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濱崎一敏

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長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 終刊号 第38巻 第1号 (1997年9月)

日本における戦時下の文学者たち

(日独ファシズム文学比較論のために)

濱崎一敏

Japanische Schriftsteller in der Kriegszeit (1931‑1945) (Zur vergleichenden Erforschung der faschistischen

Literatur in Japan und Deutschland)

Kazutoshi HAMASAKI

「文明開化」と文学者たち

ロンドン留学中の夏目淑石が『倫敦消息』をしたため『ホトトギス』に発表したのは 1901年(明治34)のことであった。強度のノイローゼにおちいり、文部省には淑石"発狂"

の噂が伝わるほぼ一年前である。西洋のきらびやかな近代を象徴するこの大都市で「負惜 しみ」の「肩身の狭い心持ち」をかれはこう書きのこしている。

こんな國ではちっと人間の背いに税をかけたら少しは倹約した小さな動物が出来るだ ろう杯と考へるが、夫は所謂負惜しみの減らず口と云う奴で、公平な虞が向ふの方がど うしても立派だ。何となく自分が肩身の狭い心持ちがする。向ふから人間並外れた低い 奴が来た。占たと思ってすれ違って見ると自分より二寸許り高い。此度は向ふから妙な 顔色をした一寸法師が来たなと恩ふと、是即ち乃公自身の影が姿見に罵ったのである。

不得巳苦笑ひをすると向ふでも苦笑ひをする。 1)

7年後の1908年(明治41)には、こうした個人的な「心持ち」が俄然具体的な思想性を おびてくる。 「東京朝日」に連載された『三四郎』において淑石は日露戦争に勝利したば かりの日本の情景と近代化について鋭く批判をおこなうのである。 「是から大撃‑這入る」

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溶暗‑敬

ために熊本を汽車ででて浜松まできたところで、三四郎が「髭の男」に応対しているあの 箇所、次いで東京についたときの三四郎の驚き、不安がそれである。

列車の窓外を「暑いのに手を組み合わせて」歩く西洋の夫婦をみて「髭の男」が、

「どうも西洋人は美くしいですね」と云った。

三四郎は別段の答も出ないので只はあと受けて笑って居た。すると髭の男は、 「御互は 憐れだなあ」と云い出した。 「こんな顔をして、こんなに弱ってゐては、いくら日露戦 争に勝って、一等国になっても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いづれ

も顔相鷹の所だが、あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでせ う。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは 何もない。所が其富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々が 拝‑たものぢやない」と云って又にやにや笑ってゐる。

● ● ●

「然し是からは日本も段々発展するでせう」と耕護した。すると、かの男は、すまし たもので、

「亡びるね」と云った。

● ● ●

三四郎が東京で驚いたものは樺山ある。 ・ ・ ・凡ての物が破壊されつゝある様に見え る。さうして凡ての物が又同時に建設されつゝある様に見える。大愛な動き方である。

・ ・ ・自分の世界と、現實の世界は一つ平面に並んで居りながら、どこも接触してゐな い。さうして現實の世界は、かやうに動揺して、自分を置き去りにして行って仕舞ふ。

甚だ不安である。

三四郎は・ ・ ・けれども畢生生活の裏面に横たわる思想界の活動には壷も気が付かな かった。明治の恩想は西洋の歴史にあらはれた三百年の活動を四十年で繰返して

ゐる。2)

「西洋人は美くしい」。日本には天然の富士山以外に自慢できるものがないのである。

こうして「明治の恩想」すなわち近代化の思想というのは、ひたすらに西洋の「三百年の 活動を四十年で繰返し」ながら模倣に撤しようとしている。 「破壊」と「建設」という急 速な大変動が支配的になる。三四郎は「自分の世界」が「現實の世界」のいずこにも「接 鯛してゐない」 「不安」におののいている。日本は「亡びる」のである。

『倫敦消息』から30年後の1931年(昭和6)、日本は柳条湖事件(満州事変)をひき起こ す。いわゆる十五年戦争(鶴見俊輔)の幕開けである。周知のように翌年には満州国建国

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宣言、五・一五事件とつづき、その翌年には国際連盟を脱退するOやがて二・二六事件、

そして産溝橋事件を契機に日中全面戦争へいたる。満州事変から10年後の1941年(昭和16) には奈落へ転げおちるようにして「大東亜戦争」に突入していくのである。淑石の予感ど おり「畢生生活の裏面に横たわる」すなわち日常の裏面に横たわる「思想界の活動」は明 治、大正、昭和初年をへて戦争という破局へつきすすんでいく。日本国はまもなく無残な 敗戦にいたるのである。いわば一度「亡びる」こととなった。

戦争たけなわの1943年(昭和18)、保田輿垂郎(1910‑1981)なる人物は当時著名であっ た評論文学者として『明治の精神』という歯切れのよい一文を書く。以下のように「尊皇 接夷」を説き「文明開化」を批判するのである。 「嬢夷」とは夷秋にかぎらずE]本国内の

「國膿の道に反するものをうつこと」でもあった。

この尊皇接夷の精神が、大体の明治の精神である。ところがこの精神によって、 「王 政復古」の大詔が沓せられると、昔時の多数の人々は、多少このことを忘れがちになっ て了った。即ち復古の國膿明徴は、慶鷹三年の王政復古の敦が下った時に完成したと考 へたのである。 ・ ・ ・かう考へたことが間違ってゐたのである。さうして常時の国際間 の状態をみて、日本を一流の文明国と同一の地位におかねばならぬと考へた。この考‑

方も大さうよいのであるが、それが成就するといふことは、尊皇接夷の道に印した時に のみ可能なのである。

ところが嘗時の人々は、たゞ外囲文明の盛大さに眼が臨んで了った。ともかく彼の模 倣をし、早く彼と封雷の文明を作らうと考へたのである。この文明開化の考‑方が、結 果として明治の精神を大いに歪めたのである。つまり文明開化の人々が、日本を他國に 劣らぬ國にしようと考へたことは、決して悪いことではないが、そのために日本の本質 を忘れたといふことが、よくないのである、即ち本末を願倒するといふ結果になったの が、文明開化といふものである。 3)

「日本の本質」とは「國燈明徴」のため「尊皇擾夷の道」にしたがい忠義を生きること であった。三四郎が「驚き」と「不安」の表白によってしかおこないえなかった文明開化 批判に、保田の『明治の精神』は好むと好まざるとにかかわらず明噺な基盤をあたえたか にみえる。 「思想」と呼ぶにしろ安易な「信仰」にすぎないと軽蔑するにしろ保田の足場 は堅固である。そのうえ批判の具体的な趣きは淑石から保田まで営々と連続していて変わっ てはいない。西洋の「三百年の活動を四十年で繰返」すという「彼の模倣」が日本の近代 化だというのである。 「模倣」であるかぎりいっまでたっても追従して歩いていくのみで ある。西洋に勝ることはありえない。近代の非を正すことはおろか、これを真の意味で超

