においては、神々や死者ですら、他の神々や人間に祀られること、ケアされる ことを求める,アニミズム的に万象のうちで、神々はケアを欲し、ケアし合っている。人 間たちの社会もまた、タテ社会、甘え、母性原理などといった言莱で示されるように、商 度に関係的なケアのネットワークを形成している。自然琢境を考えてみても、環境保謹と いった人間からのケア的な働きかけがあるのと同時に、深山幽谷や野山の探勝を通じて人 間は自然にケアされている。人間をまず独立した個人とみなす考えは、人間の見方として

‑1‑分ではないのである。

とはいえ、ケアもまた万能ではなく、そこには主観性、個別性、砥接性という問題があ る、 と高橘は述べる(ibidp. 208)。 「ケアということが、個別的状況において、相手か らの呼びかけに共感し応答することである以上、どうしても主観的応答や個別的対応にな りがちである」(ibid. )。一般的にケアは、普遍的な原理に依拠することを拒否するため、

しかじかの客観的条件を充たせば十全なケアであるといった規池を前もって作ることが難 しい。どのようなケアをするかは、ケアを受ける人が求めるものをケアをする人がくみ取 り、そこから主体的に考えるしかない。しかし、そのためにケアは本来在るべき仕方を逸 脱してしまうことがある。

そこでそうしたケアの欠陥を埋めるために、撤利が要鮒される。ここで言う権利には二 種類のものがある。それらはそれぞれ感IWや気分に依存してなされるケアと、相手の自由 を奪うような支配的ケアという、二つの逸脱したケアを排除するためにある。具体的には 前者に対応してケアされる権利(養育される権利、教育を受ける権利、医療を受ける権利、

社会保障を受ける権利など)が挙げられ、後者に対応して自律のための権利(自由である 権利、所有権、参政権など)が挙げられる (ibid212)。

ここでも、まずケアされる梅利が先行してあり、次に支配的ケアから解放されるための 権利がある。あくまで、ケアを受けることケアをすることが大切なのであり、悪しきケ アからの解放はその後に出てくるのでなければならない。人を自由にするためにケアをす るのではなく、ケアによってよい関係を築くためには相手を支配してはならない、 自由が

必要だ、ということである。

2.3無情の者のケア

しかしながらこの権利に基づくモデルI式あくまで判断能力のある成人間に成り立つ

ものである。権利とは、判断能力のある人同士が対循をすることで合意を形成し、成り立

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先端倫理研究第15号(2021)

たせるものである。それに対し、生命と現境の問題については、 「受精卵やヒト胚、胎児、

また、将来世代、動植物、 自然にかかわる傾城』 (ibid、 213)のように、権利による補完 がふさわしくない領域もある。そこでは、ケア一元論に立ち戻って「ケアに対する不断の 自己群価・反省」 (ibid.)を用いるしかない。ここでそうした反省の営みに連なるものと

して、商橘は道元の無情説法を例に挙げる。

「無情」つまり意識や感覚のない存在者の説法を聴くとは、道元も述べているよ ういに、実際に耳で聞くのではない。それは五感を駆使して体全体で聞くことであ る。そしてそれは自分を巻き込み、自分がそこで本来の在り方を取り戻すような大 きな鋤きを感ずることであり、われわれの行うべき事を責任として受け止めること であろう。五感をフルに活用しての、不断のそしてあらゆる視点からの探究・検討 は、対象の在り方にみずからを合わせて探究することでありつつ、探究するもの自 身をも変えていく。

(ibid. pp、 213‑214)

戸なき者の声を聴くためには、 自己理解そのものの変貌も含めて、 日常的な有情と無梢 の対立を止揚するのでなければならない。寸一なわち、有愉の人間が、無情の自然の処遇を 一方的に決めるという構造を脱して、 自然そのものと向き合い、その垣根を越えていく必 要がある6.このことは非常に困難であるが、そうした態度は「対話できない相手へのある べき態度としてケア中心の倫理にとって不可欠であると言える」 (ibid. p. 214)。

