第 11 章 大原孫三郎と渋沢栄一の協調観
はじめに
平和や戦争、難民問題、環境問題、南北問題など、これまで以上に深刻な地球レベルで の問題に各国民国家は直面している。このような地球規模の問題に対しては、各国が協調 していかねばならないことは明らかである。2004 年 6 月に開催された主要先進国首脳会 議(シーアイランド・サミット)についての新聞報道には「協調」という文字が繰り返し使 用されていた。個人間には個人間の、地域社会には地域社会同士の、また国家には国家同 士の利害の対立が往々にして生じてしまう。しかし、地域社会の一員であり、国民国家の 一員であり、また同時に国際社会の一メンバーである限り、我々には、協調が−どのよう な協調が必要であるかについては議論が分かれるところではあろうが−必要不可欠であろ う。
また、日本国内に限って目を向けてみても、我々は現在、年金などの生活経済問題や少 子高齢社会化などによる社会構造の変化に直面している。明治維新以降長期にわたって続 いてきた国家や官僚に主導される生活から一転して、最近では、自分達を取り巻く問題を 自分達自身のものとしてとらえ、問題を可能な限り多様的に改善していこうとする動きが 盛んになってきている。今や地球レベルでは非政府組織(NGO)、国内的には非営利団体 (NPO)などによる民間活力が活性化してきており、「民」と「官」や国と国とのパートナー シップ・協調はとても重要なものとなってきている。そこで、本章は、このような状況を 鑑み、協調について考察を行うことにした。
第 10 章では当時の社会・慈善事業観に目を配りながら、民間力を発揮した先駆者、大 原孫三郎と渋沢栄一を比較し、両者から学ぶ点を考察した。その際には、渋沢の養育院を めぐる動きを考察対象例として取り上げた。そして、人間の心や道徳と科学技術や経済の バランスが崩れている今日、孫三郎と渋沢に見受けられた側面−共生的側面プラス市民社 会的側面での働きかけ・活動−を顧慮することは有意義だろうとまとめた。この前章に続 いて本章は、近代国家づくりの過程にあって、この2人の福祉実践の先駆者たちが「協調」
をどのようにとらえていたのかを考察・再評価する。この際、渋沢が副会長を務めており、
官製的ととらえられていた財団法人協調会の協調主義を一つの基軸とする。
最終的には、渋沢と孫三郎の協調観から、現代のわれわれが学ぶこと、評価することが 可能な今日的な協調観の再構築を試みる。大原孫三郎や渋沢栄一の先駆的な福祉実践者た ちの協調観を再検討した結果として、現代に求められている協調につながりうるエッセン スを両者の協調観を中心にして抽出することを目標とするものである。
尚、協調会の労働組合論や事業・活動内容、および職員について分析した研究は他に多々 存在すること、また、本章は、大原孫三郎と渋沢栄一の協調観を考察対象とすること故に、
専門外のコーポラティズムといった労使関係史的な分析や協調会の詳細な活動、及び渋沢 亡き後の産業報国運動との関係などについてはふれないことを予めことわっておく。
1.協調会とその協調主義 (1)「協調」について
まずは、協調会についてふれるまえに、ここで問題にする協調という概念について整理 をしておこう。前述したシーアイランド・サミットや米国大統領選挙などに関して「協調」
を配した新聞記事 1)から、筆者が「協調」概念と密接な関係をもつと思った文言を拾い上 げると、「連携」、「和解」、「諸問題解決のため一致団結して」、「歩み寄り」、「対立は望んで おらず、双方が衝突を避け」、「譲歩」、「価値観の押しつけを警戒し」、「勝ち負けが目的で はない」、「決意をもって話し合いにのぞみ、全体として理にかなったプラスの結果を生む」、
「違いは克服できる」、「関係強化」、「結びつきを強めなければ長期的に安定して」、「協力」
