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正常化=規範化が問いに付されるということ -M.フーコーの「外」と「逸脱」に関する-考察- [ PDF

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【目次】 序章 1 カンギレムにおける規範理論 1.1 変則性 anomalie と異常 anormal 1.2 カンギレムにおける規範 norm の所在 1.3 生物学的規範から社会的規範へ 2 フーコーにおける「正常化=規範化」 2.1 ペストと癩病の対比から見る正常化=規範化の 図式 2.2 正常化=規範化に内包される逸脱 2.3 無限のプロセスとしての正常化=規範化 2.4 二つの正常化=規範化の差異 3 フーコーにおける「外」 3.1 「外」の思考について 3.2 逸脱する文学の言語 3.3 逸脱する言語と狂気 4 「狂気」の再検討 4.1 差異としての「狂気」 4.2 二分法を揺さぶる狂気 4.3 非理性の規範としての狂気 4.4 「非理性の規範」が開示するヘテロトピア おわりに 序章 本論文は,フーコーが権力論の中で示した正常化=規 範化というモデルにおける逸脱という概念の位置づけを 修正することにより,このモデルの組み換えを行うこと を目的としている。フーコーの語る正常化=規範化にお いて逸脱(するもの)とは排除されるか縮減されるかし かなかったものだが,実のところ逸脱するものの持つイ ンパクトは時として正常化=規範化というモデルそれ自 体に異議を申し立て,これを問いに付し,構造そのもの を組み換えるものである。本論文ではフーコーが 1966 年のテクスト「外の思考」で暗に示した「外」という概 念を蝶番とすることにより,こうした正常化=規範化を 問いに付す逸脱の探究を行う。というのも,ジュディッ ト・ルヴェルも指摘するように,「外」とは「従属に還元 しえないもの」として定式化できるからだ。我々の探究 とは,ルヴェルがしめしたこのテーゼの内実を,フーコ ーのうちに探り,その結果として正常化=規範化を問い に付すものとしての「外」をめぐるものとなる。 1 カンギレムにおける規範理論 第一章ではフーコーの正常化=規範化のモデルを検討 する前に,このモデルの理論的素地をなしているとされ ているカンギレムの『正常と病理』における規範理論の レビューを行っている。 同書においてカンギレムは,各個体における差異とし ての変則性 anomalie と規範からの逸脱としての異常性 anormal という類似する二つの概念の語源まで遡ること により,この二つの語が決定的に異なるものであること を主張している。このように議論を始めることによって カンギレムは,個体が示す変異が,規範から逸脱する異 常性と即座には結びつかないということを強調するので ある。カンギレムが最も強調することは,ある環境に位 置する個体に内在する規範性である。外在的な規範によ っては個体は正常/異常であることが問われるのみに対 し,カンギレムは個体に内在する規範性という視点を導 入することにより,個体がある環境に適応し,生きよう とする意志をこの文脈の遡上に載せようとするのである。 カンギレムによれば,この個体における規範性について, 規範とは単にある事実を評価し規定することに関わるも のを指すのではない。ゆえに,評価し規定した帰結とし て逸脱するものを戒める効用を有するというわけでもな い。そうではなく,規範的であることとは,こうしたこ とを可能にする規範の創設institue des norms を伴った とき,はじめてこの言葉の十全たる意味を表現している と言えるのだ。ここで語られていること,それはこの個 体が病理に冒されていたり,負傷していたり,同じ環境 でこれまで通りの振る舞いを行うことが出来なくなった

