日本近代琵琶の盛衰に関する考察 ―― 遊芸と「いき」の視点から ――
45
0
0
全文
(2) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 香 川 大 学 経 済 論 叢 第82巻 第1・2号 2 0 0 9年9月 3−4 6. 日本近代琵琶の盛衰に関する考察 ―― 遊芸と「いき」の視点から ――. 王 志津や志津. 志津の小田巻くり返し. 吉野山峰の白雪ふみわけて. 維. 昔を今になすよしもかな…. 入りにし人の後ぞ恋しき. これは「静御前」という琵琶曲の歌詞である。静は鎌倉時代初期の女性で, 源義経の愛妾と言われている。源平合戦後,兄の源頼朝と対立した義経が京を 落ちて九州へ向かう際に同行するが,義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻され る。静は吉野で義経と別れ京へ戻るが,途中で山僧に捕らえられ京の北条時政 に引き渡され,後に母とともに鎌倉に送られる。静は源頼朝に鶴岡八幡宮社前 で白拍子の舞を命じられた。静は上記のような義経を慕う歌を唄い,頼朝を激 怒させるが,頼朝の妻が「私が御前の立場であっても,あの様に謡うでしょう」 と取り成して命を助けた。 …鎌倉山の春の宵 桜散る散る舞い衣 君が涙の歌声に 御空の雪も泣きにけり… というように琵琶曲は平家物語の1つ名場面である,静の舞の情景を表現し ている。同じ西アジア起源とする琵琶は日本と中国ではそれぞれ異なる受容と 変容過程を経て現在まで発展を遂げてきたが,中国琵琶は独奏及び伴奏楽器,.
(3) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ −4−. 香川大学経済論叢. 4. つまり器楽音楽として定着しているのに対して,日本琵琶は主に上記のように 平家物語などの語りを伴うという性格から器楽音楽というより,むしろ語り音 楽として伝承されてきた。 日本琵琶というとき,よく琵琶法師のことが思い浮かぶが,実は日本琵琶は 琵琶楽といわれるほど,楽琵琶,平家琵琶,盲僧琵琶,!摩琵琶,筑前琵琶な どいくつかの琵琶がある。現在一般的に知られているのは筑前琵琶と!摩琵 琶,つまり江戸時代以降興ってきた,いわゆる近代琵琶である。周知のよう に,江戸時代は近世の日本にとってもっとも文化が豊かで,繁栄した時期で あったが,この時期には日本音楽にとってももっとも豊富な,またもっとも特 異的な性質をもった時期であった。この時期には,上流社会から中流,そして 下流社会に至るまで,それぞれの音楽をもっていた。特に町人や職人たちに よって作られた庶民の文化は江戸時代の一特徴とされてきた。江戸時代の特色 といえば,武家社会そして男性社会であり,社会のすべての営み(芸能や音楽 を含めて)は男性によって行われてきた。男性は文化の担い手であった。男性 を中心に芸能を創造し伝承してきた文化背景には,古くから日本にあった独特 な遊芸の機能が反映している。特に遊芸の機能によって江戸時代に生まれた家 元制度及び「いき」の美意識は,日本社会や文化の制度的,構造的な基盤形成 に大きく寄与した。 音楽史では,江戸時代の音楽の特色をつくったのはこの時代に輸入された楽 器−三味線である。三味線楽は近世の歌舞伎劇の勃興と流行に大きな影響を与 えた。同じ時期に九州から生まれた日本近代琵琶は,なぜ三味線音楽のように 大衆化しなかったのだろうか。琵琶はなぜ明治,大正時代に大流行し,その後 すぐに衰退していったのだろうか。琵琶の伝承は,遊芸の機能,「いき」の構 造とどのように関連付けができ,それはどのような構造があるのだろうか。こ れまで琵琶に関する研究はそれほど多くなく,しかもその視点は主に音楽史や 楽器自体に置かれることが多い。そこで,本稿は日本琵琶,とくに近代琵琶の 変遷を述べた上で,遊芸論及び「いき」の構造の視点を用い,近代琵琶の盛衰 に関わった文化的社会的要素と構造について考察を試みたい。.
(4) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 5. 日本近代琵琶の盛衰に関する考察. −5−. 1.日本琵琶の系譜 琵琶は中国から日本に伝わってきたと言われるが,実は琵琶は中国固有の楽 器ではなく,西域,つまり西アジアより伝来した楽器である。かつての中国琵 琶に曲頸琵琶と直頸琵琶があり,また四弦と五弦がある。曲頸琵琶はペルシャ のリュート系楽器バルバットがインドを経て北魏の時代中国に伝わったもので あるのに対して,直頸琵琶はインドに直接の起源をもち,西域を経て中国漢の 3 4) 。これらの琵琶は中国の 時代に伝わったものとされる(瀧遼一1 9 9 1:8 3−1 隋唐時代に日本に伝来したとされ,当時の姿は日本の正倉院で見ることができ る。 7世紀以降日本に入った琵琶には,器楽として雅楽を演奏する楽琵琶と盲僧 が経文を読誦する時に伴奏に用いた宗教琵琶,つまり盲僧琵琶の2種類があ る。歴史的には前者から平家琵琶が生まれ,後者から近代琵琶(!摩琵琶,筑 前琵琶)が生まれたと考えている。楽琵琶の起源はペルシャとされ,盲僧琵琶 の起源はインドとされるが,いずれも中国を経由して日本に伝わったと考えら れる。なお,これに対して,琵琶の形態上の特徴から,日本の琵琶はすべて楽 琵琶から発しているという見方もある(薦田2 0 0 3:3 1 8〜) 。現在日本で使わ れている琵琶は,用いられる音楽によってこのように楽琵琶,平家琵琶,盲僧 琵琶,近代琵琶の4つの種類に分けられる。形態上の共通の特徴といえば,曲 頸,つまり首が折れ曲がっており,棹が短く,四弦で(筑前琵琶に五弦がある) , 洋梨形の薄い胴をもっている。これらの琵琶はそれぞれの歴史変遷過程がある が,いずれも他の琵琶の影響を受けながら,独自の琵琶音楽の位置を確立した のである。しかも,江戸時代に勃興した三味線音楽及び歌舞伎劇に大きな影響 を与えた。日本の近代琵琶の源流及び伝承を考察するために,まずこれまでの 琵琶の流れ,及びその相互関係を知る必要がある。 ". 楽琵琶は今日でも日本の雅楽の中で使われている。正倉院に保存されて. いる楽譜の資料から,8世紀,9世紀の奈良,平安時代ころは,琵琶の独奏曲 が盛んに演奏されていたことがうかがえるが,現在そのような独奏曲がまった.
(5) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ −6−. 香川大学経済論叢. 6. く見られなくなり,現在残っているものは雅楽の管弦の中における琵琶のパー トだけになっている。その音楽の特徴といえば,旋律的な演奏をするのではな く,単純な演奏の仕方で,リズム楽器としての役割を担うことにある。演奏の とき,バチを使うが,左手のテクニックとしては,棹についている高い柱の頭 のところを指で押さえて,正確な音程を出す。それによって,雅楽に特有の和 じ. 音を鳴らすことができる。楽器は四弦曲頸で,棹のところに丈の高い柱が4つ ある。後にこの楽器から発生した平家琵琶の形はこれによく似ている。 #. 盲僧琵琶は荒神琵琶とも呼ばれ,専ら盲人によって用いられ,その本来. の専業は「地神経」「観音経」などの経文の読誦に合わせて奏し,土荒神の払 いなどの祈願に用いるのであった。江戸時代に至ってその祝儀に祝詞を歌った り,また滑稽な歌を歌って座興に供するなどに用いるようになった。特に琵琶 の伴奏で滑稽な物語を歌うのを俗に滑稽琵琶と称している。伝説によれば,釈 !が盲人の弟子を憐れんで,これを始めさせたことである。盲僧琵琶は,中国 の三国時代にインドから伝えられたと言われる。奈良時代の直前に日本に伝 わって,直接唐代の都から日本の都に入り,天皇を始め「貴人」の間であそば れた楽琵琶と異なって,九州のどこかで上陸して,九州の庶民の間に広まった。 盲僧琵琶を行うところの盲僧は主に天台宗の一派なる天台仏説宗に属し,九 州のみ存在している。その中で福岡県,大分県,佐賀県など九州の北部に居住 するものを筑前盲僧と称し,熊本県にあるものを肥後盲僧といい,鹿児島県, 宮崎県など九州の南部及び九州の東部にあるものを"摩盲僧と呼び,三者にお いてその音楽及び楽器を異にしている。 盲僧琵琶は九世紀頃,当時の都である京都に上り,その一部が都にとどまっ たので,はじめて京都で楽琵琶と接触があったという。それによって従来音楽 として極めて幼稚であった盲僧琵琶が音律の正確な楽琵琶の影響を受けて変貌 して,新しい盲僧琵琶が生じたという。この盲僧琵琶は京都盲僧琵琶と呼ばれ ることもあり,後に京都から新たに"摩に下った盲僧琵琶は"摩盲僧琵琶とい う。"摩盲僧琵琶は"摩藩主島津家の安泰を祈る宗教琵琶であったが,島津家 の庇護を受けて領内でも行われるようになり,庶民の間にも次第に浸透し庶民.