というものが存在した。その一方で、記事中から「協調」とは相容れないと思われる文言 を抜き出してみると、「妥協」、「圧力・強硬路線」、「・・・と距離を置くような民族的な姿 勢」、「こわもて路線で冷たかった」というようなものが存在した。そこで、筆者は、これ らの文言を手がかりに、現代に求められている「協調」を「利害の対立した者同士が、対 立や衝突を前提として諦めるのではなく、短期・長期的に合理的なプラスの結果を目指し て、対等に且つ、派閥や党派、属性に囚われることなく、納得のいくまで話し合い、双方 の価値観を十分考慮・理解した上で、当事者の主張、譲歩、調整の結果として、相互の問 題を穏やかに連携して、解決していこうとする姿勢」というように整理してみた。このよ うな要素が渋沢と孫三郎の協調観には存在するのだろうか。
(2)これまでの協調会研究
渋沢栄一が副会長を務めた協調会は、1919(大正 8)年に当時の床次竹二郎内務大臣の主 唱によって設立された労資協調を意図した団体である。この協調会は、社会運動史上に於 いて、「半官半民で政府のひも付き団体」であるとか、「産業報国会の生みの親」などとい うように、一般的にマイナスのイメージでとらえられることが多かったためか、体系的・
本格的な研究はそれほど行なわれてこなかった。
しかし、最近になって状況は変わりつつあるようである。このような変化を示す一つの 例は、法政大学大原社会問題研究所の協調会研究会による研究活動である。同研究会メン バーである梅田俊英氏、高橋彦博氏、横関至氏は、大原社会問題研究所の地下書庫に保管 されていた協調会本部の資料の調査、研究、整理を開始し、これまでのステレオタイプ的 な協調会の負のイメージとは異なる分析・研究成果を『大原社会問題研究所雑誌』2)に投 稿した。さらに、それらの研究結果を発展させて、2001 年 2 月には高橋彦博氏が『戦間 期日本の社会研究センター−大原社研と協調会』を、その2年後の2月には高橋氏を含む 前述の協調会研究メンバーが『協調会の研究』を出版し、協調会がまったくの負の存在で はなかったことを明らかにした。このような研究に対しては、「これまでどちらかというと 避けられてきた題材に本格的に取り組んだ書として、その価値は計り知れない」というよ うな評価も出された 3)。今後も様々な角度からの協調会分析がさらに進むのではないかと 思われる。
(3)協調会の設立とその背景
明治時代の日本は西欧の帝国主義の脅威の下、富国強兵と殖産興業を合言葉に近代化と 資本主義化を図っていった。第9章でもふれたが、政府の保護を受けながら出発した日本 の近代産業は、日清戦争と前後して、その基礎を固めた。その背後には、「原生的労働関係」
の問題が潜んでいた。日本の資本主義体制は、日露戦争によって、資本の蓄積と独占化を 進め、物価は高騰し、民衆の生活や意識には大きな変化が現われ出した。第3章で地方改 良運動を考察した際にもふれたが、日露戦争後の一等国民という意識の芽生えによって、
浮かれ驕りや奢侈、金満主義、利己主義が民衆の間に蔓延した。しかし、実際の民衆の生 活は、戦後も重くのしかかっていた戦費負担によって、苦しいものだった。産業が発展す
る一方で、労働者達の賃金は上昇せず、戦後不況が到来すると、都市に集中した労働者達 の生活苦は益々増大し、貧富の懸隔が拡大していった。そのため、労働争議、小作争議な どの民衆による運動が頻発した。その最たるものが1918(大正7)年の米騒動であった4)。 社会運動は、明治末の大逆事件をきっかけに下火となっていたのだが、ロシア・ドイツ の革命思想やデモクラシー思想が流入してくると、民主的風潮・権利平等意識は高まり、
労資の対立は激化した。労働争議や小作争議などの背後には経済的な苦難のみならず、思 想の変化も影響していたのであった。それまでは、貧者救済策として慈善事業を行い、労 働運動などに対しては治安警察法第 17 条で取り締まってきた政府・官僚も、もはやその ような慈恵・禁圧策では、海外からの過激な思想による影響に対応しきれないと考えるよ うになった。階級対立による体制の危機を回避する必要性に迫られた政府関係者は、積極 的な社会行政を確立し5)、国家の再建と国民統合を強化する方針を打ち出した。その1つ が、民衆の風俗改善、財政改良などを希求して「上」から遂行された地方改良運動であっ た。そして、また別の1つが、原敬内閣時の床次竹二郎6)内務大臣主導によって設立され た財団法人協調会であった7)。
