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鐵砲の傳來に就いて

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

鐵砲の傳來に就いて

長沼, 賢海

https://doi.org/10.15017/2344465

出版情報:史淵. 1, pp.1-40, 1929-11-28. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University

バージョン:

権利関係:

(2)

鐵砲が我が國に傳來したのは︑天文十二年に︑ポルトガル人が征子ヶ島に漂着した

時である︒その際彼の國人が︑種子ヶ島の鳥人に鐡砲を典へ︑かつまたその製法を島

人に傳へたといふこしが︑有名な南浦文之の鐵砲記に詳らかでゐります︒此の鐵砲

記が鐵砲傳來に開する椛威ある史料こして信岱られ︑其の以前︑則ち天文十二年以前

にそれが傳はったといふことを記してゐる江戸時代の多くの史料は︑全く債値のな

いものと見られて了ひ︑自ら天文十二年以前には︑我が國には鐵砲がなかったものと

一般に信ぜられて柊ふやうになったのでありきす︒然るを大正二年に私は一文を

車して︑天文十二年以前に︑鐵砲は既に我が画に存在してゐたであらうごいふ考を︑歴

餓砲の僻来に靴いて

鐵砲の傳來に就いて

二︶鐵砲の傳來に開する蕾考

長沼資

(3)

餓砲の僻來に就いて二

史地理誌傘軸琴上に掲載いたしました︒此の憩考の根滕となった史料は︑甲陽軍鑑

北條五代記等の如き︑よく人に知られた蛾砲傳來↑ず天文十二年以前として傳ふるも

のば勿論あまり一般から注意せられなかった蔭凉粁日鍬霊錘玩峰鎌岬叩睡榊八︶碧山

日録︵癖錘禧症匪一軒噛却吋釧池虹匠︶鹿添壌嚢妙︵哩縄ニハ|和崎峰齊ヲフ銀蝿ツ識馳卦飛︶等であった︒

噛時右の愚考に對して︑故陸軍巾懸押上林瓶氏は造兵上の専門的見解から丈倭冠

研究の第一人者を以て自認せられた後藤粛堂氏等から詳細な批評がありました︒

それについては︑私は更らに明末清初にあらはれました支那の兵書類や文集其の外

大明會典のやうな故事類苑式の支那書維に振って唯ふる所ありました︒︵罐嘩唖狸華

郵皿︑擁ゴ併し結局︑天文十二年以前我が図に鐵砲ありごいふことを︑猿極的に決定し

得るには︑論篠がいまだ薄弱であったといふことに柊はったのでぁ・ります︒その當

時の押上中將の批評に對して︑私の弧く主張し托諸鮎の一つは次の如くであった︒

天文以前にすでに我國にあったご忠ふ蛾砲は︑種子ヶ島銃のや.ぅな優秀なものでな

かったかも知れない漣しかも蒙古が文永︑弘安に我が國へ襲来した時に︑用ひだやぅ

な︑蛾包みの火薬や金婿や士石の丸を石拠げ機械で飛ばすといふやぅなものでなく︑

(4)

火藥の力で九を飛ばすごいふ近世式のものであったらうといふことであった︒

爾来十数年間︑我が記録や文書に前考今笹確め得るやうな史料叉は天文十二年以前

のものと恩はる動やうな鐡砲を見出さうと力めてきたのであります︒其の後此の

ことに開して︑二三の文献は見常りましたが︑それを以て前考を確定するには︑何れも

薄弱なものであった︒室町時代に作られたご恩はる皇尤の草王といふお伽草紙の

中里九きものあしなじなをる段に︑恩ひの玉︑冥如の玉衣玉︑などあげてゐる所に︑鐡砲

玉︑といふことが見えてゐる如きは︑その一つで今のった︒所が大正十五年京城に出張

して︑總督府保官の李朝愛録を見るに及んで︑趣考を稜極的に確め得べき史料が可な

り多いこさを發見したのであります︒その當時早速前考を補って︑天文以前に我れ

に蛾砲ありしごいふことを論じたいと恩ひましたが︑今日までまこめるごいふ日も

な・くて過ぎたのであります︒

偶々昭和元年十二月︑庇島牒尾道市の澁谷新右術門氏の古帳簿類を訓くると︑丸藥

のことに開する戦國時代の文書がありましたので︑古い鐵砲の所減せられるものが

なからうかと新右衞川氏にたづねて兄た︒すると氏は奇妙な竹筒のやうな亜い銅

餓砲の博來に就いて三

(5)

俄砲の僻來に就いて四

の鐵砲があったが︑近頃見岱らないといふことであった︒その後雨度ばかりその古

鐡砲の探索↓や︸督促した結果やうやく捜し出されづいて見ることを得たのでありま

す︒私はそれを見るなり︑十年等ねあぐんだ子供にめぐり逢ったやぅな氣がしまし

て︑これぞ天文以前の古鐵砲であらうご坐談いたしたのでゐ︑ります︒すると誰であ

ったか知りませんが︑この事︽ぜ大阪毎日新聞の通信員に話したのであります︒同新

聞に六百年前の蛾砲發見せらるごいふことが報導せられたのであります︒其の後

豊後南海部郡佐伯町の岩田氏稜に詳説す涼ら︑同じやうな鐵砲↓笹所持してゐるとい

ふ報告︽ど得ました︒価て早速それを借り入れて見るご︑全く尾道のものと同形式の

ものであります︒︐私は其の時新聞といふもの塾有難さを痛切に感じました︒その

時撮った篤冥を︑後に大阪朝日の通信員に示すと︑それが同新聞紙上に戦せられきし

た︒叉そ虹が日本全図の新聞に蒋載されたと見えて︑その結果︑今度は北海道の端か

ら朝鮮滿洲に至るまで︑鐵砲に閲する報告を私に寄せられた人か︑十数人に達しまし

た︒私はかぐて多くの手掛り|ど得て︑これ︽て芭思ふ古い鐡砲を悉く大學研究室へ借

り入睡一々比較研究をする機會を得たので聖のります︒私は改めてこぁに︑大阪や祁

I

(6)

太加変錐の四年雁永十一年画凡壬午検校参賛門下府事崔茂宣が卒去した事を録

する條に茂宣の傳がめり︑それに次の如き一節があります︒琵宣は永州の人で性巧

慧にして方略多く︑喜んで兵法を談ず云々とある次に刑二倭冠﹃莫レ若二火藥﹁國人未し有二知

者﹃茂宣毎し見下商客自二江南來者毎便Ⅲ二火薬之法﹃有二一商﹃以二粗知﹁對請置一其家﹁給二養衣食﹃

累旬諮問航得二要傾一言し於二都堂﹁欲し試し之︑皆不二信至﹃有二欺誕﹃茂宣積以二歳月﹃献計不し巳︑卒

以一誠意威し之乃許し立レ局以二茂宣罵二提調官弐乃得レ修致火藥﹃裁く具有大將軍二將軍三將

軍︑六花右砲︑火砲信砲火畑火箭蛾鋤箭︑皮鋤箭羨蕊砲鐵弾子︑穿叫五龍箭︑流火︑走火︑鯛天

鋤砲の鰹来に就いて五

岡其の外の諸新聞の報導に對して︑深く感謝しなければならないので今のります︒時恰かも本會の大會講演に際し︑前記李朝賓録に見えてゐる天文十二年以前我が國に鐵砲ありごいふこさに開聯する文献を考へ︑以て前記の諏子ケ島以前のものと恩はる易鐡砲叉腫之れと同形式のものに参照して︑再びこ児に鐡砲僻に開する織考を披露したい.と恩ひます︒

