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巨大国家中国における集権と分権 : 地方主義と連 邦制のはざまで

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巨大国家中国における集権と分権 : 地方主義と連 邦制のはざまで

その他のタイトル Centralization and Decentralization in Gigantic China : Facing a Choice between Antiregionalism and Federalism

著者 小林 弘二

雑誌名 關西大學法學論集

巻 51

号 2‑3

ページ 385‑448

発行年 2001‑09‑10

URL http://hdl.handle.net/10112/00023565

(2)

中国は巨大国家である︒人口︑広大な国土︑多様性︑伝統の重み︑どこから見ても中国は巨大国家である︒

中国は︑二0世紀を通じて︑巨大国家であった︒だが巨大国家であることに変わりはなくても︑巨大国家のありよ

うは時期によって違っていた︒二0世紀の前半は︑強力な統一政権を欠いており︑列強の侵蝕を蒙って中国は反植民

地状態におかれていた︒そして世紀の後半には︑共産党が革命に勝利して強力な統一政権を維持することが可能にな

り︑自他ともに認めるアジアの大国となった︒しかし大国とはいえ︑この時期の対外的な影響力は限られたものでし

かなかった︒四半世紀に及ぶ毛沢東時代の中国は︑長期にわたって半ば孤立した状態が続いていたし︑﹁改革と開放﹂

をスローガンに外国との交流を活発化させた部小平時代の中国は︑西側世界とのギャップを埋めるために後進性の克

服に努める二流国家でしかなかった︒

1

巨大国家中国における集権と分権

(3)

第五一巻ニ・三号

巨大国家中国の統治は︑正統イデオロギーと大衆動員に支えられた毛沢東時代の中国においても︑容易ならぬこと

であった︒毛沢東時代の初期にソ連方式に基づく中央集権的計画経済システムの構築が始まると︑その画一性ゆえに

地方の実情にそぐわず︑地方の活力が損なわれることになった︒毛沢東の﹁十大関係論﹂にはこう記されている︒

﹁われわれの国はこんなに大きく︑人口はこんなに多く︑状況はこんなにも複雑なので⁝⁝ソ連のように︑なにもか

も中央に集中して︑地方をがんじがらめにしばりつけ︑少しの裁量権も持たせないといったやり方をわれわれはとっ

(l ) 

毛沢東時代に何回か繰り返された毛沢東の分権化提起は︑五0年代末期以降は︑地方の活性化自体が目的ではなく

(2 ) 

て︑毛沢東の特異な戦略構想に基づいていた︒一方部小平時代の分権化は︑毛沢東時代の停滞した経済を活性化させ

るために︑地方と企業に中央の権限を移譲することを目的としていた︒分権化は︑部小平の発展戦略︑すなわち﹁先

富論﹂︵豊かになれる者からまず豊かに︶を唱えて条件に恵まれた沿海地区の経済発展先行を許容すること︑硬直化

した中央集権的計画経済システムに市場経済的要素を導入すること︑こうした戦略の一環として実施された︒

中央集権的計画経済システムの下では︑中央から末端の行政単位に至るまでの︑部門ごとのタテ︵﹁条﹂︶の統制が

強調されがちである︒部門管理ないし部門行政と呼ばれている︒国務院の各部が︑下属機構や直属の企・事業単位に

対して︑計画指標とヒト︑モノ︑カネの配置を通じて︑管理するのである︒タテの統制はしばしば﹁条条専政﹂と呼

ばれるほど強権的な色彩を帯びていた︒ただし︑国務院直属の機構や企・事業単位︵国家安全部︑人民銀行︑鉄道︑

の場合を除いて︵この場合は上から下への全面管理を意味する﹁垂直管理﹂が行われる︶︑国務院所

属の一般の工作部門の場合は︑省レベルの受け皿︵﹁対口﹂部門︶を通じて︑業務の﹁領導﹂︵指導よりも強権的︶が

(4)

分権化による地方の﹁独走﹂が顕著になると︑地方が中央の政策や指示を無視しているという︑﹁地方主義﹂非難

の声が高まる︒また近年は経済割拠主義が統一市場の形成を妨げているとか︑地区ごとの重複投資による浪費が甚だ

しい︑といった批判がなされ︑さらに地方の台頭と裏腹に﹁国家能力﹂

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, 主として中央の財政力を意

(4 ) 

味する︶の低下が憂慮されることにもなる︒やがて中央の再集権化を求める声が高まる︒

﹁単一制国家﹂の中国では﹁条塊関係﹂の文脈で中央と地方の関係がどうあるぺきかが論じられることが多い︒毛

行われる︒省レベルの意向もある程度は反映されるわけである︒また中央の直属企業等もその大半は地方に位置して

いるので︑地方にも発言権が認められている︒特に党中央の文書︑指示等は︑地方の党委員会を通じて現地企業に伝

(3 ) 

えられる︒したがって中央の直属企業等も︑多かれ少なかれ中央と地方の﹁双重管理﹂下に置かれていた︒

中央による硬直的なタテの統制の弊害が強く意識されるようになると︑地方の活性化を促すために経済管理権を中

心とする権限の﹁下放﹂︑すなわち分権化が実施される︒いわゆる﹁条塊関係﹂︵タテ︑ヨコの関係︶において︑中央

によるタテの統制を緩和し︑ヨコ︵﹁塊﹂︶︑すなわち地方の自主性を高めようというのである︒その結果︑地方の自

主的な判断に基づく投資活動が活発化し︑経済発展が加速される︒ところが分権化によって地方経済が活性化される

のにともなって︑新たな矛盾が露呈し始める︒地方の指導者がいったん権力を手にすると︑中央の方針や政策を無視

して独自の利益を追求しがちになる︒また不均等発展によって地域間格差が拡大する︒さらには地方政府の経済への

介入が政府と企業のあいだに不透明な癒着の構造を生み︑幹部の腐敗︑汚職が蔓延する︒とりわけ部小平時代には︑

分権化が市場経済化と相乗作用を惹き起こして︑﹁条塊﹂関係の既存の枠組をはるかに越える地方経済の拡張がみら

(5)

