1
論文の内容の要旨
氏名:楊 国 棟
博士の専攻分野の名称:博士(文学)
論文題名:日露戦争期における清国の中立政策の研究
義和団戦争敗北(1901 年)を契機に清国は、国家権力の強化を主眼とした、政治・経済・社会の広範に わたる近代化政策である「光緒新政」(1901~11 年、以下「新政」と略)を開始する。この「新政」展開中 に勃発する日露戦争(1904~05 年)は、日露両国のみならず、清国にとっても極めて重大な戦争だった。
なぜなら、同戦争は、日露間の戦争でありながらも戦闘の大半が清国領内で展開するという、清国の国家 主権を大きく侵しかねない内実をもっていたからである。
周知の通り、この状況に対して清国は、中立政策を選択し執行していくこととなる。清国の日露戦争へ の対応過程は、清国の中立政策選択から執行に至る過程として現出することとなっていたのである。では、
この清国により選択・執行された中立政策は、如何なる歴史的意義を持つものだったのであろうか。この 問いは、中立政策が対外主権の確立を念頭において選択・執行されていたことをふまえれば、日露戦争を 事例に清国の対外主権確立向けての歴史的役割が如何なるものだったのかを問うことに他ならない。
以上の点をふまえて、本論文では、日露戦争期における清国中立政策を、当該期の東アジア国際関係と 国際法理解・運用の実態に照らしつつ明らかにし、その歴史的位置付けの再検討をおこなうものである。
各章の概要は、以下の通りである。
序論では、先行研究を整理し、本論文における問題の所在と課題の設定および主な使用史料の提示・確 認をおこなった。従来の清国中立政策に関する研究では、いわゆる「革命史観」の影響の下で、その対外 的従属や政権の無能・腐敗ぶりを一方的に強調するものが大半で、その詳細な実証研究が等閑視される傾 向にあった。この傾向が刷新されるのは、2004 年あたりからで、日本では川島真や鈴木智夫らの、中国で は崔志海や王剛らの研究が、その先鞭つけるものとなった。これらの研究は、実証的水準において従来の ものと一線を画するものだったが、今日的史料的水準からいえば、中立政策成立過程を含めた同政策全課 程の解明には、なおいくつかの課題を残すものとなっていた。本論文は、新たに刊行された史料などを利 用しつつ 2004 年以降の新たな研究趨勢を更に進めて、清国の中立政策の特徴や歴史的意義を改めて検討し 解明するものである。
第一章では、①ロシアによる東三省の占拠や日露関係の悪化に対して、その対処方法をめぐり清国政府 内部でどのような意見があったのか、②中立政策は如何なる過程でいつ頃確定したのか、③その背景にど のような国際的・国内的状況があったのか、という三つの課題を設定し、その解明を通じて中立政策成立 過程の全体像を明らかにした。その概要は、次の通りである。
日露交渉難航という状況下で清国がまず企図したのは、日露間の戦争回避にむけての働きかけだった。
英米諸国の調停によって日露の戦争を止めるという調停論がそれであり、湖広総督の張之洞がその主唱だ った。その一方で、両広総督の岑春煊を代表とする主戦論も登場する。この両派の論戦が展開する中で、
直隷総督兼北洋大臣の袁世凱は、当初日本と連合してロシアと戦うという考えを持っていたが、日本の意 向を受け入れて中立の主張を表明するに至る。1904 年 1 月中旬以降、袁を代表とする中立論は着実に清国 政府内での主流を形成し、日露戦争の勃発によって調停論が最終的に破綻することで、確定していく。中 立政策を選択する過程においては、日本の影響力が最も強かった。中立政策は、ロシア側が不利となるも のだったが、他の列強は各自の在華利益を保持するという立場から、清国の中立に異議を申し立てること はなかった。
第二章では、①「中立声明」の作成・公表過程とその内容を分析して、清国が想定した中立領域の範囲 を明らかにし、②清国と日露の交渉過程を整理した上で、関連各国が想定した中立地域はどこまでである かを解明した。さらに、③「局外中立条規」の作成過程を明らかにするとともに、④同条規に対する同時 代の評価を示し、いくつかの問題点を指摘した。
「中立声明」は、まず清国外務部が東三省を含めた中国全土を中立地域とする草案を日本の内田康哉駐 清公使に示し、これに対して内田が「満洲」地方は中立政策の実行が難しい旨の文言を入れるべきだと述 べたことを勘案して、清国外交部が当初草案を修正して作成されたものだった。ここで注目すべきは、清
2 国中央政府が中立地域を区分しようとする地方政府・官員の活動や主張は取り上げることなく、「中立声明」