(6) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 7. 日本近代琵琶の盛衰に関する考察. −7−. の信仰対象となった(島津1 9 9 7:1 3−1 6) 。 盲僧琵琶は現在九州の一部の地域で,地神経とか,荒神琵琶などのような形 でしかあまり見られなくなったが,平曲(平家琵琶)に関係がある。つまり, 平曲は京都に残留した盲僧琵琶法師が平家物語を語りはじめたことによって発 生したという。また江戸時代におこった!摩琵琶,明治時代初期に発生した筑 前琵琶は,いずれもこの流れを汲むものである。 #. 平家琵琶は,「平家物語」を琵琶の伴奏で語る音楽である。 「平曲」 ,「平. 家」などともいわれるが,「平家琵琶」という名称は,後世に現われた「!摩 琵琶」「筑前琵琶」の名称にならって用いられたものであり, 「平家」の名称は 南北朝時代から室町時代にかけて多く用いられたものである。 平家琵琶は中世になってから起こったものだと言われている。器楽的な楽琵 琶と対照して,中世になると,仏教思想が民衆の心の中に入ってくるので,物 語を琵琶の伴奏で語るという音楽のスタイルが出来上がった。その中では仏教 に関係するものだけではなく,「平家物語」のような普通の物語を民衆に語っ て聞かせる,語り音楽として発展してきた。平家琵琶は雅楽,仏教の声明,盲 僧琵琶の音楽的要素が混合されたものだと指摘され,それについては楽器自体 を通しても見ることができる(田辺1 9 2 8:1 4 7)(星旭1 9 6 1:3 6) 。後に平家琵 いちかたりゅう. や さかりゅう. ". 琶はその伝承系譜に一方 流と八坂 流の二流が生じ,一方流から名人明石覚一が 現れ,平家琵琶が興隆することになった。 平家琵琶の音楽は声明からきわめて大きな影響を受け,音楽的な旋律をもつ (1) 明石覚一は,平家琵琶中興の祖といわれ,平家琵琶の台本の制定,旋律型の増補など, 平曲発展の上に重要な役割を果たした人物であるが,盲人の団体の創始者ともつたえら れている。当道とは,盲人の治外法権的職能団体であり,盲人の保護機関でもあった。 江戸時代に入って,幕府の保護により,盲人の官職制度も整い,平家琵琶家のほかに, 箏曲・地歌・鍼灸・按摩などを専業とする盲人が,すべて当道の名のもとに統一され た。当道には最高官の検校以下,別当,勾当,座頭の四階級が設けられたが,総検校は 最高の権力者とされる。つまり,当道は盲人間の行政,立法,司法をつかさどる機関で あり,総検校を頂点とする一種の封建社会を形成していた。したがって,平家琵琶をは じめ,近世邦楽の重要な種目である箏曲・地歌などは,盲人によって作曲,演奏,伝承 されてきたものであり,これらはまた盲人の特権でもあった。日本音楽史の中で重要な 存在である(星旭1 9 61:3 7) 。.
(7) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ −8−. 香川大学経済論叢. 8. 部分と,朗読するような部分に大別される。楽器自体は四弦五柱であり,楽琵 琶よりすこし小さい。そして,邦楽にあまり見られない西洋音楽のような三度 や五度を一緒に鳴らす協和音がよく使われている。また,語り音楽としての平 家琵琶は琵琶と語りかける言葉の旋律との関係が,三味線音楽のように表裏一 体となっているのではなく,独奏曲のように演奏するところと,もっぱら講式 のように語って聞かせる部分が截然と分かれていて,琵琶は伴奏楽器だとはい いながら,実際演奏するのは前奏,及び語りと語りの間の間奏の部分だけにな る。この演奏形式は実は琵琶の音楽一般にみられることである。日本近代琵琶 も殆どこのようなスタイルで演奏されている。平家琵琶の音楽は後に謡曲に大 きな影響を与えている。詞章ばかりでなく,曲の構成法も謡曲に取り入れられ ている。浄瑠璃においても,義太夫節・清元節などに平曲的な旋律があり,こ れを「平家ガカリ」と呼んでいる。. 2.日本近代琵琶の変遷 ". !摩琵琶. !摩琵琶は!摩盲僧琵琶にその流れを発するものである。1 2世紀末,鎌倉 時代の初期,!摩島津家の初代忠人が!隅日三州の守護となり,九州に下ると きに,京都の盲僧琵琶宝山検校も彼とともに!摩に入り,南!伊作に常楽院を 建てたが,これが!摩盲僧琵琶の祖とされる。その後,島津氏の祈"僧とし 5 7 3)末 て,藩政期を通じて,島津氏の庇護の下に栄えた。室町時代(1 3 3 6−1 期に,!摩の領主島津忠良は,戦乱の世に藩中武士の士気を正すために「武蔵 野」 ,「迷悟擬」 ,「花の香」等の教訓的な歌詞を作り,これを当時彼の側近に侍 していた常楽院住持!摩盲僧の第3 1代淵脇寿長院に命じて作曲させたのが! #. 摩琵琶の始まりとされている。寿長院は研究の結果,従来用いていた盲僧琵琶 の楽器を改造し,つまり平家琵琶に近い形を用い, これまでの六柱を四柱とし, 柱を高くして,その柱の間に押さえて音の変化を自由にできるようにした。特 $. に音を強くするために,腹板を凸面とした。このように彼は琵琶を現在みるよ うな形となし,新様式を用いて作曲を完成した。これらの曲は現在でも伝えら.
(8) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 9. 日本近代琵琶の盛衰に関する考察. −9−. れ演奏されているが,歌詞楽曲ともにあわせて名曲とされている。 このようにして,盲僧は祭具としてだけでなく,歌を歌って琵琶を弾くよう になった。この間,島津藩では明君が相次いで出で,琵琶歌の作詞に努力し, その作曲に歴代の藩主に侍する盲僧が尽くした。文禄初期に第1 7代の義弘が, 息子とともに朝鮮に出陣した際には,!摩の兵士は士気鼓舞のため琵琶を携え た。各地における戦況を即興詩としてつくり,それを琵琶に合わせて弾奏した ものもいた。こうして教訓歌としての端唄と並んで,戦記物を折り込むといっ た!摩琵琶の一番大きな特徴を編み出した。琵琶は次第に藩中の武士の間に流 行した。江戸時代中期に至ると,その楽風が二派に分かれ,鹿児島市中に起 こった優雅な流れを特に町風琵琶と称し,これに対して従来の勇壮を主とした ものを士風琵琶と称した。文化文政の頃,池田甚兵衛という琵琶の名手が現 れ,自ら工夫して一派を開いた。現在の琵琶の楽風は彼から出ていると言われ る。幕末に至り!摩からは多くの名手が輩出されたが,その中の名寿という盲 僧は「豪壮にして且つ幽玄なる」手法を考え出した。その門弟が特に多く,現 在!摩琵琶の大家と称する人達の大部分はこの妙寿の流れを汲むものだと言わ 7) 。 れる。(田辺1 9 6 4:9 4−9 従来,士風!摩琵琶はすべて座敷演奏だったが,やがて陣中や小座で弾くよ うになり,明治以降全盛期には公開演奏が盛んになり,琵琶の演奏も構造もそ れに伴って変化した。!摩琵琶の正当な伝統は,低音の底からにじみ出てくる 幽玄に注がれるものである。弦声あい和しての幽玄という高い理想を掲げたも (2) 一説では1 6世紀になると,応仁の乱で,多くの平曲の琵琶法師が地方の豪族を頼っ て「都落ち」したことによって,!摩にも平曲が流れてきた。当時の領主である島津忠 良は,平家琵琶を耳にして感動し,経文や釈文を読誦している!摩の盲僧琵琶を平曲の ように「聞いてわかる琵琶」にして,彼の哲学を,琵琶歌によって伝えひろめ,道義の 確立した社会の建設に役立とうと思い立ち,常楽院住持淵脇寿長院に琵琶の改良を命じ たという(島津1 9 97:2 4 2−2 4 4) 。 (3) その演奏技法,これは盲僧琵琶にも見られる大きな特徴としては,左手が中国琵琶あ るいは楽琵琶のように柱の頭を押さえるのではなくて,柱と柱の間のところを押さえ る。その押さえる力によって強く押さえれば弦が沈むので,それだけ音が高くなる。押 さえ方によっていろいろな装飾音をつけたり,音程を変えたりすることもできる。!摩 琵琶改良の1つは柱を高くすることであった。柱を高くすることによって,弦の張力が 大きく変えられ,より多くの音を出すことができる。.