の枠組みの再編が求められているように思われる︒

第五一巻ニ・三号

支持を集めていること︑こうした状況変化が再集権化の努力の背景となっている︒

沢東時代にも中央による権限の下放︵﹁放﹂︶と回収︵﹁収﹂︶が何回か繰り返された︒部小平時代の政策の基調は︑天

安門事件後の一時期︵この時期には﹁整理整頓﹂の名で集権化が強行された︶を除いて︑おおむね分権化であった︒

ただし︑部小平時代の後期には︑計画経済から市場経済への転換が進んで︵指令性指標や統制価格の撤廃︶︑中央ー

部小平後に江沢民・朱錯基指導部は︑中央の統制力を強化するため︑目下再集権化に努めている︒ある論者の表現

( 5)  

をかりれば︑﹁分権が部小平の改革モデルの主軸となっていたが︑集権が朱鈴基の改革モデルの主軸なのである﹂︒

0年代に入って地域間格差がいっそう拡大したこと︑国有企業改革と金融制度改革が正念場を迎えて中央の指導

力が問われていること︑﹁地方主義﹂を非難する声がますます高まったこと︑﹁国家能力﹂の向上を訴える論調が広い

中国における集権ー分権の問題領域は︑しかしながら︑﹁条塊﹂関係に基礎を置く中央ー地方の関係をはるかに超

える広がりをもっている︒第一に︑近年の少数民族矛盾の深刻化や香港返還後の香港・台湾問題のゆくえなども︑視

野に入れておかねばなるまい︒第二に︑﹁条塊関係﹂という発想は︑元来︑計画経済システムがどうあるべきかとい

う議論と不可分であった︒だが計画経済システムからの脱却が進展している今日︑ヒト︑モノ︑カネを通じて中央が

地方をコントロールする時代は︑中国においても過去のものになろうとしている︒地方の自治を前提にした巨大国家

さて︑小稿の課題は︑第一に部小平時代の分権化の基礎構造を抑えるとともに︑最近話題となることの多い集権│

分権の問題領域を概観することである︒第二に︑部小平の分権化とそれが産み出した新たな矛盾と問題を典型的に表 地方の枠組み自体が変容し︑中央の統制力が弱体化した︒ 関法二︱八

(6)

二︱九 していると考えられる広東省のケースをとりあげて︑分権化の実態を解明することである︒広東経済の急成長にともなって出現した地方主義の台頭と︑政府主導の経済発展がもたらした政企癒着の構造の解明が中心となる︒第三に︑最近の江沢民・朱鈴基指導部による中央の統制力強化と地方の機構改革の概況を把握したうえで︑広東における機構改革と政企分離の現況に迫ることである︒あわせて︑中央ー地方の関係の抜本的解決策として論議を呼んでいる連邦

地方の統治機構

中央から地方への分権化の主たる対象は︑省レベルの党政機構である︒省レベルヘの分権化はさらに下方へと権限

の移譲が進むことが想定されている︒しかし実際には︑下放された権限が省レベルに集中することになって︑企業を

も含めて末端には容易に権限の移譲が進まないという指摘もみられる︒

中国の省級単位は現在︱︱二ある︒そのなかには︑省と同じレベルの直轄市︵北京︑上海︑天津︑重慶︶と少数民族

が集住している五つの自治区︵内蒙古︑新彊ウイグル︑チベット︑寧夏回族︑広西壮族︶が含まれている︒近年の変

中国の省は世界の大︑中規模の一国に相当する人口を有している︒これには一億人近い人口を擁する三つの大省︑

四川︑河南︑山東と︑人口五︑000万人を超える江蘇︑河北︑広東︑湖南︑安徽︑湖北の六省が含まれる︒面積が なったことがあげられる︒

一九八八年に海南省が広東省から分離︑成立し︑

一九九七年に重慶市が四川省から分離して直轄市と

(1) 

制論についても言及しておきたい︒

(7)

図 1 地方の統治機構

出所:王紹光,胡鞍鋼「中国国家能力報告』(牛津大学出版社,

1994 143頁の図に基づく。

第五一巻ニ・三号

0 )

最大の青海省はフランスの国土なみの面積を有するが︑人口は五 それに加えて︑新中国の建国後︑省と県の中間に省政府の出先機

関である地区行署が置かれ︑また県と郷・鎮の中間にも﹁区﹂が 置かれていた︒現在は県と郷・鎮の中間の﹁区﹂は撤廃されたが︑

とつの級としての実質を備えるに至っている︒地区の中心である

を管轄下に置く﹁地級市﹂︵または﹁省轄市﹂︶が増え︑省によっ ては︵遼寧︑江蘇︑広東︶省の全県がいわゆる﹁一級政権﹂とし ての地級市体制下に組み込まれている︒地区として残っているの

は︑元の一七0のうち一九九0年末には一︱︱︱だけとなった︒な

お地級市には︑﹁地市合併﹂型のほか︑ひとつの都市を中心に周

(6 ) 

