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教 育 学 に お け る現 在 の 問 題 と課 題

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教 育 学 に お け る現 在 の 問 題 と課 題

一 教育における 「過程 の質」への還元化現象 を申心 に して 一

Die gegenwartigen Problemen und Aufgaben in der PadagOgik:

Das PhanOmen der Reduktion auf

"Prozc温 ‐ Qualiaten in der B五 dung

高 橋 洸 治

Ktti TAKAHASHI

(昭 和 63年

10月 11日

受理 )

1.文 化伝達 における「物語 的形態 」一― 主題へのプ ロローグーー

伝統的な社会においてはいわゆる文化の伝達は主として「物語的形態」によって行われてい た。大人が子どもに語 って聞かせる物語の中には ,登 場人物たちのさまざまな行動によっても たらされる成功や失敗を通 して ,模 範的な人間形成の提示 と ,そ の判断基準を内在させている 社会の正当化 とが含まれている。こうした物語が語 り継がれ ,伝 承されていくための基本的な 条件は ,そ の物語の語 り手自身がかつてはその物語の聞き手であったということである。その ことをリオタールは次のように述べている。 「語 り手が物語を語る権能を持つと主張すること ができるのは ,み ずか らがその聴き手であったからだ ,と いうことだ。現在の聴 き手も ,ま それを聴 くことによつて潜在的に同 じ権威を手に入れるわけである」 (1)。 要するに ,各 個人が 語 り手であると同時に聞き手であるということ ,す なわちみずからの内に語 りの二つの <ポ ス

ト >で ある送 り手と受け手とを共存させていることが ,物 語的伝達を成立させているのである。

これ ら二つの役割の共存性を保証 しているのは ,そ して逆にこの共存性によって保証されてい るのは ,伝 統的社会における新 0旧 の世代関係である。

制度化された学校に文化伝達の機能を帰属させている近代の教育学は ,基 本的にはそうした 世代関係を前提にして構成されている。その典型はシュライエルマッハー (1768‑1834)に られる。彼によれば ,よ り年長の世代が有する一つの重要な役割はより若い世代に対 して影響 を及ぼすことであって ,そ れが不完全なものであれば後者は人間の行為およびその根拠につい て十分に理解することはできない。そこで彼は ,「 一体年長の世代は若い世代に対 して本当に 何を求めているのか」という問題意識から教育の理論を展開するのである。世代関係を重視す

る彼の見解は次の表現において明確に示されている。すなわち ,「 より若い世代に対するより

年長の世代の関係 とい うこの土台の上 に ,… …われわれはこの (教 育の )理 論領域に含 まれ る

すべての事柄を築 き上 げるのである」 (2)(括 弧内は筆者 )。 その際 ,彼 はいわゆる伝統主義 に

陥 らないように留意 しているが ,  ここではそれに言及す る必要はないであろう。

(2)

重要なことは ,彼 をして世代関係に基づ く教育理論を構築させるようにした根本的な動因は 何であったかという点である。それに対する国答は ,彼 が ,あ るいは彼の生きている時代が依 然として語りかける「物語」を保持 していたということである。新・ 旧の世代関係を保証する 伝達の物語的形態は

,′

語 るべき物語の存在を前提にしているからである。ただ し ,彼 の保持 し ていた「物語」は ,伝 統的社会の伝説やお伽話のような民衆の物語ではな く ,倫 理学的・歴史 学的かつ弁証法的な思弁 (SpOkulttion)に よって生み出されたものであった。彼は「善の理 念」に基づ く人間形成 ,そ して国民の精神的・道徳的形成についての「物語」を語 っているの である。「人間は生の始まりから完成の頂点へと発展する豊かな動因をみずからの内に有する 存在である J(3)か ら ,「 教育は ,人 間が・…・

,善

の理念にできる限リー致するように形成される ことを実現 しな くてはならない」 (4),と 。こうした彼の「物語 Jは ,同 時に牧師でもあった彼 にとって世俗向けの「説教 Jと いう性格を帯びていたと敢えてみなさなくても ,そ F物 語」

の聞き手が同時に語 り手になるということは容易ではない。

十八世紀末か ら二十世紀初頭に拾頭 した新教育運動は ,学 校で語 られる‐ そうした理念的な

「物語」をその形式的 0抽象的性格のゆえに厳 しく批判するものであった。そのことは世代関 係に根差す教師と生徒との関係の捉え直 しを迫るもので もあった。ところで ,物 語的形態によ る伝達に根差 した教師と生徒との教育的関係は ,教 育内容の変容に伴いすでに徐々に変化 しつ つあったのである。学校が近代的な科学・技術を取 り込む過程において ,学 校の知的状況は科 学知優先に傾斜 していき ,そ の結果教育的関係はいわば脱人間化されてゆくのである。という のは ,科 学は科学固有の規則に従い ,ま た科学固有の真理という判断基準を有 していて ,倫 理 的・社会的 。政治的な事柄を非合理的なものとして排除 しようとする傾向を助長するからであ る。そして ,教 育内容が科学化されるということは ,教 えられる知識の源泉は各分野の専門的 研究者になるということであって ,そ のことは教師が研究者であることを要求する。当然子ど もも小さな研究者とみなされる事態になることは ,60年 代における教育現代化の動向において すでに確認されていることである。研究者は自分の探求 した内容を教えればよいのであるが

