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日系アメリカ人(その1) : 一世,二世と三世の比 較研究

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日系アメリカ人(その1) : 一世,二世と三世の比 較研究

その他のタイトル A Three Generation Survey of Japanese American : ISSEI, NISSEI and SANSEI

著者 前田 卓

雑誌名 関西大学社会学部紀要

4

2

ページ 37‑59

発行年 1973‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/00023211

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日 系 ア メ リ カ 人 ( そ の1)

―ー世,二世と三世の比較研究—――

前 田 卓

〔 ま え が き 〕

昨年12月7日午後8時から ABC放送局の T.V. 映画,"If Tomorrow Comes " (もし明日 が来るならば)というのが,全米で放映されたのを私はロサンゼルスの日系人の農家で見た。丁 30年前のその日が,真珠湾攻撃にあたることを私は忘れていた。日本では128日だったから である。 (アメリカ人は, しばしば "SundayMorning, December 7,  1941"と言う。) T.V. 

の内容は,排日の激しいカリフォルニアの農村で育った日系二世の男性と,オクラホマから移住 した中流階級の白人娘との結婚問題であった。 PearlHarborが攻撃されたという緊急ニュース により, 2人の仲は裂かれ,最後は自殺するという悲愴的な物語であった。この映画の最初のク イトルは,原作者がつけた「ガラスの槌」というのであった。しかし,そのような表題では,視 聴率が落ちるのではないかと心配した結果, 「敵がわたしの夫」というクイトルに変更された。

しかしながら, 「敵」という Identityがようやく消えてきた現在, 「敵とは何か」という抗議 が日系人社会からおこってきた。 ABC放送局には抗議文が寄せられ, 日系新聞でも,これをと

りあげ騒ぎ出した。その結果,急きょ, 「もし明日がくるならば」とクイトルを変更することに より,この問題は一応ケリが着いた。

さて,私にとって最も関心があったのは,この映画を見ている各世代の人びとが示す反応を考 察することであった。農家の大広間には多くの一世,二世や三世,更に白人と結婚した三世の赤 ん坊(四世)たちでうずまっていた。 真珠湾攻撃のあった翌日, FBIのプラックリストにのっ ていたために検挙された一世,米国の市民権をもちながら強制収容所に入れられた二世たち,戦 後に生まれたので,戦前の排日運動を体験しなかった三世たちが,物語に対して,それぞれ異な った受け取り方をしていた。次に私の興味をさそったのは,世代間の「話す言葉」の大きな違い であった。一世の女たちは殆ど T.V. の英語がわからず,途中で私語をし始めた。また T.V.  が終ってから親戚ー同が食事をしている時に,和歌山県の方言まるだしで話し合う一世たち,女 でありながら自分のことを「ワシ」とか「オレ」という日本語を使う二世たち,また「バカ」と か「スケベ」などの下品な日本の言業のみをよく知っている三世たちには少なからず驚かされた。

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閑西大学『社会学部紀要』第4巻第2

そこで私はこれら同じ屋根の下に住んでいる日系の家庭生活,特に親子三世代の会話を中心にメ スを入れることにした。

ところで日系アメリカ人に関する書物は現在までにかなり数多く出版されている。すなわち,

大ざっぱに分けると白人の学者からみた日系人,また, 日系人の学者が自分自身の体験に基づい たもの,そしてまた, 日本から留学した人びとによって書かれたものの 3種類がある叱 このよ うに日系人に関する書物が氾濫しているというのに,更に私がこの論文をつけ加える意味が問わ れるかもしれない。しかし私があえてこの論文を発表しようとした主な理由は,私がカリフォル ニア大学に留学中に, 日系人に関する実態調査にもとづく資料が手に入り,しかも,それが殆ど 未発表のままであるということであった。

私は1971年の4月から本年の4月まで, ロサンゼルスにあるカリフォルニア大学に家族社会学 を専攻するために留学していたが,或る日,社会学の研究室で, G. N. Levine教授から Japa nese American Research Projectに入って, 日系人の家族生活を研究しないかとの話があった。

この J.A. R. P. という研究所では, 日系人の一世, 1047名に対する,色々の調査が行なわれて おり,更にその一世の子供たちにあたる二世, 2371名に対して,種々調査が行なわれ,そして次 , これら二世の子供たちである三世, 841 (18歳以上)に対しても同様な調査が行なわれて いた。その結果,親子三代にわたって完全に調査できた家族が400世帯ほどあった。そこで私は,