14三鐵砲の朝鮮傳來と倭冠

I

(7)

餓砲の僻来に就いて大

火等名艇成狐着莫シ不二瀧嘆一﹂とあり裳す︒然らば火砲の朝鮮に傳來したのは晩に太

祀の時代︵二m垂にゞにあり︑其の系統は南方支那のものである↑︶ゞ己も︑明瞭でありま

す︒特に此の記事の中で︑今特に注意すべきこごは︑茂宣が火砲の發明に努力した目

的は︑制倭志にあったごいふことであります︒されば前記の如き多くの種類の火砲

を製造し得るに至るや︑直に之れを以て倭遥を討たしめてゐることが同じ茂宣の傳

に見えてゐるのであります︒則ち同四年秋︑倭潅の船三百餘艘が釜羅道の錘浦に押

寄せるや︑火具まさに用ふべきであると云ひ︑茂宣も火具を用意して從軍しました︒

倭冠は火薬のあることを知らずして︑船を集合せしめ︑力ゞ彩一識して戦はうとしだが茂

宣等は火具を用ひて多くの冠船︾ど焼き抑っだ︒倭冠は遁れて上陸したが︑皆臓滅せ

られた云々︒茂宣は功により死して厚く追賞せら雌た等同傳に見えてゐる︒同書

世宗貧録には世宗三毛悲唖l︶が常に火砲の改良に蝿すこと頗る多く見えて居り以

後代々の王が之れ曇か改良に端してゐることが同書に散見してゐます︒

かくの如く朝鮮の火器の發逹はその水軍の發逹と同じく︑専ら備倭計劃上から起

ってゐろと云ってもよい位であり.ます︒而して我等の旭先は朝鮮人がかくの如く

I

(8)

1

鋭意進歩改良することに精進してゐた火砲を︑傍概してゐる筈はないのであります︒

今彼等の製火蕊火砲史と日本人ざ交渉する所あった鮎を考へて見ます︒

之より先︑定宗︵二m錘唖︐︶の元年︵雌永六年︶六月に︑日本圃の使節が王閥に詣りて︑食

酒|笹賜はり︑日既に夕にして軍器猛に令して火戯︾笹張行して︑之を脱せしめた︒所が

倭驚いて日はく︑此れ人力に非ず︑天祁使の然らしめる所であるといった︑云々ご定宗 蛮錐に見えてゐます︒叉太宗︵二四捗冷l︶の時にも︑七隻應永十六年千二月軍器監が

王廷に於て叉山室を設けて百倭僅笹して來b慨せしめた所が︑驚怖せざる者ほなか

った︒そして火藥の爆發力が奮に倍する成績がめげられたので︑それに關係する諸

色の匠人等は皆篤く賞賜せられたことが太宗蛮録に見えてゐます︒此の前後倭冠

防禦の爲め︑火器火藥と戦線に發迭したり或は之れを賓戦に用ひ效果が收められだ

等の記事が︑甚だ多く同書に見えてゐるのであります︒かくも火器を見せつけられ

た倭潅の徒は︑此の頃から早やくも火器を有するやうになったのであります︒

世宗の即位の年藤永二十六笠對馬島敬差官覇鮮の在對馬駐削官塞であった李蕊

は次の如く献策してゐます︒日はく火畑碗口は唯だ銅鐵を以てのみ鋳造する︒而

餓犯の僻來に就いて七

(9)

餓砲の僻來に就いて八

して銅鐡は我が図即ち朝鮮︶には産出せず︑故に火炳碗口は朝鮮に於ては鋳造するこ

とが困難である︒臣對馬に至って賊倭の中國より庭得して鋳る所の水鐡火炳碗口

ゞぜ以て来る︒諸ふらくは︑水鐡を以て火炳碗口︾ぜ鋳て︑諸州錘に分置せん云々︒そし

て軍器臘に命せられて之↑で試みしめられたと世宗費録に見えてゐます︒︸ゞ﹂団にい

ふ水鐡LLは如何なるものであらうか︑又その水鐵を以て鋳た火炳碗口なるものが︑火

藥の力を以て弾九︾ど飛ばすものであったかどうかは︑此の文面だけ〃では不分明であ

ります︒茂宣が作ったといふ三將更大將軍︑二將軍三將軍亘下の諸銃は︑多く明の弘

治の大明會典の工部の軍器軍装の號にあげてある火砲目録の中に見えてゐるもの

が多く︑此の火炳碗口なるものも︑右目録の中に碗口銃碗口砲とあるものと同諏のも

のであらう︒そして何れも初からあ︽Q新式火砲であ・ることも︑大概推定し得るもの

であります︒︵歴史地理巻二十五の第一参看粟して然らば︑我が足利將軍義持の頃に

は︑少とも對馬地方に新式鐡砲が直接支那から博は.ってゐたことは否み難い事蛮で

あります︒それに此の事のみが︑軍濁に傳はってゐるのではないのであります︒同

貧録に擦れば︑世宗の八笑應永三十三年千二月に︑朝鮮の兵曹が︑江原道の監司の献策

(10)

煮取りを︑嶺束の沿海民に委せておいては︑好民叉は主人に背いた奴蝉が茂陵や對馬

に逃れ往き︑島將等が︑これに依て焔蛸製造必秘術を島人に教習せしめる怖れがゐる

ゆ二三し︑脅かすに此地を以て焔蛸を煮取ることを以てし︑因て以て人の蛍賂を受け︑民

多く之れに苦しんでゐる︒︵工匠は︑人家の屋敷の土を没收して︑焔蛸を煮取らうとし 維慶尚の雨道に煮取るものは︑唯だ酒色に耽︐り︑これ↑ど工匠に委ね工匠は人の臓舍に 今◎牙9ぱ︑其の苦み悟堪へなかったであらうと云ったことがゐる︒ ゐます︒ の南に掻いて︑焔蛸を製造せしめる事としました︒の術を拷問せられ惨砿を極はめた︒ について︑政院が反對したに對し︑世宗がその再考を促すだめの主張に︑委細を識して 亡いふにあったのであh/皇す︒ に依て嶺東の浴海住民をして︑焔蛸を煮取らしめることを止めた︒

世宗質錐に擦れば︑その二十七年交安二年Eも︑同様の事について考へられてゐま

則ち此の時世宗は︑政院の反對がゐったにも拘はらず︑司励局を︑王廷内の内司僕

戦犯の傳來に就いて 則ち世宗臣談を排して日ふには

其の人還ることを得て日はく︑若し方術を知ら 一昔一人ゐり︑倭に虜にせられ︑焔蛸ゞぜ煮る 其の理由とする所は︑最初此の事

今朝臣の遥はされて︑全

其理由は︑焔蛸の

(11)