,

実のところ本当にそれを教えることが生徒にとって妥当であるか否かについては多 くの問題が あるし ,研 究者は自分が知 らないが知ろうとしていることも教えることができる ,と いつたこ となどから ,研 究者としてのあるいは擬似研究者としての教師と生徒との関係はもはや古典的 な世代関係とは異質にならざるをえな くなって くるのである g

こうした問題的状況は最近の社会・文化的な諸変動の中でますます深刻化 している。現在の

教育改革の必要性を基礎づけている要因はいくつかあるが ,そ れ らの内主要なものは情報化の

進行による知的状況の変容と ,社 会的な適合性や画一性への偏重を排 して子どもの自由な成長

を保証せよという新学校運動の主張である。前者は ,そ の背後に先端科学技術の面で経済競争

力を維持 し ,我 が国の利益を確保するという政治 0経済の観点を有する広義の社会的要因を代

表するもので ,そ の意味で社会 (政 治・経済を含む )の 論理に依拠するものである。後者は言

うまでもな く子どもに真の学習を成立させるための諸条件を整え ,子 どもの自由な人間的成長

や発達を目指すいわゆる教育的要因で ,教 育の論理に立つものである。両者が相互に緊密な関

連性をもっていることはそれぞれの問題点の考察を通 して示されるであろう。それはともか く

,

前者に基づ く教育改革はいわば状況受容的な性格をもつものであり ,後 者の要因に基づ く教育

改革は理念実現的な性格をもつものとして捉えることができると思われる。このように今日の

教育改革は二つの異質な要因を同時に内在させているのである。本稿ではこれ らの要因によっ

(3)

て提起されている教育学的な問題を明確にし ,そ の批判的な検討によって今日の教育学の課題 および責任の所在を探ることが主要なテーマとされている。そのことは ,同 時に ,先 に触れた 教育的関係を再構成 しうるような新たな「物語」の可能性を問う試みでもある。

2.教 育学 における今 日の基本的な問題 と課題 {1)知 │の 習得と人間形成との不可分離性の問題

近年における高度な先端科学・技術の発展は情報機器の革新化を進め ,情 報流通に大きな変 化をもたらした。その結果 :知 の性質そのものが変容を迫 られることとなった。従来の多種多 様な知識の内 ,情 報機器に投入され必要時に利用・操作 しうる機械言語・情報へと翻訳されう

るものが重視され ,そ の他のものは軽視ないし切 り捨て られるようになった。すなわち ,合 理 的な基準に合致 し科学的・技術的な有効性・効率性を もつ情報を産み出す科学知が優先される ようにな り ,他 方においてその視点から価値および規範的なものの一面化ないし無効化が推進 され ,さ らに各個人の主観的な体験領域および内面的領域は排除または無視されるという傾向 が強められていったのである。本来 ,質 的に多面的な方向に開かれている筈の知るという人間 の基本的要求は ,情 報データの貯蔵装置との F98わ りを通 して狭小化され ,知 的内容はいわゆる 科学的なものに均質化されるのである。それは知の科学的な客観化であり ,主 観性から隔離す

る外部化でもある。

情報化社会は高度な科学技術の発展に支えられており ,  したがってその社会で必要 とされる 有能な人間というのは科学的な情報技術に熟練 した者である。そうした人間の育成が情報化社 会における重点的な教育目標の一つとして設定されることになる。その際 ,そ うした人間の抱 える問題点をおさえてお くことも参考になるのであろう。現在すでに ,情 報技術関係の仕事に 従事 している一部の人たちが示す特徴ある傾向が指摘されている。いわゆる情報技術中心的な 人間は ,世 界を透明なガラス張 りの合理性によつて構成 し ,そ の中にみずか らを逃避させる姿 勢が強 くみられる。合理的に築かれた人工的な世界像の視点か らは ,当 然日常生活のカオス

,

汚れたものごとは遠ざけられ ,事 柄は自か黒か哉然と区別・整理され ,そ の明解ぎへの自己適 合がなされるのである。それによって複雑な現実世界や人間関係は減価されることになる。現 実に背を向け情報技術的な操作にな じむ課題の解決に過大な評価を与えることにより ,彼 は全 能感の幻想にとりつかれる。それにより彼はますます社会的・情動的な面での貧困化と粗暴化 をつの らせるといわれている (5)。 こぅした状態は情報化社会における人間のいわば合理化症 候群といえよう。