辺の県を取り込む形で新設されたものも含まれている︒中心都市 が周辺の県を管轄下に置く体制︵﹁市領導県﹂体制︶が一九八〇

年代に入ってにわかに普及したのは︑地域経済振興のためであっ 大都市が元の地区行署と合併して 地区レベル

︵一時専区と呼ばれていた︶はかえって強化されてひ

地方の統治構造は省ー県ー郷の三級からなるのが基本である︒ 0

0万人余にすぎない︒

(8)

統戦︵統一戦線︶の三部のほか︑ た︒広域における生産と流通の便宜を考えて︑旧来の﹁城郷分割﹂︵都市と農村の分割︶を打破し︑広域行政を実現しょういうのである︒しかしそのために︑﹁地級市﹂の下に県と同レベルの﹁県級市﹂が包摂されるという︑市が市を管轄下におく構造が出現した︒広東省の地級市である仏山市の管轄下には︑二つの﹁区﹂︵広東には残っている︶

(7 ) 

と順徳など四市が置かれている(‑九九八年夏の時点︶︒

0年代以降︑省︑地区︵地級市︶︑県︵県級市︶︑郷鎮の四級に加えて︑準省級の﹁計

画単列市﹂も﹁一級政権﹂とみなされていることである︒︒直轄市につぐ大都市である武漢︑藩陽︑大連︑ハルピン︑

広州︑西安︑青島︑寧波︑厘門︑深訓︑南京︑成都︑長春が最近まで計画単列市に指定されていた︒これらの大都市

の計画指標や経済管理権を省の管轄からはずして︑国務院各部の直接のコントロール下に置くことをねらいとする

︵﹁計画単列﹂︶︒行政や財政面で省と同級の直轄市に準じる扱いを受けている︒したがって地方の統治構造は︑現在で

は五級からなるとみられている︵図1を参照︶︒だが︑法制面の不備のため多くの混乱を生み︑近年﹁計画単列﹂の

(8 ) 

扱いを受ける都市が減っているようである︒

﹁党国家体制﹂下にある中国では︑省レベルの権力中枢も当然ながら共産党の省委員会にある︒省委員会は通常ニ

0

0人の委員からなり︑そのうち常務委員会メンバーは九ー一五人︑これには書記一人︑副書記四ー六人が含ま

れる︒省委員会には七!九のエ作部門︵直轄市はやや多い︶が置かれている︒党の固有の活動部門である組織︑宣伝︑

一九八六年の工作部門の設置状況は以下のようであった︒当時の二九省のなかで農

村工作部︵または農研室︶を置いているのが九省︑教育科学部︵または教育衛生部︑科学技術部︶が八省︑経済工作

(9 ) 

の管理部門が一四省であった︒政法委員会はほとんどの省が設置していた︒また中央で必要に応じて置かれる臨時の

~

(9)

府の工作を分担して指導している専任の書記︑常務委員を置かない﹂という方針が提起されて︑いったんは否定され

( 10 )  

た︒しかし天安門事件後に元にもどされたところが多いのではないかと推測される︒

省政府には︑省長︑副省長の下に普通の省で三

0‑

0の工作部門を置くことが定められており︑また定員枠設定

の基準も定められているが︑実際にはそれをはるかに上回る工作部門が置かれていて︑つい最近まで膨張の一途をた

どっていた︒省レベルにおける党の﹁一元的領導﹂は︑党・政のトップリーダーたちのタスキ掛け人事によっても保

また党書記が省の人民代表大会常務委員会主任を兼務している場合も少なくない 証されている︒省長は党の筆頭副書記であるのが普通で︑副省長の一部も何人かの常務委員会メンバーの一員である︒

( 11 )  

部小平時代の分権化は︑後述の広東省の例にみられるように︑当初は特定の地域において中央の指導者と地方の指

導者のあいだの人縁関係に基づいて実施された︑非制度的分権化という色彩が濃厚であった︒中央の権限の一部を下

放するとはいうものの︑実際は︑中央の指導者の了解を得て地方の指導者が既存の政策の許容枠を大胆に突破する形

で遂行された︒そして既成事実がつぎつぎと積み重ねられたあと︑追認的に制度的な保障措置が講じられた︒しかし ︑" 

第五一巻ニ・三号

§ 

機構が省レベルにも広く設置されていた︒このような党の工作部門の設置傾向は︑政府の工作部門との並設を避ける

という部小平時代の機構簡素化の意向を︑ある程度は反映しているように思われる︒政府業務と重なる党の工作部門

を設置している省は一部にとどまっている︒ただ常務委員等が系列︵﹁口﹂︶ごとに分担して政府業務を指導する体制

一九八七年の第一三回党大会で︑﹁党政分離﹂の観点から﹁今後各級の党委員会は︑政府にポストをもたずに政

分権化の制度的基礎 関法

(10)

② 

A

立法権の賦与

特定の地域を対象とする制度保証であっても︑いったん枠組みがつくられると︑各省が同様の措置を要求し︑その方向に沿っていっそうの前進をはかろうとする︒こうして分権化の制度的枠組みが漸次形成されていった︒これには政

一九七九年の﹁中華人民共和国地方各

級人民代表大会および地方各級人民政府組織法﹂に︑県以上の人民代表大会の立法権が規定されて︑中央と地方の

﹁二級立法体制﹂がとられることになった︒ついで一九八二年の修正憲法にも同様の規定が盛り込まれた︒改革推進

( 12 )  

のために一部の省が法規制定で先行してもよいという部小平の意向に沿うものという︒

三五五の﹁地方性法規﹂が制定された︒そのうち経済関係が三七・ニ%︑政法関係が︱︱

1 0 ・

七%︑残りの二六・六%が

教育︑科学技術︑公衆衛生に関する法規であった︒ついで一九八三ー八九年のあいだに︑さらに一︑000以上の法

( 13 )  

