法華経集成の根本原理
(は仏教思想の根本真理なり︶
伊藤
瑞
叡
一、
問題の所在
法華経が集成︵目収集・制作・編成11定期間段階集成︶されるに
際しては︑基本となる構想があったであろう︒
基本となる構想には︑根本となる原理があったであろう︵〜ぐhat︶︒
しかも根本となる原理に依拠する基本となる構想には︑それによ
る形態・構造・機能があるであろう︵砿︵︶≦言﹇︶︒
そして︑その根本原理は︑仏教思想の根本真理であると↓般的に
証 認されている縁起︵platityE︷sL二nutl︶豊巴と︑如何に関係する
の
であろうか︵whv︶︒
以 上
が本論における設問︵ーぐhat−so what−why︶であり︑以
下 に解答を推求し︑推定仮説を提示しよう︒
しかも仮説推求の前提補助線となるものは︑法華経の重要関心事
として根本解決を企図した舎利塔経巻廟問題にある︑と思う︒
法準経集成の根本原理︷伊藤一
すなわち︑仏陀釈尊の身には︑生滅する生身︵目父母生身日習旬
豆貫.吉−罫さ目随世ge as lokanuvartaka−kfiya︶と不生不滅なる法
身︵11法性生身巳言︼・己o−︹二話ε﹈舎ピ田鯵︶とがありうる︒
−L6 0 V滅trk.t︳ LJ ︵parinirvrtasya paScime kale paScimesamaye︶
残れる舎ff ︵.garila︶にも︑遺骨︵合習已︶なる生as ︵の︶舎利と
所説の妙法︵saddharma︶なる法身︵︵芸巴︒己雫冨累o︶︵の︶舎利と
がありうる︒すなわち身骨舎利と法頒舎利とがありうるのである︒
よって崇拝にも︑ストゥーo︵ ︵=遺骨を安置する︶崇拝とチャイ
トヤ︵‖経巻を安置する︶崇拝とがありうる︒すなわち供養
(prkja︶にも︑舎利→遺骨︶供養と経巻︵sL−itra−pustaka︶供養
とがありうるのである︒
法華経は︑舎利︵1遺骨︶供養←チャイトヤ︵制多廟︶供養11経
巻供養ー経典受持︵ひ口ご・鋤暮午合邑︑㏄11妙法の受持合三目午
dh
ara =saddharma−parigraha︶ ︵における舎利供養と経巻供養と︶
ssの
l ︵ジンテーゼ︶と︑その持続性︵合穗つ︶を明示する.︑
法華文化研究︵第.1四㏄膓
別言すると︑それは︑伽耶近成の生身の有始有終なる生・滅と無
始無終なる法身の不生不滅との統一なる有始無終なる久遠実成の
報身︵呂日90σqo−蚕養︶と持続なる常住不滅とを可能せしめる意
mp ︵sarpdha=abhiprarya︶は︑縁起の理法に根拠する︑と推定せ
しめるのである︒
二︑方便品・寿量品の一対相依関係
成
立論における︵あるいは軽率な概括でありうる︶従来の一般説
では︑例せは︑鈴木宗忠博十説に﹁新層︵寿量品グループ︶は法華
を讃嘆し経が仏であるとする観点より舎利塔を排斥して制多廟を高
調 するが︑これは︵経仏一如を内容とする仏陀を中心問題とする︶
新層が︵開1iR1を内容とする説法を中心問題とする︶古層︵方便
品グループ︶と異なることを示す﹂とある如く︑今経諸品の立場・
内容等の特徴の異同により直ちに新古の層を論断して来た.︑しかし
そ れは性急であろう..
けだし経典集成上の構想の問題として解明しうるからであるtl
立場・内容が異なるといっても︑寿量品グループの経仏一如の思
想は方便品を中心とするグループを前提とするし︑また寿量品にも
r衆︑我が滅度を見て︑広く舎利︵合鋼已遺形としての身︶を供養
し﹂云々とあり︑分別功徳品にも舎利塔︵診﹁一日巳ξ巴を建てて 舎利供養︵公∴言盲︶を説く如く︑寿量品を中心とするグルーアは
必
ずしも舎利塔を排斥して制多廟を高調するとのみ断定しうるもの
てもない︑
それどころか︑二つのグループは根本思想において一貫している
主局面さえある.︑
すなわち方便品グループにおける正法︵Saddharma︶の三義
(d
haima−netrl教法・ご三︵=峯−ご○合一証法・会P冨︼巨行法︶と寿 量 品 に
おける大良薬色香美味皆悉具足と神力品の四句要法とは申し
合わせた如くに一致する︑
また方便品での如来の出ii現於世 ︵卜生︶と寿量品での如来の
入二於浬築 ︵ー滅︶とが︑生滅の道理を対応原理として善巧方便
(u
paya−kauSalya︶との関係で説かれ︑随宜所説意趣︵ω①ヨユゴ甲
bh
$yaa
)として示される意義︑方便品の令三衆生入二仏知見道一と寿 量 品 の教二化衆生一令レ入二仏道一とにおいて︵すなわち仏知見への道
に入らしめるという点で︶合一する︒
よって︑方便品と寿量品とはむしろ同時の層と見るへきであろう︒
したがって全体・本質の動向を看過し部分・隅有を強調して︑新
占の層を性急に断定するのは︑単純枚挙による帰納の誤謬に他なら
ないであろう一︑
したがって︑しかしまた成立論の一般説においても︑例せぱ鈴木
博 十 説
にあっても﹁原始分は古層と新層との結合より成立する︒法
華経原始分は形式上重頒をなしていたのであり︑他の大乗経典と同 様
に始めから書写されたものであり︑大体始めから現在の形で存在
したものであろう︒すなわち古層は宝塔品にあるように明らかに妙
法蓮華法門︵Saddharnia−pui︶︵.laiika dhEn︑mapal︑富吉︶という名
称で一経の形態をなして︑新層は分別功徳品にあるように如来寿量
法門︵弓㏄巳緬σq㏄﹇.題5−ξoヨ鋤宕︵二5=崇二︶邑︑冨吉︶という名称で
古層ほどには明らかでない一経としての形態をなして存在したであ
エゴろう﹂と説くに至る︒
すなわち二十一品を原始分と称するとしても︑それを新古の層よ
り成ると見るにしても︑始めから書写されたもの始めから現在の形