そのことは科学知優先による知的領域の狭陰化によってもたらされる人間形成上の帰結を示

すものである。科学知が人間の知のすべてであるかのようにみなされる状況においては ,「 知

の習得が精神の形成 ,さ らには人格の形成と不可分であるという古い原理は ,す でに ,そ して

今後は二層衰退 し ,顧 みられな くなるだろう」 (6),と リオタールは指摘 している。これはまさ

に教育学的に見過 ごすことのできない重要な問題提起である。知識・技術の獲得は個人の精神

陶冶および統一的な人格主体の形成と直結するものであるという確信は ,近 代教育学を支えて

いた主要かつ不可欠な教育理念の‐つであった。その理念が ,情 報化の進行に伴い ,崩 壊への

度を強めているのである。知の習得と人間形成との不可分離性 という教育理念は ,  もう時代遅

れのものとして捨て去 られてよいのであろうか。それとも何 らかの条件を付加するなりして捉

え直 し ,今 後ともそれを保持する必要があるのだろうか。それが今問われているのである。

(4)

この選択の岐路において ,私 はその教育理念を再確認 し保持する必要があるとする立場を取 りたい。この立場は時代の潮流に逆 らうものかもしれないが ,か といって潮流は常に正当を目 指 しているわけではないのである。知と人間形成との緊密な関係についての教育理念を支持す るか否かは ,実 は啓蒙主義の基本的な志向を継承するか否かの問題に他ならないのである。そ のことを要点的に説明しておこう。理性の内容的・機能的な分化は近代における理性の変容を 特徴づけるものである。それまでの理性は事物の恒常的な本質存在を提える実体的理性であっ て ,そ れが様々な形而上学的な世界像を生み出していた。それら形式的な世界像が拒絶される にしたがい ,理 性は三つの要素に分化するのである。すなわち ,人 間の知的行為は ,認 識 (論 理 )的 一道具的 ,道 徳的一実践的 ,そ して美的一表現的なものへと分節化され ,そ れらの領域 において順に真理 ,規 範的正当性 ,表 現の純粋性ないし美が規準として確認された。これ ら三 つの領域は専門化されて固有な知的文化を発展させる力ヽ それだけ日常の生活世界からの距離 を拡げることになる。十八世紀の啓蒙主義は ,高 踏化 した三つの知的内容を実践 レベルに近づ け ,三 者が協力 して理性的な生活を築 くようになることを目指 した。そ して三者が一緒になっ て初めて幸福な人間が形成されるものと確信 したのである。 こうした確信は科学知の飛躍的な 増大と社会への浸透に伴い消え去ろうとしている。それでは啓蒙主義は克服されて しまったも のとして片付けられるのであろうか。そうではない。ハーバーマスが言うように ,「 今なお基 本的見解の岐れ日はどこにあるかといえば ,  こうした啓蒙主義の志向を守って行 くのか行かな いのかということであります」 (7)。 すなわち ,科 学知を知のすべてとみなすのか ,そ れとも知 を他の要素を含む統合体としてみなすのか ,そ れはどちらで もよいという問題ではないのであ る。要するに ,わ れわれが生きるために必要とする能力は ,真 理とか効率性という判断基準を 決定 し適用する能力のみではなく ,社 会的な正義・公正 ,そ して美とか主観的体験の純粋さの 判断基準を決定 し適用する能力も含まれるのである。人間はこれ らの基本的能力の統一体であ るということをわれわれは今改めて確認する必要がある。

僣 )自 己活動および陶冶性の問題        

次に ,学 校は子どもの自由な成長を保証 しな くてはならないとする主張に関わる問題につい て考察することにする。最近の新学校運動に限らずその他の学校・教育改革におけるいわば切 札とされているのは ,子 どもの本来的な特性とみなされる自発性・ 自己活動への素朴ともいえ る信念である。それによれば ,子 どもはその本性に基づいて自発的に活動 し ,豊 かな創造性に 富み ,論 理的にも考えることができ ,そ して内発的な好奇心に導かれて主体的に学習するもの である。ところが伝統的な学校においては ,そ うした子どもの優れた特性は抑圧され歪められ て しまっているぅというのである。その指摘は確かに当たっている点 もあり ,そ れなりに共感 を呼ぶ ものである。けれども他面において ,子 供の人間的な未熟さ 。もろさ・弱さにも ,そ し て学校に期待されうる積極的な役割に対 しても目が向けられてもよいと思われる。子どもはみ ずからの衝動や欲求にお し流され ,そ の考えの ,狭 さに蹟き ,皮 層的な好奇心によって心を奪わ れ ,他 人を顧みない自己中心的な態度を取 り ,無 軌道や怠惰によってみずから破滅に陥ること

