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Vol.68 , No.1(2019)053金 炳坤「寂撰『法華経集験記』をめぐる諸問題」

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Academic year: 2021

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寂 『法華経集験記』をめぐる諸問題

金   炳 坤

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.辞典にみる通説

本稿は,寂 『法華経集験記』(東京大学総合図書館蔵)と直接間接にかかわりを 持つ,関連諸説におけるあらゆる問題に対して,批判的検討を加えることを目的 とする.言うまでもないが,この中には,これまでに日本では参照はおろか紹介 されることすらなかった韓国での研究成果が含まれる1) さて『岩波仏教辞典』の初版と第二版とでは法華経の項目において関説される 『法華経集験記』に関する記述に,次のような【加筆修正】(中村2002, 921)が施さ れている2).即ち「なお法華経の霊験功徳譚の編集は,中国や朝鮮(高麗)でも 行われた.その中で唐の祥公【僧詳】 『法華伝記』,恵祥【恵詳】 『弘賛法 華伝』,宋【新羅僧0 0 0 】の義寂0 0 0 『法華験記』【『法華経集験記0 0 0 0 0 0 』(『法華験記』)】な どは日本にも伝来し,同類国書の成立をうながした.その代表的なものが鎮源 『法華験記』(大日本国法華経験記)である」(中村1989, 734)という具合である. 主な変更は次の二点で,一つは 者が,五代から宋代にかけて活躍し,門人に 高麗の義通(927–988)や諦観(–970)らを擁した螺渓の義寂(919–987)から,韓半 島にあっては三国時代から統一新羅時代にかけて,中国にあっては唐代も玄奘 (602–664)や道宣(596–667)に代表される時期に身を置き,法蔵(643–712)の頃ま でには活動していたものとみられる新羅の義寂(7世紀後半から8世紀初め)へと改 められていること3).もう一つは書名のことで,諸目録に一貫してみられる『験 記』と現存する『集験記』とが同一視乃至は同本と見なされていることである. 同書の法華験記の項目には,版を分かたず「【比】叡山の僧鎮源が,中国での 説話を集載した新羅僧義寂の『法華経集験記』にならって我が国の法華経霊験譚 を集めたもの」(中村1989, 738)とみえるため,二項の整合性を図り,第二版で前 項を改訂したとも,或いはその間の学術成果を踏まえてのことかも分からない が,ともかくこれにより, 者と書名について異論のあったことが知られるので

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ある.またこの二点は,本稿を進めていくうえで起点となる. 2

.最初の法華験記

ところで,その是非についてはひとまず措くとして,新羅僧義寂 『法華経集 験記』ということが前提にあるのなら,もう一箇所,恐らくは高麗末(14世紀) の了円録『法華霊験伝』二巻(逸書である天 『海東伝弘録』四巻より8話を転載す る)を視野に入れてのことであろうが,はじめの「朝鮮(高麗)」という表現も 併せて訂正すべきであったろう. それに,祥公の『伝記』を844年以降(従来は774年以降)の成立とする近年の 研究状況(菅野2013, 328)をも考慮するなら,一部によって主張されている二書に 対する既存の影響関係,即ち『伝記』から『集験記』へという縛りはもはや過去 の遺物と化し,『集験記』の巻上の序には,孟献忠 (718年)『金剛般若経集0 験記』 の序(彼の自序)からの援用(X87, 449a23–b4)が認められ,その成立年代が(義寂の 没年も)このあたりまで繰り上がることになるために,先の配列を,認知度はと もかく成立の早い順に並べ替えると,『弘賛』(706年以降),『集験記』,『伝記』の 順になるのである.そうすると,これに連動して,これまでに『伝記』を『集験 記』より先行する文献として論理展開を構築してきた全ての論攷は,必然的にそ の見直しを迫られることになるのである4) そして,この順序の逆転という揺るがない事実と,新羅 述という大前提下に おいて,新たに『集験記』の位相を定義づけるなら,本書が法華霊験記類の古層 に属することに変わりはないのであるが,法華経に特化し書名に法華を冠した現 存する最古の法華験記にしてその源流に位置づけられること,さらには韓国にお ける最初の法華験記であることが確定するのである. 3