(9) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ −10−. 香川大学経済論叢. 10. のである。この幽玄の境は「梅の古木に花一輪の風情」に比喩され,!摩琵琶 も年輪を重ねてゆくほどに,かえって花の数は減っても,趣を高雅なものとす ることを意味する。このような精神的な理想をもって,大衆に迎合した,品位 のない芸を戒めたのである。教訓や教養の内容を含めた歌を作り,経文の代わ りに唱和するようにして,さらに軍記ものを取り入れて,士気を鼓舞し,武士 道を発揚する方向に進んでいった。これらの歌は,これまでの君を寿ぎ,国の 平和を祝い,民の幸福を祈り,あるいは無常を説き,時に慈悲を説く,天理人 道に,経文を置き換えたもので,士気を鼓舞しながら宗教的世界観に心を集約 するようにしてある。琵琶は神聖なものとされ,鹿児島では決して女性は琵琶 を手にすることは許されなかった。 これに対して,!摩琵琶には町の一般の人々を対象とする町風琵琶もある。 その始祖とされるのは,もともと島津藩士であった徳田善兵衛である。彼はな んらかの理由で町人となり,町人の子弟に琵琶を指導した。一般の人々にも親 しみやすいように工夫していったので,町風琵琶と呼ばれるようになった。徳 ". 田門下から吉永経和,西幸吉,検見崎市助など数多くの名人が輩出している。 後に江戸に進出した!摩琵琶の名手は殆どこの系統である。 江戸時代に三味線が日本に伝わり,後に大流行するが,!摩琵琶もこれに影 8 3 3)は,博識な人間で,江戸 響された。!摩藩の第2 5代の藩主重豪(1 7 4 5−1 に育ち,江戸や京都の文化をよく知っていた。彼は!摩の文化を改造しよう と,開化政策を取り入れた。安永元年(1 7 7 2)に士風を改め,芝居や花火の打 ち上げなどのような江戸文化の移入を許した。その頃,!摩琵琶もその時代風 に合わせ,それまでの修身悟道とまったく異なる,いわゆる世俗の歌が多数作 られた。また,江戸文化が!摩に入ったことによって,!摩の人は初めて三味 (4) 吉永経和は明治2年,藩校造士館から東京に遊学を命じられ,上京し,そのまま東京 にとどまっている。琵琶は1 6, 7歳の頃,妙寿風の演奏家であり,武士であった郷田正 之丞に学び,その後中村四郎太に歌を習い,また町人の検見崎市之介や重野助右衛門を 自宅に招いて琵琶会を開いたとなっているから,町風の琵琶も習得していたと思われる。 琵琶を鹿児島に残して上京したので,明治1 0年までは演奏を中断,西南役の後一時 帰郷したときに,琵琶をもって上京し,その後演奏を再開したとのことである。 (島津 1 9 97:249〜).
(10) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 11. 日本近代琵琶の盛衰に関する考察. −11−. 線に触れ,その音楽に魅了されたことによって,自国の琵琶の改善が試みら れ,!摩琵琶に三味線音楽の音律や旋律を取り入れていった。 江戸時代の中期は,もっとも平和的,文明開化の時代であった。!摩でも, 琵琶は町人にも開放され,曲や技法ともに琵琶の質も向上した。町では興業的 な演奏会も催され,鹿児島城下では,琵琶が郷土の芸能として爆発的に流行 し,庶民の娯楽となった。 幕末になると,!摩の領主は島津忠義になるが,実際に執政を行った彼の父 久光は自ら琵琶歌を作り,琵琶を奨励した。そして庄内合戦など新しい段物も 作られ,多数の琵琶名手が輩出され,士風,町風,座道風に分かれて芸が競わ れた。士気高揚の効果も大きかったが,武士も町人も!摩琵琶に楽しんでいた。 明治時代になると,江戸は東京と改称され,廃藩置県によって,元の藩主島 津忠義も東京に定住することになった。この時期,多くの!摩人が東京に上 り,忠義を頂点とした!摩社会を作っていたが,!摩琵琶も共に東京に進出し た。なお,!摩琵琶が世間に知られて,東京で大流行するきっかけとなったの は,後に!摩琵琶の流派「錦水会」の創始者である吉永経和と!摩琵琶の名手 西幸吉が,明治14年に明治天皇の御前演奏を行ったことであった。天皇は! 摩琵琶に魅了され,終生それを愛好された。そして,!摩琵琶は天皇御愛好の 音楽として東京の社会に入っていった。明治2 0年代から3 0年にかけて,!摩 琵琶の「公開演奏会」が定期的に行われ,より多くの東京人がこの音楽を知る ようになった。この時期には,江戸期に!摩で歌われていた琵琶歌以外に,多 くの新曲が作られた。特に日清戦争により琵琶歌には多くの題材が与えられ た。!摩琵琶の人気は一層高くなった。またこの時期,寺院やお屋敷などで演 奏が行われると同時に,学生を相手する演奏会も開かれ,学生たちの人気も得 ていった。つまり,明治20年代には,貴紳の御屋敷に参上して弾く「お座敷 琵琶」と一般市民の同好者を対象とする公開琵琶会,そして学生を対象とする プロの演奏によって,!摩琵琶は東京で各階層に浸透していった。明治3 0年 代には「純芸能」となり,明治期に生まれた「新芸能」として飛躍的に発展し た。それにともなって多くの琵琶曲本も出版された。東京で!摩琵琶が流行し.
(11) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ −12−. 香川大学経済論叢. 12. ている情報が鹿児島に入り,鹿児島の演奏家が続々と東京に進出し,彼らが定 期的に集まり琵琶講を開いた。 明治3 5年,吉永は!摩琵琶の芸能化を目的として「錦水会」を組織した。 自ら「錦翁」と称し,一門のものを全部「錦夢」「錦虎」などのように錦の字 を冠した雅号をつけている。これが!摩琵琶界の雅号の「はじまり」であり, 錦の字が,今も!摩琵琶系の流派で用いられている所以である。この「錦水会」 ". は!摩琵琶の最初の家元制の組織である。そして,明治36年に,吉永は彼の 琵琶を精神教育帝国琵琶と名づけて,従来の!摩琵琶とは異なる新芸能である ことを明らかにした。さらに,吉永は「婦人弾奏のこと」 という一文を草して, 藩制時代は琵琶に触れることも禁忌であり,琵琶を聴くことも許されていな かった女性に,琵琶を開放して女性の生徒を募集した。このような吉永の一連 の改善施策は時流に乗り,帝国琵琶は世間に名を馳せ,錦水会は琵琶界の最大 会派となり,「帝国琵琶,錦水会時代」が訪れる。 明治3 7年に始まった日露戦争は!摩琵琶にとって強烈な追い風となった。 戦争の犠牲者や悲劇などに基づいて,多くの琵琶曲が作られ,歌われ国民に聞 かせられた。そして軍資金献納為の慈善音楽会もしばしば開かれた。このよう に慈善を冠した琵琶会を通して,!摩琵琶が芸能として大衆を動員することに 至った。昭和3 8年より,当時の東京府教育会会長は神田の和強楽堂で!摩琵 琶会を開いて,青年の気風を改良し,教育会の主目的である通俗教育(社会教 育)の実をあげようと発想した。この意をうけて,当時の琵琶会の世話役が責 任者となり,2日間にわたり,はじめて堂々と入場料をとって琵琶を聞かせる 興業的な琵琶会を開催した。以来,毎週土日に欠かすことなく演奏会を開いた ので,琵琶は府教育会公認の(琵琶会の収益の一部は教育会にはいる)芸能と して隆盛を極め,芸能としての!摩琵琶の基盤を確立することとなる。 また,演奏者に対して高額の演奏報酬が支払われ,演奏者が報酬をうけるこ とも認められ,教授料と演奏報酬とで生計をたてるプロの演奏家が続出して, (5) 錦水会の発足は明治3 1年に上京して,筑前琵琶の開拓宣伝に努力していた橘旭翁の 影響を受けた経緯があるという(島津1 9 9 7:25 3).