正常化=規範化が問いに付されるということ

―M.フーコーの「外」と「逸脱」に関する一考察―

キーワード: 正常化=規範化,「外」,逸脱,狂気,非理性の規範,ヘテロトピア 教育システム専攻 舩原 将太

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としても,この状況に適応しようとする意志を失わない 限り,この個体は外在的規範に反するにもかかわらず常 に正常でありうるということである。 カンギレムは,上述の議論を生理学/病理学の問題とし て展開している。我々はこれから,この議論を人間社会 におけるものに展開し直す必要がある。 つまりカンギレ ムにおいて生物が環境に適応する際に呈する変則性のよ うに示された図式を,いかにして規範化が行われている 社会に位置づけなおすか,ということを論じなければな らない。この点については,カンギレムの問題を引き受 けて,フーコーが展開を行っていると思われる。 2 フーコーにおける「正常化=規範化」 フーコーが正常化=規範化のモデルを論じているのは, 『監獄の誕生』及びその前後の講義『精神医学の権力』 と『異常者たち』においてである。本章ではこの三つの テクストをもとに正常化=規範化における逸脱の位置づ けに対する分析を行っている。 フーコーは『異常者たち』において,癩病とペストと いう二つの病理に対する社会政策の差異のなかに正常化 =規範化というモデルを見いだしている。17 世紀に生じ た癩病においては患者を一つの空間に隔離し,排除する ことによって社会の浄化を進めていっていたものが,18 世紀後半に見られるペストへの対策においては,社会の 内に新たに包摂することを可能とするために,病人に対 して手厚い配慮が行なわれることになるのだ。フーコー において,癩病の際に起こった,社会からの締め出しと も言える対策は排除にかかわるネガティブなメカニズム なのである。すなわち,癩病においては異常性は社会の 側から排除され,締め出されたのちには一切の価値を剥 奪されていた。これに対し,ペストの場合は,異常性は 単に排除されるのではなく,社会に再び組み込み直すこ とが可能なものとみなされる。このことから,ペストの 場合,癩病のようなネガティブな要素は減少され,むし ろ生産的 productif な側面が強調されるようになる。こ うした図式は正常化=規範化において基礎をなしている。 正常化=規範化において逸脱という形象は両義的な位置 づけを与えられており,逸脱は解消されなくてはならな いものでありながら,逸脱がなければ正常化=規範化は 機能しえないのである。 またフーコーは,逸脱の持つ生産性として,規律シス テムを追加していくという側面を主張している。このこ を『精神医学の権力』では精神遅滞を例に挙げ,論じて いる。 白痴や痴呆とは,18 世紀ごろまでは一般施療院に隔離さ れていた狂気という形象と何ら弁別的特徴を持っておら ず,同じカテゴリに属するものだと思われていた。つま り,白痴などを示す者は正常な人びととは全く異なる存 在であると考えられていた。しかし,エスキロールが19 世紀初頭に提示した「発達」という概念がこの文脈に接 続されることにより,認識が変化していったとフーコー は言う。つまり,発達が一つの規範として導入されるこ とにより,精神遅滞と呼ばれるものがこの規範からどの 程度逸脱しているものなのか,他の子供と比較したとき, 精神遅滞を示す子供がどの程度遅れを示しているのかと いう問題設定が可能となったのだ。もはや精神遅滞は理 性の絶対的な外部としてみなされなくなっていることが わかるだろう。精神遅滞者とは,発達していく存在とし ての子供がその過程において赴かなければならなかった 状態へ到達しなかったか,遅くに到達しただけの存在と みなされるに至ったのである。そしてこのような帰結か ら,発達という規範における逸脱である精神遅滞者は, 我々の内部に配慮の対象として組み込まれることになる。 このようにして,正常化=規範化とは規範を新たに設定 することによって,正常化=規範化の対象となる逸脱を 新たに作り出す無限のプロセスとなるのである。 さて,このように論じていくならば,正常化=規範化 において,社会に位置する個体の有する内在的規範を論 じることはできないという問題に突き当たる。この問題 を受けて,次章以降ではフーコーの思想の内部において, このような個体の規範性を論じる可能性を探ることにな る。 3 フーコーにおける「外」 本章では,こうした可能性を探る最初の作業として, 「外の思考」から議論を始めている。というのも,序章 で示したルヴェルのテーゼ,「従属に還元され得ない」も のであるとされる「外」が語られているのは,この「外 の思考」というテクストだからである。 フーコーがこのテクストにおいて最も強調している のは,西欧における近代哲学が一貫して主張してきた主 体の統一性が実は危いものであること,そしてその危う さを示したものとしての現代文学の存在である。ここで は現代文学によって示される言語の不透明さ,すなわち, 事物・言語・主体が一致することなく無限の横滑りを見 せるという,言語表象観とも呼べる自明性が崩される地 平が,逆説的にも言語によって開かれる事態が語られて いる。そこでは,言語を軸とした主体の統一性が言語を 用いる限りにおいて常に散逸する危うさと隣り合わせと なっていることが示されており,主体の統一性の自明性 が突き崩されてしまう場としての「外」が示されていた。 廣瀬浩司(2011)はこの主体の散逸と呼べる状況を,同時