餓砲の博來に就いて一○

住民は贈賄して屋敷の没收を免れようとし︑霜のに大に苦しんだらしい.︶昔儀政許

稠以霜らく︑焔蛸?ど煮るの庭が倭島に近く︑其〃術の洩れること|ど恐る画通しく愼密

にすべきである︒今倭人はその術ゞご學ばんとすること久しいので今のる︒嘗て唐人

を鹿にして︑始めて火砲の術を解した︒さきに李塞がⅡ本に往った時に︐火砲を以て

之れを迎へた︒然し火氣が猛ならず焔捕を李蕊に請うたが︑李塞は無きことを以て

したごいふ︒今焔蛸匠はもと賎穎であるから︑誘ふに利を以てせられ噂ぱ︑必ず其の

術を教へるであらう︒況んや焔蛸の藥は︑皆彼れに出づ︑︵焔蛸製造に要する薬品は︑皆

日本から産出するの意であらう︶若しこれを學ばゴ︑不可の大なるものである︒叉外

方︵Ⅱ本を指すのであらう︶の煮る所は︑喪多くして出づ︽・所反って少い︒津に予は京

中に於て暫く煮ることを試みるの父中略声外司に於て煮る所は︑恐らくは︑倭人の知る

所ごならう芸々︐とめるのであります︒

こ画に世宗が巳の主張の諭擦こして引いた李藝に開す︽︒ことは︑世宗箕錐元年の

條の李藝の献策の事愛と参照して︑當時すでに對馬に於て火砲の行はれてゐた様子

を知る.へく︑叉其の火砲は倭冠が捕虜の支那人から奪ひ知ったものであるここも分

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京都の人々が琉球人の火砲を見聞した︾△けで︑またそれを見逃したでありませうか︒ 砲が行はれてゐたのに︑地方九州の者が斯る利器を知らずしてすんだでせうか︒ 十年も後の文政の年代に︑京都の人は發砲の一音響などをあまり聞いた事がなかった 琉球人が鐡砲を發した時︑人觜聴いて瀧顛すぐ︶蔭凉軒目録にあります︒︐といふ事を略ぼ推定し得るのであります︒ より先應永中︑李藝が對馬で職砲を以て歓迎せられてゐるにも拘はらず︑それから五 のあったについては︑匪々私の紹介した遡りでゐ︐︐ますa 人が文正元年に我が幕府に入貢した際︑幕府の惣門外で一雨聾の鐵砲を發したここ 肌に知られるのであ︑ります︒こごは︑李韮が對馬に行った際︑歓迎の魁砲が發せ〆恥↓れた事に依一しも明白でゐります︒ てゐた鐡砲が︑九州の地方に傳はらなかった︲こ忠へるでせうか︒

朝鮮へ傳はった火砲や火薬は︑江南から仰はったものであることは︑前記の通りで

戦犯の僻來に就いて

〃frもび凸︒6グイー″ かくて室町時代の初期に當って︑對馬に於て用ひられ

夕心も︑Pblj

jr 往来と鋤砲 それにしても︑對馬で禮砲を鞭かす程鐵 これは漉砲の意味である これど別途に琉球

一一

さす肌ば之

(13)

室町時代には︑琉球人が髄に我が國に入貢してゐて︑日琉の關係は最も緊密であり

ました︒琉球が朝鮮と往来するについても︑我が國が常に先導をなしてゐたやうで

あります︒此の先導の意味喚琉球人が倭遥の掠奪を晃かれる手段であったやうで

あります︒一方我が先導者は︑琉球人の先導ごいふ名儀のもとに︑琉球人の報酬を受

け︑かつ貿易を行ったものと恩はれる節があります︒太祀愛録に擦れば︑太加の三年

︵應永元毎九月琉球の中山王察度の使者が︑日本の使蒋さ共に太祀に朝見してゐまず︒

そして日本の使考ば琉球の先導であったらしい︒また太宗資錐に擦れば︑太宗十六

年︵應永二十三年︶正月李蕊を琉球に進はして︑日本人が琉球に鱒費した朝鮮の捕廃を

つれ蓮へらしめんとし︑尋いで李塞は稗寅の朝鮮人四十四人を率ゐて七〃琉球から

還りました︒叉太宗貧録に擦れば︑太宗の十七年︵應永二十四年千二月に︑明の成祀が 明白であります︒

俄砲の偲來に就いて一二

あります︒而して頻りに江南に出入した琉球人や瓜畦人の間にも︑はやくから火砲

が傳はってゐたと想像されます︒而して琉球人と︑瓜畦人とが︑朝鮮に往来するに際

し︑我が國は雨者の間にあって︑粥に重要なる地位にゐたこごが︑叉李朝資録に依って

(14)

明に入貢した琉球の使者の歸國に際上汝國與日本國交親︑後日征二日本﹃則汝國必先引

路ぞよ云々と宣諭すき所一かあった︒蓋し義浦蕊じ義持は明・に入貢せず︑一方倭遥が

頻りに肌の邊海遼遥するので︑明の成加は︑義持を威嚇しようこして︑右の如く琉球人

に對して揚言したのであらうと恩ひます︒そはとにかく︑此の一段は以て日琉間の

親密なる状態を知る.へきであります︒

″世宗賓録に十一髪永享元年︶九月島津黄久が︑琉球の漂流者を朝鮮に逢って︑琉球に

かへらしめてゐることが見えてゐます︒端宗蜜蜂の元年︵享徳二年西月に琉球人は

日本人に捕へられ︑奴として寅られた朝鮮人を換興して送還したことがあります︒

世加賀録の四年︵長職三年︶閏二月に︑琉球の使人が京極殿畠山殿広使者と共に朝鮮に

来ることが見えてゐます︒同年三月世加は更らに日本人泉氏を代理として︑朝鮮の

漂流民を送還せしめ︑泉氏は使傭をして代って之れを朝鮮に送らしめてゐることが

あります︒之れ等の事変は︑何れも琉球朝鮮の交迦と我が図どの關係を物語るもの

でめります︒次の事件の如きは︑更らに三表の開係を示す興味ゐる史賞であります︒

成宗箕錐二十五年︵肌應三年︑即ち琉球人が鐡砲を室町幕府仙外で放った丈正元年よ

戯砲の偲來に就いて一三

I

(15)

