佐野鉄道の成立と展開
中川 浩一*・吉田眞理子**
(1992年10月7日受理)
On the Foundation and Development of the Sano Railway Co. Ltd.
Koichi NAKAGAwA*and Mariko YosHIDA**
(Rece童ved October 7,1992)
大手民営鉄道の一員を構成する東武鉄道の路線網に組みこまれている佐野線(館林一上白石)1>
は,明治21(1888)年,栃木県安蘇郡内の葛生地区で産出する石灰の搬出を主目的に開業した安蘇 馬車鉄道を根源とする長い歴史を持ち,東武鉄道が経営する鉄道路線では,最古の存在である。
現在の佐野線は,地域住民の生活路線,とりわけ沿線で市街地を構成する館林,佐野,葛生に位
置する公私立高等学校へ通学する生徒たちにとって,必要不可欠の存在であるけれど,当初の目的 ,
である石灰産出に寄与する役割は,大幅に減じるに至った。
安蘇馬車鉄道に始まり,佐野鉄道への改組によって,地域社会の要望に大きく寄与した鉄道路線 は,やがて内陸部での貨物輸送体系の変化に対応して自らの体質改変を手がける中で,大資本の企 業に吸収される形で,独立の地位を失ったのである。
1.葛生石灰工業の発足
足尾山地南東部に埋蔵する石灰岩を採掘のうえ焼立てを行い,生石灰,さらに消石灰2)を生産す る石灰焼立業は,約380年前の慶長年間に始められたと伝えられる。当時,石灰は近郷の農家で肥料 として用いられるほか,藍染めの仕上りを鮮かにするための補助剤としての用途を持っていた。
その後,寛永年間には江戸城改修の素材として,また日光東照宮造営に用いられたと伝えられ,
明和3年(1766)の江戸城火災の復旧に際し,資材として重要な役割を果たすに至った。そのた め,建築用石灰上納が賦課されている。
当時,石灰焼立ては農間副業の形で行われ,「つぼ窯」とよばれる横窯を用いて,1回の焼立てが 50〜60貫(200㎏前後)で大窯でも200貫程度にすぎず,需要の増加に対応しきれぬ場合もあったと
*茨城大学教育学部社会科教育講座(〒310水戸市文京2丁目1−1).
**F都宮大学大学院教育学研究科修士課程(〒321宇都宮市峰町350).
54 茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)42号(1993)
伝えられる。
建築資材としての石灰に肥料としての用途が大巾に期待される様になったのは,天保年間以降と 称される。凶作時に,葛生地区で産出する野州石灰を使用した水田では,収量減小を喰いとめえた 事実が,石灰に対する需要増大を培った。けれども従来の「つぼ窯」では,生産量増加をなし得な かった。こうした状況の中で技術革新が試みられ,「谷焼窯」が出現する。「谷焼窯」を用いると,
50,000貫(5,000俵)の生産が可能になった。
「谷焼窯」の出現は,原石採掘の活発化を促し,文久3年(1863)以降は火薬の使用をみるに至 り,さらに燃料としての薪木の確保も必要となる中で,業務の分業化が促進され,経営にも企業と しての色彩が色濃く現れたのである。
建築資材としての石灰は,耐火建築用として重視され,土蔵塗壁建築に欠くことのできぬ存在で あったが,耐震力はなく,そのため安政年間の大地震には抵抗力をもたず,ために需要減をきたし て幕末を迎えたのである。そうした状況の中で明治に入ると石造建築,煉瓦建築の流行をみるけれ ども,殖産興業策の一環として官営工場による操業が行われるセメント製造が,葛生地区で産出す る石灰に新しい需要を開くことになった。
葛生地区で生産される石灰を,建築資材として大量に消費したのは,江戸一東京市場であった が,独占的な供給を行うには至らず,関東山地で産出する青梅地区の石灰に加えて,貝殻を原料と する石殻灰と競いあわねばならず,需要減退期には乱売によって,より一層の値崩れを生じたりし たのである。そのため,販売,価格統制の必要が痛感され,明治7(1874)年には石灰商社が設立 され,同20年には安蘇郡石灰同業組合の設立が行われている3>。