.研究史概観

者をめぐる問題は,これを二段階に分けて論証する必要がある.一つは宋の 義寂でないことの証明.もう一つは宋の義寂でないことが直ちに新羅の義寂であ ることの傍証にはなり得ないため,新羅の義寂であることを立証するための確か な証拠を提示しなければならない. 宋の義寂でよしとする稀代の誤見は,鎮源 (1040–1044)『本朝法華験記』の 序において示される次の一文,即ち「而して中比巨唐0 0 に寂法師0 0 0 といふものあり き.験記0 0 を製りて世間に流布せり.観ればそれ我が朝古今未だ録さざりき(而中

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比巨唐有寂法師.製於験記流布于世間.観夫我朝古今未録)」(井上・大曽根1974, 44; 510) というところを如何に解したかに端を発するものである. 井上光貞・大曽根章介・塩入良道の三氏は,ここの「寂法師」のところに頭注 を付して,これを「宋0 の義寂」(同上, 45, cf. 720)に比定してしまったのである.こ この「験記」が『集験記』を指すかはまた別の問題で,ともかく「巨唐」と宋と がイコールになれるはずもなく,間には,如何ともし難い時の流れが歴然として 存するが故に,これが宋の義寂でないことは多言を要しないだろう. れば,この問題は,橋川正氏の「天台の義寂」(橋川1924, 150)という見当違 いの方向づけにはじまり,これを引く鏡島寛之氏は「懇切に指摘せられた」(鏡 島1936, 25)とそこに権威まで与え,藤本智董氏が国訳の解題において「天台山螺 渓伝教院の義寂」(藤本1938, 141)というに及んでいよいよその地位は不動のもの になったのである.諸氏はこのとおり違わぬ見解を重ねているのであるが,或い はこれらを鵜呑みに前轍を踏んでしまったのではあるまいか. ついでに述べれば,1958年に初めて学界においてその姿を現した『集験記』こ そが,この一辺倒の連鎖に変革をもたらすきっかけとなるのである. この時に発表された太田晶二郎氏の解説には,本書が『永超録』(1094年)に記 載される「験記」(T55, 1150a14)であろうこと.それから「唐代の編述」,「書写は はるかに古く平安朝初期」(史学会1958, 79)と推定され,大体の年代までは絞られ ているのであるが,とくに 者の特定に拘る様子は見受けられない.その後, 英子氏はこれを参照したうえで,宋の義寂についても触れ「これは同名異人の義 寂なのであろう」( 1965, 118)と結論づけたのである. これまでの経緯を背景にここからは筆者の推測も混じるが,そこへ現れたのが 先の井上氏らの主張になるわけで,それが『集験記』の生みの親たる太田氏に とって容認しかねる問題であったろうことは想像に難くない.そこで氏は,直接 的には井上氏らの誤 を正し,間接的には 説への補填を兼ねて,再び1980年 に彼の有名な「寂法師の法華経の験記は現存する」を著し,その中において,本 書が新羅の義寂に帰されることを言明するに至ったものと考えられる. ちなみに,上記『本朝法華験記』序の文末の8字に注目すると,鎮源は,寂法 師の『験記』を観て,そこに日本の説話が録されていないことを証言しているこ とになるが,まさに『集験記』にもそのような事例はない. 韓国では,1996年4月23日に金相鉉氏によって初めてその全容が公開され, 同年6月19日付の『法宝新聞』には「新羅僧義寂著述『法華経集験記』韓国仏教

