2001
大韓民国国立中央博物館 モンゴル国立歴史博物館 モンゴル科学アカデミー歴史研究所
( 大谷育恵 訳、谷川真基訳校 )
目次
図面目次 写真目次
I. はじめに 169 (3) II. 調査地域と調査過程 171 (4) III. 調査内容 174 (5)
1. 匈奴時代墓 2. 青銅器時代板石墓
IV. 匈奴研究概要 200(14) V. 結語 209(20) Abstract 210( 略 ) 付録 211(21)
1. モンゴル モリン・トルゴイ 匈奴時代墓出土人骨に対する分析 2. AMS 測定についての結果
モンゴル語本文 225 ( 略 ) 写真 259 ( 略 )
2. 遺跡位置図 (1/735,000) 3. 遺構分布図
匈奴時代墓
4. 平・断面図 5. 追葬面 6. 一次掘壙 7. 二次掘壙上部 8. 二次掘壙下部 9. 三次掘壙上部 10. 木槨蓋
( 訳 1)11. 木槨および副葬空間 12. 底面 13. 木槨復元図
14. 下部層位図 15. 模式図 16. 青銅鏡 17. 骨箸 18. 白樺樹皮Ⅰ 19. 白樺樹皮Ⅱ 20. 土器Ⅰ 21. 土器Ⅱ 22. 犬頭蓋骨計測値
青銅器時代板石墓
23. 平・断面図 24. 石槨 25. 底面 26. 土器片
写真目次
<カラー写真>
モリン・トルゴイ遺跡
彩版 1-1. 遺跡とトール川 彩版 1-2. トール川近景 彩版 2-1. モリン・トルゴイ 彩版 2-2. 丘上の馬の群れ
彩版 3-1. 南→北 彩版 3-2. 北→南 彩版 4-1. 匈奴時代墓
彩版 4-2. 青銅器時代板石墓 彩版 5. 匈奴時代墓内部
彩版 6-1. 匈奴時代墓に殉葬された犬 彩版 6-2. 青銅鏡
彩版 7-1. 雨降る日の実測風景
彩版 7-2. トラックの陰を利用した休息 彩版 8-1. 立っている鹿石
彩版 8-2. 倒れている鹿石
彩版 9-1. キャンプ遠景 彩版 9-2. キャンプ近景 彩版 10-1. ゲル製作風景 彩版 10-2. 完成したゲル 彩版 11-1・2. ゲル内部とモンゴルの家族
彩版 12-1. 暴風雨で破壊された状況 彩版 12-2. 草原の虹
彩版 13-1. 調査団の食堂 彩版 13-2. 洗面風景
彩版 14-1. 羊内臓の処理 彩版 14-2. 羊頭と脚
彩版 15-1. 夕食 彩版 15-2. 食卓上の肉 彩版 16-1. 競馬優勝者と共に
彩版 16-2. モンゴル相撲優勝者と共に
<白黒写真>
モリン・トルゴイ遺跡
1-1. 遠景 1-2. 近景
匈奴時代墓2-1. 墓と山 2-2. 全景
3-1. 開土祭 3-2. 上部作業風景 4-1. 南から 4-2. 北から 5-1. 東から 5-2. 西から
6-1. 方形部 6-2. 南西護石 6-3. 南東護石 7-1. 石列東から 7-2・3. 石列西部
8-1. 層位東から 8-2. 層位西部 8-3. 北側掘壙 上部追加葬面
9-1. 南から 9-2. 東から 10-1. 人骨・牛骨 10-2. 人骨 11-1. 牛下顎骨 11-2. 馬骨盤等 一次掘壙
12-1. トレンチ調査 12-2. 層位 一次掘壙掘り下げ
13-1. 外部 13-2. 内部 二次掘壙検出
14-1. 東側 14-2. 掘壙線検出 二次掘壙線
15-1. 南から 15-2. 北から
16-1. 近景 16-2. 雨降る日の実測 二次掘壙
17-1. 遺物出土状況 17-2. 接写 18-1. 南から 18-2. 北から 19-1. 積石状況 19-2. 壁面 三次掘壙
20-1. 積石 20-2. 土器 20-3. 木材および骨 21-1. 横木上部 21-2. 横木と積石
22-1. 横木 22-2. 横木陥没
23-1. 横木および層位 23-2. 横木陥没 犬出土
24-1. 全景 24-2. 接写 三次掘壙
25. 横木検出全景
26-1. 横木陥没 26-2. 横木検出 木棺
27-1. 蓋 27-2. 青銅鏡
木棺南壁
28-1. 検出前 28-2. 検出後 木棺内部
29-1. 検出前 29-2. 検出後 30. 木棺と副葬空間全景 31. 木棺と副葬空間全景 32-1. 台木 32-2. 木槨樹種
上左 : カラマツ属横断面 上中 : カラマツ属反射断面 上右 : カラマツ属接線断面 上左 : ヤマナラシ属横断面 上中 : ヤマナラシ属反射断面 上右 : ヤマナラシ属接線断面
33. 副葬空間全景 34. 副葬空間接写 35-1. 木器と骨箸 35-2. 調査後 36-1. 掘壙外から 36-2. 掘壙底より 37-1. 覆土祭 37-2. 覆土後 38-1. 青銅鏡 38-2. X 線写真 39-1・2. 青銅鏡細部 39-3. 表面 39-4・5. 絹織物細部 40. 骨箸 41. 白樺樹皮 42. 白樺樹皮 X 線写真 43-1 ~ 4. 白樺樹皮
44-1 ~ 4. 白樺樹皮 X 線写真 44-5・6. 織物痕 45-1. 小形瓶形土器 45-2. 甑
46. 深鉢形土器 47-51. 女性人骨 52. 男性人骨 53-55. 犬の骨
56. 上部出土の馬骨 57. 上部出土の牛骨 58, 59. 2 次掘壙出土牛骨
60, 61. 副葬空間出土の牛骨 62. 副葬空間出土の骨
1 ~ 3. 牛 4. ウサギ 63. 副葬空間出土の骨
1. ネズミ 2. カラス 3. カエル 4. キツネ 64. 副葬空間出土骨
1, 2. 犬 3. ビーバー 4. 不明
青銅器時代板石墓65-1. 遠景 65-2. 近景 66-1. 開土祭 66-2. 上部調査 67-1. 上部調査 67-2. 層位 68. 骨出土状況
69-1. 人骨検出 69-2. 土器片検出 70-1. 内部調査 70-2. 底
71. 1. 土器片 2. 人骨腰椎 3. 牛 4. ネズミ 5. 不明
72. 2000 年発掘調査団
Ⅰ . はじめに
大韓民国国立中央博物館はモンゴル国立歴史博物 館、モンゴル科学アカデミー歴史研究所と共同で 2000 年 7 月 4 日から 8 月 7 日までモンゴル国トゥ ブ県
アイマクアルタンボラク郡
ソム(Төв аймаг, Алтанбулаг сум)
に位置するモリン・トルゴイ (Морин толгой) 遺跡 で発掘調査を実施した。当時の発掘調査団構成は次 の通りである。
<韓国側>
調 査 団 長 :李
イ コンム健茂
이건무( 韓国国立中央博物館学芸研究室長 ) 調 査 委 員 :李
イ ピ ョ ン レ平來이평래 ( 韓国外国大学校講師 )
調査責任者:宋
ソンウィジョン義政송의정 ( 韓国国立中央博物館学芸研究官 ) 調 査 員 :尹
ユンヒョンウォン炯 元
윤형원( 韓国国立中央博物館考古部学芸研究士 )
朴
パクキョンド敬道
박경도( 国立扶餘博物館学芸研究士 )
調査補助員:梁
ヤンシウン思恩
양시은( ソウル大学校考古美術史学大学院 )
韓
ハ ン チ ソ ン志仙
한지선( 中央大学校史学科大学院 )
<モンゴル側>