で存在したものである︑とするのである.︑
しかも法華経が二つのダルマ・パリヤーヤ︵︵ご5﹁ヨo己隅葛く巴
よりなると見ることは︑事実であるから適正な指摘であろう︒
筆者の研究によると︑ダルマ・パリヤーヤとは広義には経
(sUtra︶を指示するが︑狭義には序品と嘱累品の一部を除き︑そ
の 主要部として長行と偶頒とよりなる法を分別︵三︑襲げ亨昔︶して
rs. Irs ︵nirdeSa︶する体系を指称し︑ −v mo L︶ dharina−niukha−
pa
ri va
rt
a ︵法門の品︶と同視されるもので重要章品を意味するこ
ともありうるから︑ 一経の中に複数のダルマ・パリヤーヤが包含
されることは︑ありうることである︒
したがって二つのダルマ・パリヤーヤよりなることが直ちに二経
法華経集成の根本原理︵伊藤︶ 層の名称とされるSaddharma−pui︶︵.larika nama dharma−paryaya よりなることを意味しはしない︒しかも新層とされる神力品にも古
(妙法蓮華と名ける法門︶があるから︑O③ユ合①﹁∋③もξ江①ユ奇
(−satra妙法蓮華経︶がl一層に共通する総名ということになろう︒
したがってそれはTatha−gatiiyu$−prani?−ii﹈a ︵−nirdeSa−dharnia−
pa yra ya
如来寿量の説示の法門︶に対して上位概念の関係にある
か︐S︑ TathagatayuO−pramarpa111 Sacldharnia−pui︶darlka ︵/︶根本
となる別相であると見ることが出来るであろう.︑
なお方便品ないし化城喩品の教説の説示が五百弟子授記品に
sa日dhA−bhA$ita−nirdeS.aという合成語で総括されている︒
samdha−bhfi$itaはeka−yFinaであるっniideSaするもの︑する部 分
はd
ha rma−paryay. aである︒−L6 V nirdeSaには︹芸o﹁己㌣亨が
後続するのが︑dharma−p°には三己o留の語が直前するのが︑そ
れぞれ相応する︒
かくして筆者は次のような図式を仮定する.︑
Saddharma−puodarika nama dharma−paryAya
=Maha︵−dharma−saddharma︶−nirdeSa
口習①合一①・コ声p︒℃︒量之鯵.一
[雪鰭諌誘魂誘⁚σ鷲詩霞
dharma−paryAya
法準文化研究︵tk・・L四口2
なおまた鈴木博十説に﹁両層は内容上で︵したがって宗教の本質
より見ても︶異なっている︒すなわち田主役は共に仏であるが︑副
役
が古層で声聞︑新層で菩薩と相違する︑②古層では声聞が菩薩と
なって成仏する︵信の教に慧の教の香が残る︶が︑新層では衆生が
そのままで成仏する︵純粋に信の教である︶︑③主役の仏たる本尊
が 古 層 で は 応 身 であるが︑新層では報身となる﹂とある︒
しかし︑右のω②③の内容の対比的な異なりは︑内容構想の問題
でもありうるから︑必ずしも新古一︑層の新・古を区別する論拠とは
ならないであろう︒むしろこの対比がいかにも対比的であるところ
に︑二層の作為的なる統1を予想せしめl体性を推定せしめる︒す
なわち二つの層は一方の層を欠くならば相互に不完全となる︒よっ
て︑方便品と寿量品とは一対相依関係にある︑と別言しえよう︒
さらにまた博士説に﹁両層の結合は結△﹇の初めとしての序品と終
りとしての嘱累品とによる︒すなわち序品はω妙法蓮華教菩薩法仏
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
所 護 念
法門という点で教菩薩法は古層の法華法門を含み仏所護念は
新層の寿量法門を含み両層の法門を総合する︑②役者という点で初
め に古層の副役の声聞を後に新層の副役の菩薩を列ねてl.者を総合
し終りで文殊弥勒の問応を示す︑③経題の解釈という点で妙法蓮華
教菩薩法仏所護A︐心法門であるから古層の菩薩︵妙法の蓮華で蓮華は
菩 薩
である︶と新層の仏︵妙法が蓮華で蓮華は仏である︶とを総合
するからであり︑嘱累品はω役者という点で古層の霊山会と新層の
q
虚空会とを含んでそれぞれ総合する﹂とある.
しかし︑序品と嘱累品とがω②捌などの諸点において二つの層を
総合している美事さは︑一古経にその序品と嘱累品とを除去して一
新経の主要部分を附加して新たに序品と嘱累品とを結合したことを
示すのではなく︑むしろ二つの層の制作集成の同時性と二層をもっ
てl経を構想する智巧性とを暗示する︑と見る方が自然ではなかろ
うか︒巧而且過の過にのみ拘泥してはならない.︑
なお教菩薩法を古層の法華法門に︑仏所護念を新層の寿量品に対
配するのは︑一見して合理ではあるが不当である︒教菩薩法と仏所
護 念
は同格であり︑新古の何れも含意する別名である︑と見るべき
であろうからである︒
以上はつのダルマ・パリヤーヤよりなる相依一体性を示す右の
図式を傍証するものであろう︒
かくして一対相依関係を表示しうる右の図式は︑法華経集成の基
本的構想の根本構造を明示して︑構想の根本原理の何かありうるこ
とを示唆するであろう︒
三︑奉献塔の縁起法頒︵11法舎利11法身偶︶
塚本啓祥博十は︑奉献塔と縁起法頒︵−−法身偶︶
い
て説述されている︒要約すると︑左の如しU 銘刻の流行につ
後世における法身観の発達と縁起法頒銘刻の流行は仏像彫刻の発 生
に伴って支提堂における塔の前面への仏像彫刻︑次いで支提堂に
おける塔の消滅と壁面に対する塑像の発生︑さらに支提堂における
仏像の安置︑という建築上の変遷とも密接な関係をもっている.
