仏語教育の問題点
引田稔
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情報時代ということばはすでに云い古された感じがあるが,ますますはん らんする情報を的確に処理するコンピューターの技術が進歩する傍で,根元 的にはわれわれの一人一人が自らこのおびただしい情報や資料の中から迅速 に必要な材料を選択し理解し利用して行くことが益々不可欠となっている0 語学,すなわち外国語の学習はこのような情報の選択の範囲を格段に広くす
る。従って語学の重要性について今更論ずる必要は全くないが,この外国語 の学習が永い教育実践の歴史の中で貴重な成果を積み上げ今日に至りながら,
多くの個人的な体験をまとめて考察してみると,賀された莫大な努力にも拘 らず達成された習得の実績はかならずLも常に満足すべきものではなく,一 口でいうと頭脳の鍛練にはまちがいなく寄与したとしても役に立つ外国語の 習得には至らなかったとする例も決して少なくないであろう0その最も大き な反省の一つは,疑いもなく語学の会話主義への移行である。漢文は読めて も中国語で中田の人々と請をすることができなかったことに対する教育上の 反省が何よりも雄弁に物語るように,外国語(欧米語を中心として考えての ことであるが)を読むことはでき,綴ることはできても肝心の会話−聞き とり,そして相手に話す−が不充分では折角の学習もその効用は半減する のは当然である。そこで,会話や口語法,つまり話しことばに重点を移して 語学を学習させようとする動きが盛んになったことはまことに喜ぶべきこと の一語につきる。読めても,話せない○あるいは聞いて理解することができ ないということばの勉強は,どう考えてみても変則である。漢文の例はさて おき,英語やフランス語など欧米語を教えるに当って初めから会話を無視し たことはないにちがいない。故に近年この会話体の外国語教育が盛んになっ たということは前述の如く教育の重点が会話に傾いたということで,それは
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経 営 と 経 済外国語の履修を必要とする社会環境,国際的な条件の変化によるものにすぎ ない。外国語は以前と比校して,Jii.なる古物の上の知的交流から於眼的に日 常的な人と人との接触, [下l[t;~!'I~ な交渉の不可欠な手段としての役割に変って きているが,この 1mr~iJが史に -Jø 増大するであろうことは何人の眼にも今日
は明らかであるO アメリカやヨーロッパでの語学は宍際に話したり聞いたり するための外国語としての学習であり,その機会は今日
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読めて日常的でさえ あるD 日本においても泣からずそれと同じ容易さで外国との一般的な往来や 交際,ビジネスが行われるようになろうとしている。すでにTOKYO
は原 繁な国際会議の舞台である。つまり,日本にとっても世界は急速に小さくな ろうとしているのであるが,振り子をもう一度反対側にふり戻すような表現 になるかもしれないが,あまりにも会話的な語学教育に偏ることのないよう に努める必要が起きてくる。それは何故か。読書中心の語学教育から会話中心の教育へ。そして再ひ、会話中心から読解 力の向上をはかる語学へと振り子を戻すとはどういうことであろうか。はじ め読書力中心の語学教育があったと仮定しでも,その話学が目で己:物を読み 辞書と首っ引きで満足していたわけではあるまい。正しい発音,正しい抑拐 を抜きにして正統な語学教育が罷り通っていたわけではない。故に,その正 しい発音に専かれた読吉:中心の語学教育であるならば,読書力はすなわち会 話能力の基礎を確実に廷うものであった筈であるO 従って読解力中心で会話 の能力をつけるための練習が充分に行われなかったというのは話学の基本的 な方法論に基づくというよりは,その必要が実際に存在しなかったために外 ならない。学習を離れた応用実践の坊での外国語の効用が,会話よりも古:物 での実用に多かったという単純な理由にすぎない。正統な発音の基礎を確実 に習得したものにとっては唯その実用の機会が之しかったにすぎない。そし てたまたま迫過した会話の機会にそのような理論的な基礎づけのみでは応用 が充分に期待遇りに行えるものでもなかったのはむしろ当然のことである。
理論に習熟していても,応用に際して完全にその力の発拝ができないことは むしろあたりまえのことであるO 故に語学とは常にこの理論と実践とのバラ ンスの上に築かれている教育学習であることを忘れてはならない。すると今
日の語学はそのどちらにより多くの比重を置かねばならぬのであろうか口余 りにも会話的に堕さないために,そして過去に経験したあまりにも読吉中心 的な語学教育に堕さないためには,新しい語学教育をどのように反省したら よいのであろうか。結論を先にすると,それは疑いもなく〈きわめて実用的 な会話抱力と,それにもましてきわめて実際的な強力な読書能力〉を詫う外 国語教育でなければならないだろう。語学教育が単なる外国語の学習として 以外に,広く文化的な教誌を与える側面をもっていること,そしてこの面か らの外国語の学習が語学と不可分な関係にある乙とも近年特に重要視されて きた見逃し難い一面であるが,外国の文化,風俗,習慣,国情,歴史,国民性等 の研究などと併せて行うことによってのみ語学の芯味が成り立つという点に ついては何人も兵治のないところであるから,ここでは文法の問題を中心と した本来の語学教育についてのみとり上げることにする。1"きわめて実用的 な会話能力」が今日なぜ特に必要としてとり上げられるに至ったか。それは 申すまでもなく,以変する今日の国際環坊のしからしめるところである。ま たなぜに「それにも増して実際的な強力な読古能力」が必要であるのかとい えば,それもまた同じく,今日の国際情勢,特にその未来への民望がわれわ れに更求しているところの現代人の教芯であると答えることになろうO 語学 の在り方が読侭中心であったことも会話中心となりつつあることも,共l乙時 代の要請であるとする見方は正しい口何のための学問であるかは常に学問 それ白体に対して投げかけられている宿命的な問いかけであって,われわれ は常にこの根本問題に正しく答えて行く義務があるO 外国語ーを自由自在に採 る人口のi也大は外国との人的,物的交流の分
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役会のね1大と正比例してい ることはいうまでもない。そしてこの相互の関係はこれからますます発反す るO その及終到i t