もありうるのである。

教育はそのような事実をもおさえて ,子 どもが自分の衝動・欲求および興味 0関 心をみつめ

,

それらに関 して判断・評価することができるように ,そ してその判断・評価を正当化 しうる規

準について熟考することができるようにしな くてはならないのである。これは子どもに対する

過大な要求ではなく ,む しろ子どもを人格を有する行為主体として尊重することを示す もので

(5)

ある。というのは ,  自己制御のためにその拠 り所 となる規準 ,秩 序 ,原 則について考慮するこ との学習こそ文化的存在 としての人間に必須な課題だか らである (3)。 子どもの尊重が単に子 どもの欲求を解放することと受けとめられ ,学 校が欲求解放の場としてのみ捉えられるように なるならば ,そ れは人間として生きるうえで決定的に大切なことに対 して子どもを盲目にさせ ることになるのである。

教育の論理からの学校教育批判が依拠する「自己活動」は ,「 陶冶 (可 能 )性 」と共に近代 教育学における主要な概念でありまた原理で もある。陶冶性と自己活動 との原理は ,近 代以降 の教育学的な思考 と行為を成立させ基礎づける役割をもつ 「構成的原理 (Konstitutive Prin‐

zip)」 として位置づけられるものである。そこでこれ ら二つの概念を再考 し ,そ れを通 して 現在の教育問題を考察するための手がかりを探ることにする。

人間は生まれつき平等であるのか ,そ れとも不平等であるのかという啓蒙主義的な問いは

,

市民社会において ,次 の問いへと移行 していった。すなわち ,各 個人の能力は素質によつて決 定されるのか ,そ れとも環境によってか。心理学 ,社 会学そして生物学は素質および環境によっ て決定される割合 (比 率 )を 算定することによって人間の平等・不平等を説明 しようと試みた。

それに対 して教育学は ,環 境が市民革命・民主主義の導入そして公共の学校制度実施によって 相当改善されてもそれに見合うだけ平等が向上 しない事実をおさえ ,陶 冶性概念を前面に出し て人間の被規定性を解明していくのである。つまり ,陶 冶性への注目によって ,漠 然とした大 まかな環境ではな く ,個 人に対する政治的 0倫理学的 0教育学的な影響が具体的かつ的確に考 慮されるようになり ,い わゆる素質・環境論の自然主義的な誤 った推論が克服されることにな

るのである (9)。

陶冶性が近代教育学の鍵概念であることは ,ヘ ルバル トの「教育学の根本概念は生徒の陶冶 性である」

(1')と

いう命題で明確に表現されている。 この陶冶性を彼は「道徳性への意志の陶 冶性」と規定 している。そしてこの道徳性は単に人間行為の一領域を指示するものではな く

,

「人間及び教育の全体的な目的」として捉えられている。従って「道徳性への意志の陶冶性」

は ,人 間がその実践全体に向けて協力的に関与するように規定されていることを ,つ まり人間 はみずか ら進んで人間的な実践能力を獲得する特性を有するということを示す ものである。 こ の陶冶性によって彼は宿命論的な環境決定論および遺伝的な素質決定論に制約を加え ,人 間生 成の本質的な要因として教育学的な実践を位置づけたのである。陶冶性が教育的行為を基礎づ けるということは ,陶 冶性は単に子ども自身の有する一つの特性ではないことを意味 している。

陶冶性というのはむ しろ教育的相互作用の原理といえるものである (11)。 すなわち人間は ,彼

を決定する素質および環境影響力に基づいてではなくて ,教 育的な相互作用に基づいて陶冶的 とみなされるのである。その教育的な相互作用は ,教 師の側か らいえば ,教 師が子どもをその 人間的に規定されることの達成に対 して 「協同する者」として認めることによって成立するも のである。

陶冶性に関するこの考察の中にすでに自己活動の原理が示唆されている。つまり陶冶性の原

理は ,子 どもが世代間の教育的関係を通 して規定されることを指摘するものであるが ,そ のこ

とが損なわれることな く遂行されるためは ,子 どもがみずからの陶冶過程に対 して自発的に協

力しな くてはならないのである。要するに自発的な協力としての自己活動と陶冶性とは互いに

補完 し合 うものであって ,  これ ら両者が教育的な思考および行為の構成的原理とみなされるも

のである。二つの構成的原理に基づいて ,人 間とは教育的行為を必要とする唯―の陶冶的な存

(6)