鋤犯の鱒來に就いて一口

0約二一非年後に當る五月に︑成宗は久しく絶えてゐた朝鮮迩川を復し傭天章︾ど使僧

ざして朝鮮に派通しました︒偶々平皮古三市羅牟彦三郎なるべく︑宗氏の一族必と

いふ對馬の者が︑さきに朝鮮に締化し雷時琉球に渡航してゐた︒それが蹄鮮すると

いふ便宜に託して使儒を派遣したのである︒かくの如く日本人が一日一帆鮮に蹄化

し︑更らに琉球に往来しがの相當の地位を有してゐたやうな者が戯砲の如き利器を

或はこれを朝鮮に受け︑或はこれを琉球より受けなかったであらうか︑李謹は對馬の

人が唐人を捕へて鐵砲を得たごいってゐるが︑それは必ずしも信ずべきことてない︒

日本を取まく鐵砲の所有者亡日本との往來は盗まなくても︑當然これを我れに傅へ

たと信途られます︒

こぁに瓜畦と日鮮との往来を語るこさは︑直接本問題に係はることでないが︑些か

参考として述べたい琶思ふ︒太宗黄鋒に握れば︑太宗の六年︵應永十三壬五月二十二

日瓜畦を發し塑南溌瓜畦万使者陳彦群が閏七月一日に全維道群山島に至るや︑倭冠 ︵四︶瓜畦と日︑鮮との往來と鐡砲

1 1

(16)

のために掠奪せられ︑ために二十一人戦死し︑男女四十人逃れて朝鮮の沿岸に上陸し

ました︒その年八月︑宗貞茂は南溌船を掠めて得たものど瀞して蘇木︑胡椒及び孔雀

を朝鮮國王に進貢した︒陳彦群はこの時朝鮮に訴へて︑輕舟一般を貸し典へられて

本圃に蹄還しました︒其の後︑太宗の十一年︵應永十八年︶七月陳彦群は︑我が溥多に來

b︑明年正︑二月の頃上京すべきことを朝鮮に報じ︑ついで同十二年日本の手久殿扇使

者と陳彦鮮の使者とが朝鮮に來6︑百本國人︑性本より食暴にして︑多く陳彦群の財を

頼まんとす︑恐らく中路にして我を殺して以て其の通を減さん︑一と訴へて︑謹透船の派

遥を乞ひました︒宇久殿とは松浦氏の蕪にして︑五島の宇久島に擦れる宇久氏のこ

こであらう︒︲恩ふに對馬の宗氏は瓜畦人の朝鮮貿易を悦ばず︑鍵にこれを群山島に

於て掠奪したのである︒そこで瓜畦人は五島の宇久氏の海上擁護を得︑更らに朝鮮

の誰逢船の派遣を乞うて︑朝鮮に波らうとしたのであらゞ名琉球人が日本に入貢し︑

其の先導に依って北支那や朝鮮に往来した如く︑瓜畦人は宇久氏の先導を必要とし

たのであらう︒その何れにしても︑我が國は當時我が南方の︑遠い南壁地方と朝鮮及

び北支那地方どの海上往来を中断して︑殆んど絶對の海上權を握ってゐた様子がよ

餓砲の博來に就いて一五

I

(17)

昨年來予の蒐集した鐵砲を今其形式上から︑分類すると︑三種に分たる︽○︒而して

第一及び第三極のものは︑僅かに一鮎︾つぁに過ぎない︒そして第三種のものは篤眞

で見たゴけのものである︒今左に其の目録ご簡単な説明を加へようと恩ひます︒のもの

蛾砲の僻來に就いて一太

くわかるやうであります︒かくの如くんぱ︑江南ご朝鮮との往来に對して.も︑倭冠は

叉随分の支配力を握ってぬたと想像する.ことも︑必ずしも無理とはいへない︒ご恩ひ

ます︒かうした地位にゐた我が國が︑また支那江南や南溌諸國と︑朝鮮や北支那方面

との文化上の交通の野外にあるべき筈がないと恩ひます︒現に鐵砲傳來の一事に

於て︑對馬は正しく其の埒内にあり︑而してその地方九州のみが埒外にあり得べきこ

とではないのであ・ります︒

小樽市史談會所砿︒黄銅製︒砲身長さ﹄一七・二センチ︒口径三︑六センチ︑砲身径八

センチ銘文里九斤三僅三十五字﹂とめb︑馳字の如き方法にて刻した三文字がある 第一種 豆︶予の蒐集せし鐡砲の種目

(18)

篤興︵ロ

11

径一・六センチ︒銃把口裡二・八センチ刻文に覇丞︑西山言二字・っ

当二行に刻してあゞl其の外董二丘とあります︵為尻三三参看︶・も

餓鞄の博來に就いて が薄不明であり蒲或竺富寧上示︲と・忍は︲れます︒︵寓眞二﹂参看︶・

第二極

︲︵イ︶類

仰小樽市史談會所燕︒黄銅製︒銃身

長さ五五︑七センチ︒銃口樫一・八セ

ンチ︒銃把口径三・八センチ︒黙字

式に刻した銘丈三字ありて﹁仕會よ

とあり︑他の二字不明であります鳶

興三﹂参看︶

②大分畷佐伯町岩田莞爾氏所藏︒青

銅製銃身長さ三一・四センヂ︒銃口

潟艮︵二︶

(19)

餓砲の

潟嵐︵三︶︲ 傳來に就いて

③尾道市澁谷新右術門氏所藏︒③尾道市澁谷新右術門氏所藏︒青銅製︒銃身

六二センチ︒銃口径一センチ︒銃把口径三

センチ︒刻文に﹁擦宇鋪二勝電三斥十六両二一尺

一寸二公とあり︑又鮎字式に刻した文字に亮

府上をあります︒

︵ロ︶類

凹大分螺北海部郡幸岫村飯塚毅氏所藏︒青銅

製銃身長さ五七センチ︒銃口礎二・六センチ・

銃把口裡四・六センチ銘丈に函暦己卯四月日

造舅勝字︑七斤七両二匠検︵?厩︵?三口四こ四行

に刻してあります︒︵為冥面墓看︶

5もと朝鮮釜山武藤長平氏所藏︑現在九州帝國

大學所藏︒青銅製︒銃身長さ五七センチ・

銃口径二・一センチ︒銃把口径三・四センチ︒ 一八認嵐︵四︶

(20)

濡鼠︵五︶

戯砲の博來に就いて 銘丈に爾原府造二勝字五斤八雨二藥七銭︑中九口︑九十□□口二匠人鰊維逓と数行に刻し一しあります︒︵馬屋﹁亜参看︶

⑥岡山縣津山市禰井芳明氏所瓶︒青銅製︒銃

身長さ七六センチ︒銃口径一・八センチ︒銃

把口狸二・八センチ︒銘文に爾暦卯春三五斤七

雨藥六︵以下別行︶銭︑車芝一と三行に刻してあり

ます︒︵為星六﹂参看︶

第三純

浦洲奉天府白崎喜之肋氏所藏︒青銅製︒銃

身長さ四六・二センチ︒銃口狸一・五センチ・

流饗銃把口径であらう︶二三センチ︒銘丈に

天字染繭参千武栢玖拾難遜萱徳元年拾壷月

日造﹂と二行に剥してあります︒ 亮與︵六︶

11

ー一

伸画■2日■Ⅱ垣■■■■■■

(21)