この400世帯を縦に割って分析したら非常に興味深い資料が得られるのではないかということを 彼に進言した。すなわち,同じ一世でも,出稼組と留学組とに分けられ,更に教養や職業によっ ても何種類かに分類できる。そしてこれらの家庭からやがて, どのような職業や教養をもったニ 世や三世が生まれてきたのか,また一世が日常,英語で会話している家庭と, 日本語を主として いる家庭とでは,三世にどのような影響が出てくるか,たとえば,三世の日本志向型と拒否型は どのような家庭で発生するのかなどという問題を研究することにした。しかし, この問題にはか なりの時間が必要なため,今回の発表は,非常にウワッツラの単純集計の結果のみを記載するこ とを許していただきたい。

さて,話はかわるが1969 BillHosokawaは『NISEI』という本を発表して日系人の間に大 評判を得て不朽の名著とたたえられた。広島県生まれの彼の父は1899年 (M.32)15歳の若さ

で米国に渡たり, 線路工夫として働いた。 その子の Bill1937年にワシントン大学を卒業し た所謂インテリであった。その著『NISEI』 の Prefaceで彼は日系市民協会 (The Japanese  American Citizens League) 1962年に JapaneseAmerican Research Projectを推進させ

るために U.C. L.A. 10万ドルを送り, それにこたえて J.A. R. P. は日系米人に関係のあ る文献資料を捜し,そしてかなり貴重な情報をも収集し,いろいろな専門家(歴史学,社会学な ど)がそれを分析する仕事にとりかかったことを述べている。現在, J.A. R. P. の二つの大き な部室には,明治初年から米国にやって来たPioneerの手紙から,強制収容所の中で,自分たち の生活状態をなまなましく描いた油絵までが,整然と保管されている。 そして, Carnegie Cor

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日系アメリカ人(前田)

porationNational Institute of Mental  Healthが,更にこの J.A. R. P. に,補助金を提 供したために,かなり大がかりな調査が出来たのである。そして彼自身もこの中の資料を参考に して著述を行なっている。さて, この『NISEI』という書物の Forewordでライシャワーは,

次のような意味のことを述べている。アメリカは「移民の国」と呼ばれてきた。すなわち,移民 たちによって構成された国なのである。しかるに,同じ移民であっても或る種の移民たちにとっ ては,アメリカの Door 僅かしか開らかれなかった。すなわち, 日本の移民が出くわした ほどの Prejudice(偏見)と Discrimination(差別)という高い壁につきあたった移民集団は他 にあったであろうか。たとえば,帰化権の拒否,特定の職業の否認,そして日米戦争の際には強 制収容所に入れられた。それにも拘わらず, 日系人は戦場や国内において祖国のために大きな犠 牲を払った。 その努力の結果, 米国人口の0.291%の日系人社会から現在3名もの上下両院議員

をワシントソに送っていると Edwin0. Reischauerは言う。

さて, 1967年の9月にカリフォニアに住むアメリカ人を1,000名抽出し, その人たちに対し,

巻末13のように「日系人を trustするか」との質問をしたところ,そのうちの63% "very much"と答え, 29% "somewhat"と答えたという。そこで G.N. Levine③ は日系人に対 する Prejudiceが殆ど消えてしまったように受けとっている。しかし,私は決してそうとは思わ ない。

私はこの数字でただちに米人の日系人に対する偏見がなくなったとは考えられないからである。

63%の残りの37%とが何を考えているかが知りたい。 彼らの中には戦前と同じように「及籍 「陰険な」そして「残忍な」というイメージが強く残っていないかと懸念している。「勤勉」

とか「頭の良い」ということは,白人であれば,大いにほめたたえられるべきものであるが, 日 系人の中にそれを見ると,同じ「勤勉」 「学校の成績が良い」ということが, 「馬車馬のように 働く」とか, 「身分不相応な人間が野心に燃えている」等とハナモチならぬ行為として,白人に 受けとられないかと心配するのである。そこで,私は自分なりに J.A. R. P. にあるデーターを 分析し,今後 G.N. Levineと会つて,意見の調整を計りたいと考えている。

最後に, Minoritygroup Prejudiceについて,いろいろ御指導下さった社会心理学の広田 君美教授俄 野村昭教授,ならびに, 日本の移民村について,いろいろのアドバイスをして下さ った市原亮平教授,更にまた歴史学的立場から,当時アメリカに居た私に日本からわざわざお手 紙で御教示下さつた柴田実教授に厚く感謝する次第である。そして最後に,未発表の論文を次か ら次へと現在日本に居る私の手許に送って下さっている U.C. L.A.  Prof.G. N. Levine,  Y. Sakata D.Monteroにお礼を申しあげたい。 ただまことに残念なことは, この貨重なデ ークーの処理のつたなさのために「表」ばかりが多くなった。そして,味のつけ方が下手なうえ に皿に盛る美的感覚の乏しさの故に読者に御迷惑をおかけしたことを深くおわびする次第である。