調 査 団 長 :イドシノロフ С. Идшинноров( モンゴル国立歴史博物館館長 ) オチル А. Очир( モンゴル科学アカデミー歴史研究所長 )
調査責任者:ツェベーンドルジ Д. Цэвээндорж( モンゴル科学アカデミー歴史研究所考古学研究室長 ) 調 査 員 :バヤルサイハン М. Баярсайхан( モンゴル科学アカデミー歴史研究所研究員 )
エレグゼン Г. Рэгзэн( モンゴル国立歴史博物館研究員 )
調査補助員:オトゴンバータル Б. Отгонбаатар( モンゴル科学アカデミー歴史研究所研究員 ) ガンゾリグ Г. Ганзориг( モンゴル国立大学歴史学科卒業生 )
ナツァグドルジ Б. Нацагдорж( モンゴル国立師範大学教育学科卒業生 ) ノムゴン М. Номгон( ウランバートル大学歴史学科在学生 )
エルデネバヤル О. Эрдэнэбаяр( ウランバートル大学歴史学科在学生 ) バトドルジ Э. Батдорж( ウランバートル国立大学歴史学科在学生 ) 通 訳 :セレンゲ Б. Сэлэнгэ( モンゴル国立人文大学韓国語科卒業 ) 調 理 師 :チョローンツェツェグ Г. Чулуунцэцэг
運 転 手 :ダシゼベグ Б. Дашзэвэг、ヤガーンバータル Ягаанбаатар、セレーテル Сэрээтэр、
エルデネボルガン Эрдэнэбулган
報告書刊行の全体的な進行は李
イヒョンフン栄勲
이형훈( 国立 中央博物館考古部長 ) の責任の下、鄭
チョンチュンキ俊基정준기 ( 国 立中央博物館考古部学芸研究官 )・尹
ユンヒョンウォン炯元が担当し て進め、下記の過程を経て本発掘調査報告書を刊行 した。
出土遺物と骨洗浄・整理・復元作業は韓
ハ ン チ ソ ン志仙と 全
チョンマンフィ萬 熙
전만희( 中央大学校科学学科大学院 ) がお こなった。モリン・トルゴイ匈奴時代墓の遺構図面 は、梁
ヤンシウン思恩・韓
ハ ン チ ソ ン志仙が整理し、遺構分布図と青銅器 時代ヘレクスル遺構図面は朴
パクキョンド敬道が整理した。遺物 実測と遺構・遺物の製図は韓
ハ ン チ ソ ン志仙が大部分を担当し たが、青銅鏡はクォンドフィ
권도희( 崇実大学校史
学科大学院 ) が実測した。遺物写真はアン・スタジ オのアンクワァンス안광수・チュィピルファン최필
환によって、図面と写真編集は尹ユンヒョンウォン炯元・韓
ハ ン チ ソ ン志仙が担 当した。遺構と遺物原稿はバヤルサイハン、 エレ グゼンと尹
ユンヒョンウォン炯元 ( 匈奴時代墓 )、朴
パクキョンド敬道 ( 青銅器時 代板石墓 ) が作成し、匈奴研究概要はツェベーンド ルジが執筆した。
ならびに匈奴時代墓出土遺物の保存処理はイヒョ
ンフィ
이횽희の総括の下、青銅鏡は權
クォンヒョクナム赫 南
권혁남が遂行し、白樺樹皮と骨箸はキムキョンス
김경수が、樹種同定は金
キムスジョル洙喆
김수철( 以上は国立中央博物
館保存処理室 ) が行い、朴
パクウォンキュ元圭
박원규( 忠北大学校
山林科学部教授 ) に樹種同定結果を確認していただ いた。匈奴墓から出土した人骨 2 体に対する鑑定
は金
キムジェヒョン宰賢
김재현( 東亜大学校考古美術史学科教授 )
が引き受け、付録にこの結果をのせ、動物骨はキム コンス
김건수( 湖南文化財研究院学芸研究室長 ) と バヤルサイハンが一次鑑定したものを、金子浩昌 ( 日本早稲田大学考古学研究室 ) に確認していただ いた。資料の年代測定はソウル大学校基礎科学教育 研究共同機器院 AMS 研究室で苦労していただいた。
モンゴル語をハングルに翻訳し、ハングルをモ
ロ シ ア バイカル湖
中 国
モ ン ゴ ル
1. ウランバートル 2. イフ・ホトル、
ホスティン・ボラク 3. ノヨン・オール 4. モリン・トルゴイ 5. ホドゥキン・トルゴイ
図 1. トゥブ県アルタンボラク郡位置図 (1/2000 万 )
Ⅱ . 調査地域と調査過程
2000 年 7 月 3 日朝、5 人の韓国調査団はモンゴ ル現地の強風により、大韓航空の飛行日程が取り消 されたため、24 時間待った後に金浦空港を出発し、
ウランバートルに到着した。7 月 27 日朝に出発予 定であった李
イ コ ン ム健茂室長と李
イ ピ ョ ン レ平來先生一行も強風によ り飛行日程が変更され、7 月 28 日夕方にモンゴル 航空便で日本の関西空港を経由しモンゴルに入国す るという困難を経た。
モンゴルの首都ウランバートルに到着した発掘調 査団は韓国人が運営するレインボーホテルで旅装を 解き、モンゴル国立歴史博物館とモンゴル科学アカ デミー歴史研究所を訪問した。次の日、歴史研究所 で調査遺跡の選定と調査方針を議論する会議を開催 した。調査候補地はヘンティー県
アイマクポルポラキンアム 遺跡とトゥブ県
アイマクモリン・トルゴイ遺跡に集約された が、ポルポラキンアム遺跡の場合、環境部の許可を 受けねばならず、移動距離も 600km 程になり、遺 構が大きいため 1 ヶ月間に調査を完了することが できないと判断し、最終的にモリン・トルゴイ遺跡 を調査対象地域に決定した。
モリン・トルゴイ遺跡は 1989 年にモンゴル ・ ハ ンガリー ・ ソ連共同調査団によって匈奴墓に対する 発掘調査が実施されていた。このうちモリン ・ トル ゴイ 1989-1 号墓からは楽器である Khel Khuur( 口 琴 ) が出土し、これらの墓は直径 6.0m、深さ 3.0m ほどで地下の埋葬主体部上に石蓋がかぶさった中型 級の墓と判明した。
次の日、午前に市場で一ヶ月間使用する物品等 を準備し、午後 3 時頃に 2 台のトラックと 2 台の 乗用車が現場へ出発した。遺跡はウランバートル
から南西側 120km の距離に位置し ( 図 1,2)、時速 30km で走行して 4 時間で到着する予定であった が、分岐点で互いに離れてしまい 17 時間たって現 場に 4 台の車両が全て集結した。
遺跡の地形は、西側には高い山がある東側への傾 斜地で、東側にはモリン・トルゴイという低い丘が ある。南東側にはトール川が曲がりくねって流れて いる 。遺跡と川の間にはただ 2 つのゲルがあるだけ で、馬・牛・羊と山羊の群れが草原を駆けていた。
遺跡周辺には 1 本の木もなく、雨がほとんど降ら ず草原の草は短く黄色をしていた ( 図 3, 写真 1)。
遺跡の中央部には立ったり倒れたりしている鹿石 があり、山の向こうには鹿の形象を彫った岩画が ある。遺跡には、北側に匈奴時代墓が 20 余基、南 側に青銅器時代の板石墓が 130 余基分布している。
前者は外形が青銅器時代板石墓よりも若干大きく上 部に積石があることが特徴で、後者は中央部に方形 石槨を有するものが大部分を占める。しかし盗掘さ れ掘り出されたものが散在しており、この区分は明 確ではない。調査団は匈奴時代墓と考えられたも ののうち、前半部が方形をしている最も大きな墓 1 基と盗掘されていない可能性のある青銅器時代板石 墓 1 基を選定した。遺跡調査の基準点は北緯 47°
ンゴル語に翻訳する作業は、バヤルツェツェグ (Э.