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演崎‑敬

克することはできない。かっまた「自分の世界」と「現實の世界」とが畢離した不安のな かでおずおずと生きるはかはない。

保田輿重郎は大和の桜井(奈良県桜井町)において豪商の家庭に生まれた。いわゆる

「国のまほろば」がかれの故郷である。大阪高等学校を‑て1934年(昭和9)東京帝国大学 文学部美学美術史科を卒業。翌年の1935年(昭和10)亀井勝一郎らとともに雑誌『日本浪 皇派』 (1935‑1938)を創刊する。肥下恒夫の編集で1932年(昭和7)に創刊していた『コ ギト』 (1932‑1944)を母胎としたものであった。保田は『コギト』の中心でもあり『日本 浪量派』の指導的な評論家であった。三枝康高著『日本浪皇派の運動』 (現代社、昭和34) によれば、保田興重郎は「一般に読まれ・ ・ ・昭和十五、六年以降ジャーナリズムの寵児 たる位置」にあったのである。 4)

保田の活躍と時期を同じくした1942年(昭和17)、 「近代の超克」という知る人ぞ知る悪 名高きかの座談会が開催された。知識人たちによる、 「大東亜戦争」突入後の国内むけ

「思想戦」の一環として名高いのである。小林秀雄と林房雄によって「文芸復興」の企て のもと1933年(昭和8)に創刊された雑誌『文学界』の同人たち、そして「京都学派」の 人々など合計13名が顔をそろえたシンポジウムであった。亀井勝一郎が小林秀雄と、それ から同じ『文学界』の同人河上徹太郎によびかけ、約一年をかけてプランを練ったうえで 実現されたという。 7月23‑4日の両日、酷暑のなか、 8時間におよぶ大論議がなされ、 9、

10月号の『文学界』に掲載された。翌年には創元社より単行本『近代の超克』として刊行 されている。この単行本の「結語」 (河上徹太郎著)には、こうした会成立にかかわる詳 細のいくつかがつまびらかに記されている。シンポジウムのいわば仕掛人の一人であった 亀井は、皆が論議に先立ちあらかじめ提出しておくことになっていた論文で、 『現代精神

に関する覚書』というのを草し祈るがごとくこう述べている。

現在我々の戦ひっゝある戦争は、封外的には英米勢力の覆滅であるが、内的にいへば 近代文明のもたらしたかゝる精神の疾病の根本治療である。これは聖戦の両面であって、

いづれに怠慢であっても戦争は不具となるであらう。

● ● ●

殆んど自然的の強制力をもって襲ひかゝってくる文明の重壁、機械主義、それがもた らす精神のすべての疾病や衰弱、節度を失った人間の自壊作用、滅びるか、なは救済は あるか、これは、今次の世界大戦のもう一つ奥にひそむ戦争である。

● ● ●

戦争よりも恐ろしいのは平和である。平和のための戦争とは悪い酒蕗にすぎない。今 次の戦乱は、かの深淵の戦争のための戦争であって、この戦場において一切の妄想を斥

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ける明哲さと恐れを知らぬ不抜の信念とが民族の興廃を決するであらう。奴隷の平和よ りも王者の戦争を!こゝでの勝利は、勝利といふ観念では存在しない。悲願あるのみ。

(了)5)

亀井によれば、日本は「聖戦の両面」を戦っていた。軍事的、物理的な「英米勢力の覆 滅」とそして西欧近代文明にたいする「内的」な戦い、すなわち「もう一つ奥にひそむ戦 争」もしくは「かの深淵の戦争のための戦争」であった。 「滅びるか、なは救済はあるか」、

「民族の興廃を決する」戦いに際して亀井は「悲願」をこめ勝利を祈っている。 「戦争より も恐ろしいのは平和である」の一文にはなおのこと、近代のあらゆる合理主義にたいし勝 算の見込みは定かでないまま単にひたすらに刃向かおうとする、論理・恩想喪失のデスペ

レートな当時の時代精神があらわになっている。明治期以降、日本国近代の「恩想界の活 動」は、 「近代の超克」シンポジウムと亀井らにいたって「亡びる」べくして一度亡びて

しまった、と云わざるをえない。

だが、亀井勝一郎にとって8月15日は「亡び」の日ではなかった。一切を失いながら

「陛下を得た」日であった。あの凄惨とも形容すべき敗戦の翌年、 1946年(昭和21)の5月 大和路において「法隆寺や薬師寺や東大寺の辺りを巡っているうちに」亀井は『陛下に捧

ぐる書翰』を書こうと「急に」恩い立っのである。そしてこう述べている。

玉音はたしかに終戦の御聖断を伝えました。戦争は終わった、日本は降伏した、もは や疑うべからざる事実であります。予想だにしなかったことが事実となってあらわれた のであります。ところが私は、敗北を確言された玉音の裡に、それとは別の、或る未開 の神秘を聞いてしまったのです。いまもなお耳の底に留っている陛下の御声に、私は生 まれてはじめて、祖国の至高にして最美なる言霊の調べを、千古を貫く伝統の不可思議 を味ったのであります。天皇と申し上げつつも、その御声さえうかがい拝することの出 来なかった我々に、この日陛下は一挙に身近く迫られました。 ・ ・ ・日本は一切を失っ た、そして陛下を得た、私はこんな感慨にふけりながら、夕日の道を家へ帰ったことを 恩い出しているのであります。八月十五日は、不思議な敗北の日でした。 6)

亀井勝一郎(1907‑1966)もまた青年時代、日本の未成熟な近代の激動期を戸惑うかのよ うに生きた文学者の一人であった。旧制山形高校時代にマルクス主義に触れ、東大美学科 入学後には「マルクス主義芸術研究会」に出席、 「新人会」会員ともなり労働運動にもか かわる。 1928年(昭和3)自主退学の後、同年4月共産青年同盟員としていわゆる三・一五 事件(治安維持法の適用により共産党員と同調者約1500名が検挙、約500名が起訴され、

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演崎‑敬

左翼の三団体、労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟が治安警察法によ り結社禁止の処分をうけた)に達座して札幌で逮捕、投獄され1930年(昭和5) 10月にい たる2年5カ月を獄中ですごした。そして「転向」するのである。

それから15年、新たな人生をへた後の「大東亜戦争」敗北の日、 「玉音の裡に」亀井は かって一度として聞き知らなかった天皇の声をはじめて耳にする。言い知れぬ感動のなか で「不思議な敗北の日」を体験する。 「この日陛下は一挙に身近く迫られました」という 感慨は、旧憲法、すなわち欽定憲法から新憲法制定へといたった戦後の時代の幕開けにた

