【書 評】
小川浩昭著『保険学における一般性と 特殊性』
九州大学出版会,2015年3月,はしがき・目次6頁+
本文278頁+索引26頁
1. わが国の保険学の濫觴は,経済学や経営学などと同様に,19世紀末以降,
主としてドイツからの輸入学問であった。保険学方法論が確立していない段 階で,必然的に,当時のドイツ保険学の文献を翻訳し,ドイツで展開されて いた保険学説や制度論を紹介しつつ,それに独自の解釈を加えることが保険 学界の中心的関心であった。学問として保険研究に携わる者は,まずは「保 険とは何か」を明らかにするために,独自の保険本質観を提示する中で,そ れに基づいて保険学説の学説論争が展開された。そうした地道な議論の積み 重ねにより,保険学の学問としての地位は高まり引き継がれていったのであ る。保険学会の歴史にとって最も華やかで生き生きとした活気のある時代で もあり,保険学の発展段階においても不可欠な過程であったといえよう。
戦後,アメリカ流のプラクティカルな学問が主流になると,わが国の保険 学も徐々にそうした影響を受けることになった。保険学の研究課題も,実務 との関連性の強いテーマが選ばれるようになり,多岐に及ぶようになった。
実学的要素の強い保険学にとって,業界との相互発展を図ることは,自らの 存在意義を確認する上で重要であるが,現在の保険学の置かれている状況は,
学問としてのあり方を見失いかねない事態に陥っている。
本書は,そうした保険学の学問的系譜について文献サーベイや学会動向を 中心に詳細な検討を加えながら,伝統的保険学から新たな保険学への脱皮の 必要性を説こうとするものである。
2. 本書の構成ならびに概要は,以下のとおりである。第1章「戦前の保険 研究の動向」,第2章「戦後初期の保険研究の動向」では,それぞれ戦前な らびに戦後初期に発刊された保険学の研究書やテキストの内容と構成を紹介 する。第3章「保険本質論研究の動向」では,かつてさまざまな保険本質論 が提示された過程を時系列的に確認して,保険学説の体系を整理する。それ を踏まえて,第4章「伝統的保険学の形成」で,戦前からの保険学が保持し てきた共通の問題意識として,伝統的保険学が保険2大原則(給付・反対給 付均等の原則と収支相等の原則)と保険本質論の重視が中心であったことを 確認する。第5章「伝統的保険学への批判」では,伝統的保険学で見られた 保険本質論争が収束した後で,アメリカの保険学の影響を受けた近年刊行さ れた保険学のテキストの内容の変遷を辿る。
第6章「保険学の現状」では,大学における保険教育の調査を踏まえて,
保険学のカリキュラムの変遷を資料的に整理している。その後,保険に関連 する学会やノーベル経済学賞受賞テーマの変遷,隣接科学の学会動向などを かなりの紙数を割いて紹介している。終章である第7章「保険学の課題」で は,保険学のアイデンティティを取り戻すために,保険学の特殊性に立脚し た一般性の展開が必要であると述べる。
3. 本書は,わが国における保険学研究の流れを関連文献と学会の動向を参 考にして辿ることを意図している。分析手法として,戦前から現在までの数 多くの保険学文献の内容を精査し比較検討がされている。とりわけいまやほ とんど顧みられることのなくなった古典的著作を,この時代に再度紐解いて 整理するという地道な作業とその労苦に対して,まずは敬意を表したい。著 者が,保険学の学問的系譜を確認することを通じて,現在の保険学会が置か れている危機的状況に対して警鐘を鳴らし,学会が進むべき方向性を問いた だすという趣旨には,評者も大いに賛同するところである。
著者は,伝統的保険学の特徴は,保険本質論と保険の2大原則を重視する ことであるのに対して,新しい保険学は,リスク重視の保険学でなければな
らないという。しかし評者は,この点に対して少々違和感を持たざるを得な い。伝統的保険学が重視してきた保険の2大原則(給付・反対給付均等の原 則と収支相等の原則)について,著者は批判的に捉えているが,評者自身は,
保険を理解する上で,この2大原則は依然として非常に重要であると考える。
給付・反対給付均等の原則は,個別契約における公平性を求める原則であり,
