九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
太宰治「黄金風景」論 : 戦争を軸とした解釈
河内, 重雄
北九州市立大学文学部 : 准教授
https://doi.org/10.15017/4776951
出版情報:語文研究. 130/131, pp.354-370, 2021-06-02. 九州大学国語国文学会 バージョン:
権利関係:
一 本稿の狙い 太宰治「黄金風景」(『国民新聞』昭和十四年三月二日・三日)は、作者・太宰治とおぼしき「私」 (注1)を語り手とする、一人称の小説である。『国民新聞』主宰の「短篇小説コンクール」参加作品で、『女生徒』(昭和十四年七月 砂子屋書房)、『晩年』(昭和二十
一年四月 養徳社)などに収録されている。作品梗概は以下の通り。子供の頃、あまり質の良い方ではなかった「私」は、「のろくさい女中」のお慶をよくいじめた。ある時「私」はお慶を呼びつけ、「絵本の観兵式の何百人となくうようよしてゐる兵隊」一人一人を鋏で切り抜かせる。大将の髭を片方切り落と したり、切り抜いた兵隊たちを汗で濡らすお慶に腹を立てた「私」は、お慶を蹴ってしまう。肩を蹴ったはずなのに右の頬をおさえ、「一生おぼえてをります。」と泣きながらお慶は言った。一昨年、家を追われた「私」は千葉県船橋町で小さな家を借り、自炊することとなった。ある日、戸籍調べで警官が「私」を訪ねてくる。「私」の顔と名前に見覚えのあった警官は、二十年近く前に「私」の生まれた村で馬車やをしていたこと、今はお慶と結婚して四人の子供がいることを「私」に告げ、今度の休みにお慶と一緒に来ると言って去っていく。三日後、訪ねてきたお慶と夫、娘の三人が、「絵のやうに美しく並んで立つてゐ」るのを見た「私」は、その場を逃げ出してしまう。「活動小屋の絵看板を見あげたり」しては、負け
河 内 重 雄 太宰治「黄金風景」論 ― 戦争を軸とした解釈 ―
た、負けたと思い、「私」は再び家に戻る。海岸に出て、お慶たち親子三人がのどかに笑い興じている「平和の図」を目にした「私」は、お慶が「あのかたは、小さいときからひとり変つて居られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すつた。」と言うのを耳にする。お慶たちの勝利を確信した「私」は、自身の明日の出発に光を感じた。梗概は以上である。太宰治「黄金風景」(以下、本作とする)の先行研究には、キリスト教を参照して本作を解釈しているものがある。最も徹底してキリスト教に引き付けて解釈しているのは森下辰衛「『黄金風景』を読んで
―
祈りの詩学のために3」 (注2)であろう。森下氏は、お慶の娘が着ている赤い洋服がキリストの緋のマントを暗示している等と指摘し、お慶の娘こそが本作におけるキリストであり、小説ラストの解釈として「価値なき者、罪深い者、己れを迫害する者を赦し、そのうちに最大限の価値と可能性を見いだしてゆくというキリストの愛の性質が顕現する。」と述べている。田中良彦「「黄金風景」論」 (注3)は、「私」の幼い頃の罪を無条件に許すお慶の言動を、マタイ伝五章と重ねて解釈している。また、本作における絵・絵画の要素に注目して解釈する論も見られる。田中良彦氏は前掲の論文で、本作には三つの絵 画のイメージ―
①訪ねてきたお慶たち三人が絵のように立っている、②海岸のお慶たち三人の「平和の図」、③「「うみぎし」のお慶の家族を見つめる「私」が描かれた絵」―
があると指摘する。大國眞希「「黄金風景」の黄金性」 (注4)は、田中氏の指摘する、「私」も描きこまれた三つ目の絵について、「それを「平和の図」と指し示す「私」とうみぎしの親子とは同一の絵画の世界に描くことはできないはず」とした上で解釈を進めている。「活動小屋の絵看板」や「呉服屋の飾窓」も絵として視野に入れている点もユニークと言えよう。本作が発表された当時、太宰治は「HUMAN LOST」(『新潮』昭和十二年四月)、「女生徒」(『文学界』昭和十四年四月)、「葉桜と魔笛」(『若草』昭和十四年六月)、「駆込み訴へ」(『中央公論』昭
和十五年二月)など、キリスト教と関わりのある小説をいくつも書いている。そのことを踏まえれば、本作にキリスト教的な文脈を見出すということにもそれなりの妥当性は認められよう。しかしながら、「右の頬」などの表現は見られるものの、本作には直接的にキリスト教と関わりのある言葉が出てくる訳ではない。また、キリスト教を参照しなければ読めない小説でもあるまい。本稿では本作に散見される絵に関する言葉に注目し、解釈を考えてみたい。作品梗概で示したごとく、本作には観兵式
