中国人留学生の見た明治日本
著者 厳 安生
会議概要(会議名, 開催地, 会期, 主催 者等)
会議名:日文研フォーラム, 開催地 : 国際交流基金 京都支部, 会期 : 1989年2月14日, 主催者 : 国際 日本文化研究センター
ページ 1‑29
発行年 1989‑07‑31 その他の言語のタイ
トル
Meiji Japan : viewed through the eyes of Chinese students
シリーズ 日文研フォーラム ; 9
URL http://doi.org/10.15055/00005761
第9回 日 文 研 フ ォ ー ラ ム
コ
中国人 留学生 の見 た
明 治 日 本
MeijiJapan ViewedthroughtheEyesofChineseStudents
■
厳 安 生
YanAnSheng
国 際 日本 文 化 研 究 セ ン タ ー
日文研フォーラムは︑国際日本文化研究センターの創設にあたり︑
一九八七年に開設された事業の一つであります︒その主な目的は海
外の日本研究者と日本の研究者との交流を促進することにあります︒
研究という人間の営みは︑フォーマルな活動のみで成り立ってい
るわけではなく︑たまたま顔を出した会や︑お茶を飲みながらの議
論や情報交換などが貴重な契機になることがしばしばあります︒こ
のフォーラムはそのような契機を生み出すことを願い︑様々な研究
者が自由なテーマで話が出来るように︑文字どおりインフォーマル
な﹁広場﹂を提供しようとするものです︒
このフォーラムの報告書の公刊を機として︑皆様の日文研フォー
ラムへのご理解が深まりますことを祈念いたしております︒
国際日本文化研究センター
所長梅原猛
● テ ー マ ● 一 中 国 人 留 学 生 の 見 た 一
明t台 日 本
MeijiJapan ViewedthroughtheEyesofChineseStudents
● 発 表 者 ●
厳 安 生
YanAnSheng
発表者紹介
厳 安 生
YanAnSheng
北 京 外 国 語 学 院 助 教 授
1937年 生 れ 。 中 国 外 交 学 院(国 際 関 係 論 、 日 本 語 専 攻)を1961年 に 卒 業 、 東 京 大 学 大 学 院(比
較 文 学 比 較 文 化 専 攻)を1981年 に 修 了 。1962年 よ り現 職 。1988年10月 よ り国 際 交 流 基 金 フ ェ ロ ー シ ップ と し て 来 日 、東 京 大学 で客員 研 究 員 と し て 研 究 中 。 専 門 は 日本 語 。
主 な 著 作:
「日 本 留 学 と"中 体 西 用"」 正 ・続(東 大 比 較 文 学 会r比 較 文 学 研 究 』48、51号 、 同 「金 素 雲 賞 」 受 賞)
「中 国 近 代 日本 語 教 育 史 論 稿 」(北 京r外 語 教 育 与 研 究 』 に 二 回 公 表 、 未 完)
r近 代 中 国 人 留 日 精 神 史 』(近 く刊 行 予 定) 他r日 本 語 精 讀 教 材 』r日 本 近 代 文 学 選 講 』 数 種(学 内 テ キ ス ト)
はじめに
近代における中国人の日本留学は︑甲午(日清)戦争後の一八九六年︑駐日公
使裕庚が西園寺公望を通して嘉納治五郎に教育を依頼した十三人を第一陣とし
て︑その二年後に出された張之洞の﹃勧学篇﹄が大規模の留学運動の進軍ラッパ
となった︑というのが定説になっております︒さらに具体的に見るなら︑留学運
動の決定的な動因は︑対日戦争の敗北にほかなりません︒﹁わが国が四千余年の
深き夢から呼び醒まされたのは︑実に甲午の敗戦で台湾を割譲され︑二百兆両を
賠償させられた後に始まった﹂(梁啓超﹃戊戌政変記﹄)のであり︑目を醒まし
てみて﹁日本は小国のみ︑何ぞ興るのにわかなるや﹂(﹃勧学篇﹄)という問題
意識が全士大夫階級に起︑こったところへ︑日本の参謀本部遊説班(一八九八・
一︑神尾光臣ら三人)を先発とした政軍官学各界による中国抱き込み工作と留学
勧誘が始まったわけです︒それがそのまま始動のエネルギーになった(張の﹃勧