点が切j日の町界においてどのような言活地図となるかは極 々の予測も成り立つであろうが,恐らく,さしあたっては一つの母国語とい くつかの主要な共通誌の共存という形で世界のことばは進んで行くにちがい ない。これらの主要な共通話ーの中にフランス認もまたまちがいなく一つの確 固とした位百をとどめるものと考えられるoわが国における主要な外国詰は もちろん英語であるが,国際協調主訟の理;むを掲げる第二次大戦後の日本の4
経 営 と 経 済進路を誤りなく一層その方向に前進させるためにはフランス語の学習が寄与 する面もますます大きい。フランス語を実際に活用してフランス語を用いる 人々と援する機会,つまり会話の必要性が急速に増大している反面,フラン ス語で書かれた文献や資料,あるいは業務上の文書に接しそれらを直接利用 する機会もまた到底昨日の比ではなし'10 大学におけるフランス語の履修はい わゆる第二外国語的な怠味で学習者にあまり大きな負担にならないような配 慮がなされていないとはいえないが,英語の学習によって習得された外国語 に対する基礎的な文法知識を土台にして,第一外国語(英語〉に比しても多 くの見劣りのしない強力な第二の語学として学習者を鍛えあげることは今日 ではもはや不可能ではなくなってきているとみなければならない。このこ とを可能にした最大の理由の一つはいうまでもなくカセット・テープの普 及であり,大学教育にもとり入れられている新しい教育工具の利用,即ち
e n s e i g n e m e n t a u d i o v i s u e l
の進歩であるO 語学教育は限られた授業時間の 中では会話中心主義に傾けば読解力,読古:力を犠牲にしなければならないし,反対に読解力に重点を置くと,筒UJな日常の会話にも不自由をかこつという ジレンマに陥らざるを得ないのが従来までの宿命的な実↑古であったが,今日 では単なる〈教えられる〉勉学から〈自ら学ぷ〉学習へと根本的な教育姿勢 の転換が期待され,高度な読者:力と平易な会話力とを平行して進めることが 可能となったといわなければならない。このことは同時にいわゆる第一,第 二外国語という主として授業時間上の差からくる在来の区別を実質的には解 消し,好むあるいは必要とする外国語を会話に関してはいつでもどこでも比
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!史的自由な立場‑で習得できる近を聞いたということを志味するO つまり翻訳 か会話かという外国語教育の宿命的な訳題は今日では学校教育の中でもはや 以前ほどの深刻な二者択一の問題ではなくなってきたのである。と同時に,
いわゆる第一,第二外国語という考え方を無用なものとしてしまったという ことができるD そして大学における語学教育の重点が新しい角度からの翻訳 中心に移行しなければならないことを示しているといえるのではないだろう か。
語学とは,きわめて単純には,外国語が母国語と同じように話せたり,書
けたり,あるいは読めたりすることを志味し,またそれを目標とした。相手 に何を話し,相手の何をきき,何を読み,何を理解するのかという内容の問 題は単なる語学の学習である限り,二義的なものとして取扱われた。だがこ のようにある一つの外国語を仮りに《自由自在に〉話すことができるように なるためには非常に多くの努力と時間とが必要であるのに対して,獲得され るものが単なる技能の域を出ないものであるならば,大学における学習者の 怠識の中に残るものは一般的にはきわめて空疎なものとなりかねないであろ う。翻訳家あるいは通訳のようにさながら一つの機械となることを目指す場 合を除くならば,賀す努力に対して収獲は余りにも乏しいと認めざるを得な い。しかし以上は仮りに,<(自由自在に:i>,いわゆるマスターするまでに到 達した場合についてであって,学習者の大部分は仲々そこまでには達するも のではない。そこで大学における語学教育が大多数の学習者にとって有効で あるためには,単に技術としての外国語を会得させるだけではなく語学を辺 して外国文化に対する理解をいっそう深めることを目的として主祝するのは 当然であるD しかしこ乙で注芯しなけわ
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ならないことは,語学を辺して外 国の文化を学ぶという考え方が,語学本来の目的である技術としての語学の 習得という主点から外れざるを得ないことを正当化するための口実であって はならないということであるO 語学をマスターすることはできなかった。し かし,語学という学問を通じて語学以外の何かを学んだということで自らを あるいは他を!改めるならばそれは一つの自己矛盾という外はない。話学はあ くまでも語学であり,手段であり,技術である。到達すべき只の目以がこの 手段を用いて達成される彼方の何かの具体的な目松であるとしても,語学は あくまでも語学という限界の中で明陀にそれ自体を認識され把握されなけれ ばならない。一凡内容を持たない'1::]山な涼が外国語の学習であるかにみえる が,この空政な形式が p 誌の本質的な形であり,外国語の ~111~日tl a s t r u c t u r e
を分析し,理問し,再l i
l11
築する知識に注することを目指す学習は決して《空 疎〉ではないのである。日本の大学の現状は,大部分の学生は英語を主要な外国語として永い年月 をすでにそのための学習にかけているO 大学において史にその知]訟が深く広
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経 営 と 経 済く磨かれるのであるが,フランス語をはじめて大学で学ぶ者もこのような基 礎をすでに持っているので予必以上の早い速度でこのいわゆる第二外国語を 習得して行く。英語と仏語は同じ語族に民する言語として多くの,そして学 主j'l'i‑にとってみれば恐らく予似以上の類似点をもつからであろうO 大学のフ ランス詰数百はこの類似点を最高度に利用し,英語より非常にむれて出発し た学習ではあっても速かに英語の学力にまで近づけ,そして,決して大胆な 云い方ではないと思うが,英;百に劣らぬ語学力にも注するように括主主しなけ ればならない。その可能性は充分にあるO しかし,別な見方をすると,第二 外国誌の学習が第一外国語である英認の学力を向上させる上にも役立つとい う相互的な効果も充分JVJ待できるであろうO 何故ならフランス文法で用いる 文法用語のほとんど大部分が英文法の用語と大去のないことをみてもそうい いねるのであるO
いかにしてフランス詰ーをマスターするか。
そこで考えられる長も賢明な方法は前述のように大学における学生の大部 分がすでにかなり高い英語の学力を身につけているのであるから,この基礎 的な教誌を有力な足がかりとして
