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留岡幸助における「同情」主義 : キリスト教およ び慈善事業について

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留岡幸助における「同情」主義 : キリスト教およ び慈善事業について

著者 近藤 裕樹

雑誌名 キリスト教社会問題研究

号 66

ページ 41‑72

発行年 2017‑12‑22

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016853

(2)

留岡幸助における「同情」主義

キリスト教および慈善事業について

近 藤 裕 樹

Ⅰ はじめに

近代日本において、特に明治10年代後半の徳育論争から、日清・日露戦役を 経て関東大震災に至るまでの間に、「同情」という語が道徳や哲学倫理の課題 とする学問領域は勿論の事、維新後の旧幕臣子弟における運命としての敗者観、

華族問題や戦時外交、青年の煩悶(立身出世や自然主義)、女学や児童研究な ど多岐に亘る問題において使用され「流行(1)」してきたことは知られていない。

「同情」とは人が艱難辛苦の位置にある場合に求められ作用する心情であれば、

天災や戦争が頻発した近代日本の史料を意識して繙けば、如何に「同情」がそ の文面に れているかに気付かされるはずである。

西村茂樹が西洋道徳学に「同情主義シムパチ イ」ありとその存在を示していたよ うに(2)、国外にあっては既に「同情」の流行が先行しており、「同情」説を主張 する者としてアダム・スミスやチャールズ・ダーウィン、孔子や孟子、アレク サンダー・ベイン、デヴィッド・ヒューム、ハーバート・スペンサーなどの名 が明治期には紹介されている(3)。当時の「同情」説を概論すれば、

同情を標準とする者は謂へらく、吾等が或行為を正善と認め、他の行為を 邪悪と認むる、全く吾等が之に同情を表するか、若しくは反情を表するか に依りて区別せらる、同情が則ち善悪正邪の審判官なりと(4)

(3)

つまり、「人には生れながら、同情の 芽あり」、これを助長すれば公徳に達す るとされ、道徳心の発達は「同情」の有無に帰すとされる。また、スペンサー は「同情ヲ以テ人類進化ノ中途ニ行ハレタル優勝劣敗ノ結果ナリ(5)」と解してお り、近代日本はまさに国内外において「優勝劣敗」の競争場にある以上、この

「同情」が必然的に民情乃至は国情として醸成されたと言えよう。

筆者はこうした「同情」主義が必然的に日本でも輸入されたであろうと推察 し、また仏教の「慈悲」や儒教の「惻隠」を重んじてきた日本だからこその

「同情」という価値を意識しつつ、筆者は「同情」流行史ともいえる国内の思 想状況を考察していく中で(6)、偶然にも留岡幸助に辿り着いた。

留岡幸助研究は、先学により緻密にして膨大な成果がすでに得られている。

しかし、この「同情」という語彙に着眼し、論究されたものは皆無と言ってい い。留岡研究の基本となり得る彼の思想考察において「同情」は触れられず(7)、 留岡等が監獄改良事業の中で発刊した雑誌『同情』に関する書誌学的考察や事 業の主体となる「同情会」に関する基礎的考察は見られるものの(8)、留岡が何故 文章中に「同情」を多用したのか、留岡にとって何故雑誌名および団体名が

「同情」でなければならなかったのかというところまでは踏み込んでいない。

キリスト教徒たる留岡における最初にして重要なる事業内容と方向性を示す

「同情」という語は、それ以後の家庭学校や社会改良などの実践へと連続する 留岡の思想的基盤を成しているとなれば尚更に看過されてはならないであろう。

『著作集』や『日記』『手帖』といった留岡幸助の著作からその生涯を辿って いけば、その「同情」主義とも言えるものは留岡のあらゆる実践に関係してい ることが理解される。ただ、「同情」という語は読み手の我々からすればすで に使い古され、どこか忌避された感情であることから、留岡という個人史研究 からだけでは見落とされよう。つまり、近代日本に通底する「同情」流行史と いう考察があって初めて、見えてくる留岡研究もあるのではないか。この「同 情」という新たな視点から、細分化し複雑化した留岡研究を今一度再構築し得

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るものもあるのではないかと考える。本論稿においては紙幅の都合上、先ず留 岡自身の思想および実践の中にあって「同情」が如何なる意味を有しているの かをキリスト教および慈善事業において確認し、家庭学校・社会改良(報徳思 想及び部落解放)といった場面における考察は次なる機会にて論じ、留岡幸助 研究における補完を試みるものである。

Ⅱ キリスト教およびキリスト像と「同情」

明治21年に同志社英学校別科神学科を卒業した留岡幸助は、その後まもなく 伝道事業のために丹波第一教会へと赴任し、終身伝道の職をもって斃れんと欲 して園部基督教講義所にて按手礼を受けたのが明治23年。当時を回顧して留岡 は以下のように記している。

当時牧師伝道者の説教を聴くに、基督教徒の救ひ、若くは旧約書の歴史的 説明、新約書に於ける十二弟子の行動等は盛に説きたれど、所謂「応用的 基督教(Applied christianity)」若くは基督教徒たるが故に尚一層親を愛 し、国を愛し、不遇の人々に同情するが如きは稀に聞きし所なりき。余謂 へらく是れ余が信奉する基督教とは頗る異りたるが如し(9)

留岡がキリスト教の役割または存在価値として何を求めていたのかが伺える訳 だが

(10)

、つまりはキリスト教を「応用」して社会の不遇者に対して「同情」を表 する事こそがキリスト教の今日あるべき真の姿と言えよう。留岡は当時の国内 にあって牧師伝道者が殆ど説くことのなかった「同情」というキリスト教精神 に早くから気付きを有しており、同志社在学中に書かれたと思われる『手帖』

には「基督教ハ感情ヲ圧抑セズ」との英文あり、以下のように記している。

But just here it is that Christianity comes in with its strong supports, This it does, 1. by the sympathy which it provides for it not only supposes those who are afflicted to weep, but it commands others to

(5)

weep with them.

(11)

キリスト教による強力なる救済として「sympathy」つまり「同情」が筆頭に 掲げられ、「同情」とは艱難の境地にあり泣き苦しむ者を救済することは勿論 のこと、彼等に寄り添い共に泣くよう人々を導くのである。留岡はキリスト教 における「同情」の価値を見出す訳だが、それは人世に「艱苦」あればこその

「賜」であり、「艱苦」の時こそ人は「同情」という道義の発露を可能にすると して「艱苦」を前向きに捉えている(12)。留岡の「同情」主義はキリスト教に限定 されず、明治22年前半には英国詩人ジョージ・チャップマンの「sympathy is produced through themedium oforganis impression」という一文などを『手 帖』に「sympathy」と題して書き留めており(13)、少なくともこの頃には留岡の 中で意義ある語として「sympathy」およびその訳語である「同情(14)」は確実に 注視されていた(15)

また、留岡は「吾人ハキリスト教ノ為ニキリスト教ヲ伝ヘズ、社会ノ為ニキ リスト教ヲ伝フル主意ヲ発表セン為ニ、可成禁酒会、出獄人保護、孤児院、幼 稚園等ニ同情ヲ表シ、吾党ノ志士ヲシテ此等ヲ補助スルコト(16)」とキリスト教徒 としての職責を述べ、キリスト教には「寺院的基督教」と「社会的基督教」と いう二種の区別があり、社会より距離を取る「寺院的」ではなく、キリスト教 の天職とは世から隔離されるものではなく日々進化する文化に刺激触発されて

「社会的」なる性格を顕現させる姿勢を留岡は重視している

(17)