Баярцэцэг )(モンゴル国立人文大学校韓国語科教授) が草稿を作成し、モンゴル歴史学専門家のイピョン レが監修し、韓国語とモンゴル語を英文で翻訳する のはモンゴル文学専門家の柳ユ ウ ォ ン ス元秀
유원수( 檀国大学 校モンゴル語科兼任教授 ) が引き受け、考古学を専
攻する成
ソンジュンテク春澤성춘택 ( ソウル大講師 ) が修正した。
翻訳した原稿は宋
ソンウィジョン義政とイドシノロフが最終的に校
閲した。
18′55″、東経 105°40′27″、海抜高度は 1108m に設定した。
二遺構は共に四分法で調査したが、特に匈奴時代 墓はその規模が大きいため、南北に部分的に探査ト レンチの設定も行った。このような大墓はモンゴル で調査された資料が稀で、それゆえ詳細な発掘調査 報告書を探すことが難しく、墓の内部構造に関する
図 4. 平・断面図
情報がほとんどない状況であった。その上、気まぐ れな気象条件と多くの作業を行わなければならない 大墓を定められた時間内に調査完了しなければなら ないという重圧感があった。
真昼の蒸すような暑さは一口の冷たい水が恋しく なり、予告なく吹いてくる狂風はゲルとテントを無 残に倒した。水が不足し節約して洗顔し、川の水で 沐浴した。食事は主に羊肉と小麦粉で作ったものを 食べ、時折タルバガンを捕まえて御馳走とした。モ ンゴル人らの酒はモンゴル・ウォッカの “ アルヒ ” と馬の乳で作った “ アイラク ” がある。現地人バト スフは調査団に羊を捕まえ、タラク ( ヨーグルト ) を供給してくれた。遠くから馬に乗って現地を訪ね て来る地域住民らとはポラロイド写真を写して互い に友人となった。
一ヶ月間モンゴル人と韓国人は一つに団結した。
モンゴル側調査員らは熱心に発掘過程と技術を学 び、韓国調査員も国内発掘調査よりも何倍も困難な 条件をよく耐えぬいた。韓国とモンゴルの調査員ら は、次も必ず一緒にしようという固い約束を結び、
空港で別れる時は双方目の周りを赤くして離別し た。韓国調査団は広大な草原についての記憶とモン ゴル人に対する親愛の心を大切にしまい、調査を終 えて帰国した。
匈奴時代墓
鹿石
青銅器時代方形墓
図3. 遺構分布図
Ⅲ . 調査内容
1. 匈奴時代墓
(1) 遺構 ( 図 4~5, 写真 2~37)
発掘調査した匈奴時代墓はモリン ・ トルゴイ遺 跡で最大の墓で、地上に現れた積石部の直径は 14.0m、墓坑の深さは約 5m に達し、主軸方向は南 北である。墓中心部の位置は北緯 47°18′59″、東 経 105°40′30″、海抜高度は 1111m である。
墓の外形をみると、積石の前半部 ( 南側 ) は方形 で、後半部 ( 北側 ) は全体的に半円形をしている。
前半部の方形石列は祭壇の性格を持つと推定され、
両側隅に護石を立てたような長方形の石が配置され ている ( 図 4, 写真 2)。方形部を構成している隅で はいくつかの石を意図的に立てて連結した部分が発 見されたが、全体的に整然と列をなしているものは ない状態であった ( 写真 6,7)。後半部の半円形は東 西側に羽を広げたようにとび出た積石部の形態が特
徴的である。調査前、主掘坑以外に上部に東西方向
に追葬がある可能性を念頭におき調査を行った。墳
丘が最初に作られた直後、あるいは数百年後に追加
葬が作られた例もあったようだ。
調査は墳丘周辺を方形に区画し、上部の積石を実 測した。積石間の土を除去して累積する積石を露出 させた。墳丘中心部の積石のない部分を中心に、土 手を残して少しずつ掘り下げた ( 写真 3 ~ 5,8)。掘 り下げを進行中に、地表下 70cm で人の胸骨、肋骨 等と牛の下顎骨、馬の骨盤骨等が現れた。人骨は完 全な状態で残っていなかったが、墳丘の下部とは別 に上部に追加葬があると考えた。タルバカン及びネ ズミ等、野生動物骨も出土した ( 図 5, 写真 9~11)。
北側壁から一次墓坑が発見され、東西方向に長 さ 6.0m のトレンチを設定して掘り下げると、掘壙 内部全体が積石されていた ( 写真 12)。積石部を除 去した表面で二次掘壙線が発見され、南北方向に断 ち割って半分を除去した後、南北層位から掘壙の中 央部が深く陥没した現象を確認した。長さ 5.6m、
幅 4.6m、深さ 1.5 ~ 1.8m の空間いっぱいに途方 もない量の土と石を遺構外へと除去した後、長さ 3.75m、幅 3.15m の平面台形の二次掘壙線を発見 した ( 図 6, 写真 13,14) 。
二次掘壙には長さ 50cm ほどの割石が積石され ており、土器片、白樺樹皮片、牛骨等が北西側で出 土した。しかしこれら出土遺物と骨は整然と置かれ た状態ではなかった。下部の三次掘壙出土遺物と接 しているのは、タルバカンなどの動物によって攪乱 されたためと考えられる ( 図 7, 写真 15 ~ 17)。
二次掘壙面内部を掘り下げると、東西壁端に割石 が積石されており、中央部分が陥没した状態が確認 された ( 図 8, 写真 18,19)。この積石をさらに除去 すると若干の木質と共に人骨の一部があらわれた。
底面を清掃すると横木等があらわれ、この上面には 大きな板石が部分的に置かれており、それは木板を 平面に固定させるためのものと判断される。北壁近 くには深鉢形土器・甑、横木と中央部では小形瓶形
Ⅰ: 褐色 砂質土、大きな石包含
Ⅱ: 灰白色 砂質土
Ⅲ: 黄白色 石灰岩質土、大きな石包含
Ⅳ: 明黄色 石灰岩質土、薄い石包含
Ⅴ: 灰褐色 砂質土、石若干包含
Ⅵ: 褐色 砂質土、非常にやわらかい
追葬面
一次掘壙 二次掘壙
図 6. 一次掘壙
牛 骨
男性人骨
図 5. 追加葬面
牛 骨 白樺樹皮
女性人骨 土器片
図 7. 二次掘壙上部
土器片
図 8. 二次掘壙下部
土器が出土した ( 写真 20)。
横木は長さ 3.11m、幅 1.0m の長方形墓坑 ( 三次 掘壙 ) の上部を短軸方向に覆うもので、枚数は約 20 枚ある。墓坑の中央部は木板下の木槨部が陥没 し、順次陥没したものとみられ、墓坑隅の木板は 大部分が折れていた。木板の厚さは 2 ~ 8cm、そ の長さは中央部に置かれたものは 120m ほどだが、
端に置かれたものは 170cm に達する。横木の機能
女性人骨
牛 骨 白樺樹皮
m
図 11. 木槨および副葬空間
台 木 骨箸
木器 犬 骨
木槨蓋 木 板
図 9. 三次掘壙上部
青銅鏡
木槨蓋
図 10. 木槨蓋
は内部の木槨と副葬空間を保護するためのものと推 定される ( 図 9, 写真 21 ~ 23)。