教育課題の非 目的論的な規定 と教育作用の非機械論的な因果性 とを基礎づけたといわれている。

だがそれに関 して留意 しな くてはな らないのは自己活動 についての把握である。その自己活動 というのは近代の自律的な理性によって基礎づけられた ものではな く ,自 己の動因によつて活 動す る自動人形 とい う古代的な観念 と結びつけ られていたのである (12)。 自動人形 は機械で は ない。機械はいわば道具であって人間によって 目的へ方向づけ られのに対 して ,自 動人形 はそ の目的を自己自身の内にもち自発的に活動す るものである。そ うしたイメージが有機的生命の 観点 と融合 されて捉え られた自己活動 は ,人 間の本性を示す特徴 として高 く評価 され ,そ の結 果 自己活動の実現を教育の最終的な目的とみなす考えを生み出す ことになるのである。 こうし た自己活動の原理は ,要 す るに生命体 としての子 どもを尊重す る自然主義的な立場に依拠す る ものであ って ,社 会的・ 文化的な脈絡の中に位置づけて正確 に規定す ることはなされていない のである。それゆえ ,例 えば先に示 された自己制御の機制問題 は無視 され るか ,安 易な仕方で 片付 け られるのである。現在多 くの青少年が 自らの意志で主体的になれないことに ,ま た自ら の力で 自己自身を統御す ることので きないことに苦 しみ悩み ,そ して 自己をの り超えてゆ くこ とので きないもどか しさを抱いたままに放置されているといわれている。 こうした問題の克服 に寄与す るように自己活動の原理を再構成することは教育学の今 日的課題 の一つである。

鱚 )「 過程の質」への還元化に伴 う問題

これまでの考察で取 りあげ られた知の情報化 と ,陶 冶性・ 自己活動 とい う教育学の構成的原 理 とは教育現象に対 して共通の影響を及ぼ しているといえる。それは両者 とも陶冶・ 教育事象 を F過 程の質」に還元す ることを推進 しているとい うことである。 「過程の質」への還元化現 象 こそ現在の教育を基本的に特徴づけているものである。 これは先に触れた実体的理性 に基づ く形而上学的な世界像や宗教的世界像に由来す るような 「出来あが った人間像」とい う目的か ら教育的成果を判定す る立場を排斥す る結果 として生 じた ものでその点 においては重要な意義 を もっている。だが 「過程」その ものの過大視 によってその主観主義化が進行 し ,「 過程」か ら社会的・文化的要素が脱落ない し消滅 して ,人 間育成 に寄与す る陶冶・教育の客観的な役割 への配慮が弱め られることになったとも指摘されている。

今か ら五百年 ほど前の初期市民社会 において絵画は遠近法を発見 した。 この遠近法的な描写 技法 は当時の市民が もつようになった社会学的な意識の美学的な比喩であ ったとも解釈 されて いる。その意識 された社会学的な事態 とい うのは ,各 個人の 自我を こことそ こ ,ま え とうし ろ ,過 去 と未来 "と の間に位置づけることであ った。 この視点の下では「過程 と所産 とは ,そ

の中に人間の教育 (陶 冶 )が いわば張 りめ ぐらされていた枠組項 目であ った」 、 (13)。 人間の教 育 は F過 程 (PrOzeβ )」 と「所産 (PrOdukt)(結 果・ 成果

)」

との枠組構造の中で行われ るとす るこうした教育 (陶 冶 )構 想 は ,原 則的 には近代教育学 に受け継がれてい くのである。

教育・ 陶冶の 「過程」は人間の精神的 0人 格的な完成を 目指す一定の 「所産」によって規定 さ れる。その意味において「過程」は「所産」に従属す るものである。そ して教育内容 は「所産」

としての人間の精神的内面性を構成 し充実 させ るものである。 この古典的 ともいえる基本的な 教育理念 は ,近 代教育学の展開において徐 々に変容 されてい くのである。 「過程」 と「所産」

とは弁証法的に相互 に結びつけられているとは認識 されて も ,目 的論的な教育 目的を否定す る

中で ,「 過程」へ と強調点が移行す るのである。その結果 ,教 育の成果 は内面的な精神形成や

(7)

人格形成においてではなく ,知 識・技能の有効な利用およびそれを可能にする諸能力の育成に おいて間われるようになるのである。それゆえ教育内容は人間形成的な観点からではな く ,経

済的な有用性 とか子どもの主観的欲求の観点から捉え られるようになる。いわゆる包括的な理 想的人間像の否定によって 「所産」は行動主義的な次元に ,す なわち F過 程」におけるステッ

プとしての到達目標に引き下げられ ,一 定の知識・技能を獲得する F過 程の質」が重視される ことになるのである。それは教育における発展の一つの表れではあるが ,他 面それによって人 間陶冶・教育への目標志向性が ,教 育の人間形成的な F所 産」への視座が欠落することになれ ば ,問 題が残 ると思われる。