《本論文は筆者の1971年度の在外研究によって作成したものである。 1972128日記》

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関西大学『社会学部紀要』第4巻第2

J. A. R. P. の 調 査 方 法

周知のように, 1924年に日本人の移民が禁止されるまで,かなりの人びとが米国へ移住した。

この日本生まれの一世に対して1,047名を選び, 100項目をこえる質問紙を調査員が持参して,面 接調査を行なった。すなわちこの質問紙は,一世が日本を離れて,アメリカに移民した際の「動 機」や,移民後のアメリカでの「生活状態」を克明に調べたものであって,時には1人の一世に 対して,調査員が 3日間の日数を費やして調べたこともあるほど膨大な質問がもりこまれてある。

(この調査の集計結果は, computertapeにいれて,現在関西大学で保管してある。)

次に, 一世の調査対象者が, 1,047名選ばれるまでの経過を述べてみよう。 J.A. R. P. では 1962 3年の間に一世の調査対象者を選んだ。まず全米本土にある一世の名簿を日系人の仏教会 やキリスト教会から集め,それを6つの階層に分け,そこから調査対象をラソダムにサンプリン グした。すなわち, 18,988家族の中から約3,000家族を抽出し(但し,ハワイとアラスカを除く)

196466年間に各家庭を訪問して直接面接調査を行なったが,その当時の調査対象者である一世 の平均年齢が72歳であったために, 病気や死亡していたりして, 実際に調査ができたのは1,047 名であった。これを都会と農村に分けると82であり,男女別にみると,男695名,女352 であった。次に1967年から,これら抽出された一世の子供である二世の住所を調べ,別の質問紙 を作って二世 (3,817名)に送ったところ, 2,371名の解答者が得られた。更に1968年にはその子 供である三世 (1,063 (但し18歳以上)について質問紙を送ったところ, 824名の解答者が得

られた(巻末の表 1.6. 7. 8参照)。

ただこの一世の抽出には多くの問題があった。まず一世の女性が,独身でアメリカに渡り,白 人と結婚して,苗字が変わり白人の社会に入っている者を抽出することが出来なかった。また米 国生まれの二世の中で,すでに親である一世が死亡し,或いは日本に帰ってしまっている者も,

この抽出からもれてしまったのであった。更に,同じ日系アメリカ人でも,ハワイとアラスカが 除かれている。なお,この調査方法の詳細は,来年の8月に統計学者でもある GeneN. Levine  が前掲書の中の Methodsof Studyの項で述べるはずである。

〔 概 要 〕

本論文はまず序章として,明治前期にアメリカヘ移民したパイオニア(殆どが調査対象者の親 である場合が多い)の歴史的背景を明らかにした。そこでは J.A. R. P. の援助により,未発表 の資料をも少し記載することにした。第一章は親子三代の会話,すなわち,日本語と英語との会話 が世代間により,どの程度異っているかを統計資料にもとづいて述べることにした。 ( 2 4,

9 14)。 特に米国生まれの二世は「帰米」組も含まれているので複雑である。第二章は二世と 三世との関係について論ずることにした。すなわち, 二世は marginalmanとして,戦前,戦 中を通じて苦労した。一世からは親孝行や「イニ」制度の重大さをたたき込まれ,時には家庭の

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日系アメリカ人(前田)

貧困により, あまり学校にも行けなかった(表16)。そして現在でもあまり豊かな生活を送って いない二世が多い(表 20.21.22)。それにひきかえ三世は男女を問わず, 90%近くが大学へ進学 している(表17)00

ところで, 日系人の二世と三世との親子間の断絶は, 日本の場合のそれとはくらべものになら ない。それは単に教養とか,職業上のちがいからだけではない。白人の人種的偏見や差別に対す る受けとり方が,二世と三世とでは全く異っているからである(表23)。 そして, 異なった人種 との結婚問題になるとそのギャップは更に大きくなる(表26 34)

第三章では.戦前と戦中の一世と二世の生活について詳細に述べることにした。そもそもこの

J. A. R. P.  前述の如く,全米から集まった会員2万余名をもつ日系アメリカ市民協会が,

米国に移民してから百年間のStoryを保存しようとの願いから発足したようなものであるために,

一世たちがこの Interviewにすごく協力したのである。 そこで, この章では一世の日本での学 歴(表36)から,父の職業(表39),生家の農地の面積(表38),更には明治維新以前の士農工商 の身分(表41),そして留学生として米国に来た者たちの米国での学歴(表42),渡米した当時の 永住の意志の有無(表45)などを調べた。

