南アジア研究 第28号 021書評・岩城 聡「笠井亮平『インド独立の志士「朝子」』」
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(2) 書評 笠井亮平『インド独立の志士「朝子」 』. こうしたなか、さして積極的な理由もないまま、とりあえず日本に渡 り、在京英国大使館で米国行きの旅券発給の機会をうかがおうと考え る。この時、サハーイが極東の島国へ針路を取っていなければ、自身そ してアシャの運命だけでなく、インド独立運動やその後の日印協力その ものが育まれていたかどうかも疑わしい気がするのだ。 「ここで君にできることは何もない。帰りの船賃は出してやるから、降 りてきた船に戻るんだね」 。神戸に降り立ったが、 すでに日本に根を張る インド人からこう冷たく言い放されたサハーイ。本来は腰掛けの地であ る日本だ。それでも働き口を探し、人的ネットワークを広げていったと いう。粘り強く、時としてずうずうしいインド人気質を異国で存分に発 揮した。そしてアシャが誕生した。 当時の日本では、インド独立運動と言えば「中村屋のボース」として 有名なR・B・ボースがすでに名を馳せていた。しかしこの著を読んで、 これまで気になっていたサハーイとR・B・ボースの微妙な距離感も知 ることができて興味深かった。 「プラサードやダースといった会議派指導者と近く、 ガンディーやネル ーとも接点のあった彼にしてみれば、インド独立運動に対するR・B・ ボースの認識は時代遅れに感じられたようだ」とサハーイの当時の心境 を著者は代弁する。刻々と膨らんでいく本国での独立へ向けた機運は、 遠く離れた日本にいたR・B・ボースには体温をもって感じられなかっ たのかもしれない。 ただ一方で、二人は家族ぐるみの付き合いもあったという。アシャの 母サティは、娘をR・B・ボースの長男・正秀と結婚させてはどうかと 思案していたというのだ。インド人でありながら、全く母国を知らずに 日本の文化に囲まれてきた我が娘、アシャ。せめて同じような環境で生 きてきたインドの血を引く男性に嫁がせれば苦労が少なかろうという親 心だったのだろう。. ここでの「if」は正秀の戦死で立ち消えになるが、二人が一緒になっ. ていたらあの新宿中村屋の厨房にアシャが立っていたかもしれないな. とか、かの「カリー」の味もサティから引き継いだベンガル風味になっ たかもとか、想像してちょっとにやけてしまった。 インド東部のコルカタにひっそりとたたずむチャンドラ・ボースの旧 宅。1941年1月17日未明に、独立闘争の活路を国外に見いだそうとした. 195.
(3) 南アジア研究第28号( 2016年). ボースが当局の目を盗み脱出した際の彼の「足跡」が、今もペンキで塗 り残されている。その足跡はやがてアフガニスタンを抜け、ソ連を経由 してドイツに入る。そしてナチス・ドイツの独裁者ヒトラーにインド独 立への援助を求めた。 「ところが、実際に彼が得ることができた支援は、ラジオ放送施設の 提供や、小規模な『インド人部隊』の立ち上げなど、限定的なものにと どまった」と著者は記す。 インドにいたとき、こんな話を耳に挟んだ。ヒトラーは広く知られて いるように、金髪・碧眼の「アーリア人」を優越民族であると定義づけ た。だからこそ、カースト制度など今も続く社会システムの根幹を作っ たアーリア系民族がいるインドに対し、本来は非常に親近感を持ってお り、対英戦略上もインド独立運動への肩入れに前向きだったという。 しかし、彼の目の前に現れたボースは肌の色は浅黒く、丸顔で鼻もが っしりしたベンガル人。これでヒトラーは一気に熱が冷めたというのだ。 もし、ボースがタタ財閥のラタン・タタ氏のような、欧米人となんら変 わらない顔だったら……。今の世界地図は大きく違ったものになったか もしれない。 1943年4月、そんなドイツを見限ったボースは、インド洋で潜水艦を 乗り継ぎ日本に向かうという荒技を敢行。5月16日、サハーイや妻サテ ィの薦めに沿って東京の地を初めて踏んだ。停滞していたインド独立運 動が息を吹き返した瞬間だ。 同年10月にはシンガポールで「自由インド仮政府」を樹立し「インド 国民軍(INA) 」を率いて旧日本軍とともにインパール作戦に乗り出す。 こうしたなかで、闘士サハーイとサティに育てられたアシャがこの作戦 に「戦士」として加わりたいと思ったのは当然の成り行きだったのだろ う。 「戦場に行くことに恐怖を感じませんでしたか?」 。アシャにかつてこ う尋ねたことがある。すると「全然、 怖いとかないのよ」ときっぱり。 「空 襲の時に日米の空中戦をこっそり見てると日本の戦闘機が撃たれるで しょ。そうすると、 操縦士が白いハンカチを振りながら落ちていくの。で も、 それが美しくてね。 『私たちも祖国のためにあんな風に死ねたらいい わね』ってツルさん(妹)とよく話してました……」 。勇ましいと思った 反面、年端もいかない子供たちにそこまで思わせてしまう日本の戦時下. 196.