次に︑法華経に現われる宝塔には︑法華経の仏身観が象徴的に表
現されるが︑その構造には︑比較的低い基壇をもつ覆鉢状の塔から︑
筒状に延長された基壇をもち︑覆鉢が基壇の中に沈む傾向を示すク
シャーナ時代以降の建築上のモティーフを反映している︒
サ−ルナートの奉献塔で出±した仏陀の生涯の場面を表現する石
ヘ ヘ ヘ へ
板 の 裏に︑縁起法頒が銘刻されている︵サールナ−ト石板銘文︶︒
縁起法頒は1・1−四世紀のブラーフミー文字で記され︑il.:語は︑︐語の
梵語形を含むパーリ語で銘刻されている︒諸法︵存在するもの︶は
因
(なる縁︶によって生じる︑その因︵なる縁︶について如来は説
か れた︒そしてその滅もまた︑偉大な沙門はこのように示した︑と︒
これと同文を銘刻した碑銘を他に一六六例を挙げることができる︒
また︑シャコーリ︵スワート︶出土石刻銘文には︑これまでの縁
起法頒と異なって︑ああ︑諸行は無常である︒生滅の法よりなる︒
生じては滅する︒それらの寂静は安楽である︑と銘刻されている︒
これは漢訳で一般に諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽と記
されるのに当る.︑
縁
起法頒の銘刻は︑グプタ以前では一例にすぎないが︑グプタ期
法準経集成の根L不原理︹伊砧ご
以降︑その数が増大している︒義浄は﹃南海寄帰内法伝﹄︵大正五
四二...六下︶において︑仏塔に身舎利︵大師の身骨︶と法舎利
(縁
起 法頒︶を奉安した..種を区別している︒前者はいわゆる仏舎
利塔であり︑後者は経巻を安置した奉献塔に当る︒
その縁起法頒とは︑義浄によれば︑諸法は縁に従って起こる如
それら来は是の︵11諸法の︶因︵なる縁ー縁起︶を説く︒彼の法は縁に因っ
つ
て 尽く︑是れ大沙門の説なり︑となる︒
これによって︑初期仏教において︑在家信者によって崇拝された
仏舎利塔の建立・供養は︑その流行とともにやがて僧院内にも導入
されたが︑法身観の発達に伴って︑法舎利塔の建立・供養も行なわ
れたことが推定されうる︒
筆者は︑右記の中︑後世の銘刻における縁起法煩の流行が指摘さ
ヘ ヘ ヘ ヘ へれた点に着目したい︒ことに仏陀の生涯の場面を表現するサールナ−
ヘ ヘ ヘ ヘトの石板の裏に縁起法頒が銘刻されている点を注意したいのである︒
その原文にはye dharmt−i hetuprabhava heti/i te$a− ip hy avada﹇t﹈
te
sam yo niroddho三 evaipvt−idi maht−iSramaipahとあるc﹈
縁 起法頒は原始仏典︵さミ忘゜L pp°401 41︶ではアッサジ比丘
の唱えた詩句で︑これにより舎利弗は目を開いたとい・㌃縁起法
頒は縁起︵11縁生︶偶ともいう○仏教の根本義である苦集滅の二
諦
(すなわち苦の生・滅の道理︶−法身の舎利を説くから法身︵舎
利︶偶ともいう︒縁起は甚深法︵ぴq㏄旦︶巨﹁午穿零∋㏄︶であり四聖
力
法華文化研究︵第..:− Z :Lh ︶
諦は最勝説法︵ω鋤ヨ巳合日☆ひ芸鋤︹lhcftMmaみτ゜⊂oコ翻︶であることが想
起されよう..
しかも浬繋経に仏法の大綱として説かれる雪山偶︵11諸行無常
偶︶に﹀巨つ3<箕o°︒O≧合巴鋤已三あユローベay. a−dhaniniino︐Uppajjit之均
nirujjhanti︐ t.esa日﹈ v口pasaino sukhoti° ︵Di.qlia−nikdya. II︐ p°157︶
実 に 諸 行 は無常なり︑生と滅とをその本質とするものなり..生じて
は 滅 するものなり︐︑これが寂静は安楽なり︒︵諸行無常 是生滅法 生滅滅巳 寂滅為楽︶とあるのに︑意義上︑照合する︒
なお方便品の第六卜八行道偶前半と寿量品の第三常住此処偶もま
た同義異偶と看倣しうるから比較対照を要する.︑
四︑縁起の法と如来の生・滅
この生・滅の道理としての縁起の法と如来の出・現於世と︵方便︶
現 浬繋とが︑論理の必然として︑奇しくも照合する.︑
この点において︑筆者は︑左の如く思索し推考︵デンケン︶する︒
すなわち構造機能分析︵誓=弓ご鯵=?unctional Analysis︶をなす
と︑左の如vなる..