(4)協調会の協調主義
「国家の施設すべきは之を施設し、事業主は労務者の人格を尊重して、・・・労務者亦自 ら修養鍛錬の功を積みて其の地位の向上を期し相共に反省奮励する所なかるべからず」と 設立趣意書にあるように 8)、協調会は、国・資本家・労働者の三者にそのあるべき姿勢を 説いていた。しかし、「発足時の協調会のそれは著しく曖昧なものであった。それは、八方 美人的に多方面からの参加をもとめたことと、資本家に醸金を訴える段階ではことさら慎 重な表現をとる必要に迫られたことによるものであろう」と池田信氏が指摘したように9)、 労資協調を宣伝・普及させるために設立された協調会の当初の協調観と事業10)方針は明確 ではなかった。そのため、公平を期すという協調観に疑念が持たれ、新聞などで批判を受 けた。実際、内務省史にも「協調会の設立は、かなりの意欲をもったものであったが、当 時の労働界におけるサンジカリズム的傾向は、協調会のような協調主義的・漸進的立場を 容れるようなものではなかった。一方、使用者の側でも、また世上一般にも、必ずしも十 分の理解が得られなかったのであった」と記述されている11)。それでは、異なる立場によ
って「協調」とはどのように見られていたのだろうか。
(5)鈴木文治の見解−労働者側
労働組合の友愛会12)会長の鈴木文治と以前から交流のあった渋沢栄一は、協調会の発起 人に加盟することを鈴木に要請した。しかし、鈴木は、6つの条件を提示して拒絶した13)。 鈴木が考える協調とは、その前提として双方に対等の実力が備わっていなければならない というのであった。資本家は、労働者の人格を認めず隷属視しており、一方、労働者の方 には、実力がまだ備わっていないというのである。このような非対等性を改めるためにも 労働組合法の制定が急務だというのが鈴木の第1の拒絶理由であった。また、第2の拒絶 理由として、協調を推進していく機関の運営資金や人材などが一方の当事者から集められ た場合には、真の公平なる協調は望めないと鈴木は指摘した。このような要件を満たして いない協調会は、労働問題を慈善救済問題として扱おうとするものであり、温情主義的な 救済団体を設立して労働組合の代用機関にしようとしているに過ぎないと鈴木は反発した。
鈴木など労働者側が求めているのは人間としての適切な扱いであり、権利の問題であった。
それを守旧的な主従観の温情という道徳関係を持ち出して、労働者を資本家の言いなりに させようとするのは時代錯誤だというのであった。それこそが労働者を対等に見ていない 証拠であり、欺瞞だと鈴木は非難した。
(6)床次竹二郎の見解−官僚14)側
協調会を構想し、主導したのは内相の床次であったことは前述したが、では、床次の協 調観15)はどのようなものだったのだろうか。まず床次は、労力を商品視するような守旧の 温情主義が誤りの源であることを認めた上で、「個性を発揮しているのであるから、互いに 個々の人格は認める、天井は床板よりも偉いと争っても仕方がない」と人格尊重に理解を 示した。さらに、労資とは、国家の見地からすれば、優劣はなく同一のものであるのだか ら、心を一つにして国家・社会のために尽すことが道理である。そのように考えると欧米 思想に追従するのではなく、天地宇宙の原則にかなった日本的考え−つまり協調主義−で 問題を解決していくべきであると説いた。真の協調とは因循姑息なものではないと床次は 主張していた。
(7)一般的財界の見解
それでは、多くの資本家はどのような協調観を持っていたのだろうか。一般的資本家は、
労働組合とは労資双方に、またひいては国家に損害を与えるものだと考えていた。資本家 達は概して、協調会の協調主義を家族的温情主義と同一ラインのものとして捉えていた。