規が制定された︒ところが﹁地方性法規﹂のなかには︑国の法律に抵触する法規や公然と違反する法規が数多く含ま

れていた︵たとえば﹁地方保護主義﹂による流通規制など︶︒地方の指導者たちにも﹁法治﹂意識が乏しかった︒法

秩序の混乱を是正するため︑地方立法を規制する﹁立法法﹂という︑聞き慣れない法律が最近採択されている︒

人事権の下放毛沢東時代には各省のトップリーダーたちのなかでは他省出身者の占める割合がたいへん高

かった︒もともと中国には﹁回避制度﹂といって︑官僚の登用に際して地元出身者を避けるという伝統があった︒共

産党の人事権行使にも当然このような配慮が働いていた︒ところが﹁改革と開放﹂の時代に入ってから︑省委員会の

書記や省長のなかに︑地元出身者や当該省で長期間の工作経験をもつ者の割合が著しく高まった︒ ① 地方には﹁地方性法規﹂の制定権が認められている︒ 治的側面と経済的側面が含まれる︒

~

(11)

①財政請負制度の実施 よって︑たとえば当局が当選を見込んでいた二人の省長候相が落選するといった事態が一九九三年に起きた︒この程 たのが﹁差額選挙﹂︑つまり選挙の際に候補者を定員よりいくぶんか増やすという措置であった︒差額選挙の導入に のみから県レベルにまで引き上げたことであった︒そしてこの措置と合わせて︑もうひとつ選挙制度改革で注目され

( 17 )  

度の改革ですら地方の自立意識を高めるのに少なからぬ影響を及ぼしたといわれる︒

B.経済的側面

改革開放以前には国家による統一財政収支︵﹁統収統支﹂︶ ③  第五一巻ニ・三号

計五八人の書記と省長のうち四一=%が地元出身者であった︒書記と省長以外の省の重要ポストにも地元出身者をあて

( 14 )  

一九八九年六月には省の重要ポストの七0%が地元出身者であったという︒

人事権下放の具体策として︑

級および地市級の正副党政指導者の任免から︑﹁下管一級﹂︑すなわち省級指導者の任免にのみ限定するという決定が

行われた︒これによって中央の任免する指導者︵中央と地方︶

000

0

0人に減った︒地

( 15 )  

方の地市級の指導者については省レベルで人事権を行使することになった︒また地方における人事権行使対象には︑

地方に位置する国有企業の経営陣のトップクラスも含まれる︒部小平時代の分権化は︑国有企業の管理権の地方への

移管をともなったので︑地方が任命する企業の指導者が著増して︑地方の党政指導者と企業の指導者のあいだにもた

( 16 )  

れ合いの関係が築かれることになった︒

差額選挙の導入 関法

一九八四年に︑中央書記処による中央の人事権行使の範囲を﹁下管二級﹂︑つまり省

0年代の選挙制度改革の柱のひとつは︑直接選挙の実施レベルを以前の郷鎮レベル

の方針に従って地方の財政支出も上から下へ下達する方

(12)

が急増しているからである︒

一九八0年の広東︑福建両省に対する﹁収支を分かち︑定 一九八0年代に入ってからいわゆる﹁かまどを分けて飯を食う﹂︵﹁分鼈吃飯﹂︶︑すなわち中央

と地方のあいだで財政収支を区分し︑地方は所定の金額を中央に納入したあとの自己資金をみずからの責任で運用す

るという方式︑すなわち財政請負制への転換が行われた︒

額を上納する︵広東︶︑ないし定額を補助する︵福建︶﹂という政策の導入を皮切りに︑地域によって違いはあるもの

の︑財政請負制度が各地に導入された︒しかも一九八八年以降は広東・福建方式の大ざっぱな一括請負方式︵﹁大包

( 18 )  

幹﹂︶をとる省や市が増えた︒その結果︑財政収支において﹁弱い中央︑強い地方﹂という局面が現れたとされてい

( 19 )  

る︒しかし国の財政収入と財政支出の総額に占める中央と地方の比率はともにほぼ四対六で終始しており︑九0年代

に入ってから比重が地方の方にやや傾く傾向がみられる程度である︵財政収入でみると一九九0年には四一・三%対

慮する声が高まっているのは︑第一に︑国家財政支出の対

GNP

比が近年急速に低下したからであろう(‑九八六年

( 21 )  

ニニ・四一%←‑九九六年七・四四%︶︒先進国に比べると比率がもともと低いのだという︵先進国では三0ー五0%︶︒

第二に︑﹁弱い中央に対する憂慮﹂は︑地方が主としてコントロールしている﹁第二財政﹂といわれる﹁予算外資金﹂

一九八0年に予算内収入に対する予算外資金の比率は五三・七%であったが︑

( 22 )  

年に一00

%︑すなわち予算内収入と同等の規模にまでふくらんだ︒予算外資金を財政収入に加えると︑中央と地方

( 2 3 )  

の政府支出の比率は一対四になるという指摘もみられる︒予算外資金の財源はその七0%が国有企業からで︑残りは

各級政府が徴収する各種の費用︑すなわち道路維持費︑教育︵補助︶費︑農業付加税︑公有住宅家賃収入︑市場管理

費︑個人・私人企業管理費︑等である︒なお予算外資金というのは通常は省と市の資金のことをいい︑県と郷︑鎮の

ニ ニ

(13)