よしてゐる兵隊、馬に乗つてゐる者もあり、旗持つてゐる者もあり、銃担つてゐる者もあり、そのひとりひとりの兵隊の形を鋏でもつて切り抜かせ、不器用なお慶は、朝から昼飯も食はず日暮頃までかかつて、やつと三十人くらゐ、それも大将の髭を片方切り落したり、銃持つ兵隊の手を、熊の手みたいに恐ろしく大きく切り抜いたり、さうしていちいち私に怒鳴られ、夏のころであつた、お慶は汗かきなので、切り抜かれた兵隊たちはみんな、お慶の手の汗で、びしよびしよ濡れて、私は遂に癇癪をおこし、お慶を蹴つた。たしかに肩を蹴つた筈なのに、お慶は右の頬をおさへ、がばと泣き伏し、泣き泣き言つた。「親にさへ顔を踏まれたことはない。一生おぼえてをります。」
何百人もの兵隊を「うようよ」と表現しているあたり、「私」は観兵式をあまり好ましく思っていないようだが、そもそも観兵式とは何か。日本大辞典刊行会編『日本国語大辞典 第五巻』 (注5)は次のように説明している。
旧軍隊で行なわれた陸軍礼式の一つ。天長節、陸軍始め、特別大演習などの時、天皇が兵を観閲した式。閲兵式と の描かれた絵本、絵のように美しく並ぶお慶たち三人の姿、活動小屋の絵看板、海岸の「平和の図」と、絵が何度も出てくる。先行研究にも絵に注目している論文はあるが、例えば小説の最初に出てくる絵本については、特に注意は払われていないようである。観兵式の描かれた絵本をも視野に入れた時、どのような文脈が形成されるであろうか。本稿ではこのことについて考えたい。
二 絵本の観兵式を解体して「平和の図」へ
本作は「私」の子供の頃についての語りから始まる。「私」によれば、「のろくさい女中」であるお慶を「私」はよくいじめたようである。そのいじめの話の一つとして絵本の話が出てくる。以下のようだ。
台所で、何もせずに、ただのつそりつつ立つてゐる姿を、私はよく見かけたものであるが、子供心にも、うすみつともなく、妙に癇にさはつて、おい、お慶、日は短いのだぞ、などと大人びた、いま思つても背筋の寒くなるやうな非道の言葉を投げつけて、それで足りずに一度はお慶をよびつけ、私の絵本の観兵式の何百人となくうよう
分列式とに分かれる。慶応四年(一八六八)に始まるが、この称は明治一〇年(一八七七)からという。
観兵式とは今の言葉で言えば軍事パレードのことである。絵本のタイトルを特定する必要は必ずしもあるまいが、観兵式が描かれていることから、日本軍万歳、兵隊さんありがとうといった内容の絵本であると考えてよいだろう。兵たちが「うようよ」と表現されていることから、「私」はこのような内容に少なからず嫌悪感をもっていると解せられる。そうだとすれば、兵一人一人を鋏で切り抜かせるというのも、単にお慶を困らせるためではなく、別の目的があってのことと考えられないだろうか。本当に「何百人」もいるかどうかはともかく、兵隊が大勢描かれているらしいことから、この観兵式は見開き、少なくとも一ページ全体で描かれていると想像される。兵隊を一人一人切り取るようなことをすれば、この絵本が読めなくなってしまうことは明らかである。また、大将の髭が片方切り落とされたりしているようだが、切り抜きを「不器用」だと分かっている者にさせるというのも、観兵式・軍隊に対する悪意を感じさせよう。兵一人一人を切り抜かせるというのは、軍隊・集団を解体させ、個々の状態に戻すという目的、軍隊万歳といった内容の本を使用不 能にする目的からではあるまいか。集団では軍隊であり兵隊であっても、軍隊を解体して一人一人の状態に戻せば、彼らは各家庭では父や息子であったり、地域では教師や警官であったりする。お慶の夫は警官とされている。それぞれ銃を持っていることなどから、警官は地域の職業の中では兵隊に比較的近い職、兵を連想させる職ではあるまいか。お慶の夫は、軍隊から切り離された個人の家庭や地域における一つの姿と捉えられよう。お慶に切り離させた兵たちは、お慶の汗で濡れてしまっている。この兵をお慶の夫と重ねれば、兵が汗で濡れているというのは、小説ラストの親子が海岸で遊んでいる場面を思わせないだろうか。以下は本作からの引用である。
うみぎしに出て、私は立ち止つた。見よ、前方に平和の図がある。お慶親子三人、のどかに海に石の投げつこしては笑ひ興じてゐる。声がここまで聞えて来る。「なかなか、」お巡りは、うんと力こめて石をはふつて、「頭のよささうな方ぢやないか。あのひとは、いまに偉くなるぞ。」「さうですとも、さうですとも。」お慶の誇らしげな高い声である。「あのかたは、小さいときからひとり変つて居
られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すつた。」 私は立つたまま泣いてゐた。けはしい興奮が、涙で、まるで気持よく溶け去つてしまふのだ。
負けた。これは、いいことだ。さうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与へる。
