研究ノート 東京国立博物館所蔵 国宝本・虚空蔵 菩薩像の表現
著者 小林 達朗
雑誌名 美術研究
号 409
ページ 26‑31
発行年 2013‑03‑22
URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006024/
美 術 研 究 四 〇 九 号 二六
研
究
ノ
ー
ト 東京国立博物館所蔵
国宝本・虚空蔵菩薩像の表現
小 林 達 朗
はじめに 一、銀について 二、截金の色味について 三、箔の上から彩色がなされていることについて
はじめに
平安時代後期、日本の仏画は細巧な描線、微妙な色彩の変化、細緻な截金文様に よる美の表現を実現した。その名品が複数にわたり今に残されていることは幸いと わねばならない。中でも、東京国立博物館に所蔵される国宝・虚空蔵菩薩像は、描 写の繊細性において極まった作品といえ、またその落ち着いた雰囲気は固有のもの をもっている。
しかし、この作品のモノローグが本格的になされたのは古いことではなく、一九 八 九 年 ( 平 成 元 年 ( 、 泉 武 夫 氏 に よ る 総 合 的 な 論 考 を ま た ね ば な ら な か っ た。 泉 氏 はその表現のじつに細部に至るまでを観察、記述し、加えて図像学的解釈、さらに 制 作 背 景 と し て 高 陽 院 ( 一 〇 九 五 ― 一 一 五 五 ( に よ る 十 一 斉 講 と い う 仏 事 を 想 定 さ れた。それから間もなく、図像学的問題、そこからうかがわれる制作・信仰背景に ついては林温氏が別の見解を示して、如法尊勝法との関わり、鳥羽院周辺という可 能性を示唆した。その後、さらに向坂卓也氏によって鳥羽院の出家した金門鳥敏法 という修法に関わるのではないかとする説が出されている
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(
。 この三者による図像の、また歴史的背景についての見解はいずれも史料に基づく もので、三様ながら説得力を持ち、それにたいしていま筆者がここで判断を下した り、新たな説を立てようとするものではない。ただ、いずれも共通するのは、この 絵の制作期を十二世紀半ばと見ること、また単にどこかの寺院で常用するために作 られたと考えるには、あまりに繊細さと豪華さを兼ね備えていて、最高級の貴族が ある特定の目的を持って作らせたものであろうということである。この点について は筆者も異論はない。そのような事情によるのであろうか、この絵が戦後間もなく 東京国立博物館に入る前は、三井合名会社、その前は井上侯爵の所蔵であったこと までしか伝来は明らかでない。 いずれかの寺院に秘蔵されていたものではあろうが、 そこで代々使われていたものにしては保存状態がきわめて良い。 とすると、この絵が作られた時の意識は、絵が完成して最初に何らかの儀式でか けられ、 願主である人が見る、 そのピンポイントに集中していたことになるだろう。 厳密には、ある作品の「はじめ」はどこにあるか、ということは実は難しい問題で あり、それを措いても、作品は不断の劣化を経てきている。大きく見れば、美は多 様 の 統 一 で あ り、 作 品 も 歴 史 的、 宗 教 的 背 景 ―― 制 作 者 と パ ト ロ ン の 負 っ て い る 歴史、意識、制度、図像等々、多くのものから成り立っている。その研究とはそれ を通して、作品を中心とし、そこに現れたものと人への「知見」が深まるであろう と い う 希 望 に 支 え ら れ て い る も の で あ る と す れ ば、 そ の「 美 し さ の 質 」、 と い う こ と も、 「 知 見 」 の 重 要 な 要 素 で あ る に ち が い な い。 こ と に こ の 絵 に つ い て、 絵 そ の ものをよく「見る」ということを措いておくわけにはいかないであろう。 ところが、実際には、それはとても難しい。泉氏が本図の技法、表現について細 部にわたる観察を行い、記述されていることは、冒頭に触れたとおりである。その 中のひとつに、光背の宝相華文の華の部分と茎の部分で、そこに押された金箔の色 味が異なっているという指摘がある。筆者は東京国立博物館の学芸員として、展示 のためこの作品を取り扱う立場にたまたまめぐり合わせた際、この点を確認しよう としたのだが、展示ケースの中でこの絵を鼻の先で実見しても、肉眼では茎の部分 の金箔の存在すらよくわからなかったのである。ケースの外からではなお、いわん や数多く出回っている図版からは、泉氏のせっかくの指摘もその細部を追体験する
