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Vol.68 , No.1(2019)041松森 秀幸「『法華伝記』の成立年代と「釈志遠伝」の位置づけについて」

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Academic year: 2021

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『法華伝記』の成立年代と「釈志遠伝」の

位置づけについて

松 森 秀 幸

はじめに

『法華伝記』は僧祥(生没年未詳)が東晋から唐までの『法華経』に関連する僧 俗の記録を収集した著作である.筆者は以前に,『法華伝記』に示される天台宗 の系譜が,唐中期に活躍した荊渓湛然(711–782)が主張した師承関係の系譜とか なり近いものと捉えることができるものの,後に正統とみなされる天台宗の祖統 の流れとは一定の距離があったことを指摘した (松森2019).『法華伝記』がなぜこ のような立場であるのかという問題を明らかにするためには,『法華伝記』がど のような時代情況下において 述されたのかを明らかにする必要があるだろう. そのためには,まず『法華伝記』の成立年代を明らかにしなければならない. 『法華伝記』の成立年代については,従来,『法華伝記』には天宝13年 (754) に 示寂した左渓玄朗 (672–753) の伝記が収録されていることから,754年以降の成立 とする説が有力であった.しかし,近年,金2009,市岡2012,菅野2013によっ て,本書の成立年代に関する新しい視点が次々と提示されており,従来の見解を 再検討する必要が生じている.そこで,本稿では『法華伝記』の成立年代の解明 の になると考えられる「釈志遠伝」を中心に『法華伝記』の成立年代について 考察したい. 1

.成立年代に関する諸説

『法華伝記』の成立年代について,羽溪(1913, 6)は,本書の冒頭に「我大唐之 有天下」とあることから,その 者が唐代の人物であり,さらに本書には天宝13 年(754)に示寂した左渓玄朗の伝記が収録される一方,その弟子の荊渓湛然の伝 記がないことを指摘し,本書の成立を「天宝の末年(西暦七五五年)頃」と推定し ている.以降,本書の成立年代は,玄朗の伝記が収録されていることを根拠に, 754年以降の成立とみなすことが一般的となっているようである.

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しかし近年,こうした従来説に対して相次いで疑義が提示されている.まず僧 肇記「法華翻経後記」について研究した金2009がある.「法華翻経後記」は『法 華伝記』にしか収録されていないテキストであるため,金2009は「法華翻経後 記」の基礎的研究として『法華伝記』の書誌的研究を行っており,本書の成立に ついて非常に示唆に富む指摘を行っている. 金2009によれば,『法華伝記』のテキストには,現行の大正蔵所収本以外に,刊 本としては,大正蔵本の底本である慶長五年刊要法寺版と,慶長十九年刊本能寺 版,寛永三年刊本能寺版があり,古写本としては,大正蔵本の甲本である東大寺 図書館蔵本,金沢文庫本,西教寺正教蔵文庫本,大須文庫本がある.金(2009, 4) は刊本について,「体裁・内容ともに『要法寺版』を外れない」とし,写本につ いては,「以上の三本(引用者注: 金沢文庫本,西教寺正教蔵文庫本,大須文庫本)は, ……写本の調査により,東大寺図書館蔵本との類似性が顕著な同系統であること を確認した」と指摘している.そしてさらに,「調査が充分でないため判然とし ない」としながらも,中国・朝鮮半島における現伝本の有無についても調査して おり,西域出土漢文文献を含め,これらの地域において『法華伝記』の現伝本を 確認することができないことを指摘したうえで,「無論,中国・朝鮮半島での欠 損の可能性も考慮しなければならないが,以上の調査結果からすると,単に欠損 と看做すには事足りない唐代の成立とする既成の見解に新たな問題を投じるもの がある」と指摘している. 次に市岡2012は,『法華伝記』が754年以降に成立したとする説に対し,本書に 湛然の著作である『止観輔行伝弘決』と『法華文句記』の引用があることを指摘 し,それを根拠として,本書の成立を『止観輔行伝弘決』の成立した765年以降, あるいは『法華文句記』が成立した774年以降であると推定している.市岡2012 において,二つの成立年代の推定が並記されているのは,『法華伝記』の同一箇 所の文章を湛然の二つの著作の引用とみなしているからである.市岡2012が湛 然の引用として注目する箇所は,『法華伝記』の冒頭にある偈文の一部と,その 偈文に続く序に相当する文章の冒頭箇所の一部である.以下に『法華伝記』の当 該箇所を挙げる. 唯願妙法久住世/流通十方諸刹土/諸同遇者生慶幸/世世恒聞能修行/順逆 証無生忍/ 麁言軟語帰一義/不相違背至真際 抑祥宿殖所資,妙因斯発,流通一乗,讃詠真文,目聞未聞,耳見未見.昔始自姚秦訪道, 曁于我大唐之有天下,流通之益,先代無之.(T51. 48c10–16)