いするかれの新鮮な感慨でもあったはずである。日本国憲法第一章第一条において「天皇 は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存在する日本 国民の総意に基く」ものとして、すなわち「象徴天皇」として、神の座から天皇は、亀井 のもとへ「一挙に身近く迫」りきたったはずであるからである。 7)

プロレタリア文学運動と「転向」

亀井勝一郎は処女評論集『特形期の文学』 (ナウカ社、昭和9年初刊)所収の『垂術的気 質としての政治慾』の後半部「二『転向』について」においていささかの自省をこめてこ

う述べている。

僕らの最大の映陥は、あまりにも多くの結論に通暁しながら、その結論を生み出した 過程に盲目なことであったろう。僕はこれを個個人の映陥としてみるとともに、その一 半をこの國の歴史的不幸のうちにもみるのである。明治以後、世界史の尻尾にくっつい

てきたこの園の恩索力は、たとえばゲエテを十分ノー乃至百分ノーにうすめなければ理 解出来なかった。近代市民社合の典型を生きることなしに、典型がもたらした結論だけ は百科辞典的に知ってゐるのであるから、恩想的樽換の場合にもその結論にのみとびつ いて、過程を能う限り生きようとする努力は無税されがちである。日本の思想家は多か れ少なかれ小インサイクロベデイストたる歴史的宿命をになってゐる0 8)

「この園の思索力」の歴史的な未熟さ、そこから生じる不幸、宿命を亀井は図らずも吐 露してみせた。 「恩索」とは、この国においては、そこここにころがっている西洋ゆずり の結論を飛び石のようにつぎつぎにたどることでしかなかった。時間を要し苦悩にみちて いるはずの独自の「過程」を喪失している。 「思想家」といえども「小インサイクロベデ イスト」にすぎぬ、ともいう。ごく一般的にはマルクシストによるマルクシズムの放棄・

離反を意味する「転向」の問題は、亀井の指摘どおりこうした日本近代の底の浅い思想状

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況とも密接に関連していた。

保田輿重郎は、生得の抜群の才能に恵まれていた。ことに『万葉集』など古典の文献理 解は天票ともいわれ、国学はもちろんドイツ・ロマン派にも知悉し、若き日の大阪高校時 代には左傾化の体験すら‑ていた。大戦後の1969年(昭和44) 『近代終駕の恩想』なるかれ の評論のなかで、保田は古来からの日本の知識風土をつぎのように措写している。

日本にはものの道理を論ずる道の学はなかった。あるひは不用だ、それはおのづから に道があるからだ、これが、宣長翁の述べられた、ものにゆく道という意味だらうと私 は了解する。わからぬまゝに当然のところへゆくことを、その史実を、私は思ったわけ である。このいはゞ知恵の無の状態は、西洋風の観念論では理解されない。その説明は 的に中らないのである。 9)

「日本にはものの道理を論ずる道の学」、すなわち論理を追求する学はないのだ、とい う。 「西洋風の観念論では理解されない」、 「わからぬまゝに当然のところへゆく」つまり

「ものにゆく道」というのが「おのづからに」あるから、 「不用」なのである。当初から定 まった道というものがあるがゆえに論究や討議は必要ない、という。こうした「知恵の無 の状態」をかれ自身の日常の卑近な例にひきよせ、保田はまた以下のようなわかりやすい 文章も書いている。雑誌『日本浪蔓派』創刊に際し『魔告』をだしたときの経緯を説明し ているのである。

「日本浪呈派贋告」をコギトへ出した時、同人が集って、その文案を検討したといふ 記憶がない。出しておかうか、よからう、といふ程度の話合で、コギトへ出したのかも しれない。しかし後で同人の誰からか、苦情をうけたといふこともないし、さしさはり があるといはれた憶えもない。この集団はさういふ大様な集りだった0

さうしたものが、最も日本的といふべきだらう。これを理論的に怠惰だといふなら、

笑止だ。思想がないなどといふものは憐れむべきだ10)

「最も日本的といふべき」なのは「出しておかうか、よからう、といふ程度」で物事に 決着がつくコミュニケーション文化をさしている。理論や思想、苦情ないしは論議は不必 要なのだ。不必要というより、そもそもはじめから存在しないのである。こうした保田の 云ういわば「知恵の無の状態」に、西欧を代表する近代恩想のひとつマルクシズムが、大 正末年から昭和初年にかけ輸入された。この事実を歴史的にあきらかな形で示してくれる のは、日本共産党という政治的な党組織の結成およびプロレタリア文学運動の開始である。

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日本共産党は1922年(大正11)、山川均、堺利彦、近藤栄蔵、荒畑寒村、佐野学を創立 準備委員として結成される。が、翌年いわゆる第一次共産党事件によって検挙をうけたの ち1924年(大正13)には一度解党にいたるO佐野文夫を委員長として第二次共産党が結成

されたのは2年後の1926年(大正15)であった。中央委員は福本和夫、渡辺政之輔、佐野 学、市川正一、徳田球一、鍋山貞親、中尾勝男で、福本が理論的指導者となる。共産主義 恩想の理論的純化、 「意識の完成」をめざす「福本イズム」支配がこうして生じる。ただ し1年後の1927年(昭和2)にはソ連国際共産党の27年テーゼをうけいれ、いわゆる「福本 イズム批判」により福本和夫は後退する。以後日本共産党は理論闘争というよりも大衆政 党たる公然政党の建設をめざしていくのである。

日本のプロレタリア文学運動が本格的にはじまるのは1924年(大正13)雑誌『文芸戦線』

(1924‑1932)が創刊されたときである。青野季吉、平林初之輔らの文芸評論家を中心とし て黒島伝治、里村欣三、金子洋文、前田河広一郎らが集まり「日本プロレタリア文芸連盟」

を結成する。だが1928年(昭和3) 『戦旗』 (1928‑1931)を機関誌(1930年には理論的機関 誌『ナップ』が創刊される)とするナップ(全日本無産者芸術連盟)が成立するにおよび 穏健な『文芸戦線』派(労農芸術家連盟)とは分裂するにいたる。 『戦旗』系の理論的指 導者は林房雄、中野垂治、蔵原惟人、窪川鶴次郎、宮本顕治らであった。若手作家として 林房雄、中野重治、小林多喜二、徳永直、佐田稲子らが活躍していた。

だが、共産主義運動はあいっぐ検挙にみまわれ、いたるところで活動の縮小を余儀なく された。弱体化がすすむのを回避するため、運動の集中化をはかり統一戦線を組む必要に せまられた。こうして1931年(昭和6) 11月コップ(日本プロレタリア文化連盟)が結成 される。ナップは解散し、その構成団体であった日本プロレタリア作家同盟(ナルプ、