・ 「過程」の質的規準

教育・陶冶において 「過程」が重視されれば当然その質 も問われることになる。そこで提起 されるのは ,「 過程の質」に還元される教育・ 陶冶にとって質的規準となるのは何かという問 題である。教育の内容や成果を背後に後退させて しまう「過程」の質を保証するものは最終的 には自己表現の真正さ (純 正さ )(Authentizitat),真 実性 (Wahrhaftigkeit)に 求められ

ている (14)。 「所産 Jに 対する「過程」の優先化は ,「 教授」に対する「学習」の優位化であっ

て ,  この学習経験が学習者にとって 「本当の経験」であることの条件は ,学 習者が自己自身に 対 して忠実・ 誠実であるということである。学習者の

F自

己関係」における誠実さにおいて真 に自発的な活動が遂行され ,そ れによって表現される自己は真正なものである。このような見 解は確かに承認されうるものではあるが, 自己表現の真主さあるい .は 自己関係の誠実さの確証

はいかにして獲得されるのかという問題が残るのである。

人間の自己自身に対する関係の意味での「自己関係」の問題は ,単 に主観的・心理学的に捉 えれ らるものではな く ,社 会的・歴史的な文脈の中に位置づけて考察されな くて はならない事 柄である。近代の初期において ,自 己関係の問題は依然として社会との緊密な結合を保持 して いた。自己自身に忠実であることは ,他 者に対 しても忠実であるということである。 このこと は各個人が社会と道徳的に結びついていることを前提にしている。その後の文化的発展の中で 社会との素朴な道徳的結合は文化との意味的な結合へと転回 し ,自 己自身への忠実さは意味あ るいは真理等 との一致という性格を帯びるようになる。 しか しやがて客観的な意味よりも「自 我の企図 (Entwurf)」 が尊重され ,  自己と意味および社会 との連続性が断ち切 られる傾向 が強まって くるのである。その結果 ,自 己の真正さは自己と社会・意味等との結合を打破する 限りにおいて発現するという捉え方が生ずるのである (15)。 教育学的に言えば ,子 どもを合理 的に組織された教授段階において ,一 定の因果関係の理論に基づいて陶冶・教育 し ,社 会・文 化と結合させることよりも ,子 どもがそういう事象に対抗 して 「真の自己」を表出する時 ,そ の時を「陶冶の瞬間」として高 く評価することになるのである。

そこで前面に出て くるのは ,子 どもの欲求と興味である。子どもの自己表現の真正さあるい は自己関係の誠実さは ,子 どもの行為がそ .の 欲求や興味 0関心と一致する場合である, と考え られるようになる。子どもが欲するようにさせること ,子 どもの興味を尊重すること ,そ れが 教育的によいこととみなされるのである。確かに ,子 どもの素朴な「私は……を欲する ,好 む

,

望む」という内面的事実はその行為を動機づけ ,そ れなりに正当化するものではある。だが

,

その内面的事実は子どもにおける情意の体験であって ,個 人的な「私」性の域を出るものでは

ない。そうした内面的事実は子どもの行為に対 して私的体験としての確実性を付与することは

あっても ,そ の行為の根拠としての有効性を有するものではないのである (16)。 すなわち ,原

(8)

初的な 「私は

:・

・…欲する」ということは ,そ の妥当性に関 しては実は主観的にも (本 人 自身に おいて も ),客 観的にも (社 会的・文化的にも )未 決定な ものである。主観的にも根拠が曖昧 な自己の欲求に従 うことは ,  自己自身の疎外化にさえ通 じるおそれがある。人間の ,子 どもの

「欲求」がその妥当性意識を伴って発現されるためには ,や はり社会・文化的な生活構造 と関 連づけられてその意味が同時に感知されるように高められな くてはならないであろう。そのた めには子どもに対 してその発達に見合 う形で生活世界の全体が見えるようにする必要がある。

子どもの自然発生的な欲求は ,生 活世界との関連において有意味に発効する体験とならなくて はならない。要するに欲求に基づ く行動は意味づけられた行動へと質的に転換される必要があ る。意味による被規定すなわち何 らかの規準を自己の内に取 り込むことこそ人間の基本的な特 性といえるからである。

・二つ ,の 課題

こうした考察から教育学に要請される二つの課題が生ずる。すなわち ,子 どもを して生活な いし知の有意味な全体構造を見通せるようにすることと, 自己活動の有意味な真正さを自覚 し うるようにすることである。これ ら二つの課題は基本的には近代教育学の原点を成す問題で も あって ,現 在改めて再考を求められているのである。