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市岡(2012, 368)は,上記の『法華伝記』の下線部が以下の『止観輔行伝弘決』 の下線部を引用していると判断している(それぞれの下線は市岡2012による). 今運居像末矚此真文.自非宿植妙因誠為難遇.況十乗十境出自一家.……如其所計.豈知 凡有所説.咸混一如.願諸同遇者深生慶幸心.冀来世重聞早契無生忍.(T46. 216b26–c6) 市岡(2012, 368)は,上記の『法華伝記』と『止観輔行伝弘決』の類似性を根拠 に,「部分的な引用ではある.しかし,双方の類似は明らかであり,これらの表 現が他の文献にはないものであるという点を鑑みると,『法華伝記』の成立を永 泰元年以後と見ても大過ないのではないだろうか」と推定している.そして,さ らに上記の『法華伝記』の「宿殖所資,妙因斯発」の箇所が『法華文句記』の 「宿植所資,妙悟斯発」(T34. 151b6–7)とも類似する表現であり,これを『法華文 句記』の引用でもあると見なして,『法華伝記』の成立年代は大暦九年(774)ま で下る可能性があることを主張している. 『法華伝記』が湛然の著作を踏まえて成立したという可能性を提示した点で市岡 2012の指摘は大変重要である.市岡2012の指摘の通り,『法華伝記』の表現が湛 然の文章を踏まえたものである可能性は高く,『法華伝記』が少なくとも湛然の活 躍した時代以降に成立したと考えることは妥当であろう.ただし,それら『法華 伝記』の表現が湛然の著作の直接的な引用であると判断することは早計である. 市岡2012の指摘の中で,『法華伝記』の「諸同遇者生慶幸」と「宿殖所資,妙因 斯発」という表現は,それぞれ『止観輔行伝弘決』,『法華文句記』との類似性が 高いが,他の箇所は引用と判断するには類似点が少なく,湛然の文章を直接的に 引用しているようには見えない.また市岡2102は『法華伝記』の「宿殖所資,妙 因斯発」という一つの表現を湛然の二つの著作からの引用と見なしているが,も し直接的な引用であるならば,どちらか一方の著作の引用であるはずである.し たがって,『法華伝記』と湛然の著作との間には,一定の類似性を確認すること はできるが,それを単純に『法華伝記』が湛然の著作を引用した証拠と見なすこ とは難しいといえるだろう.たとえば『法華伝記』との類似性が高い『法華文句 記』の文章(T34. 151b6–7)は,天台智顗に対する湛然の評価であり,こうした湛 然の言葉が『法華伝記』が 述された時代・地域において独自に広まり伝わって いたという可能性も考えられる. 最後に菅野(2013, 328)は,『法華伝記』「講解感応第七之二」に「釈志遠」につ いての伝記があり,この志遠は『宋高僧伝』義解 に「唐五台山華厳寺志遠伝」

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として立伝されるとし,そこには志遠の示寂が「八四四年の死去とあるので,本 書の成立はそれ以降になるであろう」と指摘している.この指摘によれば,『法 華伝記』の成立は従来の説から大幅に修正されることになる.ただし菅野2013は 注釈部分における指摘であり,『法華伝記』と『宋高僧伝』に収録される志遠が同 一の人物であるのかについて詳細に検討がなされていない.そこで,以下に『法 華伝記』の成立年代の判定の重要な となるであろう「釈志遠伝」について考察 したい. 2

