小口雅史編﹃津軽安藤氏と北方世界‑藤崎シンポジウム「北の中世を考える」‑﹄
中村和之
l 榎森進アイヌ民族と安藤氏
第二部シンポジウム
小口雅史(司会)北の中世を考える
第三部シンポジウム参加記
いま、安藤氏が注目されている。一九九三年には'安藤氏を主題とす
るシンポジウムが相継いで開催された。三月に青森県藤崎町で「藤崎シ「‑一ンポジウム・北の中世を考える」が開かれ、十月には青森市で第十四
()一)市浦シンポジウム」が開かれるという盛況ぶりである。本書は、藤崎
シンポジウムの集録であ‑、七百名を超す参加者の熱気であふれた、当
日の雰囲気がいきいきと記録されている。
本書は'三部構成からなっている。以下にその内容を示す。 平川新
菊池徹夫
湊学 ﹃藤崎系図﹄と﹃秋田系図﹄の関係
北の中世を垣間見る
安倍一族の末高に生まれて
第一部基調報告・講演・コメント
小口雅史
遠藤蕨
入間田宣夫
斉藤利男・小山逸彦
佐藤仁
大石直正 津軽安藤氏の歴史とその研究
安藤氏と津軽の世界
鎌倉建長寺と藤崎護国寺と安藤氏
藤崎城とその周辺(コメント)
板碑と中世藤崎(コメント)
平泉藤原氏と津軽安藤氏 このほかに、小口雅史氏らの執筆によるコラム「安藤と安東」「唐糸
伝説と藤崎」「蝦夷管領」「十三湊と安東氏」「よみがえる日之本将軍の
城」と、遠藤巌氏の「安藤氏関係略年表」が付せられるという行き届い
た編集となっている。
本書の中核をなすのは、第一部の小口雅史氏の基調報告と、遠藤巌・
入間田宣夫・大石直正・榎森進氏の講演である。基調報告は、これまで
の安藤氏に関する研究史を手際よ‑整理し、さらに安藤氏の略史とも
なっている。なお'遠藤巌氏以下の講演については、小口氏が「まえが
き」で簡単に触れておられるほか'菊池徹夫氏が「北の中世を垣間見
る」のなかで内容を簡潔に要約されている。
本書には、多方面から安藤氏の実像に迫ろうとするアプローチが提示
されている。本書で示された数多‑の論点を取‑上げ、それらに論評を
加えることは、筆者の能力のとうてい及ばぬ作業である。そこで本稿で
は、東北アジア史の視点から、本書に関わるい‑つかの問題を論じ、紹
介の責を塞ぐことにしたいと思う。
Ⅲ
これまでも多‑の論者によって指摘されてきたように、十三湊を中心
とした安藤氏の活動は'日本海交易の発展を基盤としたものであった。
またこの時期は'元朝・明朝がアムールランドに勢力を伸ばした時期と
重なってお‑、安藤氏と中国王朝の活動が、北海道やサハリンにどのよ
うな影響を及ぼしていたかが注目を集めてきた。
この問題について、榎森進「アイヌ民族と安藤氏」は、﹃元史﹄﹃元文
類﹄などの記述により、元朝の骨鬼(ku‑kuyi=アイヌ)征討と'﹃日蓮遺文﹄にみえる文永五(二一六八)年の「ゑぞ」蜂起との関連を
示唆されている。また'明朝がアムール川下流に設置した奴児干郡司が'
サハリンにも三つの衛を設置し、これらの衛の内「波羅河衛」は明末の
万暦一一(一五八三)年にいたるまで、「襲職」を要請していたと指摘
する。榎森氏の見解は、元・明朝のサハリン・アムールランドにおける13」(‑)政治的影響力を、和田清氏や洞富雄氏の所説よ‑も'安定度の高いも
のとして評価するところに特徴がある。特に'宣徳九(一四三四)年以
降、奴児干郡司の機能が事実上停止したのちも、明朝に対して官職の世
襲が申請されていたとすれば、当然朝貢も継続されていたことになる。
この指摘は、山丹交易の開始時期とも絡んで、重要な問題提起である。
ただし、明朝のアムールランド経営が、どの程度継続性を持ったもの であったかについては、さらに検討の必要があろう。永楽二(一四l
≡)年、明の太監・亦失吟は「土民教化」のため、奴児干郡司に永寧寺
を建立した。この経緯を記した「勅修奴児干永寧寺碑記」は、宣徳八
(一四三三)年に永寧寺を再建した時の「重建永寧寺碑記」と共に、明
初のアムールランドを知る上で、基本史料とされるものである。さて、
これらの碑文の記載によれば、奴児干郡司は永楽の末年には弱体化した
ようである。永寧寺も破壊されてしまったため、再建する必要があった
のである。このように'明朝の影響力は安定的であったとは思われず、