(4) 書評 笠井亮平『インド独立の志士「朝子」 』. の教育に複雑な思いを持ったのも覚えている。 ボースへの直訴の甲斐あって、日本の敗戦が近づいていた1945年3月 に、ついにアシャはインド国民軍へ参加するために「出征」する。同軍 婦人部隊「ラーニー・オブ・ジャンシー」が拠点とするバンコクまで娘 の手を引いたサハーイの胸中はいかばかりだっただろうか。すでに日本 軍やインド国民軍の戦況が厳しいことはサハーイが一番よくわかって いたはずだ。 「インド独立の志士になる」――。そう願ってやまなかったアシャだ が、その小さな心もまた揺れていたようだ。 「新しく 生まれ変わりて 一兵と なりたまりしも 心淋しき」 「如何にせん する事々に 思ひ出す 別れ来たりし 母の涙を」 「ときどき、戦争が憎らしくなる。どうして戦争は起こるのか。人が人 を、どうして殺すのだ。生死は神に任せて、人間同士はお互いに助け合 って生きられないのか」……。 本著のところどころに、宝石のようにちりばめられたアシャの「歌」 や「日記」の美しい言葉たち。少女のみずみずしい感性とストレートな 心情は、きっと読者の心に突き刺さるだろう。 インパールからの撤退ルートは、戦闘による怪我よりも、飢餓とマラ リアなどの風土病で落命した兵士の屍が続いた。地図やコンパスがなく ても日本兵の亡きがらをたどればタイに帰ってこられたとも言われた 「白骨街道」 。壊滅状態にあった日本兵やインド兵が命からがら戻ってく るのを見せつけられ、アシャらの訓練もあまり身に入らなかったのでは なかろうか。そして、本人もマラリアに罹患し、そのまま終戦を迎えた。 終戦の3日後、台北の松山空港から大連へと飛び立とうとしていた1 機の軍用機。ボースらが乗ったその軍用機は、直前の機体の点検で、左 エンジンにかすかな振動を感じられ点検をやり直したのだという。しか し、再度点検したところ異常はないと判断され離陸。その直後にこの左 エンジンが外れ墜落した。 機内が寒い、とボースはセーターを着込んで乗り込んだが墜落で漏れ 出したガソリンがこのセーターに染み込んだことで、重度の火傷を負い 絶命した。離陸前の点検をもっと慎重にやっていれば……、いや、せめ. てセーターを着ていなかったら……。 「if」はキリがない。もはや歴史は. 「必然」なのだろう。. 197.