そして. 次には新天地を求めて嫁にやって来た明治のハイカラ娘たちーPictureBridesーの失 望などについても論じた。これらの女性たちの中には,30歳を過ぎてから結婚したものが20% いた(表47)。 米国に永住する気持の少なかった一世たちにとって, 日本ヘ一番引き揚げたかっ た時期(表55),しかし日本へ帰えらなかった理由(表56)などについても触れる。

さて,日本とアメリカとの戦争が始まり, 11万名もの日系人が有剌鉄線の中の強制収容所に入 れられた時の状態などを論じ,同じ交戦国であったドイツ系米人やイクアリ系米人は何故収容所 に入れられなかったかということも書こう。ただ.収容された日系人の中には「あんな楽な日々 を送ったのはアメリカヘ来てから初めてだ。なにしろ食べることを心配せずに暮せたのだから」

という一世もいたが,他方.強制収容や財産凍結は憲法違反だと裁判所へ訴える人びともあった ことを述べておく。

米国政府は周知のようにこれら収容所に入れられた日本人のなかで市民権をもっていた二世に 対し「天皇と星条旗のいずれに忠誠を尽すか」をサインさせた。星条旗に忠誠を誓った二世たち によって編成されたのが二世部隊である。その中でも特に有名なのが442部隊であったが,これ らについても触れることにする。

ヨーロッパ戦線での勇敢な行動によって,初めて米国人たちは NISEIを見直したのである。

1)  これは二世達が三世の子供達に,白人社会との障壁を乗り越えさせようと,日本流に言えば田畑を 売っても,また爪に火をともすようにしても息子,娘を問わず大学教育をつけさせようとしたからで ある。しかしそれがかえって,教養の違いによる親子の断絶を結果していることは実に残念である。

恰もユダヤ人の親達が自分の子供にキリスト教を信仰させたり,クリスマスカードを送らせるのと同 じ気持である。またイクリア系の二1止が,非イクリア人を鎌っているにも拘わらず,非イクリア人を 友人や恋人にするのと同じ心理である(表62)

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関西大学『社会学部紀要』第4巻第2

ところが,白人の日系アメリカに対する評価を好転させるために努力した二世たちも今では殆ど 年をとつてしまった。かつて,戦場で白鉢巻をし, 「万オ」と叫びながら多くの戦死者まで出し

た二世たちも,現在では三世から批判される立場におかれて来ている。

そこで,最後の第四章では三世のイニロー・バワーについて論ずることにした。 「われわれは いったい誰なのか」 「われわれの祖国はどこなのか」 「われわれには,アメリカ社会に住むべき 場所があるのか」とか, 「おれたちの将来はどうなるのか」というような問題が三世の間に発生

して来た(表 58.59)

この問題については,私にとって妓も興味のある章なので,その概略を次に少し述べることに し,結論は次の号にゆずることにしたい。

視在の三世を大きく二つに分類すると, 日本志向型と日本拒否型とがある。すなわち日本の歴 史や古典文学に対して非常に興味をもつ者3ゃ,また日本に一度も来たことのない二世である親

とは全く異った意味で, 日本人としての「誇り」をもとうとする三世がある。

このような傾向は,アメリカばかりでなく,カナダに住む日系三世にもあらわれて来たという。

二世は「静かなアメリカ人」であったが,三世は違う。一部の三世は日本への関心を深めつつあ

........ 

る。すなわち一世のもち込んだ「日本」というものを,一世代飛び越した「三世」が評価しよう としている叱

他方, 日本拒否型とは,自分のからだの中に, 日本人の血が流れていることを怨む三世たちで ある。私が "Doyou speak Japanese?,, と話しかけるとマユをひそめ "Sorry,,と言わずに

"No,, とか, 黙殺する人びとであり, これらの三世は,白人が日系人に対して持っているイメ ージから自分を切り離そうと涙ぐましい努力する人たちである。ただ, これは非常に大雑把な分 類であって,オーバラップしている場合が多い%

三世の日本志向型には,二世である親が白人社会での人種的差別のために出世出来ないのをま のあたりに見ている者や, 「帰米」といって一度日本で学校教育を受けて米国に帰ってきた二世 を親にもつ者,また,かなりの財産をもった所謂成功者である祖父母の一世と同居している三世,

更に祖父母や父母が日系人むけの商売や僧侶などをしている者たちの中にこの型が多い。彼らの 特色は, 「日の丸の旗」や軍艦旗を自分の車の窓にはりつけたり,シャツや柔道着の背に日の丸 を書き,スキヤキの歌をうたう°。

2)  たとえば, U.C. L.A. で伊勢物語の授業に私も出 /,'j~したが, 日本の大学卒の学生が,文法上高度 な知識をもっている三世たちに打ち負かされている姿ー(英語で話をするのである)ーをみて驚いた経 験がある。

