韓国東海岸・漁村社会の近代化と文化伝統:慶尚北 道蔚珍郡竹辺の事例
雑誌名 アジア・アフリカ文化研究所研究年報
巻 32
ページ 11(134)‑72(73)
発行年 1997
URL http://id.nii.ac.jp/1060/00011251/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
一一慶尚北道蔚珍郡竹辺の事例
序 章 問 題 の 所 在
高 橋 統 松 本 誠 I 蔚 珍 郡 ・ 竹 辺 面 の 概 況 と 歴 史 的 背 景
松 本 誠 1. 蔚珍郡の位置と歴史
2. 竹辺面の概況と歴史
E 竹 辺3里の漁村契
←一トンネ運営との関係をめぐって
1. はじめに 2. 漁村契の組織 3. ワカメ岩の割当 4. トンネ運営と漁村契 5. 豊漁祭の実施と漁村契 6. おわりに
E
正月告紀と豊漁祭奥 間 葉 金 美
一一東海岸ポンスジンの祭儀と村組織 松 本 誠 1. はじめに
2. 正月告加(城陸祭〉
3. 豊務、祭 4. 老人の存在形態
目
子 柴
次
IV 竹辺国青年会とシノレム同友会
小 津 康 則 宇 佐 美 隆 憲 1. 竹辺面青年会
つ シルム同友会
V 韓 国 の 禁 忌 語
一一東海岸の事例一一
小 津 康 則 1. はじめに
2. 調査概要 3. 禁忌語の事例 4. おわりに
VI 慶尚北道蔚珍郡のキリスト教受容の様態 一一一近代化にみるキリスト教の役割一一一
鈴 木 信 昭 1. はじめに
2. 解放以前におけるキリスト教の役割 3. 解放以後におけるキリスト教の役割 4. 蔚珍郡の天主教の現況
5. おわりに
終 章 概 括 一 一 結 び に 代 え て
高 橋 統 一
韓国東海岸・漁村社会の近代化と文化伝統
序 章 問 題 の 所 在
高 橋 統 松 本 誠 東洋大学アジア・アフリカ文化研究所と韓国 の安東大学校・民俗学研究所は,「地域社会の近 代化と伝統的価値観」について現地調査による 共同研究プロジェクトを組み,平成6年(1994) から4年計画でこれを実施してきた。そして前 半の2ヶ年は日本の山陰・島根の東石見地方 (大田市〉の漁村と山村(五十猛町大浦と水上 町〉でフイ}ノレドワークを行った。その調査結 果をどのような形でまとめるかについて双方で 話合い, とりあえず調査報告は各々の研究機関 で別個に発表する,ということになり,私たち はそれを平成7年 (1995)度のアジア・アフリ カ文化研究所の F研究年報』誌上で公表した。
これは,もちろん使用する言語や翻訳の問題な ど,短時日では処理できない事柄があるからだ が,同時に研究所の研究費による調査の成果は できるだけ早くまとめて発表するのが望ましい と考えたからである一一一日韓の共同研究プロジ ェクトと言っても,渡航の旅費を含め調査費そ の他,すべての費用は双方の研究機闘がそれぞ れ自己負担としている。
さで,後半の2カ年は韓国の慶尚北道蔚珍郡
〆 (蔚珍郡竹辺面〕
浦項
竹辺面の漁村を調査地とし,平成8年 (1996) からフィールドワークを実施した。その調査結 果のうち, とりあえず私たちの分をまとめて報 告・発表するのが本稿である。もちろん前回の 山陰・東石見の場合もそうだったように,調査 期間中に双方で情報交換をし,若干の討論も行 ったが,研究の全般的な枠組はともかく,調査 方法や具体的な技術上の問題での細かなやりと りは,ほとんどしていない。その必要がなかっ たわけではないが,そうしたことに神経をわず らわすのは得策ではないと考えたからである。
韓国語については,私(高橋〉以外の日本側 のメンバーはほぼ支障がなく,調査にあたって これが障害になることはなかったと言ってよい。
なお,韓国の調査地が漁村だけで山村が含まれ ていないのは,私たちにそれをカパーするだけ の余裕がなかったこと,及び安東大側の説明で は近くに調査に適した山村がなかったからであ る。山陰・東石見の場合は,石見銀山を擁した,
天領としての共通の社会=文化圏内にある,漁 村と山村を比較対照しながら考察したことで,
その成果が著しく上った経験があっただけに,
私たちとしては,韓国調査の場合もできたらそ うしたかったのである。韓国でのフィールドワ ークを終った現在でも,その意味では私たちの 方法論を一貫して適用できなかったことに,淋
しさと悔いがのこる。
というのは,山陰・東石見の場合は,近世の
〔竹辺里〕
鳳 坪 皇
‑12一(133)
中頃まで銀山の影響でかなり繁栄したこの地域 が,銀山の衰退と共に急速に低迷し,明治以降 とくに戦後の高度経済成長期から過疎・高齢化 で全く停滞してしまっているのに対して,以下 にみる如く,この慶北・蔚珍地方は近年,原子 力発電所の開設により急速に発展し,その影響 は調査地の漁村・竹辺だけではなく,周辺=後 背地の農・山村にも広く及んでいるとみられる からである。そうした意味では,もっと調査メ ンパーが補強され,資金面ももう少し余裕があ り,且,時間的にもさらに調査期聞があれば,
山村地区も含んだフィーノレドワークもできたで あろう。そうすれば,山陰・東石見との比較が,
より効果的に考察できたのではないか,と私
〈高橋〉自身はいまも,思っているわけである。
いずれにしろ,山陰・東石見の漁村〈島根県 大岡市五十猛町大浦〉と慶北・蔚珍郡竹辺面の 漁村一一特に集中調査したのは竹辺3里ーーを 較べると,現在における情況は一方がほとんE 停滞・低迷しているのに,他方が繁栄・発展し
ており,かつてはそれが逆であったとみられる だけに,近代化との関連という視点からすると,
問題は次の二点に要約できょう。
それは,①漁村社会としての共通性が,その ことにどのように構造・機能的に作用してい るか,②それとの関連で,日韓それぞれの文化 伝統 (culturaltraits)がその場合,どのような 差異として現われるのか,ということである。
本稿の以下の記述・考察で,こうした視点がど
の程度,徹底できるか,前述のように2ヶ年と いう短い期間での不十分な収集資料による分析 では,心もとない成果としか言いようがないの だが,とにかく私たちなりに,何とかまとめた 調査報告として,お読みいただき,お気付きの 点をいろいろ御教示下されば幸である。
現地でのフィールドワークは,平成 8年 (1996)の8月, 12月,平成9年(1997)の2月,
8月, 11月にそれぞれ約8.‑...‑10日間実施し,こ の聞に東洋大のアジア・アフリカ文化研究所及 び安東大の民俗学研究所で研究集会を数回聞き,
最後に調査終了後の1997年11月18日に安東大キ ャンパスの文化会館の小講堂で,共同研究発表 会がもたれた。これについては,別稿で松本誠 一研究員が触れるので,本稿では省くが,いず れにしろ,ここに至るまでの安東大側スタッフ の御尽力,特に民俗学研究所長・李南植教授,
前所長・千恵淑教授,名誉教授・成柄轄博士,
金美柴講師(東洋大大学院修了,社会学博士〉
の諸氏には心から御礼を申上げたい。なお, II 章の執筆者として安東大側の金美柴博士の他に,
奥間葉子氏がいるが,同氏は前稿〈山陰・岩見 の調査報告〉にも執筆しており,当時は本学大 学院生であったが,現在は韓国の慶北大学校の 日語日文学科講師である(社会学博士〉。調査 地ではお名前をあげきれない程,多くの方々に たいへん御迷惑をおかけしたが,皆さんから温 い御協力をいただき有難く感謝している次第で ある。
‑ 13一(132)
韓国東海岸・漁村社会の近代化と文化伝統
I 蔚珍郡・竹辺面の概況と 歴史的背景。
松 本 誠 一
1 .