子どもは現存する社会組織 ,生 活様式そ して理解および知覚の形態の中に組み込まれていく 程度に従って意味を経験的に獲得 し ,内 面的な意識領野を分化・拡張させていくのである。 こ の現象が生起するための基本条件は ,生 活現実の「現前性」すなわち生活現実が子どもの眼前 に ,か つ子どもを包摂する形で存在 していることである。現前する生活を活動的に生きること の申で子どもは生活の指示する形式を受容的一能動的に取得 していくのである。これがいわゆ る社会・生活の機能的な教育である。だがこうした機能的な教育によっては世界の全体的な構 造は十分かつ適確に把握されるものではなく ,従 って経験される個々の事柄は全体との関連に よる位置づけが不十分であり ,そ のために世界の構造的な意味関連は了解され難いのである。

それを克服するためには ,世 界の全体構造が提示される必要がある。実際の生活体験と ,世 界 の構造的展望との関連づけこそ教育の任務である。両者は常に平行するものではな く ,発 達に 従い後者が先行 し前者を導出するという関係がみられ ,そ れが教育の抽象化・形式化の問題を 派生させるが ,  ここではこの問題に言及 しない。

上に指摘された理由から ,そ して現実社会の複雑・錯綜化および望ましい教育力の低下等か

らいわゆる教育 (学 )的 な世界像の提示が試みられることになる。その試みの典型は周知の如

くコメニウスの『世界図絵 (会)』 (1658)で ある。そこでの世界 (orbis)は 「世界圏」す

なわち円環状の意味連関として描写された世界といわれている。それによって示唆されている

ように ,そ の著作は重要な教育学的規準を提起 している。それをモ レンハウアーは次のように

定式化 している。 「生きられている生活形式が次のような円環を代表的に提示 している場合に

のみ ,子 どもたちは確かな仕方で社会的生活の意味連関へと導き入れ られる」 (17)。 この 「次

のような円環」というのは ,彼 においては「神 ,自 然 ,人 間 ,人 間の作品」によって構成され

るものであった。そこにおいては ,個 々の事物や行為は他のそれ らと有意味な連関をもつもの

として記述されているのである。それを支えるコメニウスの見解をまとめれば ,「 個々の事態

が子どもに対 して記述される場合 ,… …全体に対する関係のなかで個々のものが明らかになる

ように ,そ れとともにその個々のものの生活における意味が洞察可能となるように記述されね

ばな らない」 (18),と ぃぅことである。こうして記述された ,同 時に感覚的な知覚に媒介され

(9)

た世界の提示を手がか りに して ,子 どもは世界に関す る全体的な意識を獲得す ることになるの である。 まとまった世界像を子 どもに提示す ることは ,本 稿の冒頭で述べた ことと関連づ けれ ば ,教 育学的な 「物語」を語 ることに他な らないのである。 コメニ ウスが世界を物語 ることが で きたのは ,彼 が依然 として中世的な神を保持 していたとも言えようが ,そ うであるな らばそ

うした 「物語」を現代的に再構成する試みがあって もよいと思われ る。

ところで ,  コメニ ウスが円環的な世界像を描 くに至 った重要 な契機 は当時興隆 しつつあ った 自然科学的態度 との対決 にあ ったのである (19)。 自然科学 は世界の諸事物や事象を分析的に解 明 し個々の事柄 についての知見を豊かに したが ,そ れを通 して進め られたのは世界の分断化で あ った。教育「 陶冶の問題を考えるとそれは問題が多いと彼 は判断 し ,統 合的な世界を提示 し たのである。そ うした事情 は現在 と共通す るものがある。先に述べたように科学知の偏重 ,情

報化の進展のなかで ,生 活および知の人間的な全体構造が今 日ます ます見えな くな って きてい る。それに対処す るためには ,少 な くとももう一度近代理性の三領域を確認 してお く必要があ ろう。人間の理性 は基本的な二つの領域 における規準を追求 し ,そ の妥当性要求に従 うように みずか らを統御 しているのである。すなわち ,人 間の関与す る全体世界 は自然的な客観的世界 と社会的世界そ して主観的体験の内面世界か ら構成 されてお り ,そ れぞれ自然の論理的認識に 関わる真理 ,社 会の法 と道徳 に関わる規範的正義それに主観的体験 に関わる真正 さ (純 正 さ )

という規準を有 していて ,そ れ らが人間に対 してそれぞれの妥当性を認めるように要求 してい るのである。人間はそれら二つの規準を獲得することによって初めて精神を全体的に陶冶する ことになり ,そ れらの規準に自らの行為を主体的に適合させようとする企図によって自己統御 の能力を身につけ ,自 己存在の統合性としての人格を形成していくのである。

次に自己活動の有意味な真正さを保証する問題について要点的に触れることにする。先に示 されたように子どもは社会・文化の中に組み込まれる過程において意味を獲得するのであるが