(12) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 13. 日本近代琵琶の盛衰に関する考察. −13−. !摩琵琶の遊芸化に一層拍車がかかった。 吉永の門下で東京出身の永田錦心が技芸巧妙,そのうえ他の音曲にも長け て,自ら工夫して艶麗な歌詞を作りだして世に広めた。これは「錦心流」と称 し,その門弟天下に広がり,一大勢力を築いた。この「錦心流」に対して,こ れまでの!摩琵琶の伝統を「正派」と称している。 このようにこれまで3百年余りの歴史がある!摩琵琶に付着した宗教や道 徳,士気高揚などの精神教育的なものからすっかり解放された「演芸的!摩琵 琶」が生じたのである。 吉永錦翁は!摩琵琶の芸能化を企てたが,!摩武士の家に生まれた彼には, 錦心のような飛躍した発想は持ちえなかった。 「東京人」である錦心は,折か ら芸能的形態を持ち始めた!摩琵琶(帝国琵琶)を何のこだわりもなく芸能と してしまったのである。 このように明治4 0年代においては,江戸期の!摩琵琶の伝統を守る正派, 新派の帝国琵琶,新新派の錦心流琵琶の演奏家が,それぞれ門戸を張って門弟 を養成し,また一門の演奏会を開いて自流の拡張を図り,東京の琵琶ブームは 一段と過熱してゆく。 大正時代になると,琵琶−!摩琵琶と筑前琵琶は寄席や活動写真館でも演奏 され,浪花節とともに明治期になって発生した「新演芸」として大衆に愛好さ 5 7) 。1 9 2 3年の関東 れ,昭和初期までこのブームは続いた(島津1 9 9 7:2 5 4−2 大震災は大きな被害をもたらしたが,琵琶界も大きな衝撃を受けた。特に琵琶 で生計を立てていた人々が苦境におちいったが,その後に再び盛行が訪れるこ とはなかった。 !. 筑前琵琶. 筑前琵琶は!摩琵琶とならんで,近代琵琶の二大流派の1つである。筑前琵 琶は明治2 0年代中頃に九州博多の人橘智定(号旭翁) ,吉中竹子,鶴崎賢定な どによって創始された音楽である。この3者の中の橘智定と鶴崎賢定は筑前盲 ". 僧琵琶の家系を継いだ琵琶演奏者である。.
(13) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ −14−. 香川大学経済論叢. 14. 筑前盲僧琵琶の起源は下記のような経緯がある。奈良期末から平安期初期に かけて博多に玄清という盲僧がいた。玄清は徳が高く,天台宗の開祖伝教大師 と交流が深く,大師が比叡山に延暦寺を建立するに当り上洛して地神経を読誦 した。続いて,平安宮の建造にも大功があったので天皇より大いに嘉賞され, 故郷福岡に帰って正就院を建てて住んだ。これを以て筑前盲僧の本山とし,玄 清がその開祖とされた。筑前盲僧はその後,北九州各地に広まったが,室町時 代の末,応仁の乱以降,たちまち衰え,生活にも窮するようになった。江戸時 代に入っても特に盲僧を保護するものもなく,やむなく街頭に出て荒神払いを したり,滑稽な物語をして座興を演じるなどして,ようやく生計を維持するも のが多かった。滑稽琵琶など称するものはその間に発生したものである。その ために筑前盲僧琵琶は荒神琵琶とも言われ,世間から著しく賤視される状態に あった。 筑前琵琶は明治時代中期に,その中から興った芸術的な琵琶である。明治維 新後北九州地方では盲僧琵琶は著しく衰退した。橘智定らはこれに大いに慨嘆 し,!摩琵琶は東京を中心として全国に勢力を広めつつあるのに鑑みて,筑前 盲僧琵琶を改良して新芸術を作りだすことを決心した。橘智定は鹿児島に赴い て!摩琵琶を勉強したが,その後,博多に戻り,4,5年間!摩琵琶の研究に 没頭した。そして,音楽才能を持つ彼は琵琶のほかに,琴,笛,三味線,義太 夫,浪花節,長唄,笛,太鼓などのあらゆるものに通じ,後に彼が改造した琵 琶にこれらの芸能の要素が多く見られる。明治2 2年これらの研究に基づいて 新しい琵琶歌を作った。これに続いて吉田竹子は鶴崎賢定と力を合わせてまた 新しい琵琶曲を作った。それと同時に楽器の改革も行った。 筑前琵琶には三味線の伝統が多くみられる。これには橘智定が大きく貢献し ている。彼はそれまでの!摩琵琶をはじめ,各地の琵琶を研究したうえ,筑前 琵琶の構造の改良に種々の考案を凝らした。その改良は時代の趨勢に合うよう (6) 明治維新後盲僧制度が廃止されたので,琵琶は必ずしも盲人と限らず,晴眼者もこれ を学んだので,橘智定と鶴崎賢定ともに旧盲僧琵琶の家系を継いでいるが,共に晴眼者 である。.
(14) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 15. 日本近代琵琶の盛衰に関する考察. −15−. に,三味線や琴などの要素を取り入れて工夫した,画期的なものであった。ま ず,楽器を持ちやすく,しかも弾きやすくするため,三味線の楽器製作の伝統 を筑前琵琶に取り入れた。三味線の棹は三段折になっているが,筑前琵琶の全 体を天地人という考えから,頭と棹と胴の3部に分解できるようにした。そし て幅のみを加減することで女琵琶と男琵琶にも分けられた。 筑前琵琶の歌詞は!摩琵琶と同様に長い詩型を有し,これを一句毎に切って 歌っていくのであるが,智定の改革によって歌う際に2つの方法が取られてい る。1つは「地」と称し,!摩琵琶と同じように歌声と楽器と別々に交互に奏 していくもので,もう1つは「節」と称して歌の旋律に琵琶の伴奏を附けて三 味線唄のように歌唱していくものである。この節にはいろいろな特殊な旋律が 定められており,それぞれ「春」 ,「夏」 ,「秋」 ,「冬」 ,「山越」 ,「旭」 ,「大和」 などの名称がつけられていた。また智定は琵琶の弾き方も入念に考慮し,琴の ". #. 手の六段から移して琵琶に十二段の合の手を創作し,百余種の旋律型を創り出 し,それを鳥の名や花の名などで呼んで区別している。これらの旋律及び旋律 型は!摩琵琶に全くなく,筑前琵琶の独特なものである。それによって平家琵 琶や!摩琵琶に比べると,語りものとは言いながら歌うメロディは多少旋律的 になり,歌と琵琶の関係が密接になる。 このような新様式の琵琶歌は明治2 7年頃に博多において完成したが,橘智 定と吉田竹子はともにこれを携えて東京へ行ってその普及に勉めた。特に橘智 定は,もっとも熱心にその普及に努力した。明治3 0年代半ば,智定は明治天 皇及び皇后の御前演奏を実現できた。この御前演奏は筑前琵琶の名を高め,橘. (7) 六段は六段の調のことで,歌を伴わない器楽曲である。六段の調(ろくだんのしらべ, 六段調,六段)は段物と呼ばれる箏曲の1つである。近世箏曲の祖である八橋検校によ り作曲されたと伝えられている。各段が5 2拍子(1 0 4拍・初段のみ5 4拍子)で六段の 構成となっている。箏で独奏されるほか,三曲合奏や,箏の替手とあわせ二重奏で演奏 されることもある。古典箏曲を代表する曲であり,学校教育における観賞用教材として も採用されている。現在琵琶曲の1つとして改編され,演奏も行われている。 (8) 邦楽用語である。唄と唄との間をつなぐ旋律のことで,単に「あい」ともいう。洋楽 の間奏にあたる。唄い手の息継ぎのためのほか,唄のリズムやテンポを指導し,さら に,歌詞の意味をくみ取って強調するための場合もある。.