1929年創立)、同演劇同盟、美術同盟などが芸術関係以外のプロレタリア諸団体と結合し たのである。息っくいとまもない翌年の1932年(昭和7) 3月24日からは、しかし、世にい う「コップ大弾圧」の嵐にみまわれることになる。作家同盟の約100名を含めコップの主 要メンバー合計約400名が逮捕された。中野重治、蔵原惟人、窪川鶴次郎、壷井繁治、村 山知義、宮本百合子らが皆っかまった。小林多喜二と宮本顕治のみがかろうじて逃れるこ とができた。

ほぼ‑年後の1933年(昭和8) 2月、小林多喜二は街頭で逮捕され、築地署の特高課員に 拷問のうえ虐殺された。享年30の若さであった。同年末、宮本顕治も逮捕され、以後敗戦 にいたるまで12年間の長きにわたり投獄されることになる。この間の同年6月、日本共産 党の最高指導者と目され巨頭と称せられた佐野学と鍋山貞親の両名が市ヶ谷刑務所におい て「転向声明」を発表。 「共同被告同志に告ぐる書」なる共同署名文章をもって獄中の同 志に回読させ「転向」を呼びかけたのである。その影響はおおきかった。また、これを契

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機におおくの者たちが「転向」にいたった。翌1934、 35年(昭和9、 10)には転向者は事 件関係者の90%にたっしたとされる11) 1934年(昭和9) 2月には日本プロレタリア作家 同盟(ナルプ)は解散し、コップは潰滅した。三枝康高は前掲書のなかで、こうした全期 間をっうじて非転向であった者は小林多喜二、蔵原惟人、宮本顕治と百合子夫妻にすぎず、

「作家同盟は十割に近い転向作家を生んだ」と述べている。 12)すなわち、太宰治らをふく む『日本浪量派』のおおくの同人たち、武田麟太郎や高見順らをふくむ『人民文庫』のお おくの同人たちもまた、ほとんどすべてのものたちが「転向」にいたったという。

小林秀雄はこうした時代のただなかに身を置きっっ、いわば時代の証人として『私小説 論』を執筆した。 1935年(昭和10)のことであった。マルクシズムがはじめて釆たった当 時の波乱にみちた文壇の状況について、かれはその歴史的な意味をつぎのように分析した。

マルクシズム文学が輸入されるに至って、作家等の日常生活に対する反抗ははじめて 決定的なものとなった。輸入されたものは文学的技法ではなく、社会的思想であったと いう事は、言って見れば当り前の事の様だが、作家の個人的技法のうちに解消し難い絶 対的な普遍的な姿で、思想といふものが文壇に輸入されたといふ事は、わが国近代小説 が遭遇した新事件だったのであって、この事件の新しさといふことを置いて、つゞいて 起こった文学界の混乱を説明し難いのである。 13)

小林によれば、マルクシズムがわが国の文壇に「社会的恩想」をもたらしたのは歴史的 な「新事件」であった。マルクシズムの導入は、文壇にかぎらず、当然ながら日本社会全 体にとっても「新事件」であった。したがって「転向」の問題もまた日本社会にふりかかっ たきわめて新しい体験であったと云うことができる。しかも、わが国における「転向」の おおくは脱落、無力化、無気力もしくは右傾化を意味していた。同じくファシズムが支配

したドイツと比較すると、戦時下における反逆、抵抗、亡命といった社会現象の様態はお おきく異なってくるのである。

ヒトラー支配下のドイツにおいては、全体主義のスローガンのもと厳格な統制は社会の 隅々にいたるまで徹底しており、かっまたきわめて残酷であった。民族共同体にたいする いかなる反抗も容赦なく弾圧された。そのシステムは驚嘆に値するはどの精巧さを誇って いた。たとえば、圧政のシステムの極致ともいうべき悪名高きアウシュビッツ第二収容所、

通称ビルケナウ収容所においては、 1942年1月から44年11月にいたるわずか3年たらずの短 期間に400万人(250万人のユダヤ人、その他の150万人)という大量虐殺がおこなわれた。

一日も休まず毎日ほぼ4000人が殺され処理されたことになる。収容者たちが逃亡を企てる のは絶対と云っていいほど不可能であった。こうした容赦のない管理・虐殺体制を生んだ

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ドイツにおいてすら、文学史上「抵抗文学」および「国内・外亡命文学」のジャンルが区 分けされ整理されるのが可能である。トーマス・マンとその家族や兄弟、その他おおくの 作家、芸術家らが亡命と抵抗を企てたことは広く知られている。

日本においては「十割に近い」はぼ全員が「転向」し、かっまた「亡命文学」、 「抵抗 の文学」の成立をみることはなかった。そもそもいかなる形の「亡命」であれ「抵抗」で あれこの国にはほとんど成立することがなかった。小林多喜二の虐殺を生むほどの大弾圧 により封殺されたのだ、とその理由のすべてを国家権力の暴力に帰すことはできない。ヒ

トラー・ドイツにおいては概してより一層苛酷な状況が支配していたからである。

保田輿重郎とは同年生まれ、大阪高校時代には同級生であった竹内好(1910‑1977)は、

1959年『近代日本思想史講座』第七巻「近代化と伝統」 (筑摩書房)に発表した『近代の 超克』において、かれ自身の十五年戦争体験を吉本隆明(1924‑)のそれをも引き合いに

だしながらつぎのように綴っている。

「傍観とか逃避とか」から区別される意味での抵抗は、私も吉本と同様、世代やグルー プの形ではなかったと恩う。個人でも非常に稀だったと患う。この場合の抵抗とは、戦 争体系のなかから戦争体系そのものを変革する意図と実現のプログラムを提出する思想

のことであるが、そのような息想は、実際になかったばかりでなく、論理上もありえな かった。なぜなら、戦争は現実には総力戦であり、理念としては永久戦争であったから。

これをトータルに否定する立場は、絶対平和主義と、 「戦争を内乱へ」の共産主義しか ないわけだが、前者は日本では問題にならぬくらい弱く、後者は結果から見て機能喪失 の状態にあった。総力戦における抵抗の哲学は、戦争中に見出だされなかったばかりで なく、戦後にもまだ見出だされていない。

● ● ●

「国家の総力を挙げ」てたたかったのは、一部の軍国主義者ではなくて、善良なる大 部分の国民であった。国民が軍国主義者の命令に服従したと考えるのは正しくない。国 民は民族共同体のために「総力を挙げ」たのである14)

竹内も吉本もまたその時代を生きた「時代の証人」であった、と云えよう。竹内は「戦 争の恩想体系」を形づくっていたものは「総力戦」、 「永久戦争」、 「肇国」であったとも述 べて、国民が「命令に服従」するのではなくいわば自発的に「総力を挙げ」る戦争であっ

たがゆえに「抵抗の思想」は実際上も論理的にもありえなかった、としている。戦争を

「否定する立場」の「絶対平和主義」は「弱く」、 「共産主義」は「機能喪失の状態」であっ たと云うのだ。マルクシズムはわが国にとってはじめての「社会的思想」であった。だが、

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戦争に抗しては「思想」が「恩想」としてほとんど機能しなかった。左傾化していたほと んどすべての文学者たちも、弾圧により見事といっていいほどにスムースに「転向」にい たってしまった。こうしたわが国の文壇の歴史、そしてまた社会史は、決して素通りして

はならない注目をそらさず注視しつづけるべきおおくの問題を提起しているものと恩われ てならない。わが国にとって近代の「思想」とは何であったのか?わが国において近代の

「恩想」は血肉となって根づくことがなぜできなかったのか、今後はできるのか?そもそ も「西欧近代」とはわが国にとって何であったのか、今後どのようにつきあうべきなのか?