海辺で遊んでいれば、塩辛い海水に濡れることは十分にあり得よう。絵本の観兵式、いわば戦争に関する絵から、親子が海辺で笑い興じる「平和の図」へ。本作の展開の大枠はこのようにまとめられようか。お慶は子供の頃の「私」について、「目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すつた。」と、優しい人物であったように語っている。だとすれば、「私」が兵たち一人一人を軍隊から切り離させることにも、軍隊における目下の者たちへの思いやりを読み取ることも可能であろう。兵たち一人一人のためを思って軍隊から切り離し、観兵式を台無しにして、「平和の図」へと彼らを移してあげたのではないだろうか。下手だと分かっている者に切り抜きをさせ、うまくできていないといって「私」はお慶に腹を立てて蹴ったという。う まくできぬお慶に対し腹を立てたとあるのは、軍隊を尊重しているかのように軍部に見せるポーズ、あるいは、鋏を入れることで観兵式を台無しにしていることから軍部の注意をそらすためではないか。無論、実際は不器用な者に切らせており、絵本自体も使用不能にしているなど、悪意があるのは明らかである。もっと言えば、「私」がお慶に対し腹を立てて蹴ったということも、本当にそんなことをしたのかと疑うことができるかもしれない。「肩を蹴つた筈」など、子供の頃に関する「私」の語りにはあやふやなところがあり、また、子供の頃の「私」について、お慶は目下の者に親切だったと言っているからだ。この「私」とお慶の語る「私」のイメージの食い違いについて、細谷博『太宰治』 (注6)は、お慶が「私」を許しているとする解釈、「私」の自己像に思い込みがあるとする解釈の二つの可能性を指摘している。この二つ以外に、軍
―
厳密には内務省―
からの批判をかわすべく、下手くそな切り方をするお慶に腹を立てて蹴ったと作者らしき「私」は嘘をついている、という解釈はできないだろうか。お慶の言うごとく「私」は親切な人間で、彼女を蹴るような真似をする人間ではなかったと解すれば、積極的に兵たちを切り取らせたという事実だけが残ることになり、軍隊への悪意、兵一人一人への愛情はより強いものとなろう。蹴ったというのが嘘であれ本当であれ、軍隊への悪意を新聞紙上で露骨に示す訳にはいかない。たとえ本当に蹴ったとするにせよ、そのことをわざわざ語らせる意図は、注意深く読まなければ悪意が伝わらないようにするためではあるまいか。以上、観兵式の描かれた絵本に注目しての本作の大枠について述べた。軍による批判をかわしつつ、戦争を賛美する絵から平和の絵へと移行するというのが大枠である。以下、本作のこれまで触れなかった他の箇所について簡単に述べたい。本作には汗や海など水に関わる言葉が散見されるが、他にも「牛乳」という語が見られる。以下は本作からの引用である。
一昨年、私は家を追はれ、一夜のうちに窮迫し、巷をさまよひ、諸所に泣きつき、その日その日のいのちを繋ぎ、やや文筆でもつて、自活できるあてがつきはじめたと思つたとたん、病を得た。ひとびとの情で一夏、千葉県船橋町、泥の海のすぐ近くに小さい家を借り、自炊の保養をすることができ、毎夜毎夜、寝巻をしぼる程の寝汗とたたかひ、それでも仕事はしなければならず、毎朝毎朝のつめたい一合の牛乳だけが、ただそれだけが、奇妙に生きてゐるよろこびとして感じられ、庭の隅の夾竹 桃の花が咲いたのを、めらめら火が燃えてゐるやうにしか感じられなかつたほど、私の頭もほとほと痛み疲れてゐた。
小説ラストの海辺の光景が「平和の図」であることに引き付ければ、生の喜びをもたらす牛乳=水は生命・平和の象徴、反対にめらめら燃える「火」は戦争の象徴と解せようか。だとすれば、「私」の頭が「痛み疲れてゐた」ことも、戦争に関係したことと考えられよう。家を追われた「私」は金に困っていたようだが、金稼ぎのために戦争に協力的な小説を書くことについて、「私」は思い悩んでいたのではあるまいか。「私」の金銭的な苦しみが頂点に達するのは次の場面であろう。
それから、三日たつて、私が仕事のことよりも、金銭のことで思ひ悩み、うちにじつとして居れなくて、竹のステツキを持つて、海へ出ようと、玄関の戸をがらがらあけたら、外に三人、浴衣着た父と母と、赤い洋服着た女の子と、絵のやうに美しく並んで立つてゐた。お慶の家族である。(略)私はかなしく、お慶がまだひとことも言ひ出さぬうち、
逃げるやうに、海浜へ飛び出した。竹のステツキで、海浜の雑草を薙ぎ払ひ薙ぎ払ひ、いちどもあとを振りかへらず、一歩、一歩、地団駄踏むやうな荒んだ歩きかたで、とにかく海岸伝ひに町の方へ、まつすぐに歩いた。私は町で何をしてゐたらう。ただ意味もなく、活動小屋の絵看板を見あげたり、呉服屋の飾窓を見つめたり、ちえつちえつと舌打ちしては、心のどこかの隅で、負けた、負けた、と囁く声が聞えて、これはならぬと烈しくからだをゆすぶつては、また歩き、三十分ほどさうしてゐたらうか、私はふたたび私の家へとつて返した。