東京国立博物館所蔵国宝本・虚空蔵菩薩像の表現 二七 ことは、それが微細、微妙であるゆえに、普通にはまったく不可能なのである。 東 京 国 立 文 化 財 研 究 所 と 東 京 国 立 博 物 館 は 昨 年 度 ( 二 〇 一 一 ( か ら、 東 京 国 立 博 物館に所蔵される平安仏画の高精細画像撮影を共同調査として行っており、その始 めとして、この虚空像菩薩像を対象とした
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(
。画像は二八分割で全体を撮影し、さら に八カットのマクロ撮影を行った。得られた画像はディテールに豊かな生命を宿す この作品にこれまでになく迫れるものと思う。また泉氏の観察の詳細で的確なこと もあらためて認識させられたところである。本論は、これによって得られた結果を 見てゆく中で、調査の一員として、美術史的な問題と考えることについてノートす るものである。
一、銀について
本図に銀が多用されていることは従来から言われており、また金を使用する平安 後期の仏画のありかたにさらに加えて、ほとんどそれに拮抗するほど銀が使用され ている傾向があらわれていることから、本図の制作期を十二世紀半ばと考える根拠 のひとつとなっている。そして、現在は黒く見える部分が銀であったと復元的に想 像して、一種幽玄な趣を持った絵であるというようにこの絵はしばしば説明されて きた。 銀が使用されていると考えられる部分が多岐にわたっていることは、泉氏の報告 を参照されたい。ただし、今回得られた画像から観察すると、そのありかたは一様 でないようである。像全体を包みこむ大円光は、周辺から内側に向かって薄くぼか すように黒色で縁取られ、これが銀であるとされてきた。しかし、この部分の拡大 画 像 ( 図 版
Ⅰ―
れる岩座の青灰色の部分とは色味がかなり異なって見える。 の粒子らしきもの現状ではほとんど見えない。また同様に銀が刷かれていると見ら a( で は、 絹 の 繊 維 が 黒 っ ぽ く 染 ま っ て い る の は 確 か で あ る が、 銀
さらに、光背の宝相華文の花の部分に塗られている、肉眼では黒色に見える部分 (図版
Ⅰ―
る が、 こ の 拡 大 画 像 に よ る 限 り、 地 の 絹 目 に 顔 料 の 粒 子 ら し き も の は ま っ た く 見 え な い。 う 一 度 必 要 で あ ろ う ( 宝 相 華 文 の あ る 光 背 の 地 の 部 分 は、 現 状 で 薄 く 茶 色 で 塗 ら れ て い 拡大のみならず、蛍光X線分析なり、ここからさらにもう一歩踏み込んだ検証がも いう画面の表現上大きなウェイトを占める部分であるが、これに関しては可視光の 合はこのように均一に出ないのではないかとも考えられる。大円光と宝相華の花と える。あるいは銀の不純物が変質して析出しているものかとも思われたが、その場 なり厚みがあって大円光とは質感が大きく異なるうえ、鮮やかな緑と青の粒子が見 b( も同様に銀であろうと筆者自身思いこんでいたが、拡大画像では、か
染 料 系 の も の で あ ろ う か。 今 は 光 背 が 薄 く 透 け て 見 え る、 沈 ん だ 印 象 を 受 け る が、 と す れ ば も と も と は ど う で あ っ た の か。 こ れ に 関 し て も 蛍 光 な ど に よ る 調 査 を 試 み る 必 要 が あ る
かもしれない ( 。課題は残されたままではあるが、科学調査とはほんらい、まず詳細 な観察を行ったうえで、問題となる部分を認識してから次の的を意識して行うべき であり、今後の足がかりを得たことにはなるものと思う。
今は変色してしまっている銀であるが、これについて付け加えるならば、そもそ もそれは「おくゆかしい、幽玄な」趣につながるものであろうか。二〇〇六年、奈 良国立博物館で公開された子島曼荼羅の模本
