(1)
0.
有機化学とは、 の化学である。有機化合物は極めて
多様である。生物の体の大部分は有機化合物でできている。プラスチックや合成繊維な ど、人工的に作られた有機化合物もたくさんある。燃料として利用されている石油や天 然ガスも、有機化合物である。これまで知られている有機化合物の正確な数は誰にもわ からないが、少なくとも数千万種類に及ぶことは間違いない。
このように多様な有機化合物の性質を理解するには、どうすればよいのだろうか。か つての有機化学は、雑多な化合物を経験的に分類し、反応をパターン化して理解するこ とが目標だった。しかし現代の有機化学は、もっと合理的な手法を用いる。その手法と は、 という強力な物理学の手法を用いて、物質内の を明らかにする ことである。
この講義でも、できる限り分子内の に注目して、有機化合物の性質や反応 を理解することを目標にする。単に「○○という化合物は という性質を持つ」と事 実を述べるだけではなく、「○○という化合物は という性質を持つ、 △△
の位置に電子が偏っているため□□の位置と反発し合うからである」というように ように心がけよう。電子の動きに注目すること によって、有機化学をより深く理解できるようになる。また、電子の動きは無機化合物 においても共通する部分が多いため、化学の広い分野に及ぶ応用力を身につけることが できるだろう。
1.
最初に、原子の中に電子がどのように存在しているかを説明する。原子は、正電荷を 持つ原子核1個と、負電荷をもつ0個以上の電子から成っている。かつては、原子核の 周りを電子が「惑星」のように回っていると考えられていたが、この考え方では、原子 の性質を十分に説明することはできないことがわかってきた。現在では、電子は
quantum mechanics
という理論に従うと考えられている。
量子力学における物体の振る舞いは、私たちが通常目にする物体の振る舞いとは大き く異なっている。いくつかの重要な特徴を挙げると、次のようになる。
(1)
物体は、粒子としての性質と、波としての性質を合わせ持っている。
(2)
物体の位置は確率分布として表される。つまり、ある物体の位置を特定すること
は不可能で、「この位置に存在する確率は○○」という風にしか記述できない。
これらの特徴が特に顕著に現れるのは、「質量の小さい」物体の場合である。有機化 学で取り扱う現象の範囲では、「 のみが量子力学的な振る舞いをする」と考えてよ い。(まれに、水素などの軽い原子核が量子力学的な振る舞いを見せることがあるが、
ここでは深入りしない。)
量子力学では、原子中の電子は原子核の周りのある空間範囲に、決まった確率で分布 すると考える。この空間分布のことを「 」と呼ぶ。原子軌道の大きさと形は、
原子核の引力と他の電子の反発力(斥力)によって決まる。大きさは原子によってまち まちだが、形はどの原子でもよく似ている。
原子軌道は、原子核からの平均距離によって、いくつかの「 」に分けられる。最も 原子核に近いものを「
K殼」と呼び、それより遠いものを
L殻、
M殻、…と大文字の アルファベットで順に表記する。それぞれの殻には、形の異なる原子軌道が含まれてい る。原子軌道の形は小文字のアルファベットで表し、
s軌道、
p軌道、
d軌道、…とい う名前がついている。最初の3つの殻について、含まれている原子軌道の種類と数を下 の表に示す。原子軌道の名前は、所属する殻を表す数字と、形を表す小文字のアルファ ベットを合わせて示すことになっている。
殻 原子軌道
K
殻
1s軌道(1個)
L
殻
2s軌道(1個)、
2p軌道(3個)
M
殻
3s軌道(1個)、
3p軌道(3個)、
3d軌道(5個)
原子軌道についての詳しい解説は次回以降に行う。今回は、原子内の電子の配置を考 える上で、「1つの原子軌道に電子は2つまで入ることができる」こと、および「電子 は内側の殻から順番に入っていく」ことにのみ注目する。これだけの知識を持っていれ ば、有機化学で登場する多くの分子について、その構造を記述することができる。
2.