。そもそも留岡が キリスト教を信仰する契機を授けたのが米国宣教師 J.C.ベリーやオーティス・

ケリー、金森通倫や二宮邦次郎などの説教であり(18)、彼等こそ「私を導き給うた 恩人」として留岡は記憶しており(19)、以後の監獄改良・家庭学校創設・社会改良 に関係した留岡の思想源流は「聖書の教に基いて志を得た処のもの」であった(20)

では、留岡は具体的に聖書に記された如何なる箇所を「同情」と読み解いて いたのだろうか。留岡の文章には聖書「馬太伝」から「同情」を理解しようと する記述が幾つか見られる(21)。7章12節の所謂「己の欲する所を人に施せ」とい

(6)

う一文は「同情」を表す文章として用いられるが、その他に例えば、3章9節 より「キリスト初テ猶太ニ天国ノ福音ヲ宣ベ玉フテヨリ、ペテロノ如ク、ヨハ ネノ如キ、漁夫マタイノ如キ、税吏モ、パウロノ如キ学者モ、皆固有ノ頑固心 即石ノ如キモ、キリストノ愛ノ涙ニ化セラレ、和セラレテ、遂ニ同情強キ同感 大ナルアブラハムノ子トナリタリ。」と論じ

(22)

、6章33節にてキリストが語った

「神の国と其義を求めよ」との句から「正義ハ愛と同情を漿励するもの」であ り「正義は人類をして互に相助くる所以の同情、相憐、援助の諸徳を実行せし む」と説く

(23)

。また、7章13から14節よりして人生という「浮世の旅」に携行す べきものの一つに「世ハ情ケ、同情互ニ同情シ合ウコト」という「社会連帯責 任」を留岡は挙げており(24)、11章16から19節よりして人間が生息する天地間には

「同感同情」なるものがあり、「人ノ心ヲ以テ心トス可シ」と留岡は説き(25)、同章 19節のみから「吾人ハキリストノ如キ同情アル変ラサル人ヲ友トシテ」「喜ア ル時ハ彼ヲ通フシテ神ニ感謝シ悲アル時ハ彼ヲ通フシテ神ニ祈ラサル可ラサル 可ラズ(26)」と述べる。「同感同情」は「心カ苦シミ悲ミ泣キ叫ブ」者へと降り注 ぐ「夕立」のごときものであり、「同感同情」がこの世になくば如何にして

「惨憺ナル有様ヲ慰ムルコトヲ得ンヤ」とその必要性を唱えながらも、残念な がら全ての人間が深厚なる「同感同情」を表し得ているとは言えない。つまり、

「愛ノ深キ仁ノ厚キ人ホド同感同情ニナルナリ」とその発露は極めて限定的と 留岡に指摘されつつ、だからこそ家族・国民・王室・教会にあって「同感同 情」の発露を喚起させようと留岡は努めているのである。他には、濃尾地震

(明治24年10月28日)の直後に留岡は「腓立比二章「己ガコト而已ヲ顧ミス人 ノコトヲモ顧ミヨ」トノ題ニテ、同情ヲ説キ以テ震災ノ為ニ寄附金ヲ募集」し ており(27)、留岡における「ピリピ人への手紙」と「同情」との関係が伺える。

次には、聖書中の文言ではなく、留岡なりの「同情」とキリストとの関連性 について考究してみたい。留岡は「同情」に関して、道義学者パーレーの言葉

「同情ハ恰モ吾人ヲシテ他人ノ地位ニ立タシメ且ツ他人ノ喜憂ニ同感セシムル

(7)

所ノ代理人ノ一種ナリト思惟セサルヲ得ス」を引用しつつ、「吾人ハ此ノキリ ストノ発シ玉ヘル語ニツキ一考ヲ要スル」と記している(28)。パーレーは、我々人 間が「徳行を為さざるべからずと思惟する所以」として「神より得たる命令」

を説く訳だが(29)、留岡はまさしくその「神より得たる命令」の一つとして「同 情」を捉えており、「凡テキリストノ御働ヲ考フルニ皆同情同感ナラサルハナ シ

(30)

」と述べ、キリストの有する「同情」なる性質に注意を払っている。留岡は

「人々事業ヲ起シ大望ヲ果シ宗教ヲ拡メ家内ヲ整理スルニ方リ一ツノ援助トナ リ一ノ力トナルモノ」として「同情」を挙げ、人の世にあって不可欠な「同 情」に対しキリストが如何に影響を与えるかを考察している。

留岡は、「人の心情の働きに於て最も美はしきものは同情の念なり(31)」と断言 する。しかし、残念ながら人の表する「同情」には規律性が乏しく、満足でき るような世上における発露情況とは至っていない。「同情の念の人々相互の間 に少くして、冷情酷待相遇し、遂に失望落胆、強きものは狂怒して他を害し、

弱き者は切望して自棄自暴するに至る」と、留岡はその惨憺たる現況に悲嘆し ている。ただ、留岡は悲嘆に暮れるのではなく、そこにキリストという一筋の 光明を見出すことで、社会の基本として重視する家庭内における「同情」養成 効力を高めようと思考する(32)

況んや、家族挙つて天父に仕へ基督を奉じ、常に家憲以外に無形の法律あ り無声の教導者あるに於てをや、同情の念は益々深く、相愛の思倍々篤し、

是れ実に家庭の貴き所以にして、家庭以外一歩を出ずれば人情の寒風凛冽 人心為めに凍殺せられんとするものあり、吾人世に処し人に接すること漸 く久しくなると共に、同情の念の必要と随て家庭の価値とを認識すること 愈々切にして而も吾人信徒の責任を感ずること愈々多し。

留岡は、家庭において養われた「同情」を社会の兄弟姉妹へと拡張すべきと説 き、「同情」を要する者がいれば「進んで」満腔の「同情」を「与へよ」とい うようにその積極的なる自発性を尊重している。そして、「同情」を表された

(8)

者は大いに「慰励」され活力を得るのであって、更には「無情無慈悲なる暴人 を減ずる」という社会改良をも可能とさせる。

しかし、留岡曰く「吾人の如き罪人の心に如何で世の兄弟姉妹を感化し得べ き同情の念の湧出することを望み得べき」かとの課題に行き詰まる。キリスト はパイサイ人や猶太人を種々導かんと天国の福音を語るなどして努めたる事蹟 が聖書に画かれるが、その様なキリストの「同情」に対してパリサイ人等は

「同意」「同情」を表す事をしない。このパリサイ人等の姿は時として留岡自身 の姿と重なり合う

(33)

。その壁を超越するためにこそ、人は「心に深く又多く天父 と基督との同情と仁愛とを味ひ自ら其愛心に励され、自ら其愛の同化を享くる ことを要す」るのである。人の表する「同情」とはその範囲しかりその濃淡し かり不完全な部分が多い故に、自己をして世の人々を完全に救済し得ない「罪 人」との認識を固持し、その不足を天父とキリストから寄せられる「同情」に より激励され補塡される。

同情の念の盛ならざるには是れ吾人自ら同情の泉源なる神の愛心を感得せ ざるに帰因せずんばあらず、乞ふ兄弟姉妹先づ勤めて神に近け、而て我同 胞に博大なる同情を注ぎ以て彼等を救済せよ

(34)

監獄改良事業にあって留岡の盟友たる小河滋次郎も「自ら己れに問ふて熱誠、

智能、博愛同情の足らざるや如何と顧りみよ(35)」との自戒を求めている。我も天 父とキリストの「同情」を受けなければ日々の苦境を乗り越えられないという 自覚を持ち、その自覚から「吾人ハキリストニ同情ヲ表セサル可ラズ」や「キ リスト曰ク吾ハ真ノ葡萄ノ樹汝等ハ其枝ナリハ然ラバ樹ニ同情ヲ顕シテ其枝ニ 同感ヲ表サズシテ可ナランヤ(36)」との悔改を得ることで、世上にあって人々と