蔚珍郡の位置と歴史われわれの主な共同調査地は慶尚北道蔚珍郡 竹辺面である。
ウルチン(蔚珍〕郡は慶尚北道の東北部に位 置する。北は江原道に接し,東は東海(日本 海〉に面する。現在の郡城は南北に約70km, 東西に最大幅で約40km,面積は988.8平方km
である。郡内の海に面した行政区域は,北から 北面,竹辺面,蔚珍邑近南面,遠南面,箕城 面,平海邑,厚浦面である。山聞に位置する行 政区域は,蔚珍巴に連なる商面,平海邑に連な
る温井面である。
郡庁所在地は蔚珍邑で,ここからソウルまで 334km,テグ〈大郎〉まで227km,ポハン(浦 項)まで123km,カンヌン(江陵〉まで123km の距離になる。近い空港はポハンかカンヌンで,
車でスムーズに行っても,それぞれ約2時間を 要する。蔚珍邑から東ソウル・ターミナルまで,
高速ノ守スで5時間半から6時聞かかる。東海岸 沿いに南北を結ぶ国道は,現在はすべて舗装さ れており,パス便も快適になったが,韓国内で ソウルから「もっとも交通不便な地方」の一つ であるという位置付けに変わりはない。ポハン からサムチョク(三惨〉まで鉄道(東海中部 線〉を建設する計画や, 「蔚珍空港」構想も小 耳にはさんだ。いずれ,鉄路と航空路が開設さ れれば,比較的温暖で風光明眉なこの地方の開
発が加速されるのは疑いないところであろう。
蔚珍郡の行政区域,世帯,人口を1996年度郡 資料と1972年の「セマウル総覧』に掲載された 数値を比較すると表1‑1の通りである。 1970年 代以降,人口は減少しているが,自然部落2)数 と世帯数が大きく増加した。景観として新興住 宅地が目立つことがこれに関連しているであろ
つ。
郡総人口は過去20年間,減少し続けている。
行政区域ごとにみると,山間2面の人口がもっ とも少ない。しかし,郡北部の北面,竹辺面,
蔚珍邑,西面では1990年代に入って,若干の増 加傾向に転じている。これは後述のように,蔚 珍原子力発電所の稼働に伴う現象とみられる。
蔚珍郡の経済は,道内では総生産高,および 一人当たり総生産において近年高いランクに位 置している。これは原子力発電所を郡内に抱え ていることに大いに関連している。従事者数を 産業別にみると,「卸小売り」・「飲食宿泊業」が 約40%と,他郡市に比べて多い。これは白岩温 泉〈温井面〉・徳郎温泉(北面),厚浦港(厚浦面。
欝陵島への定期高速旅客船が発着〉・竹辺港(竹 辺面),海岸各地の海水浴場〔写真
1‑ l J
,海釣,天竺山仏影寺(新羅時代に当たる 651年創建。
曹渓宗の尼寺〕と仏影渓谷キャンプ場(西面),
鍾乳洞聖留窟(近南面),国宝新羅碑や数々の歴 史的・文学的由緒のある楼亭などの史蹟等の観 光資源があるので,それに対応するものであろ うか。温泉地では観光ノ宅スが続々やって来ると いう光景が見え,大人数を泊めるホテル等もあ るが,それ以外のところでは乗用車の客が目立 ち,小規模の宿泊施設・民宿が多数ある〔写真 1‑2J。新鮮な魚貝類の料理を出す飲食庖も多 い。漁業・農業・製造業・建設業などその他の 産業従事者率は他郡市に比べて低い方である。
表1‑1 .蔚珍郡の行政区域と世帯・人口比較 (1972年と1996年〉
邑(町) 面(村〉 行政桐皇 自然部落 世 帯 人 口 │平均世帯人員 1972 8 184 328 19,673 5.63 1996 2 8 196 398 23,390 70,315 3.01
‑ 14ーく131)
郡内の西部は太白山脈に連なる山地があり,
東に流れる河川の下流域に形成された平地に比 較的まとまった水田地帯が広がっている。上述 のように,郡内に市はなく,蔚珍邑と平海巴の 2邑(町〉があり,ここは山がちな東海岸地方 にあって,そうした平野に発達した町で,また 山間面との交通の結節点でもある。それぞれに 蔚珍郷校〔写真1‑3Jと平海郷校を保存してい る。また,門中や郷人が先賢を記念して組る書 院,調堂も郡内諸所にあり,蔚珍は東海岸地方 でも儒教の盛んな所だったと伝える〔写真1‑
4, 5J。
蔚珍という地名の発祥は,紀元7世紀に新羅
後背の山地から得られた。また,倭賊等の賊変 や自然災害の折にこの地方は都から遠かったの で,都からの公的な救援物資を待たず,地方官 である守令が私的に救荒していたが,そういう ことが守令に可能だったのは,この地方の生産 力の高さを窺わせる。そして,金教授は欝陵島 に倭人が頻繁に出入りしていたので,倭人との 接触の可能性が蔚珍人には多かったと推測する。
1663年(顕宗4年), 五島人3名が蔚珍県に漂 着したので,食料と衣料を与えて釜山倭館経由 で帰国させたという記録もある(金畏鍾「朝鮮 時代五│ 蔚珍地方斗 役割J1997)。
の大軍がこの地に攻め入った時,「山川が蒼蔚
2 .
竹辺面の概況と歴史 として,珍貴な宝貨が多産」なので,蔚珍の地名が付けられたと伝えられる。それ以前のここ の地名は,部族国家時代に「波朝」あるいは
「波旦J,漢が四郡を置いた頃の,漢武帝時の探 検家,張需の漂着伝説に因んだ「仙桂J(仙人 の乗った船の意味),高句麗時代に「子珍也郡」
あるいは「古子伊郡J,新羅時代に「子珍郡」な どの地名変遷を辿れるという (rlf'蔚珍郡誌』
1971。慶尚北道・慶北郷土史研究協議会「慶北 マウfレ誌dJ [韓国語
J
1990)。また,高句麗の支 配下に入るまでは,悉直(三捗を中心とした国),次いで東穣,三韓時代に弁韓に属した。現在は 蔚珍郡に属している平海は蔚珍県とは別個の県 を成していた時代もあった。蔚珍郡(県〉は歴 史的に,江原道側に属したり,慶尚道側に属し たり, ということを繰り返した。
金畏鐙教授(安東大学校史学科〉によると,
蔚珍の李朝時代を通じての歴史はその国防上の 地政学的重要性から説明されるとする。その根 拠は,支配層の蔚珍の重要性に対する認識と,
城郭築造の跡である。さらに,軍兵を多く置い たので,そのための屯田を開発,製塩場を聞い た。金畏鍾教授は塩業史研究の専門家としての 立場から,李朝初期に製塩場数が蔚珍に61カ所,
われわれは竹辺を主な調査対象地としたが,
竹辺は蔚珍邑の郡庁所在地から北へ約8kmと 比較的近く,竹辺面になる以前は蔚珍邑の一部 であった。
竹辺面は,蔚珍邑の北に接し,蔚珍邑がこの 地方の中心となる以前には,現在の北面や竹辺 面がこの地方の中心地であった時代もある。竹 辺面の面積は18.3平方km,そのうち林野9.5, 耕地4.4, その他4.4平方kmで,林野面積が 広い。 1997年1月1日現在の竹辺面事務所に掲 示されていた「管内基本現況」の数値に沿って 概況を眺めてみよう。
表1‑2.竹辺面の行政区域(1997.1. 1) 塁 洞 │ 分 洞 l自然部落 班
4 15 21 97 上の行政区域中の里洞は竹辺里,後亭里,花 城里,鳳坪里の4法定里。分洞は行政里に当た
り
, 1"1"辺に 5里,後亭に 4里,花城に 4里,鳳 坪に2塁の計15里である。 1996年に入手した面 内各行政区域の資料(表1‑3)に行政里が見え る。
江陵に40カ所,蔚珍に48カ所と,蔚珍に多かっ 自然部落21はその一つ一つの名称を照合しえ たのも,蔚珍の軍需塩確保の役割が高かったか ていない。 1990年発行の「慶北マウル誌」では,
ら,とみる。塩焼きをする燃料の多量の木材が 竹辺面に表1‑4の12里中に23里洞を掲載して
‑ 15一(130)
韓国東海岸・漁村社会の近代化と文化伝統 表1‑3.竹辺面行政区域別世帯数および
男女別人口 (1996.6.29現在〕
│ 世 帯 数 │ 人 口 │ 男
│
女合 計 │ 山7
I
刊 oI
4, 911I
4, 7ω 竹溢1里 317 953 484 469 竹漫2呈 411 1,259 632 627 竹透3里 493 1,471 779 692 竹議4里 381 1,133 583 550 竹漫5里 499 1,689 855 834 後亭1皇 214 648 333 315 後亭2里 52 160 74 86 後亭3呈 297 971 486 485 後亭4里 30 104 51 53 花城1里 58 156 70 86 花城2畏 68 197 92 105 花城3里 58 165 82 83 花城4塁 28 69 37 32 鳳坪1里 101 295 146 149 鳳坪2里 140 410 207 203いる。これを1917年発行の「新│日対照朝鮮全 道府郡面里洞名称一覧」と対照すると, 4里 洞 は「新里洞J(朝鮮総督府が1910年代に推進し た旧里洞の合併によって合わされた里洞〉に該 当する。分洞がおおむね旧韓末の「旧里洞」に 当たる。自然部落数はこの分洞に対して,近年