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克服的に第二外国語の基礎学習をお諒する ことである。投手の二年間でその仕事はほぼ充分な成果が期待可能とな る筈であるO その上更に専門課程へ進んで次に応用力をつけるように辺くな らば,第二外国語は第一外国語と比べても決して大きな見劣りのしない有力 な語学力となるだろうO ここでは仏語そのものを専攻する専門課程以外の仏 誌をいうのであって,それは一般的な専門却程(例えば経済学部など)の中 に設けられている外国古前誌の授業が対象とする第二外国語としてのフラン ス語のことであるD ここでは,すなわち専門課程では,形の上ではもはや第 一,第二外国語の区別は存在しない。どちらも受前者の自由な起択に任せら れているし,平等の時間割が組まれているのが普辺であるO教廷課程ではじめてフランス詰を習い,専門課程で英語に匹敵するような 強力な第二の外国語としての実力をたうために絶対不可欠な語学教育のポイ
ントは
v o c a b u l a i r e
を倣底的に習得せしめることであるO 会話中心の授栄 では,y ; { (
にその初級入門コースにおいて当然のことではあるが, 1lJ1.ら基本語を中心l乙反復による効果を最大に重視するO しかし専門課程における第一の 要請は笠宮な
v o c a b u l a i r eの知識である
o大学は教義課程で終るわけでは なく,あくまでも専門課程への基礎の充実を目指すという主要な芯味をもつのであるから,基本語 ~g の習得と併せて更に高次元の語主主への approche を
考えなければならない。語宗なくしてことばは成り立たない。この平凡な事 実はしかしそれほど主視されていないきらいがあるのではないか。反対に,
むずかしい文法や語法,表現
e x p r e s s i o n sはさておき,笠宮な単語の知識,
その確実な応用が可能ならば,相当部分の会話的な実用性をも賄うことがで きるのではないか。ある外国旅行の休股記が述べているように,全く外国語 を知らないツーリストの場合でも,何がいちばん役に立ったかというならば,
それはせめて数字を
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から1 0
まで党えて行くことであるという。1 1 1
なる一笑 に付すべき旅行談ではあろうが,もし状況に応じて必要と思うことばを巾純 にただその単誌だけを臼由に記J隠していて使用できたとすればそれはもちろ ん1
から1 0
までの数字の陪記などの比ではあるまい。大学の教育で日町す語 学はそのような安上りの,その拐しのぎのカタコト語学でないことは白明の ことであるが,欧米諸国の田氏が互いに外国認というときは兵なる言実とは いいながらほぼ同四同肢の言語相互の問である乙とが多い。文法体系もゴド7 ; ?
に大きな差はないD彼らにとって外国語の学習とは,そこで,何よりもまずそ の国の単誌を党えることが必~であり,有効な手段となる O われわれの拐合 は,全く兵なゥた ~IL 洋日のヰ1 の日本誌を母国語とするのではあるが,われわれ は永い歴史の中で山けてきた法lJf U ' J
な孜誌としての欧米文化の吸収lこ加えて,すぐれた学校以育の成果として今日lIJ民の大部分は基礎的な外国語すなわち 英語の理解をよ?につけているのである。日本誌から英語への辺は苦しく速い ものであったが,それだけに英日からフランス沼への辺は涙なしに可能とな る可能性.がある。それには倣底した
v o c a b u l a i r e
の習得と司1I
紛が必安・であろ うD またこれが泊二の外[J;l J 5
をマスターするためのむ‑短距間につながるO し かし、このv o c a b u l a i r e
に閃する詳細な捉言は別のぬ会にゆずらねばならな い。そしてこの論文では次の主要な点に移りたい。フランス認をマスターす るために取組まなければならない次の問題とはフランス文法,そのH:IJ s l a
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経 営 と 経 済s t r u c t u r eそのものである
Dフランス文法入門の学習は英文法との比較対照を主視しながら行われるの が普通であるO だから名詞とはなんであるか,冠詞とは何をいうかの説明を 要しない代りに,英文法lこは
1 m
しリ,a r t i c l e p a r t i t i f や l epronominal
の用 法が指摘される。品詞;命的にも文平論的にも仏文法と英文法の主なりは広い ので,仏文法の; 1 5 5 2
は一見きわめて容易で会得され易いもののように思われ るが,これはあくまでも基礎文法に関してであって,昨単にフランス語にお ける動詞の変化が英語に比べて複雑であるということがら以上に,教益課程 の二年を終了して専門課程へ進んだ大学後期の学習においてもフランス文法 の仕組みは,仕組みとしては充分に納得されているかにみえて,実際応用の段 階ではかならずしも納得の行くものとならない。このことは現場の教育を通 じての偽らざる体験であって,一体これはどういう理由に依るものか,しば しば深刻な反省を与える結果となるO 大学は入学後の最初の教義課程で複数 の外国語の履修を義務づけるので,実例の一つをいえば学生は英語の外にド イツ語かまたはフランス語を選択し必修しなければならない。これは高等教 育の中で外国語を重視する建て前からであることは勿論であるが,語学は個 人的な適性とも密接にかかわっている科目であるから,不得意とする者も決 して少なくはないだろうD これらのJill習者は別としても必修の単位が終了す る二ヶ年の授業で大部分の学生にとっては大学における本来の意味での語学 教育は終るO そして,専門課程では外国主詰読の機会が与えられるので,教 義課程までの永い年限をかけて積み上げられ禿われてきた第一外国語として の英語はいよいよその教育が目椋としてきた語学の〈実際的な応用力〉を発 揮する段階に到達するのであるが,フランス語もまた同じように,他の第二 外国語岡本Jt,外国吉:読読の科目の中で実i
法的な応用力を試されるわけである。しかしフランス語の実際の習得状態から推し測る限り,もし教誌の二カ年の 授業を受けただけで専門課程に進んでの後期二カ年,フランス語との実戦的 な接触を絶たれたままであるならば,その語学力は在学中すでに大きな取り 返しのつかない損失を受けたままで終り卒業ということになるのではないか と思われる。まず大学の二カ年間で学んだ,というよりは記憶に精を出した
