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第12章 大原孫三郎の民芸運動支援 はじめに

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第 12 章  大原孫三郎の民芸運動支援

はじめに

大原孫三郎は、使命感と人間愛の精神で様々な社会支援事業を行った。孫三郎の実践の 場は、身近な倉敷から、次第に社会一般へと拡がっていったのだが、多岐にわたる孫三郎 の社会貢献事業の根底には、民衆−「民」−重視の姿勢があったといえる。

孫三郎の考え方や生活態度の転換をその実践で導いた石井十次が運営する岡山孤児院へ の支援、有志でありながらも教育の機会を活かしきれない若者達への奨学金援助、倉敷の 人々の啓蒙のために長年にわたって継続した倉敷日曜講演会、小作人の生活安定の企図に 端を発した大原農業研究所の設立、倉敷紡績で働く女子工員達の労働・生活環境の改善を 純粋に望んだことによる倉敷労働科学研究所の設立、社会を脅かし出した資本主義による 社会構造的な問題解決を希求した大原社会問題研究所の設立、及び倉敷の一般の人々をも 平等に治療することを目的とした倉敷中央病院の設立などについては既に確認してきた。

これら以外にも、孫三郎の支援は多い。世界の名品に数えられている西洋画などを展示し た大原美術館 1)も孫三郎の社会貢献の代表的なものにあげられるだろう。これは、孫三郎 が、画家の児島虎次郎を支援し、欧州での西洋画の収集について児島に一任したことに端 を発している。

このように、科学研究・教育・弱い立場の人達への支援のみならず、文化も含めた多岐 にわたって孫三郎は支援を行ったのだが、柳宗悦[1889(明治22)年−1961(昭和36)年]たち による民芸運動への支援については未だふれていない。そこで、ここでは、孫三郎がなぜ 民芸運動を支援したのか。この支援も既述した社会事業支援と同一線上にあるものなのか、

また、孫三郎にそのような社会貢献活動を促した、背後にある要素の1つと考えられるも のについても、改めて考察してみることにする。

1.柳宗悦等の民芸運動と民芸観の特徴 (1)民芸運動2)の経過概略

倉敷でも児島虎次郎を中心にして、孫三郎などが柳宗悦等の民芸運動と同様の民芸支援

−木工品製作、酒津焼復興など−の活動を展開していた。そのような中、孫三郎は、濱田

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庄司[1894(明治27)−1978(昭和53)]の作品に傾倒するようになり、1932(昭和7)年には、

濱田の作陶展覧会が倉敷商工会議所で開催されるに至った 3)。その際に孫三郎と柳宗悦は 顔を合わせ、孫三郎は、柳達の民芸論や民芸運動についての詳細を初めて聞いた。この出 会いを契機に、倉敷の民芸熱も高まっていった。

柳宗悦達は、日本全国をまわって民芸品の調査・蒐集を行い、伝統的手工芸の保存と振 興を指導した。工芸美の認識を啓蒙する出版・執筆活動をも行いながら運動を展開してい った。民芸への着目・蒐集という点では大正半ばから始まっていたのだが、孫三郎との出 会いから2年後になって日本民藝協会−柳が会長に就任4)−が設立された。そして、その さらに2年後、民芸美への世間一般の認識を深めるために、日本各地から蒐集した民芸を 展示する日本民藝館を大原孫三郎の支援でとうとう設立することができた5)

柳が日本民藝館設立の構想計画を初めて実際に語ったのは、1926(大正15)年に河井寛次 郎[1890(明治 23)−1966(昭和 41)]、濱田庄司と出かけた高野山の山寺でのことであった。

柳は、それより2年前に淺川巧と共同して韓国のソウルに李朝の民芸品を展示する朝鮮民 族美術館を設立していた。当時、価値が全く認められていなかった李朝の白磁や民画など の価値を見出した柳は、日本にも同様のものを建てたいと考えていた6)

このような希望を抱いてから民藝館が実際に出来上がるまでの経緯について、柳は次の ように回顧している7)。「吾々が發願して此の仕事の端緒についたのは大正十五年のことで した。趣意書を印刷し吾々の目的を公開しました。早くも多くの既知未知の友から好意あ る援助を受けたのです。かくして諸國に蒐集の旅を重ね、先づ展覧會を介して其の結果を 世に問ひました。又文筆の道で吾々の見解を述べ、圖録を通して民藝が何であるかを語り ました。月刊『工藝』も同じ要求から生れ、逐次號を重ねて行つたのです。かくして凡そ 十ヵ年餘りの準備時代が過ぎました。遂に民藝館設立が具體化されたのは昭和十年の秋十 月でした。之は全く大原孫三郎翁の好誼によるものであることを銘記せねばなりません」、

「館が遂に建つに至つたのは、社會事業に熱意を持たれた故大原孫三郎翁から、金拾萬圓 の寄贈を受けたことによります。・・・當時、この金額は實に敷地を購ひ、建物を設け、調 度を整へるのに足りるものでありました。・・・是等のことに關し一切の自由を私共に與へ られた大原翁の寛容に深く感謝せねばなりません」との見解を柳は示している。また、「何 たる幸なことであらうか。それは昭和十年五月十二日のことであつた。大原孫三郎氏が、

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その頃漸く建て終つた私の家を見にこられた。それは野州地方でのみ發達した石屋根の建 物で、もと長屋門として用ゐられてゐたのを移したのである。その折共に集つたのは山本 為三郎、武内潔眞、濱田庄司、バーナード・リーチの諸兄であつたと記憶する。卓を圍ん で談が偶々民藝のことに及んだ時、大原氏から次の様な意味のことを話し出された。『十萬 圓程度上げるから、貴方がたの仕事に使つて頂きたいと思ふが、凡そその半額を美術館の 建設に當て、殘りの半分で物品圖書などを購入せられてはどうか』。その折の大原氏の慇懃 な言葉と、盡きない好誼とに對して、私達は充分な辭さへなかつた。私達が永らく希願し て止まなかつた一つの仕事が、これによつて實現せられるに至つたのではないか」という ように、柳はその時の状況を詳細に描写もしている。

孫三郎は、柳の民芸論に共鳴して支援を行ったため、次に、柳宗悦の民芸観の特徴を概 観してみることにしよう。

(2)柳宗悦の民芸観の特徴8)

ⅰ.「民」重視の姿勢

「今までは殆ど凡て貴族的な又鑑賞的な作品のみに高い價値を認めてきたのである」9) が、「直観から多くの品物を眺めて、美しいと感じたものを選び出した時、實に次の二つの 事實を見出した・・・。其の多くが民衆的工藝品でした。今迄大切にされてゐた貴族的な 品物には眞に美しいものが却て少ないのに氣附きました。さうして今迄馬鹿にされてきた 民衆的な品物に、無數に美しいものが見出されました」と説明した10)柳は、美と民衆との 結合を図るための民芸運動を濱田庄司、河井寛次郎等と共に展開した。「民衆は貴族や金持 ちや権力者の下積にされてはゐますが、却つて民衆的な性格からのみ生れてくる美しさが あり得ることを、はっきり云ひ出した」のが民芸運動であった11)。柳は、芸術を貴族的美 術と民衆的工芸とに区分して捉えた12)。貴族的美術作品は、個人が由緒にこだわりながら 個性を追求して創作する作為的・個人的・私的なものだというのに対し、後者の民衆的工 芸−民芸−は、名も無い職人が、ごく一般の誰ともわからぬ人達の用途のために日常的に 製作する無意識的・非個人的・公的なものだというのであった13)。柳達は、それまで顧み られることのなかった後者の美、「民」を基礎とする美を説き出した。即ち、「民」重視の 姿勢で美を説いたものが民芸論だったのである。それは、柳が「之れ迄美の領域に於て『民』

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の價値を強調した主張は他になかつた。『民』の一字は平凡な世界を聨想させたに過ぎなか つたからである。・・・吾々が直接に『民』の領域に美の世界を見たことに始まる。さうし て後にそれを思想的に整理して民藝論を建てるに至つた」と語っている 14)ように、「民」