ここで示されている「自己の変容」という要素は、次著における「恩を知ること」とい う論点を先取りするものと読むことができるだろう(群しくは、 3節で述べる)。本当の意 味で聴くこととは、相手とのある種の一体化を含み、それゆえに自己は変容を免れない。

自己に何の影響も与えないのなら、それは実際には聴こうとしていないのである,

2.4ケアと徳、残された課題

以上見てきたように、人間とはそもそも似つきやすく弱い存在であるということ、他者 との関係の中で自己実現して生きていくこと、こうした人間観に立つことで、ケアの倫理 は自律の袖完的原理から格上げされ、むしろまつとうなケアを可能にするために自律など の原理が必要とされるという、ケア中心の倫理が立てられる。

それにともなって、 「徳」も別の役劉が与えられる。『自己決定』において徳は、自由以 外の価値を教える役割を担っていた。それに対し、『生命』においては、徳は「「よき関係」

を支えるとともに、その破綻、倫理的停滞を打1Mする鍵である」 (ibid. p. 224)。諸徳は

権利と同様に、ケアを行い反省するための徳と、公共性の観点から権利を支える徳とに二

分されるが、こうした徳の教育を通じて、 「よき関係」は実現・維持されることになる。

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本節も簡単にまとめておこう。『自己決定』とは異なり、『生命』においては、ケアは自 由の原理への従属的な位腫から格上げされ、倫理における中心的な位腫を与えられた。自 維や権利といった概念は、あくまで十全なケア、すなわちよき関係を築くために補完的に 必要とされるに過ぎない。

さて、 『生命』本文では語られないが、ここでのケア論は実は一つの課題を残している。

それは、規範性の側面である。すなわち、『生命』でのケア論は弱く、傷つきやすいという 人M1理解から出発する。 しかし、それでも「人間が他者に依存しているからなんだという のだ、私は強く特別だから他者のケアはしない、一方的にケアをうける」、そういった強固 な個人主義者に対して、「貴方も他者のケアをするべきだ」と命じる規範性はどこから来る のか。次薪の言莱を先取りして使うなら「生態学的な相互依存の関係があることと、それ にもとづく自然観、世界観、倫理的行為の規範を持つことは別である」(高橘[2013]p. 160)。

この問題に対する答えは、次の著作で述べられることになる。

3.恩の倫理〜『共災の瞼理』(2013)

商播の燈後の単著である『共災の論理』は2011年から2012年に書かれたものから成っ ているが、これは主に東日本大震災を通じての彼の思索に基づいている?。そのため、主に 自然災害と人間がどのように向き合えばいいかということが中心となっているが、同時に、

これまでの倫理の理解は一層深められ、ある種の世界観にまで到達している。ここでも、

本稿の目的はあくまで彼の倫理の理解を取り出していくことであるので、防災論には深く

立ち入らず.倫理について中心に見ていこう。

3.1ケア理解の深化

『共災の論理』においても、まず、ケアが倫理学上の基礎におかれる。すなわち、人間 は関係的存在であり、他者なくして生きられない弱い存在である。人は自然をケアし、 自 然にケアされる。

しかし、ここで商柵は新たに、世話や配慮などの行為としてのケアフォーと心配・気が かりとしてのケアアバウトを区別する。同祇の区別自体は、ノディングスにも見られるも のだが、彼はノデイングスとは異なり、ケアアバウトをケアの基盤に据える(高橋[2013]

p. 90)8│.砿かに実際の援助行励は亜要かもしれないが、気にかけるだけ、あるいは気にか けることしかできない、という場合であってもそれはそれで意味のあることだからである。

それは、行為としてのケアフォーが成立するためには、相手方の受容が必要だが、心配・

気がかりとしてのケアアバウトは必ずしも相手からの受容を必要条件としないということ

にかかわる(ibid. p. 103)。

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先端倫理研究第15号(2021)

たとえば、死者をケアするということはそのような気にかけるという意味でのケアであ

りうる,私たちは死者に対して直接何かをすることはできない。私たちは彼らを気にかけ ることしかできない。しかし、彼らのことを気にかけ続ける限り、私たちは死者をケアし ていると言うことができるのではないか、 と商柵は述べる。