単語(フランス語)の大部分を忘れてしまうのではなかろうか。われわれは歴 史の勉強において,細かい年号や日付はやがて完全に忘れてしまうO しかし 歴史の研究の中で汲みとることができた大局の流れ,時代の特徴や手家の継 起,その原因や結果や大筋の経過など,いわゆる歴史の芯味については立主 な理解と知識とを得ているO またその中から貫主な教訓│を学びとることがで きるO そしてそれらはわれわれの今後の生活に
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立主な貢献を果す。語学の学 習において,単語を忘れ去ってしまうことはその外に何が残るのであろうか。逆に,単語のような附記は忘れられるものであると矧念して,語学そのもの 以外の何かを,例えば,語学学習の材料となった断片的(あるいは完成され た)作品の内容がもたらす芯味
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ヲなものの価値を豆祝して教誌に資すること をあらかじめ考えるべきであろうか。しかし,内容はあく迄も内容の問題で あって,語学とは,その内容を容れる容器としての枠組みの問題であり,思 想という内容を盛り,その形を笠え,その微妙な発想、の民間を可能にする伝 達手段としてのことばの収り決めである法日IJを会得することにある。この内 容そのものを従とし,形式そのものを主とする〈ことばの仕組み〉の解明,その仕組みを自分自らのものとする学習努力に興味が杭たわるのである。
フランス語のマスターはこのように,マスターすることの中にすべての吾 びを見出すものでなければならない。もしフランス語で古かれた中身の思想 が問題であるならば,自らの学習という手順を省略して翻訳を利用し思想そ のものの研究に進むことも可能であるO またその思想の大まかなな味がJm
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できた泊四で先へ進んで行くことも差支えないだろう。しかしながら,武器 としての,手段としての〈語学〉の研究である場合にはそのような飛躍も省 略も全く許容されない。工[庄が一つの箱を作り上げるように,寸分狂いのな い目盛りと組み立てによって作品は完成する。微細な思索の
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去をも逃がさな いように文立を解読し,あるいは表現する仰を学ばなければならない。語学 とはこのようなものであろう。英語から仏
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へ,教i i
課程で出発したフランス語の学習は強力な文法知識 をすでに充分身につけた上で始められて二カ年と配う期間を経て専門課程に 山むのであるが,このようなコースを辺択した決して多くはない学生のフ1 0
経 営 ' と 経 済 ランス語の学力に践してみて,第ーに感ずる乙とは,日本人にとって,欧米 の外国語という全く呉なる言語体系のことばの学習がいかに大きな本質的な 困難を背負ったものであるか,という実感である。もし第一外国語である英 語の学習を通じて,文法の本質的な特徴が何であるかに粘辺していれば,第 二外国語であるフランス語の理解はそんなに困難なものではなくなるのでは ないだろうか。注;立深くフランス誌の解き方を学生の答案の中で検討してみ ると立外な事実を発見する口それは今日ではすでに古典的でさえある「主語 +動詞+目的(または補語)J
という基本文型に対する理仰さえ案外に徹底 していないという事実であるO デカノレト的な表現をあえて用いることにして,もし学生が<{
C ' e s t un livre>
または<{J ' aime ma mere>
の如き基本的 かっ典型的な最初の一つの文p r o p o s it i o n
を其に正しく,ということは外国 語の桁慌に沿った形で理解し,乙れを確実な出発点として,確実に一歩一歩 段階を進めて行くならば,その僅かな努力だけでも測り知れない多くの話学 的な成果に確実に到達できる筈であるが,現実の答案はなぜか多くの特にあ まりにも多過ぎる混乱に陥っているのを示しているO ここで答宗というのは,辞苫:を用いて解釈することができる仏文の問題に対する昨答のことである。
学習者はフランス語のどのような点でいちばん多く文法的につまずくのであ ろうか。学習を指導した永い問の経験と多くの答案例から結論として何を学 びとることができるであろうか。フランス語教育上の最も主要な問題点がい くつかこのあたりに横たわっているのではないだろうか。学生はどのような 点で最も多く間違うのであろうか。(すでに述べたように,ここでは専門課程 に進学した学生の学力を対象とした考察であり,考察の対象から原則として
v o c a b u l a i r e
の問題は除外した。1 1 1 1
文とv o c a b u l a i r e
とは密接に絡るのであ るがそれは別の機会にゆずることとしたからであるo)まず第ーに枯文,す なわちl as t r u c t u r e
の問題点があろうO 同じことがらに局するが基本的な 文法知識一一それも既に述べたように英文法の知識があれば充分類推できる ような文法事項から,フランス詰としての特徴的な文法までふくめて形の上 でも,用法の上でもきわb
てやさしい文法規則が未だに確実に把握されてい ない未熟さという問題点もあろう。これらのポイントは単純な文法問題であるからあせらず着実な絞習の積み重ねによって一つ一つていねいに学習して 行かなければならないが,これらと時に入り乱れた形ではあってもなお,次 のような主要ないくつかの点を指摘しなければならない。それはまず〈論理 的な思考〉の問思点である
O仏文和沢の通常の解沢問題にY 0 Z 組み完成した自らの答案を読み返してみて,
そこに「雪が思く,炭が白い」とあればどこかに誤訳がひそんでいることは 直ぐにも気づ、かねばならぬことであるが,文立の内容的な盟仰を無視して文 法上の操作のみにはまり込むあまり,自らが知らずに犯している文法師沢上 の誤りに気づ、かないでいるという例は答案をみる限り決して珍しいことでは ない。論理内な理 m の深さが充分か充分でなし
1かを泊えず反省しながら学習 をすすめるという態度が, I 7 1 に語学の力を向上させるばかりではなく,話学 によって思考ブ 3 をあ1 J 深なものへと導く主要な誌となる
on 定 す べ き と こ ろ を 否定して怪しまない伊!などをあえて加える必要もないかもしれないが,山田 的な反省とともにす H Llするという根本的な態度を絶対に忘れてはならない。