.「釈志遠伝」について

『法華伝記』巻三の冒頭には「講解感応第七之二」として十人の人物を列挙し, その十人目が「釈志遠」である.本伝部分では,冒頭に「江南釈志遠十」との見 出しがあり,本文が以下のように続く. ①釈志遠.俗姓宋氏,江南人也.早喪其父,孤養於母.承順顔色,朝夕無違.天性聡利, 穎悟法華.②生年十八,啓母出家,從師受業.事師之礼服労無替.業講法華経,演天台円 頓.③発願云,「我所解不違仏意,将天地感動」.応時,雨華動地,如雷如震.勤行精進, 二十有年,教教不廃講肆.④臨終之時,謂弟子曰,「二十五聖衆来迎,往生浄土」.(T51. 59a13–20,引用文中の番号・下線は筆者による) この志遠伝の主な内容は,以下の通りである.①志遠は,俗姓が宋氏であり, 江南の人である.早くに父を亡くし,母に育てられ,よく母に従う子どもであり, 大変に賢くて『法華経』をよく理解していた.②十八歳で出家し,以来,師に対 して礼節を重んじ,『法華経』・「天台円頓」を講義した.③「自分の理解が仏意と 相違していなければ,天地を動かそう」と発願すると,天から花が降り大地が震 動した.二十数年,修行を怠らず,講堂が廃れることはなかった.④臨終の際に, 弟子に「二十五聖衆が来迎して,浄土に往生する」と述べた. さて,志遠という人物に関する事蹟は,『法華伝記』以外に,『宋高僧伝』巻七・ 『広清涼伝』巻下・『法華経三大部補注』巻十・『釈門正統』巻五・『仏祖統紀』巻 二十二などに見られる.これらの文献は内容的に大きな相違はないが,『宋高僧 伝』の内容が最も詳しく,『広清涼伝』がそれに次いで詳しい.その他の文献は 両書に比べるとわずかな記述であり,『釈門正統』・『仏祖統紀』は『宋高僧伝』の 表現を継承し,『法華経三大部補注』は『広清涼伝』の表現を継承している.そ こで,『宋高僧伝』・『広清涼伝』の志遠伝と,『法華伝記』の志遠伝の共通点と相 違点について,便宜上,『法華伝記』の内容を①出自と出家前,②出家後,③発

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願,④臨終に分け,その内容にそって整理したい. ①に関して,三つの伝記で共通する内容は,俗姓が宋氏であり,早くに父を亡 くし,母に育てられ,母によく従ったという点である.特に『法華伝記』の記述 は『広清涼伝』と文章表現まで一致している.相違点は,出身地について『法華 伝記』が江南とするのに対して,『宋高僧伝』には「家于汝南」 (T50. 745b8) とあり, 『広清涼伝』には「汝南人」(T51. 1119b9)とあり,いずれも汝南としている点であ る.また,『法華伝記』は志遠自身が出家前から『法華経』に精通していたとする のに対し,『宋高僧伝』(T50. 745b9–10)と『広清涼伝』 (T51. 1119b10–11)は,彼の母 親が常に『法華経』を読誦し,特に巻五に精通していたとしている.特に地名つ いては大きな相違点であり,江南と汝南は地理的にも大きく隔たっている.ただ し「江」と「汝」という一文字の相違は誤写である可能性も考慮すべきであろう. ②に関して,まず注目すべき点は,『法華伝記』と『宋高僧伝』・『広清涼伝』 との間では出家した年齢が相違している.前述の通り,『法華伝記』は十八歳で 出家したと記しているのに対して,『宋高僧伝』・『広清涼伝』はいずれも二十八 歳で出家したとしている.こうした客観的な情報が他の伝記と相違することは大 きな問題である.ただし,「十八」と「二十八」の相違は,伝写の過程で「二」 が欠落したという可能性も考えられる.なお,出家に関する『広清涼伝』の記述 (T51. 1119b11–12)の年齢以外の文章表現は『法華伝記』とほぼ一致している. 次に『法華伝記』では,志遠が『法華経』と「天台円頓」の講義をしたことが 記されているが,他の伝記には『法華経』の講義をしたというような記述は確認 できない.ただし「天台円頓」については,『広清涼伝』には『法華伝記』と全 く同じく「演天台円頓」(T51. 1119b16–17)とある.『宋高僧伝』には「天台円頓」 とはないが,「十乗境観」(T50. 745b15),「百界千如」(同745b17–18),「四種三昧」(同 745b23)などと天台宗の教義や実践に関連する記述が散見される. 以上のように,『法華伝記』の記述には他の伝記と客観的事実に関する決定的 な相違があるが,それらはいずれも誤写などに基づく可能性がある.また特に 『法華伝記』の記述と『広清涼伝』の記述との一致度がかなり高いことが注目さ れる. ③に関しては,『法華伝記』にしか収録されない内容である.『法華伝記』は志 遠伝を「講解感応」として収録しており,②が講解に相当し,③が感応に相当す る内容といえる.『法華伝記』では志遠伝のように他の僧伝に伝わらない霊験譚 を収録する場合がしばしば見られるものである.