の対象は清国の全領域であると対内的には公表する一方で、列強と日露の間においての中立地域は東三省 (ここでは「満洲」という語で示される)以外の中国本土とすることを黙認する姿勢を取っていたことであ る。ここに、清国は、形式的な対内的な表明と対外的な暗黙の了解の狭間で、日・露と様々な外交交渉を 迫られることとなっていく。また、「局外中立条規」は、1904 年 1 月 19 日に袁世凱が上奏文の「奏晢附片」
として中立法規の摘要をつけたことをふまえて、外務部左侍郎の伍廷芳らを中心とする清国官僚たちによ り、その草案が作成されていくこととなる。この草案は、1904 年 2 月 12 日に袁世凱に送られ、彼との間で 修正の意見交換をした後、同月 15 日に発表されるに至るのである。
第三章では、「局外中立条規」が実際の現場(中立港と東三省の遼西・交戦地)でどのように実行に移さ れたのかを明らかにし、その問題点を分析した。その概要は、次の通りである、
日露戦争期において、交戦地域外で中立に関する交渉が頻繁に行われた場所は、上海と芝罘(現在の煙 台)港だった。日本軍に敗れて逃避してきたロシアの艦艇が、中立港である上海や芝罘に相次いで入って きたからである。清国の中央と地方は、この状況に対して、日露との交渉を重ねることとなる。その最初 が、上海港におけるロシア艦マンジュール号をめぐる交渉だった。ロシア側は「局外中立条規」を適用す べきではないと、日本側は条規に基づき退去させるよう、それぞれ清国側に要求していたが、清国側は日 露双方と交渉を重ねつつ、同号が武装解除することで同案件を決着に導くことに成功した。他方、芝罘港 でのレシーテリヌイ号の場合は、同様に武装解除をしたにも関わらず、清国軍の制止命令を無視して、日 本軍が同号を連行して行った。しかし、この日本側の行動は国際的な非難を招き、以後、類似事件はすべ てマンジュール号事件と同様な形で処理されることとなったのである。
他方、ロシア軍が撤退していた遼西では、開戦後ロシア軍が再度侵攻した。その後、ロシア軍の対日戦 の敗北と遼西における中立交渉を断念しなかった清国の努力もあり、清国側はロシア軍の同地からの再度 の撤退と、清国軍の同地駐屯を実現した。しかし、ロシアの行動を口実にして日本が新民府を占領したた め、遼西における清国の中立政策は再び破綻することとなる。加えて、遼西以外の東三省の交戦地域や内 外モンゴルでの中立政策の実行は困難となっていた。このような状況下にあったが、奉天の当局は、日露 と交渉を継続して中立政策の維持に向けての努力を持続していた。
第四章では、日露戦争中における清国官僚たちによる、戦中から戦後にかけての議論内容を明らかにし た。
日露戦争初期、清国の官僚たちは、中立政策を前提としつつも、戦局の推移が清国に与える影響如何や、
東三省の将来に関して活発な議論を展開していた。更に、同戦争の規模が拡大すると、清国の斡旋・調停 によって戦争を早めに終結させようとする考えも起されるようになる。これは戦争前の調停論が形を変え たものだった。
次いで、日本海海戦以後、日露戦争の帰趨が見えてくると、東三省における戦後処理の問題に関する清 国官僚たちの議論が活発化する。勝利が予想される日本の東三省での権益獲得は十分に予想され、それに 如何に対抗するかというのが清国官僚たちの共通した問題関心となっていた。そこで考案されたのが、東 三省を列強全体に開放し、利益を均霑することで、日本を牽制しようというものであった。
他方、中立政策が日露戦争の終結と共に終結する中、日清間において新たな外交案件が登場する。「ポ ーツマス条約」中にあるロシアの在清利益を日本が継承するという案件(具体的には「中日会議東三省事 宜正約」の締結)交渉がそれである。清国はこの課題にも、粘り強く交渉を重ねて、最低限の現実的果実 を得ることとなる。
結論では、各章のまとめを行った上で、次のような総括を行った。
日露戦争期における清国の中立政策は、ロシアの東三省からの撤兵問題や日露の「満洲」・朝鮮をめぐる 紛争に対する清国のほぼ唯一の選択肢であり、それを「屈辱的中立」などと評価することは、当該期の現 実的な状況を無視したものと言わざるを得ないと考えられる。義和団戦争への無謀な参戦がもたらした衝 撃から間がない当時において、自らの現実的な外交的力量に照らしながら体制の維持と現実的果実を如何 にもぎ取るのかを求められていた清国にとって、これ以外に選択肢はなかったからである。また、「局外中 立条規」は、排他的な対外主権の十全な確保という面からすれば、幾つかの不備な点をもつものだったが、
従来の国際政治において事例がなかった案件をめぐる外交交渉の指針となるものだった。そして、これら の過程は、列強の圧迫下で如何に現実的利益を確保しつつ対外主権の確立を達成していくのかのという、
3 近代中国外交の言わば主旋律のとなる課題追求における貴重な経験を結果として提供することになってい たと評価し得るものと考えられるのである。
(以上)