「同情」をもって交わることへと結実するのである。

牧師となった留岡幸助は人を導く教役者として不可欠な要件を後に自問し、

第一に「世人と知識上同様の位置に立つ」ことを挙げている(37)。つまり、人を教 導するにまず対象者の信奉する所に従って為されねばならず、そのためには

(9)

「世の人情風俗に精通する」ことが重要である。当時、外国宣教師の伝教が思 いの外効果薄い理由は、留岡によればこの「明白なる真理」を蔑視するが故で あると説く。そして、第二には「導かんとする人々の信用を得る」ことであり、

留岡によれば「人に信ぜらるるの道は人に同情を表し人より同情を受くるにあ るなり」という相互の「同情」作用が信用を醸成し、この「同情」関係構築の 末に教導は可能となる。キリストが罪人や税吏の友となりて30余年もの間辛苦 の生涯を送ったその意義は、「感情上」世人と同位置に立たんとするにあると 留岡は解する。「キリストの十字架は苦痛の標号に非ずして寧ろ愛憐の標号、

同情の標号、と謂ふ可き也」と留岡は説き、「同情を以て世人の罪悪と悲哀と を己が身に体恤する」唯一の存在たるキリストを理想とする(38)。ただ相手よりの

「同情」を渇望するのではなく、自身よりの「同情」を積極的に先発させる姿 勢が大切となり、「同情」とは得るものから与えるものという意識転換こそ

「新運動の起原」となると留岡は考えている(39)。故に留岡の文章中には「吾人は 人情の蘊奥を叩き人心の動機如何を詳かにし、之に満腔の同情を表することな かる可らず」という常に「同情」する主体性が求められている。

留岡は、二千有余年もの長き間この世に存続しているキリスト教が、革命と 闘争を経て今日「青年会事業ト救世軍ヲ起シテ基督教ヲ平民ノ為ニ下シ玉フ」

た事は大いに研究を要するものであり、日本にあってもキリスト教を広く布教 するためにはこの二大事業に鑑みなければならないと説く

(40)

。留岡は救世軍に対 し「社会ノ多数ニシテ而カモ下層デ 吟スル窮民及罪者 ニ堕落婦人ニ同情ヲ 寄スル」事業内容を高く評価しており、「将来ノ国民タル青年」を教育する青 年会事業(41)と共に成功したらならばキリスト教の目的の大半を達成し得ると考え ている。ならば、救世軍は何故に窮民や犯罪人等に対し「同情」が表せるのか。

留岡はその「同情」に経験つまりは「悔改」という概念を賦与する。他者の悲 喜に対し「同情」を表するためには、自らも全く同じもしくは同様な経験を持 つことにより容易となる(42)。「貧者ニ同情シ、不具者ニ同情シ、囚人ニ同情シ、

(10)

凡ノコトニ同情スルコトハ経験セザレバ能ハズ(43)」と留岡は説くが、ならば罪深 き者に表されるキリストの「同情」を如何に解すればよいのか。「キリストガ 凡ノコトニ誘ハレタリト雖、罪ヲ犯サヾリキ。キリストト雖経験セザレバ能ハ ズ。此キリストガ天ヨリ降リ玉フタル所以ナラン」という「God-man(神 人

(44)

)」としてのキリストだからこそ、経験無くともキリストは「同情」を表し 得るが、我々人類にあっては、「同情」すべき対象が罪深き「悪漢無頼者」で ある以上はそれを経験し「悔改」した「同情」者の存在は極めて限定されてく るであろう。「悔改」した者による「同情」が次なる「悔改」者を生み、「同 情」の効果が拡散されていくことをキリスト教徒として信仰する他はない。だ からこそ、救世軍の「同情」が広く伝播するという事蹟はキリスト教の目的達 成に大きく寄与するものと留岡は説くのであろう。

そこで、罪深き者を「悔改」させる教誨師の役割が必然的に注目される訳だ が、教誨師における罪深き経験に基づく説教は「同情豊かなる教誨」を可能と する(45)。留岡は、明治24年に教誨師として北海道の地を踏む事になるが、その出 立の際に手帖を新調し、その初頁には「 旅漫録」と題し「The Travering」

「The Sympathy」「The Light」との三語を併記してその信条を表している

(46)

。 人は誰もが一生のうちで一度は罪深き経験を有すると言えるが、留岡自身、高 時代にキリスト教に邂逅していなければ自由民権運動に身を捧げ投獄されて いたかもしれないという経験を有しており

(47)

、在監者に対する「同情」を持ち合 わせていたとも言えよう(48)。事実、留岡が教誨師を務めていた空知集治監には自 由民権運動家が収監されていた。在監者は経験的真理を有しない単なる言語に よる教誨を果たして受容しようか。「同情」とは「悪を攻め善を強む」訳であ るから(49)、教誨師が敢えて言語にて在監者を責め立てる必要などない。「同情」

の必要なることは監獄の長としての典獄に対しても言え(50)、また司獄官とは「諸 君ノ内心ヨリ出タル真誠ナル同情及仁愛ヲ以テ(51)」罪囚の感化に努めなければな らないとされる。「同情」による感化はおのずと在監者に悔い改めを促し更生

(11)

するという自主性を授けるのである。

しかし、監獄教誨が思う程振るわない。その原因を教誨師における判任待遇 の撤廃や仏僧に対してのみ教誨許可を与えたことに起因するとの見解が一般的 にあるが、留岡は他の原因を認めている。つまり、「監獄改良、罪囚感化を天 職と信んじ、此に身を投ずる」理想的教誨師の不在にある

(52)

。では、如何なる教 誨師が留岡の理想に適うのか。つまり、教誨師においては「無欲」「同情」「天 真 漫」「在監者の事情に通暁すること」の四点所有こそ理想であると留岡は 示し、この内「同情」とは教誨師における職業倫理という観点からは言うに及 ばず、人世において万民に求められる道徳として留岡は重視している。「悪を 征し善を強むる」「同情」はいわば「君子の道」であり、「復讐主義に基する拷 問刑」に頼らない囚人感化を可能とする。世間は薄情にして「同情」冷やかな ることは今に始まったことではないが、それにも増して監獄は「同情」冷やか な絶望界であるのだから、「同情」ある教誨師によりその不足を補い、在監者 に希望を抱かせることは重要である。

此の死者の心を救済せんには温然たる同情の徳によらざる可からず、同情 の徳は慥に彼等を救ふに足るの一大良薬なり

また、留岡は監獄研究の中から「同情ヨリ出つる涙ハ真然の涙たる露よりも美 しくしてかわける人の心に貫徹する(53)」との示唆を得ており、教誨師が「無欲」

「天真 漫」であるがために在監者の胸襟を開くことができ、率直なる意見交 換が可能となる。つまり「在監者の事情に通暁すること」が達せられるのであ り、「囚情を知る」ことから両者間における「同情」 が芽生える。このように 解すれば、理想的教誨師の資質は全て「同情」に通じると言えよう。

教誨師留岡幸助として監獄改良事業に尽瘁した大いなる功績に、出獄人保護 会社「同情会」なる団体を組織し(54)、囚人看読用雑誌としては嚆矢(55)といえる『同 情』を発刊したことが挙げられよう(56)。では、何故に留岡は会名および誌名に

「同情」を冠したのであろうか。

(12)

吾人苟クモ惟一ノ天父ヲ奉戴シ其名ヲ以テ同胞タル者安ンゾ相愛同情ノ念 ナカランヤ、此念此情監獄改良ニ於ル本原観念ト謂ハサル可ラズ(57) この一文は雑誌『同情』発刊および「同情会」組織を計画しつつある明治24年 12月に記されたものであり、監獄改良において「同情」を必須要件と説く留岡 自身、「同情」選択の経緯を具体的に説明していないが