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全書編纂委刊行決定」という見出しが躍ったが,結局,それが実現されることは なかった.事情は不明だが,理由は二つほど考えられ,一つは手厳しくも太田氏 が「実は先行書の抜き集め―謂はば剽竊―に過ぎないこと」(太田1981, 4)と指摘 するように,集録説話の全てが既知の文献に見出されること.もう一つは初の韓 国語訳で「本『法華経集験記』は近来日本で発見されたもので,集験者が誰なの かまだ分明に明かされていない」(大韓仏教天台宗求仁寺1999, 593)と断っているよ うに, 者に対する疑問符が取れなかったことに要因があったろう. 事実,太田説を支えるたった一つの論拠というのは,単に「寂」という 者名 の一致を以て,本書を『永超録』の「験記」に当てただけの非常に短絡的なもの で,太田氏自身も最終的には「此の法華経集験記,果たして新羅義寂の書である ならば」と断言しないで「序の漢文も巧みとは言へないこと,これらは,半島 述として納得行くことであるかも知れない」(太田1981, 1; 4)とトーンダウンして いるのである.本書の性格上,読み手に目が向けられたものだとすれば,序の漢 文も巧みである必要はないわけで,また,日本やイギリス(王招國2018)で発見 されている義寂の『無量寿経述記』,『法花経論述記』(計四本),『菩 戒本疏』の 日本仏教への影響からしても,「半島 述」云々というのは疎さの露呈でしかな いのだが,ともかく一旦既成事実化された太田説は,とくに韓国においては多く の研究者に支持され,十二分に検討されることなく,有耶無耶のまま勢いに乗じ て,研究だけが先行してしまった感がある. 4

.三蔵門人義寂法師

しかしながら筆者は太田説を否定する立場にはない.むしろ,かくあるべきこ とを可能にする,より適した論拠を以て太田説を補強するとともに,テキストの 分量や構造といった別の観点からの問題提起を以て『集験記』の成立に関する一 つの結論を示そうとするものである. 義寂の行跡については,善珠(723–797)を介して道証(–692–)が伝える『成唯 識論未詳決』の 述と中国汾陽での活動,最澄(767–822)によって知られる『大 乗法苑義林章』をめぐる基(632–682)との関係,安然(841–915?)の『教時諍論』 における「三蔵門人」という伝承,均如(923–973)によって知られる690年以降 の義相(625–702)との対論,義天(1055–1101)が伝える金山寺での駐錫が知られ るほどである5) 伝承によると,彼はどうやら玄奘に師事したようであるが,修学の実状を掴み

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得る痕跡はなく,ために朴 娟氏が「玄奘の門人になってはいたが,道宣など西 明寺の他の僧侶にも指導を受けた可能性がある」(朴 娟2007, 278)と指摘するよ うに,その周辺にまで答えを求めるようになったのであるが,手詰まり状態であ ることに変わりはない.それが『集験記』から得られる片鱗を以てすれば,本書 の 者が玄奘乃至は彼の門人に繋がっていることが判明するのである. 本書は一見すると,道宣 (664年)『集神州三宝感通録』を下敷き(32話中23話 71.88%)にするなど6),本文に目新しさを欠くことで貶下されがちであったが, 本書の本領とすべきところはそこでなしに,唯一の地の文に当たる上下両巻の冒 頭に付される二つの序,合わせて25行にこそあるのである7).そして,市岡聡氏 の綿密な分析により,巻下の序に,道宣 (645年以降)『続高僧伝』の「玄奘伝」 (T50, 456b9–14)と,弁機 (646年)『大唐西域記』の讃(T51, 947b23–24)からの改 変を伴った抜き取りのあることが指摘(市岡2013, 95)されたのである. もっとも市岡氏は,賓謂構造の使用や「之」の使い方を理由に日本人の「寂」 も視野に入れるべきことを主張(同上,97)するのであるが,氏の指摘する賓謂 構造の4ケースは,写本では全て校正記号を以て入れ替えるべきことが指摘され ている単なる誤植箇所に過ぎず,ここの「之」の使い方にしても,韓和ともにそ の使い方に大差のないものであるために,この線は考えなくてよかろう. それよりも,本書の 者が「玄奘伝」や『西域記』のフレーズをわざわざ自序 の中に取り入れているところに注意を払うべきであったろう. なぜならば,彼の置かれていた状況こそが,かような態度を可能にしたものと 考えられるからである.要するに,玄奘の流れを む道宣や弁機の,割りと近く に居ながら修学できた者が,そこで知り得た最先端の仏教文化を取り え,修学 の結実を形にしたものが本書であろうと推定されるからである. こうして 者が残している かなクレジットを追っていけば,そこに玄奘門人 としての新羅義寂の存在が浮かび上がってくるのである.従って,この事例こそ が,本書が新羅の義寂に帰される何よりの証拠になり得るであろう. 一点だけ新知見を加えるならば,巌的述(1691年)『略論浄土義詳解敍』(『続浄全』 6, 1a5–8)に,巻下の序からの援用が認められることであるが,これは本書の流伝 史を繙くうえで,一つの糸口になるものと考えられる. 5