一方、墓坑外の南西側隅には一匹の犬の骨が完全 な状態で出土し、殉葬されたものとみられる。犬は 非常に安定した姿勢で前脚と後脚を前方へそろえて おり、出土状況をみると、死んだ後に埋納されたと みられる ( 図 9, 写真 24)。
陥没した横木を除去すると、木槨の蓋が中央部分
図 12. 底面
が陥没したま ま出土し、上 面には絹織物 で包んだ青銅 鏡が埋納され ていた。青銅 鏡は埋納以前 にすでに半分 以上が欠損し た状態であっ た。この鏡は 中国の後漢時 代に流行した 規矩鏡片であ る ( 図 10, 写 真 25 ~ 27)。
木 棺 の 構 造 を み る と、 蓋 は 長 さ 195cm、 幅 20cm ほどの 3 枚の板材で作られており、長壁は長 さ 207cm、短壁は長さ 47cm、幅 40 ~ 45cm ほど の広さの板材各 1 枚を使用して “
ㅍ” 字形に組み合 わせ、底は長さ 190cm、幅 25cm ほどの 2 枚の長 い板材で構成されていた。底板下には木槨の北側端 と南側中央部に 2 本の短く平たい台木を置いてい た ( 図 11 ~ 13, 写真 28 ~ 31)。
すなわち、木棺は台木→底板→長側板→短側板→
遺体埋納→蓋→青銅鏡埋納という順序でなされたと 推定される。木棺を作るのに使用された樹種を調べ ると、蓋はヤマナラシ属 (Populus) に属し、底板は カラマツ属 (Larix) に該当する ( 写真 32)。参考に比 較できる墓であるノヨン・オール 12 号は、積石部 の大きさが全長 16.0m、幅 14.0m、墓坑の深さ 8.0m で、二重の木槨内部に木棺を設置する構造で、外槨 は長さ 4.5m、幅 2.8m、高さ 1.7m、内槨は長さ 3.0m、
幅 1.7m、高さ 1.2m、木棺は長さ 2.16m、幅 0.77m、
高さ 0.85m であった。同じくノヨン・オール 6 号 墓は木棺長 2.29m、幅 0.98m、高さ 0.9m であっ た ( 図 11・15, 写真 28・29)。
木棺内部の北側には枕に使用されていた可能性の ある割石 1 点が残っていた。木槨内部の土は湿気 が多く粘土質の非常にきめの細かい粒子で成り立っ ていた。人骨痕とみられる土壌が少量確認されたが、
主被葬者の形状はみつけることができなかった ( 写 真 10)。
副葬空間は南北方向に板材をわたして上下二層の
Ⅰ: 褐色砂質土、粒子の細かい石粒多量に包含
Ⅱ: 黄褐色砂質土、粘板岩系の小石粒
Ⅲ: 明褐色砂質土、骨および木質包含
Ⅳ: 暗褐色砂質土、細かい粒子の石粒少量包含
Ⅴ: 青色岩盤片 + 砂
Ⅵ: 明褐色砂質土、石粒包含
Ⅶ: 暗褐色砂質粘土、有機物腐食層 粒子細かい
Ⅷ: 褐色砂質土、粒子細かく粘性弱い
Ⅸ: 煙緑色砂質粘土、青色岩板片包含、粘性強い
図 14. 下部層位図
追加葬面 一次掘壙
二次掘壙
三次掘壙
図 15. 概念図
木 板 木 槨 木槨壁
木槨底板
頭 枕
台 木
副 葬 空 間
図 13. 木槨復元図
空間に分けて副葬されていた。上面を注意深く調べ ると、木棺の北短壁の外側で人の頭蓋骨が出土し、
その北側に牛の頭蓋骨があり、副葬空間全体に人骨 と牛骨が混在している様相であった。人骨はキム ジェヒョン博士の分析によると 30 歳前後の女性の もので、3 ~ 4 回の出産歴があったと推定される。
この結果は付録に収録している。この女性は主被葬 者ではなく、副葬空間で牛骨と共に出土したことか らみて殉葬されたと推定される。他にも骨と共に白 樺樹皮製品と土器片等が出土した。南北方向の板材 を除去した後、下層床面では東側に偏って木器上に 骨箸が整然とのった状態で出土したことから、埋納 時に飲食物を木器に盛って饗献したようだ ( 図 12, 写真 33 ~ 35)。
この墓はモリン・トルゴイ遺跡で最も大きな規模
を有し、完全な木棺と横木 ( 上部木板構造 )、中国
製青銅鏡、白樺樹皮製品、土器等の遺物と牛頭をは
じめとする動物骨等からみて、遺跡の他の墓に比べ て優越した位相を示し特に人と犬の殉葬風習は匈奴 帝国の貴族クラスの墓の位相を示していると推測さ れる。
以上の出土資料をもとに、大まかな墓の年代を推 定することができる。
第一に、木棺の蓋の上で出土した規矩鏡と出土土 器の形式学的年代を通して測定すると、ノヨン・オー ル 25 号から出土した銅鏡は獣帯鏡で後漢初期のも のであり、永平 7 年 (AD64 年 ) 銘の鏡に比肩でき る
(1)。深鉢形土器と甑、瓶形土器等はノヨン・オー ル古墳群の大型瓮等、硬質の貯蔵用土器が出土する 以前のもので、紀元後 1 世紀後半頃に該当するも のと考えられる。
第二に、出土資料の AMS 放射性炭素年代測定の 結果を通してこの年代を検討する。下部で出土した 人骨の年代は BC75 年・AD100 年と測定され、木 棺蓋は AD85 年、木器は AD15 年と算出された。
墓の上部に追加葬された人骨は AD95 年と測定さ れた。それゆえ 1 世紀後半頃とした型式学的年代 と大体符合する。
2) 出土遺物
a. 青銅鏡と絹織物 ( 図 16, 写真 36・39)
墓の木棺蓋上から発見され、若干の絹織物痕が鏡 裏面についていたことからみて、鏡を絹織物に包ん だまま副葬したと考えられる。全体の半分以上と中 央部の文様帯が欠失しており、破鏡の状態で埋納し たと推測される。青銅緑青を取り除き保存処理をし た。色調は青緑色と灰白色が混じっている。
外縁に厚い外帯があり、その内側に二重の三角鋸 歯文帯が配置されている。外側の三角文帯の内と外 側には突線が表わされている。外側の三角鋸歯文帯 は三角文を複線で表現し、三角形の内側はうまって いない状態、内側の鋸歯文帯は三角文の内側がう まった状態である。
さらに一重の短斜線文が配置されている単斜線文 帯の内側には、二列の突線が円形に表現されており、
内面の文様部分と区分されている。内面文様の端に は、一部欠損しているが、複線で表現された T 字 と L 字文様があり、この間には草花文のような文 様が表れており、この内側は四神図等の一部である 可能性がある。
全体的に鋳造状態が良好な破片ではない。このよ うな鏡は TLV 鏡あるいは規矩鏡などと呼ばれる鏡 で、中国の前漢末から後漢時期に盛行し、周辺地域 に威信財として伝わった遺物である。
・大きさ:推定直径 15cm、厚さ 0.1 ~ 0.4cm、
重さ 120.0g
b. 木器と骨箸