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期のフーコーのテクスト「侵犯への序言」を引用し,主 体の多数性と表現し,フーコーの思想の連続性を,この 主体の多数性を語ることに見ている。つまり,文学論と しての「外の思考」や他のテクストでフーコーが論じた, 言語というシステムにおける主体の多数性が開かれる可 能性を,1970 年代における権力論では,制度的身体の内 に見ようとしたものであるとしているのである。その上 で,1970 年の対談における,上述の「外」を開く文学と 同等の位置づけを与えられていた「狂気」に着目した。 ここで我々は廣瀬による指摘を受けて,言語のような抽 象的な形象が示す主体の多数性というものが,制度的身 体が表象する狂気によって具体化されているという仮定 のもと議論を進めていこう。 4 「狂気」の再検討 こうしたとき,佐々木慈子(2007 )が指摘するフーコー における狂気概念の特異性は注目すべきものである。 佐々木によれば,フーコーにおける狂気とは正常化=規 範化が語る狂気とは一致しないということ,常にランガ ージュ(言語)の問題として語られているということ, そしてそのランガージュとは,常にすべてのものとの差 異を語っており,その意味で社会との対話の場が開かれ ているというもの,この三点が特徴として挙げられてい る。 正常化=規範化の中における狂気とは一致しない狂気 を,フーコーがいかに論じていたかを確認するために「狂 気,作品の不在」を検討する。このテクストにおいて, フーコーは狂気をとりわけ言語の問題として語っている。 そこでは,第一に狂気とは常に社会における「禁止され た言語行為」の地帯に位置していたこと,第二にフロイ トが狂気に課されていた禁止からこれを解放したこと, 第三に,これが最も重要な点であると思われるが,「現 れ」として正常であるが,触知したときにその特異性が 露わになるという狂気という形象の奇妙さ,これらにつ いて言及されている。ここでフーコーは,狂気に見られ る「現われ」としての正常性を語ることによって,理性 と狂気,正常と異常といった二分法の図式を解体しよう としているように思われる。すなわち,正常と異常,理 性と狂気の間に穿たれた隔たりを無化することによって, 二つの相容れないと思われていた形象を同一の地平に置 き直していると言ってよいであろう。このように論じる ことによって,狂気というものが,「現われ」としては正 常な理性と同一でありながらも,理性とは異なる論理を 包含しているために「理性」によって解釈することが困 難であり,意味が横滑りを続けるものとなったものとし て論じ直しているのである。すなわち,ここで語られて いる狂気とは,「現れ」としては正常でありながらも,こ の形象独自の論理,コードによってその存立が可能とな っているものなのだ。 また佐々木は,『精神疾患とパーソナリティ』に言及 しながら,近代に成立した心理学によって「理性=自由/ 狂気=自由の不在」という図式が形成され,結果,それ までは人間における倫理の様態の一つであった理性が人 間にとっての本性となってしまったことを強調している。 佐々木によるこの指摘は我々に大きな示唆を与えている。 つまり,理性的であることは人間にとっての本性ではな く,選択しなければならない一つの倫理として捉えるこ とが可能であることを示すことにより,フーコーは狂気 を理性の対極として捉えるのではなく,別の規範に従っ ているものとして捉え返そうとしていたのではないだろ うか。 こうしたフーコーの狂気についての語り口から,我々 はこの狂気という形象を,理性とは異なる規範である「非、 理性の規範、、、、、」として呼ぶこととしたい。つまり,狂人と 見なされる人々は「非理性の規範」を内在している者と して捉えることが可能であると考える。このように,狂 気を非理性の規範として語ることで,理性と狂気との間 の隔たりを無化し,狂気を社会における他者ではないも のとして語ろうとしていたというフーコー像を新たに導 き出した。また,3 章において我々は廣瀬の指摘した主 体の多数性という問題を引き受け,制度的身体としての 狂気に接続することにより,「規範の多数性」と呼ぶべき 状態も導き出せたと言えるだろう。 また本章の最後ではこうした複数の異なるものが存 立する世界を記述する概念として1966 年にフーコーが 提示した「ヘテロトピア」に言及している。ヘテロトピ アとは,『言葉と物』においてフーコーが示した語であり, ボルヘスの引用した中国の百科事典の中にある奇妙な項 目を指し示している。そこには複数の有形無形の事物が 項目として挙げられている。それだけでも奇妙なものな のだが,とりわけフーコーが着目するのは「この分類に 含まれるもの」というように,全体の中の一個の項目が まさにその全体を指し示すという,極めて特異なもので ある。ヘテロトピアとはこのように,同じ項目として秩 序だって羅列されているように見えて,そのうちに内包 する奇妙な一点のことを指す。つまり,整序化されなが らも,この秩序そのものに内側から揺さぶりをかけるよ うなものが内包されている世界を記述するために,フー コーはヘテロトピアという語を用いたのである。本論文 の最後では「非理性の規範」をフーコーの議論の内から