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紙の『験記』と

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紙の『集験記』とは同本たりうるか

もう一点,しからば,書名の不一致という問題については如何なる策が講じら

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れているのかというと,太田氏は,仏の無記であるかのように終始無言を貫く. 先行研究(三友2003, 104; 金敬姬2003, 224)での扱いにしても,ただ『永超録』が略 したという始末で,そこに学術的な根拠はまるでない. 1170年の奥書を有する写本の第8紙第1行目には「法華経集0 験記巻下 并序沙 門寂 」(尾題は「法華集0 験記巻下」)とみえるが,諸目録に対比してみると, 者名 を欠く『山王院蔵書目録』(925年)には「法花経験記 二0 巻 合巻」(佐藤1937, 23) と,『永超録』には「同験記三0 巻寂」(高山寺典籍文書綜合調査団1999, 40)と,『古聖 教目録』(11世紀初頭から12世紀末葉まで)には「法花験記 上下0 0  寂法師」(落合1998, 148)と,『大小乗経律論疏記目録』(12世紀初頭以前)には「法花験記一0 巻 寂法師  卌九紙0 0 0 」(同上,337)とあって,写本どおりの題を示すものは存在しない. 巻数の相違は分合(例えば巻上の本末)の可能性も否めないため,しばし論点か ら外し,問題の核心に迫るべく「或る経蔵の現存目録」(同上,492)と考えられ ている『大小乗経律論疏記目録』の49紙という記録に着目すると,写本の第12 紙第23行目には「十帋半」(実際は12紙)とあって,形態不明なるが故に,量的に どの程度の差異あるものか,それが正確には測れないが,両者同本ならば,後者 には幾分か省略のあることが認められるのである. そればかりでなく『集験記』には,目次(39話)にはみえるも本文を欠くもの が8話(その逆が1話)もあって,この時点ですでに20.51%の脱落が認められるこ とになるのである. これらの事実から両者の関係を大胆に推測するならば,『集験記』は『験記』(本 来の形)そのものではなく,誰かによって編集0 し直された,その抄本なのではな いだろうか,という問題提起を以て結論にかえることにしたい. 1)簡潔ながら,崔鈆植(2014, 16–19)に,金相鉉,李起雲,金敬姬,三友健容,髙平妙 心,柳嬉承,朴 娟氏の学説が取り上げられて解説されている. 2)【 】は第二版における加筆修正箇所を示す.傍点は筆者によるもの. 3)一説に「梁代の新羅僧義寂の『法華経集験記』」(小島2013, 418)というのは理解に苦 しむ. 4)この類に,三友2003,金敬姬2003,髙平2007・2008,市岡2013が入る.なお『伝記』 の成立年代に関する従前の諸説については,市岡2012を参照されたい. 5)詳しくは崔鈆植2003を参照されたい.ちなみに,筆者は未見であるが,李光濬2016 によると,玉華寺の寺伝資料に「朝鮮高僧元暁,義寂(有一種資料記為義湘).亦来此 就奘遊学」(王仲德1994, 53)という記録があるという. 6)朴 娟(2007, 289)に,出典の一つである『要集』を道世集『諸経要集』に比定する のは誤りで,詳細不明である『要集』は『伝記』に先行する文献とみられ,『伝記』には