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④に関して,『法華伝記』・『宋高僧伝』・『広清涼伝』はいずれも志遠の臨終の 言葉を伝えている.ただし,その内容は『法華伝記』と『宋高僧伝』・『広清涼 伝』とで大きく相違する.『法華伝記』は前述の通り,二十五聖衆が来迎し浄土 に往生するとの内容である.一方で『宋高僧伝』と『広清涼伝』は同様の内容を 伝えており,その内容は『法華伝記』と大きく異なる.なお,『宋高僧伝』(T50. 745b28–29)と『広清涼伝』(T51. 1119b24)は同じく「春秋七十七,僧臘四十八」と するものの,没年については,それぞれ「会昌四年」(844年,T50. 745b28),「会昌 五年」(845年,T51. 1119b17–18)としており,一年の開きがある. さて,『法華伝記』は志遠が臨終に「二十五聖衆来迎」と述べたことを伝えて いる.この「二十五聖衆来迎」という表現は管見の限り『法華伝記』の志遠伝に しか確認することはできない.「聖衆来迎」という言葉は,善導 (613–681)の著作 (T47. 24b21–24,同438a3–5)に見られ,慈恩基(632–682)も『阿弥陀経』を注釈する 際に用いている (T37. 343c6–11) が,臨終に聖衆が来迎するという思想自体は,『無 量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』などの浄土系経典に見られる.ただし,そ れらは臨終に阿弥陀仏が多くの大衆とその眷属とともに来迎するとするが,それ を「二十五聖衆」とは規定していない(伊藤2013, 32).また日本には阿弥陀仏と 二十五菩 の来迎引接を表現した迎講や阿弥陀二十五菩 来迎図などがある. 「二十五菩 」とは,『十住生阿弥陀仏国経』において平時に念仏者を擁護する 存在として規定された二十五人の菩 のことであり,もともとは臨終来迎とは関 係がない (伊藤2013, 33–36).二十五菩 が来迎する思想の成立については,源信 (942–1017)の発案した迎講を原形として発展し鎌倉時代以降に成立したとする説 (藤井1964, 118–122)や,14世紀以降に聖衆来迎と二十五菩 の念仏行者擁護が混 同されたとする説(伊藤2013, 37)などがあるが,詳細は明らかではない.いずれ にせよ,以上のことを踏まえると,「二十五聖衆来迎」との表現は,極めて注目 すべき『法華伝記』の独自表現といえるだろう.

むすび

『法華伝記』において他の伝記に未収録の記述が収録されることはしばしば見 られることであるが,基本的な情報である出自と出家の年齢が相違しているた め,『法華伝記』の志遠伝を『宋高僧伝』や『広清涼伝』の志遠伝と単純に同一 視することはできない.ただし,これらの相違はいずれも一文字だけの相違で あって誤写である可能性もかなり高い.さらに,それ以外の内容について,『法

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華伝記』の記述は他の志遠伝,特に『広清涼伝』の記述とかなり類似している. このことは,『広清涼伝』が『法華伝記』を参照した可能性,『法華伝記』が『広 清涼伝』を参照した可能性,両書が同一の碑文などの情報源などを参照していた 可能性などが考えられるが,このような状況証拠から判断すれば,『法華伝記』 に立伝される釈志遠が『宋高僧伝』や『広清涼伝』に収録される釈志遠と同一人 物であるという可能性は極めて高いといえるだろう.したがって,志遠の示寂以 降に本書が成立したとする菅野2013の指摘は妥当なものといえる.なお,志遠 の没年については,『宋高僧伝』と『広清涼伝』で一年の開きがあるため,成立 の上限は845年とすべきである.今後は『法華伝記』の段階的な成立や,唐の滅 亡後に作成された可能性,朝鮮半島や日本などの地域で作成された可能性なども 検討しなければならない. 〈参考文献〉 羽溪了諦 1913「『法華傳』の著者に就て」『六條学報』136: 1–6. 藤井智海 1964「二十五菩 来迎の思想について」『印度学仏教学研究』12(1): 118–123. 金炳坤 2009「僧肇記 法華翻経後記 偽 説の全貌と解明」『仏教学論集』27: 29–55. 市岡聡 2012「『法華伝記』の 者と成立年代について」『人間文化研究』18: 372–358. 伊藤真宏 2013「二十五菩 来迎 について」『佛教大学仏教学会紀要』18: 27–38. 菅野博史 2013「法華経の中国的展開」桂紹隆他編『智慧/世界/ことば』シリーズ大乗仏 教4,春秋社,305–329. 松森秀幸 2019「『法華伝記』の天台諸師伝について」『仏教学』60: (21)–(41). 〈キーワード〉『法華伝記』,釈志遠,成立年代,『宋高僧伝』,『広清涼伝』,聖衆来迎 (創価大学准教授,博士(人文学))

参照

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