(58)

、留岡と共に設立発刊 に尽力した原胤昭は著書『出獄人保護』にて自身は「監獄改良家の泰斗」ウィ リアム・タラックの「同情」に感化された旨を記しており、留岡もタラックと 親交があったことからその由来が伺えよう

(59)

。留岡は「同情会」設立および『同 情』発刊の後のことではあるが、当時「英国倫敦ハワード監獄協会書記」の任 にあったタラックより書簡をもらっており、そこには「小生ノ考フル所ニヨレ バ長期刑囚感化ニツキテハ、尤モ大切ナルモノハ道 義 教 誨 ニ長期刑囚 ニ対スル切 実ナル同感同情ニ御座候」という一文が記されている(60)。また留岡 は「守る所厳格なりと雖、施す所の同情は深くして広かりき。而して其の同情 は啻に囹圄の囚者のみならず、汎く世の貧民に向つても厚かりき(61)」とのタラッ クに関する人物評を記している(62)。留岡にとってはタラックの影響も考慮すべき だが、タラックが在籍している協会名にも冠されているジョン・ハワードの影 響が留岡においてはタラックよりも先行していたように思われる。ハワードは 田舎に別荘を構えられるほどの富裕な家庭に育ち、信仰厚き慈母とともに近隣 の貧窮者もしくは病者に慰労する機会が多かった。留岡は、このハワードにお ける幼少からの「美妙」的性格を伝記中に見た訳だが、特に1755年のリスボン 大地震がハワードに与えた影響は大きい。ハワードは地震の報に接すると

「同感同情」を起こし、巨額の金と多量の食物を提供しようと試みる(63)。留岡は、

人の美妙は如何にして存在するかをこのハワードの伝記から示唆を得、つまり

「同情」という人間の美妙は平安無事なる時勢において知ることは難く、「生死 得失の界目」において認識される。この視点より留岡はキリスト論へと踏み込 み、キリストが追慕賞賛される所以はこの美妙にあり、その美妙の発表は「複

(13)

雑」と「変遷」の二媒介にあると説く。

留岡の言うキリストの「複雑」 とは「千変万化に身を処し己れを棄てゝ人 を益し賜」うことを、そして「変遷」とは「天の栄光を離れ、此の罪悪に充盈 せる世界に降り我輩罪人と交は」ることを意味するが、ただし複雑変遷の時に 顕現する人間の美妙には程度差があると留岡は論じ、美妙中にあって真正なる 極美なる美妙を「心中神の霊に激発」され「神の祝福」を受けたものと定義し ており、まさしく「同情ある基督(64)」という姿がそこに見出されたのではないだ ろうか。人間における美妙の一例が「同情」であると言えるが、その「同情」

という名の下の人為的善行であっても「天為」との結合なくばその価値は減ず る。留岡は個々人による天職の完遂を重視し「天職を完ふせんと欲するものは、

天意の何れにあるやを審にせざるべからず(65)」とも論じており、「同情」をもっ て天職を全うするためには「人意(民意)」という社会の「同情」に振り廻さ れるのではなく、「天意」としての「同情」、つまりはキリストが如何に「同 情」を表してきたかという事蹟と対比させることで自身の天職にて表される

「同情」の価値が決まってくると言えるのではないか。また、ハワードは法王 や皇帝と交わりながらも不運薄命なる民衆に「同情」を寄せており、一方に偏 って与するのではなくその両者の間に立ち「下層の社会に住む民衆に味方し且 つ之に同情の涙を濺がしめよ」との警語により民衆の困苦を王侯貴人に説得理 解させたことから

(66)

、「同情」される側だけでなく資本家や政治家など「同情」

する側とも積極的にコミットすることも重要な慈善家の役割だと留岡は学んだ。

こうした「同情」理解は、留岡の慈善問題に関する考察において示唆を与える ものであったと思われる。

Ⅲ 慈善事業および慈善家と「同情」

留岡幸助は、多くの盟友と共に教誨師および監獄改良という天職に「同情」

(14)

とその身を献げてきた訳だが、その経験から「慈善事業ノ中心ハキリストニア リ」て「キリストノ降誕後如此見棄テラレタル社会ノ民ハ大ニ世ノ同情ヲ引ク コトトナリタル(67)」と説き、「キリストノ主タル同情ハ喜悦ノ人ニアラズシテ罪 ノ人無学ノ人悲哀ニ充ツル人ニテアリキ(68)」とされ、キリスト降誕こそ慈善事業 の起原であり、人の「不完全ノ点」への「愛ノ動ケル現象」が「同情」である と言う(69)。キリスト教に根ざした「同情」とそれを伴う実践方法との兼備が慈善 事業には不可欠であることを強く感得している。

留岡の代表作とも言える『慈善問題』には、フレデリック・ウィリアム・ロ バートソンによる「Love does not mean one thing in man and another in God. The divine heart in(is:近藤 ) human in its Sympathies.」という 一節が引用されている(70)。留岡は、ロバートソンの「同情」ある説教を直接聴く ことはなかったが、彼の著した説教集を所持しており(71)、その著作の中から

「sympathy」という一語に込められたキリスト教の本義を感得したのではない だろうか。ロバートソンの著書『説教集(72)』を閲覧するに、「THE SYMPA- THY OF CHRIST

(73)

」と題した説教を1849年11月4日に英国ブライトンにある トリニティ教会で行っていたことが伺え、前記したロバートソンの一文はまさ にその時のものである。つまり、この「sympathy」「同情」とキリスト像とが 密接しており、留岡にとり「sympathy」「同情」が慈善問題において大きな意 味を有している。

また、明治22年秋より運動を始めた同情会(74)が、機関誌である『同情』を発行 するに至った「趣意(75)」として、留岡は「同情は天の吾人に賦与せし一の性情な り」と説き、天より与えられた「同情」を表する対象に「身体上の不自由」の みならず「心魂の不自由」をも加え、全人的救済を目指している。明治28年欧 米視察の途次にあった留岡は帰朝後の行動目標として「神ヲ頼リテ良心ヲ励マ シ、神ト我レニテ天下ニ運動スルノ覚悟」を有して「我党ニ同情スルノ人」と 共に「実践」することを決意し(76)、帰国して約半年後には英照皇太后崩御に伴う

(15)

特赦減刑により多数の出獄者が世に放たれるという運命的ともいえる出来事に 遭遇する。監獄にその職籍を置きつつ悔い改め放免されていく囚徒を目の当た りにしてきた留岡は、その放免後の生活に期待と不安を抱いている。

善良ナル生涯ヲ送ラントスル放免者ニ対シテ、吾人ノ為スヘキ行為ハ如 何ナルモノナルヤ。軟弱ナル精神埋レ木ノ如ク沈ミタル意志ノ刺激剤トシ テ与フヘキ者ハ何ソヤ。同情此レナリ(77)

留岡は出獄者を自宅に置き考察して理解したことは、彼らは極めて猜疑心深く、

神経質性を有し、その結果として反社会的・反抗的態度をとるという因果性で あり、「同情なきところの社会と同情なきところの官吏」による監督にて彼ら を更に神経過敏と為さしめているという現象である。したがって、留岡にあっ ては「兎に角出獄人は非常に神経過敏の病人みたやうなものである。それを取 扱ふのであるから常に同情が必要である」との結論に至るのであるが、その必 要性を説きつつも、改善しつつある人に「特に同情を持つ」ことで「附上つて 来る」状態を生み出す危険も有するのであり、相手の改善度に見合う「同情」

を表しなければならないと注意喚起も行っている(78)