ひいては今日の「思想形成」とはいかにあるべきなのか? 「転向」の問題に思いをいたす とき、こうした問題意識の数々がおのずと多様に惹起させられるのである。

久野収と鶴見俊輔は共著『現代日本の思想』 (岩波書店、 1956)において、佐野、鍋山 の「転向声明」 (1933)以後の数おおくの「転向」の理由として二つの側面を挙げている。

すなわち(1)日本共産党員と大衆意識とのきれめ、 (2)日本共産党員の個人としての自主的 恩考の弱さ、である。 「第一の面では、転向者は日本大衆意識の共通の支柱である『国』

の権威、 『家』への愛情に自分をゆだね」て、 「佐野学、門屋博、浅野晃のごとく国家主義 者としての新生にむか」い、 「第二の面では、これまでマルクス主義のとりあげることを 恥としていたような個人生活上の諸問題に目をむけることによってマルクス主義からそれ て」いき、 「三好十郎、椎名麟三のような実存主義者としての新生にむか」ったという。

つまりマルクシストの「転向」は大衆との意識のずれおよび自主的思考の弱さから生じた もので、一方では国家主義にむかい、他方では実存主義にむかったというのである。この ばあいの「実存主義」とは、厳密に概念規定がなされたことば使いではない。個人的な生

きざまや深層の心理へ耽溺していくような、アンガジュマンを喪失した作家たちの作風を 単にさしているものと患われる。久野と鶴見とは、さらにまた「天皇の理念は、日本の大 衆の意識の中にふかく植えつけられていた。それとおなじくらい深く、日本共産党は日本 の知識人の意識の中に入っている。この二つの事情は、欧米人には理解しにくい特殊なも のである」ともいう。つまり、おおくの転向者をだしながらも日本共産党は他の諸政党、

諸陣営と比較すれば「非転向」を貫いた唯一の政党であり、昭和の初期から敗戦にいたる まで日本の知識人たちにとっては「自分がどのていど時勢に流されたか、自分がどれほど 駄目な人間になってしまったかを計ることのできる尺度」の役割を担ってきたと、日本共 産党の歴史的な意義をも強調しているのである15)

日本における十五年戦争下の文学者たちは、保田輿重郎や亀井勝一郎のように少年期に は徹底した国家主義教育をうけたものたちであった。 20才代の青年期にはおおくのものた ちがマルクシズムという西洋近代の新しい思想に没頭した。そして検挙、投獄あるいは拷 問ののち「転向」にいたる。非転向を貫くのは数すくなかった。久野収と鶴見俊輔の見解

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m

溶暗‑敬

とほぼ同じように、本多秋五もまたその「転向論」の白眉のひとつ『樽向文撃論』 (未来 社、 1957)のなかでこう指摘している。すなわち「転向の生じた原因は、簡単にいって、

指導者たちの信奉した理論が彼らに血肉化していなかったことにあり、その背後には、彼 らの理論が充分に国民大衆の生活の実態をつかんでいず、また国民大衆を納得させてもい ない観念的理論であったという事実がある。この二つのことは、きわめて密接にむすび合 っている」 16)というのである。

日本の文学者および知識人たちは、夏目淑石がロンドンにおいて「肩身の狭い心持ち」

ですごしてからはぼ25年後に、はじめてマルクシズムを体験した。それからわずか10年た らずののちに小林多喜二の虐殺および佐野、鍋山の転向を知るのである。この間に日本は 満州事変以降戦争へと血道をあげることになった。既成の体制への反抗にたいしては容赦 なく苛酷であった。 「理論が彼らに血肉化していなかった」、しかも国民大衆からは遊離し た「観念的理論」にすぎなかったというのも、こうした時代の推移のなかでは無理からぬ ことと云わざるをえない。マルクシズムから離脱したばあい「日本の大衆の意識の中にふ かく植えつけられていた」天皇へと、右へ振り子のように急激に振れるというのも現象と しては当然であるように恩える。天皇をあえて「思想」と位置づけるとすれば、当時の思 想はよちよち歩きのマルクシズムとそして天皇の両極しかなかった。リベラルな多彩な恩 想はまだ充分な成長をとげてはいなかった。このことが欧米の先進諸国にはみられない、

若き近代日本の恩想の特殊性であり未熱さであった。

文学者たちの戦争

小説家の林房雄(1903‑1975)は、大分市に生まれた。旧制五高から東大法学部に入り 中退している。大学時代「新人会」に入り、マルクシズム学生運動にかかわる。共産党機 関誌『マルクス主義』の編集をもおこなう。ナルプ中央委員でもあった。いわばパリパリ のマルクシストとして1930年(昭和5)には治安維持法により豊多摩刑務所に入獄、 2年後 の1932年(昭和7) 4月、前月からはじまっていた「コップ大弾圧」の嵐のなかに出獄して くるのである。そしてこの出所直後の5月「東京朝日新聞」に『作家のために』を掲載す る。 「作家の資格と任務と権利と」という副題のついた実質的な転向声明であった。上海 事変の「爆弾三勇士」の戦死が話題となり、満州国の建国が宣言され、犬養毅首相が射殺

された五・一五事件の年にあたる。時代は急速度で回転していた。佐野、鍋山の「転向」

の一年前であったから、林房雄のそれはいわば「転向のさきがけ」であった。以後、亀井 勝一郎ら、おおくのものたちがかれにつづいていくのである。 1934年(昭和9)は、村山 知義、窪川鶴次郎、徳永直らの「転向文学」初年になった。

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日本における戦時下の文学者たち 75

『作家のために』において林は「プロレタリア文学とはマルクス主義の通俗的解説書だ」

というスターリンのことばを引用し、 「これは作家にたいして、はなはだ失程なことばだ」

と反駁する。そしてこう述べている。

作家が作家である所以は、すなはち作家の資格は、聾者や政治家や新聞記者が、見よ うとしても見ることのできぬ、または見おとして平気でゐる現實の神秘な部分に光りの 如く侵入して行くその能力だ。たとへば、レーニン、スターリンがよんでびっくりして、