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異名を含め6話(出要集2例,同集3例,出要伝1例)が転載されている. 7)本文中にみられる李山龍の話が序の中にも含まれていることから,これらの 集者は 切り離して考えるべきではなかろう. 〈参考文献〉 市岡聡 2012 「『法華伝記』の 者と成立年代について」『名古屋市立大学大学院人間文化研 究科人間文化研究』18: 372–358.   ― 2013 「『法華験記』序の寂法師と験記」『日 本歴史』778: 92–100.   井上光貞・大曽根章介校注 1974 『往生伝 法華験記』岩波書 店.  太田晶二郎 1980 「寂法師の法華経の験記は現存する」『日本歴史』390: 85–89.    ― 1981 「東京大学図書館蔵 法華経集験記 解題」『法華経集験記――東京大学図書 館蔵――』貴重古典籍刊行会,1–8.   落合俊典編 1998 『中国・日本経典章疏目録』大 東出版社.  鏡島寛之 1936 「法華験記研究序説」『文科』1(1): 22–31.   菅野博史 2013 「法華経の中国的展開」『智慧/世界/ことば』春秋社,305–329.   金敬姬 2003 「義寂의『法華経集験記』에 대한 고찰(義寂の『法華経集験記』に対する考察)」『日本文 化学報』19: 221–233.   金相鉉 1996 「日本에 現伝하는 新羅義寂의『法華経集験記』(日 本に現伝する新羅義寂の『法華経集験記』)」『仏教史研究』1: 1–2.   高山寺典籍文書綜 合調査団編 1999 『高山寺本東域伝灯目録』東京大学出版会.  小島裕子 2013 「中世仏 教文芸と『法華経』」『法華経の事典』東京堂出版,415–425.   佐藤哲英 1937 「山王院 蔵書目録」『叡山学報』13: 1–85.   史学会編 1958 「史学会第五十七回大会報告」『史学 雑誌』67(12): 64–86.   髙平妙心 2007 「『法華経集験記』の研究(一)――東大本『集 験記』翻刻の試み――」『法華文化研究』33: 77–94.   ― 2008 「『法華経集験記』 に関する一考察」『印仏研』56(2): 668–671.   崔鈆植 2003 「義寂의 思想傾向과 海東法 相宗에서의 위상(義寂の思想傾向と海東法相宗における位相)」『仏教学研究』6: 33–66.    ― 2014 「義寂연구의 현황과 과제(義寂研究の現況と課題)」『東国史学』56: 1–36.    英子 1965 「日本霊異記下巻第一話の考察――某禅師の死について――」『芸文研究』19: 99–119.   大韓仏教天台宗求仁寺 1999 『懸吐訳 妙法連華経(別巻)』民族社.  中 村元他編 (1989) 2002 『岩波仏教辞典』岩波書店.  朴 娟 2007 「의적의『법화경집험 기』편찬 배경과 특징(義寂の『法華経集験記』編纂の背景と特徴)」『歴史と現実』66: 273–301.   橋川正 1924 『日本仏教文化史の研究』中外出版.  藤本智董 1938 「大日 本 国 法 華 経 験 記 解 題」『国 訳 一 切 経  史 傳 部23』 大 東 出 版 社,139–141.    三友健 容 2003 「寂 『法華経集験記』の一考察」『法華仏教文化史論叢』平楽寺書店,89–107.    李光濬 2016 「원효와 의적의 입당구법(元暁と義寂の入唐求法)」『仏教評論』68.   王 招國(定源) 2018 「敦煌遺書所見新羅義寂『菩 戒本疏』写本考述――兼論新羅円測著作 対敦煌仏教的影響――」『仏教学報』82: 31–54.   王仲德 1994 『玉華寺』三秦出版社. 〈キーワード〉 玄奘,道宣,義寂,大唐西域記,集神州三宝感通録,法華験記 (身延山大学准教授,博士(文学))

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