囚徒の在監中にあっては教誨師として留岡は枯渇することのない深甚なる

「同情」を寄せることを意識し彼等を善導しているが(79)、出獄を機会に疎遠とな ることで彼等への「同情」は薄弱となり、最悪に至っては「同情」が途絶して しまう。従って、留岡は「従来ノ制度ハ仮出獄者ハ是ヲ警察ノ手ニ置キタリシ ガ尚進ンテ仮出獄人取締官吏ナルモノヲ各地ニ設定シ此官吏ハ殊更ノ同情ヲ出 獄人ニ置キテ彼等ヲ善導スルコト最モ大切ナリ(80)」と説き、「同情」なき警察で はなく「仮出獄人取締官吏」なる役職を法律にて設け各地に配置する(81)とか、出 獄人保護会社に相当な権利を賦与する等の方法により、出獄人に対するきめ細 やかな「同情」寄与継続を留岡は想定している(82)。それにしても、留岡達の極め て限定された「同情」者のみでは慈善事業も永続し得ないのであり、「慈善事 業の普及は既に先覚したる数人若くは数十人の主として関与すべき問題にあら

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ずして、社会全体が斯事業に趣味と同情とを有し、而して同情の熱度と経営の 才幹とを以て之を徹底せしむべき問題なりとす(83)」と説かれるように「同情」あ る実践を社会にも啓蒙する必要がある。

同情、懇辞、良策ハ放免ニ取リテ良賜ト謂ハサル可ラズ。然リト雖、人 ノ饑渇ニ迫リ寒ニ叫ケブ時ニ、彼等ヲシテ此悲境ニ残スハ寧ロ彼等ノ 言 ヲ引キ起スコトナレバ、折角ノ同情、懇辞、良案モ不平ノ種トナルゾ浅間 敷次第ナリ。

乞フ、人ヨ。行ヲ以テ汝ノ言ヲ後ニ眺メヨ。働ト共ニ忠言ヲ与ヘヨ。然 ラハ言辞、協議ハ一層ノ勢力ヲ加フベシ。然ラバ良心ニ於ル一大勢力トナ ルヤ疑フ可ラサルナリ(84)

善良なる生活を誓い放免された者でも、社会の冷情や無職無銭等により出獄直 後から社会に適応することは容易ではない。彼等にとり確かに「同情」は「良 賜」ではあるが情けを同じくするだけでは事足りず、もし悲境にある彼等を救 済すべき社会的実践が不足したならば、留岡等が表してきた「同情」は「不平 ノ種」となり、放免者の「 言」を引き起こす逆効果となる危険を孕む。慈善 事業とは決して事業主および専門家の手腕にて完遂されるものではなく、「同 情」する慈善家および「同情」を必要とする困苦者への理解に基づく社会にお ける「同情」者の輩出こそが事業の成功と永続性に影響する。留岡曰く「出獄 者ヲ同情スル真正ノ人物ニアラザレバ、如何ナル方法モ無益ニ属スル

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」のであ り、出獄人保護に限らず須く慈善事業において「同情」は要訣なのである。

明治31年、留岡幸助は『慈善問題』を執筆し、世に対し慈善事業および慈善 家とは何たるかを力説している。時勢は20世紀を迎えんとしつつありながら、

文明により醸成された貧富という懸隔にて社会は均一平等の歩調を整えること が出来ず、その結果、同盟罷工・犯罪・戦争等の社会悪が横行し国内は「暗憺 悲惨の境土」と化しており、この「乱麻的社会」を救済すべく慈善家の輩出が 国家的急務となっている(86)。実際、孤児・貧者・出獄人等を保護する人道救護運

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動が日本各地において開始されているが、「我国の如く何事に係らず政府の援 助なくしては成功頗る遅緩なる国柄」にあっては民間有志による事業はその運 営困難を極め易く、日本における慈善事業は未だ「試練の裏」に存在している。

従って、留岡としては「如何なる主義と精神とに則らば其目的を達すべきもの か」を大いに論じ、かような「国柄」にある国民を覚醒さすべく筆を走らせて いる。

慈善家とは何人でも任ずることが可能かと問われれば、留岡は否と即答する であろう。慈善家には厳然とした資格が存在するのであり、「世に慈善をなし て無告の民を救護し、慈善家として道徳界の明星たるもの少からずと雖とも其 資格を具備して慈善家たるもの頗る稀なり」と留岡は吐露している。その資格 を有さずとも事業として起業は出来るであろうが、その事業は一時的なものと して短命に終止する。では、慈善家の資格とは如何に。留岡は、その資格に関 して「無欲」「悠久持長」「智識」「勇往直進」そして「自己の心情を与ふる」

という五項目を列記している。中でも留岡は最後の「自己の心情を与ふる」と いう資格こそが慈善家としての「第一要義」であると示し、その要義を「同 情」という言葉をもって書き起こしている。

慈善家の第一要義は被救護者に自己の心情を与ふる点にあり、抑々心情を 与ふるとは被救護者と同感同情となること是なり、人を深淵の底より救ひ 堕落の溝 より助けんには同情同感は最も力あるものなり、………同情同 感は死灰の如き人類に活力を与へ失敗地に塗れて再び起つ能はざる如き者 にも亦よく新鮮なる一大希望を与ふるものなり、凡そ慈善事業にこの活力 なくんば百物備はると雖も真正に斯業を成功せしむる能はざるなり、同情 の感念は「悪を攻め善を強む」と宜なり、此の情念ありて初てよく慈善事 業は活動すべし

留岡が如何に慈善事業の成功において、もしくは慈善家の資格として「同情」

を重視していたかが伺えよう。

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留岡が理想とする被救護者への「同情」とは単なる金品施与のみを言うので はなくして、その「同情」を与えられた被救護者の心情に希望の光を注ぎ再起 への活力を賦与するものでなくてはならない。慈善とは感情が初発し、後に行 為へと至ることで形成されるが、感情を行為へと結実させることは極めて困難 であると言える。これまで我が国において慈善を実行し得たとしても、その方 法は拙陋にして誤謬に満ちていた。つまり、慈善をただ単に金銭物品を施与す ると解釈し実行した結果、被救護者は怠惰となり乞食や遊惰民を増殖させた。

したがって、慈善において真に施与すべきものは「労作」であって、また忠告 や教訓を「同情」をもって「教育」することなのである(87)。「労作」せずして金 品施与に寄生する民は人からの「同情」を失し、結果慈善は刹那に終わるであ ろう。慈善とは本来、金品施与という短期的効力を要するのではなく、職業や 教育という長期的効力こそが根本的救済となるとの「学術的」理解を必要とす る。

慈善事業における「同情」の困難性は、その実践のみならず「学術的」理解 を必要とする点にも起因しており、各事業に対する社会の「同情」が思うよう に振るわない理由が垣間見られよう。更には、慈善事業と一言で語っても、石 井十次の孤児院と原胤昭の出獄人保護とでは社会の「同情」に濃淡が見られる。

つまり、慈善事業に対する社会の「同情」とは「分り易い」という国民理解の 性質と不可分であり、理解を得られた石井十次の孤児院経営には「親を失つた 孤児は可愛想」であり「あわれ者」であるとして国民が「単純に同情」を表す ることが可能であった(88)。それに対して原胤昭による出獄人保護事業には、罪人 とは「恨みこそあれ、何ら同情すべきものはない」対象であるから、国民はか くなる事業には理解を示すこと少なく極めて冷淡である。だが、留岡はある慈 善家が発した「社会ハ我ガ事業ニ同情ヲ寄スルコト極メテ小也」との言葉に対 して、次のように返答している。