,

その意味が表層的にではな く内面に浸透する形で獲得 されるためには同時に子どもの側か らの 能動的な活動すなわち自己活動がなければならない。子どもは直面 している客観的な意味の中 に組み込まれる前に, 自己活動を通 してその客観的な意味に関 して自分なりの意味を生み出し ていくのである。それによって ,自 分が産出した意味と与えられている客観的な意味との差異

0ずれ・矛盾に気付き ,そ の克服を自らの課題として引き受け様々な工夫努力によってその解 決に努めるのである。その解決というのは ,自 分が生み出した主観的な意味と社会的・文化的 な客観的意味とを関連づけ ,両 者間のずれを子どもがみずからの主観的意味を調整 し再編成す ることによって行われるのである。この解決を図るまでの一連の過程を自己活動というのであ

(20)。 したがって自己活動とは行為主体が自分自身で課題を設定 し問題を解決することに他

ならないのである。その意味での自己活動において実際に子どもの能力が育つのであり ,  しか も文化的に重要なことを身につけるのである。というのは ,こ の自己活動を通 して子どもが第 一に学びとるものは ,活 動の対象となる事柄の内容ではな くて ,自 己の活動の意味づけ ,す な わち自己の活動を制御する一定の規準だからである。この規準の自覚化にようて初めて子ども

はその自己活動の有意味な真正さを確保することになるのである。

陶冶の過程は一般に「外から内へ」と「内から外へ」との二つの運動方向において捉え られ

ているが, この自己活動は決 して後者だけを強調するものではなく ,両 者を統合するものであ

る。先に指摘されたように ,活 動は社会・文化的な事柄との関わりの中で見い出される課題に

触発されるものである。つまり自己活動は社会・文化的な「要求」との相互作用である。子ど

(10)

  4

  5

  6

・7

もと社会 0文化 との関連性を生み出す もの として自己活動を捉えた時 ,そ れに対 して大人は

,

そして教‐ 師はいかなる態度を取ればいいのだろうか。この問題の考察から教育学的責任の 1所 在 が探 られなくてはならないであろう。

以上の考察を通 してこの時点でいえることは ,教 育学における「規制的原理 Jを 検討する必 要があるということである。ここで論及されてきた諸間‐ 題は「構成 1的 原理 Jに 関するものであっ て ,そ うした問題の考察はこの原理を補完する F規 制的原理」の視点をも組み込まないと全体 的な考察にならないのである。「規制的原理 Jの 解明とそれに基づ く教育問題の考察は今後の 課題としたい。

<誰 >

(1)lリ オタール .J.一 FJ(小 林康夫訳 )『 ポス トモダ ンの i条 件 一知・ 社会・ 言語ゲームー』

書難 :風の薔薇 ,1986,57頁

.

(2)SchleiermacheF,FoE.D.:Theorie der Erziehung。 (1826)In:DickOpp.,K。 一 H。 :Lehr‐

buCh deF SystematiSchen Padagogik, schwann, 1983, S.133̀

Ebd., S.3a Ebd。 , S.52.

Vgl"Hentig.v.H.:Das allm激 lnliche Verschwinden der WiFklichkeit,19855S。 91f。

リオタール :前 掲書 .17‑18頁

.

ハ ーバーマス

,」

。 (三 島憲一訳 )「 近代一一未完のプロジェク ト    」『思想」 (岩 波 書店 )NQ696,198297頁 .       

(8)Vglぅ ,Dainer,耳 .:Verantwortung und PadagOg」 に Forum Academicum,1985S.296f.

(9)Vgl。 ,Benner,D。 :Angemeine Padaogik,」 uventa,1987,S.53f。

α O Herbart,J.F.:Umriβ  padagOgiSCher VoFleSungen,(1835)In:Herbart,Pada.

gOgischen Schriften,Hrsg.voW.Flitner, 1965,S.165。

C〕 Vgl.,Benner:a.a.0。 ,S.57.

021 Vgl。 ,BenneF,Dound K.一 F.G6stemeyer:Postmoderne PadagOgik.ln:ZfPl 1987, 1/87,S.62.

CD Mollenhauer,K.:Korrekturren am Bildungsbegriff? In:ZfP。 1987,1/87,S.14.

α O Vgl。 ,Ebd.,S。 15.

1' Vgl。 ,Ebd。 ,S。 17.

161  黒田亘『知識と行為』東大出版 ,1985,10T15頁 参照。       

α つ   モ レンハウアー (今 井康雄訳 )『 忘れ られた連関』みすず書房 ,1987,61‑62頁

.

色 D  同上 ,64頁

.

α 9  同上 ,62頁

.

鋤   同上 ,139頁 以下参照

.

・ ZfP=Zeitschrift ttir PadagOgik.

参照

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