原子に含まれる電子の中で、「最も外側の殻」に入っているものを、
outer-shell electron
または
valence electronと呼ぶ(注1)。これらの電子は、原
子の化学的性質を決定づけるものである。有機化学でよく登場する元素について、価電
子数を覚えておこう。最もよく登場する元素は
H, C, N, O,ハロゲンであり、これらに
次いでよく登場するのは
B, P, Sである。
価電子数
1 3 4 5 6 7元素
H B C N, P O, S F, Cl, Br, I注1:高校化学の教科書・参考書では、「貴ガスの価電子はゼロである」ことがしばしば強調さ れているが、これは貴ガスの化合物が知られていなかった古い時代の考え方である。現在の国際 的な慣習では、貴ガスを含めて、原子の最外殻電子と価電子を同一視する。
これらの原子は、
covalent bondによって分子を作る。共有結合とは、2つ の原子が価電子を1つずつ出しあって、それらを共有することによってできる結合のこ とである。電子を共有すると結合ができる理由は、先ほど述べた「原子軌道」を使って 説明することができる。この点については、次回以降に取り扱う。
多くの分子について、次の法則が成り立つ。「水素原子以外の原子について、他の原 子と共有している電子対を『2個』と考えて電子数を数えると、8個になる」。これを
octet rule
と呼ぶ。オクテット則が成り立つ理由は、原子の最外殻が4つ
の原子軌道を持つためである。1つの軌道には2つまで電子が入れるため、共有してい るものを含めて最大8個の電子が入っているときに、分子は最も安定になる。
オクテット則を満たさない分子も存在する。特に、価電子数が少ない原子では、4個 の軌道を全部埋めずに、3個、または2個だけを使って分子として存在している場合が ある(三フッ化ホウ素
BF3など)。一方、
P, Sなど第3周期以降の元素では、1つの原 子が
10個以上の電子を持つように見える分子もある(硫酸
H2SO4や五フッ化リン
PF5など)(注2)。
注2:1つの原子が10個以上の電子を持つ(ように見える)分子は「超原子価分子」hypervalent
molecule と呼ばれる。このような分子の電子配置については種々議論されているが、本講義の
範囲では「第3周期以降の原子では最外殻電子が10個以上になる場合もある」と単純に解釈し ておくことにする。
分子中の電子の数を正しく数えることができるように、分子中の原子の電子数につい て、「最外殻電子」と「価電子」という言葉を次のように使い分けることにする。
・ 最外殻電子:他の原子と共有する電子対を「2個」と数えたときの電子数。
・ 価電子:他の原子と共有する電子対を「1個」と数えたときの電子数。
「最外殻電子」は、オクテット則を判定するためのもので、分子の安定性を判定する ためのものである。一方、 「価電子」は、原子がもともと持っている電子の数と等しく、
共有結合を作っても変化しない。この考え方は、後に「電荷を持つ分子(分子イオン)」
について考えるときに必要になってくる。
3.
オクテット則を理解するためには、分子中の電子がどの原子に属しているか、あるい はどの原子とどの原子に共有されているかを知る必要がある。これを図で表す方法が、
Lewis structure である(ルイス構造式、ルイス式とも呼ぶ。高校化学で学
ぶ「電子式」と同じ)。ルイス構造では、各原子の最外殻電子を点で表記する。電子対 は2つの点を並べて書く。共有結合を作る電子対は、結合している2つの原子の間に書 く。
ある分子のルイス構造を書くためには、最初に「各原子の最外殻電子=価電子」を書 き出す。
次に、「つながっている原子」の間で、最外殻電子を共有させて、共有結合を1本ず つ作る。
各原子の最外殻電子が「8個」(オクテット)に満たないときは、さらに電子を共有 して、多重結合を作る。
全部の原子がオクテットを満たせば(水素原子は2個になれば)よい。多くの分子は このやり方で正しいルイス構造を書ける。
ただし、先ほども述べたように、オクテットを満たさない分子もある。有機化学でよ く出てくる分子の中で「例外」として注意すべきものは、 「
B, Al」を含む分子と、 「
P, S」 を含む分子である。前者は
B, Alの最外殻電子が6個になる場合があり、後者は
P, Sの 最外殻電子が
10個または
12個になる場合がある。
また、不安定な反応中間体として現れる物質の中にも、最外殻電子が6個になるもの
H O H Cl Cl O C OO C O O 6 C 4 O 6
O C O
O 7 C 6 O 7
O C O O 8 C 8 O 8
O S O O
O
H
H F
P F F
F F F B F
F
) Cl Al Cl
Cl
(
が存在する。このような物質については、必要に応じて個別に説明する。
もう一つの注意点として、分子が不対電子を持っている場合は、上記の手順ではうま く構造を作れない場合もある。総電子数が奇数の場合は当然だが(
NOなど)、総電子 数が偶数でも不対電子を持つ場合がある(
O2など)(注3)。
注3:O2 が2個の不対電子を持つ理由はやや複雑で、分子軌道のエネルギーを考慮する必要が ある。詳しくは、量子化学の「二原子分子」の項で学ぶ。
4.