に新しく宅地開発されたり,混住化による人口
・世帯増で分区された区域を足した数と思われ る〔写真ト
6 J
。表1‑4の様に2著を対照してみると,「慶北 マウル誌」に見える,里洞の成立伝承が古い里 洞中にも, F新│日対照朝鮮全道府郡面里洞名称 一覧」で記載の見えない里洞がある。いずれも 古い成立伝承を持つようで,「新旧対照朝鮮 全道府郡面里洞名称一覧』に漏れていた里桐が F慶北マウル誌」では追加されているようだ。
竹辺里の1里が本来の竹辺里で, 1里から4 里が (40年ほど前に), 2里から5里が (1988 年頃に〉分けられた。 1972年「セマウル総覧』
では4里まで分かれている。 1皇と2里の分か れた時期は未詳である。竹辺5里の中で3里は 昔からのまとまりを保持し,竹辺の他里のよう に行政区域分けを行なってこなかった。ただ,
現在, 3里区域内にも転入者が増加してきてお り,混住状況も現れつつあるので,将来は行政 的に分区されるかも知れない。
15行政里のうち,花城は山間で世帯数・人口 ともに少ない。竹辺里・後亭里への人口集中が 顕著である。近年,東海岸海村を集中的に調査 している権三文氏(亀尾市博物館〕のまとめに よると,竹辺の世帯数増加は表1‑5の よ う な
表1‑4.1'1'辺函里洞新旧対照表 (1917,1990年〉 1990年「慶北マウル誌」
1.竹溢里 (1,2, 4, 5里〉 2.竹港3里(燦燈洞〕
3.後亭1里(後塘呈) 4.後亭2星(梅亭皇〉
5.後亭3里(防築コル〉
6.後亭4里(松亭,土橋里,スィジン里) 7.花城1箆(花坊塁)
8.花城2塁(凡祥,東幕,鑑台毘〉
9.花城3里(龍場,メヌンイ里=鷹眼畏) 10.花城4里(城内里)
11.鳳坪1里(骨長里, タノレトンネ=牟羅呈〉
12.鳳坪2呈(鳳坪塁,朴実里)
1917年「新!日対照星j同名称一覧」
竹 透 里 竹 漫 洞 竹遜里 :峰崎洞 後 亭 塁 後 唐 洞 後 亭 里 梅 亭 洞 後 亭 里 松 亭 洞 花 城 塁 花 坊 湘 花城恩凡祥打開,甘大;同 花 城 里 龍 場 洞 花 城 里 城 内 洞 鳳 坪 皇 骨 長t同 鳳坪里草坪洞,朴谷洞 花城里遠北面柿木禍一部 鳳坪里松亭洞一部
‑ 1 6一(129)
年
表1‑5.竹辺と燦燈の世帯数変化
i
竹 透 │ 燦 燈72
I
35164 (日本人世帯11を含む〉
833 1 185 l,654 500 1907
1929 1979 1997
急増傾向を示している。
竹辺におけるこの世帯数の急増要因は従来,
東海岸について言われてきたことと,権三文氏 の指摘するところを考え合わせると,植民地下 の港湾開発と自動車交通の導入による漁業の進 展と日本人の移住, 1950年代の朝鮮ー争にとも
なう北(成鏡道〉からの避難民の流入, 1960年 代の済州島海女の移住, 1970年代以降の原子力 発電所建設・稼働に関連する移住などである。
竹辺では幼児も多く見受けられるなど,自然増 も十分考えられるが,それを統計上で確かめて いない。
第1次産業の農漁業従事者世帯数は合わせて 34%とまだ高率である(表1‑6)。その他では 第2次産業の製造業が脆弱であり(I‑表9 ,) 原子力関連と第3次産業のサービス業の比重が 高い。農家の経営規模は表1‑7のように大き くない。農作物は米が中心であるが,スイカや 琉菜類の中に蔚珍の特産品がある〔写真1‑7
~15J 。
次に,竹辺の歴史的背景を概観する。根拠史 料は不明(三国遣事,三国史記には見えない〕
であるが,『蔚珍郷土誌』に「新羅は真興王10 年 (549年〕に竹辺に土築を造成し,水軍2,000 名を置いた」とか, 「新羅は, 蔚珍邑中心地か
ら北部に当たる,現在の竹辺面後亭里に長山城 を築き,そこを中心に水陸軍2,000名を常駐さ せ,玉県を置いた」と記されている。玉県は,
飛良県(蔚珍郡平海面に邑所在地),首比県(英 陽郡首比面),太白県(秦化郡小川面),北山県 (三砂郡遠徳面),子山県(欝陵島〉で,長山城,
表1‑6.竹辺面の産業別世帯・人口 (1997.1. 1)
総 計 農 業 漁 業 そ の 他
家口(世帯〉 3,234(100%) 542(17%) 563(17%) 2,129(66%) 人 口 9, 731 (100%) 1,558(16%) 2, 143(22%) 6,030(62%)
農林業経営面積 戸 数
0.3ha未満
表1‑7.竹辺面の農家経営規模別戸数(1997.1. 1)
2ha未満
Li
‑ ‑
ロ
542 301
0.5ha未 満 228
1ha未 満
11 2
表1‑8.竹辺面の農作物生産規模 (1997.1. 1)
食糧作物の種類 計 米 麦 類 旦 類 雑 穀 イ モ 類 271 208 13 33 8 9 生 産 量ton 1,196 925 32 47 23 169
表1‑9.竹辺面の製造業規模 (1997.1. 1)
製 造 業 水 協 冷 凍 韓 水 水 産 泰 勲 産 業 月城総合食品 生 産 品 目 製 氷 製 ラk カ ニ 肉 食品加工 年 間 生 産 量 ton 4,767 2,500 1,450 900
従 業 員 数 6 5 210 33
韓国東海岸・漁村社会の近代化と文化伝統 すなわち竹辺の近くは古代において,現在の蔚
珍郡より広い範域の中心に位置していたことに なる。
歴史的説明によると,後亭里の東に隣接する のが竹辺里で,新羅は竹辺の岬の高台を海岸防 御の軍事上の要所として兵を配した。現在,篠 薮の群落があちこちに残り,竹辺の地名もそれ に因むものと推察されるが,矢を作るために横 えた笹であろうか。竹は地下茎が延びて繁殖し ていくので,離れた場所に生えていれば人が何
らかの目的で運び植えたものである。
またその高台に狼煙(のろし〉台が設けられ た〔写真1‑16J。龍椴岬に突き出た半島の南側 に竹辺,北側に;峰山由(ポンス里あるいは摘。燦 擢洞も同じ〕の2集落があった。ポンスの地名 はのろしの意味であり,海岸線の警備と通信に 因んでいる。「慶北マウyレ誌」では,燦燈洞の歴 史について, 1750年頃から達城徐氏が初めてこ こを開拓し,その後,金氏,朴氏,李氏等が入 居した, と伝承を採録している。われわれが現 在の長老から聞いたところでは,金海金氏が最 初といい, 200年前には僅か3軒のみであった という。竹辺の成立は古いが,:峰山由の成立は比 較的新しい様である。
ここの地勢のもつ軍事的意義は時代が変わっ ても異なることが無く, 日露戦争時に日本軍が ここに望楼と灯台を設置し,第2次大戦時には 砲兵が駐屯し, B29の爆撃を受けた。解放後は 米軍が入り,現在は韓国軍が守っている。
日本との関係についても「蔚珍郷土誌』は多 くを書いている。ほとんどが被害を受けたとい う記録であるが,新羅末 (900年頃〕 には倭冠 が竹辺港に入り,そこを拠点に長山城を襲撃し,
城は破壊されたため,もう少し内陸部の別の場 所に城が設けられた。 14世紀には倭冠の蔚珍侵 入が頻繁に起こった歴史がある。ところで,最 近の倭冠研究によると,この時代は前期倭冠が 活発化した時期で,彼らの構成は対馬・壱岐・
松浦地方の海民(三島倭冠),高麗の禾尺・才 人,済州島の海民という (IF角川新版日本史辞 典dl1996)が,蔚珍を襲った倭冠はどういう構
成であったろうか。
なお,壬辰倭舌L(秀吉の朝鮮出兵〉時には,
小西行長の支隊が蔚山に上陸して北上した軍勢 が,現在の北面,徳川里(徳今洞と退川洞から 1字ずつ取った地名〉辺りで民兵を率いる「金 乙倫義将」の軍と激戦し,双方に軍卒と兵馬の 死傷がはなはだしく,遺体を海浜に埋葬したと いう話が伝えられている。その場所は馬墳洞と して,今も地名に残り,記念石碑が建てられて いる。これも竹辺の近くである。
ただ,植民地時代に竹辺で漁業を展開した日 本人については, 「解放後, 皆日本に引き揚げ てしまい,その子供たちがいるはずなのに,ま ったく訪ねてこない」と,悪いことをしなかっ た人たちという文脈で語る老人に出会った。農 民の場合は耕地を取り上げるということがあっ たかも知れないが,漁民の場合は海の沖合を新 規に開発したので,利害相反することがなかっ
たのだろうか。
3 .