I

・餓砲の.博來に就いて

寓艮︵七︺

二○

此の銃の篤冥の原版は︑奉天膳科大學教授鰐學

・鮮士黒田源次氏の所減・にか司り︑即ち本考に掲載

した嘉逗主であります︒猶ほ此の篤冥の二つの

銃の内上部のものには正統の銘あり︑形式︑大さ︑重

奨五両九十匁尋同じであるどいふ事であります

︵同岬士説明に蝶る︶︒叉之と同じ形式のものが︑北

京の歴史博物館にあり︑銘文には天字陸蒋玖千玖

栢津拾捌號舅明宣徳元年拾壹月旦ごあるごいふ

事で︲あります︒同岬士説明に篠る︶︵篤冥尼塞君︶

第一祁類のものは︑篤眞で示す如く︑一見火熨斗

の如き形をなして居り︑其の性愛からいへぱ︑提げ

る総めにつけた柄のある臼砲であります︒此の

宍︶蒐集せし鐡砲の形式 ’

(22)

形式は︑最も原始的な砲の一種で︑在ベルリンの武器博物館に此の稚のものが数個あ

ります︒小亜細亜發見のもの一︑猫逸のオスト︑フリース|フンド發見の間の二︑印度の

カルカッタ發見のもの一︑等皆それであります︒此の外にも二三鮎同種の陳列品が

あります︒何れも鐵製︑赤さびになってゐたと記憶してゐますや今予の爲生帳の中

から小亜細亜發兄のもの二︶オュトブリーュ|フンド發見のもの︵三カルカッタ發見の

もの︵三あ三識の爲生︵側亙囲を左仁示さう︒

の鋳造の手法はだざ鋳形に入れて造ったぱ

鐡砲の博來に就いて

(一)

【二1

かうした形式のものが︑普

く世界的に行はれたもの

と見え︑欧洲近東︑印度と各拠口争団地から其の遺物が發見さ罰﹀

れてゐます︒予の蒐集し

たもの〃函發見地について

は︑次章に述べるとして︑共

かりでなく︑多少削り鯉いた形跡がある︒

一一一

(23)

てゐたものであります︒尤もそ

れは手把するものでなく︑車架につけだ比較的大きなものであったらしく忠ひます︒

触砲の傳来に就いて一三

銅礎は非常によく光澤があh︑四分一銅嗣百と銀八乃至二︑三の合金に見るやうな黄

灰色↑ど呈してゐます︒此の地金の衝は鋪二極の仰と全く同じやうであります︒砲

尾の突起は他に類例を見ない︒土中にさし入れ或は木に抓んで反動|ど防ぐ矯めに

したものでありませう︒銃身は銃刷から鑿り通したもので︑手法が粗雑であhます︒

砲の口邊の慨裁は右の岡の︵二に類してゐます︒

第二諏のものは︵ィ︶類と︵ロ︶類とは釜く同じ形式のものであるが︑たざ年代の相逹に

依て雨類に分けて見たのであります︒故に形式は・雨者同じだが︑手法は多少迷って

ゐます︒抑々此の竹筒式の火器は大明會典其の外明末の兵書によく現はれてゐる

罪把銃手把鋼銃叉は軍服銃など稲するものと同式のものであらうと恩ひます︒武備志に左の如き軍眼銃の岡維がのせられてゐます︒銃ざしては最も原始的かも︑銃ざしては最も原始的のもの

で戚洲人や詞アラビヤ人の間には︑

既に十四世紀の頃から用ひられ

(24)

ベルリンの海軍博物館にある船舶岡彙の中に︑千四百五十年のコンラードといふ人

の手記言ウルンベング博物館所遮の中に︑船上から放ってゐる此の種の式の鐵砲の

百五十年から千五百年の間に作られたと推定せらる瓦此の式の大砲で︑印度のカル

カッタにゐた某氏の寄贈品があった︒前記船舶囲菜にも︑艦載の此の極の式のもの

L岡が掲げられてゐる︒ミネチァの海軍三za罵旨の旦といふ書物に蝶て︑千四百五十

戯他の僻・來に就いて二三 灘

岡があり︑次の如きものであります︵予の篤生帳より︶︒

此の鐡砲は︑柄をはめてゐるかどうか不明であり

ます︒が︑形式は全く同性質のものであります︒欧

洲の主要な博物館を見學した際︑古代の火器につい

て相常注意をしたが︑こぁにいふ第二種の竹筒の如

き節の多い銃筒を有するものは︑小銃では見當らな

かったが艦載用叉は陸戦用のやあ大きなものは︑紗

くなかった︒巴里のクルー−−陣物館にもあった

やうに記憶する︒ベルリンの武器博物館には︑千四

I

(25)

1

釧砲の僻來に就いて

年代にマス|rに装抵した大砲目雲高︒︑の言重と

如きものであります︒我が遊就館にも此の

銃︑地字銃といふが如き︶︒而してこれを李朝賃錐に徴するに︑之肌等の銃名が宣祀以

前には見當うません︒尤も精細に捜したならば載ってゐるかも知れません︒それ

にしても甚だ多くはあるまいと恩ひます︒李朝賃鋒に古い時代から多くあらばれ

二四

砲︵旨再唱︑の言重といふものを見るに︵予の寓生帳より︶次の

遊就館にも此の極めものがあったやうに記憶する︵大正

二︑三年頃見學︶︒かくの如く形状は大分異なるものもあ

りますが︑其の法式に至っては︑以上皆同一式のものであ

ります︒〃今蒐集した第二繩の者は︑皆柄を把手の筒に指

入れ︑或る物は把手に小穴あり︑之れに針金を通して銃と

柄とを結びつけるやうにしたものであらうご恩ひます︒

猶ほ朝鮮では此の式の火器を何と穂してゐたであり

ませうか︒朝鮮の造兵番である利器秘訣宣宗以後のも

のならんだ︑大勝銃︑次勝銃︑小勝銃︵大の勝字銃等の意であ

らう︶の外︑各字名の銑が多くめげら奴てゐる︵例へぱ天字

(26)

てゐる火器で︑此の種のものに相當す.ると忠はる易ものは︑読箇とあるものであらう︒0000同貨鋒成宗二十五年舸應三年︶に銃筒箭抑機箭三銃筒︑新製銃筒を蛮習したものは︑い

まや一二人に過ぎない︒宜しくこれを蛮習せしむくし云々とある︒又同質録に擴

○Oれぱ︑之より先︑世宗の三十年︵文安五年客道警鐘の官吏の交代に際して︑銃筒等の欺其

の他の鮎について厳重に検閲せしめることが合せられてゐます︒叉同箕錐︑丈宗の○○○元年蕊徳三年︶にゞ鐵信砲︑將軍火炮細銃筒の線穴奪火線道を七麓から八麓に改めしめ

るここがあります︒叉同蛮録︑猯宗の元年︵享徳二年だ︑農月に際しては︑南海沿岸の諸

浦をして︑銃筒を作らしめる事を止めしめた事が見えてゐる︒之等の銃筒叉ば細銃

筒薪製銃筒などあるものが︑各字號を附されて大中小の勝字︑或は天地宇宙等の字號

を附して差別したものであらう︒予の蒐集した此の種のもの苫中で閏及び⑤は勝

字︑︵三︶は蝶字號であります︒猫ほ第二秘の中で︑︵ィ︶類芭︵ロ︶類との︑製作上の手法其の他

の鮎についての相逹は︑後段に此の種のもの・勤製作年代を述べる條に譲りました︒

次に第三極のものは︑第二極の形式を完備したものであります︒その主なる相逹

は︑發火口の装侭が大分遮ってゐます︒此の式は︑導火線を導火口に柿むこざをせず︑

戯砲の博來に就いて二五

(27)