副葬空間の床面で出土した木器 は、すでに土壌化して形態を復元す ることができないが丸い皿形と推定 される。樹種は正確に識別すること ができないが、広葉樹 (Hard wood) と推定される。木器上に骨箸をのせ ていたことから、被葬者のために木 器の上に飲食物を載せたと推定され る。
骨箸の全体的な形態をみると、一 本は直線にちかく、別の一本は若干 曲がっており、曲がった方の持ち手 部分が若干破損している。箸の先端 は薄く、持ち手側から厚みを増し、
断面は円形である。骨箸先端部は丸 く摩耗しており、被葬者が生前に使 用していた品とともに副葬されたと
みられる。骨の状態をみると骨の節理 に したがって製作したものとみられ、表面は滑らかで ある。
・大きさ:木器 - 直径 24.0cm( 推定 ) 骨箸 - 長さ 17.3cm、
直径 0.3 ~ 0.4cm、重さ各 4.0g
図 18. 青銅鏡
図 17. 骨箸
c. 白樺樹皮
①白樺樹皮加工品 ( 図 18, 写真 41・42)
副葬空間で散乱した状態で出土した。木目は横方 向に続いており、残存状態が非常に悪く保存処理後 に復元された。全体は、上部分は長方形だが、下側 1/4 ほどは下に行けば行くほど次第に狭くなってい る。製作手法は長方形の白樺樹皮を外から半分に 折って横面を若干まいて重ねている。折った面に約 0.5cm 間隔に孔をあけて連結し、口部と下側曲線部 分には小さい孔が等間隔であいていた。外面の一部 に織物痕が付着しており、それは綾織で織られてい た。モンゴルの学者らはこの遺物が弓筒であると推 定している。
・大きさ:推定長 38.7cm、幅 7.7cm
②白樺加工品 ( 図 19-1, 写真 43-1・44-1)
副葬空間から散乱した状態で出土し、折った面の うち片側部分のみ残り、別の面はほとんど欠失して いる。木目が横方向に続いており、残存状態が非常 に悪く、保存処理後に復元された。残存部分の全体 形は長方形で、口部のみ残っている。製作手法は長 方形白樺樹皮を半分に折って横面を若干巻いて重ね ている。口部に小さな孔が等間隔にあいており、折っ た口部側面には約 0.5cm 間隔で小さな孔が 6 個あ いていた。
・大きさ:残存長 14.6cm、幅 6.8cm
③白樺樹皮加工品 ( 図 19-2, 写真 43-2・44-2) 副葬空間から散乱した状態で出土し、口部側のみ 若干残っていた。木目が横方向に続いており、残存 状態が非常に悪く、保存処理後に復元された。残存 部分の全体的な形は長方形である。製作手法は長方 形の白樺樹皮を半分に折って横面を若干まいて重ね ている。口部に小さな孔が片側面に 6 個等間隔に あけられており、折った面には約 0.5cm 間隔の小 さな孔が 12 個ほど残っていた。
・大きさ:残存長 8.6cm、幅 7.5cm
④白樺樹皮加工品 ( 図 19-3, 写真 43-3・44-3) 二次掘壙底面から出土し、下部分のみ残ったもの と推測される。木目が横方向に続いており、残存状 態が悪く保存処理後に復元された。残存部分の全体 形は長方形で、下側は下に行けば行くほど次第に狭 くなっている。製作手法は長方形の白樺樹皮を半分 に折って重ねている。重ねた端に約 1.0cm 間隔の 孔が 12 個ほど残っている。モンゴル人の学者達は この遺物が刀鞘として用いられたものであると推定 している。
・大きさ:残存長 10.4cm、幅 6.3cm
⑤白樺樹皮加工品 ( 図 19-4, 写真 43-4・44-4) 片面のみ残っており、正確な形態を確認できない。
図 18. 白樺樹皮Ⅰ 図 19. 白樺樹皮Ⅱ
表面に木質痕が付着している。破片の大きさからし て非常に大きな加工品であったと推定される。
・大きさ:残存長 8.9cm
d. 土器
1) 小形瓶形土器 ( 図 20-1, 写真 45-1)
三次掘壙の横木上面で出土した。口縁部の一部が 欠失しており樹脂で復元した。胎土は砂粒と石粒を 含んだ精選した粘土を利用し、焼成度は軟質である。
色調は外面が灰褐色、内面一部と側面は黄褐色を帯 びる。外形をみると、底は平底で、底外面には土器 を回転板にのせて製作する際にできた方形の台痕が はっきりと残っている。胴部は中央で大きく折れて 菱形が強調され、底部と胴部に粘土接合痕が確認さ れた。口縁部は短く外反し、口縁端は楕円形に処理 され、端部は削り取られている。外面の胴最大径に 波状文が一条施紋されており、内外表面が上下に整 面した痕跡が観察され、外面と胴体部下部にひっか かれた痕が残っている。
・大きさ:口径 3.6cm、高さ 10.2cm、胴体最大径 7.2cm、
底径 4.4cm
2) 甑 ( 図 20-2, 写真 45-2)
三次掘壙の横木上面の北側積石部から出土した。
胴部の一部が欠失しており、樹脂で復元された。胎 土は砂粒と石粒をやや含んだ精選した粘土を使用 し、焼成度は軟質である。色調は全体的に黒褐色だ が一部黄褐色を帯びている。
全体的な外形をみると、底は平底で、底の外面に は土器を回転板にのせて製作する際にできた四角形 の台痕がはっきりと残っている。底部内側から外側 へ直径 0.6 ~ 0.8cm の穴をあけ、台痕四角形の中 央 に 1 つ、 角 に 1 個
ず つ 全 部 で 5 個 が 配 置されている。
胴部は肩が若干強調 される形態で、頸部と
胴部の境界・胴部・底接合部に全部で 6 段の粘土 接合痕が観察された。口縁部は短く外反し、口縁端 は丸く処理されていた。外面は櫛描きの後、なでて 整面している。内面に粘土帯を接合するための指頭 痕が 5 ~ 6 段はっきりと観察され、頸部外面にも 一段まわっている。
・大きさ:口径 18.8cm、高さ 18.6cm、
胴最大径 20.8cm、底径 14.3cm
3) 深鉢形土器 ( 図 21, 写真 46)
三次掘壙の横木上面に埋納されていたと考えら れ、二次掘壙からも一部破片が出土した
(2)。胴部の 一部が欠失しており樹脂で復元された。胎土は砂粒 と石粒を包含する精選した粘土を使用し、焼成度は 軟質である。色調は外面体上部が黒灰色、下部は灰 黄色で、内面底は灰色、胴部は黒灰色、口縁は黄褐 色である。黒灰色部分は土器焼成時に煤を吸着した ものとみられる。
全体的な外形をみると、底は平底で、底の外面に は土器を回転板にのせて製作する際にできた四角 形の台痕がはっきりと残っていた。胴部は肩が強調 された長胴形で、頸部と胴部の境界、胴部上部と下 部に 3 段ほど粘土接合痕が観察された。口縁部は 短く外反し、口縁