誤訳ではないが,
y克ミ lにこ;辺丘切な;戸言沢~沢:てL沼i沢?í沢;尽t文としたいと J応古すずミる(例子列j は 2名答5宰;2宗5 を j採1ネ不お:乙υ,1点I側の 7 希 ; 吉 7 望[に乙とどまるのではなくし, 2 答 生 2 案 足 の l ' 作
y乍ド成者者.白よ身 f が l t 山;百:に乙の i 治 命 3 阻 豆 引 O 的包な反 f 省 ;
点 l に乙立つて;活吾学して行くなら{ば:1',話学の実力が初めてほんとうのものとなっ て行くだろう
Oことばとは治四そのもののことである
oi
l6cに論理的な思考のが
iれのけ
lでこ
とばを見えなければならない。この但木 (lí な言 ~i}r~~~rt を尖う必 o がある O 次の例をみよう一一
L ' i n d u s t r i e a m e r i c a i n e d e v i e n t
,chaque j o u r
,un concurrent p l u s menacant pour l'Europe , q u i a n 勾 nmoinsr e d u i t considerablement l e s d r o i t s d e douane s u r l e s p r o d u i t s a m e r i c a i n s .
乙の文章にみるように, v e r b e の後にくるものは状況術活(Il:}, J 見所,手 段,方法, e t c . ) または目的桁認であるからこの定型的な文江川む ( 3 C J 4 l の
形式)を理;~~二しておれば全文の文 IllìCを仰くのには少しも囚却を広~ないだろ う O しかし ~unc o n c u r r e n t . . . pour
l'Europe~ における f:llj びつきは,〈競争者〉が治と治の競争であるのか,~私の , 111z の,治々の… j'Jj日IJ'~百ー〉と
1 2
経 営 と 経 済 いう観念の登場から ~pourl '
Europe~ に結び、つくという論理的な思考に慣れていなければいたずらに問題文の中の単語をあれこれと組み合わせること に時間を買すことになってしまうだろう。同総
l
乙,他の例として, ~lesd r o i t s d e douanc s u r l e s p r o d u i t s
américains~ とあったものに対して,《関税〉という語はここでは《何々に対する〉として前置詞 ~sur~ によっ て結びつけられている o~ 閃税》という話が 1~f~
,
乙《何々に対する〉という用 法の中で結ぼれるという芯味ではないが,文法を解釈する場合の基本的な態 度として強調するためには,与えられたテキストの中における実際の用例,用法を結果的に吟味して,そこに《関税〉という語が ~sur~ を介して名詞
1 e s produi t s americainsと粘ひ、っき明確な一つのまとまりのある言語イメ
ージを完成している点を明確に会得させなければならない。もし結果がまだ 不分明で何と結びつくのか判らない場合,すなわちl e sd r o i t s d e douane
がいかなる語と関連するのかが明らかでないj
易合は,文2 2
の中で、の前後関係,つまり contexte によって当然にこの語は ~les
p r o d u i t s
américains~ へと導かれるし,古:物ではなく話しことばとして捉えられた場合にはこの語は 途中で区切られることなく《名詞十名詞〉という最も基本的な形で前置詞
<tsur~ を介して固くその補語に結びつくだろう。その文法的な位置も文志 も疑念をさしはさむ余地を残さずに論理的な一貫性によって統一される。他 動詞がその目的語と結びつく場合も岡本長であるO 一見きわめて単純であり,
初歩的な語学の素誌をもってして充分とd思われるこの論浬的思考形式の会得 こそ外国語(ここではもちろんフランス語のことであるが)の正しい理解に おいて根本的に重要な問題点であろうo
勤詞(他劫詞)が目的語と結びつくという形式は語学的にはもはや説明を 必要としないまでに学生にとっては常識化している基礎知識であるが,英文 法と具って仏文法においては目的語は
complernent
であるO ただしc o r n ‑
p 1
るr n e n td ' o b j e tである
O動詞はこの目的語を補われて本来の志味を完成す るO 乙の二つの語,すなわち二つの文京の問の関係を単なる形式的なものと して処理してきた習慣・が文法の根本的な理解を妨げる結果となっていること を見逃してはならない。つまり文法が形式的に理解,理解というよりは単に暗記されている限りその文法知識は応用力に之しい形骸となってしまうだろ う。次のような
v e r b e
とそのcomp1ementd ' o b j e t
との関係を解かなけれ ばならない出題に対して示される学習者の戸惑いは乙うした問題点を浮き彫 りにしている一一( 1 ) Tokyo demandera a s e s p a r t e n a i r e s europeens
,e t notamment a ceux q u i 1 u i 0pposen! e n c o r e 1 e p 1 u
えとと江i e r e s con t i n g e n t a i r e s , c ' e s t ‑ a ‑ d i r e l a France e t l '
Ita l i e
,d e s avantages compensate
t1r s .
( 2 ) Nous d i s p o s o n s d'une masse d ' i n f o r m a t i o n s incomparab1ement p 1 u s r i c h e e t p 1 u s compr
るh e n s i v eque jamais auparavan t .
( 3 ) Ce p r i x ( 1 e p r i x Nobe
l)j o u i t d e nos j o u r s d'un t e l p r e s t i g e que 1 a g l o i r e d e s 1 a u r
匂t sr e j a i 1 1
itnon seu1ement s u r l ' i n s t i t u t i o n a 1 a q u e l l e i 1 s a p p a r t i e n n e n t mais a u s s i s u r 1 a n a t i o n d o n t i 1 s s o n t membres.