学篇﹄も神尾遊説のあとに生れたもの)というのが︑中国人日本留学の歴史の起
点の真相です︒日本留学運動はこうしたスタートの事情からして︑その動機と︑
対日認識や感情などの面において︑きわめて複雑微妙な様相を呈さざるを得なか
ったわけです︒
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留学先・日本に求めたもの
身軽万里易為客身軽くして万里客になりやすし
心有千秋豈学人心に千秋あり豈に人に学ばんや
暫向扶桑餘日色暫くは扶桑に向かい日色を餘らん
後来分作両家春後に来たりて両家の春を分作せん
この詩は︑いよいよ笈を負って旅たつ湖南省の某留学生の詠んだものです︒彼
ら一行を送る省教育長官の壮行の辞もふるっています︒曰く﹁諸君は島国に学ぶ
のを恥と思え︑その学問を崇めてもその性質を崇めるな﹂︒われは千秋の大国で
向こうは賎しい島国だから︑と︑これは中華思想︑悪く言えばそれ故の尊大癖と
片づけられますが︑一方︑一行中のもう一人︑のち大森海岸で憤死した陳天華は
﹁恥を忍んで仇敵の国に学び︑力をつけて祖国を救おう﹂と言っています︒です
から結論から言いますと︑表層では﹁見なおした︑学ぼう﹂でありながら︑深層
では古い誇りと新しい傷のため心中穏やかならぬところが多い︑という表裏の両
面が十九世紀末以来中国人の対日観の基本パターンを構成しており︑その相反し
た二面が国を救うという至上命令の下で行動の次元に統一されたのが︑日本留学
運動にほかなりません︒
一2一
ところで当時︑この構図をもっとも明白に︑かつ滋味のある表現で言い表わす
ことの出来たもう一人の湖南人がいました︒蔡鍔です︒
1902年︑蔡は留学を勧める﹁湖南の士紳に致す書﹂の中で︑﹁絶学の先
駆︑文明の祖国を以てして自らへりくだり︑虚心に下問し︑自彊やまない後進︑
文明開化の新都に学ぼう﹂と呼びかけました︒その留学経験(1899年来日︑
正式の学校に入って日本人と一緒に勉強し︑同期に荒木禎夫︑小磯国昭らのいる
士官学校をトップで卒業しました)を反映して︑蔡の方は先の後輩たちに比べて
見識が高く︑態度も素直なものでした︒とはいえ︑この"下問"はあくまで﹁文
明の祖国﹂からの留学生という資格においてのものであり︑さらに︑欧米を含む
下問の対象との関係を次のように規定しています︒
欧米を農工とし︑日本を商販として︑吾輩主人はそれを取って用い︑当面
の必要に間にあわせればよい︒後日︑わが文治が日に興り学界が超軼すれ
ば︑ふたたび創って人に恵み︑東西の洋をして我にもとめせしむ︒
やはり中華中心︑天下われの用いる所なり︑という伝統的姿勢にゆるぎはあり
ませんでした︒
それはそれとして︑欧米と日本をそれぞれ近代文明の農工と商販にたとえるこ
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の比喩はなかなかうまいではありませんか︒ここまで見てきて︑私たちは一つの
鮮明な中日の対照に直面させられることになります︒それはつまり︑蔡の口調に
は︑西洋人に此方の真似をさせて主客の位置をかえる﹁斯丶る日は︑到底日本の
上を照らさないと諦めていた﹂という漱石の悲観はもとより︑あの鴎外の︑日本
で結んだ学術の果実を欧羅巴へ輸出する時も﹁いつかは来るだろう﹂式の慎重さ
ーあるいは︑言いよどみでしょうかーのひとかけらもみあたらないということで
す︒ともに近代日本のトヅプ頭脳である漱石と鴎外にして︑維新後四十余年︑﹁
文明開化﹂が一応規模を具え︑﹁富国強兵﹂も日露戦争の大勝でピークに達した
時点であんな悲観調または小心翼々たる発言しかできなかったわけですが︑それ
に対し︑蔡の方はスタートを切る前から"超軼"が当然と決まっていたのです︒
それは彼一個にとどまるものではありません︒小国であり弟子であった日本が﹁
わずか三十余年で六大強国に仲間入りできたくらいなら︑吾輩がやって"事半ば
にして功倍なり"のできないはずはなかろう﹂(孫文︑東京留学生に対する講
演)という︑いわば国民的レベルの論理にまでなりますし︑さらには︑陳天華の