重視の民芸とは、未だ認められておらず、蒐集の対象になったことなどない分野であった。

 

ⅱ.地域重視の姿勢

柳達による民芸論におけるこの「民」重視の姿勢を端的に表わしているものに、民俗学 と比較しての論点がある 15)。「民藝学と民俗学との著しい共通點は、民衆の生活を重要視 することにあらう。共に『民』の字の意義を忘れない。・・・民間所生のものは何れの學に とつても貴重な題材である」と指摘した柳は、これに続けて「凡て地方民の生活を表現し ないものはない。それは何れの學にとつても魅力ある題材である。凡て民衆の生活に即し て生れてくるものは二つの學にとつて重要な意味を齎らしてくる。かゝる意味で此の二つ の學が特に地方的文化を重く視る態度に於ても共通する。・・・特色ある地方の存在こそ、

一國の獨自性を支へてゐる力だとも云へる。それ故民族の生活は地方の生活に最も如實に 表現せられると云つていゝ。民俗學も民藝學も共に地方文化に豊富な題材を見出してゐる のである。それ故是等の學門の発達こそは、其の國民の歴史に確乎たる基礎を與へ、引い ては之が民族の存在理由を鮮明にする所以ともなるであらう」とも言っている16)。つまり、

柳の民芸論には「民」重視の姿勢と両輪をなす形で地域重視の姿勢が備わっていたのであ る17)

「何も工藝家は同時に道徳家であり宗教家である要はないかもしれぬ。・・・併し工藝家 は先づ人でなければならない。人としての作者は須らくその生活に精神的基礎がなければ ならない。・・現に優れた品物を作り続けてゐる地方を訪ふと、如何に信心や誠實な風がそ の暮しに強く働いてゐるかが分る」と考えた 18)柳は、「私が知つてゐる純正な農民の品物 には、感嘆すべきものが豊富にある。それはつねに地方的であり、實用的である」とも語 り19)、日本の歴史的風土に根差してきた地方性を持つ実用品をもっと誇るべきだと訴えた

20)。明治維新以降、それまでの伝統や地域的な多彩性を排除して進められた明治政府の中 央集権化による地方性の否定を柳は嘆き、改変・改善ではなく、結果は改悪になったケー スが多いと吐露している 21)。「地方の工藝に心を惹かれる私達は、必然地方的作品の美的

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價値に就いて想ひみないわけにゆかない。從つてかかる美を産むに至らしめる社會性や道 徳性や、更に遡つてその生活の本質にまで問ひを進めねばならない。地方性の文化價値は 當然もつと議論せらるべき題材であらう。・・・吾々が一層重要な對象とする點は地方性の 文化價値に対する認識である。言語といはず、その生活や、風俗や、道徳や或いは技藝に、

地方的なるが故に生ずる大きな價値があることを主張するにある。恐らくこのことへの認 識は都會との對比に於て、著しく容易さを增すであらう。都市の生活が進むにつれて、同 時に地方性の價値が認知されねばならぬといふのが吾々の主張である。なぜなら地方は文 化價値の豊富なる蔵庫と目せられねばならないからである」という柳の言葉22)は、そのよ うな信念の表われである。

ⅲ.迎合しない独自の姿勢

「私達が敢て民藝の美を語り始めたのは、一つにはこの分野の美に就いて殆ど語る者が 他にゐなかつたからである。『民藝』という字句すら吾々で考案するより仕方がないほど、

この領域のことが省みられてゐなかつたからである」、「それ故民藝への認識は在來の見方 への一つの挑戦であり、價値転倒を迫るものであつた。この意味で造形美學に於ける一つ の革命的意義を示したものである。即ち今日まで重く視られてゐた分野よりも、疎んじら れて來た領域に、却つて重要な美的價値を見出すに至つた」と柳は告白しているが、「世間 が認めないなら、私はいつだとて辯護したい心が起る」というような強い反発心が柳には 見受けられる23)

  また、「どうして民衆的な作品に美しさがあるといふのか。何か充分な理由でもあるのか。

今までかう詰問されたことが度々あります。所が最初私は別に理窟も何も持ち合せてはゐ なかつたのであります。又理由があつてそれ等の品を美しいと考へたのではないのであり ます。只眼が即座にさう感じさせたまでのことでありました。謂はば直観が『美しい』と 私に報らせてくれたに過ぎません。之こそ独断的な主観的な見方に過ぎぬと評されもしま せう」と柳は説明している24)のだが、柳は、この直観を頼りに、今まで目も向けられなか った日本固有の伝統的民衆工芸を振り返り、率先して未来に発展させていこうとしたので あった。「嘗てラスキンやモリスは中世紀のそれ等の作物を讃美した為に、復古主義者と云 ふ非難を屢々受けたのであります。併し彼等の眞意は決して時代を昔に戻さうとすること

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にあったのではなく、時代を前に進める為に現在の吾々にとつて、それ等の時期のものが 一番示唆に富み教訓に充ちてゐることを知らせたい志だつたのです。吾々も亦時代を前に 戻すべきではなく、未来を切り開かねばならないのです。・・・用と美とを一致せしめ、自 由と伝統とを調和せしめる為に、過去の歴史から學ぶ可きことは非常に多くあるのです。

吾々は目的地に到達する為に凡ての歴史を活かし、それを攝取して、更に新しい未来へと 進むべき使命を帶びてゐるのです」とも訴えていた25)柳は、時代や権力、及びその他大勢 に迎合するのではなく、反抗心と直観でもって、新たなことに挑戦して時代を切り開こう としていたのであった。

2.柳と民芸運動について−先行研究による評価の概観

  では、このような特徴を有した柳宗悦や民芸運動については、どのような評価が与えら れてきたのだろうか。孫三郎が民芸運動を支援した理由を考察するまえに、先行研究の見 解を概観してみることにしよう。

(1)批判26)−「民衆との遊離」「実在しない理念的概念の民衆」「人間不在」 

出川直樹氏は、柳宗悦の「美」とは、−柳自らが直観と語っているように−客観的でも 普遍的でもまた、実証的でもなく、「常に『柳にとって』という但し書きが必要なもの」で あり、民衆が認める美ではないことにふれた上で、「問題は彼にとって器物がそうであった ということではなく、民衆にとってもそうであると彼が認識していたことにある。・・・こ のあまりにも民衆と遊離した柳の器物への過大な意義付け、偏った拝物的な思い入れは現 実的ではない。民衆にとっての器物の意義の正確な把握は、民芸理論のバックボーンをな す筈だが、まずこれに不健康なゆがみが認められるのである」と批評している27)

出川氏が批判したこの「民衆との遊離」という点に関連して、中見真理氏は、柳の「民 衆」観を「本来は実在しない理念的概念」であると指摘している。中見氏によると、柳の 言う「民衆」は、「ある時は中世モデルの理念的民衆であり、ある時は、近代化の遅れた地 域の工人を指していた。両者はしばしば同一視され、実在の民衆があたかも中世の理念的 民衆であるかのように語られていくことも多かった」というのである28)

このように、柳の民芸観には、実は真の「民衆」が不在だったと批判されるのであるが、

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「こうした柳の民衆観における「『人間不在』を見出す視点は、地域との関わりを問おうと する近年の論考にもしばしば見られるものである」と濱田琢司氏は示している29)。柳は日 本人として、植民地化されていた朝鮮に同情した人物ではあったが、「その言説には朝鮮民 芸というモノへの愛情が含まれているのみで、日本による支配下にある朝鮮の人々の現状 への配慮が全く欠けていた」と批判されている点について濱田氏はふれていた。

  また、モノではなく、民衆自体を見る目の不在という点からさらに発展させた柳批判も 見受けられる。例えば、伊藤徹氏は、韓国の詩人・崔チ ェリ ムの柳批判を考察しながら、「柳の 振舞いの特徴は、社会的現実に対する盲目、およびそれと連動した芸術への逃避である。