水酸化物イオン
HO–や、アンモニウムイオン
NH4+のように、電荷を持つ分子(分 子イオン)のルイス構造は、どのように書けばよいだろうか。
HO–
が
–1の電荷を持っているのは、「電子が一つ多い」ためである。そこで、
O原 子の価電子が1つ増えたと考えて、ルイス構造を書く(注4)。「価電子が1つ増えた」
ことを示すため、
O原子の近くにマイナス記号を書き加える。これを
formalcharge
と呼ぶ。形式電荷とは、原子の持つ価電子の数と、その原子が「本来」持って
いる価電子の数(周期表上の位置で決まる価電子数)の差である。
注4:H 原子の価電子を増やすと、H 上に電子がすでに2個あることになるので、共有結合を 作ることができない(Hの最外殻電子が3個になってしまうため)。したがって、この場合はO 上に形式電荷を置くべきである。
アンモニウムイオン
NH4+は
+1の電荷を持っているので、逆に電子が一つ少ない。
そこで、
N原子の価電子が1つ減ったと考えて、ルイス構造を書く(注5)。「価電子が 1つ減った」ことを示すため、
N原子の近くにプラス記号を書き加える。
注5: H原子の価電子を減らすと「価電子0個」になってしまい、共有結合を作ることができ ない。したがって、この場合はN上に形式電荷を置く。
すでに書かれているルイス構造から、逆に形式電荷を求めることもできる。それぞれ の原子について「価電子数」(共有している電子は1個と数える)を求め、原子の本来
O O N O
H O H O
H N
H
H H
H N H
H H
の価電子数との差をとればよい。
形式電荷を持つ原子は、1つの分子中に2つ以上存在することもある。この場合、分 子内のすべての形式電荷の総和は、分子がもつ電荷に等しい。また、分子が電荷を持た ないのに形式電荷を持つ原子が存在することもある(注6)。
注6:これらの分子では、どの O に形式電荷を置くか、選択の余地がある。例えば、炭酸イオ ンのルイス構造は、下のように書いても構わない。これらの構造では、原子の配置は同じ(つま り同じ分子)なのに、電子の配置が異なることになる。このような場合、電子は「非局在化して いる」と呼ばれる。電子の非局在化は、実は有機化学で非常に重要なトピックであり、後の章で 詳しく取り扱う。
5.
ルイス構造における「共有結合を作っている電子対」を、それぞれ1本の直線で置き 換えたものを、
Kekulé structureと呼ぶ。結合線構造は、共有結合を1本の 直線で示したものであり、分子の構造を示す表記法としてなじみの深いものである。
なお、教科書によっては、共有結合が直線で表されていても、すべての価電子が明示 されていれば「ルイス構造」と呼んでいるものもある。ブルースの教科書もこのスタイ ルである。本講義では、すべての電子を点で書く構造のことを「ルイス構造」、共有結 合の電子対を直線で書く構造のことを「ケクレ構造」と呼ぶことにする。
ケクレ構造は、有機化学の反応を表す際に最もよく用いられる表記である。正しいケ クレ構造を作るためには、まず正しいルイス構造を書き、その後共有結合の電子対を直 線で置き換えればよい。ここで重要なのは、結合線を単に「原子がつながっていること を表す」と見るのではなく、「そこに電子対がある」と見ることである。あとで学ぶよ うに、有機化学の反応を理解するためには、「どの電子がどこに移動したか」を正しく 記述する必要がある。結合線の位置に「電子対がある」と認識できるようになれば、多 くの有機化学反応を統一的に理解することができる。
H O
O C O O
(CO32–)
O N O O
H (HNO3)
O C O O
O C O O
O H
H Cl Cl O C O
6.