端 は 丸 く 処 理 し 外 へ 折 り 曲 げ て いる。外面頸部部 分 に 波 状 文 が 一 条 施 文 さ れ て お り、胴部下部には 直 径 0.5cm ほ ど の 小 さ な 孔 2 個 が 若 干 離 れ て 上 下 に 配 置 さ れ て いる。外面には胴 最 大 径 の 上 下 で 上 か ら 下 へ 整 然 と 削 っ て 整 面 し ていた。内面全体 に 口 縁 部 を 接 合 す る た め に 下 か
ら上へとなで上げた指頭痕がはっきりと観察され た。
・大きさ:口径 21.9cm、推定高 32.9cm、
胴最大径 26.8cm、推定底径 13.8cm 図 21. 土器Ⅱ
図 20. 土器Ⅰ
e. 骨 a) 人骨
三次掘壙の副葬空間で女性人骨 ( 写真 47~51) が 発見され、地表下 70cm 地点から男性人骨 ( 写真 52) が出土した。女性人骨は身長が約 149.5cm で、
3~4 回の出産歴のある 30 歳前後の女性で、現代モ ンゴル人と似た容貌を備えていると推定され、男性 人骨は身長が 157.7cm ほどになる 40 歳代の男性 と判別された
(3)。
放射性炭素年代測定の結果は、女性人骨が BC75 年・AD100 年と算出され、男性人骨は AD95 年と 算出された。人骨の埋納順序からみると、女性人骨 は木棺北側の副葬空間に殉葬された状態で発見さ れ、男性人骨は女性人骨から約 3m 上部に追加葬さ れた状態であった。二体の人骨間の血縁関係は現在 の資料を通して推定は困難であるが、上部人骨と下 部人骨の時間差はさほど大きくないものと判断される。
b) 動物骨
①犬骨 ( 図 22、写真 53~55)
二次掘壙床面近くの南西側隅で出土した。遺構を 築造する過程で犬を埋葬しており、三次掘壙上部に 横木をかぶせ、この外に平たい板石をかぶせた後に 作られていた。したがってこの犬は副葬あるいは殉 葬という概念で埋納されたものと推定される。穏や かな姿勢であることから死んだ状態で埋納されたも
<表 1 >馬・牛骨
骨番号 写真番号 部位名 学名 数量
1
63-1
頭蓋骨 Maxilla 2
2 下顎骨 Os mandibula 4
3 肩甲骨 Scapula 2
4 撓骨 Radius 2
5 足骨 Ulna 4
6 上腕骨 Os humerus 4
7 寛骨 Os coxae 3
8 大腿骨 Os femoris 7
9 脛骨 Tibia 5
10 歯牙 Teeth 3
骨番号 写真番号 部位名 学名 数量
1
63-2
歯骨 Dentary 1
2 肩甲骨 Scapula 1
3 上腕骨 Os humerus 2
4 尺骨 Ulna 1
5 大腿骨 Os femoris 1
6 中足骨 Ossa mentatarsi 1
7 撓骨 Radius 1
骨番号 写真番号 部位名 学名 数量
1
64-1
肩甲骨 Scapula 1
2 鼻骨 Os nasale 1
3 中手骨 Ossa metacarpi 6
4 撓骨 Radius 2
5 中足骨 Ossa mentatarsi 4
6 上腕骨 Os humerus 2
7 環椎骨 Atlas 1
8 頸椎 Vertebrae cevicales 3
9 大腿骨 Os femoris 2
10 胸骨 Vertebrae thoracales 5 11 腰椎 Vertebrae lumbales 3 12 尾椎 Vertebrae coccvgeae 5
13 寛骨 Os ilium 1
14 64-2 手根骨 Ossa mauns 12
<表 2 >ネズミ骨
<表 3 >カラス目
<表 4 >野犬骨
のと考えられる。陰茎骨が発見され雄犬と推定される。
②馬・牛・その他の骨 ( 写真 56 ~ 64)
一次掘壙からは男性人骨と共に馬骨と牛骨が出土 した。馬骨は骨盤・肩胛骨・肋骨・趾骨、牛骨は下 顎骨・肋骨・趾骨等が出土した。
二次掘壙と三次掘壙からは牛骨が主に出土してお り、三次掘壙副葬空間に埋納されていた牛骨の一部 がタルバガンのような動物によって二次掘壙まで移 動したものと考えられる。このことは二次掘壙と三 次掘壙からそれぞれ発見された人骨と土器片が互い に接合し、復元されたことから推定される。
その他の骨では、ネズミ骨・烏骨・野犬等が発見 され、少量のウサギ骨・カエル骨・キツネ骨・ビー バー・不明の野生動物骨等が出土している。犬・馬・
牛以外のその他の骨等は、野生状態で遺構内部に侵 入して死んだ動物、あるいはタルバガン等の動物が 遺構内部で移動して入ったものと考えられる。出土 した馬・牛・その他の骨の部位と数量・特徴・学名 等は < 表 1> ~ < 表 5> のようになる。
骨番号 写真番号 個体名 部位名 学名 数量 出土位置 1 56-1
馬
骨盤 Os coxae 1 一次 掘壙 上部 追加 上面 2 56-2 肩甲骨 Scapula 1
3 56-3 肋骨 Costa 1
4 56-4 趾骨 Phalanx Ⅰ 1 5 57-1・2
牛
下顎骨 Os Mandibula 1
6 57-3 肋骨 Costa 1
7 57-4 趾骨 Phalanx ⅠⅡⅢ 3 組 (8) 8 58-1・2
牛
大腿骨 Os femoris 1
二次 掘壙
9 58-3・4 肋骨 Costa 2
10 59-1 趾骨 Phalanx ⅠⅡⅢ 2 組 (6) 11 59-2 趾骨 Phalanx Ⅰ 1 12 59-3 切歯骨 Os incissirum 1 13 59-4 尾椎骨 Vertebrae
coccegeae, S.caudales
(16 節 )一括
14 60-1 頭蓋
骨片 Maxilla
一括 二次 掘壙 内部 副葬 空間 15 60-2・3 歯牙 Teeth
16 60-4 角 Horn cores 17 61-1 頸椎 Axiss
epistiopheus 1
18 61-2 環椎 Atlas 1
19 61-3 趾骨 Phalanx ⅠⅡ 2 組 (6) 20 62-1 仙骨 Os sacrum 1 21 62-2 胸椎 Vertebae
thoracales 2 22 62-3 膝蓋骨 Patella 1
2. 青銅器時代板石墓
(1) 遺構 ( 図 23 ~ 25, 写真 65 ~ 70)
青銅器時代の遺構と推定される方形板石墓であ る。中央部石槨の主軸方向は NW25°で、石槨周囲 の地表には割石を積んで墓の範囲を示している。石 槨は四方に壁石を立てて形成し、壁石は東側と北側 はよく残っているが、西側と南側は破壊が進行し、