――柳は『朝鮮の友』のために涙を流しながらも、実は植民地支配下に生きている朝鮮民 族の社会的現実を見ず、政治や経済といった『現実の論理』から切り離された『観念的・

情緒的世界』としての芸術の世界にのみ関心を注いでいた。・・・柳には、意図的でなかっ たにせよ、日本帝国主義に利用されてしまうナイーヴさがあり、自分の見方の偏向に対す る反省的眼差しが欠如していた」とまとめている30)

(2)「民」と地域重視の姿勢への評価

平山敬二氏は、「民衆性、実用性、多量性、低廉性、職人性」というこれまで顧みられる ことのなかったものの中に美を見出し、「考察の対象としたことに柳宗悦の民芸美論の決定 的な革新性があるといえるであろう」と語って、柳の「民」重視の姿勢を高く評価してい る31)。また、柳宗悦等による民芸運動と同時代の日本における工芸運動−帝国工芸会など

−とを比較した小畠邦江氏は、「民藝運動は美術館の設立を目的に掲げていたことがもっと も異色である」ことにふれ、「展示は彼らの運動を広く知らせるための手段であり、鑑賞が 主目的ではなく、現在の生活の中で使うことに意味があった。『用』『美』『廉』との一致を 求めたというところに、使う人である消費者の視点が組み込まれているという特徴がある」

と「民」の視点に着目している32)

  さらに、柳の地域重視の姿勢については、武田清子氏が、次のように語って肯定的に評 価している 33)。「李朝陶磁器の美を媒介として、民芸美を生み出す創造力を民衆のふとこ ろに発見した柳は、地方的な郷土の存在の意義を明らかにすることの大切さを思い、二十 年にわたって日本全土を旅し、郷土的民芸−お茶づけの茶碗、湯のみ茶碗、皿、しょうゆ

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さし、つぼ等々を発見し、世に紹介して行った ことは今更いうまでもない。更に、こうし た日本の地方的、郷土的文化の典型を、沖縄の文化に見出していることも先覚的慧眼であ った」と。

(3)柳宗悦への評価

「柳が思想の原型を形づくるに際して、最も関心を寄せたのも、(a)個の確立、(b)社会主 義・アナキズム思想への姿勢、(c)『東洋と西洋』の再定義、という三つの課題に他ならな かった」と中見真理氏はまとめている34)が、近代化や近代社会を批判的にとらえていた柳 の民芸観については、上述したように、肯定的にとらえられるばかりではなく、内在して いた弱点が批判されることもある。しかし、「明治から漏れ落ちたものへと眼を向けて、次 第に文化の幅を身につけ始めた時代」と大正時代を位置づけた上で、「この文化的な活力に 溢れた時代に颯爽と登場し、それまで眠っていた数々の庶民的な美を発見した眼の巨人」

であり、「柳の民芸理論については今日批判も提出されているが、先入観にとらわれずに自 分の眼でものと直下に向き合い、常に新しい美を求めようとした発見者としての柳の業績 は、多くの人の認めるところであろう。柳もまた伝統を乗りこえた、モダンアートの旗手 だったのである」という見方35)の大筋について異論をはさむ人は少ないと思われる。

だが、その一方で、「大戦中の柳と民藝関係者の書いたものや行状を、彼らが当時おかれ ていた状況やそこでの困難に一顧もせずに分析批判しようとする研究」も存在する36)。そ のような時代性を考慮しないマイナス一辺倒の見方に対して、松井健氏は異論を唱え、「あ る意味で時代の強い流れに抗して生きた柳の姿勢は、今日の社会状況に不断に押し流され ている私たちにもきわめて示唆的なはずである」との見解を示している。M.W. スティー ル氏が指摘しているように、柳は「日本文化の多様性の保護と奨励を最も早い時期に支持 した一人」であり、民芸運動を通じて「地方の独自性を保護しようと務めたのである。こ の点において彼の主張は、日本軍の国家主義と明確な対比」をなしていたのであった 37)。 柳の民芸観には批判される点が存在したのは確かであろうが、スティール氏の「日本の工 芸への関心を復興させた彼の功績は周知の事実だが、おそらくそれより重要なのは、文化 的・民族的多元性の肯定的な認識を追及したその思想であろう。・・・近代化の過程におい て打ち建てられた中央主義的発想を現代の目から再考する時が来ているのではなかろうか。

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日本社会における多元性の認識を訴える柳の声は、今日も生き続けているのである」とい う意見38)は柳宗悦評価としてまさに示唆に富んでいると思われる。

  では、話を孫三郎の民芸運動支援に戻そう。

3.孫三郎が民芸運動に共鳴・支援した理由−柳との共通点の存在 (1)「民」重視

  上述したように、柳宗悦の民芸観には、「民」重視と地域重視の姿勢が顕著に現われてい た。柳は、一般の庶民が生活を容易にするための利便となる工芸の中に美と健全さを見出 した。「民衆は凡庸なものとされた。實用品は低調なものとされた。廉價はいつも下賎な性 質を意味した。・・・だが私達はこの見捨てられたものに積極的な美しさを見た」39)と語り、

顧みられることの少なかった「民」を重視した姿勢は孫三郎に通じるものである。前述し たが、例えば、大学・高等教育の地方化とも言える倉敷日曜講演会は倉敷の民衆を、倉敷 労働科学研究所は、倉敷紡績の女子工員を、大原農業研究所は、倉敷の農民を、岡山孤児 院支援は、まさに生活難の煽りを受けた民衆の子供達を見据えての支援であった。また、

柳は支持する「民衆的」工芸に対比する概念として、「貴族的」美術品という言葉を使って いたが、孫三郎も「貴族的」という言葉を否定する意味合いで用いていた。欧米を外遊し ていた子息の總一郎に宛てた1936年7月14日付の書簡で、「旅行は貴族的旅行でないや うに注意の事。一社員の旅行である事を忘れぬやう」と孫三郎は戒めていたのであった40)

(2)地域重視

さらに、民芸が生み出された地域、風土、歴史、生活を重視する柳の姿勢、これも、孫 三郎の地域重視の姿勢に一致する。「父は、『自分は倉敷という土地にあまり執着し過ぎた、

倉敷という土地から早く離れて中央に出ていたら、もっと仕事ができていたはずだ。お前 も、あまり地方のことに深入りすると、仕事の邪魔になるぞ』ということをよくいってい たが、私もそうとは思いながら、やはり同じことになりそうである」という子息、總一郎 の言葉41)が如実に表わしているように、孫三郎の事業の根底には、倉敷・岡山という地域 重視の視点が備わっていた。倉敷の街づくりに孫三郎・總一郎父子が果たした役割は大き い。「孫三郎はコミュニティのために、教育や医療などの充実を図ったのみならず、インフ

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ラの整備や町の活性化、県下の産業・文化・民芸振興の勧奨など、郷土の繁栄に尽力した。

地域社会との関わりを常に念頭に入れながら孫三郎は社会的事業を遂行したのであった」

と第10章の4節(2)で記述したが、倉敷の街づくりへの孫三郎の数多い貢献の概略を次に 列挙してみよう42)

  ①岡山市には明治 36 年に電話が開通していたのだが、倉敷共和会会長を務めていた孫 三郎が電話設置運動を行い、倉敷にも明治 40 年に電話局が開設された。これは、加 入者が一切の設備費用を負担すれば小都市にも電話局を設置することができる、とい う事実を受けての活動であった。

②明治 40 年に倉敷の町活性化のためだとして、陸軍師団の設置・誘致問題が浮上した が、孫三郎は、歓楽街などから街の風紀が悪化することを恐れ、断固として反対した。