なるほど作家とは鋭い眼をもった人種だ、と感心するやうな小説を書いて、はじめて作 家といへる。

● ● ●

「種の起源」はおもしろい。しかもモーパッサンはこれとは別様におもしろい。 「資 本論」はすばらしい。しかし、マルクス自身はシェークスピアやバルザックをこの上な くすばらしがってよんでゐた。だいじな鮎はこゝだ。 「資本論」にひきずられてはだめ だ。 「資本論」の著者を感心させるやうな作品を書かねばならぬ17)

今日この林の文章を読むおおくのものは、作家の資格、任務、権利についてあるべき自 然の姿が素直に述べられている、と考えるにちがいない。特記すべきことはないように恩

われる。だが、宮本顕治は野沢徹の名でコップ機関誌『プロレダリア文化』に『政治と垂 術・政治の優位性の問題』を連載し、かれの立場からすれば当然のことだが、林房雄を名 指ししたうえで痛烈に批判するのである。すなわち、 「こゝでは作家の任務は階級間雫と 全く無縁である。プロレタリアートの政治家や科学者の任務が歪曲されてゐるとともに、

作家の任務は、極めて、特権的、神秘的な色彩を輿‑られてゐる。こゝには、文撃、作家 の任務に関するブルジョア的、社食ファシスト的規定が公然と輸入されてゐる」 18)とい うのであった。

地下にもぐっていた小林多喜二もまた堀英之助の名で『プロレタリア文学』に『同志林 房雄の「作家のために」 「作家として」それにたいする同志亀井勝一郎の批判の反批判』

を書き林房雄にたいしこう激しく反論している。

・ ・ ・スターリンの言葉を、作家に封する甚だ失躍な侮辱であるとして、作家は「作 家的内的世界の完成」に立ち向はなければならないといふ彼の主張は、本質的には如何 なることを意味してゐるか?‑この理解のうちには、明らかに政治から文学を切り 離し、 「新しい」文撃の象牙の塔を築かうとしてゐる右翼日和見主義が含まれてゐる‑

‑と、まづ断定することが出来る。 ・ ・ ・我々が昨年の九月以来「主題の積極性」と

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76 薗崎‑敬

いふことを主張し、實践してきたことは、取りも直さず現實の階級闘争の贋汎な政治的 任務に創作活動の主題を従属させ、全鰭として文撃活動が政治闘争の補助的任務を果す ためだったことは、今では何人にも明らかなことではないか19)

宮本顕治や小林多喜二は林房雄のあとにしたがう「転向」の巨大ななだれ現象をことの はか危供し、必死で論陣をはったものと思われる。だが、文学を政治闘争および階級闘争 に従属させ「補助的任務」を担うにすぎないものと位置づけるマルクス理論からは、林ら はますます離反していくのである。 「転向」の一般的な原因は、日の浅かった近代日本の 知的土壌が西欧の理論や思想をうけいれるに充分たがやされてはいなかったという問題、

その結果としてマルクシズムという恩想が当時「血肉化」されなかった、大衆からは遊離 した「観念的理論」にすぎなかった、というにとどまらなかった。その原因はさらに、表 現としての文学を自由であるべき人間そのものとはとらえなかったマルクシズム月体に内 包されていたとは云えないだろうか。

本多秋五は「林房雄のパンフレット『転向に就いて』 (四一・四、第五版、湘風合刊) は、転向文学の最後の段階・ ・ ・を示すメルクマールである」 20)という。このパンフレッ

トがだされる一カ月前の1941年(昭和16) 3月には、改正治安維持法が公布され、無党派 文化人や自由主義者までもがターゲットとなる予防拘禁制が追加されていた。 5月には作 家たちの文芸家協会が文芸銃後運動を開始する。やがて10月には東条英機内閣成立。 12月 1日「御前会議」がアメリカ・イギリス・オランダにたいし開戦を決定、8日日本軍はマレー 半島に上陸を開始するとともに真珠湾を攻撃するのである。 1941年は要するに、泥沼化し た日中戦争を背後にひきずりながら総力を結集して太平洋戦争の火蓋をきった最終段階の 一年であった。 「転向文学」などという人間の心理、性格、個性をもふくむ政治姿勢の一 種の遠巡の過程表現など、これ以後許容されるはずもなかった。

『作家のために』からほぼ10年後の『転向に就いて』において、林房雄はおおきく急激 に右旋回して天皇へいたるのである。内面の心理や生育史をふくめた転向過程の推移を稜々 開陳しながら、林は「転向とは、単に前非を悔ゆるということだけではない。過去の主義 を捨てるということだけではない。共産主義を捨てて全体主義に移るということでもない。

いっさいを捨てて我が国体への信仰と献身に到達することを意味する」 21)という。

が、ただ単にこうした「概念による国体の認識をもって」ことたれりとしてはならない、

ともいう。 「宮城の前を通るとき、果たして自ずから頑が下がるかどうか」が決定的な問 題だ、と独自の認識をさらに情感領域にまですすめながら、林は以下のように国体への感 謝の念をことさらにうやうやしく述べるのである。

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日本における戦時下の文学者たち m

もちろん、転向の道を開いてくれたのは、日本の国体である。外の国に生まれたら、

われわれは流刑か然らずんば銃殺であろう。一人の民をも殺し給わぬ大御心が、われわ れに転向の道を開いて下されたのである。それはどこまでも有難いことである。それに 応えたわれわれの心の素直さも立派である。 22)

日本史にわずかなりとも通じたものであれば、 「一人の民をも殺し給わぬ大御心」など とは如何なる心を意味するのか疑問に思う、理解にくるしむのは当然である。 1910年(明 治43)の大逆事件はだれもが知るとおり明治天皇暗殺のでっちあげ事件だった。幸徳秋水、

管野スガ、奥宮健之ら12名が処刑された。無期懲役12名。逮捕者は数百名におよぶとされ る。小林多喜二も治安維持法のもとで殺された。天皇のため国体のため戦場においてもし くは戦時の国内・外において殺された外国人をもふくむ若者たち、こどもたち、人々はど うなるのか。自らすすんで死んでいったとでもいうのであろうか。林房雄にとって国体は、

もはやこうした理屈・論理をこえた信仰の対象でしかなかった。かれはかの悪名高き「近 代の超克」シンポジュウムのさい提出した論文『勤皇のJL、』においてこうした「大御心」