君果シテ然ル乎。豈其レ然ランヤ。社会ハ慈善事業ニ対スル同情ハ ルヽ

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斗リナリ。………然レドモ慈善事業者ハ果シテ社会の同情ニ答フル丈ノ事 業ヲナシツヽアリヤ、否ヤ(89)

留岡は、社会の「同情」なる慈善心を地中に湧く清水の如くに喩え、社会の

「同情」についてその実存を疑うのではなく、その隠れたる社会の「同情」を 如何にして汲み取るかという方法論、すなわち社会の「同情」を汲み取れる事 業であるか、又は汲み取れたとしてもその社会の「同情」を貯え保存し得る器 的事業であるかを慈善事業家が反省自問する必要こそ大切であると言う。慈善 事業に対し表される社会の「同情」が極少なのは、その問題の原因を社会に追 求するのではなく、先ず事業家自らが事業に注ぐ精神と事業の内容とに関し

「同情」を得るだけのものであるかを常に問い続けなければならない。我が国 は多くの出獄人保護会を有しているが、留岡は「其成立スル所以ノ要素ヲ欠ク カ故ニ成功セサルナリ」とし、その欠きたる重要な「要素」の筆頭たるものが

「同情」であると説く時(90)、その「同情」が欠落しているのは決して社会ではな く慈善家なのであろう。留岡曰く「社会ニ同情ナキコトニアラズ。慈善事業ヲ 運用スル至誠ニ満チ、方法ヲ知レル、所謂人物ヲ発見スルコト」が難題なので あって、慈善事業家の資格が大いに問われるのである。

では、慈善家の資格を有する「同情」者はどこに存在するのか。留岡は日本 と欧米各国の慈善事業とを比較検討し、その慈善家の資格である「同情」を有 すべき者の不在という日本の欠点を論証している。先ず留岡は「我国の慈善事 業には女子の同情を寄するもの極て少数なり」とし、北米における事業視察の 際にかの地の多数の女性が直接間接を問わず慈善事業に関係している事実を目 の当たりにしており、恰も慈善事業が「女子の専有物」かと思われる程であっ たことがそのように想起させたようである(91)。慈善事業とは、その「根本的動 気」においては「純潔」にして「濃厚たる同情」と「優美なる心情」を必要と する。こうした性情は留岡によれば「女性の特有物」なのであり、事業の発達 においては女性の応援によるところ極めて大きいにもかかわらず、我が国にて

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は慈善事業に熱心なる女性は僅少にあり、慈善事業の発達が遅々として進まな い原因をここに見出している。我が国の慈善事業に対する「同情」の不足は女 性に止まらず、「宗教家(僧侶と牧師を意味せず)」にもその責は存すると留岡 は説く。欧米各国における慈善事業は「教職を帯びざる基督教徒」による一大 運動であり、このことこそ発達進歩した要因であると。エリザベス・フライ、

サラ・マーチン、ナイチンゲール、ミス・バートン、ローウェル、ライト、ゼ ネラル・ブース、ハワード、カーネギー等、キリスト教徒として個人的活動を 試みた「慈善家の模型」が列挙され、日本においてもそのような熱心と「同 情」とを有する宗教家の台頭を留岡は希求して止まない。

留岡は慈善事業に関しては常に「同情」という資格を有した慈善家を探求し ている訳だが、留岡の理想に叶う慈善家が中々世上に登壇してこないことに歯 痒さを感じている。

今より十年前の昔に溯りて考ふる時は社会の慈善事業に対する思想頻る 幼稚にして、其事業に対する同情も亦極めて薄弱なりき。是を以て、吾人 は演説に文章に社会の人士が慈善事業に対して濃厚なる同情を寄せんこと を警告したりき。然るに星移り物変りて十年後の今日に於けるその状態如 何を観察するに、社会が慈善事業に対する同情は極めて厚く、従て慈善団 体を援護するの程度も亦従て高くなるに至れり。是れ即ち我社会状態の進 歩したる一証徴にして祝す可く賀す可きの現象たらずんばあらざるなり。

翻て慈善団体と其進歩の程度如何を洞察するに、社会人心の進歩したりし 割合に団体其物は進歩せざりしなり。換言せば、慈善事業に従事せる人物 と其団体とが時勢の進歩に後れたるを発見するなり(92)

社会の「同情」が慈善事業に対して濃厚に表される「進歩」を留岡は実感して いるが、一方の事業主たる慈善家は「同情」する社会の「進歩」に対して後進 している感が否めない。その現実に関して、留岡は「慈善事業の危機」という 言葉で表現していることからも、如何に留岡が慈善事業の成功において慈善家

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の資格が重要であるかが知られよう。留岡の理想的実例としての慈善家を挙げ るならば、岡山孤児院を創設した石井十次であろう。留岡によれば、岡山孤児 院は天下の「同情」に抱擁され発達進歩してきたことに相違なく、その岡山孤 児院への「同情」は孤児を憐れむがゆえに寄与されたと言える(93)。しかし、留岡 は岡山孤児院に石井十次あってこその社会からの「同情」寄与であり、彼の存 在なくば天下の「同情」による抱擁など得られず「形骸化」したであろうと述 べている。つまり、事業内容ではなく事業者の道徳的姿勢に対して天下の「同 情」は表されるのであって、同事業内容であっても天下の「同情」を得られる ものと得られないものとが区別される所以は正に慈善家の資格にある。

留岡にとり慈善事業の理想形態であった岡山孤児院も大正15年に解散となる。

大正3年に石井十次が昇天した後、事業は大原孫三郎等に引き継がれたが、永 続することは叶わなかった。解散の原因は財政難・集合教育の弊害・孤児院な る名称と様々論じられている中、留岡は解散の主因は他にあると思考していた ようだが具体的には記していない。しかし、石井十次の慈善家としての存在は 大きく、その不在が解散に影響したとは言えないだろうか。

岡山孤児院の如き天下の同情を集め、而かも其同情と援助に与つて居るう ちには皇室の殊遇を初めとし、内務省、府県庁、殊に岡山県さては朝野有 力の名士、それのみでない、日本全国津々浦々から深甚の同情と援助とが 雨の如く降り注がれたにも係らず、突然寝耳に水のやうな発表があつて、

遂に解散さるゝと云ふことは我国社会事業の上に与へられた一大衝動でな くて何んであらう。其の影響する所は甚大と謂はねばならぬ(94)

留岡曰く、皇室を始めとし省庁や国民の「同情」を多く集めていた孤児院であ るならば先述した財政難や方法論・名称といった問題が解散の主因とは考えに くく、そこには社会の「同情」を集めながらも経営を存続していくだけの精神、

つまり孤児に対する「同情」の念が石井に比べて大原等は薄弱であったと言わ ざるを得ない。留岡は、この社会の深甚なる「同情」を得ていた岡山孤児院が

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解散へと至ったことは、これまで留岡が慈善事業において重視してきた社会の

「同情」が如何に無効力であるかを国民に向けて発表していることにもなり、

そうした天下の「同情」に期待して運営してきた他事業所の落胆も想像に難く ない。模範であり目標であった岡山孤児院がこのような「同情」の失敗例とし て結果理解されることは、既存事業所への影響は言うに及ばず、一方で「後進 を鼓舞奨励する所以の道」となり得ない弊害をもたらすことも想定されるので あるから、その影響は計り知れない。慈善事業とは、社会から寄せられる「同 情」も重要であるが、その事業を運営する「同情」ある慈善家とが両輪となり 前進するとの教訓を改めて留岡に認識させたのではないだろうか。

Ⅳ おわりに

留岡幸助にみる「同情」主義は、キリスト教およびキリストから示唆を得た ものであり、その「同情」を慈善家の重要な資質として堅持しつつ様々な事業 を留岡自身担っていく訳であるが、先述したごとく近代日本において「同情」