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は、それまでほとんど見えなかった銀 の痕跡を赤外線撮影で追い、 その結果にもとづいて銀泥で復元したものであったが、 ここにできあがった絵を見ると、 銀は「白
しろかね金」というごとく、 むしろ全体に力強さ、
挿図 ( 虚空蔵菩薩像 東京国立博物館蔵
美 術 研 究 四 〇 九 号 二八
迫力を与える白と見える。銀、ことに銀泥の表現に対する今一度の反省は必要では ないであろうか。
二、截金の色味について
平安 ・ 院政期仏画の美しさの重要な部分をになう截金表現は、本図に至って繊細、 細緻をきわめている。裳や条帛に施された截金の細さは、おそらく人が手でなしう る限界に達しているであろう。
そ の 截 金 の 色 味 が 一 様 で な い こ と は、 泉 氏 が 指 摘 し て い る。 泉 氏 は、 「 ① 金 の 発 色 を 完 全 に 保 持 し て い る 截 金 部 位、 ② 金 が 銀 化 し た よ う に 見 え る 截 金 を 含 む 部 位、 ③赤金風の截金部位」の三つの異なる様相があると述べられている。③が光背の同 心 円 周、 そ し て 筆 者 が 氏 の 指 摘 に よ っ て 見 よ う と し た 肉 眼 で は よ く 見 え な か っ た、 宝 相 華 文 中 の 蔓 部 で あ る。 こ れ は こ の 度 の 撮 影 画 像 に よ っ て は っ き り と 確 認 す る こ と が で き た ( 図 版 Ⅱ ( 。 蔓 部 は 黒 い 線 の 上 に 現 状 で は 見 に く く 剝 落 も 多 い も の の、 きわめて細い、かつ花の輪郭にほどこされたややごつごつと目立つ金箔とは明らか に異なって、赤みを帯びて沈んだ発色を示す截金が使われている。泉氏は同様の使 い分けがボストン美術館蔵馬頭観音像にも見られることを発見し、平安仏画の截金 の使用が単純なものではなかったことを論じてい る
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(
。重要な指摘である。これに加 えれば、本図の大円光の輪郭にもおなじようなきわめて赤みの強い金箔が施されて いた痕跡が見える (図版Ⅰ―
a( 。
泉氏が述べられた②、金箔が黒化した銀と混ざったように見えるものが、広範囲 に見られることも重要である。このようなものは平安仏画の截金にしばしば見える のであるが、泉氏は田口榮一氏がかつて平等院鳳凰堂扉絵において着目して「截金 線を金箔から截り出す作業をしやすいように金箔の下には銀を多く含む仏師箔が合 わ せ ら れ て お り、 表 面 の 金 箔 が 剝 が れ る と、 下 の 銀 が 黒 化 し て あ た か も 墨 線 の よ うな状態を呈する」もの、と書かれてい る
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(
ことに触れつつ、 「重ね合わせる理由は、 不確かながらやはり金の発色を良くするためであろうか」と述べられている。
このたびの調査では、本画の截金がもっともその美しさを発揮している菩薩の裳 の膝部分に着目して特にマクロ撮影を行った。ここには、九つ目の入った七宝文を 地文に、菊花様の円文を主文とする装飾が施されている (図版
Ⅲ、
に完全には黒化していない。銀箔の性質が異なるのであろう。 本図においてはこの銀がなお光をとどめており、他の仏画でしばしば見られるよう も 部 分 的 に 残 っ て い る、 つ ま り 合 わ せ 箔 が 用 い ら れ て い る こ と が 明 ら か に な っ た。 像からは、明らかに銀箔を下に、金箔が上に重ね合わされ、その金箔が剝落しつつ Ⅳ( 。得られた画
図版
Ⅲは菩薩の向かって右の、膝から脚にかかる裳の中央よりやや下方の部分で