(5) 南アジア研究第28号( 2016年). ボースの遺骨は密かに日本に運ばれ、一時、アシャの母が預かり、最 終的に東京都杉並区にある蓮光寺に安置された。だが、いまだにその遺 骨は母国に帰ることが許されていないのだ。 早くから国民会議派(コングレス)の指導者として頭角を現し、英国 に対する武力闘争も辞さなかったボースは、非暴力主義のマハトマ・ガ ンディーの反発を招き袂を分かった。彼の歴史的な評価が難しいうえに 「事故の後、ソ連に逃げ延びた」など「義経伝説」さながらの判官びい きを語る人も多く、ほとんどの歴代政権は墓参りすら避けてきた。アシ ャの夢は、そんなボースの遺骨を母国に連れて帰り、弔うことだ。 「コングレスからインド人民党(BJP)のモディ政権になったら事態 がよくなるかと思ったら、何にも変わらない。さっさとインドに持って きて、ガンジス川に流せばいいのに」 。この書評を書くにあたり、約2年 ぶりにアシャに電話をすると、こう語気を強めた。アシャは、今もなお ボースの遺灰をインドに持ち込むことをためらい続けているモディ首相 へのイライラを募らせている。だが、70余年を経てもなお、ボースの 「死」はインド国内ではセンシティブな問題なのだ。 「あの戦争」で何があったのかを知ることは我々の責務だ。だが、イ ンパール作戦やボーズが日本に送り込んだINAの士官候補生「東京ボー イズ」の取材をしたときに痛感したのは、すべては「時間との戦い」に さらされているということ。関係者がどんどん老いて亡くなり、また健 在でもその記憶も遠く曖昧になっていく。話せても耳が遠く、こちらの 質問の意図が伝わらないこともあった。 筆者の笠井氏は日本からアシャやその家族のもとに足しげく通い、発 言と事実関係の整合性に目配りし、関係各所を回っては写真に収め、刑 事のようにウラ取りをしながら物語を積み上げていった。誰もが認める 筆者の誠実な人柄がにじみ出た労作だ。 「私も知らないことがたくさん 書いてありました」とはアシャの弁。本著はアシャの「履歴書」でもあ り、また、インド独立運動史研究の「副読本」のような存在だ。 個人的には笠井氏にもう1冊、 「副読本」を書いてもらいたいと願って いる。ボースが来日前にベルリンに滞在していた際、ひそかに夫婦の契 を交わしていた妻エミリー・シュンケルと娘のアニタの「履歴書」だ。 実はアニタには一度だけコンタクトできたものの直接会う機会に恵ま れず、記事化できなかった後悔が今も残る。70歳を過ぎたアニタは存命. 198.
(6) 書評 笠井亮平『インド独立の志士「朝子」 』. のはずだが、これもまた「時間との戦い」だ。 「あなたがインド独立のために行かなくてはならないことは分かって いる。ただ、あなたと愛し合った証が欲しい」と願ったエミリーの願い に応じ、ボースは子どもを作ることに同意したと聞いた。 2016年1月、 モディ政権はボースに関して政府が管理する文書の一部 を公開したが、その中には1952年にネルー首相(当時)が関係省庁に 対して、未亡人のエミリーの生活費を支援するよう要請した書簡も含ま れており、その存在ににわかに光が当たりつつある。 なぜ、ボースは妻と娘の存在をひた隠しにしたまま、自由インド仮政 府を樹立し、INAを率いたのか……。父として、夫としてのボースは どんな顔を見せたのか。 それを書けるのは笠井氏しかいない。そして、私はその作品を読んで またインド独立にまつわる「たられば」を想像し、一人思いを巡らせて みたいと願っている。 いわき さとし ●日本経済新聞. 199.
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る、というのが、この時期のアマルフィ交易の基本的な枠組みになっていた(8)。
教育・保育における合理的配慮
注1) 本は再版にあたって新たに写本を参照してはいないが、
を行っている市民の割合は全体の 11.9%と低いものの、 「以前やっていた(9.5%) 」 「機会があれば
○金本圭一朗氏
遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば
単に,南北を指す磁石くらいはあったのではないかと思
中国人の中には、反日感情を持っていて、侵略の痛みという『感情の記憶』は癒えない人もき