さらに、この死者の例を通じて、ケアの理解はもう一段階、拡張される。「死者の死に影 響されて、われわれの生き方や行動がよい方向へと変わるとき、死者は我々を支援した、

すなわちケアしたとみなすことができる。ケアはいわば後付け的に登場する」 (ibid.

p.135)。『生命』においても言われていたように、従来のケア論はある種の個別性と直接性 が重視されており、誰が誰をどのようにケアするのかということは、ケアにとって重要な ことと考えられてきた。この私が、他でもない貴方を、容易に一般化できない、このよう な仕方でケアする、 ということが重要なのである。しかし、ここでは「行為・出来事の間 の因果関係が亜要である」 (ibid. p. 136) とされるように、そうした個別性や血接性は不 要とされている。原因としての何らかの行為や出来郡が生じ、それが結果として後の誰か の状況をよくした場合、それは遡及的に原因にケアという性質・意義を後付けする9.私の 現在の行動が、将来のどこかの誰かの状況をよくしたなら、私はその人をケアしたのであ る.そしてその人がどこの誰かも知らない過去の私を気にかけてくれたなら、その人は私 をケアしたのである。こうして、ケアは、行為としてのケアフォーを重視するオーソドッ クスなケア倫理における理解を離れ、時空間を越えうるものとして新たに提示されること

になる。

3.2恩の倫理

さて、ここで2.4節で示されていた、ケア倫理の牒題に戻ろう:そこでは、『生命』にお いてはケアの規範性の説明が欠けていると述べた。『共災の輪理』において、高橘はそれを

「恩」というピースによって埋める。ここでの恩は封建的色彩を脱色し中立化されたもの

であると断った上で、彼は次のような説明を示している。

恩とはめぐみである。そして、恩を与える、恩を受けるというのは郡実である。

恩はめぐみであるが、それを知ることで報恩の行為へいたるようなめぐみである。

……恩を知るとは、ありがたさがはっきりわかることである。漠然と何かを感じる のではない。恩を知ることで何をすべきかもわかる。順番からいえば、恩を知るこ とで、ありがたさを感じるようになるし、雑務感が生じる二

(ibid. p. 164)

高橋はそうとは述べていないが、ここでの恩は一弧の「濃い概念(thickconcePt)」と

して理解することができる。濃い概念とは、 『勇敢」などに代表されるように、1ド実の記述

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でありながら、同時に評価的要素や動椎づけを含むような概念である。すなわち、彼が示 しているところの「恩がある」というのは単に叩実を記述するものではなく、同時に分か

ちがたく規範性と動機づけをともなう概念である。「私は○○に恩がある」ということを私

が知っているということは、私が何らかのめぐみを受けたということを知っていることに 加えて、私が○○に対してありがたさを感じ、何らかの恩を返そうとするということであ る.もし、そのような動機づけが得られないなら、私は本当の意味で恩があるとは思って いない。 「たんなる事実を知っても倫理的凝務や規範が生じるわけではない。しかし、恩を うけているという仕方で事実を知ることで、何らかの仕方で恩を返すという義務や義務感 が生じ、行為へと至るのである」 (ibid. p・ 162)。かくして、事実と規範は結び合わされ る。 「恩は、それを知ること、気づくことによって、その人の生き方が大きく変わりうる。

こうした特徴が、恩を知ることを道徳の重要原理にすると言える」 (ibid. 165) '0。

そして、すべての人間は『恩恵として生かされている存在」 (ibid)であり、 「すべての 存在はすべての存在のおかげで存在している」 (ibid. p、 166)。ここでの存在は人間に限 られない。「報恩の対象は、広がれば人間を越えて生物や生態系にまでいたりうる. …すべ ての存在はすべての存在のおかげで存在しているという普遍的な相互関係を基盤にしては じめて成立する」 (ibid. p. 167)。この理解の背後には当然、仏教的な世界観もある。こ