この時点では「仕事」よりも「金銭」の方に「私」は傾いているように見えよう。金のためならどのような小説でも書いてしまいそうな状態と言えようか。その日暮らしの「私」に比べ経済的に堅実な生活を営む、美しく並び立つお慶たちから逃げた「私」の心の中では、「負けた」という声がささやかれている。経済的にお慶たちに勝つには、戦争協力的な、売れる小説を書けばよい。「私」はその誘惑と必死に戦い、小説ラストで、「負け」は金銭・戦争協力への負けから「平和の図」への負けへと変化する。金儲けのためではなく、平和のために仕事をする決意が示されている。注意深く読めば軍へ の悪意が読み取れる本作は、まさにその決意の実践であると考える。
三 昭和十二年、十三年、十四年について
本稿の二では、本作発表当時のことについてはほとんど触れないまま、全体を解釈してみた。改めて確認すると、本作は昭和十四(一九三九)年三月二日と三日の『国民新聞』に二回に分けて発表された。本作の執筆時期については、山内祥史氏が「昭和十四年一月九日か十日頃、「口述筆記」によって脱稿したと判断されよう」 (注7)と述べている。執筆と発表との間に二ヶ月弱の開きはあるものの、昭和十四年をひとまずは本作の語りにおける今と考えてよいだろう。語りの今を昭和十四年とすると、お慶たち家族と「私」が会った「一昨年」は昭和十二(一九三七)年ということになる。一昨年にお慶の夫と会った時、「二十年まへ」のお慶に対する「悪行」が思い出されたと語られていることから、「私」の子供の時の出来事は大正六(一九一七)年頃、第一次世界大戦中のことと考えられようか。太宰治は明治四十二(一九〇九)年の生まれである。大正六年当時は九歳で、青森県北津軽郡金木村の金木村尋常小学校に通っていた。このことからも「私」は作者らしき語
り手と考えられよう。本作には戦争が大きなテーマとして見出せる。本作発表当時の読者にとって最も身近な戦争は、第一次世界大戦ではなく日中戦争であろう。日中戦争について、世界史小辞典編集委員会編『山川 世界史小辞典(改訂新版)』 (注8)は次のようにまとめている。
日中戦争 1937年7月の盧溝橋事件から
称し、 かつて戦争当初を北支事変、上海事変以後を支那事変と 日本の敗戦まで、日中間で戦われた戦争。(略)日本では 45年8月の 41年 民党軍の放棄した地域に進出していった。 屈服させることができなかった。その間、共産党軍は国 華北から兵火を華中、華南へと拡大したが、国民政府を 人の抵抗を強め、盧溝橋事件を引き起こした。日本軍は あろう。満州事変以来の日本の対中侵略はしだいに中国 争として規定していないが、日中戦争と呼ぶのが適当で 12月以後は大東亜戦争の一部としていた。戦
長期化の様相を示した。(略) から太平洋戦争が始まるまでは、戦局はほとんど膠着し、 38年武漢作戦
日中戦争とは、昭和十二年七月七日の盧溝橋事件から、昭 和二十年八月十五日の敗戦までの戦争のことをいう。当時、日本が戦争ではなく「支那事変」と称していたのは、戦時国際法を無視して宣戦布告をせずに、一方的に戦争を仕掛けたから
―
事変は戦争ではないから戦時国際法は適用されないという理屈―
である。昭和十六年十二月八日に対米英宣戦布告をした際、「支那事変を含めて大東亜戦争と呼称する」と閣議決定。この時初めて、支那事変も実は戦争でしたと認めたことになる。厳密に言えば、今日の私たちには日中戦争だが、本作発表当時の読者にとっては支那事変ということになろう。事変、つまり、異常な出来事、突発的な騒動・事件ということである。『朝日クロニクル20 1930世紀第三巻
用、移民で男手を奪われた農村の女性たちの肩に、農作業や いった。本作が発表された昭和十四年については、徴兵や徴 用品が街に現れ、銃後の生活の不安は少しずつ濃さを増して 的・物的資源は国の統制下に置かれるようになる。様々な代 月五日には国家総動員法が施行、戦争遂行のために必要な人 うな雰囲気を一掃、全国で提灯行列が続いた。昭和十三年五 ることになる。昭和十二年十二月十三日の南京陥落はそのよ 思惑よりも戦争が長引くと、銃後に重苦しい雰囲気が出てく 盧溝橋事件以降、中国軍の抵抗により死者が増大し、当初の 1940』によれば、 - (注9)
家事・育児の全てが重くのしかかってきたという。銃後の民の務めとして、農作業を終えた女性たちは、東京の方角に建つ奉安殿に向かって宮城遥拝をしていた。女学生は授業の一環として山の手入れや植林にも行き、児童たちも子守など家事手伝いで遊ぶ暇もなかったという。日中戦争の頃の子供について、山中恒『戦時下の絵本と教育勅語』 )(注
(注は次のように述べている。