原形を判別することが困難である。東壁は幅 25 ~ 76cm、長さ 45 ~ 75cm ほどの厚い板石 4 枚を立 てて形成している。壁石外側には壁石が倒れるのを 防止するため割石を充填しており、東壁と北壁内部 でも充填石が一部確認された。石槨西側内部は割石 が満ちており、皆攪乱されていた。西壁が外れてい る点から推察すると、盗掘によって破壊されたもの とみられる。石槨内部を地表下 150cm ほど平面掘 り下げ作業を行ったが、盗掘と齧歯類動物の攪乱坑 によって完全に破壊され、元の墓坑床面を確認する ことができなかった。土器片は石槨東壁内部充填石 上部で出土し、粘土帯上に施文具を押し付けて施文 したものである。骨は人骨 1 片と牛骨 1 片、ネズ ミ骨 1 片、野生動物骨 5 片等が確認された。
・大きさ:積石部 - 東西 720cm 南北 735cm / 石槨 - 東西 295cm 南北 230cm
(2) 出土遺物
a. 土器片 ( 図 26, 写真 71-1)
石槨内部を掘り下げる途中で出土した。胎土は若 干の石粒を含んだ粘土を利用し、焼成度は軟質であ る。色調は外面が黄色で、側面が黒色である。外面 には粘土帯を横方向に突帯としてつけ、5 本の歯を もつ施文具を一定の間隔で押し付け文様を表現して いる。粘土帯下の胴部には、縦方向・横方向に木板 で叩いて表面調整をしている。内面には 6 本の簾 状文が残っており、これはあて具痕であると考えら れる。
・大きさ:残存長 9.1cm 残存幅 7.9cm 厚さ 1.0cm
<表 5 >その他骨
骨番号 写真番号 個体名 部位名 学名 数量 1 62-4 ウサギ骨 頭蓋骨片 Maxilla 1 2 63-3 カエル骨 脛腓骨 Fibula 2
3 63-4 キツネ骨 下顎骨 Os
mandibula 1 4 64-3 ビーバー骨 歯牙及び
その他 Teeth etc. 8
5 64-4 不明骨 7
図 23. 平・断面図
人 骨
土器片
図 24. 石槨
図 26. 土器片
骨番号
写真番号 個体名 部位名 学名 数量 1 71-2 人骨 腰骨 Vertebrae
lumbales 1
2 71-3 牛 距骨 Talus 1
3 71-4 ネズミ 頭蓋骨 Maxilla 1
4 71-5 不明骨 5
b. 骨
1) 人骨 ( 写真 71-2)
地表下 60cm の石槨内部から発見された。1/3
ほど欠失しており残存状態は不良である。人間の
腰椎と推定される。
2) 動物骨 ( 写真 71-3 ~ 5)
石槨内部掘り下げ中に内部堆積土から出土し、一 部破片のみが残っている。牛の距骨、ネズミの頭蓋
Ⅳ . 匈奴研究概要
D. ツェベーンドルジ
(Д. Цэвээндорж)
匈奴人は古来より中央アジアの広大な領土を占め て生活した遊牧民のうち、最初の国家 (BC290 年 ) を形成した集団である。匈奴は該当時期のアジア史 上大きな役割を担っていたため、当時存在した他の 遊牧民に比べて詳しく史料に記録されている。
全 130 巻からなる『史記』
(4)には、匈奴の系譜 と歴史、そして経済、社会、文化、および対外関係 に関する個別の一章がもうけられており、この書の 別の章にもその他の事件とともに匈奴に関する記録 が相当多く残っている。この史書は歴史家司馬遷に よって執筆され、伝説的な黄帝の時期から前漢武帝 (BC140 ~ 85 年 ) までの歴史過程を扱っている。こ の書は宣帝期に司馬遷の外孫楊惲によって初めて世 間に流布された。全 120 巻からなる『漢書』にも、
当時の匈奴と漢の戦争、匈奴の風俗と生業、社会等 に関する詳細な記録が残っている。前漢は西漢とも いい、BC206 年から AD25 年の歴史を著述する『漢 書』は歴史家の班固 (AD32 ~ 92 年 ) によって執筆 された
(5)。120 巻
( 訳 2)からなる『後漢書』には主 に南匈奴に関する記録が残っており、その他に少な いけれども北匈奴に関する記事も時折みられる。後 漢は東漢ともいい、AD25 年から 220 年の歴史を 扱う『後漢書』は范曄 (AD398 ~ 445 年 ) によっ て執筆された
(6)。65 巻からなる『三国志』には、
烏桓、鮮卑、匈奴に関する記録が残っており、この 史書は陳寿によって執筆された
(7)。全 130 章
( 訳 3)からなる『晋書』にも、狄、匈奴を詳細に記録した 部分がある。AD265 ~ 419 年の歴史を扱った史書 は房玄齢 (AD578 ~ 648 年 ) 等、多くの歴史家の 共同著作である
(8)。私たちは、以上言及した 5 つ の歴史書を通じて匈奴に関する基本的な情報を得て いるが、これ以外にも、中原各王朝の正史および大 小様々な中国の多くの史書にも匈奴に関する記録が 豊富に残っている。最近一部の研究者らはこのよう な資料に着目し、これを自身の研究に利用するよう になった
(9)。
フランスの学者ド・ギーニュ (J. de. Guignes) は、
フランス人宣教師らが翻訳した中国史料に依拠し て、1748 年には『匈奴、トルコの系譜に関する回 想』、そして 1756 ~ 1758 年には『匈奴、トルコ、
モンゴル、その他タタールの歴史』という 4 巻の 本を執筆、出版した
(10)。彼はアジアからヨーロッパ、
すなわち東方から西方へ移動してきた人々の歴史過 程を明らかにする目的からこの本を執筆し、そのた めに中国側の史書の記録をヨーロッパ側の史料と比 較検討した。
18 世紀中葉から、パーカー (E. H. Parker)、ド・
フロート (J. J. M. de Groot)、ビチューリン (Н. Я.
Бичурин) ら様々な学者達が中央アジアの氏族、部 族に関する中国側の史料をそれぞれの母国語に翻 訳した。このうちロシアの学者ビチューリンの著 作は特筆すべきである。彼が書いた『古代中央ア ジア諸民族に関する史料集』という 3 巻の著作は 中央アジア遊牧民の古代史を全般的に扱った重要 な業績で、匈奴の政治、経済、対外関係および系 譜と風習に関する様々な問題を非常に具体的に考 察した(11)。18 世紀中葉から 19 世紀初期に至るま で、ギーニュ、トンプソン (Ch. Thompson)、マク ガバン (W.M. MacGovern)、カーン (L. Cahen)、シュ ミット (I. J. Schumidt)、ビチューリン、パラス (P. S.
Pallas)、クラプロート (H. J. Klaprot)、ベルグマン (F.