日本の労資関係は、欧米のように冷淡なものではく、伝統的に情誼の厚い美風の下にある のだと資本家たちは主張した。資本家達は、日本の美風に従って、家族に施すのと同じよ うに企業内福利政策へ配慮を行えば、労働問題は解消できると考えていた。このような資 本家について、三輪泰史氏は、「労働組合法の設定をも見据えた革新的な官僚よりも守旧的 な観念をもっていた」と指摘している16)。デモクラシー思想や社会主義思想が普及した後 に及んでも、労働者を対等には見ない守旧的な温情主義をもっていた資本家たちは、協調 会に経営者団体的機能を期待していたところがあったようである17)。
(8)協調会宣言
このように、協調主義には、温情主義の影というものが常につきまとった。労働者側か らも資本家側からも、またジャーナリスト達からも協調会は批判をあびていた。そして、
設立から1年も経ずに、常任理事の桑田熊蔵18)、松岡均平、谷口留五郎が立て続けに辞任 するという事態が発生した19)。常務理事の桑田が辞任した背後には、桑田と協調会設立・
運営に尽力した渋沢栄一との間に協調観や運営方法に関する見解の対立があったことが指 摘されている。実際、渋沢も、「事業部長であった松岡均平博士が去って調査部長桑田熊蔵 博士が之れを兼務することになったが、同博士はこの事業部に重きをおかず調査部と合併 した方がいいとの意見である。併し私は事業部に重きを置いて居る・・・意見の相違を来 し、遺憾乍ら桑田博士の辞職を見るに至った次第である」と語っている20)。新常務理事に は、渋沢栄一のものとほぼ同一の協調観を持つ内務省地方局長の添田敬一郎21)が抜擢され、
この新常務理事22)就任に際して、大正9年11月11日に発表されたのが「協調会宣言」で あった。
この宣言の中で協調会は、「平等なる人格」と「人格の尊重」を根帯にもつ協調主義で、
調和融合を図っていくことを明確に示し、闘争主義や「現時の社会には協調の余地なしと
する絶望的思想」をはっきりと否定した。また、労働組合やその他の団体の組織に関して は、「之を健全に発達普及せしむることを希望する」という限定つきながらも認める方針が 示された。設立当初に発表した主義綱領や趣意書のみでは、「協調の本義」が正しく理解さ れていないと考えていた協調会は、この宣言によって、守旧的な温情主義とは異なる協調 主義を旗幟し、設立当初の桑田常務理事体制において批判を受けた協調主義の曖昧さを払 拭しようとした。しかし、その後も、労働者を懐柔しようとしている、というような批判 を協調会は受け続けた。また、資本家側からは労働者寄りとの見方をされるようになった。
2.福祉実践者の協調観 (1)渋沢栄一の協調観
床次内相をはじめ官僚主導であった協調会設立・運営に関しては、渋沢栄一の働きを見 逃すことはできない 23)。米川紀生氏は、渋沢の協調会への影響について、「床次構想で出 発した協調会構想が渋沢の労働問題観と闘争する中で両者折衷案として、そしてしだいマ マ に 渋沢理念の実現化過程として、協調会活動がとらえられる。このことは逆に協調会に於い て官僚構想の床次の労働問題処理法が脱落していく過程で」あったとの見解24)を示してい る。では、添田敬一郎常務理事体制下で出された「協調会宣言」に色濃く反映されていた 渋沢栄一の協調観の特徴とはどのようなものだったのだろうか。
ⅰ.温情主義の否定、時代の趨勢、進歩
「世間の御意見は大いに参考にするつもりであるが、只渋沢のやり方は、生温すぎると の批評に対しては、今遽に同感し兼ねるものである」25)と語った渋沢の協調観の中には、
今日の我々が学ぶべき面があった。その第1は、保守的な温情主義否定の姿勢である。確 かに、「是非温情を趣意としなければならない、温情と云ふ言葉は語弊を生ずるが、温情と 云つても、一方の者が一方に与へるものを云ふのではなく、私の温情と云ふのは互に温め ると云ふので、双方の情を以て事をすると云ふ意味にならなければ不可ない。即ち之が協 調である」26)というように、渋沢は協調観を説明するときに「温情」という言葉を使った こともあった。しかし、「第一に資本家の自覚を促さねばならぬと考へた。とかく資本家の 陥り易い偏見は、賃金を與へれは主人であり之を受ければ家来であると云ふやうな封建的