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導出することによって,正常化=規範化というモデルが 依拠する規範が多数生じうる,すなわち「規範の多数性」 がこの場では生じうることを論じてきた。いうなれば, 正常化=規範化のプロセスの中に内包された「非理性の 規範」によって規範が問いに付され,「規範の多数性」が 保持された世界を構想したフーコー像を提示している。 そして,このようなヘテロトピア的な要素を多分に含ん だものとして,正常化=規範化のモデルを書き換えるこ との可能性を指摘した。 おわりに 本研究では,1970 年代のフーコーが提示した正常化= 規範化の図式において社会の内部に組み込まれては消滅 を与儀なくされてきた「逸脱」を,むしろ正常化=規範 化のプロセスのような閉ざされた円環を根本から問いに 付すものであると想定したうえで議論を展開してきた。 その際に,1960 年代における「外」という概念を蝶番と することによって,絶対的な審級として機能する規範の オルタナティブとして「逸脱」や「狂気」という概念を フーコーが構想していたことに着目してきた。そこでは 健康と病理,理性と狂気,正常と異常といった正常化= 規範化のプロセスで展開される二分法的な図式を内側か ら攪乱するような「非理性の規範」が構想されており, フーコーはこの非理性の規範を暗に語ることによって, 「規範の多数性」が許されたヘテロトピア的な世界を語 ろうとしていたことが明らかとなったと言えるだろう。 そしてフーコーは,自明性が崩される瞬間,すなわち「外」 という瞬間が生起する可能性を常に包摂したヘテロトピ ア的な世界を設定することにより,正常化=規範化や権力 テクノロジー,人間諸科学などによって閉ざされた世界 としてではなく,むしろ逸脱する可能性を多分に孕んだ 人間の手によって構築されうる,開かれた世界、、、、、、の記述を 目指していたことを結論付けることが出来るであろう。 本論でこのように導き出されたことを受けたときに, フーコーがカンギレムに捧げた「生命――経験と科学」 は注目すべき論文である。なぜなら,ここでフーコーは, カンギレムが生物に固有のものであるとしている「誤謬 erruer」を,社会における人間へと敷衍させているから だ。つまり,誤謬を犯す可能性を多分に含んだ人間と社 会との相互作用のうちに,開かれた世界を構想するフー コー像を,ここから新たに導き出すことが可能なのであ る。 最後に,ここでこうした正常化=規範化が生じる場 における「非理性の規範」という問題を教育に接近させ 考えなければならないだろう。まず,教育の場面として の教室空間とは,人が,社会的・外在的規範によって正 常化=規範化される,言うなれば正常化=規範化の原初的 な場面として,その特異性が語られるような場である。 しかし,このことは同時に次のことも意味すると言える はずである。すなわち,教育の場とは,非理性の規範に よって定立する規範の多数性というものが現れる原初的 な場面でもある,と。なぜなら,この場において,人は 初めて,社会的・外在的規範によって自らが生きる過程 で編み出してきた内在的な規範が問われることになるか らだ。しかしこのことは同時に,自己の規範と外在的規 範のズレが生じ,規範の多数性を知り,複数の規範によ る終りのない対話が生じるヘテロトピア的な世界を生き る原初的な場面としても了解されなければならない。す なわち,教育の場においても,そこに位置する者が向か なければならない方向が外在的規範によって示されなが らも,それとは異なる反応を示してしまう誤謬が孕まれ ていることを,教育は引き受けなければならない。その ことを引き受けたうえで,外在的規範と誤謬との終りの ない対話が生じる場として,すなわち,そこで共有され うる世界像が常に組み変わるものとして記述する教育の 理論が可能であると考えられる。 主要参照文献 カンギレム(滝沢武久訳)『正常と病理』法政大学出版会, 1987。 ――(西谷修訳)「侵犯への序言」『ミシェル・フーコー 思考集成Ⅰ』,筑摩書房,1999,304-325 頁。 M.フーコー(豊崎光一訳)「外の思考」『ミシェル・フ ーコー思考集成Ⅱ』,筑摩書房,1999,335-365 頁。 ――(渡辺一民・佐々木明訳)『言葉と物――人文科学の 考古学』,新潮社,1975. ――(田村俶訳)『監獄の誕生――監視と処罰』,新潮社, 1977. ――(慎改康之訳)『異常者たち――コレージュ・ド・フ ランス講義 1974-1975 年度』(ミシェル・フーコー 講義集成Ⅴ),筑摩書房,2002. ――(慎改康之訳)『精神医学の権力――コレージュ・ド・ フランス講義 1973-1974 年度』(ミシェル・フーコー 講義集成Ⅳ),筑摩書房,2006. 廣瀬浩司『後期フーコー――権力から主体へ』,青土社, 2011。 佐々木慈子『狂気と権力――フーコーの精神医学批判』, 水声社,2007。

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