対外経済開放をリードしてきたのは経済特別区であった︒

一九九四年から財政請負制度を廃止して﹁分税制﹂︑すなわち︑中央と地方の

税種を区別して徴収する制度が導入された︒新税制が軌道に乗るまでにはかなりの年数がかかるものとみられている︒

投資権限の下放と対外開放

0月に計画経済システムの改革に関する規定︵﹁経済体制改革に関する中共中央の決定﹂︶が公布され

たのにともなって︑地方政府や企業の固定資産投資の権限が拡大された︒そしてその一環として︑基本建設項目のう ち﹁生産性投資﹂についての国家計画委員会の審査︑承認を要する金額︵﹁審批限額﹂︶が一

000

0

万元以上に引き上げられた︒この限度額はその後も引き上げられて︑エネルギー︑交通等の分野で事前審査を0

000万元以上に引き上げられている︒また基礎額の引き上げと併せて審査手続きも簡素化された︒

さらに一九八九年から基本建設の資金源が政府供与から銀行貸付に変わった︵﹁撥改貸﹂︑ただし翌年政府の直接供与

( 25 )  

が部分的に復活︶︒これ以降地方政府や企業が銀行との連携強化に努めて︑投資の拡大へと突き進んだ︒

改革開放以前は︑国家が外国貿易を独占していた︒外国貿易は外貿部の専業公司が独占しており︑輸出入はすべて 指令性計画に基づいて管理されていた︒改革開放以降政府各部門所属の公司と一部の地方や企業が輸出入の権限を認 められ︑指令性計画も漸次撤廃された︒外貨の一部留保も可能になった︒また外資企業を誘致するために税の減免な

( 26 )  

ど各種の優遇策が講じられて︑外国からの投資に対する制限も大幅に緩和された︒

加えて福建省の履門に特区が創設された︒目的は市場経済体制の試行にあった︒特区創設に際して部小平は︑﹁中央

②  中央の財政力強化に主眼をおいて︑

( 24 )  

それは﹁自締資金﹂と呼ばれている︒ 関法

0年に広東省の深訓︑珠海︑油頭の三つの特区に 二二六

元 六

(14)

③ 

れた︒外資に対する優遇政策は︑

0年には上海の浦東新区に対して外資利用の優遇政 改革開放の﹁実験田﹂にしょうというのである︒深訓では早くも一九八0年に海外投資家に土地の有償譲渡が認めら の一連の優遇策がとられた︒併せて﹁市場経済の要請にしたがって︑優先的に改革試行を行うこと﹂が認められた︒ 政府はカネがないから君たち自ら血路を開け﹂と創設者たちに対して語ったという︒特区に対して税の減免措置など

一九八四︑八五年に上海︑天津︑大連︑広東︑青島など沿海部の一四都市に拡大︑

一九八八年に海南島が経済特区に指定され︑

( 27 )  

策が実施されることになった︒

国有企業の管理権の下放と非国有企業の育成

一九八四年八月に国務院の機械工業部が率先して直属工業企業の管理を中心都市に移管するとともに︑省や自治区

の機械管理部門︵庁︑局︶が企業を直接管理しないよう要請した︒機械工業部直属の六七企業が一九八五年中にすべ

て下放された︒政府の一部の経済部門を直接管理型から業界管理型︵﹁行業管理﹂︶へ転換させること︑および経済発

展において中心都市が果たす役割を高めることに狙いがあったという︒機械工業部に続いて電子工業部︑化学工業部︑

( 28 )  

交通部等も直属企業の下放を行った︒

国有企業の下放と時を同じくして︑非国有企業︑とりわけ集団企業を活性化させるための政策が提起された︒諸種

の請負制の実施などを通じて︑集団企業の自主経営努力を高めようというのである︒都市の集団所有制工業に対して

( 29 )  

は各級に業種ごとの専門の管理機構を設置して指導するものとしている︒業界型の管理を行うということであろう︒

国有企業の下放は結果的には企業の活性化という本来の目的を達成できなかった︒下放された企業は各級地方政府

( 30 )  

の匝属企業と化し︑政府の介入をかえって強化する結果を招いたという︒なお地方の工業企業は省│市︵地区︶ー県

ニ ニ

(15)

第五一巻ニ・三号

市や地区︑県に管理権を移譲している省︑という違いがあった︒江蘇省では︑

部分について行政指導権とヒト︑

の三級の管理下におかれていたが︑省によって管理方式が違っていて︑省レベルで直接管理を行う省と︑下級の省轄

一九八三年には︑全省の工業企業の大

( 31 )  

モノ︑カネを管理する権限を省轄市と地区︑県に委ねていたという︒

総じて一九八0年代の分権化は︑結局企業自主権の拡大ではなく︑地方政府の経済面の権力を増大させる結果と

なった︒地方政府は地元の国有企業への介入を強めもしたが︑それにもまして制約の少ない非国有企業の発展に多大

の力を投じることになった︒地方政府の収入や権益を増大させるのに好都合だったからである︒非国有部門の経済成

長は往々にして地方政府の政策と能力にかかっていた︒地方政府の非国有部門との取組みの違いが︑地域間経済格差

を生み出す一因となった︒経済成長が著しい地区では︑工業生産総額に占める国有企業の比重が大幅に低下する傾向

がみられた︒先進地区の工業企業総生産額に占める国有企業の比重について︑一九七八年と一九九二年を対比すると︑

江蘇省六一・五%↓二八・ニ%、浙江省六一・三%↓二六•四%、広東省六七・八%↓三ニ・五%、上海市九一・ニ%↓五

一方経済が停滞している東北地区では︑黒竜江省八三・一%←八〇・ニ%︑遼

寧省八――-•六%↓七0・三%というように、国有企業の比重の大きさが停滞の大きな要因となっていることがうかがえ

( 32 )