結局、設置は見送られた。

③倉敷電燈株式会社の社長を務めていた孫三郎は、騒音や震動などのため、苦情が多く 出されていた町内の発電所を市街地南方の郊外に移転させた。

④山陰と山陽を結ぶ伯備線の新設が中央政府の閣議に上がっており、伯備線の岡山側の 起点が懸案事項となっていた。倉敷同志会(商工会議所の前身)の顧問を務めていた孫 三郎は、倉敷の将来・発展を左右しかねない問題だと重視し、政治家に働きかけた。

結果として、伯備線の起点は倉敷となった。

⑤町内の有力者と共に大正8年に孫三郎は、倉敷住宅土地株式会社を設立した。倉敷町 の商工業の発展、住宅地の開発のため、土地の購入を手始めとする大々的な都市計画 が遂行された。孫三郎は、小学校校舎の新築、女学校、商業学校の移転改築、上水道 敷設など、町の事業に協力を惜しまなかったので、大正 13 年に、都市計画岡山地方 委員会委員に内閣から任命された。

⑥大正 15 年5月に当時の皇太子が倉敷町を巡啓することになった。そのため、倉敷町 では、橋やトンネル改修の必要性が問題となった。倉敷町は、今橋の改築費として、

1,840 円の予算を決議し、孫三郎の援助を求めた。孫三郎は、改築工事一切を引き受 け、約16,000円で今橋を竣工させた。また、この際、鶴形山トンネルの工事費70,000 円のうち、50,000円は孫三郎が負担した。

⑦その他にも、孫三郎は、道路用地を買収して倉敷町に寄付することによって、道路づ

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くりにも支援を行った。広い道路網整備が行われた結果、現在の倉敷中心部の主要な 道路が出来上がった。

 

孫三郎は、「余はこの倉敷は東洋の『エルサレム』たるべきであると信ず。否『エルサレ ム』たらしむるのが余の聖職である。依つて余は倉敷を聖倉敷たらしめんと決心す」と明 治35年11月27日の日記に記している43)のだが、そのような信念の一環として、「第一着 に倉敷の霊界から改良し、それから日本全体にこれを及ぼさう。そのため倉敷においてま づ教育の発達に尽力しよう」と考えた44)。そして、同一の信念で、倉敷の文化的・商業経 済的発展のための町づくりにも積極的に関与・支援していった。明治36 年1月には、倉 敷の町のために公会堂、図書館、公衆運動場の設置を、また、大正10 年1月には労働会 館、簡易図書館の設置についても思いをめぐらせていた45)。このように、孫三郎は、倉敷 という地域を重視して、地域とそこに住む「民」のために大きな役割を果たしていったの であった。この姿勢は、總一郎に受け継がれ、独自の形でより発展させられていった。

尚、この地域重視の姿勢に関連して、柳と孫三郎に共通する自然尊重の姿勢についても ふれておこう。柳は、李朝の陶磁や美術を生み出した東洋の中の朝鮮という場・土地に愛 着を持った。民芸美の生みの親の1つに自然を掲げ、地域特有のそこにある自然を柳は尊 重したのであった。この姿勢は孫三郎に通じるものである。上述したような孫三郎の倉敷 の街づくり支援は、いわば広い意味で経済と環境の調和を図ろうとした結果であったとい えよう。しかし、そのために、環境・自然を征服しようとは孫三郎は考えていなかった。

二宮尊徳の影響も受けていた孫三郎は、自然を克服する、という西洋の近代的自然観を有 してはいなかった。自然と環境は同義語ではないとは考えるが、孫三郎が調和を目指した 外的事物・条件としての環境の中には、地域環境や社会環境と同様に自然環境も含まれてい た。それを裏付ける端的な例として、第6章でもふれた孫三郎が東京専門学校に在学中に 大問題となった足尾銅山の鉱毒事件に関するエピソードを掲げることができると考える。

この日本初の公害問題ともいわれる足尾銅山の現地視察に孫三郎も友人と泊りがけで行き、

憤慨と同情の感を強く持った。社会問題に対して強い関心を持っていたこのような孫三郎 には、人間の周囲にある環境・自然を含めて社会を見る視点が備わっていたといえるだろ う。孫三郎は、常に人間を、取り囲む環境、社会、自然という視点をもってとらえ、不健

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全な環境の改善・改良を図ろうとした。孫三郎には、自然破壊、環境破壊を危惧する視点、

自然美を認める姿勢があったのである。

(3)迎合しない独自の姿勢

總一郎は、「元来、父の多くの事業への意欲は、一種の反抗的精神に根差し、あるいはそ れにささえられたものがまれでなく、単なる理想主義的理解だけでは解釈しがたいものが 多々その中にあった」や「父の生涯は反抗の生涯だと自らもよくいっており」、「負けるこ とのきらいな反抗心が、精神的成長と仕事の発展の支えであったことを常に告白していた」、

「何かを決意する時は、いつも、何らかの感情的な反発を動機とするのが常であった」と 孫三郎を述懐している46)。第8章の3節(1)ⅱでは「金持ちの子として教師達から正当に 扱われなかった幼年期の経験から権威を嫌い、反抗心の強い子になった孫三郎は、社会一 般の流れに単に迎合することを好まなかった」と記述したが、この反抗心という特徴はま さに柳宗悦にも見受けられたものであった。

また、東京帝国大学在学中に孫三郎の支援を受け、後には共に倉敷の町づくりに尽力し た薬師寺主計は「趣味の大原敬堂翁」という原稿の中で、「翁の鑑賞は第六感の働きが優秀 な頭脳の持ち主であり、・・・」と孫三郎を偲んでいる47)。第8章の(注)64でも、「直感と 科学を愛した父にも不可思議な事実を通じて信仰の記憶はたえず絶滅から救われつづけ た」という總一郎の言葉を引用したが、時代に先んじた事業を遂行するにも、人を信頼す ることに於いても、孫三郎には、鋭い直観や直感が働いていたことは確かだと考える48)。   

さらに、第11章の協調観のパートでふれたように、「官」が中心となって設立された財 団法人協調会への参加を床次内務大臣から乞われた際に孫三郎は、信念をもって、あくま でも民間からの努力で道を切り開くことにこだわった。これらの特徴は、孫三郎と柳宗悦 には共通している。つまり、孫三郎は、柳のこれらの姿勢にまさに自分の姿勢を見たがゆ えに、民芸運動に共鳴して支援したと言えそうだと考えるのである。

では、「民」を重視して地域のために、民間の立場からリーダーシップを発揮して展開す る、というこのような孫三郎の特徴は、どのようにして育まれたものなのだろうか。石井 十次や林源十郎などとの交流によって、孫三郎が自らの使命を感じ取ったことについては、

ふれた。また、第7章 3節では、「家系から受け継いだ精神・気質、そして倉敷という風

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土にあったと指摘される自由な企業化精神や庶民的義侠心」が孫三郎の活動遂行の根底に はあったと既述した。そこで、次に、地域のために可能な役割を果たすという孫三郎の尋 常ではない社会貢献活動を促した要素の1つに考えられるものとして、家系的な影響とも 強い関連を有する倉敷という風土による影響49)に改めて目を向けてみることにする。         

4.倉敷の歴史的風土 (1)幕府直轄地

「民」重視と地域重視という姿勢は倉敷の風土に由来しているのだろうか。倉敷が天領 だったということは、よく知られていると言われるが、天領すなわち幕府直轄地の陣屋が 正式に置かれたのは、延亭3(1746)年であった50)。この天領という言葉についてであるが、

これは旧幕時代には使われておらず、幕府の法令などでは、御料・御領・御料所・御代官 所・御倉入などという言葉で幕府の直轄地は呼ばれていた。天領という言葉が初めて用い られたのは、旧幕府直轄地をそのまま明治新政府の直轄地とすることを宣言した「農商布 告」の中でのことであったという51)

  いずれにしても、今は天領とも言われる幕府直轄地は、年代によって多少の相違は見ら れたが、全国的に分布しており、そこからの年貢収入 52)が幕府の財政基盤をなしていた。