蔚珍原子力発電所韓国の原子力発電による電力供給は1978年か ら始まった。現在,釜山広域市古里4基,慶尚 北道月城1基,全羅南道霊光4基,蔚珍3基の 計12基が稼働している。 1997年11月に蔚珍の3 基目が試験運転を始め, 1998年1月より本格操 業に入った。これまでの原発は外国技術に多く
を負っていたが,蔚珍3号基は韓国標準型とい われる国産比率の高い原子炉(軽水炉百万キ ロワット〉である〔写真1‑17J。
蔚珍原子力発電所はフランスの技術を導入し,
竹辺5里にフランス人のエンジニアなどが100 人以上住んでいた。彼らのために,欧風の住宅
が建設された。 1990年代初めに 6~7 名のフラ
ンス人が残っていたという。一見して,住宅景 観の異なるその区画には現在,韓国人エンジニ
アなどが住んでいる〔写真1‑18J。
韓国電力の広報冊子(記年はないが,掲載文 面から1996年発行〉と,韓国原子力文化財団が 原発の必要性と安全性を宣伝するために作成し
‑ 18一(127)
た漫画誌 (1996年7月作成〉を1996年8月に蔚 珍原子力発電所を見学した際に受け取った。電 力弘報館と展望台が発電所敷地内にあって一般 公開されている。
蔚珍原子力発電所は蔚珍郡北端の北面に位置 する。そこから5キロメートル以内に住む住人 は「恵沢」を受けている。上述の広報冊子に
「地域発展の本当の同伴者」 という頁があり,
その内容を紹介しておく。
発電所周辺地域に1,054億ウォンを支援し,
住民福祉の向上と所得増大に努力しています。
発電所周辺地域支援
発電所周辺地域の開発を促進するために,発 電所周辺地域支援に関する法律を制定, 95年に は260億ウォンを支援しました。 95年末までの 支援規模は計1,054億ウォンに達しています。
地域支援事業としては,地域住民の所得増大事 業とマウノレ会館建設,道路舗装等,福祉増進の ための公共施設事業,および教育機資材供給,
奨学金支給等の教育環境改善のための育英事業 等が行われています。特に96年には支援法律の 改正に伴い支援金額が大幅に増加され, 計776 億ウォンが支援され,特別支援事業として原発
〔原電と略している〕周辺地域の住宅用および 産業用需要に対する電気料金を補助する一方,
住民の所得増大および生活安定資金を融資する 起業融資支援と周辺地域学校教員に研究補助費
を支援しています。
地域協力事業
韓国電力は付属「ハニノレ病院」診療チームを 通じて毎年,巡回移動診療を実施して,発電所 近隣住民の疾病を無料で検診,治療しています。
また婦女会〔婦人会〕を中心に,発電所周辺地 域産物を共同購買して,住民の所得増大に協力 しています。また,全国の〔韓国電力〕事業所 では「一事業所,ーマウノレ扶助」事業を実施し,
近隣マウルと姉妹関係を結び,各種支援を通じ て住民の営農意欲を鼓吹する一方,地域の伝統 的な文化行事も支援し,地域文化の活性化にも 貢献しています。特に職員採用時,発電所周辺
地域住民に優先的を雇用して地域経済の活性化 に寄与しています。(松本訳〉
上の引用文中に見える金額は全国レベルの数 値である。蔚珍原発の周辺ではどれくらいの金 額が投じられているのか。断片的な資料しか得 ていないが,いくつかを見てみる。蔚珍郡1997 年度特別会計予算のうち原子力発電所周辺支援 事業費として, 42.1億ウォンが組まれている。
一般会計は1,092億ウォン〈総歳入〉の規模で ある。それとは別に,原発から竹辺面に与えら
れる「補償金」の総額が年間 5~6 億ウォンに 達する。住民 1 世帯当たり 4~5 万ウォンの
「補償金」と,電力料金の90%が割引されてい る。あるいは半年ごとに,電気代補助金の約4 万ウォンが直接住民世帯に入る。われわれが共 同調査に入った時期は,ちょうどこういう金が 住民の懐に入り始めた時期に当たる。
1980年代半ばには建設作業に3,700人ほどの 従事者がいたが,竣工後の1991年には建設業従 事者は200人台に減少する一方, 1,0∞人前後の 原発従事者が現れた。原子力発電所での雇用機 会も生じた。事務,土木作業,除草,展示館案 内等の仕事がある。月収50万ウォンくらいにな る。竹辺面でアパート建設が進んでいるのも原 発効果という認識がもたれている。通勤者の車 で道路が混むようになったともいう。
蔚珍原子力発電所の建設計画が発表されて以 来,建設予定地に近い近隣住民はその安全性に ついて不安を感じ,問題にした。デモもした。も しもの不安はあるが,このように周辺地域に公 的資金が投入され,現在はいわば「原発との密 月」に入札開発・環境整備工事が進んでいる。
住民団体も,その主催する行事に対する賛助金 を原発に求め,それを受け取る構図が出来上が っている。地域のイベントに対して100万ウォ ンずつくらいの補助金を受け取る。面体育大会 では700万ウォンの補助金を受けた。引用文中 の「起業融資支援」は実際にどの範囲に行き渡 っているのか。これを目当てに転入する例が多 くなっているとすれば,何年も経ないうちに原
韓国東海岸・漁村社会の近代化の文化伝統 発周辺地域への多額の社会投資を失ってしまう
であろう。いずれにせよ,さしたる産業もなく,
漁業資源も近年は「枯渇状態」と言われる状況 の中での,竹辺周辺の活況を目にすると,原子 力発電所関連の経済効果は無視できない規模で
あると窺われる。
i主
1) 蔚珍郡庁と蔚珍文化院竹辺面事務所,竹辺水協 には資料収集やその他の面でも便宜を受けた。
ここに記して誠意を表する。
2) r自然部落」は現在韓国の地方政行用語として使 われている語である。詳しくは松本1984r韓国 の〈自然部落〉について}1'東洋大学アジア・アフ
リカ文化研究所研究年報』第四号も参照。
‑ 20ー(125)
係者の往来がある。これは住民としても,統制
E 正月告示日と豊漁祭
しょうがないのが実情である。また,地区内で 一一東海岸ポンスジンの祭儀と村組織 はあるが,在来戸の立ち並ぶー画から少し離れ松 本 誠 一
1. はじめに
竹辺3里 (3区 〉 を 漁 村 契 で は ポ ン ス ジ ン (ポンスジン〉という。漢字ではいくつかの表 記例を見ている。たとえば,ポンは「燦」また は「火偏に逢j,スは「燈」の字,あるいは「山 の下に田」か「抽」の字を作っている。ジンに 当たる漢字を見ていないが,発音とそこの地形
・生業に合わせれば「津j (写真II‑2参照〕。
ポンスドン(洞〉とも言う。文献にはポンス台 とも見える。ポンゲと呼ばれるのは,他所の人 が知らずにそう言うだけのことだという。
ここでは,毎年陰暦1月14日晩の儀礼を中心 として正月告租を行い,陰暦10月14日から16日 頃まで豊漁祭を行う。ここではその1997年の事 例概要を紹介するが,その資料は事前・事後に 聞き取りをした際のメモと,現地でその実際の
「観察を試みた」折の記録である。なお,儀礼 を断片的にビデオで撮影したが,本稿ではその 記録はあまり活用していない。
「観察を試みた」というのは,できなかった部 分があるからである。村民中から代表として選 ばれた祭官たちが堂に供物を捧げて祈願する儀 礼の最中は,祭官たち以外の他の住民は外出し ではならないという不文律があり,これは韓国 の他の地方でも本来は一般的なものであったと 思う。しかし,時代の変化につれて,この禁忌
も緩んでいる所が多く,外部から来たテレビ局 取材チ}ムや写真家,民俗学者などの調査者は 例外待遇,あるいは無視してくれる例も多くな っている。この現地では主催者たちはこの不文 律を守ろうとしているが,地区内に外部者(r客 地の人j)が始めた民宿,飲食庖,喫茶庖などが 深夜でも営業をしており,そこへの客や商売関