2.石灰需要の急増と輸送手段とのかかわり
葛生地区で生産された石灰の江戸への搬出で,最も一般的な経路は,葛生一田沼一佐野一越名の 経路で駄送のうえ,越名河岸で舟運にゆだねる方式であった。秋山川に設けられた越名河岸は,渡 良瀬川水系で最上流に位置し,関東三大河岸のひとつに数えられた。秋山川から渡良瀬川を経て利 根川にでて,関宿からは江戸川を南下し,河口近くで新川に入り,小名木川経由で深川に至ること になる。明治になってもこの方式が踏襲され4},明治14(1881)年11月には,越名河岸に隣…接する笹 良橋まで,内国通運が運行する外輪蒸気船の通運丸が就航している )。
こうした中で,葛生地区で産出する石灰に大量の需要をもたらすのは,官営セメント工場の払下 げを基盤に,セメント工業に進出した浅野総一郎(1848〜1930)が,事業拡張に伴う石灰焼立窯へ の原石供給を求める方策であった。それまで,セメント工場へは山元で焼成した石灰が納入されて いたが,以後は石灰石(原石)に対する需要が急増し,駄送にもとつく越名までの搬出では充分に 対処しえぬ事態が出現する。
また石灰焼立て技術についても,焼立てごとに窯を築造する必要のあった「谷焼窯」にかわっ て,燃料に無煙炭を用い,連続焼立を可能にする「七輪窯」が美濃赤坂から,明治21(1888)年に 導入され,生産量増大に役立った。反面,燃料の自給は不可能で,東京方面からの導入が必要に なった。かくして,輸送力の増大が葛生地区での石灰・石灰石産出にとって,必要不可欠の手段と
なるに至った6}。
わが国の鉄道史研究にかかわる基礎文献としてのr日本鉄道史』(1921年)は,中篇471ページに
「佐野鉄道」の項を設け, 明治21年栃木県下ノ有志相謀リ安蘇郡葛生ノ特産物タル石灰ヲ搬出ス ルノ目的ヲ以テ安蘇馬車鉄道会社ヲ起シ葛生ヨリ佐野ヲ経テ越名二至ル軌間3眼6吋ノ軌道ヲ経営 シタリ との記事を収めているη。
ところで運輸営業を営む鉄道がわが国で創始されたのは,明治5(1872)年であったが,動力を 馬匹に求める馬車鉄道は,明治15年6年25日に創業した東京馬車鉄道が創始である。この鉄道は,
市街地内部での交通需要に対応し,旅客輸送専業であった。線路は既設の道路に敷設され,徒歩す る人や人力車,馬車と道路を共用する馬車軌道の方式をとっている8>。ついで開業した馬車鉄道は,
明治21年8年9日に横川一軽井沢間を結んだ碓氷馬車鉄道で,官設鉄道の未成区間連絡を目的にし た。線路は,国道上への敷設が原則であった。同年10月1日,官設鉄道国府津駅と箱根七湯のひと つ湯本を結ぶ小田原馬車鉄鉄道が開業するが,この場合にも,線路は国道(東海道)に敷設される。
小田原馬車鉄道は,観光客(湯治客)の輸送を目的にしたと解される9)。
これに対して,安蘇馬車鉄道は石灰輸送を主目的とし,線路は専用の土地を買収のうえ敷設する 一 方式を採用した。以後,馬車鉄(軌)道は,秋田馬車鉄道(明治22年),富士馬車鉄道(明治23 年),上毛馬車鉄道(明治23年),川辺馬車鉄道(明治24年),三春馬車鉄道(明治24年)の順で開業 するが,貨物輸送重視の事例は僅かとみたてられる1の。
3.安蘇馬車鉄道の開業と展開
安蘇馬車鉄道の開業に先立ち,上野・下野に展開する蚕糸・機業地を日本鉄道に結んで,東京・
横浜との連絡に資する両毛鉄道が,明治21(1888)年5月22日に小山一足利間で開業し,中間駅と しての佐野停車場が開業するID。
両毛鉄道の開業によって,葛生地区は越名河岸経由に加えて,佐野停車場を介する鉄道輸送の方 策を持つに至った。こうした事態の到来をみこして,明治20年には吉澤兵佐,湧井藤七,清水多一 郎などの発起による木軌道馬車が企画され,葛生から田沼を経て佐野停車場までを第1期,佐野か