にかなうべき「勤皇の心」をっぎのように説明している。まさにそれは天皇主義、日本主 義の極致にはかならなかった。

岩間に湧く清水の如く、清袷にして透明なる心、地底に燃ゆる火の如く、揮一にして 激烈なる心、私なく人なく、ただ神と天皇のみ在はします大事實を知る心。

単なる愛国ではない。軍なる憂國でもない。勤皇の心を知らざる愛國者と憂國家は、

いっでもその逆のものに蒋ずることができる。

我が罪業の深さを知り、個と私の一切を捨てて日本の示中の前にひざまづいた境地に生 まれた勤皇、その心のみが、まことの愛國者、まことの憂國家をつくるのである。 23)

1942年(昭和17) 7月の「近代の超克」シンポジュウムについては上記「『文明開化』と 文学者たち」の章ですでにいくぶんかはふれた。再度強調するなら、それは日本の文学者 たち知識人たちの積極的、能動的な戦争加担を象徴するできごとであった。 「近代の超克」

というタイトル自体が、日常的には「欧米の駆逐」を意味し知識人にとっては当時「大東 亜戦争」とむすびついた流行語のひとっになっていくのである。 13名の座談会出席者名、

所属・専門など、そして提出論文を列挙するとっぎのとおりになる。

亀井勝一郎(『文学界』同人、 『現代精神に関する覚書』) 林房雄(『文学界』同人、 『勤皇の心』)、

三好達治(明大講師、 『文学界』同人、 『略記』)

(16)

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溶暗‑敬

中村光夫(『文学界』同人、 『「近代」への疑惑』) 河上徹太郎(『文学界』同人、 『「近代の超克」結語』) 小林秀雄(明大教授、 『文学界』同人、執筆論文なし) 西谷啓治(京大助教授、哲学、 『「近代の超克」私論』) 下村寅太郎(東京文理大教授、哲学、 『近代の超克の方向』) 鈴木成高(京大助教授、歴史、執筆論文なし)

菊地正士(大阪帝大教授、科学、 『科学の超克について』) 吉満義彦(東京帝大文科講師、神学、 『近代超克の神学的根接』) 津村秀夫(朝日新聞記者、文部省専門委員、.映画、 『何を破るべきか』) 諸井三郎(東洋音楽学校、東京高等音楽院講師、音楽、 『吾々の立場から』)

参加者たちはこのように文学、哲学、歴史、科学、神学、映画、音楽といったあらゆる 分野の専門家たちであった。日本を代表する第一級の知識人たち、といっても過ぎた評価

にはならないはずである。であるのに、その論議過程は恩いのはかはなはだみすぼらしく おそまつなものであった。第一日目には、ルネッサンスの近代的意味、科学における近代 性、科学と神との繋がり、われわれの近代、近代日本の音楽、について論議がなされた。

二日目のテーマは、歴史‑移りゆくものと易らぬもの、文明と専門化の問題、明治の文明 開化の本質、我々の中にある西洋、アメリカニズムとモダニズム、近代日本の可能性、で あった。今現在、こうしたテーマの小見出しを一読しただけでも全体の統一的な関連はど こにあるのか、探しあぐねてしまう。実際かれらの論議のありさまはほとんど脈絡もなく 混沌としていた。何ら明確な筋道はたってはいなかった。もちろん結論などあるはずもな

かった。かれらの座談と論文をまとめた単行本『近代の超克』 (創元社、昭和18)に目を とおせば即座に明らかになることだが、河上徹太郎の『結語』からも錯乱した会のこうし た有様は歴然とみえてくるのである。西洋近代およびそのつよい影響をこうむった日本の 近代を「超克」するためのイデオロギー構築という大企画を構想し、一年もの間プランを 練っていながら、人選、テーマ設定、議論、議論の進行・まとめ、といったシンポジュウ

ムの基本的なシステムづくりがきわめて稚拙で要をえていないのである。こうしたシステ ムづくりの基盤をなすのは分析、整理を旨とする学問であり、日本の学問体系の総体が未 熟なものでしかなかった、とは云えないだろうか。河上はこう書いている。

此の合議が成功であったか否か、私にはまだよく分からない。たゞこれが開戦一年の 間の知的戦懐のうちに作られたものであることは、覆ふべくもない事實である。確かに 我々知識人は、従来とても我々の知的活動の虞の原動力として働いてゐた日本人の血と、

それを今まで不様に髄系づけてゐた西欧知性の相克のために、個人的にも割り切れない

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日本における戦時下の文学者たち 79

でゐる。合議全鰭を支配する異様な混沌や決裂はそのためである。 ・ ・ ・

・ ・ ・用語例・知的方法論・作業の史的段階、等々、何の鮎を見ても食い違ったもの がある。我々は、鑑房の中で隣室の同志と壁を叩き合って話すやうに語った。それでも 性急な我々が、平素の所信の隅々までも通じ合はうと思って無用の摩擦も敢て解せなか ったのは、此の企ての所期の目的に忠實な、我々の良心である。その間にあって「近代 の超克」といふたゞ一つの標識燈が、騰気ながら各自の壁を突き透して共通に皆の眼に 映ったといよことは、何といふ喜びであったろう。 24)

「合議全髄」は「異様な混沌や決裂」に「支配」され、あらゆる意味で「食い違っ」て おり、 「無用な摩擦も敢て解せなかった」このシンポジュムの参加者たちは、 「鑑房の中で 隣室の同志と壁を叩き合って話すやうに語った」のである。つまり欧米風のディスカッショ ンというのは、ほとんど成立してはいなかった。ディスカッションとはものごとをわかり やすく整理し、これらを互いにつきあわせて、より高次の新たな次元にいたらしめる学問 的行為である。西欧近代を超克するイデオロギーを確立するためには、皮肉なことではあ るが西欧近代のディスカッションないしは学問を駆使する能力が当然要求される。 「日本 を代表する第一級の知識人たち」にはこれができなかった。竹内好が前掲の論文『近代の 超克』のなかで述べる評価は「『近代の超克』の最大の通産は、私の見るところでは、そ れが戦争とファシズムのイデオロギーであったことにはなくて、戦争とファシズムのイデ オロギーにすらなりえなかったこと、恩想形成を志して思想喪失を結果したことにあるよ うに思われる」 25)というものであった。竹内好は、江藤淳の『神話の克服』から引用を おこないながら、だがこうした「恩想喪失」こそが問題であると強調する。

竹内によれば、江藤淳はこのシンポジュウムを「当時のもっともすぐれた西欧的な『近 代主義』理論家によって組織されたもの」とまず位置づけたうえで「これはそのような近 代主義者たちが、自らの敗北を自認するために行った座談会であった」と歴史的な解釈を しめし、さらにつぎのように結論づけているという。 「私は、われわれの『神話』が、昭 和十七年の七月に決定的な勝利をおさめたきり、まだ一度も日本人によって敗北させられ ていない、ということに注意を喚起しておきたい。同時に、その時決定的な敗北を自認せ ざるをえなかった西欧的な近代主義者たちは、おおむねその後自力で復権してはいない。」