( 4 ) Dans aucun domaine on ne s ' a c c r o c h e a u t a n t aux p o i n t s d e vue c o n s e r v a t e u r s que dans 1 e s q u e s t i o n s m o n e t a i r e s .
( 5 ) C ' e s t a vous q u ' i 1 a p p a r t i e n t d e s maintenant , e t s a n s p e r d r e un i n s t a n t
,d e j e t e r 1 e s b a s e s d e 1 a s o c i e t e humaine
,s a n s c 1 a s s e
,d o n t nous revons t o u s .
以上の諸例はきわめて明快な
i : i 1 i f
造から成り立っているが,この文i;it(rj'造が 学習者にとってIリH J
とであるか否かは学習者がそこに一貫する論理杭むの本質 を見抜くか否かにかかっているD ともすれば形式的に話と詰を組み合わせよ うとする扱い方は文を可能にしている論理がまず存在し成立していることを,換言するとことばの本質に対する認識を誤っている。この根本的な認識が会 得されないかぎり,飛躍的な前進を
NH
与することはできない。徒らに応用力 のないケースごとの総??を反復するだけのことに終ってしまうov e r b e
とそ のo b j e t
との粘びつきはフランス文法の中の中心的なメカニズムであって,そこから他の多くの文法的な閃係,すなわち文京日むの正しい担仰が符られ
1 4
経 営 と 経 済ょう
O名詞とその柿詰,あるいは形容詞とその補語という関係もたちまち鮮 明なものとなって硲突に把担されるに至るだろう
Oそれは個々の陪記ではな く,個々の場合を明確に住宅日して行く生きた法日1jとなるのであり,応用を産 み出す理念的な原 H リを白分のものとすることである
O形容詞とその柿語の例 を一つ話げ、ょう
O( 4 ) Faut‑
i1donc c o n s i d る r e rque l e c o n c e p t
<d~mocratie~e s t v i d e d e s e n s ou
,c e q u i r e v i e n t au meme
,q u ' i l recouvre d e s r e a l i t 己
Si n f i n i m e n t v a r i e e s ?
もし v er be とその o b j e t のように,二つの文京の問の関係を論百!的な思 考l こ辺かれてたどるという言語の本質的な田好ーが定岩すれば,答案の中でし ばしば示されている不用なな混乱の大部分は辺けられる筈である
D文法教育
において特に官:~しなければならない問題点である。すなわち,最もふつうには,状況指 n 誌の位百によってもたらされる校維な形式に惑わされることが なくなる筈である。既出の文例 ( 3 ) にみられるように v e r b e の j o u i r と d e の 問に掃入された状況補詰ーを飛ひ、越すことは次の例の取扱い同松,初級文法
lこ 尻することであるが,宍際{こはしばしば学習者の[民を混乱させる
Dそれは前
述のように形式を学ぶ以前に J~~ill しなければならぬ論理的な配広が不徹底であることに芯因するのである
o( 5 ) On pa 巾 i t 主盟主主えさ乙 j 盟 泣 出 旦 ム 辺 丘 coud ' une prochaine hausse d e s p r i x .
出入される状況補語がきわめて典型的な《時,場所〉をあらわす場合は案 外来に文京の主 I Jt足が可能であるから動詞をその目的語に結びつけることも比 政的容易な作業に終るかもしれない。しかし《手段,方法,あるいは桜子〉
などおよそ状況と名づけられるものは《目的語〉以外のすべてを合むわけで
あるからその紫雑な姿は文脈の発見を苦しめることにもなりかねない。乙の
32維な N5H'fを~笠原する第一の手がかりは主動詞の立味を論理的に追求し必要なお n 活と正しく粘ひ、つけることでなければならない。次の例は学生にとって
やや難解ではあったが明快な構造であることには変りはないo
( 6 ) On peut donc
,p a r t a n t d e c e s c o n s i d e r a t i o n s admises unani‑
memen t , d e f i n i r
~ロ terme三 encoreextrêmemen!_~énérauxl e regime democra t i q u e comme c e l u i OU l e Pouvoir r e p o s e s u r l ' o p i n i o n d e l a masse d e s c i t o y e n s , determ i n e e par l a m a j o r i t e d e s s u f f r a g e s e x ‑ pnmes.
つまり
d e f i n i r
は次のように成り立つことを論理的に会得させなければな らない。( 7 ) On d e f i n i r a l a greve comme une c e s s a t i o n c o l l e c t i v e d ' a c t i v i t e due a une d e c i s i o n d e s s a l a r i e s .
構文的
l
乙複雑な文章,すなわちi n c i d e n t e
や長い状況柿語節の多い文章に おいては主節を正しく発見しi
合理的に反聞を跡づけることから出発しなけれ ばならないが,その前提となるのは前述のようにv e r b e
を〈その芯味に従 って〉補語と正しく結び、つける乙とである。この基本的な文法の考え方を学 習者に徹底することを何よりも主祝しなければならない。それは決して単な る形式上の問題処理の技術では片づかない。そして,何故に掃入が行われる のか,何故にその必~があるのか,その文体上の芯味を文立心理の JÚ平剖とい う観点から理仰させなければならない。一歩ごとに,あたかも反論を合成し,予めそのぬ先を
; n
Jjするかのように,あるいは目的地への一直線の到述をあえ て避け,あたかもその途中の収獲を楽しむかのように注芯深く1 f l i j
立に外れな がら,しかも辺j
巧の大制をにぎりしめながら読者を高みへと誘ういわば文学 的な手法と少しも変らない文休上の配I ' r c
が非文学的な作品でも普通に行われ るものであることを充分に認識させなければならない。われわれがもっぱら 論理中心に文法の筋近を仰明して行くならば,この文法のメカニズムによって次のように,去現の ~jl 附や分 ~~~;'Il,つまり最も密;主に結び合わされなければ ならない関係にある活がいとも
f m l l . i 1
こ問を剖かれ,しかもそのような場合の 印入が文脈の発尽に少しも阻む fJ.~を与えないで成立することを容易に担解す1 6
経 営 と 経 済 ることができるだろう。たとえばaur i s q u e d e
の表現の聞に,au r i s q u e
,1 o r s q u ' i l s 己 chouent
,d e . . .