た区域に新しいアパートも建っており,ここに 住む転入者は在来の行事に関係をもたない。ほ とんど没交渉であるのでその日に祭りがあるこ とすら知らない場合もある。
こうした調査地の状況と,当初の情報提供者 のニュアンスから,われわれは正月告加の儀礼 の直接観察が許容されるだろうと判断していた が,部外者たる調査集団 (10名近くいた〉が儀 礼の最中に周囲でうろちょろすることは制止さ れるべき行為じ関係者間で話し合われたよう で,儀礼の一つは当初聞いていた時刻を早めて 終わっていた。
11月の豊漁祭の折には,同じ事が事前に豊漁 祭の責任者である漁村契長から,正面からは言 いにくそうながらも,強い口調で「堂での告示E の時は外出禁止」を申し渡された。彼にこうい
う言葉を言わさざるを得なくなった結果になっ たことを,申し訳なく思うが,ここに「外出禁 止の禁忌を厳守すべき」という区内の意見が今 も強く働いていることが窺え,「それを破ると 悪いことが起きる」という信仰心も残っている ことの証左であろうか。城陸堂での「トンネ告 把」は秘儀として,われわれの目から遮断され たのである。禁縄や黄土の外部者に対する行動 規制の意味を知っていながら,それを破ろうと する調査者の業は「不浄」に分類されたわけで ある。一方,竹辺1里の方では青年会が儀礼を 文化財として記録するということで,写真やピ デオを撮っていたようである。
2 .
正月告和(城陸祭〉正月告加は「ポルムナル・チェーサj r城陸 祭」ともいう。 1997年は2月21日(金。陰暦1 月14日〉と22日にかけて行われた。儀礼の展開 過程を記す前に舞台設定を説明しておこう。ポ ンスジン地区の一番の高台はのろし台跡である が,そこからは少し離れた場所に,ポンスジン の 集 会 所 で あ る 会 館 (1992年頃建設〉がある
韓国東海岸・漁村社会の近代化と文化伝統
〔写真11‑2
J
。ここも周囲の見晴らしのよい場 所で,その側にハラボジ(ハyレベ。爺様〉堂が ある。ヒャンナム(イブキ〉の古木とその前に セメントで固められた祭壇があり,周囲は塀で 因われている〔写真III‑1J。昔は聖所はハラ ボジ堂だけがあった。家が増え,海浜に面した 崖下にハルモニ(ハルメ。婆様〉堂が創建され た。ハノレモニ堂には堂洞があり,周囲は塀で隔 てられている〔写真皿‑2。なお1‑2参照〕。位置的にハラボジ堂が高台に存在し,ハルモニ 堂は低い場所に存在するので,それぞれをサン ダン(上堂),ハダン(下堂〉とも呼ぶ。ハラボ ジ堂は村を代表し,ハルモニ堂は海を守る。漁 業者にとってはハルモニ堂が大事で,竹辺の造 船所で進水したポンスジン住民の所有船は岬を 回って,ハノレモニ堂近くまで来て,海上から参 拝するのを目にした〔写真III‑3,4J。
ハルメ堂内部の内壁に,刻字されている板が 掛っている。それには以下のような内容が縦書
きで刻まれている。
燦山由;同 城陸洞
奮祉新駕何不成秩 之 在 傍 赫 明 伏 惟 臨神霊其有否享輿 不享在誠有無千秋 高 歳 蕊 芽
大韓光武十一年了未三月 日 洞首(氏名〉 洞長(氏名〉
成造(氏名) (氏名〉
尊位(氏名) (氏名〕
頭民(氏名) (氏名〉
頭民(氏名) (氏名〉
書刻(氏名〉 扶助(氏名〉
(氏名〉
「大韓光武十一年」は1907年で,90年前に当た る。ハルモニ堂を設けた理由としてハラボジ神 のみでいるのではなく「夫婦でいるのが当然だ から」で,両堂を祭るようになった結果「漁が
よくなった」 というのを聞いた。「蔚珍郡誌』
によると,漁獲の変遷について, 1900年代には サパとタラ, 1930年代から1940年代前半までは,
ニシンが豊漁で, 1960年代にはサンマとイカが 多く獲れた。とくにニシン豊漁の時期には,い たる所にニシン油肥製造工場が乱立し,東海岸 一帯の漁民は空前の活気を帯びたらしい。
「桐首, ?同長,成造, 尊位, 頭民,書家JI,扶 助」の役職名が見える。それぞれの職掌内容の 違いについては,詳らかでないが, ,.洞首らしい 洞首として最後の人」は, 10年ほど前に亡くな った。洞首は,父母に逆らった不孝者や,酒を 飲んで喧嘩したり,家庭やトンネの秩序を乱す ものを制裁する権威ある者で,人望識見の備わ った男性長老ということになろう。現在も「洞 首オルン」という言葉は耳にする。オルンには
「大人。目上の人。年寄り」の意味がある。洞 長は行政役所に対する里の代表者。成造(ソン ジュ〉はよその例では,家の神,収穫を感謝す べき神で,城主,成主とも書かれる。ここでは どうか,不詳であるが,里民を代表しでもっと も清浄が要求され,供物を準備する都家に相当 する者と推定される。この役は現在, トガ(都 家〉・チエース(祭首)・チエースチプ(祭需 家=供物家〕と呼ばれている。尊位については これという手掛かりを得なかった。厚浦近くの 例では,尊位が最長老層を意味していた九現 在の長老I氏 (79歳)の父親の名が尊位の下壇 にある。 I氏は1918年位の生まれになるから,
父の名は彼を産む10年も以前に刻まれていたこ とになる。子を産む前の人が記名されていたと なると,ここでの尊位は最長老層というもので もないようだ。頭民は,役職経験者の意味があ るという。書刻はこの額の作成者,扶助は後述 の使い走りであろう。
ノリレモニ堂内部中央の卓上には「城陸之神位」
と墨書された木札が立てて函に納められている。
竹の神竿も内部に納められている。両開きの板 扉外側には「立春J,.大吉J,内側には「建陽」
「多慶」 と墨書された韓紙が張られている。周 囲には藁縄の細い禁縄が張り巡らされている。
‑ 27一(118)
(1)祭官の選出
陰暦正月10日を過ぎてから, 3目前までには 祭官を決めておく。この度は10日前に候補者に 通知が出された。開発委員と区長,漁村契長な どが集まって, 3名の中,高年男性を祭官・祭 首として選出する。開発委員は区長が推薦して,
面長の任命を受ける公的な地元委員であるが,
無報酬。必要があるたびに集まり開発委員会と して里内の諸問題を協議する。 62,60, 57, 55, 54歳 (1996年8月現在〉の50代半ば頃から60代 前半位までの5名が開発委員の任に当たってい る。区長は任期3年で,開発委員が選挙管理委 員となっている,世帯主が投票する区長選挙で 選出される。漁村契長も開発委員の1人として 選ばれている。ポンスジンの在来戸のほとんど が漁業に関わっているというので,ここでは区 長と並んで日常的な重職である。なお,セマウ yレ指導者は誰か今では分からない状況になって u、る。
昔は祭首・祭官5名を選出していた。今は簡 素化,経費節約のため3名に減らした。供物と 儀礼後の会食である飲福の料理を自宅で準備す る祭首役を担うものは, とくに「清潔さ」を求 められる。料理となると,夫人のいる妻帯者で なくては勤まらない。一般に,候補に選ばれた と聞くと夫人に相談して,受けて立つことが可 能かどうかを確認して,受諾の回答をすること になる。若い夫人だと妊娠していたり,然りの 期間中生理に当たる可能性もあり,そうすると 不浄視されるので,大体は50代以上の夫婦が指 名されることになる。指名されれば断れないと いう。身体を清潔に保つため,体浴湯(公衆浴 場〕への経費が祭費の内から支給される。体浴 湯のなかった親の時代には,海で休浴したとい う。祭首に選ばれる人は祭官の経験者でなけれ ばならないということもないが,するべきこと が分かっている点で経験者が望ましい。 17年位 前までは, 「シムブルム」という役を担当する 10代の美童(理非をわきまえた一人前の子供。