(15) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ −16−. 香川大学経済論叢. 16. 智定の名も世間に知られるようになった。遂にこの新琵琶楽は天下を風靡する に至り,!摩琵琶と並んで全国琵琶界を二分する勢力を得たのであった。 明治3 4年に橘智定は旭翁と号し,他の芸能界のように家元制を採用し,門 弟に旭号を与えた。それまでは荒神琵琶を改良した新琵琶とか筑前琵琶とか呼 ばれることもあったが,この御前演奏に際し,はじめて筑前琵琶と命名した。 その後,筑前琵琶は大きな発展を遂げ,全盛時代を迎えた。初代旭翁をはじ め,同時代に筑前琵琶に携わった人,さらに後年に分立した人によって筑前琵 琶の流派が多く作られた。初代旭翁の流派は橘流といい,現在でも筑前琵琶の 中でもっとも大きな流派である。現在名古屋にある「八州流」は初代旭翁の弟 子であった阿部旭州によって開かれた流派である。明治4 2年,初代旭翁をは じめ,橘流を中心に「大日本旭会」を組織し,全国門弟の統制を図った。この 頃,その支部は全国各県に分布し,全盛期には,朝鮮半島,台湾,中国東北地 方,ハワイなどの海外にも支部旭会が設立された。設立当時より全国大会は毎 年行われた。戦時中一時中絶したが,1 9 4 9年に「筑前琵琶日本旭会」と改称 し復興され,現在に至っている。明治4 4年に発行された『橘流筑前琵琶歌曲 段階目録』に初代旭翁が作った7 7曲が収録されている。 明治時代における筑前琵琶の流行特には遊芸文化と関係していた。橘旭翁よ ". り先に東京へ立ったのは彼の弟子であった芸者の吉田竹子であった。竹子は盲 (9) 吉田竹子は明治4年に生まれ,早く両親と死別して加藤善吉と杉子の養女として育て られ,養父の放蕩から養母の実家吉田の姓を継ぎ,1 3歳のとき柳町に売られたという。 音楽には生まれつきの天才で,三味線のほか明清楽の琵琶などもこなした。音楽の才と 美貌でかなり売れっ子であったが,後に同じ筑前琵琶の研究家であった加野熊次郎の妾 になったという。竹子の音楽才能は加野の指導によってさらに向上し,明清楽も習得し た。竹子は明清楽の琵琶が爪弾きのところから,バチ弾きの研究のため,橘智定に盲僧 琵琶の教えを求めた。盲僧琵琶が男性に限ることで最初断られたが,加野からの依頼で 手ほどきを受けた。明治2 9年,当時福岡出身の農商務次官金子堅太郎は会議のため帰 郷した際に,可能の周旋で竹子の琵琶を聞かせた。金子は非常に興味を示したうえ,東 京での演奏を招待することも考えた。翌年,加野は竹子を連れて上京し,金子は竹子が 芸を披露する会場を設けてくれた。会場に当時の文壇,財界,楽界の第一人者達ばかり が集まっていた。美しく声がよく,歌は珍しい。そのうえ金子という大臣の宣伝もあっ たので,竹子の評判はたちまち上流社会に知られていた。竹子はその後東京に居を構え, 琵琶の演奏や教授を務めていた。.
(16) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 17. 日本近代琵琶の盛衰に関する考察. −17−. 僧系琵琶の最初の女性弾奏者であった。これがのちに,筑前琵琶が女性の楽器 として大きく発展する基盤となったと言える。 初代旭翁が東京へ行ったきっかけも,吉田竹子が東京で成功したからと言わ れている。特に旭翁が上京した当時,!摩琵琶は隆盛に向かいつつあったが, 筑前琵琶の名を知る者はなかった。そこで如何に宣伝するかと考えた末,当時 福岡出身の農商務次官金子堅太郎の側近の提案で「すべての芸道は花柳界より ひろまる。その方面に宣伝するのが早道だ」ということで,花柳界に琵琶を宣 伝することになった。当時,上流社会の人たちはよく芸者を贔屓にしていた が,彼らがよく世話にした芸者のところに初代旭翁も連れてもらい,筑前琵琶 0) 。後に天皇陛下への御前演奏もあり, を紹介したという(大坪19 8 3:6 6−7 筑前琵琶の流行はまず上流社会と遊芸社会から始まっていった。 大正時代に入って,琵琶のブームはさらに高まった。大正7年(1 9 1 8)頃の 琵琶界についての記載では,当時,全国で琵琶に携わっている琵琶の教師は少 なくとも1万を超え,中国東北地域や台湾にも多く見られた。その中の約7千 人は女性であった。しかも女性の9割は初代旭翁の開始した橘流を持って組織 されている旭会員であった。また,琵琶で生計を立てている教師の数は全国で 約6千人と推定されている。単独の演奏のほかにいろいろな趣向もこらされ た。琵琶劇や,琵琶交響楽団,琵琶少女歌劇団なども多く結成された。こうし て筑前琵琶の人気は最高潮に達し,昭和初期まで続いた(筑前琵琶製作技術調 査委員会1 9 7 7:6 4) 。琵琶楽が大衆芸能の主座を占め続けたことは,1 9 2 5年に ". 嗜好調査で,琵琶が一位の座を獲得したことから明らかである。つまり,琵琶 は洋楽,邦楽を含めてもっとも人気があり,一番多く放送を希望された音楽で あった。その頃大衆にとって最も聞きたいのは琵琶であり,琵琶の中でも美し い女性が歌う筑前琵琶であった。だが,この琵琶ブームは昭和に入ってから急 速に衰退していった。 このように同じ盲僧琵琶を源流とされる!摩琵琶と筑前琵琶でも,それぞれ (10) その順位は琵琶,管弦楽,長唄,義太夫,歌謡,バイオリン,吹奏楽,ハーモニカ, ピアノ,三曲,清元,常磐律,箏曲,端唄,ジャズとなっている(越山198 3:2 72).
(17) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ −18−. 香川大学経済論叢. 18. 異なる経緯を経て発生し変遷してきた。いずれも明治時代に大流行したが,昭 和初期より衰退していった。戦後,その家元組織が復興し各地で活動を始めた が,再度の盛期は現段階ではまだ見られていない。. 3.日本音楽史のなかでの琵琶 !. 文化輸入の流れ. 周知のように,日本では歴史上2回ほど大規模な文化輸入(文化伝播)が行 われているが,いずれも国家の要求によるものであったと考えられる。大きな 流れの第1回目は紀元5世紀から8世紀にかけて,中国大陸,朝鮮半島,及び インドからの文化輸入であった。当時,文化的には後進国であった日本は,文 化を輸入するには,日本人自身が中国に出かけて行って,中国の文化を学び とって帰らなければならなかった。それは後にいわれる遣隋使や遣唐使が果た した役割であったが,彼らによって日本に伝播された文化は,日本の伝統文化 の基礎となっている。中国漢の時代(紀元前2 0 6−紀元2 2 0)に西域から伝わっ た琵琶はこの時期に遣隋使や遣唐使によって日本に持ちこまれた,当時の姿は 正倉院所蔵品のなかにうかがうことができる。 そして,第2回目は,明治時代における西洋文化の輸入であった。これは, 第1回目に自ら出かけて学んだのとは異なり,西洋文化を輸入するために,明 治政府が西洋の技師や学者を招くことによって行われた。それは現在の日本文 化の主流となり,それまでの日本文化と知識の構造を大きく変えた。この2回 の大きな文化輸入以外に,室町時代から江戸時代にかけて,九州,特に長崎を 通して,ポルトガル,オランダそして中国からの文化伝播が見られる。江戸時 !. 代に伝わった明清楽はその一例としてあげられるが,明清楽とともに清の琵琶 や胡弓,月琴も伝わってきた。19世紀の後半になって,明清楽の歌が広く愛 唱され,中流以上の家庭の子女の稽古ごとになり,長崎の商家では男女ともに 月琴などを奏でるものが多かった。. (11) 江戸時代に日本に伝わってきた中国音楽の総称である。.