Bargman)、 I. Ber ら様々な学者が、中央アジア遊 牧民族についての著作で何らかの形で匈奴問題に言 及した。
1925 年にソ連の学者イノストランツェフ (К. А.
Иностранцев) は『匈奴とフン族』という著書を発 表した(12)。この本では、イノストランツェフが以 前発表した匈奴に関する研究業績の概要が非常に丁 寧に整理されている。例をあげると、彼は中央アジ ア匈奴族の系譜とヨーロッパフン族の系譜に関する この当時学者らが発表した全業績の主要内容を詳細 に検討しており、さらにアジアの匈奴族とヨーロッ パのフン族の関連性の問題までをも考察している。
最初に匈奴遺跡に対する発掘調査を開始した研
究者は、タリコ - グリンツェヴィチ (Ю. Д. Талько-
骨、野生動物骨 5 片が出土した。この骨は石槨が
破壊され外部から流入したか、或いは石槨内部に野
生動物が侵入した痕跡と考えられる。
Грынцевич) である。彼は 19 世紀末にバイカル湖 南部で 16 の地域にある約 100 基の匈奴墓を発掘調 査した。この内訳をみると、キャフタ付近のイリ モフ (Ильмов) で 33 基、チタ川付近のデセストィ ン・クルクト (Десестуйн Кулукт) で 26 基の墓を 発掘し、その他に、ハル・オス (Хар ус)、グシル - ミゲ (Гудшир-Мыгэ)、オルゴイトン (Оргойтон)、
オ ル グ ル - ホ ン ド イ (Ургул-Хундуй)、 ツ ァ ラ ム (Царам)、オスチ - キャフティ (Усть-Кяхты) 付近、
ソジ (Суджи)、ボルドン (Бурдун)、ソホイ (Сухой) 川等の地で調査がなされた。タリコ-グリンツェ ヴィチの幅広い研究調査の結果、多くの遺跡が新た に明らかにされ、さらに発掘調査を通して学術的に 重要な遺物が発見され、その結果が発表された。彼 は自身が発掘調査した墓を構造に基づいて “ 槨があ る ( 墓 )” と “ 棺がある ( 墓 )” の二種に分類し、この 二種の墓は時期的にもそれぞれ別の時期と関係があ ると推定している。
ボ グ ド・ ハ ー ン 期 (1911~1919 年 ) の 1912 年 に “Mongolor” という金鉱会社の技術者のバロード (A. Ballod) は、当時モンゴル国の首都ウルガ ( 現在 のウランバートル ) の北側約 130km ほど離れたハ ラー (Хараа) 川上流のノヨン - オール (Ноён-уул) に あるスジグト・アム (Сүжигт ам)、ジョラムト・ア ム (Журамт ам)、ホジルト・アム (Хужирт ам) の三 つの地域に大小の水たまりがあることを発見し、彼 はこれらを昔金脈を探して掘った穴であると考え、
試験的に掘ってみることにした。このようにしてノ ヨン・オールのジョラムト・アムにある一つの非常 に大きな水たまりを掘ってみると、そこから古代の 墓が現れた。これによりバロードは 1913 年にイル クーツクにあるロシア地理学協会シベリア東部支部 に “ ハラ川上流の高地に所在する未知の民族の古代 墓 ” という多くの書信を送り、学者らにこの墓の意 味について説明してくれるよう要請した。その後、
彼は自身が収集した一部の遺物を再びイルクーツク に送った
(13)。しかしノヨン・オールの墓に対する 発掘調査はすぐには開始されなかった。
この後、コズロフ (П. К. Козлов) らを団長とす るモンゴルチベット調査団がノヨン・オールで約 212 基の墓を探して登録し
(14)、1924 年 3 月から 同年 8 月まで同調査団副団長コンドラティエフ (С.
А. Кондратьев) の指揮下、大形墓 6 基と小形墓 4 基を発掘調査した。発掘の結果、学術的に非常に
珍しい興味深い遺物が出土したため、専門の研究者 らを招請した。専門の考古学者らが到着する前に墓 の図面を描く一方、2.2 × 2.2m の広さで井戸のよ うに掘って調査した。しかしこれは時間と費用を節 約するには利点があるが、墓の構造と形態を調査す ることができないため考古学的に正しい方法ではな かった。その少し後、ソ連人民委員会はテプロウホ フ (С. А. Теплоухов) とボロフカ (Г. И. Боровка) ら 科学アカデミーの考古学者らをモンゴルに派遣し た。彼らは墓の発掘方法と出土遺物を注意深く確認 し、ノヨン・オールの 1 基 (24 号 ) に対する全面的 な発掘を通して、埋葬施設の構造を明らかにするこ とにした。このような目的で本発掘調査は科学的方 法にもとづいて進められた。発掘は 1924 年 10 月 6 日から 11 月 6 日まで継続され、約 45 名の人員 が動員された
(15)。1924-1925 年にコズロフ、テプ ロウホフ、ボロフカらはトゥブ県
アイマクバトスムベル郡
ソム(Төв аймаг, Батсүмбэр сум) ノヨン・オール (Ноён уул) のホジルト・アム (Хужирт ам)、ジョラムト・
アム (Журамт ам)、スジクト・アム (Сүжигт ам) に ある匈奴貴族の大形墓 6 基、小形墓 4 基を発掘調 査し、学術的に非常に重要な遺物を発見した
(16)。 1926-1927 年に科学研究所 ( モンゴル科学アカ デミーの前身 ) 研究員シムコフ (А. Д. Симуков) は ノヨン・オールのスジクト・アム (Сүжигт ам)、ジョ ラムト・アム (Журамт ам) でそれぞれ 1 基の墓を 発掘調査した
(17)。調査の結果、匈奴貴族の墓は前 方部分に入口のある四角形の護石を有する墓で、外 表から奥深くに二重になる丸太で作った壁 ( 槨 ) 内 に木棺を、そしてこの木棺内に人を安置したことが 明らかになった。ノヨン・オールの発掘を通して匈 奴の人々の生業、社会、対外関係、文化、系譜と関 連がある学術的に重要な資料が出土し、その中でも 文字が書かれた耳杯は年代を推定できる特別に重要 な意味のある遺物である
(18)。
ノヨン・オールの発掘調査は 20 世紀初期の非常 に大きな考古学の発見の内の一つと認識され、発 掘当時から多くの人々の注意を集め、関連する数 十篇の論文が発表された。ソスノフスキー (Г. П.
Сосновский) は 1928-1929 年 に イ リ モ フ・ ア ム
(Ильмов ам) で匈奴墓 21 基を発掘し、イヴォルガ
住居遺跡に対する発掘調査を開始した
(19)。この遺
跡に対する発掘調査は 1955 年からダヴィドヴァ
(А. В. Давыдова) によって再開され、一度も中断さ
れることなく数年の間継続された。これと同時に、
彼女は当該遺跡付近にある墓 216 基に対する発掘 調査を実施した
(20)。1950 年にオクラドニコフ (А.
П. Окладников) を団長とするブリヤート - モンゴ ル考古調査団はホジル - デビ (Хужир-дэби)、チェ リョムホフ・アム (Черемухов ам) 等の地で未確認 の匈奴墓を発見した後に発掘調査した(21)。トレヴェ ル (К. Тревер) はノヨン・オール墓の出土遺物を分 類し、このうち相当数を英文とロシア語で発表した
(22)