ω
諸法︵11苦︶は︵因なる︶縁︵によって︶生︵じ;順観
anuloma−pratr avek.sana T流転門︶︵因なる︶縁︵によって︶
滅
(するもの目逆観℃︼・撃︷言己苧竺目還滅門︶である︒
原文の生・滅の因︵古㊦﹇口 ︹否ω◎ゴP︶の因 ︵hetu︶は縁起を指
称する︑とも解釈できる︒
② 諸法︵11諸行︶は生・滅のV︸.︷. ︵uppada−vaya−dhammin=−−l と滅とを本質とするもの︶である︒
③ この生滅の︵法の︶yt2 sw t1 as起 ︵pratityasamutpAda︶と 称される.︒
国
そ れ は 偏 所 説 の 妙法︵鶏合冨巳5︶であるから法身
︵⌒亭o号∋酔忍ぺo・舎利︶とも称されよう︒
捌 これ︵11因なる縁による生と因なる縁による滅11生滅の法の 道
理 法身︶すなわち生滅の︵法の︶道理を仏陀の生涯に対配
すると︑如来の生11出現︵11成覚出世筈三8旦三︹六一︸511
出=現於世三6已εoユき宕︶と如来の滅=入滅 ︵1当L入浬
藥11入於浬磐℃巴.﹇己ヲく助ロ①︶の−EEIss ︵ ﹇的prayojana︶
は何かという設問になりうる︒
⑥
法華経は︑如来の生=出現於世11成覚出世の目的は何かを方
便 品 の 主 題となして十如︵ 五何︶実相・四仏知見を説いて︑
三乗のssl−k ︵tri−yana−nirdeSa︶を善巧方便︵ξ鋤養−言已鐙‖
lya︶なりと明し︑真実として一乗を示し︑如来の滅− em入浬
繋11入於浬繋の意義は何かを寿量品の主題となして久成を明し
て︑もって伽耶近成の生滅の如来が方便垂 であり︑︵文上随
他意の︶久遠実成︵によって示される文底随自意︶の常住不滅
︵sadasthita aparinirvrta︶ g如来が真実本地であることを解 答とする︒
方便︐現﹂浬繋.︵‖当L入浬磐製日90江℃三日口惹︼届己
ぐyaharatiなどと方便説r法ぐ註餌∋▽ξ婁①己して浬藥地を示
現
するnirぐanam eupadarSayfimi︶とあるを思うべし︒
E しかも方便・寿量の二品は共に善巧方便︵upaya−kauSaly. a︶
を基軸用語とし︑令衆生入仏知見道を唯一の合目的々作用
︵eka−prayojana= 1大事因縁・一誼︶とし随宜所説意趣
︵saヨdha−bha$ya︶を根本概念︵合①○巨︼己ご㊦σq︼︑ミ︶とする︒
しかも如来神力品はの①日ユ︸莇bh5syaを釈名︵巳巨オご語義解 釈︶して︑そのωo日匹︸忌−N anusarpdhi ︵因縁・次第・所帰︶
にしてsatrarpa⁝bhuta artha ︵諸経の真実義︶なりとする︒
すなわち方便・寿量・神力の三品は必然的︵にして内的な︶
結合関係にある︒
⑧ かくして二乗を示す︶方便・二仏を明す︶寿量の二品が
lma ︵=gambhira−dharmaなる縁起︶の道理によせて説かれ︑
ヘ へ ヘ へ
それを対応原理としてl対不可分の相w関係 ︵生滅即常住11を
示 す関係︶にあることを知る︒
⑨ この法華経の方便・寿量の二品相依のパラダイムは︑その発
想 の
起因が﹁︵仏陀は何故に世に出現し何故に入滅するのかに
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
要約される︶仏陀の生涯﹂の場面を表現する石板裏面に銘刻さ
法華経集成の根本原理︵伊藤︺
れるにいたった縁起法頒︵11法身舎利偶︶にあると推定し︑原
拠 が 法 頒 に
おける生滅の道理にある︑と推求することを要請す
るであろう︒
皿
すなわち法華経は︑仏伝における釈尊の生滅の意義を︵無常︶
ー︑︑
縁
起
(‖法性︶の見地から常住を示すものなり︑と開顕したの である.︑
塚本博士説⑮ωの﹁久遠実成の本仏︵一真実11無始無終の法身11
本地︶と伽耶近成の釈尊︵11方便U有始有終の応身11垂 ︶とは︑
異なった1つの存在と1つの時間に対する認識の結果ではなく︑同
lの
存在と時間に対する異なった立場からの認識であり︑究極にお
い て
仏陀の認識︵真諦︶に統合されている﹂と見るのは︑適正かつ
高度な洞察による所見である︒
なお私見によれば︑異なった立場とは︑天・人・阿修羅を含む世
go ︵sa−deva−mAnu$iisura loka︶ g所知︵°・o日盲つさ︶と︑法華経
会座のea﹇rwex ︵bodhisattva−gai﹈a︶ g所観︵︵写窃冨べ苫︶とであり︑
世間の所知対象が伽耶近成であり︑菩薩衆の所観対象が久遠実成
(←常住不滅︶である︒
かくして法華経の主題の一つは︑如来の常住不滅︵°︒o︹断のけ三9
paa
rinirvrta︶ 常住此説法︵h仏陀の常住︶・我浄土不殿︵‖仏土
の常住︶を信解し信受することのできる︑浄業︵巴げ︸峯六〇﹁日9︶
によって柔和質直︵ヨ言⊆∋曽旨く巴となれる心︵ご↑巴を明示
ヒ
法華文化研究︵第.1四口竺
することにある︑と知るのである︒
また法華教学の教相によると︑久成の本仏は常住不滅と示されて
常住なる報身であり︑報身︵智︶の所証︵すなわち実の如く知見す