最外殻電子の中で、共有結合を作らず、1つの原子上に対を作って存在するものを
lone pair
と呼ぶ。ローンペアは、孤立電子対または非共有電子対
unsharedelectron pair
とも呼ばれる(注7)。
注7:高校化学の教科書では「非共有電子対」が一般的である。大学の有機化学の教科書では、
「孤立電子対」が使われていることが多い。どちらも正式な日本語の学術用語だが、「ローンペ ア」のほうが書くにも読むにも簡潔である。本講義では「ローンペア」という表記で統一するこ とにする。
ローンペアの存在は、ケクレ構造ですべての価電子を明記すると、簡単に認識できる。
すべての電子対は共有結合の電子対かローンペアのどちらかであるが、ケクレ構造では 共有結合の電子対は直線で表すことになっているので、各原子上に電子対のまま書かれ ているのがローンペアである。
ローンペアの電子は、共有結合の電子よりもエネルギーが高く、化学反応に関与しや すい。このため、分子中のどの原子がローンペアを持っているかは、化学反応を理解す るために重要なポイントとなる。ローンペアの電子のエネルギーについては、第3章で アンモニアを例として、もう一度とりあげることにする。
7.
有機分子の中には、多くの原子と多くの結合を含むものがある。このような分子につ いて、すべての共有結合を明示したのでは、構造式が非常に煩雑になってしまう。この ため、有機化学では、分子構造を簡潔に記述する記法がいくつか用いられている。
一つは、 である。これは、「結合を1本だけ持つ」原子を、それが結合して いる相手の原子とまとめて表記する方法である。
一番右に示したように、「まとめて表記したグループ」の間の結合線を省略してもよい。
分子が枝分かれ構造を持つ場合、枝分かれ部分から結合線を出してもよいし、枝分か れの先をカッコで囲んで「1つの原子」のように扱うこともある。
O H
H Cl Cl O C O
C H H
H C H H
O H CH3–CH2–OH CH3CH2OH
カッコは、繰り返し構造を示すために使うこともある。
簡略構造でまとめて表記するグループの中では、普通は「根元の原子」を先に書き、
その後に「末端の原子」を書く。ただし、一番左のグループについては、「末端の原子」
を先に書いて、「根元の原子」を後に書くこともある。
もう一つの記法は、 である。これは、下のように炭素原子の骨格を線で表す 表記法である(注8)。
注8:エタン(CH3CH3)をこの記法で書くことは滅多にない。ただの線分と紛らわしいためで ある。しかし、エチレン(CH2=CH2)を二重線で書くことはよくある。
骨格構造を正しく作るには、次の手順で進める。①炭素原子の
“C”記号を消す。②炭 素に結合している水素原子の
“H”記号と結合線を消す。③炭素原子の位置がわかるよ うに折れ線にする。(ただし、折れ線にしてはいけない場合もある。「アルキン」の章で 改めて説明する。)
骨格構造には、間違えやすいポイントが3つあるので、注意すること。1つめは、 「結 合線の両端には必ず炭素原子があり、その先にはさらに水素原子がある」こと。線の末 端が水素原子であると誤読する人が ので、要注意である。たとえば、下の2 つは異なる物質である。
2つめは、「炭素原子だけを書いて水素原子を省略する」記法は許されない、という ことである。たとえば、下のような書き方は誤りである。必ず、「炭素も水素も両方書
C H H
H C H N
C H H H H H
CH3CH(NH2)CH3 CH3CHCH3
NH2
CH3CH2CH2CH2CH3 CH3(CH2)3CH3
H3C C C
CH3 H H
CH3 C C
CH3 H H
CH3CH3 CH3CH2CH3 CH3CH2CH2CH3 CH3CHCH3 CH3
CH3CCH3 CH3 CH3
H
く」か「炭素も水素も両方省略する」かどちらかにすること。
3つめは、「水素原子を省略できるのは、炭素原子に結合している場合のみ」という ことである。たとえば、
1-プロパノールを下の左のように省略するのは誤りである。酸 素原子に結合している水素原子は明記しなくてはならない。
7.
・ 量子力学
・ 原子軌道
・
K殻、
L殻、
M殻
・
s軌道、
p軌道、
d軌道
・ オクテット則
・ ルイス構造
・ 形式電荷
・ ケクレ構造
・ ローンペア
・ 簡略構造
・ 骨格構造
【教科書の問題(第1章)】
3, 15, 16 (NaOH
を除く
), 59, 73 C CC C
C C C
C C C C C C
CH3CH2CH2OH O OH