(18) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 19. 日本近代琵琶の盛衰に関する考察. −19−. 上記の2回の文化輸入は日本音楽の基礎となっていた。 !. 日本音楽の流れと変遷. 日本音楽の開祖である有名な音楽学者田辺尚雄氏によると,日本音楽の変遷 は下記のように4つの時期に分けることができる。 表から,琵琶の日本音楽史のなかでの位置づけをうかがうことができる。つ. 4大時期 第1期. 大和民族固有の原始音楽時代(太古より5世紀の半ば頃まで)(上下平等). 第2期. 中国や朝鮮などアジア大陸より音楽輸入の時代(5世紀〜12世紀末頃) (公!中 心の時代) (琵琶輸入). く. げ. 前期:輸入音楽を模倣していた時代 後期:輸入音楽が日本化されてきた時代 第3期. 鎖国的日本国民音楽の勃興時代 前期:鎌倉時代−混乱時代 教育や教養としての音楽の低調と遊戯音楽(猿楽,田楽など)の胎動,中国から 尺八,沖縄から蛇皮線の伝来,平家琵琶の興し あしかが. 中期:足利室町時代−武家中心の時代 武家階級の式楽としての謡曲,能楽,"摩琵琶の発生 後期:江戸時代−町人職人中心の時代(人情主義の時代) 最上流公!−雅楽の復活 上流中流武家−謡曲の勃興 中流及び下流町人・職人 −雅楽の琵琶法師によって蛇皮線を三味線に改造し,庶民階級の楽器となる。能 楽が俗化して歌舞伎,三味線に加えられて,江戸長唄を生じる 第4期. 国際的音楽発展時代(明治〜) 3つの区分 1)江戸音楽の向上と古楽の復興 長唄の発達,箏,三味線,尺八という三曲の形成,筑前琵琶の発生 2)外国音楽の輸入と模倣 明清楽の輸入と流行及び衰退,西洋音楽の輸入及び学校教育に導入 3)日本音楽の国際化 a. 西洋楽器新民謡の使用. b. 日本楽器の新しい合奏形式−箏,三味線,尺八,胡弓,玲琴による合 奏。"摩琵琶や筑前琵琶の流行. c. 西洋楽器と日本楽器とを混成する合奏. れいきん. 6に基づいて整理・作成) (田辺1 9 84:59−6.
(19) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ −20−. 香川大学経済論叢. 20. まり,第1回目の文化輸入とともに,琵琶は日本に入って,楽琵琶として日本 の雅楽に欠かせない楽器の1つとなった。楽琵琶は平家琵琶の原型とされ,現 在でも雅楽の中に使われている。この表で示していないが,実は盲僧琵琶もこ の時期に別のルートで九州に入ったという。盲僧琵琶の起源については様々な 説があるが,通説ではインドを起源とし中国を経由で日本に伝わったと言われ る。つまり,この時期において,琵琶は楽琵琶と盲僧琵琶と呼ばれるように, 前者は天皇をはじめ「貴族」−上流社会で遊ばれる楽器であるのに対して,後 者は九州の盲僧或いは庶民の間に広げた音楽である。いずれも後世の琵琶のル ートとなる。 第3期は日本音楽史の中の1つの変動期だと言える。この時期から日本の武 家政権が始まったが,仏教の禅宗が大陸(中国元の時代)伝来し,それが鎌倉 武士精神形成に大いに寄与した。またこの時期,仏教の声明及び当時中国民間 の雑劇の伝来によって,後に謡曲,平家琵琶と能楽の形成に貢献をした。特に 禅宗文化は日常生活に密着する建築の中に深く溶け込んでいて,日本の茶道と 華道の成立と発展に大いに寄与した。わびとさびの生まれもこの時期であっ て,鎖国政策で外と隔絶し,日本独特の文化が発展してきた。仏教の世俗化に よって滑稽的な道化の性質をもつ田楽や猿楽が誕生し,それが後に武士道の芸 術とされる能楽へ変遷した。一方,この時期に武士精神を語る音楽として平家 琵琶と!摩琵琶が発生した。前記のように,平家琵琶は謡曲に大きな影響を与 え,後期に形成した義太夫節や清元節などの音楽の要素から見ることができ る。さらに第3期の後期では,琵琶そのものというより,江戸時代の町人音楽 の形成に役割を果たしたのは,琵琶の担い手であった。表で示したように琵琶 法師が沖縄より入った蛇味線を三味線に改造したことによって,江戸時代の庶 民音楽,特に歌舞伎の発生と隆盛に大いに寄与した。 第4期は日本音楽史において第2回目の文化輸入の時期でもあった。その意 味では日本音楽が国際的に発展・多様化の時期であったと言えよう。この時期 において,いくつかの出来事がある。つまり,1つはこれまで形成してきた江 戸音楽の向上と古楽の復興であった。明治になってから宮内省に雅楽局が設置.
(20) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 21. 日本近代琵琶の盛衰に関する考察. −21−. されたことによって,演奏者が増え,雅楽が復興された。雅楽の現代化を図る ための改革者も現れた。楽琵琶も当然,それに伴って復興された。この日本の 古い音楽の復興改造は,西洋音楽の輸入と殆ど同時に行われた。奈良時代に中 国や朝鮮など東洋音楽が日本に入ったとき,日本の古代音楽はまだ原始状態に あり,突然入ってきた芸術性高い音楽を模倣することは大変難しいことであっ た。数百年の歴史を経て,当時輸入した音楽をやっと日本化にすることができ た。つまり,西洋音楽の輸入と日本音楽の改造は同時に可能である状態があっ たからである。 8 2 9)に もう1つは外国音楽の輸入とその模倣であった。文政年間(1 8 1 8−1 8 4 3)に江戸に入っ 長崎を通して日本に伝えられた明清楽は,天保年間(1 8 3 0−1 て流行し,さらに明治に入って東京だけではなく,大阪でも大流行した。明清 楽を伴った中国琵琶(明琵琶や清琵琶と呼ばれることもある)も,これまでの 日本の琵琶と違った新しい形式で演奏された。しかし,日清戦争によって,明 清楽が敵の音楽と思われ,急速に絶滅に近いほど衰退していった。西洋音楽 は,明治2年(1 8 6 9)に!摩の兵士が横浜の英国軍楽隊より学んだのを皮切り とし,後に陸軍と海軍に軍楽隊の設置や小学校に西洋音楽教育を施すことにつ いての調査などが開始され,明治1 6年(1 8 8 3)に東京音楽学校の設立などに よって,徐々に普及することに至った。西洋音楽の普及は当時流行していた! 摩琵琶や筑前琵琶の衰退に大きな影響を与えた。 3つ目は!摩琵琶と筑前琵琶の流行である。これについて日本音楽史で特に あげられることは少ないが,実際は前記のように明治時代から昭和初期まで日 本全国に琵琶ブームが起こっていた。しかし,これについては!摩琵琶や筑前 琵琶に関する専門書以外,あまり触れることがなかった。琵琶ブームになった 理由や背景については後に述べるが,琵琶の盛衰から日本社会文化構造が音楽 史に大きな影響を及ぼしたことは明らかである。 なお,音楽の多様化は,この時代のもう1つの特徴である。表では示してい ないが,この時代から現在にかけて,様々な音楽が日本で行われるようになっ た。西洋音楽や邦楽のほか,ポップ音楽,ジャズ音楽,ワールド音楽など様々.
(21) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ −22−. 香川大学経済論叢. 22. なジャンルが見られる。特に邦楽の領域では従来の演奏スタイルに拘らず,オ ーケストラとの合奏や協奏などの形式が見られるようになった。大衆音楽とは けっして言えないが,琵琶も1 9 6 0年代から9 0年代にかけて従来とまったく違 うスタイルの作品が多く作られて演奏されていた。中には有名な作曲家武満徹 が作曲し,小沢征爾が指揮し,!摩琵琶名手鶴田錦史による演奏曲もあり,日 本の邦楽を代表として北米やヨーロッパでの演奏も行われている。これは琵琶 だけではなく,当時日本の邦楽全体の動きの中の1つである。. 4.遊芸論と近代琵琶 !. 先行研究及び遊芸論の視点. 現在,中国では「遊芸」という言葉は,主に遊戯や娯楽の意味で使われるこ とが多い。しかし,古代では「遊芸」は芸を持って,心身や品性を陶冶すると いう意味として使われていた。孔子の『論語・述而篇』に「依於仁,遊於芸」 という節があって,朱熹の解釈では芸はつまり礼,楽,射,御,書,数の六芸 のことで,「遊芸」には中国古代の文人,士太夫の教養すなわち学問,芸道修 行の意味を含まれている(『辞海』上海辞海出版社1 9 9 9年版) 。この解釈から 遊芸というのは遊びに重点を置くのではなく,むしろ芸を学び,芸を持って心 身を修行することが重要視されている。しかし,日本では遊芸という言葉に関 する説明では技芸を味わい楽しむことや,或いは遊びに関するすべての芸能と 解釈されている(漢語辞典,広辞苑) 。どちらかというと遊びのイメージで語 られている。 これまで遊芸を論じた先行研究として特に注目すべきは西山松之助氏と守屋 毅氏の近世の遊芸論そして,熊倉功夫氏の日本遊芸通史中の遊芸論である。 西山氏は江戸文化研究の中で,一貫して遊芸の重要性を論じられた。彼によ ると,遊芸は一定の法則にしたがって,演じたり,歌ったり,鞠を蹴ったりし て遊ぶ芸であるが,その遊びに参加したものは,例外なく自分でその芸を演じ る。そして遊芸に演者と鑑賞者が存在するので,創造のプロセスと観賞のプロ セスが同時平行的に進行し,同時に終了するという構造をもっている(西山.