幕府直轄地の農政と徴税担当者として、行政能力があると見込まれた人が代官として、幕 府勘定所の所属で直轄地に派遣された。代官は、管轄領内の年貢徴収、検地や雑税賦課、

幕府法令の領民への伝達、領民から幕府への訴訟の取次ぎなどを代官所を起点に行った53) が、支配機関としての代官所は脆弱なものであったらしい。この点について、久留島浩氏 は、「代官所の構成員だけでは、広域にわたる治安・警察機能は勿論、年貢聴取事務ですら 充分に成し遂げられなかったのではないか」との見解を提示している54)。藩主が存在する 藩に於いては、藩主以下の武士団が治安維持などの行政・支配任務を遂行していたのであ るが、そのような藩主以下の武士団が存在しない幕府直轄地では、代官所と各村との間に、

中間的・自主的な行政・支配機構が存在していた。

 

(2)自主的・民主的共同体

実際に、倉敷についても、そのような機構が存在していた。「倉敷代官所に勤めている役

(14)

人の人数は実はたいへん少ない。安政5年(1858)、代官田中庄次郎のときには、江戸の代 官所に8人、倉敷代官所に9人、笠岡出張陣屋に2人である。これに門番・牢番あるいは 雑役に従事する人を加えたとしても、倉敷代官所に勤務する者の総数は 30 人を超えるこ とはなかった。この時点での管轄地約7万石は、同じ規模の藩領であれば500人以上の武 士たちが支配していたはずである。・・しかも、代官以下、下役人の異動も頻繁に行なわれ たのである。・・・広域にわたって管轄地が分散し、少ない役人しかいない代官所で、どう して効率的に行政を行うことができたのだろうか。・・・18 世紀半ばころから、全国の幕 府領で、村々が連合し始める。これを組合村と呼ぶ。この組合村では、代表となる庄屋(惣 代庄屋と呼ぶ)を選び、彼らが集まって「郡中」という組織を作る。・・・惣代庄屋たちが 集まって運営をするようになると、一種の自治的行政組織のようになる」というように、

中間的・自主的な行政・支配機構が存在していたことが示されているのである 55)。また、

「少なくとも 18 世紀後半以降の倉敷代官所管下の幕府領は、郡内各村庄屋の合議制に裏 付けられた郡中惣代庄屋たちによって自主的に運営され始めていたと評価することができ る」という見解56)を含めて当時の状況を総合すると57)、村々のまとまりである組合村から 惣代庄屋が選出され、全体に関することを共通で負担・解決しようという動きがなされて いたこと、各郡内村々の庄屋による合議制が既に採用されており、各村の意向が集約され る形で、代官所から委任された行財政・地方行政が支えられていたと判断することができ る。

つまり、自分達の生活とその場である地域を、人任せにするのではなく、また、権力に よって支配されるのではなく、合議制に基ついて、自主的に、自分達でコントロールする、

といった「民」による参加型共同体運営が倉敷では早くから行われていたのである。「民」

と地域を重視する視点があったと言えそうである。

孫三郎の「民」重視と地域重視の姿勢は、父、祖父を遡る家系から受け継いだ影響も大 きいとは思うが、孫三郎を含めてのその家系が受け継いできた影響の中には、倉敷のこの ような風土が大きな要素となっていることは否定できないだろう。

おわりに

このように、石井十次との出会いが一つの大きな転機となった大原孫三郎の場合にも、

(15)

石井十次と日向高鍋−第Ⅱ部付論‐の例で示したように、「地域の風土が人を育て、後の行 動を規定する」、ということが言えると考える。「自分たちの町を良くしていくには、みん なでレベルを上げていかなければいけないよ、という孫三郎の思いがあったのだと思いま す」との見解を孫三郎の孫の大原謙一郎氏は示している58)が、この考え方は、自分達の手 で自主的に倉敷という自分達の生活の場を暮らしやすくする努力をする、関わっていく、

或いはこだわっていく、という、まさに倉敷の風土による強い影響だと考える。謙一郎氏 はまた、この地域重視という姿勢と密接な関係を持ち得る観光ということについて、「観光 ということを考えるとき、お金のために文化を歪めるということは好ましくない。つまり、

観光客のニーズに合わせるために町の行事を劣化させてはならないのである。あくまでも 生活者のため、市民のため、という視点を失うことなく、品質と生活感を維持、そしてア ップしていった上での観光でなくてはならないと思う」ということを重要点として喚起し た59)。観光というものは地域のアイデンティティにこだわる、即ち地域重視ということに 直結するものであるが、それは、そこの生活者の視点で生活者のために活動することだと いうのである。この謙一郎氏の考え方の底流にある、生活者重視の視点は、孫三郎に対し ても潜在的に影響を与えた、倉敷の歴史的風土が現在も脈々と続いていることの現われだ と考える。

倉敷の風土を受け継いだ倉敷の「民」として孫三郎は、倉敷という「場」から次第に社 会という「場」へも視点を拡げながら、人間や「民」という視点を重視して、社会支援事 業を民間人の立場からリーダーシップを発揮して手がけていった。しかし、倉敷を越えて 社会という「場」、日本を越えて世界の平和を希求しようとした 60)孫三郎ではあったが、

上述したような倉敷の風土を受け継いで、最後まで倉敷という地域にこだわって活動を行 った。活躍の「場」の空間的拡がりを経験した人は、かつての振り出し的な小さな「場」

について、心中は顧みているのかもしれないが、その「場」での活動に戻らない場合も多 いと思う。しかし、大原孫三郎の場合も、石井十次の例と同じように、倉敷という歴史的 風土に培われた特徴が「核」となって社会支援事業実践の土台を形成していたと考える。

この「核」となっていた、倉敷という地域重視の姿勢は決して崩れることはなかった。明 治末から大正にかけて、様々な支援活動を行ってきた孫三郎が、昭和初期に行った柳宗悦 等による地域重視の民芸運動への支援61)は、そのことを裏付ける活動の一つだったと考え

(16)

るのである。

(1)猪木武徳氏は、松方幸次郎、大倉喜八郎、嘉納治兵衛、根津嘉一郎の名を挙げて、企業 家の個人趣味による絵画コレクションが日本でも少なくないことにふれた。その上で、

「実業家の個人的な愛好のためではなく、富や権力の誇示のためでもなく、現代流に表 現すれば『企業メセナ』として大原美術館は誕生した」と説明している。また、「大原美 術館の場合、大原の援助を受けた児島虎次郎という画家の鑑識眼を通ったコレクション であることが一つの特徴」だとも同氏は指摘している(猪木武徳「やさしい経済学−ニッ ポンの企業家 大原孫三郎 3企業メセナ」『日本経済新聞』2005年12月19日)。

    尚、松岡智子氏は、松方幸次郎の美術館構想と孫三郎の倉敷「文化都市構想」とを比 較考察している(松岡智子「倉敷における『文化都市構想』と大原美術館」倉敷市史研究 会編『倉敷の歴史−倉敷市史紀要』第12号、2002年、1−9頁)。

(2)「柳宗悦の民芸運動の先駆的事例として、山本鼎の『農民美術運動』や宮沢賢治の『羅 須知人協会』の実践及び農村芸術の構想などが紹介されることは少なくない。或いは、

徳川義親の『農村美術運動』もここに加えることができるであろう。それぞれの方法で 農民による手工芸生産をプロデュースしようとした」(濱田琢司「地域からの実践という 批判軸−三宅忠一試論」熊倉功夫・吉田憲司編『柳宗悦と民藝運動』思文閣出版、2005 年、297頁)。山本鼎は、大正8年に欧州留学から帰国後、信州に日本農民美術研究所を 設置して農民美術運動を行ったのだが、上述のもの以外にも工芸推進の動きはあった。

「工業化・機械生産の並みの中におぼれようとしている伝統工芸の危機を感じた」東京 美術学校教授の岩村透も大正2年から4年にかけて地方美術の振興を小論で呼びかけて いたのであった(出川直樹『民芸−理論の崩壊と様式の誕生』新潮社、1988年、18−20 頁)。