ある。裳の衣文線が太めの合わせ箔で、多く銀が露出しているが、金も部分的にと どまっている。そして地文様の九つ目の点も、同様に上に金の痕跡を残す銀箔が多 いが、中には金だけのものが少数ながら混ぜられている。七宝文は右上方から左下 方に斜め下に走る直線部のみ合わせ箔で他は金のみの箔。ただしこの斜めの直線部 に合わせ箔が使われているのは裳の斜め右下方であって、上方の裳の七宝文は金箔 の み で あ る。 図 版
して用いられていることがわかる。 花弁は金の痕跡を残す合わせ箔と、下に銀があるとは見られない金のみの箔が混合 Ⅳは 主 文 で あ る 花 文 の 拡 大 で あ る。 こ こ で も 衣 文 線 は 合 わ せ 箔、
ここで注意したいのが、すでに述べたとおり、銀を下に、金を上にした合わせ箔 と、金のみの箔が混在して用いられていることである。この二種が狭い部分に併存 しているのであるから、截り出すときの技術上の問題として合わせ箔があったので はなく、明らかに色味の違いを意識し、それによる表現上の問題をねらって使い分 けているとしか考えられない。ここの合わせ箔の当初の色味は現在ではそのまま残 っているとはいえないが、金自体の「発色」という点では、金のみで充分よいよう である。合わせ箔は金のみのものとは異なる色味があったのであろう。同じ箔でも 異なる色味のものが複雑にからみあうかがやきの表現があり、箔という素材の微妙 な使い分けが意識されていたということであって、それは狭い同一平面上で一様に 箔を施すことによって生じるであろう平板性を認識し、いかに金銀箔を消化してゆ くかという問題にたいして意識的であったということになるのではないか。このこ とは次の項のこととも関連してくる点であり、注意したい。
東京国立博物館所蔵国宝本・虚空蔵菩 薩 像の表現 二九 三、箔の上から彩色がなされていることについて
図版
Ⅳは、向かって右側の裳の中程、ちょうど菩薩の膝頭の前側あたりに施され
た菊花文の拡大である。裳には白色の照暈があらわされているが、この部分は最後 に照りとしてほどこされたのではなく、白の上に赤みを帯びた段暈を施し、その塗 り残しの部分として照りが表現されていることがわかる。さらにこの画像で筆者が もっとも注意を引かされたのは、金箔による花弁の上に、この赤みを帯びた暈の彩 色が乗っていることである。つまり絵が描かれ、彩色が施され、箔が押されたうえ で、もう一度彩色の工程が入っていることになる。
図版
Ⅴ―
aは、青の条帛の菩薩が火炎宝珠を載せて胸前に掲げた左手のちょうど
下にあたる部分である。ここでも群青地に四つ菱入りの三重襷文を截金であらわし た上に、さらに再度群青が刷かれ、その粒子が金截金の上に乗っている様子がわか る。
そ も そ も 金 銀 箔 は 特 殊 な 技 術 を 要 す る も の で あ り、 奈 良 時 代 に は 箔 自 体 の 制 作、 さらに、それを截って置く工人が分業化、専門化されている。有賀祥隆氏によれ ば
(6
(
平安時代中期には箔を作る人を「箔師」と呼び、金箔を細く截り、截金文様として 押 す こ と を「 細 金 」、 そ の 工 人 を「 細 金 師 」 と 呼 ん で い た と い う。 筆 者 は 絵 仏 師 も し く は 絵 師 に よ っ て 絵 が 描 か れ、 そ の 後 に、 こ れ と は 別 工 程 で、 「 箔 師 」 に よ っ て 作 ら れ た 箔 が、 「 細 金 師 」 に よ っ て 押 さ れ 完 成 す る も の、 と 思 っ て い た。 こ の 絵 に おいては箔が最後の工程ではなかったことについて、最後の仕上げを絵仏師がする のは驚くことではない、との見解もあったが、筆者はこの点は、平安仏画の表現し ようとしたものの質にかかわる重要な部分と考える。 少なくともこの最後の彩色は、 「 仕 上 げ 」 と し て 少 し 手 を 入 れ た と い う 以 上 の、 表 現 上 な か な か に 重 要 な 部 分 を 占 めているといえないか。