次のような発言まででてくることになります︒﹁欧米が数百年をかけて達成した
のを︑日本が四十年でそれに追いつき︑日本が四十年を以てできたのを︑われら
一4一
がさらにそれに比例してできないことがあろうか﹂と︒前半の計算は言葉まで漱
石が﹃現代日本の開化﹄で言ったのとそっくりです︒ところが︑話のおちつくと
ころは︑それ(数百から四十に短縮)だから︑危ない︑二敗また起つ能わざ
る﹂破局になるぞ︑と焦慮してやまなかった漱石と︑何と対照の際立ったことで
しょう︒かりに︑陳天華を六年後まで存命させ︑漱石の講演を聞かせ︑さらに対
談までさせたと空想してみましょう︒それでも︑各自の置かれた発展段階と歴史
的課題が違いますし︑そのうえ数千年の中華文明に培われた神経の強靭さと言う
かずぶといところがあり︑漱石らの﹁和魂﹂とか﹁自己本位﹂とは同質︑同スケ
ールのものではないため︑後者の主張を聞かせたとしても︑この当然主人︑超軼
疑いなしの姿勢はビクともしなかったのではないでしょ.うか︒
しかし︑ここに紹介してきたような表現志向上のワン・パターンがあるからと
いって︑後世の論者たちが直訳したように︑当時の留学生たちが明治日本をただ
の新知識のショーウインドウと見ていたのか︑と言えば︑決してそう単純ではあ
りませんでした︒蔡鍔は︑(中国の﹁文明の祖国﹂に対して)日本を﹁東洋史上
に唯一の︑善く学び善く変わる︑進取精神の祖国﹂と位置づけておりますし︑ま
た︑女侠秋瑾にとって﹁東京はわが国の志士の勢ぞろいの場で︑そこに救国の同
一5一
志を捜し求め﹂ることの出来る梁山泊であったのです︒大多数の留学生がここへ
来て﹁尋ね求めるものは︑大抵︑新しい知識﹂(魯迅)だった反面︑"昔の光
り"に浸りがちの排満光復の士にとっては日本はまた﹁なかば異域なかば古昔﹂
つも(周作人)とも映りました︒清朝の禁書を収集・翻刻・密輸などして﹁懐旧の蓄
㍍鎌を鯉べ︑い読えを思う醵た哉鷹を発し︑祖宗の動㌫費翻輝がせ︑大漢の天声を
おこ振さん﹂(留学生誌﹃漢声﹄題辞)とすること︑つまり旧を尋ねて光復をはかる
ことまでできたのが︑この日本という留学先だったのです︒
教育普及にうけた示唆と衝撃
ある留学生が﹁日本の強国になったわけを究めれば︑何人も学ばざるものはな
く︑国民皆兵の二点につきる﹂と言いました︒平凡なようですが︑ここには初期
の留学生や視察者たちの日本印象記の最大公約数が示されています︒
そもそも彼らの日本留学は﹁(何ぞ興るのにわかなるや)伊藤︑山縣︑榎本︑
陸奥の諸人はみな二十年前出洋の学生なり⁝⁝学成りて帰り︑将相に用いられ
て︑もって政治一変し︑東洋に雄視する﹂という一代の名言に刺激されたもので
あり︑一方︑日本に来るまでの視野は今の英才教育の域を脱してもいませんでし
一6一
た︒それが来てみると︑﹁道行く人を通じ男女の学生で十中六七を占め﹂︑﹁賤
しく車夫侍女の如きも字を識らぬものは無く︑暇あれば則ち新聞など読む﹂風景
に出会い︑ひきつけられ︑﹁心ある者で︑羨むから敬う︑敬うから愧じる︑愧じ
るから畏れるのをどうして免れることができよう﹂の嘆声が漏れるようになりま
した︒そういえば︑当時の大量の日本視察記が例外なく日本の教育普及︑民智開
けた様子を伝えていますが︑そこには﹁車夫が新聞を手に︑かつ読みかつ談ずる
ク リ のを見る︑苦力といえども書生風漂う﹂とか﹁朝作生徒暮作商/商人少婦熟相
場﹂(朝は生徒となり︑暮は商をする︑店の若い女も相場に通じる)とかいった
描冩がじつに頻出しています︒(中には中国文人の常套用語の﹁販夫走卒︑引車
賣漿の徒と雖うんぬん﹂をそのまま用いたのもありますが)﹁車夫侍女﹂も﹁販
夫走卒﹂も︑それにまつわる極度の軽蔑意識があったらばこそ︑よけい印象強烈
な開化風景として目にやきついたのでしょう︒ところで︑そういう中で︑若い留
学生の観察眼はさすがに違っています︒
日本の学校の多いことはわが国のアヘン館のそれに似ており︑日本の学生
の多いことはわが国のアヘン常習者のそれに似ている︒(﹃北京新聞彙
報﹄)
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