に着眼した人物は留岡に限定されるものではなく、多くの識者の中で流行して いた。したがって、留岡は国内外を問わず「同情」を重視する者達から影響を 受けており、必然的に留岡の周辺には「同情」者が引き寄せられていくことに なる。

先述したように、近代日本において「同情」流行の歴史が伺える訳だが、い わゆる流行にはその社会的影響に関し両義牲を保有することが常であろう。つ まり、「同情」とは道徳的価値を見出されながら、その一方で濫用や誤用によ る様々な悪弊を村上浪六は「同情病」として指摘した。しかし、留岡はどこま でも社会における「同情」の有用性を信じ、「真誠なる同情」とは何かをキリ スト教義のもと慈善事業の実践の中で問い続けた人物と言える。

留岡は、如何なる事業においても成功するために不可欠な要因として、その

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事業内容は勿論のこと、事業を担当する者の人格が結果を左右する重要な鍵で あると考えていた。そうした定義は、留岡が実地で交流した多くの人々を比較 検討した上で導き出されたものであっただろう。留岡が内務省勤務の折に親交 があった井上友一は「総ての人に同情を ぎ得る稀有の人格」者であり、また 北海道集治監教誨師として留岡と共に尽力した大塚素も社会改善に不可欠な

「同情」を有する人であった。更に、留岡と監獄事業の在り方を模索した小河 滋次郎は「在監人貧者病者などに同情」を表した人物として評され、内務省嘱 託として留岡が社会事業取調を担っていた際に交流のあった坪野平太郎は「同 情」に富む人物であった(95)

このように、留岡はある種の人格的価値を「同情」の有無に求めていた節が ある。留岡がキリスト教およびキリスト像の中に見出した「同情」を、彼の人 生における経験が補完し実践への原動力としていく訳だが、そこには先述した ような「心友」の存在、そして彼等との交流にて得られた「同情」経験が大き く影響していると言えよう。「同情の喜び、同情の悲しみは友情の発露である が故に、二倍にして喜ばれ二分して担はれる(96)」という知己観は、留岡の愛妻夏 子の入院および死

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、次男励の殉職に対して「心友」から表された「同情」が留 岡の心中に深く刻印された故に得られた観念であり、留岡自身も誰かの「心 友」たるとの心掛けを強く意識させたに違いない(98)

徳富蘇峰はそのような留岡について「基督教をよく具現化した人」と回顧し ており、「私は留岡先生の仕事と申すよりも留岡先生に対して常に同情者であ る」と記している(99)。留岡の功績にはキリスト教が盤石な基礎となり、その事業 を堅固に下支えしていた訳だが、蘇峰はその事業よりもその留岡が有するキリ スト教精神またはキリスト教精神を有する留岡に対し「同情」を表しているの である。蘇峰が「留岡先生が御丈夫であれば宜い」と心願していることからも、

「同情」の対象は事業ではなくして事業主たる人物に向けて大いに注がれるべ きものと解される。事業主が如何なる人格者であるかによって、事業の内容お

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よびその長期的存続が問われることは留岡も指摘していることであるから、蘇 峰が寄せた留岡その人への「同情」は、留岡にとって最上の賜りであったので はなかろうか。

(1)村上浪六「同情」『人間学』(『浪六全集』第八篇、至誠堂書店、大正4年)、112‑

116頁。村上浪六『居家処世人間学続編』(大江書房、大正2年)の「序」には、

「去年の十月、思ふところありて人間学の前編を著はし」とあることから、この

「同情」なる評論は大正元年10月以前に著作されたものと推察される。近代日本 における「同情」という語の流行形態を探る上で、当時の国語辞書中で「同情」

がいつからどのように扱われているかを考察することが有効だと思われる。何故 なら、辞書に掲載されると言うことは、当時の社会において一定の使用が認めら れたからに他ならない。筆者の管見によれば、「同情」が初出するのは大和田建 樹『日本大辞典』(博文館、明治29年)であるが、これは「同意」の意味説明と して「同じ心」「同じ意見」と並び記載されている。したがって、検索項目とし て「同情」が初見できるのは、落合直文『ことばの泉』(大倉書店、明治31年)

となる。明治40年代になると頻出してくると思われ、金澤庄三郎『辞林』(三省 堂書店、明治44年)や山田美妙『大辞典』下巻(嵩山堂、明治45年)に見られる。

注目したいのは『大辞典』であり、「同情」とは「心理学ノ語」にして「貴イ情」

だとされ、「英語 Sympathyニ対スル訳」との記述あり。大正期になると、上田 萬年・松井簡治『大日本国語辞典』第三巻( 山房・金港堂、大正元年)には

「同情」という語が『漢書』「呉王 鼻」に「同情相求、同欲相趨」という記載があ ることを紹介している。昭和になると「同情」の説明内容も厚みを増してくるが、

紙幅の都合上割愛させて頂くが、上述したように、村上が「流行」を認めた明治 後期から大正にかけて、国語辞書中に「同情」が登場してくることが伺える。書 名及び日付は不明だが、留岡自身「スタンダードの辞書」を開き「同情」を検索 しており、「同情は、総ての塊を溶かすところの解決剤である。若しも同情がな かつたならば、世の中の事柄は何事も解決されない」と記載されていたと回顧し ている。留岡幸助「保護と実験」『輔成会会報』2巻4号、大正7年7月30日。

(2)西村茂樹『自識録』 山房、明治33年8月。日本弘道会編『西村茂樹全集』第一 巻(思文閣、昭和51年)所収、626頁。

(3)渡辺 聖・中島半次郎『倫理学教科書』成美堂・目黒書房、明治35年、52‑53頁。

大西祝『西洋哲学史下』警醒社、明治37年、352‑357頁。井上哲次郎抄訳・大槻 文彦校訂『倍因氏心理新説第二』同盟舎、明治15年、6頁。有賀長雄『教育適用

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心理学』牧野書房、明治19年、771頁。

(4)渡辺 聖・中島半次郎『倫理学教科書』、52‑54頁。「同情のある所、必ず正善あ りといへど、吾等の同情は、必ずしも正善に向つて喚起せらるゝとは限らず。寧 ろ往々にして反対の事実あるにあらずや」との批評もあり、一例として星亨を暗 殺した伊庭想太郎への世間の「同情」は歴史的事実として存在し、当時の新聞紙 上にて「同情」の有り様が論議となっている。拙論「社会進化における「同情」

という適応原理―丁酉倫理会員の言説をもとに―」『文化史学』第68号(平成24 年11月)。

(5)有賀長雄『教育適用心理学』、770頁。

(6)筆者による拙論は以下の通りである。「明治期「同情」思想における一考察―山 路愛山をもとにして―」『文化史学』第57号(平成13年11月)、「明治期における ダーウィン進化論と「同情」概念の受容」『文化史学』第59号(平成15年11月)、

「民友社の歴史認識―山路愛山の明治維新・自由民権論を中心に―」西田毅・和 田守・山田博光・北野昭彦編『民友社とその時代―思想・文学・ジャーナリズム 集団の軌跡―』(ミネルヴァ書房、平成15年12月)、「森有礼とその周縁―「sym- pathy」という国民教育論―」『日本思想史学』第38号(平成18年9月)、「回想 する徳富蘇峰―「同情」に救われた巨人―」『文化史学』第63号(平成19年11 月)、「日露戦役における「同情」戦略―勝利すべき文明とは―」『文化史学』第 69号(平成25年11月)、「元良勇次郎―「同情」する日本近代学知―」『文化学年 報』第63輯(平成26年3月)、「高島平三郎と児童研究―二つの戦後と「同情」本 能―」『文化史学』第70号(平成26年11月)。