未婚の 15~20歳) 2人も選んだ。呼び使いや,
指示をして掃除をさせたり,禁縄を張らせたり
の手伝いをさせる。電話が普及して(携帯電話 も持ち歩いている〉呼び使いの必要もなくなっ たなどで, 廃止した。「シムブルム」は「お使 い」という意味である。
蔚珍の他地区で見られた老班会はポンスジン では聞けなかった。竹辺では昔はあったという。
ポンスジンでは村の成立が新しく,近年にいた るまで戸数も多くはなかったので,長老層の形 成が伝統化されるまでにはならなかったという
ことであろうか。会館に老人会館の看板(木札〉
もあり,通常は会館自体が男性の老人会館(老 人亭〉として利用されているのが実態である
〔写真III‑5
J
。男性の老人会員数は16人で,こ こから隣区のアパートに他出した老人もよく顔 を出している(後でも触れる〉。老人会としては,正月も10月もポンスジンの祭りに関係はもって いない。
(2)儀礼の過程
陰暦正月14日の夜にハノレモニ堂,ハラボジ堂 で祭官たちによる,豊漁豊作
, i
同内安寧,家内 安全を祈る告加が行われ, 15日昼頃に区総会が 行われる。65歳の祭官は過去に6回ほど祭官の経験があ る。 40年前に釜山近くの密陽から転入して来た。
軍隊にいた時,紹介してもらった妻の故郷がこ こで,結婚後ここに住むようになった。妻の実 家は今はここにはなくなったが,続けてこのア
ノξートに住んでいる。昨年,若い人が祭首を担 当したが,若い人は苦労が多かったろうと察し ている。通知を受けたら用心して,喧嘩をしな い。酒を飲むなという規則はないが,酒を飲ん だら声が大きくなるので慎む。 11日から禁忌期 間に入った。祭首の家で作った禁縄は1週間前 から自宅の前に張り渡す。里内に2,3軒の農 家があるので,そこから藁を貰った。 12日から 祈稽を始めた。禁縄を張り,戸口の前に黄土を 置いておくと,アパートには他所から来た人が 多いが,気を使ってくれる。もしも,祭官の精 誠が不足していれば,何か悪いことが家族に起 こる。代わりの人を選び直すこともある。体浴 費は出してくれるが,自宅で休浴する。毎日は
韓国東海岸・漁村社会の近代化と文化伝統 しない。 3日前には念入りに洗う。
祭首はN氏。 '3と8の日」に立つ竹辺の市 場,それ以外の日は竹辺漁港の外販場あるいは 蔚珍の市場まで,祭需(供物〕材料を買いに出 る。マスクをして市場では一言もしゃぺらない。
夫も手伝うが,料理は夫人が作る。準備資金と して50万ウォンを預かった。祭首は5日から祈 祷を始めた。
もう 1人の祭首は副祭首のような役回りで,
56歳の区長自ら担当していた。
1997年2月21日(金。陰暦1月14日)20時30 分頃から,道抱(男性の韓礼服〉を着た祭官と 祭首2人(洋服〕がハルモニ堂に来て,告示日を 始める。城陸洞内部での儀礼の模様は見えない
〔写真田‑6
J o
15分ほどして,堂前に米か豆を 撤き,酒を撒いた。雑鬼払いであろう。次いで 中で焼紙が始まった。 21時頃には儀礼を終えて 出てきた。 1人は四角い箱を白布で包んで肩に 背負い, 1人はタライに供物を入れて頭上運搬 で運び,道抱を着た祭官は両手に少しの荷物を 下げて坂道を登って行った〔写真E一7]。 こ の後,われわれはN氏宅で飲福に与った。禁縄は19日(陰暦1月12日〉に張った。祭首,
祭官宅の門に張られているので,それと分かる。
ただし,黄土が門の辺りに点々と置かれていな ければ,出産など他の意味の禁縄である。 22日 (陰暦1月12日〕朝には外して, 大門前で燃や
された。
背は井泉の祭りも行った。上水道が引かれて からf子わなくなった。
ハラボジ堂での儀礼はわれわれのいない間に 済まされた。早めた理由は雨が振り出しそうだ ったから。事後に聞いた話では,この折には焼 紙は150枚以上を上げたが,風が強くて点火し にくかった。紙片に祭壇のロウソクの火をつけ,
住民一戸一戸の家内安全等を祈り上げる。漁家
が多く,関係の船舶が40~50隻あるので,ハ lレ
モニ堂では海難事故のないように祈る。その際 に火のついた紙片がうまく上がれば、,願いが聞 き届けられたということで, 3, 4回試みても うまく上がらなければ,本人に後でその旨を知
らせて,本人が自ら焼紙をする。焼紙の世帯順 は,最初に祭首,次いで祭官,そして東側の家 から順に,漁業者は個人名を挙げて1枚ずつ,
アパートは棟で1枚を彼等が代表して上げる。
23日(陰暦1月16日〉は漁業を休む日で,海 には出ないが,漁網の修理などを行ない,遊ぶ わけではない。毎月四日は,区長の持ち船の乗 員の給料日で,漁船修理をしていることもあり
1・2月は「遊び、J,陽暦2月18日に乗員が集 まって顔合わせをした。
(3)里総会と漁村契総会
22日の昼近く,区長が会館からスピーカー放 送で,里総会と漁村契総会の案内を流す。上半 期の総会で,陰暦6月に下半期の総会を行なう
という。皇内道路の登記に関する問題等が議論 されていた。また,正月告示日の会計報告で,祭 首から預り金の残金の報告があり,財政委員が 会計をまとめて,支出を締め,決算をした。漁 村契総会は1時半頃から2時頃まで行われた。
その後,参加者で一杯飲んだ。漁村契員は84名2)
ほどいるが,大体が忙しくて, 20~30名くらい しか会議に参加しないという。高齢者はあまり 総会には出てこない。親世代と子世代が同居し ている場合,世帯主を息子にしている世帯も数 世帯あり,家庭の都合で思うままに世帯主を決 めているという。
「約600世帯(面事務所の資料では500世帯弱〉
中,在来世帯は80世帯くらい」という。 10班ま で あ れ 第9,10班はまったくの転入者である。
区長は在来世帯の中から選出されているが,彼 と圧倒的多数を占める転入世帯との関係はどう なっているのか,具体的には全班長と区長との 接触頻度やその内容,転入世帯から区長への陳 情・要望等の関係については調査し残した。
3. 豊漁祭
竹辺3里の豊漁祭は同里漁村契が主催する。
1997年11月に行われた豊漁祭を, 11月13日(木。
陰暦10月14日〉から17日(月曜。陰暦10月18 日〉にかけて, 5日間にわたり,現地に滞在し て観察,調査した。われわれ東洋大学・安東大
‑ 29一(116)
学校共同調査団7名のほか,浦項文化放送のテ レビ・ドキュメンタリ一番組作成チーム,全南 大学校芸術大学国楽科チーム,ソウル大,精神 文化院,韓国民俗村の調査チーム,大郎文化放 送などからも取材に来ていた。
ここの豊漁祭は,城陸祭, ピョルシンクツ (別神祭),漁村契総会から成る。}jIJ神祭は 1年 置きに行なわれる。昔は毎年行なったが,経費 が嵩むため年を置いて行なうように変えられた。
r3 年ごと」というので,前回は~1995 年にあっ た か ら 次 回 は1998年と理解して,共同調査期 間中に別神祭は見られないと思っていた。しか し, 1997年はその年だということが分かり,r3 年マダJ(韓国語〉は「隔年」の意味で用いら れていたのであった。挙行間隔をあける傾向は どこでも同じように見られ,まったく廃止して しまった所も多い。東海岸の別神祭は,韓国の 亙俗中,独特な形態の一つであり,世襲・血縁 グループで活動しているという地方的特徴をも っ。援正如・徐大錫編著「東海岸亙歌dJ(1974) にその内容が紹介されている。昔は東海岸の漁 港を結んで活動するいくつもの亙群があったと いわれるが, 25年前の調査資料により著された