る ︒  

巨大国家中国においては︑中央政府の分権化政策は多方面にわたって多大の影響を及ぼす︒部小平時代の分権化は︑

一面では地方経済の活性化をもたらした︒多年にわたって計画経済システムの下で封じ込められていた沿海地区の潜 分権化の問題領域 五・ニ%という大きな変化がみられる︒ 関法

(16)

巨大国家中国における集権と分権 部小平時代に地方主義非難の声が高まるのは︑ 毛沢東時代にも地方主義批判が何回か繰り返された︒

一九五八年の八期二中全会では︑広東の指導者であった古大

単なる中央ー地方の枠組みでは対応しきれない問題である︒国家の枠組み自体を問い直す契機となるかもしれない︒

この問題と関連して海外の中国人識者のあいだで連邦制論議が注目されている︒

﹁地方主義﹂に対しては︑分権化の時期ではなく集権化の時期に︑中央の政策や指令を無視して地方の指導者が独 自の利益を追求しているといって︑中央の指導者によって非難が浴びせられる︒

存︑凋白駒が地方主義を行ったといって非難された︒地元のゲリラ出身の幹部と外来幹部のあいだの軋礫が原因で

( 33 )  

0年代に入ってからである︒部小平時代の初期には︑部小平

は︑毛沢東後の権力闘争に勝利するため地方の指導者と﹁政治同盟﹂﹂を結んでいたし︑また地方の指導者たちが地 方経済の活力を引き出すために計画経済システムの諸規制をかいくぐって工業化を加速するのを容認していた︒政策

めることになり︑ 在的な発展余力を︑いっきに引き出す効果を及ぼしたのである︒だがその一方で︑財政力の脆弱な内陸部は︑発展から取り残されて先進地域との格差が拡大した︒分権化の政策はまた︑﹁地方主義﹂と呼ばれる地域エゴを生み出す一因ともなった︒各省の独自利益を追求するあまり︑中央の政策を骨抜きにしたり︑公然と叛旗をひるがえす︵﹁抗命﹂︶結果を招くことになった︒地域間の利害の対立もまた深刻化した︒さらに分権化は少数民族地区の自主性を強

一部の地区では独立運動にまで発展した︒香港︑台湾の統合という問題も分権化と連動しているが︑

(17)

の指導者たちの人事異動に着手した︒ 一四期四中全会のあと江沢民は省委員会書記をはじめとする地方 速された︒その結果︑経済急成長を背景に地方の指導者たちの発言力が増大した︒

︵ 四

00

)

第五一巻ニ・三号

( 34 )  

の基調は分権化におかれていた︒その後も部小平時代を通じて沿海地区重視の政策が続き︑沿海地区の経済発展が加

部小平後の中央の権力を継承することになった江沢民は︑弱体な権力基盤を固めて最高指導者としてのリーダー

シップを発揮するために︑地方の指導者たちの服従を求める必要があった︒江沢民時代の開幕といわれた一九九四年

( 35 )  

九月の一四期四中全会で採択された党の建設強化をうたった文書は︑﹁中央の権威を守る﹂必要を強調するとともに︑

指導的幹部の人事交流を回避制度や任期制度と結びつけて実施することをうたっている︒ついで翌年九月の一四期五

中全会における報告で江沢民は︑改革開放後の権限の下放によって生じた﹁新しい矛盾と問題﹂に言及して︑﹁ある

地方と部門は︑自らの部門の局部的利益を考慮しすぎ︑中央の方針︑政策を貫徹︑執行するのにあまり力を入れず︑

ひどい場合は︑上級に政策あれば下級に対策あり︑命令があっても実行せず︑禁令があって止めないといった現象が

現れた﹂と述べてい紅︒五中全会の前後に︑江沢民はしばしば地方主義非難を繰り返し︑中央の権威への絶対服従を

要求した︒折しも朱舘基が経済面の最高責任者の地位につき︑中央の統制力の強化に着手しようとしていた︒部小平

の南方講話を契機とする経済の過熱を抑えるとともに︑国有企業改革等の難題と取り組むことになったからである︒

朱錯基もまた地方主義非難を繰り返した︒

地方主義と闘う江沢民の武器は人事権であった︒

地方主義の根は深い︒後述の広東省の例にもみられるように︑地方に張りめぐらされた人脈網がその基盤である︒

省レベルの人脈網だけでなく︑同一省内にも地区ごとの人脈があり︑基底には族群︵エスニック・グループ︶紐帯が

(18)

巨大国家中国における集権と分権

根を張っている︒人脈はまたタテの統治構造に依拠して省ー市︵地区︶ー県│郷の各レベルごとに形成されている︒

要するに地区割拠と重層統治構造︑すなわち﹁条塊分割﹂に基づいて人脈網が形成されているのである︒後述の広東

省の事例にその典型を見出すことができる︒中央が人事権を行使して省のトップを入れ替えても︑地方の人脈網を突

改革開放期に入ってから︑地方経済の発展は地方の指導者が中心になって推進した︒地方の人脈網は経済的利権と

緊密に結ばれている︒経済活動にもまた地区割拠︑重層統治構造が反映されることになる︒

地方主義には︑中央の政策に対する地方の指導者の面従腹背の態度や﹁抗命﹂といった政治的側面のほかに︑地方

の独自利益の追求や﹁地方保護主義﹂といった経済的側面が含まれる︒独自利益を擁護する地方の指導者は︑中央に

( 37 )  