筆者は平安院政期の仏画を見るにつけ、截金文様の細緻さもさることながら、そ れが微妙な陰影を感じさせ、そこに一種の甘美を生じていることに感嘆するもので あ る ( 図 版 Ⅵ ( 。 そ れ は 絵 の 具 に よ る 下 地、 つ ま り バ ッ ク の 色 味 が 微 妙 に 変 化 し て いることからくる相乗効果、見えの違いであろうかと思っていたのであるが、さら にそれ以上に、截金の色自体を意識的にコントロールしたことによる結果が作用し ているように思われてきたのである。 平安時代・十二世紀に仏画の截金表現はその頂点をきわめたのは周知のことであ るが、彫刻においてはその装飾文様としての截金は天平時代にすでに使われ、その 後も盛んに取り入れられて技術として確立していた。にもかかわらず、仏画におい て截金文様がはっきりとした形となって使われだすのは、十一世紀も半ばになって からであって、そこに時間的なギャップがある、という有賀祥隆氏の指摘は重要で あ る
(7
(
。
同じ日本でも、一方に鎌倉時代に至っても截金を主たる表現として取り入れない 南都系の仏画のような伝統的流れが存在する。緻密な金による文様を仏画に描きこ んだ点では、高麗仏画に類似した雰囲気を見ることはできるが、高麗仏画の場合に は金泥によるもので、截金ではない。中国・宋代の仏画においても金あるいは截金 の使用は限定的であっ て
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、平安時代 ・ 十二世紀の仏画の完成度の高い截金の発展は、 独自のものであったといえよう。平安時代に彫刻や工芸においては金銀がふんだん に、なおかつ洗練されて使われていながら、絵画には取り入れられるに時間がかか ったことについては、金銀がそれだけで強い物質性をもち、均一な平面性が絵画性 と矛盾を生じやすいということが重要な問題として意識されていたからではないか と考えたことがあ る
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(
。
著名な『宣和画譜』にあらわれた「多く金碧を用ゆ、その真を考ふるにいまだ必 ず し も こ れ に あ ら ず、 た だ 綵 絵 の 燦 然 た ら ん こ と を 欲 し て、 以 て 観 美 を 取 る の み
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」 と い う 日 本 画 ( お そ ら く 世 俗 画 で あ ろ う が ( に た い す る 評 は、 中 国 に お け る 絵 の あ り かた、もしくはあるべきと考える姿に対する意識に立ったものであって、それを敷 衍して日本の絵画、 特に平安仏画の質を説明するのは早計であろう。しかしながら、 このような視点、意識は底流でいまだにいきつづけてはいないだろうか。平安仏画 についても、 金銀の使用は 「装飾的」 「宗教画ゆえの荘厳」 であって 「平面的」 であり、 そ れ に よ っ て「 絵 画 性 」 が 二 の 次 に な っ た と い っ た 解 説 が 時 に 見 ら れ る の で あ る。 これまで指摘したように、虚空蔵菩薩像の表現を仔細に見ると、そこには文様ひと つの中に金の色味を微妙に変えてバリエーションを持たせたうえ、その上から彩色
美 術 研 究 四 〇 九 号 三〇
を施す ―― 見方によってはせっかくの金の輝きを殺す ―― といったことをおこな っているのである。 「装飾性」 「聖性」を金銀であらわすのであれば、その使い方は 論理上は無限にあり、もっとそれ自体を豪華に使い、力強く光輝かせることもでき たはずである。しかし平安仏画は単純にその道をとらなかった。なにより、金銀の 截金を人の可能な限りの限界まで細くしたのであり、さらに微妙な変化を持たせた 絵具の色彩との融和をはかった。
この画像においては装飾のない肉身の表現にも目を向けたい。その腕は実に精確 な線と、表から裏彩色が観察できないほどに緻密に、たっぷりと、しかしむらのな い上質の白地を塗り、さらに微妙にほどこされた朱の暈によって、まるまるとした 立体感が感じられる (図版
Ⅴ―
のみごとな「絵画性」を見るべきであろう。 しかしそれは、いわば言語の異なる、質として異なるものであって、これにはこれ う か。 そ こ に あ る の は 宋 代 絵 画 の 表 出 す る「 真 」 と は こ と な る も の か も し れ な い。 ぎる菩薩の存在をささえるものとして、このような肉身の表現があるのではなかろ b( 。細く緻密な色彩と金銀によるあまりに繊細にす