F東海岸E歌」で既に,金石出氏と宋桐淑氏の 2グルーフ。に減っていた。この2人は人間文化 財(人間国宝。無形文化財〉として著名で,国 際的な公演活動でも知られている。東海岸のム ーダンは自称「ムーダン」で,ムーダンとはそ の家庭環境により幼少から芸に磨きをかけてき た,自らの技に誇りを持つ者であるという位の 高い意識を有するという。
今回は,宋桐淑氏(慶尚北道第3号重要人間 文化財,豊持、祭技能保有者。盈徳郡居住〉とA 女6名(江陵, 厚浦など居住), 男性の楽士6 名が招かれていた。宋桐淑氏も70歳と高齢にな
り,将来も長くこの伝統芸が継承されていくか 懸念もされている。若い楽土の1人が語ったと ころによれば,「調査者は我々の活動を韓国固 有の音楽・芸能という観点、から高く評価するが,
クッ(奏神。 E区儀〕は本来宗教活動であり,勘 違いされている」という。芸術家としての道を
進んでいけば,キリスト教徒との葛藤ゃいろい ろな面で,前途が保障されるのか,宗教家とし て活動してこそ高収入が保障されるのか,岐路 に立たされていることへの悩みがあるのだろう か。別の若い楽士の1人は大学院に入学して民 俗学を学んでいる。
(1)城陸祭
13日21時から23時頃まで,ハルモニ堂とハラ ボジ堂で順次,祭儀が行われたが,豊漁祭の責 任者である漁村契長から,「この時間は都家,
祭官以外外出禁止なので,撮影もしないよう に」と禁忌を守るように要請されたため,ノリレ モニ堂の近くの民宿に閉じこもった。民宿の屋 上などから見守るなどした程度で,ほとんど聞 き取りの資料によって記述することになる。正 月告施と概ね同じ内容かと推察するが,異なる 点もあるので,正月告加と比較しながら,主に 異なる点を中心にその資料を紹介する。
事前に祭首1人,祭官2人を選出して,漁村 契長,区長らと共に祭前日の準備に当たった。正 月告把とは祭首,祭官の人数が違った。この城 陸祭では,調理に関わる祭首が1人と減り,祭 官は2人に増えている。祭首をトガ(都家),
その家をトガチプとも呼んでいる。昨年の祭官 たちの構成は73歳の祭官1人, 62歳 58歳の祭 首2人である。今年,祭首に選ばれたH氏は60 代。祭官B氏とY氏の年齢は確認していない。
今年の豊漁祭の儀礼を指導している79歳の長 老 I氏は35歳から73歳まで祭官を勤めた。数年 前に,距離的には近いが区外のアパートに越し た I氏はふだんもたびたび会館に顔を出してい る。
(2) }jIJ神祭
別神祭は, 13日の会場祭壇準備, 14日(金。
陰暦15日〉朝のタンマジ〈神迎え), コノレリプ (乞粒〉に続いて, 2日がかりのム}ダン(度 女〕と楽士たちによる別神クッの過程に分けら れる。
13日にムーダンと楽土が数台の自家用車で到 着して,会館で祭壇に飾る蓮花・菊花等,天井 から吊るす塔燈・龍船,クッの際に用いる紙帽
韓国東海岸・漁村社会の近代化と文化伝統 その他の製作をしている〔写真III‑8 ~10J 。会
場は以前はハルモニ堂の前の浜に天幕を張って 設営したが,現在は会館に変えた。会場変更し た理由として考えることは,浜の近くの家が減 少して,代わりに民宿や喫茶庖などの他所者が 入ってきていること,高齢者が増えており,浜に 降りるまでの坂道の足場が悪いこと,天候に左 右されること,広い板の間のある集会場ができ ていること,などであろうか。会館では,マイ クとスピーカも使い,スピーカは外に置かれて,
大きな音量で里内に流される。会館出入口に長 い,葉の付いた竹3本を立てかけてあり,その 1本に別神クッの間,大きなホグ燈を吊るす
〔写真田一11J。雨が振り出しそうになると外し て室内に取り込む。この燈は神々に祭場の位置 を知らせ,雑神の入るのを防ぐ境界表示の意味 があるとされるものだが,浜に祭場を設けた時 は長竹を砂を堀って立て,周囲を綱で引き,倒 れないようにしたのであろうか。成柄藤博士は,
島根県大岡市大浦でみたグロ(小正月の海辺で の行事,およびその仮小屋〉の芯柱としての竹 と比較できるものと指摘する九
14日朝8時過ぎ,都家で用意された供物(神 僕〉が運びこまれ,祭壇に供えられる。〔写真 III -12~ 13J 9時頃,ハルモニ神を迎えに,ハ ルモニ堂に楽士
.A
女・祭首,祭官・区長・漁 村契長・オノレン(長老 I氏〉・(漁村契の〉総代 が集まる〔写真直一15J。楽土は堂舎の前でケン ガリ・シンパル・鉦(ドラ〉で奏し,歌い,堂 舎内でE区女や祭首たちが儀礼を進める〔写真E‑16J。堂舎の軒に漁村契長が,おどろおどろ しい人型に切りぬいた紙(符籍〉を一定間隔に 貼り付ける。これから堂主のハルモニ神を連れ 出すので,留守中に雑鬼が舎内に入るのを防ぐ 呪いである。 10時頃,オ/レンが先端に白い韓紙 を付いた竹のシンテ(神竿)を持って舎内から 出てくる〔真写皿‑17J。神竿が神の依り代で,
それを先頭に一行は里内に戻る〔写真III‑18J。
ハラボジ堂に到着し,神竿を香樹に立て架け,
供物を並べ,先ず祭官たちが儀礼を行い,次い でA女がクッを行う。〔写真III‑19J 座 女 が 焼
紙を行ってから,飲福。取材者にも干柿と酒が 奨められる。それから都家が神竿を両手に持っ て,日を閉じて祭文を諦ずる主A女の前に立ち,
ハラボジ神を神竿に降ろそうとするが,降りず。
男神は男の迎えでは降りないという象徴なのか,
若い亙女に代わると,神竿が揺れ,降りたこと を顕す。オノレンが神竿を持ち,都家宅に一行が 移動する。〔写真III‑20J
神竿を軒先に立て架け,主区女が屋内に入って いき,中で儀礼をしてから,屋外に出てきて,
庭に床(膳〉を置き,そこに簡単な供物を並べ,
告杷をし,簡単に飲福をする〔写真III‑21J。次 に区長宅,祭官宅,新築の漁村契総代宅へと順 次,一行は回る。新築宅に対する儀礼か,ここ では楽土たちも屋内に入札室内を巡りながら 奏した。 11時20分には会館に入る。回った先の 家では別の亙女が米などを持参した袋に貰い受 けている。コノレリプ(乞粒〉である。コルリプ は辞書には「門付け」とも訳しているが,神竿 は神輿とは形態が隔たりながらも,本質的には 神輿のようなもので,神輿の巡幸にも相当する。
2年に1回,別神クッを行うときは,案内状 を蔚珍郡長,面長,面内の地区長,警察署長,
水協組合長,原発,竹辺青年会長をはじめその 他にも送る。招待を受けてこういう要職者は,
14日にポンスジンを訪れ,賛助金を寄金し,都 家宅で接待を受ける。この点について考えると,
豊漁祭は経費が嵩むが,神に祈るために金を使 うのではなく,俗社会で影響力を持つ地域社会 の要職者を同時に招いてもてなす効果への期待 が含まれている。礼訪する要職者は一方的に酒 食を受けるだけでは賄賂視されかねないから,
相応の賛助金を寄付する。彼らは別神クッの行 われている会場には立ち寄らないで帰る。
11時30分頃から会館で別神クッが始まる。神 竿は正面に立て架けられである。会場の壁に懸 かっているめくりのプログラムには,次頁のク
ッ次第が記載されていた。祭壇に向かつて正面 に長鼓を奏する楽土が座り,その左右手前に向 き合う配置でケンガリ等の楽士たちが座る。,8IJ
神クッでは長鼓が音楽をリードし,その前の口