る三界の相︶が常住なる法身であり︑久成の所知・所顕はいわゆる
法身すなわち素法身でも単法身でもなく︑r所作の仏事未だ曾て暫
Vも廃せず﹂と示される常住なる応身をも統↓して︵実在する己心 ほんこくほっしん
の
釈尊︶︑常住三身・無始の古仏である本極法身︵介此土有縁深厚
本有無作三身の教主釈尊U当位即妙本有不改の当体蓮華仏︶である︑
という︒
かくして法華教学の究尭するところは︑如来秘密神通之力
(mamAdhi$th巴na−ballfidhana︶と常住..一身の法門︵﹂5巴︑己o−
niukha︶との内的関係を示す教相にある︑と思われる︒
五︑方便寿量二品の一対相依関係
と如来神力品の語義解釈
さらに多少︑検考しよう︒
it力Dgの sarpdha−bha$ya gast﹀P ︵samdhaya yam bhasitu︶ S
﹀︿Hli ︵sa日dh2=anusamdhilsatrAi﹈a bhL−ita arthaを知るpra
、 ヘ ヘ へ 百巴は︑神力品に先行する諸口㎜におけるsamdhfi−bhA$ya g samdha S意味するところを指す.︑すなわち方便品の﹁切p目工庁甲
bhfisya ︵随宜所説意趣︶を識別︵<一−︑百助︶して︑その一乗たる
ノ\
ヘ ヘ ヘ へSaddharmaを聞信するなら︑声聞・独覚といえども︑菩薩なの
であり︑成仏するであろう﹂︵声聞←菩薩ー成仏︶という帰結と︑
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ寿量品・分別功徳品の訂p己合旬三局乏㏄を深心もて聴聞し受持し
て︑その意趣である不可思議︵ac;tya︶なる寿命無量︵︹芭〇三日︹.‖
yAu.s−prElnlt−︶rpa︶たるSaddharmaを識別し信解するなら︑仏智を
成就するべき福徳のRH用 ︵purpyabhisamsktMira︶を生ずるであろう﹂
(善男子・善女人・菩薩←成仏︶という帰結とを予想し承受してい
ると理解して︑はじめてその意味するところと理念の体系が完結し
うる︑と判断することのできる文脈の中に位置する︒
要するにσゴロ冨①﹁↓ゴoとはSaddharma S︿:意する一乗・久成︵n
常住︶などを指称する︒
方便・寿量の二品における共通項を要約すると︑法華菩薩道の根
本は︑著相︵llimitta−sanljl−IA︶することなく深心︵鯵島芸鋤鐙く㏄︶を
+5︶ 0 V;H︷E﹇ ︵dharma−paryaya︶を聴聞︵﹁9︑巳して︑Sa日dha−
bh
$A ya z随宜所説︵三乗・近成︶・意趣︵一乗・久成︶を識ff ︵vi−
へ−盲餌︶して疑︵汀己︵留︶を去り︑意趣︵samdhFi︶である衆生を 仏知見への道に入らしめ ︿P SaddharmaT 1乗・久成︵11常住︶を
信解︵srad−V−dha︐ adhiへ muc︶し受持︵鋼巳萄毒︶することにあ
る︑と知られる.︒
今経における根本的にして不可分なる対応性が︑第︑類の方便品
におけるOたw三巳︸ピ︹ヨ0110力①日⊆ご鋤吉古留ピoドつ岸oプ﹇己三匡豪鋤コ①と︑
第二類の寿量品におけるSaddharma=SamdhfibhA$ya=tathaga−
ta
yu
$−pramarpa == sada sthita aparinirvrtalとであり︑それを底礎
するものとして神力品におけるOΦヨ穿甲σコぼく③の語義解釈
(=nirukti釈名︶−V Saddharmaたる四句要法が看取される︒
六︑縁起法頒と順逆二観と大悲随順観・常住不滅
ここでは縁起法頒と如来の生滅・常住不滅とを縁起の順逆二観を
もって分析してみよう︒
すなわち﹃十地.nj$. ︵AryadaSabhu−mi=vyakhyana︶﹄における
縁起観をもって配釈すると︑如来の出現︵11生︶は縁起の↓切相智
︵Rffgy ︵rnam pa thams cad yofis su rtog pa=gr ax anulorna−
pr
at
ya
ve
$ka
na
−流転門︸≒g言三−ヨ已オ︸田︶に︑如来の入滅は厭離
有為観︵11逆観葺巴二〇∋p−戸11mp滅E: nivrtti−mukha︶に︑それ
ぞ
れ相当するであろう︒
そして如来の生・滅を方便︵upaya︶とし如来の︵生・滅=︶不
生 不 滅
(11生滅滅已︶︵11一乗・﹈仏︶ =常住不滅︵8合菩三S
paa
rinirvrta1寂滅為楽︶を真実︵−Saddharma妙法︶と見るの
は︑大悲随順観︵巴巳ユつ巳芦⁝こ#一ロ嘉﹁ぺo曇c︒F=−tog pa =順逆
和合観?︶に相当するであろう︒
応身なる伽耶ps2成 ︵−k:−現於世︶の釈尊︑その本地としての報
法華経集成の根本原理︹伊藤﹀ そ身なる久遠実成︵11方便現浬葉この釈尊︑その生・滅は即︑不 一τ ま三生・不滅︵11而実不滅度︶の法身なる縁起法性である︑と観察
p(r
at
ya
ve
ksfic rpa︶されるのであろう︒
それは︑伽耶近成が世間の知るところに対して︑菩薩gK ︵bodhi..