のような形の挿入が用いられ,1 a preuve q
が え~~g~__il~_l~~r:>_~ç_~_, _c1~I.己旦豆rgie il1Qæique _~_C!~9S U f l L o P ̲ l 1 L e l J i Q
旦e l l e a compris
のような文例に接することとなるO副詞が助詞を修飾するまたは補うという文法上の約束は全く不必要である 程充分に理服されている反面,比肢を志味する表現(またはそれに近い次の ような表現)の中の前置詞
d e
のはたらきが充分会得されないでいる例にぶ つかるとき,形式ではなく,論理的な着想をいかにして豊かに育てるかがか ならずしも容易な問題でないことに思い当る気がするのである一一一( 8 ) De 1 9 5 8 え 1968
,l e s i m p o r t a t i o n s en provenance du Japon o n t p r o g r e s s e
主4 5 8 9 6 .
もしこの問題を解くに当って,前置詞
d e
の用法として形式的に考えるな らば ~de~ のさまざまな用法の中から,この場合の de がそのいかなる用法l
己当るかを考え出さなければならないが,正しいJll Q
序は全く逆であって,p r o g r e s s e r
という動詞の志味,その論理的な展開を考えてI
増加した」または「減少した」という表現が論理的に呼び寄せるその《差〉に関しての 表現,比較上の数量差をあらわす観念の登場を期待しその語との結び、つきを 求めなければならないO それは
v e r b e
がcomp1ement
として時にo b j e t
を 求め,c i r c o n s t a n c e
を要求するのと全く同ーの規範に屈するD 形式的な発 想を徹底的に打破したのちにはじめて志味をもっ文法上のいわば一程のs e r v i t u d e
としての形式に対する理解でなければならない。形式的思考に陥 って,ことばの本質の論理性がとかく無視されてもそれが語学であるがため にあたかも許容されるものと錯覚されているかの如くである。だから,仏文 解釈の問題を解くに当って,論文のテーマなり,治主s
の展開によってまず常 識的にも当然,否定でなければならない結論や叙述が,平然と肯定されてい たりすることが皆無ではない。語学を空己k
な形式の研究としてしかとり上げ ていないことがよく判る。それは語学の学習を根本的に誤るものであり,永 い年月,時間を賢しながら語学の学力が往々にして遅々としてその効果を発揮し得ない学習者にとっての最大の理由の一つであると断言してよかるう。
外国語の学習を文法の形式から入るのではなく,論理,その思考,発想形 態から入ってことばの本質に迫るということは,われわれ(日本人)からす れば,外国人の思考形式の特質を把握することに外ならない。外国人のもの の考え方,ものの見方に精通することがその言語を会得するための最主要問 題点である。しかしこれは在りふれた主張であって当然すぎるほど当然で殊 更いまこの点を強調しでも無駄なことかもしれない。しかし,多年に亘る多 くの教育経験が認めることは,学生にとっては外国語の学習が芯外に大きな 困難となっているという実情であり,それはこの点に対する認識と適切な対 策が欠けていることによるといえようD それはある;意味では暗記主義を中心 とした教育の在り方そのものによる犠牲かもしれない。何故なら,
vocabu‑
l a i r e
の暗記は比較的に可能であっても,同じようにs t r u c t u r e
の附記とい うわけにはなかなかし1かないからであるO 初級文法を終え,中級から上級へ の語学学習において遭遇するいわゆる文法上の問題点,翻訳上の諸問題は,なぜ誤訳し,なぜつまずくのかの問題は,辞典の貧しさ,文法当:の欠点,学 習の未熟さなどその原因はさまざまであろうが,語学教育上特に解決しなけ ればならない問題点は形式的には文体上の配応ということもできょうがこと ばの本質に即して考えるということ,日本語と外国語の発想および論理反閃 の根本的な相違を認識することであろうO これを政治経済に関する治文著書
l
こ焦点を絞ったフランス語・の文章枯造の中で具体的に分析してみると次のよ うな諸点が明らかとなるのである。以下!唄を追って学習者が犯し易いf a u t e s
あるいは最もしばしば迫辺するd i ff i c u l t e s
について詳述してみたい。同時 に仏文肝X R
上とくに官立しなければならない指導上のポイントを併せて指摘 することとする口E a.