ら越名河岸までを第2期とそれぞれわけての建設が目論まれた 2)。
計画は翌年2年28日に,「安蘇馬車鉄道創立御願」を栃木県知事に提出する形で具体化した。資本 金は,8万円である。これに対する特許は,同年5月9日付で「馬車鉄道築造ならびに営業免許命 令書」となって交付される13)。
安蘇馬車鉄道会社は,明治21年6月に役員会を開き,社長を筆頭株主の内田熊五郎と定めたほ か,車両,レールの購入先を,小田原馬車鉄道に対する実績をもつ東京府所在の和英商会と定めて いる。測量は8月から始め,9月26日に起工式を実施した。
用地買収は10月から開始したが,価格のおり合いがつきにくく,難航する事例が多かったと伝え られている14)。工事は買収交渉成立の土地から順次に始め,明治22年6月23日に葛生一田沼間で部 分開業を行い,同年8月10日に第1期区間,ついで翌年1月25日,全線開業を実施するに至った 5)。
56 茨城人学教育学部紀要(人文・村会科学, 芸術)42琴 (1993)
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図2 安蘇馬車鉄道当時の越名河岸 出典r写真でみる東武鉄道の80年』
地形上で特に難航する個処はなかったが,秋山川への架橋に手まどった結果,現在も葛生停車場 が位置する地点に達したのは,明治23年4月とされている。また,両毛鉄道との交差地点では,橋 梁工事に手間どったという16)。葛生一越名河岸間は,9哩56鎖であった。
こうして全通には至ったものの,安蘇馬車鉄道の経営は安定しなかった。原因のひとつは,主要 な貨物である石灰の輸送量が変動はなはだしいことに由来する。肥料としての用途が大きかった石 灰は,5・6月,10・11月に多く出荷され,残る8か月間との量的な相違がはなはだしかった。そ のことへの対応では,取扱品目にコークス,石灰,木材などを加える多角化と1区2銭4厘の旅客 運賃を2銭に切り下げての輸送需要掘りおこしを計ったほか,大荷主である浅野総一郎に対する協 力要請が行われている。
その結果,浅野総一郎と安蘇馬車鉄道との間に,相互に責任分担を定めた契約書が取りかわされ る。浅野は,石灰原石採掘場を葛生地区大叶に開く一方,安蘇馬車鉄道は線路を延長してその輸送 に対応する中で,1月1万貫から2万貫の石灰を,佐野停車場もしくは越名河岸停車場に輸送する 責任を負うと定められた。石灰産出量が1万貫以内の場合は,浅野側が差額運賃を支出し,反対に 馬車鉄道側の輸送能力が1万貫に達しえない場合は,補償に応じる定めである1η。
この様に,安定した輸送需要を得たものの,安蘇馬車鉄道の経営では,支出が収入をうわまわる 状況が継続した。r日本鉄道史』中篇には, 事業予期二違ヒ収支相償ハズ将二窮境二陥ラントス
との記述がなされている18)。
4.安蘇馬車鉄道の営業状況
r安蘇馬車鉄道会社実際報告』第4回は,安蘇馬車鉄道全線開業直後の状況を,1月の貨車運行 160両が,2月に217両,3月:269両,4月:486両を順次増加を記載する。以後,明治23年上半期 から25年下半期に至る6期についてみていくと,どの期においても,運搬収入は支出を上まわった が,明治24年下期では,6,000円近い運輸収入に対し,収益は僅か74円にとどまった。収入の2%に も達しない小額である。最も益金が多かったのは,明治23年下期であったが,益金は1,739円で,収 入の1/4程度である。この時点での貨物輸送量は3,796,436貫,乗客23,117人であった。これに対し て,輸送量が最大となるのは明治25年下期で,貨物4,411,555貫,乗客34,089人に達したが,利益は 1,000円に達していない。収入は,明治23年下期に及ぼない状況が読みとれる19)。