こうした江藤淳のきわめて日本主義的な歴史解釈にたいして、竹内好はつぎのように否 定的なコメントをおこなうとともに、戦後の今日にいたる恩悪状況にもかれ独自の思想に

もとづく警告を発している。

私は、この見方は状況の変化を一面化して、やや単純に過ぎるように思う。 「西欧的

(18)

80溶暗‑敬

な近代主義者たち」は、私の見るところでは「決定的な敗北を自認」しなかった。なぜ なら「近代の超克」の看板はかけたが、実際の思想闘争は行わなかったからである。敗 北感のあるはずがない。そして敗北感のないことこそが今日の問題である。つまり敗戦 によるアポリアの解消によって、思想の荒廃状態がそのまま凍結されているのである。

恩想の創造作用のおこりようはずがない・・・

。今日の日本は「神話」が支配している

ことに問題があるのではなくて、「神話」を克服できなかったェセ知性が「自力」でな く復権していることに問題があるのである。26)

竹内の解釈と分析によれば、 「近代の超克」座談会は、雑誌『文学界』グループと「京 都学派」、および保田輿垂郎(河上の『結語』によれば「急に都合が悪くなって不参加」

であったが)を代表格とした「日本ロマン派」の三要素から成り立っていた。 『文学界』

を中心とした近代主義者たちは戦争遂行のため「近代の超克」をイデオロギーとしてかか げようと試みはしたが、実際にはそうした江藤淳の云うところの「神話」の内実は空虚な ものにすぎなかった。したがって敗北感もなく近代主義者たちの思想は荒廃したまま戦後 にいたり、占領軍の力によって復権をはたしたうえで、民主化だの近代化だのと叫びなが ら再度勢力を誇っている、ということになる。竹内によれば、明治初年の征韓論以降、近 代日本の戦争伝統はたえず二重構造をもっていた。つまり、 「東亜における指導権の要求」

および「欧米駆逐による世界制覇」である。この二重構造は互いに矛盾していて対抗関係 にある。日本はアジアの「植民地開放運動」というアジア原理を否定し欧米近代の帝国主 義に倣ってアジア支配をもくろんでおきながら、他方では欧米近代の駆逐ないしは超克を イデオロギーとなし、戦争にうったえようとする。すなわち、西欧にたいしてはアジアを 主張し、アジアにたいしては西欧的に支配と指導を要求するからである。 「戦争とファシ

ズム」のイデオロギーとしての内実を備えるにはいたらなかったが「近代の超克」の看板 をかけた近代主義者たちは、二次大戦敗戦後には「日本イコール西欧という観念の操作に よって」、こうした日本の戦争伝統の二重構造における片方の「西欧近代の超克」を放棄

し他方の「アジア支配」のみを生かそうとしている、というのが竹内の警告であった。

敗戦後、国体思想の「日本浪呈派」は、戦前・中とはうってかわって嫌われ無視されつ づけていた。これを戦後はじめて論議の姐上にのせたのは竹内であった1951年雑誌『文 学』にかれは『近代主義と民族の問題』を発表し、 「日本ロマン派」は近代主義にたいす るアンチ・テーゼとして「民族を一つの要素として認めよ」と主張したのだと述べ27) 「日 本浪量派」の再評価をはかったのであった。竹内好の思想の業績は、アジア各国が独立を みていた大戦後の当時、学会やジャーナリズムにおいて広く民族の問題は脚光をあびては いたが、このように「民族」という観点をたずさえてこれを西欧近代に対置したことであっ

(19)

日本における戦時下の文学者たち 81

た。ただし、「民族」がかつてのように西欧近代にたいして戦いをいどみ超克をめざすと いうのではなくて、「民族」は「アジア」という概念に包摂され、「アジア」が能動的に近 代主義にたいし調和的な展望をあたえ、やがては世界が均質化していく希望を追求したの だと云えよう。

竹内好は、作品は発表しなかったとはいえ、雑誌『日本浪量派』の母胎であった『コギ ト』の同人に名をっらねたこともあり、また保田とは親交もあった。であるからといって、

保田らの思想のすべてを好意的にあるいは肯定的に評価していたわけではない。論文『近 代の超克』において、かれは「総力戦」、「肇国」、および「永久戦争」の三つを「戦争の 思想体系」を形成した要素としてあげたのであったが、これらのうち「永久戦争」という 理念には終末論が不可欠であるとしたうえで、「近代の超克」思想において「日本ロマン 派」が果たそうとした役割は「復古の側面によってではなく終末論の側面で作用した」と、

批判的に論じている28)

。ただし、ではあったとしても、竹内の「民族」および「アジア」

をキーワードとした西欧近代批判の思想と「日本浪呈派」とは厳密にはどのように同じな のか、異なるのか、ひいては原初的な意味における「アジアの開放」および「大東亜共栄 圏」といった日本軍国主義のたてまえとしての発想とはそれはかかわりがあるのか、ない のか、といったきわめてデリケートな問題が今後の検討課題としてのこされているように 思われる。

日本の文学者たちの戦争協力について思想史的なところに重点をおきとりあっかおうと するばあい、「日本浪呈派」の存在を無視することはできない。上記「『文明開化』と文学 者たち」の章でいくらかは述べたが、「日本浪量派」とはもともと保田輿重郎らが発刊し ていた雑誌名であった。発刊は1935年(昭和10)3月から1938年(昭和13)8月まで3年半 に克たない比較的短期間である。しかも同人たちの顔ぶれ、作風は一様ではなく多種多様 である。とてもひとくくりにはできない。それが文学史上の、もしくは思想史上のひとっ の派閥のようにとらえられていった理由は何か、かならずLも定かではない。その雑誌名 にみずからが「派」を称したという以外、おそらくは保田という人物の強力な個性による、

とらえどころがあるようでないようなカリスマ的な神秘性をもふくめた隠然たる指導性の ゆえではなかったか、と思われる。今日にいたるまで雑誌『日本浪量派』は「日本浪量派」

という一派としてとらえられ、その中心は保田輿重郎とされる。というより、いきおい保 田ひとりが「日本浪量派」なのである。「日本浪量派」とは何か、が論じられるときには 保田の恩想性が論じられるのであって、おおかたのところ他のものたちはそのかかわりだ けが問題にされることがおおい。亀井勝一郎であれ伊東静雄であれ太宰治であれこうした 傾向のなかにあるのである。統一的に標模した文学の方法論があるとか政治党派のように 厳密な意味で政治思想の一致をみていたといったグループではないのだから、指導的であっ

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司園田園田園.

いてもらう権利﹂に関するものである︒また︑多数意見は本件の争点を歪曲した︒というのは︑第一に︑多数意見は

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