3)  白人の娘と結婚している三世が必ずしも日本拒否型とは限らないし,また,日本にやってきた三世 が日本人に英語を教えてあげようとしても, 「白人の英語でなくてはほんとうの英語でないから,教 わりたくない」といわれて,日本人がいやになった三世もいたし,また日本に来て生活していた三世 の主婦が, 日本語の発音が悪いために,八百屋などでカラカワれる(顔だけでは区別が出来ぬためと 思う)ので, 「もう二度と II本へ行きたくない」と私に話していた三1止もいる。

このほかに外面的なものだけを取りあげてみると,空手,剣道,茶道,華道や吾衰流などの日本舞

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日系アメリカ人(帥田)

これに対して, 日本拒否型である三世の親たちにも二種類ある。東部のようにあまり日系人の 居ない所に住む知識階級の家庭に育った三世,また,白人社会でも比較的高い地位にある親をも

.... 

ち,三世自身もハーバード,ニール, プリンストンなどの大学に入り.主として技術方面(法律 関係や政治家にはむかぬ)に進む者にこの型が見られる。もうひとつの型は, 二世である親が小さ い時に何か悪いことをすると,祖父母である一世が「日本の田舎に帰すぞ」と言って二世をおど したために,二世である親から日本という国は, 「力やノミが多く,人糞を畑にまいて,それか ら出来る野菜を食べている」と聞かされていたために, 日本を非常に不潔な国のように思って,

軽蔑している三世に多い。また,教養のない田舎者の二世,すなわち,ていさいの悪い服を着て,

移民英語を話し,世間体ばかりを,気にするような親をもった「比較的頭の良い三世」にも,こ の日本拒否型が見られる。彼らは周知の如く,少なからず自己嫌悪(selfhatred)⑤におちいって いる場合が多い。これらの人びとは日系人や日本から来た我々と話したがらないばかりか, 日本 的なものを非常に恥に思い,かつ劣等視する傾向がある。たとえば表69に見られるように,日本 文化については「もう十分だ」と答えている人びと,特に若い男性の三世には, 「もうイヤだ」

という者が,かなりの比率を占めている。同様に「日本語を話したいか」という質問に対しても,

日本語の出来ない三世の若者(特に男性)ほど, 日本語を習う気持がないことが調査の結果,明 らかになってきた。またこの拒否型の特徴として「親しい友達をあげよ」という場合に,日系人 以外の人種をあげている。⑥ところが,これらの日本拒否型の三世も,白人の社会に入ろうとして も,白人によって作られた人種的偏見や差別の大きな壁にぶちあたると,強いフラストレーショ ンの状態におかれてしまう。そして,このフラストレーションの原因が,白人社会の人種的偏見 や差別によるというよりも,むしろ自分が黄色い肌をした日系人であるからだと考えた場合に,

彼らは, 日系人社会をのろい,また日本的な文化に攻撃を加えてくる。しかし,これとは逆に,

自分たちが, いくら努力したとて, 白人社会に同化できず, 所詮そのことが無駄であることが わかると,黒人が白人に対して敵意をもつのと同じように,攻撃のほこ先を多数者集団である白 人の社会へむけることになる。 これこそ私が,この論文で力説しようとしている三世の Yellow

Powerの動きなのである。

周知のように最近三世はBlackPowerと同じような YellowPowerという運動をおこしてき Caucasoid,Mongoloid, Negloidの三基本人種は所詮「同化できないのである」という考え 方が出て来た。これらの人種が化合して中間色を出すよりも, Blackis  Beautiful. と同じように 踊などを習い, 「ハラキリ」や「カミカゼ」のことに興味をもち,天皇の写真を飾る。或る三世の女 子学生の場合には,三名でトラ・トラ・トラと日本語で書いた旗を高校の校庭にある星条旗の下につ るして,教師にしかられた者もいる(サンフラナンドにて)。 また日本食と日本志向型とは無関係の ように思われるかも知れないが,食物について少し触れてみると, 1日に1回はコメのメシを食べ ないと生きている気がしない」という一世はとにかくとして, 白人に「人糞と同じ匂いのするヌカ 祓」と嫌われているッケモノにも三世は苦心している。たとえば,パンの耳を水にひたし,塩と化学 調味料を加えて床を作り,キュウリを入れている等々。