運輸収入に占める貨物と旅客の割合は,会社設立の目的からも明らかな様に,貨物収入が旅客収 入を大巾にうわまわった。貨物収入は期による変動が大きかったが,旅客収入は期ごとに漸増の傾 向を示した。それでも,明治25年下期において,貨物収入が6,000円近いのに対し,旅客収入は 2,000円未満である。貨物の内訳は,石灰原石が最も多く,ついで生石灰となる。3位以下に,石灰 ならびにコークス,製氷,消石灰,木材が計上されるけれども,量的には僅かである。
この様に,どの期においても,経常収支は黒字を計上したにもかかわらず,r日本鉄道史』中篇に 収支相償ハス と記載されるのは,設備投資を行うに当たって,それを自己資金でまかなえずに 借入れを行い,その利払いに要する金額が,益金の範囲に納まらなった事情によるのだろう。
前記した浅野総一郎との契約に際しても,6,000円を借りうけて,線路の改修や延長を行ったと
58 茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)42号(1993)
されている19)。 該当年度についての記述を欠くが, 収入の中から諸経費,借入金利を差し引く と,年間2,600円以上の赤字がでる始末であった との指摘もある2°}。
安蘇馬車鉄道が大きな赤字をだし続けた原因は,主要な輸送貨物に含まれる生石灰の輸送量が,
季節的に大きく変動するにもかかわらず,輸送動力を構成する馬匹を最多需要に見合う頭数として 揃えていなければならなかった事情に由来する。輸送需要減退時に遊休する馬匹にも,常時飼育す
る経費を支出させられたからである。
この間の事情を,期ごとにみていくと,明治24年上期の場合には,飼育頭数に占める使役馬の割 合は6割程度であり,休馬が3割をこえていた。残りが病馬であり,病馬対策として獣医の手当も 必要であった。休馬の状況は,月によって大きく異っている。明治23年の状況についてみていく と,飼育頭数は,29頭から45頭と巾がでる中で,輸送繁忙期の5月には,32頭の飼育頭数に対して 使役馬29頭,休馬1頭,病馬2頭であったものが,休閑期に当たる8月には,飼育馬41頭の中で使 役馬は僅か21頭にとどまり,病馬が10頭をこえている。休閑期に病馬がふえるのは,繁忙期におけ
る過重使役と関係しよう。こうした状況に対して, 輸送量が一定しておれば問題はなかったが,
石灰はいぜんとして4か月に集中して造られるため,他の8か月馬は全く遊んでいた との説明が
なされている21)。
5.安蘇馬車鉄道から佐野鉄道への変遷過程
使役馬に食いつぶされての赤字継続に対しては,やがて 有志者中之ヲ軽便鉄道二変更スルノ利 ナルヲ唱導スルモノアリ との対応があったとr日本鉄道史』中篇に記されている22)。r100年のあ ゆみ』によると,「馬車ハ当地二適セズ」との建議案を会社に提出した吉澤兵左たちが,日本最初の 蒸気動力軽便鉄道(軌問2灰6吋)を明治21年10月28日に開業した伊予鉄道を視察しての結論で
あった。
建議案を受けて安蘇馬車鉄道では,動力を変更して蒸気鉄道とすること,新株を募集することが 定められた23>。このことに対する官庁手続は,逓信・内務両省に対する動力変更願出となり,これ に対して政府は,明治26(1893)年4月13日付で,私設鉄道条例にもとつく免許状を交付するに 至った24)。一方,安蘇馬車鉄道は,明治25年9月に解散を定め,資産を資本金145,000円で設立され る佐野鉄道に引き渡している25)。
伊予鉄道は軌問2呪6吋であったが,安蘇馬車鉄道の線路を引き継いだ佐野鉄道は,3沢6吋軌 間を踏襲した。ただし,ドイツのクラウス機関車工場から購入した2両の蒸気機関車の性能は,伊 予鉄道で使用の四輪連結タンク機関車と基本的には変っていない26}。葛生一越名河岸間の改修を終 いえた佐野鉄道は,明治27(1894)年3月20日に蒸気鉄道の開業を実施した。 機関車の威力はすぼ