さらに、奴児干郡司の停止後'「襲職」がどのように行われていたかに
ついても不明な点が多い。
また'元朝が北京を放棄した一三六八年以降'モンゴリア・マンチユ
リアでは元・明両軍の激戦が続いたが、l三八七年'マンチユリアの元
軍が崩壊したため'アムール川下流に駐屯する元軍は孤立した。この結
果、サハリンにおける元朝の勢力は'急激に後退したとみられる。アイ
ヌのサハリンへの進出は、この空白を埋めるかたちでなされたと思われ
るが、元・明交代期という束アジアの大変動が'日本列島の北方にどの
ような影響を及ぼしていたのかを明らかにすることも'「北の蒙古襲来」
の実態を明らかにする上で重要な課題であろう。
79
Ⅲ
安藤氏の北方地域への認識については、一四七一年に朝鮮で編纂され
た日本・琉球の地誌に'申叔舟﹃海東諸国紀﹄に次のような興味深い記
述がある。
窃に観るに'国の東海の中にあるものはl.に非ず。而して'日本は
最も久し‑'且つ大な‑。其の地は黒竜江の北に始ま‑'我が済州
の南に至‑、琉球と相接Lt其の勢い甚だ長し。
ここには、日本の北方を「黒竜江の北」にいたるとする認識が示され
ているoこれは'サハリンが日本に属すると考えられていたことを示す
が'﹃海東諸国紀﹄が編纂されたl五世紀は'明の奴児干郡司経営が行
われていた時期であるから'この認識は、明朝からの情報を基にした可
能性がある。ところが'明代に残された'サハリン及びアイヌについて
の記述からは'日本との関係を窺わせるものは兄いだせない。明代の地
方志で'一四八八年に刊行された﹃遼東志﹄巻九㌧外志'建州、には、タイヌルナノうrt.]二・∵ノあからたノ\まかれ1イ苦冗は奴児千の海の東に在る。身は多毛で'頭に熊皮を帯び'・t〃▲つた,47㌦も‑き止ェやい、/ノしてくあま.Tや∵りぬあた身に花布を衣る。木弓を持ち'矢は尺徐'毒を鉄に塗‑'中かならす」′ノ.ふっ!.ノなJ.そうえ‑されば必死ぬ。器械は堅利である。父母が死ねば'腸胃を劉‑去‑tLノしいかわ刀てはい‑り二九せおいんしこノ\かな▲つまつ∵ゆうきょ屍体は曝乾して'出入に之を負い、飲食に必ず祭皇居処
では郵て姉いない,緋二三年し,配る衡おを軒てる。
という記述がみえる。苦九とは'骨鬼と同様にk亡ご‑kuyiの音訳であ
り、アイヌをさす語である。苦九の矢が一尺余‑(明代の一尺は三
二cm)で毒を塗ることなどは'近世アイヌ文化期の矢が四〇cm程度であ
ることから'アイヌのことを記したものと考えられる。ミイラ造‑とみ
られる部分については'よく分からないが'いずれにせよ日本との関係
を窺うことができる記載は全‑ないのである。従って'先の﹃海東諸国
紀﹄の地理認識は明朝からのものではな‑、日本から対馬などを経由し てもたらされたと考えなけばならない。
そこで注目されるのが'一四八二年に朝鮮に偽傍を遣わした「夷千
王遇叉」の書契にある「野老浦」である。この夷千島王について'遠
巌「安藤氏と津軽の世界」では安藤政李とされているが'アイヌの首
とする見解や'対馬の宗氏などとする見解もある。夷千島王の版図の
端にあるという「野老浦」が「オランカイ」(中国東北地方)である(5)すれば'サハリンやアムール川流域についての地理認識が'日本側
あったことの証左になる。そしてその認識は'「渡党」蝦夷や「唐子
蝦夷を支配下に置く'安藤氏のものであったと考えなければならない
安藤氏の北方に対する知識は'驚‑ほど広‑かつ正確であったことを
うことができる。
Ⅳ
安藤氏の位置づけについては'これを蝦夷とする見解と'蝦夷を統
する職務についているのであ‑蝦夷ではないとする見解との対立があ
大石直正「平泉藤原氏と津軽安藤氏氏」は、平泉藤原氏や安藤氏を「境
界権力」としてとらえ'このような見解の対立自体が'境界的な政治
力の持っていた両義性の結果であるとする。平泉藤原氏・安藤氏から
崎(松前)氏にいたる北辺の勢力を「境界権力」とみる見解について(6)菊池勇夫氏も近著﹃アイヌ民族と日本人﹄において論じられている。
さて'この「境界」領域に対する日本と中国の政策を比較してみる
そこには類似点がい‑つかある。遠藤巌「安藤氏と津軽の世界」では