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の近くに設置されたマイクを通して司会進行役 もする。長鼓楽土に向き合う位置に〈というこ とは,観客席に向かつて)1人の亙女が立って,
クッを主宰する。亙女をはさむ形で,両方の壁 際に並べた椅子にオルン・帯、村契長・区長・総 代などが腰掛けている。人々は随時,出たり入 ったりして,自由な場の雰囲気がある。楽土は 適当に交代し,手すきの
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女が楽器を演奏する 時もある〔写真III‑22,23J。別神クッのプログラム 1)不浄クッ
2)和解クッ 3)世尊クッ 4)盗賊捕まえ 5)祖先クッ 6)山神クッ 7)成造クッ 8)地神クッ 9)沈青クッ 10)天王クッ 11)タライクッ 12)客クッ
13)界面クッ(ゼミョンクッ〉
14)龍王クッ 15)降神クッ 16)舟歌 17)花歌 18)燈 歌 19)上帝盤 20)デコリ
各クッを6人の
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女が交代で受け持ち,それ ぞれ1時間前後,あるいはそれ以上の時間をか けて行う。各クッの内容詳細については, IF東 海岸思歌』や,全クッについて根気強くピデオ,あるいは録音テープで記録していた他の調査チ ームの報告に譲る。 22時前に地神クッまで終わ り,夜食のククス(麺〉が参会者に振る舞われ,
それからE女も一緒に,参会者のカラオケ大会 が始まり,遅くまで続いた。
クッの間, A女の胸帯などに参会者は紙幣や 金額を記した紙片を挟み与えるが,見ていたと ころ, 男性は5,000から1万ウォン,お婆さん は1,000ウォンが多かった〔写真III‑24J。亙女 は1回クッを主宰する度に数十万ウォンの見入 りがあるが,会計祖当のE区女が決まっているよ うで,折々に紙幣を集め,金額を確かめてしま い込んでいる。お婆さんは1,000ウォン札がな くなると,万ウォン札を一旦与えて,釣を要求 し受け取っている。たまに楽士にも与えられる。
責任者の漁村契長や区長,総代などは別神クッ の全体を通じて, 1∞万ウォン単位で与えるの であろうか。早く酔い潰れてしまうと,出す金 は抑えられる。金額を記した紙片は予め豊漁祭 経費の募金に応じた者に与えられる小切手のよ
うなものである。
15日(士。陰暦16日), 朝, M B Cテレビ局 の撮影のために,世尊クッを30分間行う。 9時 前から, 9番目の沈青クッが始まる。これは長 い。腹をすかした椅子の男性数人が供物を食べ 始める。それを見て,行儀が悪いという意味で 漁村契長が「日本にビデオで紹介されるぞ」と 脅す。一番若くて小柄のE区女がタライクッを行 う。これはある段階で,口に大きなタライをく わえ持ち,神霊のなせる技と見せる,シャマニ ツクな山場である。この
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女は愛敬があり,男 の人気がある。主E区女が客クッをする。界面ク ツでは魚卵を象徴する餅を配る。長時間に及ぶクッの間,観客席は調査チーム 以外は,主にお婆さんたちが座席を埋める〔写 真III‑25J。子供や住民の青年層もほとんど来 ない。他所からも見に来ると言い,そういう人 がどれくらい含まれているかは分からなかった。
観客席には時折,差し入れがある。飲料水,菓 子,肉類その他が回る。食事時には,進行役の 楽士が食事休憩、時間を告げ,皆帰宅する。居残 ったおばあさんたちに酒肴が回される。天王ク ツで漁船の船名と船主の氏名を書いた紙を,
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女が左手に持って読み歌いあげる〔写真III‑ 26J。船主の出欠を取り, 出席者あるいはその 婦人が前の座に集められ,魚をたくさん取った
韓国東海岸・漁村社会の近代化と文化伝統 罰として,細く丸めた紙を耳の穴や,髪の毛,
鼻の穴に突っ込まれ,辱められる。他の者は当 然,当人も笑って甘受する。笑劇である。次い で座女から福酒を受け,罰金を徴収され,歌で 清められ,紙を外し集められる。
降神クッでは,神竿にハラボジ神降ろしをし ようとするが,区長,漁村契長などの男性の代 表が神竿を握り持つのでは降りず,区長婦人が 握って,
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女の前に立っと降りた。婦人は神竿 を激しく上下させ,天井も突くので近くの蛍光 燈を突き壊さ泣いか,懸念された。村役員,水 協・漁村契役員J船主,が床前に呼び出され,献金しつつ, l̲区女の歌詞,神竿の揺れにより神 と交信し,祈る。
舟歌に入るのと同時に神竿と祭壇の蓮花を持 ち外へ出て行く。ハラボジ堂とハルモニ堂への 神送りになる。
舟歌では龍船に長い白布をつけて,観客席か らも出て,多数がそれを手に持ち,歌に合わせ て引いたり戻したりする〔写真Ill‑27,28J。花 歌では複数の亙女が祭壇の紙花を取って,それ を使いながら集団演舞する。燈歌では,やはり 複数の座女が集団演舞する。
16日(日),午後2時頃から漁村契総会が始ま ったが,参席調査は拒絶されたので,見ること ができなかった。
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老人の存在形態東海岸での社会的側面での民俗調査において は老班会が焦点の一つである。ポンスジンでは 老班会を聞かなかった。老人会(男女合わせる と50名ほど〉はあるが,それは正月告示日にも,
豊漁祭にも関与しない。重要事を決定していく のは,漁船の船主層のようである。 70歳の長老
が「若い者は昔の伝統を守らない」と変容に対 する感慨を漏らした。
毎月末に青年会(会員数28名〉と婦女会(会 員数37名〕が協力して老人たちを徳郎温泉に連 れて行く。
親の日 (1997年5月8日〉に婦女会が敬老の 宴会をしてもてなす。これには,区長,漁村契 長,青年会長も臨席する。
なお,竹辺面内には125の敬老堂(老人亭〕
がある。対象高齢者数が50人以上であれば, 1 施設を設置できる。敬老堂には月3万ウォンの 暖房費補助,年40万ウォンの補助金が下りる。
竹辺1里老人会の会員数は38名(男23,女15)。 宴会をする時は男女一緒に行うが,ふだん遊ぶ 時は別々である。午前中は自分の仕事をして,
午後毎日敬老堂に顔を出す。漁業中心であるた め,老人は船には乗らないが,網や漁具の修理 の仕事がある。海女は年を取っても海に潜る。
竹辺1里では老班会は昔はあった。現在はロー タリ}クラブ,ライオンズクラブ,早起会,サ ッカー,テニス,ゲートボール,ジョギングな どのグループがある。夏,お婆さんたちは孫の 世話で忙しい。 1里では市場が3と8の日の朝 6時ころから日暮れどきまで,道路でお婆さん たちが野菜売りをするが,この人々は後亭里や 他から売りに来る人たちだという。〔写真1‑
13~15参照〕
注
1)松本誠一 1984 r東海岸狗岩のコルメギ洞神祭 と洞組織」日韓漁村社会・経済共同研究会編「日 韓合同学術調査報告」第2輯
2)奥聞による聞き取りでは72名 (p.lO)。 3) [東洋大学アジア・アフリカ文化研究所「研究
年報」第30号, 93ページ参照〕
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