日中戦争二年目あたりになると物資不足が目立ち始めます。消費を抑えて生産をあげることでバランスをとろうということでしたが、その生産物も軍需優先でしたから民需には回りませんでした。戦争のための生産増強がお題目になります。そこで生産に伴う人的資源として、青少年学徒がクローズアップされたのです。こうなってくると勤労奉仕は、皇国民錬成の修練ではなく、立派な生産・増産の主体となりました。その予行演習のように、国民学校初等科児童、さらには幼稚園児にまで「働け! 働け!」の気合いが掛けられたのです。しかし児童・幼児に可能な勤労と言ったら、せいぜいのところ家事手伝いでした。(「7 子どもも働け」) 日中戦争が始まって最初のうちは戦勝ムードにまだ酔えていたが、戦争が始まって一年くらい経つと総力戦の様相を帯びていき、銃後の生産活動による支援も次第に厳しさを増していったとまとめられよう。本作が発表された当時、読者は物語の「一昨年」から語りの今にかけてを、このような流れとして補いつつ読んだと想像される。本作ラストの「平和の図」は「一昨年」=昭和十二年の夏の光景である。盧溝橋事件の前とするか後とするかについては読者に自由が与えられていようが、「平和の図」の背後に日中戦争を据えて本作を解釈する時、軍隊から切り離された父、そして母と子の家族がそろって海辺で遊んでいる光景は、読者に何よりの宝と映ったと考えられよう。次に絵本と映画について少し述べたい。本作で「私」がお慶に切り抜かせる絵本は大正六年頃から以前のもの、例えば第一次世界大戦や日清・日露戦争に関するものであろうが、読者がより身近な戦争としての日中戦争の絵本を意識するということは、あり得ぬ話ではあるまい。日中戦争と絵本については、前掲の『戦時下の絵本と教育勅語』で次のように述べられている。
一九三一(昭和六)年の満州事変から、上海事変、満
州国建国へと進む中で、絵本では軍人の美談が多くとりあげられるようになっていきます。(略)
一九三七(昭和十二)年五月、文部省は『国体の本義』(
れています(略)。(略) で出版したもので、日本軍の忠勇美談が見開きで展開さ ドモアサヒ支那事変絵本』は、朝日新聞社が臨時増刊 が次々と登場してきます。ここで紹介する『臨時増刊コ て、そこでの日本軍の活躍を紹介する『支那事変絵本』 に日中戦争が始まると、当時それを「支那事変」といっ ます。その二か月後、七月七日の盧溝橋事件をきっかけ 命をささげることを学校教育でもさらに徹底しようとし 32頁)を配布し、天皇中心の国の在り方と天皇のために 戦時体制に入った日本は、翌年の四月に国家総動員法を公布し、国民の生活の隅々まで統制する権限を政府にゆだねることになります。そのような中で、子どもの本もお国のために役立つ方向に改変すべきだと、内務省警保局図書課の佐伯郁郎は、童話作家の小川未明などに働きかけて、その提案を受け入れるような形を取って、「児童読物改善ニ関スル指示要綱」(一九三八年十月)を児童図書出版関係者に通達したのです。
これにより、絵本を含めた児童図書に対する本格的な 国家統制が始まります。(「1 美談をつくりあげる絵本」)
引用文中の『臨時増刊コドモアサヒ 支那事変絵本』の発行は昭和十二年十月一日。「爆弾二将校」、「豪勇峰中尉」など、見開きのカラーで描かれている。昭和十二年から十四年にかけては、戦争に協力的な絵本が目に見えて増えていった時期と言えよう。本作における絵本の観兵式に日中戦争時の軍隊を見る読者も、少なからずいたのではあるまいか。ちなみに、引用文中の「一九三八年十月」の通達は、本稿でこの後述べるペン部隊と時期的に重なる。本作には「私」が「活動小屋の絵看板」を見上げる場面がある。日中戦争と映画について、清水晶『戦争と映画』 )((
(注は次のように述べている。
出征兵士が相次ぐ中で、国民の関心を集めたのは、ニュース映画だった。(略)
当時のニュース映画は、朝日、大毎東日(現在の毎日)、読売、同盟(共同通信の前身)、新聞連盟(地方有力紙が母体)の五社からそれぞれ週刊で製作されていたが、留守家族としては肉親の姿を万に一つも見逃すことのないよう、毎週各社全部のニュース映画を見たい。日ごとに
高まるこうした要望に応えて、ニュース映画専門館が各地に続々誕生した。これら各社のニュース映画全部と短篇記録映画や児童映画を加えて、一回の映写時間が一時間から一時間半程度、低料金の小映画館だった。(略)
満州事変や第一次上海事変では、きわものの英雄礼賛映画がいっせいに輩出した以外、とくに見るべき戦争映画はなく、国民の心は新たに開けた満州の天地に飛んでいたが、支那事変を迎えると、さすがにいろいろなタイプの戦争映画が現われ始めた。
昭和十二年から十四年に限り「いろいろなタイプの戦争映画」を挙げると、『北支の空を衝く』(昭和十二年)、『進軍の歌』
(昭和十二年)、『五人の斥候兵』(昭和十三年、「キネマ旬報」ベストテ
ンで一位)、『東洋平和の道』(昭和十三年)、『チョコレートと兵隊』(昭和十三年)、『爆音』(昭和十四年、ベストテン八位)、『上海陸戦隊』(昭和十四年、ベストテン五位)、『土と兵隊』(昭和十四年、ベ