らしく,最盛期には臨時列車を運行して,これまでなら捌き切れなかった貨物も楽々と運搬した
由である2η。
蒸気鉄道への改築にあたり,安蘇馬車鉄道は前年11月1日以降,運輸を中止していたため,山元 には滞貨が充満していたが,馬車鉄道に比して輸送力の秀れた蒸気機関車は,短期間に滞貨を一掃
したのに加え,出荷繁忙となる5,6月にも従来生じていた滞貨現象をおこすことなく,需要に対
処しえたのである。佐野鉄道への改組から3か月余の営業状況を総括した『佐野鉄道第1回実際報 告』によれば,3〜6月までの営業収入6,875円に対し,支出は4,059円にとどまった。差し引き 2,816円の益金を生みだしている。明治27年後期にあたるr佐野鉄道第2回実際報告』でも,収入 8,598円に対し支出は6,253円で,2,345円の益金を計上できた28)。 安蘇馬車鉄道当時,最も多くの 益金を得た期でも,2,000円にみたなかった事態を考えると,経営は前途に光明をみいだし得たと みるべきだろう。
地図1 迅速2万分の1地形図に描
@ かれた安蘇馬車鉄の路線 「佐
@ 野町」図輻・測量年次不明,停車
@ 場は両毛鉄道佐野停車場を示
@ す.両毛鉄道が公園所在の小起
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60 茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学,芸術)42号(1993)
資本金145,000円で発足した佐野鉄道は,明治30年度にこれを91,000円に減資している。r日本鉄 道史』中篇によれば,原因は 社運不振 と説明されている29)。 けれども,r鉄道局年報』に収載
される佐野鉄道の営業収入は,明治33年度まで増加の一途をたどり,年間4万円をこえるに至った。
対する支出もまた増加しているけれど,最大の明治33年度においても3万円未満であり,社運不振 が原因ではなく,減資によって株式配当を減じ,経営に対する負担を軽くしようと計ったものと解
される。
明治31年度には15万円の資本金増加が決議され,翌年度に全額払込を終っている。増額は,車両 増備資金にあてると説明3°)されているが,r鉄道局年報』によってみれば,増備の対象になったの は,貨車であり,明治33年度には,前年度に比して13両増加の68両となった。最多両数に達したの は明治34年度の80両で,翌年度以降は71両にとどまった。開業当時は2両であった蒸気機i関車は,
明治30年度に3両となっている。客車は明治33年度に1両増備して16両となったけれど,明治34年 度以降は11両であった3り。
6.佐野鉄道の営業状況
明治35年5月,佐野鉄道は日本鉄道佐野停車場32)を介しての連絡運輸協定を結び,聯絡所を設け て18鎖の線路を敷設のうえ,明治36年6月17日から業務を開始するに至った33)。
ところで,r鉄道局年報』に計上される佐野鉄道貨物収入を検索すると,明治33年度をピークとし て激減を記録し,明治36年度には8,000円近くを減じる16,000円余りと落ちこんだ。その後は増加 に転じたものの,明治33年度の水準には回復しなかった。旅客収入については,明治32年度に 17,000円台に達して最高を記録したが,明治35〜6年度に著しい減小を生じている。
一方,佐野停車場,越名河岸停車場での取扱貨物量をみると,佐野停車場では明治37年度以降そ の数量が急増し,明治39年度には5万トン近くに達したのに対し,越名河岸停車場での取扱数量 は,明治34年度以降,減小の一途をたどり,明治39年度には12,000トンあまりで,佐野停車場での 取扱量の1/4ほどになっている。ちなみに,明治34年度には,佐野,越名河岸での取扱量は,ほぼ同 量であったから,従来は越名河岸で取り扱った貨物が大巾に佐野停車場での取り扱いに転化した事 実が読みとれる。佐野鉄道が聯絡所一佐野間の線路敷設を実施したのは,佐野鉄道佐野停車場と日 本鉄道佐野停車場の位置がへだたり,貨物の積み換えに多くの手間を要する事態を,改善するため にとったやむを得ない方策であったと思われる。