第一種のものは︑もこ小樽史談倉役員橋本堯尚氏の所有であって︑その報告も氏の

寄せられたものであります︒同氏の報告によれば︑初めこれは氏の友人某氏が︑数十

年前支那にて︑珍らしき鐵砲で今のるといって︑貿ひ求めて招来したもので今のるといふ

ことであります︒されば予吻天文十二年以前・に我が鯉に鐵砲今のりしといふことに

資すべき材料としては︑大なる憤値はないのであり当す︒︲

餓砲の僻來に就いて三︿

燃焼し易き藥品を導火口の外遜に装掻してあるケースの中に入れて︑それに鮎火し

て後蓋を掩うて︑發火せしめるやうにしたもの易如くであります︒叉火薬を嶺充す

る所を太くしたものは︑發裂を防ぎ︑かつ火熱の銃身の外部に僻はることを防いだも

のであらうと恩ひます︒此ふくれた部分の内部の椛造は今詳かにしてゐません・

把手に柄を附するのは第二繩と同様であったでせう︒而して第二種のものと同じ

く大明含典に手把銅銃と今のるもの画類に厩するのであらう︒なほ大肌會典には銃

砲︑手銃等の名が季のるが︑これも手把銅銃ご種類を同じうするものと思ひます︒

モ︶蒐集せし鐡砲の来歴

(28)

第二極の︵ィ蹟の仰も右と同じ傳來でありますから︑本考には直接の査料とはなら

ざるも︑此の種の形式のもので︑支那製と思はる画ものは︑外には甚だ少ないのであり

ますから︑國内に於て發見されたものの由来を老へるには︑貴重な遺物さいはねばな

らない︒次に②については岩田氏に・その傳永をたづねたが︑殆んど全く不明であり

ました︒同家は代々醤を業とする奮家であるが︑其の昔蝿大閤の征韓陣に從軍した

といふやうな傳もない︒叉そうした系統で︑他から傳はってきたといふやう江傳へ

もない︒全く傳來不明であります︒故に其の昔倭遣傳永の品でなかったとはいへ

ないのであります︒次に側の傳来については︑澁谷氏に再三其の由来ぞた.つれたが

たざいつの昔からともなく家博してゐるさいふことでありました︒考ふるに澁谷

家は戦國時代にすでに毛利氏に事へ︑江戸時代の最初から尾道の町年寄をした家で

あって同氏のその當時の文書に︑火砲に開するものもゐるぐらゐであります︒故に

本考に取っては此の鐵砲は最も興味ある辿品でゐります︒後段更らに委細に述べ

たいと恩ひます︒㈹は飯塚氏の厳父ががって朝鮮にゐられたことがあるので︑或は

朝鮮から持ち歸ったものであるかも知れないといふ外︑何事もいひ傳へられてゐま

餓砲の僻來に就いて二七

(29)

I

餓砲の偲來に就いて二八

せん︒⑤は武藤氏が釜山附近で發掘されたものを買得されたものであります︒⑥

も傳來不明で拳わります︒而して此史ロ︶類の三靴は︑いづれも寓暦の年號那刻し一︲﹄あ

りますから︑皆天文以後のもので︑天文以前に我が剛に鐡砲め←鋤︐といふ撒考の討究に

は直接有力な資料とはなりません︒次に第三種の傳來は︑黒田博士にも判づてゐな

いのであらうと恩ひます︒﹀いづれも明の比較的早い時代のもめで︑此の時代既にか

Kも立派な製品のあったといふこごは︑間接我が國に於ても之れが知られざる筈の

ないことを語るものであります︒殊にその番號の高いと.ころから︒察して︑除稀それ

が普及してゐたこと↑ど推定せしめるもので︑右の次第と同様のことを吾人に告ぐる

ものであります︒併し本考には矢張り液接の資料とはなりません︒︲かく槻察して

来ますと︑本考の論旨をす図めるに當って︑十分吟味を要するものは第二種イ頚の②

及び⑥であります︒今之れが吟味を進める前哩其の製作の年代を考へる必要があ

らうと恩ひます︒②及び側の形式具画頻の三黙上﹂全く同じであります︒・たざ把手

に柄を結び付ける爲めに明けられた穴淡ないのが逹ってゐるくちゐであります︒

然らば右二種も︑寓暦頃のものご推定すべきか︒予憾雨類のものを詳かに比較して トーIF

(30)

︵直︶類⑥の銃口及び把手口平面と導火

口の平面

餓砲の僻來.に就いて

左の如き諸鮎に於て稲逹してゐることを知ったの

であります︒

︵A︶︵イ︶類の方は概して銃身が言︶類よりも短く︑かつ

銃身の長さと銃口樫の比律が言︶類よりも大きい・

〆B三ィ︶類の導火道の穴の明け方が非常に粗雑で︑盤

bあけられたものらしく︑自ら共の口径が言碩の

ものよりも大きい︒︽言頚の導火道は銃身を鋳る

際に同時にあけられたらしく︑航る正確にあけら

れてゐます︒

︵C︶︵イ︶類の銃身は鋳形で一應鋳あげて後︑史らにそ

れを削りたて苫︑節を削りのこしたやうにも見え

ます︒これに反し言︶類はあけられたま凶で︑あと

で加工せられた形跡は全くありません︒

︵D︶︵ィ︶類に用ひられた銅の質は︑︵巳類のものよりも

二九

(31)

I

鍛砲の︲僻來に就いて

︵イ︶類②の銃口平面

︵イ︶類側の導火口及び銃口平面 一般によろしく︑光澤に富んでゐます︒殊に言顔の⑤及び⑥の用材は極めて粗賓の青銅であります︒宜三イ︶類の銃身の盤り方が︵ロ︶類のそれに比して︑いかにも古

拙であって︑側筒形をなさず︑上に揚ぐる雨類の銃口の形状

を比︒へて見れば︑直に明瞭に知られるのであります︒右〃の

相違鮎により︑年號の銘はないけれども︵イ蘋LL︵ロ︶類とは︑そ

の製作の年代に相當のへ・だ当りのあ.ることを知り得るの

であります

j Q J

L,

I

予の蒐集せる諸鐵砲の中で︑其の銘文

や傳來に依って︑略ぼ其の製産地が朝鮮

であることの知らる画ものは︑第二種の

②覇天とあるのは互濟島の朝天であら ︵八︶蒐集せし鐵砲の製造地

(32)