ストテン三位)が紹介されている(監督、製作会社は省略)。また、長編記録映画については、『怒涛を蹴って』(昭和十二年)、『軍艦旗に栄光あれ』(昭和十二年)、『上海』(昭和十三年)、『南京』
(昭和十三年)、『北京』(昭和十三年)、『曦 シーコワン光』(昭和十三年)、『戦友の歌』(昭和十四年)、『揚子江艦隊』(昭和十四年)、『聖戦』(昭 和十四年)が挙げられている。絵本同様、日中戦争以降、戦争協力的な作品がいくつも作られたと言えよう。本作の映画の絵看板は日中戦争開始前後のものと考えられる。しかしながら、「私」は看板を見上げたりしながら心の中で負けたと呟いており、その「負け」は直後に「平和の図」への負けへと変わることから、「私」の見た絵看板に戦争の影を読み取るのは奇を衒い過ぎであろうか。「私」の見上げた絵看板に戦争の影が見られるとすれば、戦争に協力するような作品を書くよう看板は「私」を誘惑したものと解釈できよう。最後に日中戦争と作家について触れておきたい。本作では、お慶の夫が「私」について、「小説をお書きなさるんだつたら、それはなかなか出世です。」、「あのひとは、いまに偉くなるぞ。」と述べている。「いまに偉くなる」とあるが、日中戦争は作家の社会的地位にも影響を与えたように思われる。このことについて私たちがまず思い浮かべるのは火野葦平であろう。もりたなるお『芸術と戦争』 )(注
(注の「河童と兵隊 小説・火野葦平」によると、「糞尿譚」(『文学会議』昭和十二年十一月)の芥川賞授賞式が戦地である杭州で昭和十三年三月 )(注
(注に執り行われ、「新聞各紙が競ってこれを取り上げたため」、「それまで文学賞に無関心の国民にも遍く知れ渡った」という。作家の社会的地位が上がったと言えようか。笠原十九司『日中戦争
全史〔下〕』 )(注
(注の「『麦と兵隊』
―
小説と軍歌の大ヒット」には次のような一節が見られる。火野葦平は、三八年二月、中国において従軍中であったが、前年九月の出征直前に書きあげた小説『糞尿譚』が芥川賞に選ばれた。それを知った馬淵逸雄中佐が、火野を中支那派遣軍報道部員に引き抜き、徐州作戦に従軍させたのである。運転手つきの車をあたえられた火野は、第一三師団の最前線を取材してまわり、前線から上海の報道部にもどってから、軍の期待にそって一気に『麦と兵隊』を書き上げた。(略)
『麦と兵隊』
は雑誌『改造』の三八年八月号に発表されたが、九月に中央公論社から単行本として発行され、たちまち一二〇万部を超すベストセラーとなった。つづいて一一月に出版された『土と兵隊』も、一〇〇万部近くを売り上げた大ヒットとなった。
日中戦争従軍作家の濫觴と言えよう。ペン部隊については『日中戦争全史〔下〕』の「ペン部隊の派遣」で次のように述べられている。 徐州作戦では、火野葦平を従軍作家に仕立てあげ、兵士や国民の戦意高揚に成功した軍部と政府は、武漢作戦を利用したさらなるメディア戦略を展開した。三八年八月半ば、内閣情報部から(略)菊池寛に、作家たちを中国戦場へ派遣したいので協力するようにという要請があった。軍の求めに応じた菊池寛が中心に動いて、当時の人気作家、流行作家たちが集められ、声をかけられた作家たちは進んで応じた。従軍作家たちはペン部隊(略)といわれ、陸軍と海軍の二班に分けられて九月中旬、武漢作戦の現場に派遣された。(略)
ペン部隊のヒロインとして大活躍をしたのが、『放浪記』(一九三〇年)がベストセラーとなり、女流人気作家になっていた林芙美子だった。『朝日新聞』(三八年一〇月二九日)は、「ペン部隊の『殊勲甲』芙美子さん漢口に一番乗り」という見出しで、(略)「林さんの勇敢さと謙虚さに全軍将兵心から尊敬し、感激した」「林さんの漢口入城は全日本女性の誇りである」とセンセーショナルに報道した。
ペン部隊の活躍が新聞紙上で華々しく報道されたのは、後述するように、日本国内で、政府と軍部、中央と地方の官庁の肝いりで漢口陥落の戦勝祝賀行事が展開されて
いる最中だった。日本に帰国した従軍作家たちは早速、祝賀ムード演出のため講演会に連日のように駆り出された。(略)
ペン部隊の作家たちは、雑誌につぎつぎと従軍記を寄稿し、新聞紙上や雑誌などに頻繁に対談や座談会を掲載して、過酷な戦場で、「支那膺懲」のために意気軒昂に戦っている日本軍部隊、将兵の奮闘ぶりを銃後の国民に伝え、国民精神総動員運動や総力戦体制強化のための国民世論の形成に貢献した。
従軍作家たちの仕事はにわかに増えたようだが、日中戦争以降、作家は軍部にとって世論形成などの点でより重要な存在となっていったと考えられる。火野葦平の戦地での授与式と同年同月に、石川達三「生きてゐる兵隊」掲載誌の『中央公論』昭和十三年三月号が発行と同時に発禁、石川本人も警視庁に拘引された )(注