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閲四大学『社会学部紀要』第 4 巻第 2~

Yellow is  Beautiful. という考え方である。すなわち日系三世は白人社会に「同化」するよりも むしろ「分離」して,同等な力をもって,社会的な地位を獲得しようと運動をおこした。このよ うな動きが目立ってきたのは郡検視局長 Dr.トーマス・ノグチの中傷事件の頃からだといわれ ている。 もちろん,この事件の参謀役や,戦争中,強制没収された日系人の預金 (450万ドル約 2,000名分)が返還される法案を通過させた (114'72)のも共に二世であった。しかしそれ らの二世を動かしたのは言うまでもなく若い三世たちの力であった。ただこのような三世の動き に対して, 「戦前の排日や戦中の体験をもったわれわれにとってはクダ驚異としかうつらない」

という二世もいるし更に「なにも騒ぎたてずにおとなしくしていればよいのに」と三世の動きを 苦々しく思っている二世も多い。

この原稿を書いている途中に, 未刊ではあるが, K.M. MaykovichR 1115日のゲラズリ が私の手に入ったので,その本の一部を紹介してこの概要を終えようと思う。現在の日系三世の 学生は, 日系三世代について 3B'sに分類している。一世が Bambooで,二世が Banana, 世が Beeであるという。一世は,一見「か弱い」ようにみえるが,しかし強い風に一度は曲げ られても,またもとの「マッスグな姿」にかえり,しっかり根をはった竹のようなものである。

ところが,二世は,白人に同化しようと一生懸命になってきたが,中身は白くとも,皮膚はやは り黄色いバナナのようなものである。これに反し,三世は,非常に行動的で,黄色と黒のシマ模 様をした, しかも鋭い針をもった蜂のようなものであるという。更に,この三世代は 3Y's も分かれるという。一世代は YellowPeril (黄禍)で白人から泣かされ二世は thewishywashy 

Quiet American "といわれた YellowPansy (コシヌケ)だという。そして,三世は Yellow Powerの動きをみせてきている。

私が或る日系三世に「あなたは, JapaneseAmericanですか。」と尋ねたところ,「私は Asian Americanである」と言って, <ってかかられたことがある。最近, Japanese Americanと言 われることを嫌う日系三世が現われてきているし,また, I.T. A. (Involved Together Asian) 

というグループができて,今年の正月にロサンゼルスで餅つきをしているのを私は見た。

序章 パ イ オ ニ ア の 歴 史 的 背 景

アメリカの移民を歴史的に見た場合,まず,明治元年組が153名(正確な数字は不明)ハワイ に移民する。しかし,彼らの殆んどが26 7歳の職人などであったために,砂糖ギビの農作業に は適せず,中には自殺するものもあらわれ, 日本政府から移民召還の問題がおこり, 1870年にそ のうちの40名ほどが日本へ帰った。しかし,約100名近い人びとがハワイに残り,パイオニアの 元祖となる(そのうちの相当数が1900年頃からの大陸の転航時代にアメリカ本土に転住した)。

他方スネールに連れられた若松入植団 (Wakamatsu Colony)が明治2年に米国のカリフォル ニア州のElDorado Countyに着いた。これが米本土移民のハシリであった。これらの三十余名 の中には,•徳川方に味方した会津若松の松乎の家臣がかなり含まれていた。 実は, この集団は

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日系アメリカ人(前田)

その後若松から移民しようとした人びとの先遣隊のようなものであった。ところでこの一行の中 に「伊藤けい」という娘がいたという話から「おけい」という小説(現在週刊朝日で連載中)等 があらわれ, 日系の一世や二世の間では,彼女の名前を知らぬものはないほど有名である。ただ ここに二つの疑問がある。その一つは,若松の人々を連れて来たスネールという人物には二種類 出てくる。 J.Henry SchnellEdwardW. Schnellである。 J.H. Schnellは赤羽 Schnell 言われ幕軍の軍事教官として赤羽で活躍していた人であり,他方, E. W. Schnell1904年に

日本に居たことが明らかであるというところから,若松コロニーに移民を連れて来った者は前者 であったと思われる。また前記の「おけいさん」については,当時のセソサス (1870 Coloma Census)には, 彼女の名前が見当たらない。彼女が有名になるのは, 1930年代, サンフラソシ

スコで,新聞記者をしていた W.Kawamuraが彼女について書いたものから始まる。私も昨 年の夏に GoldTrail Schoolの裏山にある彼女の墓を訪れた。墓には「日本皇国明治四年

日」とあり,月日が記載されていなかった。これはかなり後になって作られたもののようである が,墓の台(基壇)はかなり古いものであり,それは確かに明治初年のものと思われた。それに 溝を掘って新しい墓碑をさしこんだようである。 さて GoldHill600ェーカーの土地に桑樹 や茶の栽培を始めた移民たちは,しばらくして,つぎつぎに熱病で倒れ,残りの者も,ちりちり ばらばらになってしまう9