うして、商協は次のように結論する。

恩という概念によって本章で洲いた地平とは、ケアする側もされる側も含めて、

人間どうし、さらには、生きとし生けるものどうしが、どのような関係にあるかと いうことにかかわる。話を人間に限定してみよう。人はそもそもどのような存在な のか。その問いに、親の恩、人々の恩、また、生物や無生物の恩を受けて生きてい る存在であることを、恩擬念は明らかにする.それと同時に、恩を知ることが行為 や倫理規範にいたることも述べたのであった。それは、ケアする人、される人の存 在の仕方や存在する条件の探究であり、かつ倫理の探究でもあると言える。

(ibid. p. 168)

誰しもがお互いの存在によって存在しているのであり、その恩に報いることがケアであ る。そのケアの対象は目の前の人だけでなく、過去に存在していた人、死者、勘植物、 自 然にも向けられる。かくして、ケアの倫理は単なる生態学的依存関係を越えて、恩の相互 関係によって基礎づけられることになる。

このように見ていくと、2.3節で述べた「戒なき者の声を聴く」ということが、『共災の 輪理』 における恩とケアの考え方につながっていることが分かる。自然災害と共に生き る(共災)とは、 自然と向き合うことであり、災審の犠牲となった人々と向き合うことで

あり、同時に、 どのような形で防災をしていくかという点で、将来世代と向き合うことで

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ある。そうした存在者たちはまさに声なき者である。声なき者の声を聴くということは、

それによって自己が変容することも含む、 と高橘は述べていた。彼らと恩の関係によって

つながっていることを知ることは、彼らの声を聴くことであり、それは単に知ること、開 くことを越えて、生き方が変わることにつながっている。そうやって知ることで変わり、

それに突き勤かされていくこと、それが高橘の考える倫理のもっとも深いところにある。

3.3世界の構造

般後に、『共災の論理』において、高橘が描き出す.世界の櫛造について述べておこう(ibid.

p. 110) [[・一連の恩の倫理は自然のうちに根拠をもつものである。ここで言う自然とは単 に自然環境のことではなく、人問の外側にあって淵に変化し続ける現象そのものに近い。

そのような自然の根底に在るのは生命そのもの、無秩序の世界である。これは直接経験で きる世界ではない。私たちは、そうした無秩序の混沌から湧き出てくる生命の力を、不安 定なアニミズム的世界という仕方で感知するに過ぎない。

しかし、同時に、そうした無秩序の世界の反対側には、理性的秩序の世界がある。これ は完全な科学的合理性による世界であり、 こちらもまた有限の存在たる人間が経験できる 世界ではない。それでもそうした理性的秩序の世界から各種の合理性の概念を持ちだして くることで、世界を比較的安定したもの、 「安定した日術の世界』として理解して、私たち は生きようとする。だが、そのような日常は災害などを通じて容易に不安定な世界へと転 化する。そこでは生命の混沌が顔を覗かせる。こうした、 自然の無秩序な力と、理性の秩 序だった安定の狭間で、不安定な世界と安定した日術の世界を往復しながら、私たちは現 実の生活を送っている'ヨ。

倫理もまた、そうした世界の柵造と対応する形で、二つの方向性をもつ。一方には何も のもまだ分かたれていない自然的な混沌ものから生じる、他者への気づかいがある。他方 には理性的な秩序のうちから生じる、権利や正義がある。それらを駆使しながら、私たち はなんとか日常を過ごしていく'3。

『共災の論理』における倫理の理解は以下のようにまとめられよう。私たちはその存在 を(無生物を含む)他者に負っており、それは恩という仕方で理解されるものである。恩 を知るとは、実際にありがたい、恩を返そうと感じ、そのように行為しようとすることを も含む。そして、この恩を返すということは、ケアという仕方で実現される。ケアは単に 行為のみを指すのではなく、気にかける、心配する、気がかり、という形でも示されうる。

そのため、単に目の前の特定の個人だけでなく、死者や未来世代、無生物や生態系などに 対してケアをすることもできる。私たちはお互いにケアし合う中で、なんとか比較的安定