対しても︑また他地方に対しても︑経済﹁諸侯﹂であるかのように﹁談判﹂を要求する︒

改革開放以来各省が独自利益を追求した結果︑どの省も同種の製造業の育成に努める結果となった︒全国三一省の

うち︑いまでは電気洗濯機が二三省︑テレビが二九省︑電気冷蔵庫が二三省︑自動車が二七省で製造されている︒ニ

010

年を目標とする長期計画においても各省が育成しょうとしている支柱産業は︑自動車︑エレクトロニクス関係︑

( 38 )  

機械︑化学工業︑冶金などに集中している︒

自省の産業を保護するために︑各省は行政︑立法︑実力行使などあらゆる手段を行使して﹁市場封鎖﹂を行う︒他

省の製品︑たとえば自動車や電気製品などの販売を阻止したり︑自省産出の原材料︑羊毛︑綿花︑蚕などの搬出を阻

止して自省の工場で加工する︑といった市場封鎖をめぐるトラプルが一九八0年代以降各地で多発した︒地方保護主

( 39 )  

義には偽プランド品や模造品の製造を地元政府が保護するといったことまで含まれる︒ きくずすのは難しい︒

~

︵ 四 0

1)

(19)

も貧しい地区︵河原市︶のあいだには︑ にまで拡大した︒なお経済格差は同一省内でも大変大きい︒ GDP

の差は︑近年ますます拡大する傾向にある︒

0年には三・一倍であったが︑ 一九九三年に最高の上海が一︱七

0

0元 ︑

安徽︑四川および福建であった︒ 省が入れ替わったことになる︒一方低収入地区の下位七省についてみると︑一九七八年には貴州︑雲南︑広西︑河南︑ なりの変化が生じている︒高収入地区上位五省・市は︑

0年代に入ってからでは︑か 第五一巻ニ・三号

地域間格差

>

︵ 四

0二 ︶

広大な中国の地域間にはさまざまな格差が存在する︒自然環境︑気象条件︑︑天然資源︑人口密度︑産業構造︑所 得水準など︑地域によって大きく異なる︒ここでは部小平の分権化が地域間格差にどのような影響を及ぼしたか︑ご まず経済格差の既況をみてておこう︒地域間の経済格差の具体例として︑高収入地区と低収入地区の比較がしばし

GDP

についてみると︑改革開放以前の一九七八年と︑

一九七八年には黒竜江︑遼寧︑天津︑北京および上海であっ

た︒ところが一九九一二年には︑遼寧︑広東︑天津︑北京および上海となっている︒東北地区の黒竜江省と南方の広東

一九九三には貴州︑甘粛︑チベット︑安徽︑雲南︑河南︑江西である︒位置が大き く変わったのは分権化の恩恵に与った福建省である︒次に格差をみると︑

最低の貴州は一︑二三二元︑両者のあいだには一0倍近い差がある︒さらに成長率

(G

NP

または

GD

P)

九七九ー九二年の年平均の成長率が貴州の九・二%に対して広東は一三・三%で︑各省・市のなかで最高であった︒低

い方では遼寧が七・八%︑最低は黒竜江の六.0

%である︒最貧省である貴州と︑直轄市以外では最高の広東の一人当

一九九二年に広東省内の最も豊かな地区︵珠海市︶と最

( 40 )  

GDP

で実に一六・四倍もの差があった︒ く簡単に確認しておきたい︒

(2) 

関法

(20)

( 41 )  

地域間格差の変動には党指導部の方針が大きく関わっている︒改革開放以来の経済発展戦略は次のように推移した︒

﹁六五︵第六次五ヵ年計画の略︑以下も同様︶﹂期(‑九八一ー八五年︶

略をとる︒広東︑福建等沿海地区の発展加速に中心がおかれた︒

(

一部の地域を選んで不均等発展戦

不均等発展戦略を正式に掲げる︒初めて全国を東部沿海地区︑中部地区︑

西部地区に区分して︑地区ごとに違った政策がとられた︒だが重点はこの時期も沿海地区の発展加速におかれた︒

一九八八年の全人代で広東︑福建︑海南に対していっそうの開放政策をとる方針が提起されたとき︑後進地区か

ら異議が唱えられたという︒後述の広東省に対する優遇策を定めた一九八八年文書というのも︑この時期に趙紫

陽が提起した沿海地区発展戦晰の一環として発せられたのであろう︒

沿海地区発展戦略の重点が︑﹁七五﹂期の広東︑福建などの華南から︑上

海︑長江デルタヘと移った︒また沿海地区への政策傾斜は適度でなければならないと︑格差拡大への配慮が示さ

れた︒ところがこうした方針が提起された直後に起きた一九九二年の部小平の南方講話によって︑状況が変わっ

た︒このとき部小平は広東が二0年でアジア﹁四小竜﹂に追いつけるかという問いを発したのに加えて︑江蘇︑

上海等条件のよい地区は全国平均より成長が速くなければならないと語った︒また地域間格差の解消を急ぎすぎ

るのはよくない︑先進地区の活力を削いではならないなど︑沿海地区重視の発言を繰り返した︒そのために一九

でそれぞれ二六・ニ%と二五・七%であったのに対して︑最低の黒竜江省は六・五%と五・八%でしかなかった︒不

均等性は︑従来からの東部が高く西部が低いことに加えて︑南部が高く北部が低いという面でも際立つことに 九二年以降発展の不均等性がいっそう顕著になった︒

>

︵ 四 0

三 ︶

一九九二年と一九九三年の

GDP

の成長率が最高の江蘇省

(iii) 

﹁七五﹂期(‑九八六ー九0

年 ︶

(21)