(注。このことも作家の地位上昇と無関係ではあるまい。発禁や逮捕は、作家や作品の影響力の大なるを認めるが故のことであり、大なりと世間に思わせることにもつながると考えられよう。発禁・逮捕や従軍に基づく作品などを見ることで、作家たちは戦争についてどういったことは書けて、どういったこと は書けないかを、具体的に学んでいったと思われる。それは、一見戦争に協力しているようで、実は裏切っているような小説を書こうとする場合にも、得るものがあったに違いない。ちなみに、火野葦平の従軍後、ペン部隊派遣前の昭和十三年六月に、陸軍省報道部の要請に応えて、大日本陸軍従軍画家協会が設立されている。会長は藤島武二、日本洋画壇の重鎮である。前掲の『芸術と戦争』の「戦場の天使 小説・東郷青児」によると、「一部に抵抗はあった」ものの、「美術界の大勢は軍部協力に傾い」ていたという。本作では絵が重要な要素となっている。小説ラストの「平和の図」を、従軍画家やその作品を背景に解釈することも可能かもしれないが、本稿では以上の指摘のみにとどめておく。お慶の夫は、「あのひとは、いまに偉くなる」と言っている。「偉くなる」方法の中には、従軍作家となり、戦争に協力的な小説を書くといった選択肢もあり得よう。「私」が選ぶのは、軍部に気付かれぬよう軍隊を攻撃する小説を書くこと、軍事パレードよりも親子が遊ぶ光景を大事にする作家になるということである。ボロは着てても心は錦、それもまた作家として「偉くなる」ことの一つと言えよう。
四 「私のあすの出発」とは 本作は新聞に掲載された小説だが、日中戦争開始以降、新聞は軍部に対し協力的で、国民の戦争熱を煽っていったように思われる。以下は『日中戦争全史〔上〕』 )(注
(注からの引用。
大山事件(大山中尉が中国保安隊員により殺害されたとされる
事件
―
河内注)は海軍が仕掛けた謀略でありながら、マスメディアをとおして、日本国民の中国軍にたいする憎悪心、敵愾心を煽るために操作、宣伝された。『東京朝日新聞』
(一九三七年八月一〇日)は、「帝国海軍中尉・上海で射殺さる」「暴戻!鬼畜の保安隊 大挙包囲して乱射 運転員の水兵も拉致」という大見出しで一面全紙をつかって大きく報道した。(略)見出しからだけでも中国保安隊の排日、侮辱の不法、暴挙事件にたいして、日本海軍は自衛のために、断固戦わなければならない、という戦意煽動のための報道ぶりがうかがえる。
出しで(略)センセーショナルに報道した。また『読売新 上海保安隊の挑戦」「猛射を浴せ即死せしむ」という大見 『東京日日新聞』(一九三七年八月一〇日)は「暴戻・ (「海軍が仕掛けた大山事件」) 制裁が声高に叫ばれるようになっていった。 憤激の坩堝に叩きこまれた結果、中国にたいする報復・ 山事件報道をつうじて、日本国内では国民の朝野挙げて 道した。こうした新聞の報道ぶりからわかるように、大 山事件発生直後に現場に行った記者の目撃談を大きく報 掠奪惨虐目を蔽う現場宛然血に狂う鬼畜の所業」と大 聞』(一九三七年八月一一日夕刊)も「滅多斬して所持品
大本営の正式の命令もないまま、参謀本部の統制に反するかたちで、中支那方面軍が独断専行で発動した南京攻略作戦であったが、日本の大新聞は同作戦に便乗して、大規模な報道陣を前線へ派遣し、従軍記者に少なからぬ犠牲者を出しながらも、「南京城に日章旗が翻る日はいつか」「どこの郷土部隊が南京城一番乗りを果たすか」などの報道合戦を繰りひろげた。国民は、「いつ南京は陥落するか」「南京城一番乗りの誉れの部隊はどこか」などと、南京城に迫る日本軍部隊の報道に注目し、興奮するようになった。その結果、大新聞は一挙に購買数を増大させた。南京へ進撃する皇軍(天皇の軍隊)の連戦連勝の華々しい捷 しようほう報が、連日報道されるなかで、国民の戦勝・祝賀
ムードが必要以上に煽られ、国民も拡大派が喧伝した「中国一撃論」に幻惑され、南京が陥落すればあたかも日本が勝利して日中戦争が決着するかのような期待感をいだくようになった。(「大本営、南京攻略を下令」) 日本国内では、南京攻略戦に便乗した大新聞同士の報道「一番乗り」合戦が高じた結果、一二月一〇日午後五時、第九師団(金沢)の脇坂部隊が光華門の前門(略)の一角に取りつき、工兵隊の爆破で城壁の一部がくずれてできたピラミッド状の瓦礫の上に日章旗を立てたのを、「南京城一番乗り」と誤報(部隊そのものは壊滅状態となる)するまでにエスカレートした。(略)大新聞の誤報をうけて、一一日の夜、国会議事堂にイルミネーションが点じられ、東京をはじめ全国で南京陥落を祝賀する提灯行列がおこなわれた。朝日新聞社は、南京陥落に合わせて、「皇軍大 たいしよう捷の歌」を懸賞募集し、一二月一〇日に募集を締め切ったところ、東京と大阪の各本社合わせて三万五九九一編の応募があったという。(略)