(22) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 23. 日本近代琵琶の盛衰に関する考察. −23−. 1 9 8 4:1 7 0〜) 。日本の遊芸の系譜は大きく分類すれば,平安時代以来,貴族社 会,上流社会に成立した遊芸の流れ,武家の世界に成立してきた武芸の流れ, 江戸時代の町人文化,すなわち,庶民の間に成立した大衆芸能の流れの3つが ある(西山1 9 8 0:6 7〜) 。つまり,遊芸は平安貴族たちの遊びの中で発祥し, 歌合,笙,笛,箏,琵琶などによる管絃の遊びや,蹴鞠などが行われた。鎌 倉・室町の時代になると,これに能や狂言,茶の湯などが加えられ,上層武家 貴族にも普及した。これらの遊芸は殆ど近世の公家貴族並びに城下町の新興武 家貴族たちに伝承されて流行し,元禄以降になると,それがいっそう広汎に都 市町人の間に普及した。江戸時代になるとこれらの遊芸に加えてさらに義太夫 節,地唄,長唄,箏曲,尺八などが盛んに行われ,莫大な遊芸文化人口が創出 された。こうした貴族社会から新興武家貴族へ,そして町人社会へ波及した遊 芸の芸道は,それぞれに独自の理論や哲学を整備しながら,それぞれの世界を 形成していったのである。 西山氏が遊芸の機能に注目し主張したのは,近世,特に江戸時代の特徴的な 文化類型である。封建制の下では身分の上下が厳密に区分され,その壁を破っ て交流することはきわめて困難であるが,遊芸はそれを可能にする仕掛けで あったとする。遊芸の社会ではそれぞれ美しい芸名にあたる仮りの名前を(雅 号,俳号)もち,実名が忌避される。雅号などの芸名を名乗ることによって, 実名が引きずっている現実社会における身分的な属性は稀薄となり,身分上の 桎梏から人々は自己解放される。遊芸の芸道は,江戸時代の庶民にとって,こ の世の現世に別天地,高度な遊びの世界であるユートピアへの通路であった富 裕な町人たちは,鎖国と身分制の枠に閉じ込められていたが,遊芸を通じて日 常での身分差別から解放されたのである。このような変身思想は江戸時代に創 出されるものではないが,江戸時代の遊芸芸道にもっとも典型的に発現された 7 3) 。そして,遊芸は町人のみならず,1 9世紀には農村社会 (西山1 9 8 4:1 7 2−1 へも広がり,中央と都市を自由に移動し,身分,地域の境界を超える特徴が, 江戸時代の遊芸も含めた行動文化論の特質であるという。 上記のような芸の伝授を通じて身分の上昇転化という変身思想を現実に可能.
(23) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ −24−. 香川大学経済論叢. 24. としたのは,江戸時代に芸道の伝承と創造の性質から生まれてきた家元制であ る。家元制は遊芸社会にまったく新しい文化社会構造として出現した。西山氏 は家元制度成立過程を3つの重要な時期に画した。すなわち,第1期は1 7世 紀前半から後半にかけての時期であって,幕藩体制の整備によって創出された 武士階級の厖大な文化人口を背景とし,武芸百般をはじめ武家社会で行われた 遊芸諸流に代表される時期である。多くの家元が成立したにもかかわらず,従 !. 来の完全相伝の形式を排除することができなかったため,家元制度の形成に至 らなかった。第2期は17世紀末から1 8世紀の後半に及ぶ時期とされ,新興町 人,富裕農民層に出現した大量の文化人口を背景として,従来の単なる家元が 名取制度を創り出し,家元制度に飛躍した時期である。そして,第3期は1 8 世紀の末から1 9世紀前半にかけての時期とされ,江戸に中流の町人階級,及 び江戸周辺の商店流通網に沿う町や村に新興町人や富裕農民層が創り出された ことを背景として,従来の京都中心の文化社会から江戸中心の文化社会へと中 心の推移があり,さらに民衆文化の中に家元制度が成立し展開した時期である 5 9) 。この文化伝承の革命的現象は,まもなく広汎な遊芸諸領域 (1 9 8 2:5 3 0−5 に普及して,そこに壮大な家元制度社会が組織されていったのである。家元制 度社会の創出した遊芸ユートピアの別世界が,多くの町人遊芸希望者の嗜好に 7 6) 。 適合するような新しさを開拓していたという(西山1 9 8 4:1 7 4−1 しかもそれらは殆どすべてが男性の文化社会であって,殆どすべての芸道の 世界が男性によって演じられたということである。 守屋氏は別の視点から遊芸の機能を分析していた。家元制度形成の契機の1. (12) 完全相伝は古代以来日本の文化伝承において殆ど行われていた伝承形態である。つま り,先生であり,師匠である人から,その芸のすべての教授権・伝授権というものまで 与えられ,認められたのである。江戸時代中期頃に成立した完全相伝でない文化伝承形 態というのはこれまでの完全相伝の形式を留めながらも,どんなに多くの弟子ができて も,その弟子達の稽古を直接担当する師匠たちが,家元でないかぎり,どんなに技能が すぐれていても,秘技の免許相伝をすることができない。技能の直接指導者というもの は,家元である最高権威者から教授権を与えられて名取になり,弟子に教えるというこ とだけを担当する。つまり,家元だけすべての免許状を発行するという形態である(西 山1 9 82:43−52)。.
(24) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 25. 日本近代琵琶の盛衰に関する考察. −25−. つである幕藩体制と芸能師範の性質を取り上げられた。かれによると,後に家 元制度を達成する流派宗家の多くが,1 7世紀のある時点で諸大名の「おかか え」となり,なにがしかの扶持を給付される立場に身を置いていた。つまり, その時期では武家社会の内部は武士の教養として遊芸への嗜好が顕在化した。 諸々の大名家において著名な宗匠をめしかかえ,藩主はもとより家臣に対する 芸道師範の役に任ずる風潮がしきりであった。家元たちが芸業をもって官途に つく道は,大名の側から開かれたのである。こうした芸能師範の仕官は同業芸 能者間にあってかれらの地位を優越させることになり,やがて家元制度が成立 していく際にして,現実的な大成の裏付けとして,有利に作用したのである。 1 7世紀末から諸芸を教授する諸師(専門家)集団(その頂点にいるのが家 元)が誕生し,同時にこうした諸子について芸を稽古する素人集団が広汎に都 市に成立した。諸師は素人を教授する能力や技術があれば,必ずしも名人・上 手でなくてもよくて,かれらは技術や教養を素人大衆に教授することを家業と していた。それは芸能者の職業的自立の1つのかたちであったと考えられた。 つまりそれ以前の求道的芸能者は,しばしば,権力者との間に個人的,人身的 隷属関係を結んでいた。その求道のため有力な特定の保護者が必要だったから である。師(教授者)になることは町人大衆を基盤にして存立し,権力との個 人的隷属関係から脱出する道が開かれたのである。後に成立した家元制度は実 は当時町に乱立するこうした諸師を伝統的な権威をもつ少数の家元の下に集結 させ,すでに膨大な量になった遊芸人口を,その系列下に再組織するためのも のだと思われ,家元制度は遊芸にかかわる大衆組織だと守屋氏は主張する。当 然教授者と被教授者の間に経済関係が結ばれるし,教授権や技の型,免許発行 制度も定められている。二者の間に経済的人間的な関係を結ぶことこそ遊芸の 条件である。家元制度と遊芸は実は表裏一体の関係であり,この同じ芸能のシ ステムを見ても,教授側から見れば家元であり,被教授側から見れば遊芸であ る。これは日本近世の独特な芸能制度の1つだと守屋氏が分析している(守屋 3) 。 1 9 8 7:2 2−3 守屋氏の分析に対して,熊倉氏はその論旨では近世芸能を支えるシステムに.