した日常を送っていく。

このように自由の倫理、ケアの倫理を経て、高橘の思想は恩の倫理と、それを生み出す

世界観に到達する。『生命』において示されたように、自由の倫理は独立した強い個人の倫

(13)

理である.『自己決定』の頃の商柵は、ケアで補完しさえすれば、自由の倫理でも十分であ ると考えていた。しかし、神同士ですらケアを求め、ケアを行い、支え合っているという、

アニミズム的で日本的な発想を強める中で、 自由の倫理が前提す‑る人間観では、大事なも のを見落とすことになるという結論に至り、ケア倫理への大胆なII属回を行う。 自由はケア によってもたらされる良き関係の一つの条件として、補助的な位腫を与えられる。そして、

ケアの規範性そのものをも支えるものとして、さらに恩という発想が示される。このよう に見るならば、彼の思想は着実に前進を重ねながら、最終的に一つの一貫した大きな体系

を描くに至ったのである。

終わりに

ここまで.高橘のlii藩、『自己決定の時代の倫理学』『生命・醗境・ケア』『共災の論理』

の三冊を中心として、彼の倫理思想の展開を追って来きた。本袖で示されたように、 ミル の自由の原理から、ケアの倫理へ、そして恩の倫理へと、その軸は変化している 自由の 原理からケアの倫理へという流れ自体は、普遍性優位の倫理から個別性優位の倫理へとい う形で、ポジティブにであれ、ネガティブにであれ、 20世紀の倫理学全体が経験したもの であり、その流れの中で理解することができるだろう。

しかしながら、そこから恩という思想へとダイナミックに展開したことは、ハンス・ヨ ナスやシニレーダー・フレチェットを媒介にしたとはいえ、 日本思想に強い関心をもつ高 橘だからこそ、可能だったことであり、この点は彼の思想の独自性を示すと言っていいだ ろう。あるいは、一弧の濃い概念として恩の概念を提示したことは、自然的な事実に根を 持つ倫理が避けて通れない規範性の源泉の問題をうまく回避したと言えるが、これもまた 道元などの思想を自家薬価中の物としているが故の発想だったと言えよう.

なお、濃い概念はそれを理解できる人間には強い力をもつ一方、依然として、それを理 解しない人間、文脈を共有しない人間にはまったく力を持たないものである。単に適用対 象を知っただけでは、使いこなせないのが濃い概念の一つの特徴である。その意味で、濃 い概念はしばしば一定の共同体の存在を前提とする。それに対し、商協は日本人が古来ど のように災害や死者、自然、将来世代を理解してきたのかということを示すことを通じて、

私たちの中には現にどんな文脈が共有されているのかを明かそうとする。彼は、現代の私 たちの中にもアニミズム的なものが受け継がれていると強く主張する。それを否定するな ら「現代の都市にも見られる地斌祭、またしめ純で飾ってある神木、花見、月見、海開き、

山開きといった行蛎、勤物供雛や針供蕊などに対して、自らの立場を鮮明にすべきだろう。

..….また、そのように言葉で表明したことは行動にも表すべきだろう」 (高柵[2013] pp.

107‑108)という彼の言莱は柿明でありながら切れ味鋭い・私たちの中にも共有された文脈

はある.

40

(14)

先端倫理研究第15号(2021)

だからこそ、彼はあっさりと自分の考えを「新しい脱の提唱というよりもむしろ、 これ

まで人間が行ってきたことをとらえなおしたものである」 (ibid. p、 185) と言ってしま う。しかし、「推論の果てに当たり前の結瞼に至ることは、けっして不首尾なことではない。

長い歴史を通じて培ってきた生と死についての感覚は、真実に触れていることが多い。そ して、思索とは一部見えている真理を、他の真理もろとも明らかにしていくことなのであ る」 (ibid. p. 148)。

こうした考え方は、『自己決定』にも遡ることができる。そこで彼が行った意識調査は、

まさに、当たり前にそうだろうと思われていることを、本当にそうかどうか確かめるため に、行ったこととも言える。多くの倫理学者が、実践は大事だと言いながらも真剣にそれ と向き合おうとしないのに対し、私たちはどういう存在者なのか、 ということを実際に手 や足を使いながら、真筆に問い続けた商怖の姿勢から学ぶべきことは多い。