(7)井上勝也「留岡幸助人と思想(一)」『キリスト教社会問題研究』23号(昭和50年 3月)。「留岡幸助人と思想(二)」『人文学』129号(昭和51年12月)。留岡におけ る慈善思想およびキリスト教精神と「同情」に関し軽触している論文として、姜 克美「留岡幸助の慈善思想と実践―個人的信仰から国民的宗教への転回―」『岡 山大学文学部紀要』第49号(2008年7月)が挙げられる。

(8)室田保夫「近代日本の社会事業雑誌」『関西学院大学人権研究』第15号(平成23 年3月)。

(9)留岡幸助『家庭学校』警醒社書店、明治34年、7頁。

(10)同時代にあって、キリスト教乃至はキリストと「同情」を関連付けて論評してい るのは留岡だけではない。ノースロップ『教育者としての聖書』秀英舎、明治29 年。宮川経輝述・荒浪市平速記「我党の特色」『基督教新聞』765号(明治31年4 月15日)。原田助「神」小林光茂編『真理の叢』警醒社、明治27年。古木寅三郎 説教・木公子筆記「基督の心をもて」『基督教新聞』第766号(明治31年4月22 日)。海老名弾正『勝利の福音』新人社、明治36年。海老名弾正『霊海新潮』金 尾文淵堂、明治39年。本間俊平著・三浦関造編『労働と信仰』隆文館図書、大正

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8年。綱島佳吉『逆境の福音』警醒社、大正13年。多数の著述が見られ、留岡と の比較検討も必要である。注(44)も併せて参照されたい。

(11)留岡幸助「漫筆走記」第1号『留岡幸助日記・手帖』5、同志社大学人文科学研 究所、昭和51‑52年、283‑284頁。「漫筆走記」第1号の表紙には「明治二十一年」

「同志社在学中」との記載あり。なお、『日記・手帖』に関する頁数は全号にわた る通番を用いている。

(12)留岡は「人艱苦ニ在ルトキハ同情ノ念衷ニ汪盛トナル」、「同情は艱苦の吾人に与 ふる第三の賜なり」と記している。「艱苦は賜なり」『留岡幸助日記・手帖』66、

18・25頁。

(13)留岡幸助「漫筆走記」第4号『留岡幸助日記・手帖』9、同志社大学人文科学研 究所、昭和51‑52年、624‑635頁。この「漫筆走記」第4号は執筆年月日不詳であ るが、4号567頁には「一千八百八十九年一月廿三日」との記載が見られ、次号 表紙には「明治二十二年夏六月十五日」と記されていることから、当該文はその 間に書かれた物と推測する。後の事になるが、明治27年頃の米国視察中に、スコ ットランド詩人サー・ウォルター・スコットやシェークスピア、エマーソンを引 用した「Sympathy」と題するメモも存在し、様々な方面から「同情」を感得し ていることが伺える。『留岡幸助日記・手帖』68、108‑109頁。だが、留岡が「同 情」に着眼した具体的な経緯(日時、場所、人物名や書名など)は現段階の考察 では不明であり、今後の課題としたい。

(14)当時、「同情」が「sympathy」の訳語として通用していた実例を和英及び英和辞 書から考察したい。『英和字典』(知新館、明治5年)では「同情相憐」と、井上 哲次郎『哲学字彙』(東洋館書店、明治17年)では「同情」と訳されており、先 述した国語辞書への掲載よりかなり早くから見ることが出来る。他には、神田乃 武・横井時敬・高楠順次郎・藤岡市助・有賀長雄・平山信『新訳英和辞典』(三 省堂書店、明治35年)、英語教授研究会『実用和英辞書』(吉川弘文館、明治39 年)、佐久間信恭・廣瀬雄『和英大辞林』(郁文館、明治42年)などにも「同情」

と「sympathy」が互いに訳語として記載されている。ちなみに、徳川幕府洋書 調所『英和対訳袖珍辞書』(文久2年)では「Sympathy」が「同意」と訳され ている。

(15)小塩高恒「留岡翁丹波に居りし頃」『復刊人道』第23号。「それにも増して秀でゝ 居たのは親切心であり、同情が深く、其時分から劣敗者薄情者の世話をよくした 事である。」との記載あり。

(16)留岡幸助「決死隊(明治二十七年九月二日午餐ノ後直ニ筆ヲ執ル)」留岡幸助日 記編集委員会編『留岡幸助日記』第1巻、矯正協会、昭和54年、570頁。

(17)留岡幸助「今日の基督教」『基督教新聞』767号、明治31年4月29日。

(18)ケリーと金森は共著にて「喜ぶ者と共に喜び悲む者と共に悲み(羅馬書十二章十

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五節)務めて其教ふる所の信者と心安く彼等の心情の鬱勃ハ隠すことなく明さし むるを要す人を基督に導くハ其人の困難に在る時より適当なるものなし」と記し ている。金森通倫、オーティス・ケリー『伝道者之心得』福音社、明治23年11月。

ケリーも金森も伝道者がその心得として「同情同感」を有し牧会をもつよう心掛 けており、聴衆として留岡の心情に何かしら共鳴したものがあったのではないか とも推察でき非常に興味深い。

(19)留岡幸助「わが奉教の由来」牧野虎次編『留岡幸助君古稀記念集』留岡幸助君古 稀記念事務所、昭和8年、17頁。

(20)留岡幸助「わが奉教の由来」『留岡幸助君古稀記念集』24頁。

(21)留岡は「マタイによる福音書」8章1節から4節を引用して、ハンセン病患者に 対する「キリストの御同情」を詳説しており、自身の人生を儚むことで「天を み、予を呪ふ」ことになる患者に留岡は「同情」を表している。更には、大正14 年11月に創設された日本 MTL の理事長小林正金を「熱心な篤志家」として「世 人に記臆して置いて貰ひ度い」と唱える。「基督教に拠る癩患者救済事業」『留岡 幸助君古稀記念集』182‑187頁。留岡をはじめ多くのキリスト教徒がハンセン病 患者を「同情」すべき対象と認識している。

(22)『留岡幸助日記』第1巻、91頁。留岡幸助「漫筆走記」第6号『留岡幸助日記・手 帖』13、851頁。

(23)「正義」『留岡幸助日記・手帖』62、670頁。「正義」『留岡幸助日記・手帖』68、

101頁。

(24)留岡幸助日記編集委員会編『留岡幸助日記』第4巻、矯正協会、昭和54年2月、

636頁。

(25)留岡幸助「漫筆走記」第4号『留岡幸助日記・手帖』9、611頁。

(26)「馬太伝十一○十九 ヲ見ヨ。」『留岡幸助日記・手帖』58、447頁。

(27)留岡幸助日記編集委員会編『留岡幸助日記』第1巻、矯正協会、昭和54年2月。

(28)留岡幸助「同感同情」(「漫筆走記」第7号『留岡幸助日記・手帖』14、924頁)。

(29)大西祝『西洋哲学史下巻』360頁。

(30)留岡幸助「同感同情」(「漫筆走記」第7号『留岡幸助日記・手帖』14、926頁)。

(31)留岡幸助「同情の念」『基督教新聞』786号(明治31年9月9日)。

(32)留岡は家族を人世における基本と捉え、その家内における「同情」などの感化に より社会秩序の維持が可能となると思考している。「 家 族 的感化」『留岡幸助日 記・手帖』75・75‑2、352‑353頁。

(33)留岡幸助「同感同情」(「漫筆走記」第7号『留岡幸助日記・手帖』14、925頁)。

(34)留岡幸助「同情の念」。

(35)小河滋次郎「序」中村襄・三浦貢・上田定次郎『監獄官教科書』警察監獄学会、

明治31年、4頁。

参照

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