越名河岸で発着する貨物が佐野発着に転移することは,佐野鉄道の側からみれば,それまでに収 受してきた佐野一越名河岸間の運賃収入を失うことになるのだから,好しい事態ではないけれど,
荷主の要望には抗しかねた結果とみるべきだろう。そうして聯絡所一佐野間が開通して日本鉄道と の連絡が便利になると,越名河岸発着の貨物はますます減小することになった。
r日本鉄道史』中篇に記述された明治39年度における佐野鉄道の営業状況は,建設費178,308円に 対して営業収入は35,469円,営業費27,342円であった。益金は8,127円で建設費の4.6%に相当する。
輸送量は旅客141,287人,貨物62,683トンであった。払込株金に対する配当は,2分である34)。
佐野鉄道発足以来の益金は,年度途中での発足となった明治27年度を除くと,明治36年度が最も
少なく,5,756円にとどまっている。それでも最も成績の良かった年度でさえ4,000円に達しなかっ た安蘇馬車鉄道当時に比べると,まずまずの成果をあげ得たことになる。
株式に対する配当は,益金が最も多かった明治33年度については資料が欠除するけれども,益金 がそれより僅かに少なかった明治32年度で前期8分,後期9分となっている。これに対して営業収 入が落ちこみ,益金も減じた明治34年度以降では,最高で6分(明治34年度前期)にとどまった。
明治36年度後期と明治38年度後期は無配である。
この様に,明治30年代後半になって,業績悪化がめだってきた佐野鉄道では,なんらかの方策を めぐらす必要が生じたものと考えられる。
7.佐野鉄道から東武鉄道佐野線への変遷過程
r日本鉄道史』下篇によれば,佐野鉄道は,明治40年に事業拡張を計画し,佐野一館林間の新線 を企画した35}。これは,利根川右岸に位置する川俣停車場(埼玉県)に達していた東武鉄道が,明治 40(1907)年8月27日に線路延長を実施し,利根川に架橋のうえ群馬県内に乗り入れ,館林を経て 足利町(群馬県)停車場を開いた事態に対応しよう。
佐野鉄道が佐野一館林間に新線を敷設すれば,東武鉄道を介して東京と連絡することができ,佐 野で国有鉄道に連絡する36場合に比して,より多くの運賃収入をあげうる筈である。だが,館林へ の延長に際しては,途中で渡良瀬川に大規模な鉄橋架設を必要とした。それに要する建設費は,約 40万円と見積もられ,資本金15万円の佐野鉄道にとっては,大きな負担となった。こうして一旦は 挫折した延長線計画ではあったが,その後も続く営業収入のび悩みのゆえか,再度の企画となり,
明治45年3月4日付で,犬伏一館林間6哩35鎖の免許を,軽便鉄道法にもとづき取得することに
なった3η。
佐野鉄道による館林への延長計画は,館林を起点に佐野を経て鹿沼から日光に至る路線を計画し ていた東武鉄道と競合関係を生じることになり,犬伏一館林間の免許が佐野鉄道に交付された事態 をふまえて,合併交渉が持たれるに至った。合併契約は明治45年7月9日に鉄道院で認可され,佐 野鉄道は,7月19日付で解散したのである38>。
明治43年度における佐野鉄道の営業状況は,旅客154,467人,貨物55,950トンを輸送しての営業 収入36,327円,営業費25,929円で益金10,398円,建設費に対する益金の割合は5.6%となり,株式配 当は上期5分,下期5分となった39>。
合併条件はこの様な佐野鉄道の営業状況をみこしたうえで,佐野鉄道株式1株50円払込10株に対 し,東武鉄道同額払込6株交付と決定した。東武鉄道は,佐野鉄道合併の時点で9万円の増資を 行って,資本金は539万円となっている4°}。 9万円の増額は,佐野鉄道の資本金15万円を読みかえ た結果である。