『自己決定』において、彼は「私は、自己理解、いいかえれば、 「自分自身を知る」とい うことが哲学の根本にあると考えている」 (商棚[2003] p. 91) と述べていた。 「「人間で あるという身の程」を本当の意味で心得るためには、現代を考察するだけでなく、今の時 代を生じさせてきた歴史を振り返ることが必要となる。それと同時に、神でも肋物でもな い人間としての身の程を生物学的観点から把握1 ることも廼要かと思われる」 (ibid. p 92)。彼の哲学は徹頭徹尾、 自己を、そして私たちを理解しようという実践であった。

参考文献

高橋隆雄[2003] 『自己決定の時代の倫理学一意識調査にもとづく倫理的思 考一』九州大学出版会

高橋隆雄[2008] 『生命・環境・ケアー日本的生命倫理の可能性一』 九州大 学出版会

商橘隆雄[2013] 『共災の論理』 九州大学出版会

商橘隆雄[2020] 「日常化の傾向性と仏性一ガン闘病体験に基づく考察一」 『先端倫 理研究』第十四号pp.30‑48

ノデイングス、ネル[1997] 『ケアリングーー倫理と道徳の教育女性の観点から』

晃洋番房

】 「八一年に熊本大学で職を得てからは、『哲学探究』をはじめとするヴイトゲンシュタイ

ン後期の諸著作や、分析哲学の研究に励んだ。八○年代後半から政治哲学、そして環境倫

理へと関心が移り、九+三年の渡英前は、倫理学が研究の中心になっていた」 (高橋

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【2008]p、i)

2あるいは、伺番の第七章において論じられる大人と子供についての雛論は、後に彼が言 う 「よい関係」を両者の間に築こうとするものであり、多分にケア的なものだと雛むこと もできるだろう。

3なお、 「ミルの原理の支持者は20〜25%くらいである」 〈高橋【2001]p. 103)

. この研究会の成果は、 『熊本大学生命倫理研究会論集』1巻〜6巻および『熊本大学生 命倫理胎築』1〜4巻(いずれも九州大学出版会)という形で結実している。

5このラウンドテーブルは2018年の第‑1一二回まで毎年開催された。

6最後の論考となった「日附化の傾向性と仏性一ガン闘病体験に韮づく考察一」 (2020)

において、高橘は闘病生活を経て「柳は緑、花は紅」の境地のようなものに達したことを 述べる。それは本来の世界の声を聴くことができた、 ということなのかもしれない。

72016年には熊本地震で実際に商怖も大規模地震の被災者となる。その後、 2018年に日 本医学哲学.倫理学会の公開辮座において「災害と共にある時代の自助、共助、公助一共 災の時代の倫理一」という発表を行っているが、全体において『共災の輪理』との鯰旨の

変更はない。

8ノデイングスは全体にケアアパウトよりも、ケアプォーを重視する。ノディングス

【19971

9それゆえに「震災の犠牲者たちの生は、死後もその意義を更新する。そして、災害をポ ジティブに受け止めて、災害に強い国作りをすること、また共災にかなう生き方をするこ と、人間と自然の本来あるべき閥係を問い続けること、そうしたことは犠牲者たちの生を 意義あるものとする営みである」 (ibid.ppl47・148)。

'0強調は原著者による。

11高橘はここでの世界観を日本的な考えに由来するとして、 日本神話を引きながら、そ の構造を脱明していく。しかし、 ここには彼が倫理学に傾注する以前に研究対象としてい

たウィトゲンシュダインの思想の影響も見て取ることができよう.

'2 「日常化の傾向性と仏性一ガン闘病体験に基づく考察一」 (2020)は、病という非日常 と、 日常に戻ろうとする力のせめぎ合いを論じたものである。

'3その際、具体的な生き方の指針・としては、徳が役に立つ。特に、災害と共にあらねば ならないという共災の時代にあっては、 自然、意気、諦念という三つの徳が必要とされる

(商橘【2013]pp、72・81)。

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