一二月一三日の昼には、読売新聞社主催で「南京陥落戦勝祝賀大会」が後楽園スタジアムで開催され、一〇万人が集まって君が代を大合唱した。 (「入城式のための「残敵大掃蕩」」)
以上は全て日中戦争開始から半年以内の新聞報道等についてだが、無論、以降も同様である。例えば日本軍が武漢攻略作戦で漢陽を占領した昭和十三年十月二十七日、大本営陸軍部の占領発表を受け、ラジオや号外は全国各地でその報をいっせいに伝えた。また、引用では大新聞だけが戦争に協力的だったようにもとれるが、本作掲載紙である『国民新聞』も例外ではない。『国民新聞』は当時、軍事に重きを置いて報道していた。掲載紙の方針からすれば、戦争をテーマとするのであれば軍部・戦争に協力的な内容の小説を書く方が、掲載紙に対し親切と言える。が、すでに述べたように、本作は切り抜きの下手なお慶に「私」が腹を立てており、軍に敬意を払っているようにも見えるものの、観兵式を解体しているなど軍に対し悪意のある内容となっている。掲載紙や軍部に協力しているように取れつつ裏切るような書き方である。以前、拙稿「太宰治のディコンストラクション
―
「葉桜と魔笛」における二つの文脈」 )(注(注で述べたのだが、「葉桜と魔笛」(前掲)も同じような書き方がなされている。「葉桜と魔笛」は、掲載雑誌『若草』の想定読者である中流家庭の女学生などに対し、貞節を
勧めているようで逆のメッセージを発している。時局や掲載誌の求める処女賛美の文脈を用意しつつ、結婚前に男性経験をもつよう積極的に勧めているように読める文脈も仕掛けられているのだ。時局や掲載紙・誌に対し反抗的とも言える文脈が仕掛けられている点で、本作と、その三ヶ月後に発表された「葉桜と魔笛」とは似ている。本作のラスト、「平和の図」に負けた「私」は、自身の「あすの出発」に光を感じている。戦争を許さない、平和のために創作をするという決意と解せられるが、重要なのは創作方法である。露骨に軍部や戦争を批判してしまうと、逮捕されてしまうのは目に見えている。「私」=作者が選んだのは、一見時局や掲載紙等に協力的でいて、その実、よくよく読むと反抗的なメッセージを発しているという書き方ではないだろうか。本作や「葉桜と魔笛」で同じような文法が取られているのは偶然ではあるまい。読者としての軍部とそれ以外の当時の新聞読者、もちろん両者は明確には分けられないであろう。都合よく軍部だけが悪意に気付かず、その他の読者は悪意を読み取ってくれるとは考えにくいかもしれない。しかしながら、大量の出版物を検閲しようと身構えている者たちと、自分の読みたい読み物だけを読む者たちとでは、読み方に違いがある可能性はあろ う。検閲しようと構えてしまうと、表面的な表現など部分部分のチェックに終始してしまい、仕掛けられた文脈を見過ごしてしまうということはあり得よう。気付く人には軍への悪意が伝わる書き方は、当時の軍関係者以外の読者に関しては、今日の私たちが想像する以上に伝わっていたのではあるまいか。長期化・泥沼化する戦争、増え続ける戦死者、戦争に協力せねばならない雰囲気作りに加担するメディアに辟易していた者は、少なからずいたと思われるからだ。「私のあすの出発」を理解してくれる者は必ずいるという読者への信頼が、作者にはあったと考える。
注注1以下、「黄金風景」本文の引用は『太宰治全集 第二巻』(昭和四十六年四月 筑摩書房)による。なお、本稿における引用文中の傍線は全て筆者により、旧漢字は新漢字に改め、ルビは適宜省略した。注2『福岡女学院大学短期大学紀要(国語国文学・英語英文学)』(平成七年二月)。注3『武蔵大学人文学会雑誌』(平成十七年一月)。注4『キリスト教文学研究』(平成二十八年五月)。注5昭和四十八年九月、小学館。注6平成十年五月、岩波書店。注7『太宰治全集 第二巻』(平成元年八月 筑摩書房)の「解題」。注8平成十六年一月、山川出版社。
注9平成十二年十二月、朝日新聞社。注 注 10平成二十九年十一月、子どもの未来社。
注 11平成六年十二月、社会思想社。
注 12平成十九年二月、産経新聞出版。
13『日本文学全集
注 の「年譜」による。 52 火野葦平集』(昭和三十五年六月新潮社) 注 14平成二十九年七月、高文研。
15『日本文学全集
注 の「年譜」による。 47 石川達三集』(昭和三十五年六月新潮社) 16同注
注 14。
に語り手について語らせている。 るやうに、海浜へ飛び出した。」)、語り手のいない海辺でお慶 慶に語らせず(「お慶がまだひとことも言ひ出さぬうち、逃げ では、語り手本人が目の前にいる状況では、語り手についてお 本作と「葉桜と魔笛」は類似している。確認しておくと、本作 聞き・盗み見、いわば「盗み」の要素が関わっている点でも、 がら、登場人物たちの声を真実の声足らしめる方法として盗み 17『北九州市立大学文学部紀要』(平成二十八年九月)。ついでな
(こうち しげお・北九州市立大学文学部准教授)