の観念である。・・・此舊い思想を打破することを最先の務としなければならない・・・資 本家と労働者との人格的協働が即ち産業である。・・・労働者の癖に怠けるとか、使用人の 癖に反抗するとか、つまり此『癖に』と云うのが根本の誤りである」27)という文言からわ かるように、渋沢が時には「温情」という言葉で表した協調とは、当時の財界人が依然と して有していた封建的な温情主義とは相容れぬものであった。「旧主従道徳は西洋文明の流 入と共に当然破壊されねばならぬ。・・労働者の生活は新しい不安を呼び起し、又新しい要 求に目醒めて来るのは、蓋し必然の結果と言はねばならぬ」28)と語った渋沢の協調観には、
時代の進歩と趨勢を見る視点が反映されていた。守旧的な見解を固持するのではなく、時 代と共に進歩し、要求されるもの、到来すべきものは当然そのように受け入れた上での協 調観であった。保守性を排除して協調主義をとらえた渋沢は、労働運動の禁圧的手段とな っていた治安警察法第 17 条や労働組合法の制定などについても、撤廃すべきものは早く 撤廃し、制定すべきものは早く制定すべきだという見解を持つようになっていった29)。
ⅱ.道徳、徳義、誠実
渋沢は、協調観を説明 30)する際に、「人間として互いに敬愛忠恕の心を以て相接するべ きであつて、此道を隅々まで行届かせるやうに施設するのが即ち王道であり、社会政策で ある」や「相愛忠恕の道を以て容易に解決可能、忠はまつすぐ、恕は思いやり・・・資本・
労働の問題に就て古風の学説を唱導するのはおかしいようであるが、どうしても孔子教の 基礎とする忠恕ということが両者の接触には必要である。これを行なえば必ず調和してい くに違いない。忠恕をもつて解決するならば、あいともに思いやるならば、意見の相違が 生ずることがあつても、合理的な穏和な論争にとどまつて反目や攻撃には至らずにすむ、
相和して、協同の幸福をうけるようになる」という表現を用いている。つまり、渋沢の協 調観の根源にも、東洋思想に基づいた人道・道徳・徳義主義があったといえよう。そして、
この特徴は、渋沢の誠実を求める姿勢にもつながっているのである。渋沢は、同盟罷業を 絶対否定はしなかった。資本家に落ち度がある場合には、止むを得ないという見解を示し た。しかし、サボタージュについては卑怯なものであり、「日本国民の尊重する武士道と、
全く氷炭相容れざる仕方である、真に男らしくない行動である」と断言している。また、
協調会が労働組合の代用機関とされる可能性については、「もし協調会が出来て、かえつて
労働組合を排斥する道具に使われるとすればそれは実に卑怯なやり方である」との見解を 示して否定した。
ⅲ.対等、中庸、双方の価値観を十分考慮、自己努力・責任、権利
また、渋沢は、「資本主側より見たる時は、協調会の態度は労働者の媚びるかに見え、労 働者側より見たるときは、何となく資本主を抑制するあまりに微温的であるかにも思惟さ れやう。しかし、それは各自の立場から偏して観たる時の協調会の姿であつて、協調会そ の物の本体は公平無私、一視同仁である」31)と主張して、労働者にも資本家にも偏らず、
公平、対等且つ中庸な立場の協調主義であることを事ある毎に説いた。この姿勢は、労資 双方の価値観を十分考慮した上で、両者の主張に公平・対等に耳を傾けるという渋沢の協 調観にもつながっている。「政府とも相談はするが、君等とも実業家とも大いに相談して、
意の在る所を交換し、偏せず党せず、最も公平なる見地に立って資本と労働の問題を解決 せんと策するものである」32)というように協調会のあり方を説明した渋沢は、労働組合否 認論が財界人の間では一般的に大勢であった際に、「資本家側の言い分は、労働者の自覚が 足りない、労働者側の主張の要点は、資本家は労働者を機械扱いにして、事業の利益は少 しも分配しない、労働者の解雇には聊かも仮籍するところがない。そして制度上にこれを 全しているものも多い。資本家に同業組合の組織を許すならば、労働者にも労働組合の組 織を公認することが至当である」33)という発言も行っていたのであった。