(3)倉敷の民芸や孫三郎が濱田の素朴で力強い作品に傾倒していった様子などについては、

大原孫三郎伝刊行会編『大原孫三郎伝』中央公論事業出版、1983年、322−5頁を参照。

倉敷の酒津焼、その後援、及び倉敷文化協会などの詳細については、倉敷市史研究会編

『新修倉敷市史』第5巻、近代(上)、山陽新聞社、2002年、852頁;同上、第6巻、近

(17)

代(下)、2004年、459−464,481頁を参照。

孫三郎の勧めで、昭和7年の夏に倉敷で展覧会を開催した濱田庄司は、接した倉敷の 人々の「和して同せずというような交わりが見るからに好ましかった」と明かしていた (濱田庄司『無盡蔵』講談社文芸文庫、200年、140頁)。濱田は、焼物の勉強をしていた 小山冨士夫の紹介で、黒釉の面取共手の土瓶を孫三郎の主治医、三橋玉見に送った。そ れを孫三郎が目にし、濱田の近作を要請する書簡が孫三郎から送られてきたことから交 流が始まったようである(同上、279−80頁)。

また、濱田を介しての孫三郎と柳宗悦との出会いの時期−昭和7年だという従来の説

−について、小畠邦江氏は、それより遡る大正15年であっただろうと推察している(小 畠邦江「柳宗悦と倉敷−大原孫三郎との出会いを中心に」熊倉功夫・吉田憲司編『柳宗 悦と民藝運動』)。

(4)柳達は、孫三郎の子息、總一郎とも交流があった。1961年5月3日に亡くなった柳は、

それより数日前に、總一郎夫妻と約束をしており、その 30 分前に意識不明に陥った。

柳は朝から總一郎夫妻のために「館長室の床にはメキシコの壺に牡丹の花を活け、菓子 は何にしようかなどと配慮」していたらしい。總一郎は、柳の日本民芸館葬儀の葬儀委 員長、その後の日本民藝協会会長を務めた。また、日本民芸館の館長には濱田庄司が就 任した(大原總一郎『大原總一郎随想全集』第1巻、福武書店、1981年、190−200頁;

井上太郎『大原總一郎−へこたれない理想主義者』中央公論新社、1998年、217頁)。

(5)柳、濱田の紹介で1935(昭和10)年2月には英国の陶芸家、バーナード・リーチが倉敷 を訪問した。リーチは、大原美術館の見学、大原家の古美術品の鑑賞、倉敷商工会議所 での展覧会開催などを行っていた。展覧会終了後には招待晩餐会が開催され、その席で リーチは、柳宗悦が切望している日本民芸美術館設立は緊要であるとの説を展開した。

この考えに孫三郎は強い感銘を受けたようである(大原孫三郎伝刊行会編『大原孫三郎 伝』324−5 頁)。この直後、孫三郎は経済的に厳しくなるが、約束を守り、大原美術館 初代館長の武内潔眞が寄付を3回に分けて直接届けた(小畠邦江「柳宗悦と倉敷−大原孫 三郎との出会いを中心に」328頁)。

    猪木武徳氏は、1927 年の金融恐慌、その 3 年後の金解禁などに伴い、綿業・紡績業 も例外なく深刻な不況に苦しんだが故に、孫三郎も社会・文化事業への出費を抑制せざ

(18)

るを得なくなっただろうと推察している。その上で、孫三郎が「私財を注ぎ込んで社会 貢献事業を守ろうとしたこと」を重要な点であるとして特筆している(猪木武徳「やさし い経済学−ニッポンの企業家 大原孫三郎 7 不況時の対応」『日本経済新聞』2005 年 12月23日)。

(6)柳宗悦『柳宗悦全集』著作篇第16巻、筑摩書房、1981年、724頁。

(7)同上、87,177,62頁。

(8)ラフカディオ・ハーンは、日本の高級な美術品のみならず、露天で売られていた大黒、

天神、布袋、恵比寿などの宗教的意味を持った玩具やその他の安価な日本の玩具を美し くて示唆に富んでいるものとして、深い感慨をもって眺めた。ハーンも名もない職人の 手仕事作品に美を見出していたという。このようなハーンと柳の民芸論を比較したもの に、大東俊一「ハーンと柳宗悦」『ラフカディオ・ハーンの思想と文学』がある(彩流社、

2004年)。

    また、学習院の先輩後輩の関係で(柳が6 つ年下)、共に『白樺』に携わった志賀直哉 と柳宗悦の美意識などを比較したものに、呉谷充利『志賀直哉、上高畑の「サロン」を めぐる考察−生きられた日本の近代』創元社、2003 年がある。志賀は 55,6 年の交流 を振り返り、近所で生活した我孫子時代には毎日会っていたが、「不思議に柳と私は一度 もけんかをしたことがない。・・・その後、親類となり、いま、共通の孫が三人ある」と 語っていた(『志賀直哉全集』第10巻、岩波書店、1999年、87頁)。志賀の三女・万亀 子と柳の二男・宗む ねも ととの結婚により両者は姻戚になっている。尚、「これまで、柳と志賀 との關係はあまり重視されてこなかったが、志賀が柳に先行していろいろと影響を与え たかにみえる軌跡をたどる」ことを指摘した松井健氏は、「白樺同人のなかで、おそらく もっと早く東洋への回帰をおこなったのは、志賀直哉であったと思われる」との見解を 示している(松井健『柳宗悦と民藝の現在』吉川弘文館、2005年、23,37頁)。

    さらに、「ハイデガーの技術論と柳宗悦の民芸論」を比較して、「どちらも技術と芸術 の微妙なふれあいのなかに成り立っている。・・・技術に芸術の判断基準を持ち込んでい る」との見解を示している論考も存在する(加藤尚武編『ハイデガーの技術論』理想社、

2003年)。

(9)柳宗悦『柳宗悦全集』著作篇第10巻、1982年、7頁。

(19)

(10)同上、著作篇第16巻、81頁。

(11)同上、著作篇第10巻、76頁。民芸運動には、「民衆」概念を浮上させた大正デモクラ シーの潮流も大きく影響していると思われるが、柳は「併し民藝論は時代に左右されて 起つたのでもなく、又時代に左右される理論ではない。私達の主張を美の領域に於ける 民主々義と呼んで貰つても差支へないが、併し民主々義時代だから、民藝論を組立てた のではない。ましてそれに迎合させようとして主張するのではない。之とは逆に寧ろ時 代が民藝論を肯定せざるを得なくなつて來たのである。なぜなら民藝論を離れて、美の 世界における民主々義は不可能だからである」と時代性について語っている(同上、24 頁)。

(12)美術と工芸について、柳は、「モリスWilliam Morris以降、造形美の領域は、『美術と 工藝』’Arts and Crafts’と云ふ二つの言葉に分離され、又『藝術家』’Artist’に對し『職 人』’Artisan’と云ふ言葉を對峙的に用ゐるやうになりました。見る美術と用ゐる工藝と は格が違ふと考へられました。もとより人々の尊敬を集めてゐるのは美術家の作る美術 品です。併しこゝに注意しなければならないのは、是等の對立する言葉は歴史が未だ淺 く、古くは同一の意味があつたのです。Art もCraft も共に技能 Skillを意味し Artist もArtisanも共に工人’Artsman’を意味しました。併し近世に於て個人主義が美の領域を 支配するにつれ、其の間に漸次區別が出來、工藝に對して美術は上位にあり、又職人に 對して藝術家は高い階級を獲得するに至りました」と歴史的な説明を行っている(同上、