「下野新聞」明治45年3月15日付紙面によれば,合併交渉は佐野鉄道社長が3月12日に上京のう え東武鉄道社長に会見して妥結したとされている。同日付で仮契約が行われ,3月31日開催の臨時 株主総会で承認,東武鉄道側も同日付で臨時株主総会を開き,佐野鉄道合併を承認している。佐野 鉄道が経営してきた路線は翌4月1日から,東武鉄道によって経営されることになった。
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佐野鉄道から継承した免許線は,大正3(1914)年8月2日に開業した。
この時点で,佐野鉄道から引継いだ在来線との間に仮線を設けたが,9月26日には新規開業線の 終点佐野町(犬伏)から越名方向に連絡する66鎖の新連絡線が開通している。また同時に,在来線
との仮連絡点から佐野町方向への新連絡点までに存在する在来線が廃止されたため,佐野町からは 葛生方向,越名方向にそれぞれ至る線路がY字状に分岐する様になった。
大正3年10月16日には,佐野町から国有鉄道両毛線を乗り越して国有鉄道佐野停車場に達する新 線1哩41鎖が開業している。同時に佐野聯絡所から在来線,仮連絡線を介して佐野町に達していた 区間の廃止が実施された。さらに佐野聯絡所と葛生問の改築工事も竣功したのである4%
こうして,葛生一館林間は同一規格の線路となり,館林以南と直通する列車運転が可能になって いる。一方,枝線となった佐野町一越名問は,大正4年7月5日から貨物のみを扱うことになった が, 越名川ハ近年水量減退シ舟相ニノ便旧ノ如クナラズ,尚ホ館林佐野間開通以来貨物亦著シク減 少 との理由を付して営業廃ILを申請のうえ,大正6年3月2日営業廃止公告が実施された42㌔
今日,佐野聯絡所一越名河岸間の佐野鉄道旧路線を歩いてみても,鉄道の痕跡は全くみいだせな
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地図2 5万分の1地形図「古河」図輻(明治40年測量)に描かれた佐野鉄道路線の一部
ー秘 佐野儀道献 椛蜷ウ3.8.1.
③ 自大王3・926.
@ 至大正3ゆ.15,
④憂葛生 c難欝
@ 智堀鼠
地図3 佐野付近での路線変更
@ (青木栄一原図)
鉄 藻1. 「鉄道ピクトリアル」Nα115
蓋 佐野塗鰍,
癘?@ 毛
山 く鯉撞絡枷
@ 佐野両亀 蛎 佐野 (1961年)から引用 r日本鉄道
川 伝野町
C」慧価 毫越毛
鯉結撫、)
@ ぐ錨
イ野町伏状,
。1;為 史』下篇の記述にもとづき作成,
シ連絡点,新連絡点の位置ば不
正確.
い。問屋の建物が櫛比したという越名河岸でも,往時の繁栄をうかがいうる建物はなにも存在しな いのである。佐野一葛生間でも,佐野鉄道の面影はうかがえない。
とはいえ,画期的な輸送改善を介して,葛生地区の石灰産業の興隆に資した佐野鉄道の存在は,
地域の歴史に欠くことのできぬ事蹟として残るわけである。
注
1)館林一葛生間は,一般営業(旅客・貨物)を行うが,葛生一上白石間0.8キロは貨物営業のみを実施してい る.法規上では館林一葛生間22.1キロが佐野線で,葛生一上白石間は金沢線と称される.東武鉄道が貨物営 業を縮小するまでは,上白石以奥にも樹枝状に貨物線が延びていた.また,上白石一仙波間6.2キロの日鉄鉱 業専用鉄道(平2・11・20運輸廃止)も存在した,
2)採掘された石灰岩(石灰石)を70〜150㎜大に破砕し,1200℃に加熱過焼すると生石灰ができあがる.純度 の高い生石灰を水和消化し,粒度調整のうえ,消石灰となる,
3)葛生石灰工業の発展についての概略は,この地区最大の事業者である吉澤石灰工業株式会社の社史を参考 にして記述した.
吉澤石灰工業100年のあゆみ編纂委員会rlOO年のあゆみ』(1973年)182pp.