ミクロ(個別契約)の等価原則を規定するものである。これに対して,収支 相等の原則は,保険経営の継続のための必要原則であり,保険集団としての マクロ(保険集団)の等価原則を規定している。そして同時に,収支相等の 原則は,保険制度には集団性が前提となっていることも示唆している。保険 が要求する個別的公平性と集団的合理性の両立という理念と構造を理解する 上で,これらの原則の意味する内容を正確に把握することは,依然として有 益であり重要な意義があると思う。
また伝統的保険学がリスクを軽視しているかのような主張が見られるが決 してそんなことはない。公平な保険料を算定する際にはリスクを吟味しなけ ればならないことは,強く認識されている。近年のリスク重視という方向性 はその通りだと思うが,それは伝統的保険学を批判した結果として導かれた わけではなく,保険学の発展過程で必然的に到達した状況である。その意味 では,伝統的保険学で展開された議論は,現代保険学にとって必要なプロセ スであったと言える。そうした観点からすれば,伝統的保険学の批判に終始 するだけでなく,著者自身が理想とするリスク重視による新しい保険学とは 具体的にどのような内容であり,どのような研究手法をとるべきなのか,示 唆を与えていただきたかったところである。
著者は,伝統的保険学に対する批判的な研究動向が,かつて保険学が経験 した保険本質論に対する過度なアレルギーの結果,一般性を指向しすぎたた めに,逆に保険としての特殊性を軽視し,その結果アイデンティティを失う という危機的状況に至ったとする。この点は概ね同感である。例えば,近年 の重要テーマである IFRS(国際会計基準)においても,他の金融サービス と比べて,果たして保険固有の特質とは何かが問われている。保険機能を保
つためにも,金融との共通性と同時に,固有性も明確に示すことが保険学理 には求められている。
本書が一貫して示す批判的検討は,学問の発展にとって重要な姿勢であり 見習うべき部分も多い。ただ一部の主張や理解には,一方的な解釈を加えて いたり,明らかな誤りと思われたりする部分も散見された。(例えば,「「給 付」は保険料を指すと思われるので,「反対給付」は保険金を指すとなろ う。」(本書149ページ)は,明らかに誤解である)。
また,保険学会全国大会のシンポジウムや共通論題,保険教育,隣接科学 の学会動向を資料的に整理しているが,ここまで丹念に調べた内容が,本書 の主題とどのように関係するのかよく理解できなかった。結論づけも少々強 引な印象を持った。
4.「保険とは何か」を端的にかつ正確に説明することは,実は非常に難し い。また保険本質観は研究者によって区々である。それを統一的に縛る必要 はなく,またそれは不可能である。しかし,保険現象を学術的に論ずるため には,研究者自身の保険本質観を明確に持つことは重要である。保険に対す る捉え方が異なれば,最終的な主張についても異なってしまうからである。
故庭田範秋博士が『保険理論の展開』(1966)の中で,「保険学は,その研 究対象が保険に関する経験事実であることから,それは終局において歴史的 な経験事実として歴史科学となる」と述べられているように,保険学の研究 課題は,時代とともに変化するものである。かつては,保険の本質を述べて,
次には,保険の歴史,そして保険の仕組みを説明するのが一般的であった。
ところが最近では,保険経営に関する部分が拡大され,商品開発,マーケテ ィング,企業リスク管理などが重要な項目として取り上げられるようになっ ている。さらには保険政策論の重要性も著しく高まっている。このように,
保険学は研究対象とする保険現象の変化にともなって,時代の要請を受けた 新しい学理が求められる。
保険理論は,現実の保険事象に対する理論的相対化を与えるだけでなく,
保険の本質を捉えるうえでの指針を示すものである。現代社会とともに著し い変化を遂げている保険の現代的役割を理解するためには,保険理論の考究 がますます重要性を帯びている。本書は,そうした認識を改めて呼び起こし てくれる良書である。
(評者:慶應義塾大学教授 堀田 一吉)