す で に 玉 蟲 敏 子 氏 に よ っ て 論 じ ら れ て い る よ う に
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、「 装 飾 」 と い う 言 葉 自 体 が 近 代以降に作られたものであって、日本の美術作品に安易に適用して終わってしまう ことには慎重でなければなるまい。平田寛氏が語られたように、平安後期の仏画に 対する意識は「美麗」また「あはれ」という言葉がキーワードとなるであろう
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(
。ま た、彫刻、工芸、書にあらわれた美意識や技法の変遷と関連しつつ、考えてゆかな ければならないであろう
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平安仏画についてはそのいのちを宿す細部について、いまいちど実作品に立ち返 って見る価値は十分にあると思われる。しかしながら、それはごく限られた立場に ある人が、 しかも多くの時間をかけて蓄積してゆかなければならないことであった。 またそれを伝え、共有することは本質的にむつかしいのである。そのうえで肉眼で の観察を超える高精細画像の意義は大きいと考える。
ただし、留意しなければならないことがある。筆者も迂闊であったのだが、当然 ながら画像は実物そのものではく、絵画は平面であるから、一定の条件さえ揃えれ ばどの画像も変わらないということは、全くない。今回の画像形成を行われた城野 誠治氏が言われるように「すべての情報を記録できる万能薬のような記憶媒体が存 在することが理想だが、未だ、そのような媒体は存在していない」のである。光の 微妙な入れ方ひとつとっても得られる情報の中身は大きく変化する
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(
。今回の画像は、 光って見える銀のありかたをねらったため、細部における絵画を構成する立体性は やや見にくいものとなった。
画像には画像の自律性があり、そのような性質をわきまえたうえでそれを著作物 として慎重に対処することが必要である。同時に、高度になればなるほど画像の情 報量は物理的に大きなものになり、 これに対応するハード面での対処が必須となる。 そのような問題があることを前提とし、 しかしながら、 実物を「見た」 「見ていない」 ではなく、作品の表現に一歩も二歩も踏み込んで、ひろく議論することができるよ うになる可能性を考えなければならないと思うものである。
註 (
博 物 館、 一 九 八 九 年 三 月、 一 九 九 〇 年 三 月( 同 (( 泉 武 夫「 国 宝 虚 空 蔵 菩 薩 像 と そ の 信 仰 背 景 」『 学 叢 』 第 一 一・ 一 二 号、 京 都 国 立
( が語るもの―」 『美術史学』第一七号、東北大学美学美術史研究室、一九九五年。 向坂卓也「東京国立博物館本 国宝 ・ 虚空蔵菩薩画像について―その「色」と「形」 して―」 『 MUSEUM 』№四七五、東京国立博物館、一九九〇年一〇月。 林 温「 東 京 国 立 博 物 館 保 管 虚 空 蔵 菩 薩 画 像 に 関 す る 若 干 の 考 察 ― 八 大 菩 薩 像 と 関 連 九五年八月、に加筆、再録 (。 『 仏 画 の 造 形 』 吉 川 弘 文 館、 一 九
( 一員としての小林の私見であり、内容についての責任は小林にある。 東 京 文 化 財 研 究 所 よ り 江 村 知 子 氏、 小 林 達 朗 が 参 加 し た。 本 稿 に 述 べ る の は 調 査 の 野誠治氏による。 調査には東京国立博物館より田沢裕賀氏、 沖松健次郎氏、 瀬谷愛氏、 (( 東 京 国 立 博 物 館 と 東 京 文 化 財 研 究 所 と の 共 同 調 査。 画 像 は 東 京 文 化 財 研 究 所・ 城
( 加藤純子氏の分担による作画で行われたものである。 物館、 二〇〇六年七月。模写は文化庁の模写模造事業の一環として、 富沢千砂子史、 (( 展 覧 会 カ タ ロ グ『 復 元 模 写 完 成 記 念 特 別 陳 列 国 宝 子 島 曼 荼 羅 』 奈 良 国 立 博