著作篇9巻、1980年、263頁)。

ジョン・ラスキン(1819−1900)などの思想に基づいて、ウィリアム・モリス(1834−

1896)が先導した19世紀後半から20世紀初頭にかけてイギリスで展開された「アーツ・

アンド・クラフツ運動」については、デザイン史フォーラム編(藤田治彦責任編集)『ア ーツ・アンド・クラフツと日本』思文閣出版、2004年などを参照。

また、美術ということに関連して言うと、日本では、「美術という言葉や概念自体、明 治以後に使われるようになったもの」であり、「日本美術史の基本的な枠組みは、明治政 府のお雇い外国人教師であったアーネスト・フェノロサやその弟子の岡倉天心らによっ て、明治時代を通して徐々に形作られた」(矢島新・山下裕二・辻惟雄『日本美術の発見 者たち』東京大学出版会、2003年、4頁)。

(20)

(13)貴族的美術品と民芸的工芸の相違を柳は、次のように指摘していた(柳宗悦『柳宗悦全 集』著作篇第9巻、98,266頁)。「一つは貴族的な品物で、少数の富者の為に作られる もの。・・・一方是とは性質が逆な民衆的作物が眼に映ります。一般公衆の為に備へるも の故、多量に又廉價に作らねばなりません。それには簡單な手法や工程をいつも必要と します。のみならず用途を眼目とするので出來るだけ不要な装飾を省かねばなりません。

其の結果必然に質素な又單純な性質を有つものが多くなります」、また、「工藝品は美術 品よりも、もつと多く社會的意義を有する・・・。美術品は少数の才能ある美術家達が 少量に作る製作に外なりません。従って高価であつて、購ふ側も少数の金持に限られて くるのです」と。

    尚、第 9 章で孫三郎と比較考察した武藤山治も日本固有の美術工藝品の衰微を嘆き、

その奨励を行っていたのだが、武藤が考えた「美術工藝品」とは、「總て金錢で賣買され るもの」であった。そのような武藤のが美術工藝品を奨励した理由は、柳などとは異な り、経済の活性化にあった。「経済困難に面して居るとか、國民が恐怖の念を抱いて居る」

といわれるが、「日本は固有の美術工藝品を奨励し、生糸や絹織物の改善發達に力を入 れゝば、別段悲観することは少しもない」と武藤は考えた。なぜなら、大量生産に行き づまった感はあるが、「美術品は生産過剰の恐れがない」のであって、「日本の美術工藝 の發達に依つて、日本といふものが經濟的に處する途は充分にあると思つて居る」、「發 展さへすれば大なる利益がある」と武藤は確信していたためであり、そのためにも「日 本も美術工藝品の官營陳列所を拵へねばならぬ」と主張していた(『武藤山治全集』増補、

新樹社、1966年、105‐11頁)。

(14)柳宗悦『柳宗悦全集』著作篇第10巻、23頁。

(15)民芸学と民俗学の共通点については、この後の本文で触れているが、両者の相違点に ついて柳は、民俗学が『経験学』であり『記述学』であることに対し、民芸学は『規範 学』であり、『価値学』だという見解を示している。柳田国男との対談でも、「かく在る あるいはかく在つたといふことを論ずるのではなくて、かくあらねばならぬといふ世界 に蠋れて行く使命があると思ふのです。さういふ點は民藝と民俗學はちがひます」と柳 は語っている(同上、738 頁)。つまり、民俗学は、経験する事実をただ述べているに過 ぎないが、民芸学には、一定の標準に照合した上での価値や批判が与えられている、と

(21)

いうのであった(同上、著作篇第9巻、273−4頁;著作篇第 10巻、5頁)。ここで柳が 言及している民芸学の一定の標準とは、健康で尋常な美的価値を指す。

(16)同上、著作篇第9巻、273頁。

(17)柳の地域重視の姿勢とは主として地方文化・自然重視を意味するのだが、「併しさうか と云つて、都市に民藝が乏しいかといふと、又別の原因が働いて、様々な佳い品が生産 されました。之は日本のみならず外國でも同じ現象が見られます。・・・併し都市の中で、

何と云つても工藝の技が最も榮たのは京都と、江戸(東京)との二大都市でありまし た。・・・人口がこゝに最も多く集中され、從つてその生活に應じる各種の工藝が榮えた のは當然でありました。都市に色々な仕事が集るのは、一つには需要者が多いのと、購 買力を持つた人々の多いのにも依ります。以上の二大都市のうちで、江戸は明治になつ て東京と改まるや盛に西洋の文化を取入れたため、傅統的なものは古くさいものとされ、

流行から後れ、幾多のものが早く廢れました」というような意見も柳は有していた(同上、

著作篇第10巻、87−9頁)。

(18)同上、21頁。

(19)同上、著作篇第9巻、59−60頁。

(20)同上、著作篇第10巻、26頁。

(21)同上、18頁。近代国家づくりの過程で明治政府をはじめ多くの要人が「洋才」に囚わ れていった中、柳は、「なぜ日本人は日本自身の美學を新しく切り拓くことが出來なかつ たのであろうか。想ふに東洋的な美的體驗に根差さずして、只西洋流な學問的知識から、

見方を構成しようとしたからではないであらうか。だが知ることに依つて見ようとする 立場には大きな缺陷がある。若しもつと直観的立場に立つてゐたら、西洋流な考へをそ のまま踏襲せずにすんだであらう。さうしてもつと権威を以て、日本人としての見方を 披瀝することが出來るたであらう」と強く思っていた。つまり、柳にとって、当時の日 本の美術や芸術は、西洋からの影響を多大に受けた、西洋の亜流のものとしか映らなか ったのである。利点も少なくはないが、日本的・東洋的伝統という面からみた損失はか なりのものがあったと柳は考えていたのであった。そして、「民藝運動は借り物ではない。

況んや焼き直しではない。・・・獨自な仕事」であると主張され、日本流・伝統を重視し て展開されたのが、民芸運動だったのである(同上、5頁)。

(22)

(22)同上、著作篇第9巻、224頁。

(23)同上、80頁;著作篇第10巻、7頁;著作篇第9巻、70頁。

(24)同上、著作篇第16巻、184頁。

(25)同上、著作篇第9巻、55頁。

(26)柳宗悦が広めようとした民芸運動を現代の枠組みからとらえた場合の問題点も次のよ うに指摘されている。「伝統的な天然素材と伝統的な手仕事はたとえ地方といえどももは や現代の民衆の生活現実からはすでに遊離した特別のものでしかなく、それに忠実に従 って作られる製品はむしろ貴族的な高級品でしかありえないという実状とともに、一方 では民芸趣味に迎合した技術的にも不誠実で表面だけを民芸風に仕立てた俗悪な製品が 地方の土産物店や都会のデパートの民芸コーナーに溢れているのである。どちらの場合 も民衆の生活に誠実に根差したものとは言い難く、柳の民芸論の理想からは遠く隔たっ たものでしかない。・・・柳宗悦の民芸思想の本質を単に手工芸のみへのこだわりにおい てとらえるのではなく、現代の人々の生活の中に健康な美を甦らせようというその意志 においてこそとらえるならば、今日の民芸運動はより広い視野の下に多くの矛盾を解決 することができるであろう」と(平山敬二「柳宗悦の民芸思想とその位置」神林恒道編『日 本の芸術論』ミネルヴァ書房、2000年、342頁)。

  また、「民」や地域重視という特徴以外ではあるが、柳に対して次のような批判も存在 する。「彼の木喰に対する解釈が正しいかどうかという問題に立ち入るとき、われわれは 大きな疑問を感ぜざるをえない。なぜなら、柳の描いた木喰像は、あまりにも一般的な 宗教的行者としての木喰像であった。・・・私はこの柳の木喰像に白樺的木喰像を見る。

釈迦も、キリストも、ソクラテスも、教義の別なく、すべて偉大なる人間として尊敬す る人道教とでもいうべきもの、歴史的個体性より、普遍的一般性を尊重するあの白樺的 宗教観」「要するに、柳もまた宗教的痴呆化という明治以来の日本人のおちいった共通の 運命の犠牲者であった」と。(梅原猛『美と宗教の発見』ちくま学芸文庫、2002 年、98