sa
tt
va−gqana︶ S所観︵今塁冨べya=huddha−darSana︶である︒
それは応身‖報身と一体となれる法身としての常住︵不滅︶は︑
したがって三身即↓常住であり︑久成の報身を正意とする︒よって︑
単法身・素法身ではなくして︑論理の帰結として︑本極法身ともな
るであろう︒
七︑方便品の長行と寿量品の常住此処偏
次
に法華経の要文の中︑縁起の順逆二観を観点として︑照合が可
能となる︑方便品の長行と寿量品の常住此処掲を摘出して︑二品一
対の可能性を傍証しよう︒
方便品の長行にコ5 何故かというに︑如来応供正等覚者︵すな
わちわれ︶は如来の知見を開く者⁝⁝如来の知見を示す者⁝⁝如来
の
知見に入らしめる者⁝⁝如来の知見を悟らしめる者⁝⁝如来の知
見への道に入らしめる者である︵︹妙L但教−化菩薩︒諸有所作一
常為一事︒唯以仏之知見示悟衆生︑﹁正︺以無極慧而造大
業︒猶一空慧︒以無蓋哀興出干世︒如仏所行︒所化利誼亦
法Ψ文化研究二4ー..卜四引2
復如.︐是︒而為説法︒教諸菩薩現真諦慧︑.以仏聖明而分.別
之︶︵から︶︑諸衆生をして如来の知見を開かしめる⁝⁝如来の知
見を示す⁝⁝如来の知見に入らしめる⁝⁝如来の知見を悟らしめ
る⁝⁝如来の知見への道に入らしめる⁝⁝︵﹇妙﹂欲令衆生開仏
知見一使ン得・清浄−故出−現於世.︑欲 t示衆生仏之知見故出・現於
世一︒ta t令衆生悟仏知見故出・現於世︒欲レ令三衆生入二仏知見
道 故出二現於世 ︑︹正﹂以E用衆生望相果応勧.助此類出現干
世︒黎元望想希−求仏慧出・現干世︒蒸庶望想如来宝慧出・現干
世︒以如来慧覚群生想出.現丁世︒示・梧民庶八正由路使L除
望
想出現十世︶︵という︶一の作事・一の作用大なる作事・大
なる作用︵という唯一のくa﹇﹇II的tySEff eka−prayojana 1大事因縁・
一誼︶をもって世に出現するからである︵つτ㌣言.ごつ9⁝eka−
ka ranlyena⁝loka utpadyate niaht−i−krtyena niahA−karaiMyena
一妙﹂以一二大事因縁一故出二現於世一︑﹇正一所興世嵯歎一事為大
示現皆出一原︑正覚所副ハ悉為一誼︶︒6われは実には一乗
に つ い て 衆 生 に
法を説く︒すなわち︵一切智性を究寛とする︶仏乗
( に つ い て法︶を︵説くの︶である︵つ言∋︵ξピさ己⁝之巴日∋
弩︹二︺ξo°・pこ急忌目エ︸さ﹈・ヨo目牙留葛∋一旨ユ三ロ日ひ巨︹芦o−
葛奏目\コ三くim−eic..°巳誉吉日£ε﹁養日5冥習︒己samvidy. ate/
〔妙一如来但以 一仏乗故為衆生説法︒無r有余乗若一.若三︑
〔正﹂転使し増進唯大覚乗︒無有一.乗況三乗乎︶﹂とある︒
また如来寿量品の長行にコー2一如来はかくも久遠に現等覚したの
であり︑無量なる寿命をもち常住であり︑般氾磐することはないが︑
如来は般浬繋を︵諸衆生を︶調御するために示現する︵9ep?
cirfibhisaipbuddho parimitayus−pramaoas tathagatab sadfi
st
hit
ha
/ aparinirvrtas tathAgatah parinirvariam fidarSay. ati
<巳コ婁午く旨攣\﹇妙﹂如是我成仏巳来甚大久遠︒寿命無量阿僧祇
劫常住不レ滅︑﹇正一現這得r仏︑成平等覚巳来大久.︑寿命無量常
ヒ ヘ へ
住不滅度︶︒﹂とあり︑重頒に﹁② われは多くの菩薩を勧発し
て︑まさに仏の智に安住せしむ︒多憶那由他の衆生を多億劫にわたっ
て︑われは成熟せしむ︵L妙﹂教化 無数億衆生 令レ入il於仏道
爾来無量劫︑﹇正一勧助発起 無数菩薩 皆建・立之 於仏道
慧 無数億劫 開導衆生 億千核数 不可思議︶﹂とある︑t
ヘ へ
常住此処侶に﹁θ またわれは衆生を調御するために方便を説き︑
浬 薬 地を示現するが︑しかしわれはその時には浬築︵11滅度︶せず︑
ヘ ヘ ヘ へ実にはいまここにおいて法を顕説する︵巳﹁畠︼遠﹂旨g∋5っ.
pua
da
rS
yaAmi vinayintha sattvfina vad.imr upAy. am/ na capi
三署鋤ヨペ巳三狂誓山∨=︷cile ihEfiva co dharmu praka−SayAmi//3//
一妙一為レ度二衆生一故方便現二浬藥︸而実不二滅度一常住レ此説レ法︑
[正一而為示現 立十滅度 以教化誼 導・利衆生 用権方
便 而現滅度 故為衆人 演斯法典︶﹂とあるのは注意を
要するr
方便品の標出世本懐の文に説く如来の出二現於世一は縁起法︵11生 滅 の
道理︶頒の﹁因なる縁より︵11衆生をして仏知見の道に入らし
め
んと欲するが故に︶生ずる﹂という生の道理である順観に相当す
る︒
また寿量品に説く︵方便︶現浬繋 ︵ー入二於浬築一︶は縁起法頒 の
F因なる縁より︵日衆生を度せんが為の故に︶滅する﹂という滅
の 道 理
である逆観に相当する︒
しかも如来は寿命無量⁝常住不滅にして而実不滅度一常住此説法
である︑と云う︒常住不滅とは別言すると不生不滅ということであ
る︒
ところで諸行︵すなわち諸法︶は︑生・滅を本質とするもの
(uppfida−vaya−︵ihaniinin︶であるという︒この生滅︵已℃葛ユ?