日本語との比I段。沢文の日本認をみて,それが白木認で組み立てられてはいてもふつうの日
1 8
経 営 と 経 済本語の文にはならないいわゆる翻訳語の羅列であれば,そこにはまず誤訳が ひそんでいる筈であるO 原文をその佃日
r r
について再考しなければならないの は当然であるのに,果して教室では実際にそれが為されているであろうか。日本語ではそのことをどのように言うかということを反省してみなければな らない。直訳は必要であり,文脈を正しくたどるためにはまず語を直訳の形 で仮りに正しく位置せしめ,しかるのち文芯の中で正しく,あるいは相応わ しく〈意訳〉ーすなわち〈迎訳〉しなければならない。乙れは唯単なる一 つの単語の訳語についてではなく,直訳すると廻りくどく日本文としては芯 味が取りにくくさえなる場合がある。そのようなときには前述の如く直訳に よって文意を碓めた上で大胆に芯訳し,全文をすっきりした日本語の文立と して示すべきであるO もしこれとは別に解釈不可能な詰または文に造過した 坊合は,事実そのような羽合が照慾なのであるが,そのときはそのまま,た とえば辞古:の中の訳語を借りる J~ としてでも,そのまま直訳しておくべきで あるD それは将来への足掛りとして残しておけばよい。訳し強い語,日本語 に移し変える乙とのむずかしい語に出迎うということは学習の途上において はむしろ当り前のことであるO また学生lこ認す仏文解釈の出題の中で,問題 の背景となっているととがらに対する一般的な教義,予抗的な知識の不足が 正仰を妨げている例もまた珍しくない。語学とは乙のような背景となる広い 知識への探求心を刺激し誘うものとして見逃し得ない役割をも果すものであ ろうO 翻訳の文辛が学習の年月に応じて専門的,つまり現実的な出来栄えと なって行くのはこの間の手J出を説明しているD
フランス文法の最大の特徴はその性数変化
l eg e n r e e t l e nombre
にあ るが,この点もまた日本語からは入りにくい。形式的にはきわめて単純な文 法事項であっても言葉のかげにかくれている現実のイメージはしばしば軽視 されるO 翻訳は表面的には一応成功しているようにみえて,宍休の把担は不 完全である。その位かな認識のずれがいくつか主ねられて行けば全文の思訟 はやがて11交味なものとなり,理仰の不一致が生れる乙とにもなるだろう。次 の例文においては名詞がlil1lJ.として仰念されるか校数としてのイメージに結 びっくかによってかなり重要な差が生ずることを語学としては決して軽視することはできないのである。
( 9 ) Les o r g a n i s a t i o n s i n t e r n a t i o n a 1 e s e t 1 e s Etats commencen t a prendre cons
cIence d e c e phenomene e t d e s e s consequences.
日本語においては一般的にはフランス語ほど
1 enombre についての観念
がきびしくはないので,例えていえば,~隣家の犬がやかましい〉というと き,その犬の数がI
手数であるか複数であるかは問うところとはならない。単数か複数かという一種の二元的な発想形式の別な例として,二つの語 (問念)を対照的に,または対称、的に取り上げて推論するという特徴的な文 章構成が仏文にはあることを教えなければならない。
Pourcomprendre 1 a forma t i o n d ' une langue ou d ' une r e l i g i o n
,n o u s . . .という文の中では une 1angueだけで主題の展開には充分であるように思われるが他にもう
一つのことがらを引き合いに出しているO 一つではなくもう一つを主ねると いうゴ?え方の特徴は及もふつうにみられる発忽上の特色であって,その特1'1 は西欧の二元的な認識の紋式に深く基づいている。I n d i v i d u e 1と s o c i a 1
,i d e a l
とr e e 1
,al ' image d e s a u t r e s
とavec d e s t r a i t s originaux
,moyen d e 1 e s c o n t r a r i e rと moyend e 1 e s f a v o r i s e r
,更にはn u i s i b l eと b i e n f a i s a n tなどという如く,対比が行‑われるのである口われわれが盟加し
なければならないのは,形式上の対照ではなく論理であり,認識の方法l 乙
関する特色を理仰することであるO また別の例を用いると,たとえば論証に は理由を示すことが主要な方法であるが,
p a r c e queや c a rを述売するこ
とは文体的には氾府なものとなるだろう。そこで同じ用誌を反復することな くこれに代るe x p r e s s i o nを作り出さなければならない。それがフランス的
なr h e t o r i q u eであるとすれば,形式から学ぶ前に,そのような l 'a r t
を生 み出している論理そのものの流れを追求する態度をとらなければ,いたずらに;;~;~ ~~ft な外見上の文法のとり乙となるだけであろう O 同 j各(1'
a p p o s i t i o n )
もまたほぼ同じように,この二元的なフランスの発忽につながる表現のa r t
とみてよいD しかし学生の多くの答定はa p p o s i t i o nであることに充分な注
~I~ が周かぬことが多い。日*誌との比政において,たしかにこの周辺;との問
2 0 経 営 と 経 済
には呼吸の差ともいうべき言語感覚,形式的には文章心理的な溝が感じられ るのであるo
Le 1 0 d e c e m b r e
,j o u r a n n i v e r s a i r e d e l a mort d ' A l f r e d Nobe l .
<同格~,すなわち l'a p p o s i t i o n
においては単に併列があるのみ であるo この例でいえば二つの名詞を芯味の上で結びつけることばは形の上 では存在しない口呼吸の上での〈問~ (ま)があるのみであるD 乙の〈ま〉に;意味を与えるものは論理的な流れである。流れの中で二つの文素が同格的 に結び、っき一つの意味を築く。乙の同じ〈ま〉の中で内在的に展開している 思考様式の
mecanisme
を理解することに学習指導のポイントを指向させな ければならない。乙の思考の流れの中で,たとえば日本語とは非常に多くの 相違を形成する関係代名詞のe x t e n s i f
あるいはr e s t r i c t i f
の用法が展開す る。こうした角度から文法を見直して行かなければならない。ただし,関係 代名詞および関係節は形式的にはきわめて明確に整理されている文章構成で あるから,文法的な問題点はむしろその初級的な段階のことがらにすぎない ことが多い。関係代名詞に関辿してむしろ留志すべき文章上の問題点は,関 係代名詞という独特の文章椛造によって,その制限的用法にみるように訳出 の順序が大きく変るため,そのまま原文に忠実であろうとすれば,日本語の 文章としてはひどくバランスのとれない表現になりかねないということであ るo語j唄の尊主ということは忘れるべきではなく,たとえr e s t r i c t i f
な関 係代名詞であっても,基本的には語I }
貝を尊主する形の文章l
乙日本語化して訳 出することも跨うべきではないであろうO 近年急速に注目を浴びるに至った 同時通訳の問題はこのことがらとの真正面からの対決であるO 忠実に反訳す るということは,形式の問題でなく忠実に思想を伝達する乙とにあるのだか ら,翻訳は形式を整えたことで満足すべきではないO 正しく理解するための 作業という本質をつねに見失ってはならないDb.
時称、l e stemps
および比較l ac o m p a r a i s o n .
テンスを見落とし,