GDP は ︑

三 ︑

集まっていることは︑周知の通りである︒

第五一巻ニ・三号

︵ 四 0

四 ︶

︵福建省︶︑長江デルタ等の急成長振りがひときわ目だっ︒ところがこのとき

地域間格差の急拡大のみならず︑地域間の競争激化が急成長業種への集中となって現れ︑各地の産業構造が画一

の全人代と同年九月の一四期五中全会で︑﹁区域経済の協調発展を堅持し︑地域の発展の差を逐次縮小する﹂と いう方針が提起された︒﹁九五﹂期から内陸部の発展加速が注目されることになった︒西部地区と少数民族地区 に対して重点建設項目と財政支出の面で政策傾斜を実施することが決定された︒近年西部大開発に内外の注目が 地域間経済格差の実情からみて︑格差是正の焦点として次の三地域が注目を浴びるのは当然であろう︒その一っは︑

経済急成長から取り残された中西部である︒中国大陸を東部︑中部︑西部に区分すると人口比ではそれぞれ四一%︑

%0%調

一 ・ 三 ︑

五﹂期にもなお若千拡大した︒東部︑中部︑西部の一人当たりの

GDP

( 43 )  

一の割合となった︒このまま格差拡大の傾向が続くと︑国家とし

ての一体性が保てなくなり︑政治的危機を招きかねないという懸念が広がっている︒

第二の地域は︑国有大中型企業が集中している東北などの﹁老工業基地﹂である︒一九八九年の全国の大中型企業

一万二︑ニニニのうち︑地域分布をみると多いほうから遼寧九三九︑上海八五〇︑四川七七二の順であった︒各地の

一九七八年には三直轄市を除いて遼寧がトップで︑広東の二倍に近かった︒ところが一九九

(iv) 

﹁九五﹂期(‑九九六ーニ0

00年︶部小平が政治舞台から身を引いたあと転機が訪れた︒

化して地域間の経済摩擦と利害の衝突が深刻化した︒ なった︒珠江デルタ︑間南デルタ 関法

(22)

かなり低い︒中国の少数民族の構成についてみると︑

0年の数字では︑多い順にチワン ニニ億人近い人口を擁している中国で︑少数民族人口は︑ (3) 一九九五年時点で一億八四六万人︑全人口の八・九%を 0

年代に入ってから広東に追い越された︒成長率の差からみて︑今後差が開くばかりであろう︒かっての重工業基地 はどこも設備が老朽化し︑膨大な従業員を抱えて︑生産効率がきわめて悪い︒設備の更新には多大の投資を要するた

( 44 )  

め︑改善は遅々として進まない︒

第三の地域は︑近年民族矛盾が激化している少数民族地区である︒少数民族の集住地区は大半が経済的に立ち遅れ ている︒経済発展の加速によって民族矛盾をいくぶんかでも緩和できればというので︑経済発展に力が注がれている︒

次に少数民族問題を分権化の問題領域として取り上げることにしょう︒

少数民族問題

占めるだけである︒解体した旧ソ連邦で非スラブ系人口の占める割合が全人口の四分の一に達していたのと比べると︑

0

万人︶︑満州族︵九八0万人︶︑回族︵八六0万人︶︑ミヤオ族︵七四0万人︶︑ウィグル族︵七二0

族︵六六0万人︶などである︒そのほか自治区の名称にもとり入れられている蒙古族︵四八0万人︶︑チベット族

( 45 )  

0万人︶なども上位に位置している︒

少数民族の占める比率は一0

%にもみたないが︑その多くは内陸の国境周辺の広大な地域に分散して居住している︒

少数民族の集住地区は︑行政上は﹁区域自治﹂の対象地域とされていて︑人口規模に応じて自治区︵省レベル︶︑自 治州︵地区レベル︶︑自治県が置かれている︒自治区︑自治州︑自治県の管轄下にある﹁民族自治地方﹂︵郷レベルの

二三五

︵ 四

0五 ︶

図 1 地方の統治機構 出所:王紹光,胡鞍鋼「中国国家能力報告』(牛津大学出版社, 1 9 9 4 年 ) 1 4 3 頁の図に基づく。 第五一巻ニ・三号 ニ ニ 〇 ︵ 三 九 0 )最大の青海省はフランスの国土なみの面積を有するが︑人口は五それに加えて︑新中国の建国後︑省と県の中間に省政府の出先機関である地区行署が置かれ︑また県と郷・鎮の中間にも﹁区﹂が置かれていた︒現在は県と郷・鎮の中間の﹁区﹂は撤廃されたが︑とつの級としての実質を備えるに至っている︒地区の中心である︵﹁地市合併﹂ ︶ ︑ 地 区 内
表 1 五 自 治 区 の 民 族 構 成 成 立 時 期 面 積 総 人 口 少 数 (民族人口 少数民族比率 (平方キロ) (万人) 万人) ( % )  内 モ ン ゴ ル 自 治 区 1 9 4 7
図 2 広東省の経済開放都市と香港・マカオ 清 .....• 遠 . ︑ ー r  源• ・ 〜 : 経 済 特 I . { ー : 沿 海 1 月放都市 .....:経済開放区 関法 第五一巻ニ・三号 出所:「中国の発展をリードする広東省』野村総合研究所, 1 9 9 5 年 , 2 3 頁 。 留保部分を多くする措置を講じた︒そのため各級 い市に対しては定額上納のほか増収部分について 政策を実施するとともに︑広州市等財政収入の多 省内の三経済特区に対しては﹁収入全留﹂の特殊 して財政収入の請負制︵﹁層々
表 2 広東省の地位 ( 1 9 9 6 年 ) 実 数 全国に占める比率(%) 全国での順位 面 積 1 7 . 8 万km2 1 . 9  1 5  人 口 6 , 8 9 7 万人 5

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