−9,104)。

(27)出川直樹『民芸−理論の崩壊と様式の誕生』、41−43,49頁。

(28)中見真理『柳宗悦−時代と思想』東京大学出版会、2003年、143頁。

(29)この段落での濱田氏の見解については全て、濱田琢司「地域からの実践という批判軸

(23)

−三宅忠一試論」298頁を参照。

(30)伊藤徹『柳宗悦−手としての人間』平凡社、2003年、48−9頁。

(31)平山敬二「柳宗悦の民芸思想とその位置」333頁。

(32)小畠邦江「柳宗悦と倉敷−大原孫三郎との出会いを中心に」327頁。

(33)武田清子『私の敬愛する人びと−考え方と生き方』近代文芸社、1997年、49頁。

(34)中見真理『柳宗悦−時代と思想』17頁。

(35)『日本美術の発見者たち』7,30頁。

(36)松井健『柳宗悦と民藝の現在』225頁。すぐ後に続く松井氏の見解も同頁を参照。

(37)M.W. スティール『もう一つの近代』ぺりかん社、1998年、328頁。

  柳宗悦は、意図しないまでも、帝国主義に基づいた朝鮮支配の片棒を担いだと批判さ れることもあるが、柳は帝国主義・軍国主義の時代にあって、迎合しなかった方だと思 われる。そのことを鶴見俊輔氏は、次のように語っている。「白樺派の中で、ほとんど一 行も軍国主義賛美の文章を書かなかったのは、二人います。落第生で放蕩者の同級生里 見弴と、柳さんだけなんです。あとの人は何らかの仕方で軍国主義と妥協してます ね。・・・軍国主義の世の中になると、いくらか妥協するようになるんですね」と(『鶴 見俊輔集 2』筑摩書房、1991 年、382 頁)。また、柳は、学習院の高等科だった頃に、

院長の乃木大将を前にして、『軍国主義はつまらない。軍人は大したものではない』と演 説をし、放校されそうになったこと、「柳さんにとっては、人生に対する忠実、それが重 大なんです。その忠誠心をもつことが、政府への忠誠よりもはるかに重大」であること にも鶴見氏はふれている。このとき放校にならずにすんだのは、ドイツ語教師だった西 田幾多郎が止めたおかげだということである。「柳さんは早くから主席できて、最後に恩 賜の銀時計をもらってるんですが、それでも放校されそうになった。その時に西田幾多 郎が立って止めたんですね、放校を。それをあとで聞いて、柳さんは感謝しています」

と鶴見氏は明かしている(『鶴見俊輔集2』380頁、『鶴見俊輔集続4−柳宗悦・竹内好』

2001年、28)。

(38)M.W. スティール『もう一つの近代』350頁。

(39)柳宗悦『柳宗悦全集』著作篇第10巻、7頁。

(40)大原孫三郎伝刊行会編『大原孫三郎伝』333頁。

(24)

(41)『大原總一郎随想全集』第1巻、71頁。この倉敷という土地に執着しすぎたという孫 三郎の姿勢について、前田昌義氏は、「倉敷という地方に腰を据えて事業展開したことこ そが、大原の多彩な活動を生み出したのではなかろうか。地方に腰を据えて活動してい れば、その地方の名士として、さまざまな活動に関わらざるをえない。地方の商家・大 地主の当主として、地域の要請にも応えながら活動していったことが、大原の多彩な活 動を生み出しているといえよう」との見解を示している(前田昌義「紹介 大津寄勝典著

『大原孫三郎の経営展開と社会貢献』」『岡山地方史研究』104号、岡山地方史研究会、

2004年、19−20頁)。

(42)①〜⑥は大原孫三郎伝刊行会編『大原孫三郎伝』70−1,100,148−50,165,221−

2 頁、⑥の後半、及び⑦は上田恭嗣『アール・デコの建築家 薬師寺主計』山陽新聞社、

2003年、37,24頁を参照。

(43)大原孫三郎伝刊行会編『大原孫三郎伝』55−6頁。

(44)同上、45頁。

(45)同上、58,181頁。

(46)『大原總一郎随想全集』第1巻、91,100−1,108頁。

(47)『薬師寺主計』167頁。

(48)濱田庄司は、孫三郎の東京滞在中、「招かれて宿へたびたび伺ったが、あるとき文化事 業のため必要の寄付を願いに来られた方に大原さんは『私はいいことばかりに金を出し ているのとは違う』とはっきり断られた」というエピソードを披露しているが、これも 孫三郎の直観・直感を物語っているのではないかと想像する(濱田庄司『無盡蔵』281頁)。

    尚、孫三郎の「63 ヵ年の生涯のうち、1897 年から 1942 年にいたる間に果たした寄 付・寄贈・助成など、多くの社会貢献の実績を総括」して一覧表にまとめた大津寄勝典 氏は、「総計は 45 年間に 136件、488 万円」とまとめている(大津寄勝典『大原孫三郎 の経営展開と社会貢献』日本図書センター、2004年、351,354−60頁)。

(49)第8章の注(41)では、倉敷の人々の気質をよく体現しているものとしての「倉敷義倉」

についてふれた。この倉敷の義倉については、『新修倉敷市史』第4巻、近世(下)、2003 年、218−243 頁;小野敏也「倉敷村の『続義倉』について」倉敷市史研究会編『倉敷 の歴史−倉敷市史紀要』第12号、103−8頁なども参照。

(25)

尚、孫三郎と倉敷を考えるに当たって、別の事例でまずは検証してみようと思った。

そこで、孫三郎が生涯敬愛した石井十次と日向高鍋−孫三郎の強い勧めもあって十次が 晩年に移住した十次の故郷−を例にとり、付論、「石井十次と日向高鍋」をまとめた。そ こでは、地域の風土が人を育て、その人の一生を規定するベースとなりうること、その 地域にしか持ち得ない色彩を放つ可能性を有していることを示した。

(50)『新修倉敷市史』第4巻、168頁。

(51)「農商布告」は、鳥羽伏見の戦い直後の慶応4(1868)年1月10日に布告された(同上、

第5巻、37頁)。

(52)幕府直轄地は年貢が軽く、それ故に、商業・経済が発達・繁栄しやすかった、と言わ れることもある。しかし、「必ずしもそうばかりではない。倉敷村では本村の本田畑への 本途物成(本年貢)は、貞享から正徳期にかけて、0.640から0.740の割合で、六公四民・

七公三民にあたる。享保期、定免法のもとでも、0.656から0.702の割合で変わらない。

宝暦12年(1762)には、0.719で、幕末の天保5年(1834)にも0.713である。決して低く は無い。その一方、新田の年貢率は低い、しかし、これも他領と同じようであり、幕府 領だけが特に低いとはいえぬ。小物成・高掛物も平均の年貢率である。ただし、国役・

夫役がないのは特色である。この点で幕府領はいくらか負担が少なかったといえよう」

との見解が示されている(『新修倉敷市史』第3巻、近世(上)、2000年、253頁)。

(53)同上、第4巻、25頁。

(54)久留島浩『近世幕領の行政と組合村』東大出版会、2002年、91頁。

(55)『新修倉敷市史』第4巻、178−80頁。倉敷の中間支配機構について考察したものに、

山本太郎「倉敷代官所の中間支配機構」倉敷市史研究会編『倉敷の歴史−倉敷市史紀要』

第8号、1998年、32−52頁がある。

(56)『新修倉敷市史』第4巻、217頁。

(57)同上、208−9、214−6頁。

(58)大原謙一郎「近代経営の旗手・大原孫三郎」モラロジー研究所出版部編『[対談集]世界 に誇る日本人−21世紀に伝えたい日本の心』モラロジー研究所、2001年、259頁。

(59)大原謙一郎氏が2005年11月26日に早稲田大学日本地域文化研究所の研究会で「地 方の文化と国の再生−神戸生まれ京都育ちの倉敷人の視点から−」と題して行った講演

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