4)吉澤石灰工業100年のあゆみ編纂委員会r100年のあゆみ』(1973年)p.20.
5)日本通運株式会社r社史日本通運株式会社』(1962年)p.160.
6)吉澤石灰工業100年のあゆみ編纂委員会r100年のあゆみ』(1973年)pp.22−23.
7)鉄道省『日本鉄道史』中篇(1921年)p.471.
8)鉄道省『日本鉄道史』下篇p718,
9)鉄道百年略史編さん委員会r鉄道百年略史』(1972年)pl4.
10)鉄道百年略史編さん委員会r鉄道百年略史』(1972年)p.16,p.18,p.20.
11)鉄道省『日本鉄道史』上篇(1921年)p.774.
12)佐野市r佐野市史』資料編3(1976年)p.620.
大町雅美r栃木県鉄道史話』(1981年)p.87−92.
13)佐野市r佐野市史』通史編・下巻(1979年)p.320.
田沼町r田沼町史』第7巻・通史編・下(1986年)p.106.
14)佐野市『佐野市史』通史編・下巻(1979年)p.321.
明治21年10月現在の用地買収結果は,総数176件のうち,成立125件,示談中16件に対し,不成立が35件に達
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している.
15)田沼町r田沼町史』第7巻・通史編・下(1986年)pp.109−110.
16)佐野市r佐野市史』通史篇・下巻(1979年)p.323.
17)吉澤石灰工業100年のあゆみ編纂委員会rlOO年のあゆみ』(1973年)p.27.
18)鎖道省r日本鉄道史』中篇(1921年)p.471.
19)吉澤石灰工業100年のあゆみ編纂委員会rlOO年のあゆみ』(1973年)p.27.
20)吉澤石灰工業100年のあゆみ編纂委員会r100年のあゆみ』(1973年)p.27.
21)吉澤石灰工業100年のあゆみ編纂委員会r100年のあゆみ』(1973年)p.27.
22)鉄道省『H本鉄道史』中篇(1921年)p.471,
23)吉澤石灰工業100年のあゆみ編纂委員会r100年のあゆみ』(1973年)pp.27−28.
24)鉄道省『日本鉄道史』中篇(1921年)p.471.
25)吉澤石灰工業100年のあゆみ編纂委員会rlOO年のあゆみ』(1973年)p.28.
26)金田茂裕rクラウスの機関車』(1983年)によれば,伊予鉄道1・2号機関車(1888年・製造番号1774,
1775)と佐野鉄道1・2号機関車(1893年・製造番号Nα2875,2876)は,ともに出力40HP,固定軸距1100ミ リ,動力直径685ミリで,外観に多少の相違はあったが,性能上の差違はほとんどないとされている.
27)吉澤石灰工業100年のあゆみ編纂委員会r100年のあゆみ』(1973年)pp.28−9.
28)佐野市r佐野市史』通史篇・下巻(1986年)p327.
29)鉄道省r日本鉄道史』中篇(1921年)p.472,
30)鉄道省r日本鉄道史』中篇(1921年)p.472.
31)機関車を発注した記録はある由だが,現車は到着しなかった.発注は『営業報告書』に記載されていると,
金田茂裕rクラウスの機関車』(1983年)p.27は記述する.
32)両毛鉄道は,明治30(1897)年1月1日付で日本鉄道に譲渡された.
33)鉄道省r日本鉄道史』中篇(1921年)p.471,
34)鉄道省『日本鉄道史』中篇(1921年)p.472.
35)鉄道省r日本鉄道史』下篇(1921年)p.545.
36)日本鉄道は,明治39(1906)年11月1日,「鉄道国有法」によって買収され,国有鉄道に編入された.
37)鉄道省『日本鉄道史』下篇(1921年)p.545.
38)鉄道省r日本鉄道史』下篇(1921年)p.545.
39)鉄道省『日本鉄道史』下篇(1921年)p.546.
40)鉄道省r日本鉄道史』下篇(1921年)pp。566−567.
41)鉄道省『日本鉄道史』下篇(1921年)pp.565−566.
42)鉄道百年略史編さん委員会r鉄道百年略史』(1972年)p.112.