(( 註
(の泉氏前掲論文。
(
( の表現(上 ( ―」 、『佛教藝術』一四一号、一九八二年の註四六。 (( 田 口 榮 一「 鳳 凰 堂 九 品 来 迎 図 調 査 報 告 ― 両 側 壁 画 の 現 状 と 来 迎 聖 衆 の 図 様 及 び そ
6( 有賀祥隆『截金と彩色』日本の美術№三七三、至文堂、一九九七年六月。
東京国立博物館所蔵国宝本・虚空蔵菩薩像の表現 三一 (
( 要旨 (『美術史』一六六号、二〇〇九年三月。 7( 有 賀 祥 隆「 仏 教 絵 画 に お け る 和 様 化 ― 金 文 様 の 受 容 と 変 容 ―」 ( 東 支 部 大 会 発 表
( 九八八年九月。 8( 戸 田 禎 佑「 南 宋 院 体 画 に お け る「 金 」 の 使 用 に つ い て 」『 国 華 』 一 一 一 六 号、 一 9(
戸 田 禎 佑 氏 は 前 項 論 文 の 中 で、 「 絵 画 に お け る 金 と い う 素 材 は、 色 彩 で あ る と 同 時 に 輝 き で あ り、 墨 や 顔 料 と い っ た 他 の 素 材 と は 甚 だ な じ み に く い 孤 立 し た 性 格 を 示 し、 宗 教 絵 画 や 装 飾 的 作 品 に 多 用 さ れ る が、 自 然 主 義 的 な イ リ ュ ー ジ ョ ン の 形 成 を む し ろ 妨 げ る 作 用 を 持 っ て い る 」 と 指 摘 さ れ て い る。 し か し こ の よ う な 金 銀 に 関 す る 問 題 に つ い て、 日 本 の「 宗 教 的 絵 画 」、 こ と に 平 安 後 期 仏 画 に お い て も
――
現 れ 方 は 違 う が
――
全 く 無 自 覚 で は な か っ た、 む し ろ 大 き な 問 題 と し て 意 識 さ れ て い た の で あ ろ う と 筆 者 は 考 え る も の で あ り、 こ れ に ふ れ た こ と が あ る。 「 荘 厳 と 装 飾 仏 画 垂 迹 画 」 展 覧 会 カ タ ロ グ『 特 別 展 金 と 銀 ― か が や き の 日 本 美 術 』 東 京 国 立博物館、一九九九年一〇月。 (
(0( 『宣和画譜』
、「山水、日本」の項。 (
( 『日本の美学』二六、ぺりかん社、一九九七年九月。 ((( 玉蟲敏子 「金銀の 「装飾」 と光― 「日本美術の装飾性」 をめぐる研究ノートから」
( 同「日本仏画の美しさ」 『国華』一一九四号、一九九五年五月。 ((( 平田寛「美麗の絵師たち」 『日本美術全集八 王朝絵巻と装飾経』一九九〇年八月。
( ける表現技法、金銀の扱いについても同様なことが言えるであろう。 流 れ の 中 に 蒔 絵 を 位 置 付 け て い く 試 み が 必 要 と 思 わ れ る 」 と 述 べ ら れ る。 仏 画 に お た 狭 い 領 域 の 中 で 扱 っ て い く こ と は 本 来 無 謀 な こ と で あ り、 今 後 も、 美 術 史 全 体 の 一 九 九 一 年 二 月、 の 中 で、 蒔 絵 の よ う な 表 現 技 法 を「 作 品 の 素 材・ 技 法 で 分 け ら れ ((( 小松大秀氏は、 「平安時代における蒔絵表現の特質とその展開」 『美術史』一二九、
サントリー美術館・神戸市立博物館、二〇一一年一〇月~二〇一二年六月。 実 と 深 ま る 謎 ―」 展 覧 会 カ タ ロ グ『 南 蛮 美 術 の 光 と 影 泰 西 王 侯 騎 馬 図 屛 風 の 謎 』 よ び 城 野 誠 治「 〈 泰 西 王 侯 騎 馬 図 屛 風 〉 の 画 像 情 報 化 に つ い て ― 画 像 か ら 見 え た 事 Light & Color 画 表 現 の 深 層 を さ ぐ る 」『 』 東 京 文 化 財 研 究 所 編、 二 〇 〇 四 年 三 月。 お ((( 井手誠之輔 「色のミクロコスモス―美術史研究と画像形成―」 および城野誠治 「絵
(こばやし たつろう・企画情報部主任研究員 ( 図 版 要 項 一 (
虚空蔵菩薩像 a(