va
ya
)というのは︑﹁生ずることなく滅することのない︑いわゆる
−1︵−pt ︵dhamma;dharma︶﹂である︑というのである︒
ヘ ヘ ヘ へ
すなわち生・滅という事実は生滅することのない真実︵1ーダルマ︶
である︑と知られる︒
そ のダルマは︑すなわち縁起であるというのである︒
八︑方便品の行道偶と寿量品の長行
更に照合の可能となる方便品の行道偶と寿量品の長行とを摘出し
法ぴ甲経集成の根本原理︹伊必ご て︑二品一対の可能性を傍証しよう︒ 方便品の行道偶といわれる六八掲に﹁これら諸法は常に滅度せるものであり本より寂静︵一寂滅︶である︵﹇妙﹂諸法従二本来一常自寂滅相︑︹正 常解滅度令一切法皆至寂然︶と︑われは説く
(c
a bhAsamy ahu nitya−nirvrta adi−praSanta imi sarva−dharmab︐
iir
sa ni chos rnams bdi dag kun//gdofi nas rab shi mya iian rtag
hd
as bSad︶﹂とある..これは方便の根抵にある仏陀の正覚の真実
性を示す︒それ故に証法たる工言ぺ∋午゜︒<鱒江習午∋已口品の説︵示
証︶明ともなっている︒そして仏陀のこの証法を根抵とし﹁仏子は
行を成じて︵8﹁<倒ヨ...p口riya buddha−putro.〜spyod pa kun
id
sogs nas L妙﹂仏子行レ道已︶﹂この証法を得るから︑﹁来世に作 仏 することを得ん︵oS7Q茸o.︹芦く餌三二冨oご︸田く﹇望︹三︐ phyi mahi
dus kyi rtshe la rgy. a1ben hgyur t妙︺来世得一一作仏一︑t正︺当来 之 世得ン成最勝︶﹂ということになる︒
また101・1011・ 10三偏に左の如くある.︑
皿
かれらは多千億の法門を未来世に顕説するだろう︒この一乗を
示しつつ如来性において法を説く︒
dharma−mukh.ft− koti−sahasrlaneke︐ prakASayi$yanti anUgate
dhve1
upadar.gayanto imam eka−yana∋︐ vak$yanti dharmaip hi
tath鋼gatatve=101=
法華
文化
研究
帰膓
1
四り
chos sgo bye ba stofi phrag du ma dag // ma hohs dus na i︐a︸︶
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theg pa gcig po hdi ni mfion ston cih // d︵二︶shin gSegs pa i−iici
du chos ston hgyur //
未来世諸仏 難﹀説百千億 無数諸法門 其実為一乗⁝⁝仏
種従レ縁起 是故説一乗
無
量法門 億千核数 当来最勝 之所講説 諸如来尊 当宣布法
是則得見 諸仏正教
㎜・の法脾常に安住伯存剰し諸法の本性は常に明浄である
︵ことを︶︑諸の仏・両足尊は知って︑この︑乗を顕説するであろ
引︒
sthitika hi e.st−a sada dharma−netri︐ pralgtiS ca dharm◎ロa sadt−t
prabhfisくarA ﹇
viditva buddha dべi−padanam uttamt−i︐ pi︑︹豪助診覧C・町窪○﹂コ邑∋
Okay鋤nam=lo2=
chos kyi tshul bdi rtag tu gnas pa dah 11 chos kyi rafi bshin
rtag tu hod gsa1 bai=
rkari gfiis dam pa sai!s rgyas rnams mkhyen nas 11 da yi theg
pa gqcig ces ston par hgyur=
諸仏両足尊 知法常無性一⁝⁝
諸 法
( 仏︶本浄 常行白然 此諸誼者 仏所開化 如両足尊
乃分別道 故暢斯教 一乗之誼
剛 この世間にあって常住にしで不動なる法住︵い常住なる法の必
然的安住性︶・法位︵−不動なる法の必然的決定性︶を︑︵すなわ U
ちこの︶菩提を地上の道場において正覚せるものたちは︑善巧方
便を.顕説するだろう︒
dha
rma−sthitiip dharma−niyAmattlヨ ca︐ nitya−sthitArp loki 日冠∋巴6︼三受㈱∋一
bu
dd hA S ca bodhini pvthiviya mande︐ prak︸−a.gay. i.$yanti u︶t−iya−
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au誌aiai昌=103=
chos kyi gnas riid skyon med chos iiid ni 1=﹈jig rton bdi na rtag
t.u nli gyo 11as=
sa yi sr−iiil por byari chub sahs rgyas te=thabs la mkhas pa stin
tU stoll pal bgyur=
是法住二法位﹁世間相常住 於道場知巳 導師方便説
諸法定意 志懐律防 常処干世 演斯讃頒 毎同讃説 善権方便
諸最勝尊 志意弘大
なお如来の説くところ諸法従本来常自寂滅相は︑如来の三界を如
実 に 現見する︵︵ご.㏄言日︸二ε葺鋤窓︸ぢゴ︹︸ご巴三話ε片㏄己ピ①↑古鋤−
bhatam︶ところとして︑寿量品に詳細に﹁如来は三界を︑生ぜず
死
せず︑退せず出でず︑輪廻せず滅度せず︑真実ならず非真実︵11
虚妄︶ならず︑有︵H実在︶ならず無︵11虚無︶ならず︑如にあら
ず異にあらず︑虚偽にあらず非虚偽︵‖真実︶にあらず︑と如実に 現 見 する︒如来は諸の愚人凡夫が見る如くには↓.一界を現見すること