このような出稼組に対し,かなり教養の高かった留学組もパイオニアの中には沢山あった。日 系人の農業の元祖といわれた長沢鼎は,薩摩藩からの留学生である。ただ留学組について考察す

ると,明治の初めは可成り上流階級からの留学生が米国に来た。しかしその後は, 日本における 上層階級の留学生はヨーロッパに行くようになり,米国ではむしろ,苦学生といわれる人びとの 留学組が増加してきた。明治17年に, もと印刷工をしていた片山潜が米国に来て,ニール大学を 卒業したのもその一例であろうし,また彼がその後, 日本で著わした「渡米学生案内」などが,

当時の苦学生を米国に送り込んだ原因になったのかも知れない。

他方キリスト教徒と移民との関係も見逃せない。山口県の美山貫ーは,中国伝導総理ギプソソ を頼って渡米し,その後, 日系人を集めて在米日本人「福音会」を作ったのであり,その後も多 くのクリスチャンたちが日本から来ており,特に日本で洗礼をうけた明治のハイカラ娘の多いこ とも無視出来ない(表 66)

次に再び,ハワイの移民に目を転じると,前記の元年組から17年間, 日本からの移民は皆無で あった。そして, 1885 (M.18)から, 日本政府がハワイに送った官約移民時代に入る。明治 17年政府は全国から移民を募集した。その際約28千名が応募したそうである。そして,その この集団の以外に,他の日本人がぼつぼつ西部にやって来たことは, 1873(明治6年)サンフラン シスコの日本領事館の記録をみれば明らかである。すなわち当時,カルフォルニアに住んでいた日本 人は,男68名,女8名と子供4名であった。そして,これら移民の殆どは白人の家庭で働き, 1カ月 10ドルほどの給料であったという。

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(11)

関西大学『社会学部紀要』第4巻第2

中から945名(男676,159,子供110)が第1官約移民として,ハワイに来た。ここで特籠し なければならないことは,各県から集められた移民の分布である。というのは,現在米本土にい る三世の祖先が殆んど広島和歌山,山口,福岡,熊本で占められているにもかかわらず,当時 の移民を出した各県の移民の数は, これとはかなり異っていたからである。すなわち,その当時 100名以上の移民を出した県は,広島 (612),山口 (481),熊 本 (278),福岡 (149)4県で,

次いで滋賀 (77)と神奈川 (70)であり, 現在「イコラ会的でにぎわっている和歌山県などは,

7番目の僅か56名であった'I)。(政府は元年組の失敗から選考の基準を農民に置いたとの説もある)

その後, 1894(M. 27)までの9年間に, ハワイに来た移民は,男23,340名,女5,799名の多 きにのぼった見 ここで問題になるのは,官約移民でも出稼組といわれた者の中には, 日本へ手 紙もかけぬ無学文盲が多かったということと,東北や関西,九州地方の者はお互に語る言葉がナ マリの強い方言であったために,他の地方の者とは話が合わず,いきおい同じ国のもの同志が集 まるという現象が発生したことであった。そのことがやがて各県の出身者の数に大きな変化をも たらすことになった見 以上のような出稼組以外にも,かなりの知識層といわれた医師や宗教家 もこれら移民団に付き蔀って来ている呪 そして, 1894 (M.27)6月,三池丸の移民船を 最後に官約移民は終わる。

ただ,同じ日本の中で, どうしてこのように各県ごとの出身者が大きく異なっているかという 問題を解決するのは困難である。米国の学者たちに「これらの移民が多く出た県は貧しかったの か?」 「漁村と山村とのちがいからか?」とか「明治維新の新政府の影響によるものか?」など

と私は尋ねられて困ってしまった。

日本の学者たちによって,米国への移民が多数出ている村落に対して,すでに,かなりの調査 が行なわれている。たとえば,市原亮平教授の太地町の「移民母村の漁業構造と人口問題」や,

福武直教授が編集した三尾村の「アメリカ村」などがある。このほか山口県や高知県などでも実 態調査が行なわれて来ているし,また,広島県の「仁保村誌」のように,移民のことを取り扱っ た地方誌が多く出版されている。

〇 イコラの語源は「連れだって一緒に行きましよう」という「ツレモテ,イコラ」から来たもので,

和歌山県には更に太地人会,田原人会,江住人会のようなサプ・グループが多い。

次いで,新潟幽,東京僻,岡山(測,千葉$2),静岡⑳,大阪(19),三重(16),群馬(12),愛知(9),埼玉(5), 岐阜(5),富山(4),福井(3),岩手,兵庫,京都,島根,鹿児島が各2名,福島,宮城,石川,長野,高 知,栃木,長崎が各1名であった。