(25) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ −26−. 香川大学経済論叢. 26. 中心がおかれ,その中にいる個々の人間が捨象されていると指摘し,つまり当 時では師弟関係をもたない素人などもある程度が存在し,かえってこうした素 人が「数寄者」として尊重されているという事実を無視しているからである。 熊倉氏は,遊びに関する3つの歴史的なキーワード,すなわち古代中世の 「数寄」 ,近世の「遊芸」 ,近代の「趣味」を用いて,本阿弥光悦を例として, 数寄と呼ばれる茶の湯の伝統のなかで,素人たる個人が如何に数寄者として遊 芸を楽しみ,後世に影響を残したかについて論じ,西山氏らを提示した近世遊 芸に関する重要な視点を発展させ,遊芸の機能は中世社会ではいかなる形態を とったのか,或いはまた近代において如何に変容したのか,などを考察した。 それによると,数寄という言葉は,好きに対してあえて数寄の文字を当てて好 色と一線を画し,風流への執着を示すようになるのは平安時代後期以降のこと である。音楽をはじめとし,歌道に対する執着や,さまざまな芸能を好く心を 示す数寄が中世後期まで展開した。1 6世紀の茶の湯の流行とともに数寄と言 えば茶の湯をさすようになった。しかし,近世になって家元制度の成立によっ て,しばらくの間に数寄者の活躍が見られなくなった。その理由は数寄者の歴 史性から見ることができる。1 6世紀からの桃山時代が日本史上大きな変革期 であるが,出自や家格を超えて個々の武士の能力が評価されたのがこの時代の 特徴であった。それは茶の湯の世界も同じで,千利休などの個人的な茶の湯の 能力が織田信長や徳川将軍などにも認められていた。しかし,寛永年間を過ぎ る頃から世間が急速に変化した。人が沈んで,家が浮かび上がる時代である。 個人の茶人の独創が注目されるのではなく,茶の湯の家業とする家が重要とな り,家業化の頂点として家元制度が成立した。そして,幕末,維新期の変革期 は,安定社会型の家元制度を危機におとしいれた。その代わりに再び数寄者の 時代が登場し,約半世紀活躍していた。戦後もその活躍が見られたが,大衆的 基盤を獲得した家元の台頭によって衰退し,数寄者から家元へと時代はまた変 化し今日に至っている。つまり遊芸が家元制と表裏一体となる時代と,遊芸が 数寄者と表裏一体となる時代とが交替しているという。さらに,遊芸が近代社 会では数寄者によってどのように変質せしめたのかについては,熊倉氏は明治.
(26) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 27. 日本近代琵琶の盛衰に関する考察. −27−. 期の茶の湯の危機を乗り切るため,数寄者たちは遊芸という言葉を切り捨て, これにかわって「趣味」という新しい概念を適用したことで,茶の湯はリバイ バルに成功したと同時に,さらに礼儀作法としての修養としての再生も果たし たと指摘した。趣味が数寄者と結びつき,さらに男性の教養と一体化されたの に対し,この修養は女子教育と結びついて近代女性の教養として確立された。 このように遊芸は近代の中で解体し,男性の趣味,そして,女性の修養として 再生し変容してきた。趣味あるいは修養としての遊芸が再生しえた理由は遊芸 本来もっていた六芸−芸を持って心身を陶冶する−としての性格が消えていな 3) 。 かったという(熊倉2 0 0 3:1−2 !. 遊芸論の視点から見る琵琶. 上記の遊芸論を用いて近代日本琵琶の盛衰を考えるとき,どのような視点を 持つことができるだろうか。琵琶の遊芸としての機能はどのようなものであろ うか。 まず琵琶は遊芸が本来もっていた六芸の性格を持っている。古代中国では礼 楽(芸)を中心とした礼楽制度は道徳倫理の礼楽教化を広く普及する事で社会 秩序を守護した。平安時代に琵琶は貴族の世界に成立した遊芸の1つとして貴 族の間で遊ばれていた。つまり,当時の琵琶は学ぶ芸よりむしろ遊ぶ芸とされ ていたのである。その名残は現在日本の雅楽に見ることができる。しかし,日 本近代琵琶の誕生の背景には士気高揚,情操を陶冶するという音楽の役割の1 つである教化機能があった。琵琶は発生した当時から,内容から形式まで武士 支配層の個人的な趣味が反映して武士階級の音楽になっていた。旋律的な動き よりは,むしろ逞しい表情,武士的な表現をねらいとしているから,琵琶の旋 律は合戦の場面を表すような激しいものであり,語りかけるところは,後世の 詩吟とよく似た歌いかたとなっている。教化の機能があったから,近代琵琶は 武家の権力者の庇護の下で発展することができた。明治時代になって,江戸時 代から民衆に好まれていた芸能の多くは,茶道や歌舞伎,三味線を含めて一時 の衰退が見られたが,しかし,日本民族精神の代表とされ,時勢に合わせた教.
(27) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ −28−. 香川大学経済論叢. 28. 育や教化の機能を持つ近代琵琶は,上からの推進により,逆に流行し,昭和初 期まで続いていた。近代琵琶は遊芸の性質からいうと,多くの大衆芸能と異な り,本来遊びを重視するよりむしろ学びや教化に重点を置いていたのである。 だが,時代の移り変わり,社会の構造的変化などは,琵琶音楽に大きな影響を もたらした。他の芸能と同じように時勢にあわせてその機能を教養や興味に切 り替えたが,もともと民衆芸能として生まれたものではなかったため,大衆の 基盤を得るのは容易なことではなかった。琵琶は女性の趣味として明治時代に 築いた家元制度によって伝承されているが,その活動範囲は一部の人達の間に 留まっている。 次に近代琵琶の伝承の側面から遊芸の機能を考えてみたい。盲僧琵琶から発 生した近代琵琶はとくに!摩琵琶の場合では,当時から担い手の多くは盲僧で あった。彼らは武家の庇護を受けながら,琵琶を通してその名を上げていた。 武士階級に愛好されてから,次第に武士の琵琶奏者も現れた。この時期に武家 社会の内部は武士の教養として!摩琵琶への嗜好が見られた。中には藩士をや めて町人になり,町の人々に教える人も出てきた。後に!摩琵琶の名が鹿児島 に知られるようになり,琵琶を教える琵琶の教授者も現れた。特に江戸時代の 中頃,琵琶は!摩の町人に開放し,興業的な演奏会が開かれることによって, 庶民にも好かれるようになったが,演奏者は依然として武家の権力者に隷属す る一部の武士階級か僧侶に限られていた。明治時代になってから,筑前盲僧琵 琶から発生した筑前琵琶は,盲僧の子孫によって!摩琵琶や三味線などの影響 を受けながら,作りだされたものである。当時からの担い手といえば,盲僧の 子孫以外に女性の芸者などもいた。そのような意味から!摩琵琶の担い手に比 較すると,下層階級の性質が見られる。!摩琵琶も筑前琵琶も後に東京へ進出 し,御前演奏をきっかけとし,流行りだしたが,庶民性を持つ筑前琵琶の方は 多くの学習者とくに女性の愛好者を獲得し,早くも従来の家元制度に則った家 元制を取り入れ,前記のようにそのネットワークを全国まで広げていった。筑 前琵琶の伝承形態には守屋氏が言う遊芸と家元制の表裏一体の関係が見られ る。そして,筑前琵琶の始祖橘旭翁や芸者の吉田竹子などのようなもともと社.
関連したドキュメント
られてきている力:,その距離としての性質につ
従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ
音楽は古くから親しまれ,私たちの生活に密着したも
これらの先行研究はアイデアスケッチを実施 する際の思考について着目しており,アイデア
BCI は脳から得られる情報を利用して,思考によりコ
何日受付第何号の登記識別情報に関する証明の請求については,請求人は,請求人
手動のレバーを押して津波がどのようにして起きるかを観察 することができます。シミュレーターの前には、 「地図で見る日本
層の積年の思いがここに表出しているようにも思われる︒日本の東アジア大国コンサート構想は︑