はないからである.︑如来はこの事について現証するという本質的属
性を具え忘失しないという本質的属性を具える︒そこで如来が説く
ところの語はすべて諦であり︑虚妄なるものでなく︑異偽なるもの
でない︒しかしながら種々の行︑種々の欲︑想・妄分別ある行を有
する諸衆生に︑善根を生ぜしめるために︑諸種の法門を諸種の所縁
をもって説くのである︒⁝⁝まさしく如来は如来によって作される
べきことをなすのである︒︵﹁妙︺如来.︒如実知見三界之相︒無レ
有二生死若退若出一︒亦無二在世及滅度者 ︒非レ実非レ虚非レ如非レ異︒
不如三界見於三界︒如﹂斯之事︒如来明見無〆有錯謬︒以諸
衆生有種種性種種欲種種行種種憶想分別故︒欲令生諸善根︒
以
若干因縁警喩言辞種種説法︒所作仏事未曾暫廃︑︹正一如来
皆見 一切三界︒随其化現亦無所行一︒亦復不生亦不周旋︒
亦不滅度不レ実不有︒亦不本無一不し知不〆爾︒亦無虚実亦不
三界如来所〆行不〆見三処︒如来普観一切諸法︒在於某処
不﹂失諸法・︒一切所説至誠不虚︒衆生苦悩不苛称限・︒行若干
種 志
性各異︒思想諸念各各差別︒欲㎡令衆生殖衆徳本一︒故為分別
説 若 干法一︒又如来所当作一皆悉作乏︶︒﹂と説示されている︒
世間所知の三界は生・死あり退・出ありの生滅の相である︒しか
し如来の如実知見の所観は︑生・死なく退・出なくして不生不滅の
法華経集成の根本原理︵伊藤 相である︑というのである︒ ヘ へ
無有生死若退若出⁝非実非虚非如非異は行道偶の従本来常自寂滅相 ヘ へ この中︑三界︵之相︶は行道偶の諸法に照合して順観に相当する︒
に照合して逆観に相当する.︑
ヘ ヘ へ も
かvして︑如実知見された諸法従本来常自寂滅相は大悲随順観︵‖
順逆和合観?︶に︑仏子行道巳来世得作仏は厭離有為観︵11逆観還
滅門︶に︑それぞれ相当する︒
仏
種従㎡縁起は仏子行道巳来世得作仏の根拠を示し︑法常無性
(11諸法本浄︶︑法住法位世間相常住は諸法従本来常自寂滅相の意義
を明す︑と看倣しうる︒
以 上は二品一対の可能性を傍証するものであろう︒
九︑
生「死1大事血脈紗﹄等に見る
生
滅即常住︵11不生不滅︶
の
論 理
ところで日蓮聖人の著とされる﹃生死一大事血脈⑳﹂には生滅即
常住︵11生滅の道理11縁起11法性︶に照合する論理が明示されてい
る︒左の如し︒
ニ ニ 御状委細令披見一候畢︒夫生死一大事血脈者︑所謂妙法蓮華 経
是也︒其故は鐸迦多賓二佛實塔の中にして譲上行菩薩一給︑
此 妙 法 蓮華経の五字過去遠遠劫より已來寸時も不〆離血脈也.
カ ノ コ コ
妙
は死︑法は生也︒此生死の二法十界當饅也o又此云當髄蓮
法萢文化研究二41.卜四号︺
ノ ハ
華也︒天台云 當﹀知依正因果悉是蓮華之法 二︒此稗に依
レハ ノ ナル
正と云は生死也︒生死有レ之因果又蓮華法事明けし︒傳教大
ノ ノ ノ ノ ノ ノ
師云 生死二法一心妙用 有無二道本貿眞徳文︒天地・陰陽・
日月・五星・地獄乃至佛果︑生死二法に非ずと云ことなし︒
ご ノ
如.︐是生死も唯妙法蓮華経の生死也︒天台止観云 起是法性起
ノ ノ レ
滅是法性滅云云︒澤迦多實二佛も生死の二法也︒然者久遠實成
ノ ク ント
の 繹 尊と皆成佛道の法華経と我等衆生との三全無一一差別一解て︑
ヘ フ
妙 法 蓮 華
経と唱奉る虚を︑生死一大事の血脈とは云也︒此事
但日蓮が弟子檀那等の肝要也︒法華脛を持とは是也︒所詮臨
終只今にありと解て︑信心を致して南無妙法蓮華純と唱る人を︑
是人命終爲千佛授手令不恐怖不堕悪趣と説れて候︒悦哉非
一佛二佛 非百佛二百佛 千佛來迎し取手給はん事︑歓
喜の感涙難L押とある︒
すなわち右の文中︑﹁生死︵の二法︶﹂即﹁十界の︶I体 ︵−当体蓮
華︶﹂︑F生死︵の二法︶即一心︵の妙用︶﹂︑F有無の二道﹂即﹁本覚
の真徳﹂l r−:死﹂即﹁妙法蓮華経︵の生死︶﹂︑r起滅﹂即﹁法性
(の起滅︶﹂︑﹁生死︵の二法︶﹂即﹁釈迦多宝の二仏﹂は︑いずれも
F生滅﹂即﹁常住﹂︑﹁生滅の道理﹂即﹁縁起の法︵11法性︶﹂の論理
に 照合し類通する︒
また久遠実成の釈尊は逆観︵−−厭離有為観︶に︑我等衆生は順観
(11切相智分別観︶に︑皆成仏道の法華経は順逆和合観︵11大悲
四
随順観︶に︑それぞれ照合し類通する︒これらは分析判断︵oづ011
yil
c j
ud
gnient︐︶である..
しからは︑コニツ全く︑差別無シト解て︑妙法蓮華経と唱へ奉る
処を生死一大事の血脈とは云フ也﹂とは︑総くU判断 ︵sy. nthetic
ju
gdnient︶であり︑その実践哲学︵pl︑aktische Philosophie︶と
して意味するところは甚深なるもの︵σQ︐p∋三5︐知︶がある︑と云え
よう.一
すなわち︑あるものが現に存在しているということ︵つxlst勺nつ否︶
は︑そのものの概念︵句ssenc勺︶を分析しても出てこない.︑理論理
性︵︼三弓SVTeinunft︶による分析判断てある︑本仏の概念からは︑
本仏の存在は引き出せないのである︒よって︑カントの云う実践理
$ti ︵piaktische Vernunft︶ g要請︵postulate︶として︑本仏への
信解︵⑳︼・Oユユロ鋤←江ユ︸︼一ゴ亘ukti︶が成り立つ︑総合判断としての道徳
論的証明を必然とする︒
よって︑生死一大事血脈とは︑まさしく実践理性としての道徳的
意 志
にとって本仏は存在しなけれはならないとする︑理性宗教の道
徳宗教への転化を含意する実践哲学の樹立を意味するであろう︒
なお日蓮聖人講説にして口興ヒ人筆録とされる﹃御義U伝﹂に左
の如くある︒これも生滅即常住を明示している︑
(化城喩品︶御義U傳云 妙法化城ナレバト界同時無常也︒
ニ ノ
蓮華化城ナレバト界三千開落也︒常住無常倶妙法蓮華経全鵠