う︶㈹及び側であります︒而して㈲⑤に比して仰も亦朝鮮で製造せら恥江ものと断

じてよからうと思ひます︒そして第一称のもの及び第二極のの喝その傳來により

て支那製ご見なければなりません︒叉第三極のものは︑其の銘文に依って︑支那製で

あることは頗る明白であります︒こきにたゴーっ問題︲となるべき事は︑第二秤の㈹

即ち尾道澁谷氏所藏のものであります︒今これ︾ど第二極の仰即ち支那製のものに

比べると︑形式及び手法が︑すべての鮎に於て一致してゐる︒その鮎字式の文字の刻

されてゐる黙なども雨若同じで今のります︒たざ用材の地金の愛が澁谷氏のもの③

は青銅で︑小樽史談會のもの仰は前記の如く︑黄銅である︒しかし其の鷺のよい鮎は

一致してゐる︒當時朝鮮には銅の産出が紗かつたらしく︑世宗資錐二十七年︵文安二

年后朝鮮には銅鐵産せずして︑自ら火砲が紗い︑腰亡せる寺の銅器の計数をのこるご

ころなく調べさせてゐる鞭が見えてゐる︒叉宜刷愛録二十八年︵文脈四年︶に︑寺の梵

鐘を鋳澄して烏銃を作らしめることが兄えてゐます︒以て朝鮮製の銅銃の用材の

悪質なることを了解し得るのでゞのります︒彼れ此肌︑以て澁谷氏のものは︑或は支那

製であるかも知れません︒前に紹介した利器秘訣には諸字號の銃砲〃名を列記し

餓砲の偲來に就いて三一

I

(33)

正徳五年に書かれた同家の由緒書き呉私共先岨澁谷對馬と申者︑相模國より罷越

毛利輝元様江罷出︑對馬より七代御奉公州勤罷在居申候︑七代目澁谷與右術門儀︑其時

分知行所備後剛︵中略︶に一︾︑物成四百六拾三石壹斗之徐被下候︑七端帆︑開船壹艘之役儀

被仰付則尾道に居住仕低中略︶英子典兵術と叩者︑私共ためには父親にて候一などあり︑

俄砲の傳來に就いて三二

てゐろが︑其の中に擴字山號感見えてゐない︒此の鮎も之れが朝鮮の製造であるこ

とを極め難い根擴の一つであります︒併し上記の根擦のみに篠て︑其の朝鮮製にあ

らざるこさを定め難い︒猫ほ後日の研究をまたうと恩ひます︒よしこれを支那製

ざして見ても︑第三称のもの封巧みな手法整然たる銘文の書禮や刻法に比して︑之れ

は除りに粗製の戚があります︒そばざにかく澁谷氏所減のものは︑その産地の何れ

にあ︑りとするも︑天文以前に暁に我が國に傳來してゐたもの﹂中︑今に蓮ったもの当

一つでありと考へ得らる団のである︒而して此の鮎に就いて特に参考しなければ

ならないのは︑澁谷氏の歴史であります︒

五︶澁谷氏の由緒の鐡砲

(34)

之れに蝶れぱ碓谷對馬が相模より氷りて毛利氏に事へ︑對馬から七代目心典右衞門

が毛利輝元に事へたとなる︒同家の文書に錬れば︑典右衞門が毛利氏に事へたのは︑

天正以前にあることが分かるのであります︒則ち毛利氏の勢力が備後の奥郡から

海岸方面に進出し︑更らに備中備前方而に伸展する頃︑典右術門が輝元に事へたので

あらうご思ひます︒故に與右術門の七代前の先加より毛利氏に仕へたといひ︑與右

術門が初めて尾道に居住したといふ右由緒書きはあまり信用・し難いと思ひます︒

與右衞門は輝元に事へ︑米穀金銀↑ご預b︑海上迩迭業を誉んだ事︑慶長元和の頃から

尾道の町年寄となってゐた事︑輝元に事へて海上に戦功さへゞのった等の事から察す

るに漉谷對馬といふ老の頃から尾道附近に士満し︑爾来間もなく相常の勢力を有す

るやぅになったものと恩はれます︒其の家系についていふべき事もあるが︑今は之

れを略したい︒かうした家柄の澁谷氏に他に古い鐡砲のあったことを語・る文書が

あります︒前掲同家の由緒書きの維りに︑同家の文書の篤しを載せてゐる︒その中

に︑十二月十一日附けで︑大にしや庄兵術より町年寄五郎右衞門に宛てた同家の武器

目録がゞのり︑年號はないが︑少くとも正徳五年以前のものであらう︒恐らく江戸時代

餓砲の榔來に就いて三三

(35)

1

餓砲の僻来に就いて三四

の初め同家の家変︒こす︽の武器のみをあげたものご忠はれます︒其の中に︑

一鐡砲式挺

去年御改之節御公儀江指上ヶ侭叩候

とあり︑御公僅幕府をきしたものか︑それとも土地の大名淺野藩をさしたか不肌︑多妙

幕府をさしたものであらう︶へ差出したとあるから︑極めて珍らしいものであったご

想像され裳す︒目録には七鮎の武器↓どめげてゐます趣公儀へ差出したとあるもの

は︑此の外にはない︒叉同家文書中に︑次の一通があります︒

読取叩合藥大樽九ッ

天正十八年二月︐こいへば︑豊太閤がまさに關束に川征しようといふ時でゐります︒

堀九は堀久太郎秀政ではなからうか︒今直に〃ての花押を調べる便宜が球児それ 天正十八

式月十八日 以上

漉與右

1

.

堀九︵花押︶

(36)

はしにかく︑澁谷與右術門が合藥即ち火薬のがくの如き大量﹃ど運送したとしても︑或

は貢ったごしても︑澁谷家と火器との關係上興味ある史料であります︒次の文に参

看すればだざ琿に運送したものでばゐるゞ一ふいかと忠はれます︒次の丈普は其の外

の意味に於ても頗る興味の深いものであります︒00○合藥之儀︑日本目壹斤ゞ喧式丈め四分五分に︑こ︑もと︑千斤も二千斤も付候はざ︑かぃ

可申候︑代之儀者念々申候て︑其元にて可被相訓候︑いかにも遅々候ては︑無曲候.延々可申候︑代之儀者︑念々申

︲︲;j:参

二太は二宮太郎左術門︑佐典は佐世與三右術門で何れも輝元の重臣であります︒文

書の内容回︑署名満より千斤でも二千斤でも︑至急火薬の買入れを命じたものでぁh

戯弛の僻來に就いて一一五

澁谷與右術 候はざ︑不入候︑恐々謹言

十一月廿日

門尉殿

flil〆、

就辰︵花押︶

三直︵2︵花押︶

(37)

aT る面白いこさで︑同家傳來の支那若しくは朝鮮製と恩はる

に關聯して考へる事は必ずしも不自然ごは言へまい︒掘

初めに︑公儀へ差出しを命せられたc凪はる出︑珍奇な鐵硴

があるに於てをや︒

識砲の僻來に就いて三六

○○○ます︒こぁに特に注意す︑へき事は︑合藥の分量をいふに︑日本目壹斤︒とあることであります︒かく特にⅡ本目と噺はる必要のあったのは︑火薬寅貿の開係宕の中に︑日本人で憩い蒜がめったと想像しなければなりません︒同家の文書中に︑文脈慶長の征韓役關係の文書もあります︒或は此の文書もその時代のもの︒やうにも恩はれます︒併し前記の如く︑文脈役以前︑澁谷氏がすでに大愛の火藥を取扱ってゐた鮎︑及び此の文書の内容趣火薬の買入れを急いでゐる鮎等から考へて︑恐らく此の文書は︑天正十年以前則ち輝元の盛んに四隣の經瞥に狂奔してゐる時代のもの声一恩はれます︒果して然らば︑當時外國人と交渉して︑澁谷氏が火薬を賀入れてゐるごいふことは︑頗る面白いこさで︑同家傳來の支那若しくは朝鮮製と恩はる瓦古銃の由来を︑此の文書に關聯して考へる事は必ずしも不自然ごは言へまい︒況んや同家には江戸時代の初めに︑公儀へ差出しを命せられたc凪はる出︑珍奇な鐵砲を有してゐたといふ文献