8)  また子供に関しては,これらの移民にともなわれて来た子供と更に 9年間にハワイで生まれた子供 1305名(男632,673)を加えると,約2,000名の子供が居た。そして,これらのうちの何名かが,

後に米本土に来て我々の研究対象である一世になることを記しておく。

9)  明治18 27年の間,人口で第1位を占めたのが広島県の11,125名で,次が山口県の10,487 熊本 (4,249),福岡 (2,182), 新潟 (521),千葉 (112),滋賀 (81),神奈川 (78), 岡山 (64), 歌山 (58),東京 (44),石川 (30),鹿児島 (28),静岡 (26),大阪 (19),三重 (18)となる。

10)  1893年までには,更に15名の医師が加わり,宗教家も13名やって来ており,このほか商業方面に活 躍した多数の知識人がハワイに来ている。

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(12)

日系アメリカ人(前田)

しかし,漁村が衰退したために,若者たちがその村を去って出稼ぎに行く場合,東京や大阪の ような日本の国内にとどまるところと,遠くアメリカや南方の国々まで出て行くところとが,各 漁村によって,異なるのはいかなる理由によるものであろうか。更に,農村の疲弊という現象を とってみた場合,なぜ東北地方の人はあまりアメリカに移民しなかったのか。また, 「船」とい うのは,海のハルカ彼方に「人」を行きたがらせるという大きな機能をもっていたのであろうか。

或いは瀬戸内海に浮かぶ島々の人びとは,宇宙飛行士が月にあこがれるように,千里の波をケク テルことを好んだのであろうか。 たしかに, 和歌山県の太地町に住んでいた石垣栄太郎氏が,

「太地から米国は海続きであり,父がいる米国はそんなに遠い国とは思わなかった的とか, た,周防の大島郡民が大正時代には島民の約1割にあたる 5千名が米国にいた⑩ことなどを考え ると,漁村や小島に住む人びとにとっては,海というものが外国との壁になっているというより は,むしろ外国へ容易に行けるハイウェーのようなものであったとも考えられる。また,昔から 異人を見なれていた地方の人びとや,キリスト教信者にとっては,外国はエトランジェであると

いう意識が薄かったとも考えられる。

しかし,私が調査に行った和歌山県の「紀の川」ぞいの農村のように,一つの村から数名づつ しかアメリカヘ移民していない場合などは, どのように説明していいのかわからない。私にとっ ては, 日本の移民県でなさねばならぬ調査が山積されているが,これらに関しては,今後の研究 課題としたい。

さて,官約移民のほかに私約移民というまことにやっかいな移民の方法があった。周知のよう に,官約移民が廃止される 2 3年前から移民の周旋屋がぼつぼつあらわれ, 1900年までの僅か 6年間に約41,000名(女子約5,000名)の私約移民がハワイに運ばれたのである。ジャワやボル ネオに運ばれて行った明治時代の「からゆきさん」と周旋屋との関係を無視することが出来ない と同じように,東京,横浜,大阪神戸,熊本の各地に設立された民間移民会社の動きも無視す ることは出来ない。

ところで1896年頃からハワイの日系人には大きな動きがあらわれてきた。それは,米大陸への 転航者の激増であった。カルフォルニア方面の鉄道工事や農園などで働くほうがハワイにいるよ り金銭上の条件が良いという情報が流れたからである。 <行こうかメリケン, もどろうかジャパ , ここが思案の,ハワイ国〉という, あの HoleHole節が歌われたのもこの頃であった。た , ここで最も注意せねばならないことは,何故に米本土で日本の労働者を求めたかということ である。それは1890年頃から(中国人の移民禁止が反映して),.農園, 鉄道, 鉱山などの工夫が 不足したために日本人がその労働力の資源として喜ばれたからであるII)。 ところが,賃金の低廉,

11)  周知のように,中国人が米大陸に移住した歴史はかなり古く, 1865年頃からアメリカにやって来て 大陸横断鉄道工事に働いて良い成績をおさめたし,また,太平洋沿岸の各地で農工商に活躍して;市 民権などを附与された。しかし,大陸横断鉄道が出来あがる頃になると,東部にいた白人の労働者が 西部に移る傾向が出てきた。まさに"go west young man "であった。ところが,低賃金で働き,

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表 1 一世調査対象者の比率 N=1047  祠 g 翌 男 女 全 体 <50 オ 0 . 1 4  % 0 . 0   % 0.10%  <60 オ 6
表 2 5 二世や三泄はプロモート をさまたけられたか 二 祉 に つ い て : : : : 戦 は ‑者Very much  ‑w3.6・   8‑= = 1 . 1 1 :9    0=: 

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