、一

=E

『1口

アユ

q

(38)

尾道の澁谷氏の鐵砲︵第二種の㈹毒見出〃し︑つぎいて豊後佐伯の後藤氏の鐵砲勇二

種の②老發見して以来︑前にも述べた通り内地だけでも北は北海道に及び︑外は朝鮮

支那方面に達する範圃に於て︑辿ってゐる天文以前の古銃叉はそれと同形式の古銃

を知った︒そして浦洲のものを除いては︑悉くこれを座右に借入れて︑自由に研究す

ることを得た︒その結果︑天文以前に我れに︑鐡砲の存せしといふ年来の憩考に直接

参考ごなったものは︑除り多くなかった︒則ち最初に發見した第二種の②及び③に

過ぎない︒しかも側は其の由来を考ふ︒へき口牌も文献もなく︑濁り③に至っては︑保

存着の家系や文書等︑其の來歴に参考となるべき貴重の文献が進ってゐる︒今私は

前章に述べたやうな澁谷氏の由緒を以てその家傳の古銃を眺めたい︒そして李朝

質録に擁て知られた我が火砲史を︑全然此の考察の範園外に置くとしても︑此の古銃

は︑天文以前︑支那又は朝鮮から偲來したものどなす・へき有力なる候補者たる事を主

張した︒況んや第二章第三章に於て述べたが如き︑異稚日本火砲史の存するものあ

るに於てをや︒此の考に於一し是非論及する必要のめるべき事も既に奮考に於て論

じた躯は︑こぁに再述する事を避けた︒かくして今この考を経はらうとするに際し︑

餓砲の偲來に就いて三七

(39)

蛾砲の博來に就いて三八

我が文化史の大勢から槻案して︑右の結語に再ぴいひ及びたい︒

我が文化史は︑いふまでもなく大陸文化の淌化史であり同化史であります︒故に

從來の西洋に於ける支那︑日本學の研究若の或る者は︑日本文化を以て︑支那文化の一

分派となした︒我が國の支那學若の中でも或る者は︑日本文化は︑支那文化の範囲に

置かるべきものとするのであります︒それだけ我等の文化發逵の道程は︑大陸のそ

れ卜﹄接近してゐるのであります︒否な或る鮎では雨者合致してゐるのでありゞ一そ︒

しかも其の道筋に至りては︑如何に接近してゐても同じ道筋はない︒一度追分をあ

とにすいぱ︑一は江戸に至り︑他は京都に至るのであります︒かうした過去の文化史

に育てられた我等國民の國民性には︑模倣性が願る多いのであります︒模倣性さい

へぱあまり善く聞えないが︑他を了解し︑他を征服し︑他を我れに同化する性能L﹂いへ

ぱよいのであります︒僅々六十年にして︑ごにかく欧米の所謂文化國と形而上相距

ること甚だ多からざる状態となったのも︑かきる國民性に因るもの多いと恩ひます︒

而してかぅした國民性に贋没我的な流行癖どもいふべき︑忌まはしき短所の菱はれ

たのも叉止むを得なかったので︾のります︒かくして我が宗教信仰︑風硲︑習慣等を︑箇

l l

i

(40)

なに取うて其の由来を煎じ詰むれぱ︑其の根元の大陸に拳のるもの甚だ紗くない︒か

うした日本人が室町時代の初め以来天文十二年に至る︑約百五十年間︑我等を取まく

周園の國々に存在してゐた重喪を︑手に入れずして過したでありませぅか︒そも支

那人︑琉球人︑朝鮮人はがってこれを我等の祀先に示す事をしなかったので今のらぅか︒

否な我等に示さんが爲めにこそ︑則ち倭冠撃退のためにこそ︑此の重餐が用ひられて

ゐたのであります︒加ふるに此の重喪を製造し使用するに必要な材料は︑寧ろ我よ

り彼等に供給したので今のります︒しかも徒らに我等の租先は火砲の威力に騰歎し

てのみゐたとすべきであらうか︒到底首肯し難い事であります︒今朝鮮史の教ふ

る我が火砲史及び國内に存する天文以前傳來の火砲の遺物とすべき有力なる候補

着を見るに及んで︑益々不可思議に思はるきことは︑天文以前の文献に︑鐵砲傳來や︑鐵

砲製進等に開する事の見えない鮎で今のります︒かくて此の不可思議の事賓は︑いか

に不思議であっても︑ために天文十二年以前に火砲なしと断すべき材料ごするには

不足であると恩ひます︒考ふるに江戸時代以前に於ては︑文筆の所有者は甚だ狭ぃ

範圃に限られてゐた我が國に於ては︑それもあまり不可・思議事とするに足らないか

鐡砲の僻來に就いて三九

I

(41)

餓砲の博來に就い

も知れない︒漢學佛新

天皇以前に於けるそれ

まして文筆の乏しい方

り難かったか一も知れな

博 來 に 就 い

かの︲如く論じ︲詰めるも︑天文十二年種子ヶ烏銃偲來の事は國史上甚だ重要にゐら

ざる事の如く主張するやうに聞える︒惑考の如く天文十二年以前火砲我れにあり

とするも︑稚子ヶ島の如き優秀なもので戦く﹃叉その火薬の如きも眼力なものでなか

った︒朝鮮では丈祗慶長役の最中︑即ち宣旭の一一十八年︑我が文朧四年に峰倭助四郎︑

老古汝文︵六右衞門かあ両人塑烏銃の崖を織り︑三日に一柄を得一又放火合藥あ規を智

はしめ彌彌梵鐘を鋳溌して︑盛んに烏銃を製造した︒︵宣旭寅錐︶文臓役に於ける我が

陸軍の偉大な成績に就いては︑多くの原因を数ふ︒へきであるが︑鐵砲に於ては︑我れに

優秀な種子ヶ島式鳥銃とそ相應の火藥のあった事を数へないわけにはゆかない・

天文十二年の鐵砲傳氷の歴史は︵南磁人来朝の事は別として︶我が近世史初頭に於け

る大事件であることば︑此の一事を以て明らかであらうご恩ひます︒

て 岡

漢學佛教の傳來は除稚古い事であらうご忠はれますが︑雌抑天皇︑欽肌

姫けるそれらの傳來等については︑國史上の丈厭はないのであります︒

し乏しい方面に於て︑専ら用ひられたと恩はる︒鐡砲に開する文献伎遼

岬一も知れない︒

参照

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