渋沢は、弱者を救済していかなければ由々しき事態も生じかねないから放置するわけに はいかぬとの考えも持ち、対等・中庸に問題を処理することを信条としていたが、結果の 対等までをも善としたわけではなかった。「国を富まして自己も栄達せんと欲すればこそ、
人々が日夜勉励するのである。其の結果として貧富の懸隔を生ずるものとすれば、そは自 然の成行きであつて、人間社会に免る可らざる約束と見て諦めるより外仕方がない」34)と いう渋沢の文言からは、自己努力と自己責任の強い肯定がうかがえる。また、デモクラシ ー思想によって権利主張が強くなった当時において、渋沢は権利と義務の一体性を強調し た。渋沢においては、協調のベースとして、権利よりもまずは優先して遂行されねばなら ない義務が存在していた。
ⅳ.自主性、下からの、使命感
国益という観念で西洋の経済システムを吸収し、発展に尽力した渋沢は、実業界引退後 の仕事として3項目を挙げている。1つは、道徳・経済の合一、もう1つは資本・労働の 調和、最後は、済貧救恤の適宜を図るために働くことであった35)。儒教的道徳に基づいて 官民一致的な社会事業を多数行ってきた渋沢は、利他精神に富んでいた。渋沢は、常に、
「そのようなことには熟練しておらず、協調ができるか私自身も疑問ではあるが、真ニ誠 心上ヤツテ見ヤウト思ツテ取掛ツタノデゴザイマスカラ」36)という気持ちで、力が必要と されれば、物事に着手した。「協調会を一時的なものではなく、永続的なものにする必要が あり」37)と発起人会で語った渋沢は、一時的な腰掛けや名前貸しというような考えではな く、「知らないから勉強して知るようにならなければならぬ、だから引き受け」38)るという 姿勢で自主的に様々な活動に臨んだ。「夕に死すとも朝に道を聞いて務と致さなければなら ぬことゝ考へます處から、自から奮つて所謂斃れて已むの所存を以て此の会を組織したい と企てた所以である」39)と、協調会に関わった気持ちを渋沢はこのように明かしていたの だが、ここからは渋沢の強い自主性を垣間見ることができる。「協調会は決して政府の事業 ではない、寧ろ政府がやらないから、吾々がやるのである。・・・政府がやる可き仕事であ ると謂つて放任して仕舞ひ、何もかも政府にのみ倚らなければならん、民間で仕ては悪い と云ふことはないのである、・・・労資協調の如き、政府にして相当の機関なき以上は、政 府に俟つことなく民間に於て之を為すに於て、何等間然する所の無い筈である」40)と主張 した渋沢の協調観には、明らかに民間主導性が肯定されている。
(2)大原孫三郎の協調観
大原孫三郎が、米騒動直後の 10 月下旬に大原社会問題研究所設立の申請許可を得るた めに内務省を訪問した際、「社会問題の研究というより、政府の労資協調運動に協力して欲 しい」との床次内務大臣からの要請を断ったことについては第10章でふれた。ここでは、
渋沢栄一と同じように社会の構成メンバー間の利害の一致を図るために、様々な社会福祉 事業を民間人の立場から実践した大原孫三郎の協調観を、渋沢との比較という視点を念頭 に入れて考察してみることにする。
ⅰ.渋沢との共通点
①中庸、共存共栄、協調
孫三郎も床次内相や渋沢栄一と同様に、海外から過激な思想が流入し、社会情勢が対立 によって危険化することを憂慮していた。孫三郎は、ロシア革命思想の共産主義など、極 端な、偏した思想で、日本の問題を解決することはできないと考えていた。そのような性 質の思想とは対極にあると孫三郎が考えた−中庸的なものと言えるだろう−日本的な解決 方法を科学研究によって見出すために、大原社会問題研究所が設立されたことは既述した。
また、第 10 章で渋沢と孫三郎を比較した際に、共存共栄という共通点についてはまとめ たが、ここでも改めて主張しておきたい。大地主でもあり、資本家でもあった孫三郎の多 岐にわたる福祉実践を第 6 章から個別に考察してきたが、それらは全て、地主と小作人、
資本家と労働者、富者と貧者との利害の一致点を見出し、共存共栄の社会を実現する、と いう根本的使命感に裏づけされたものであった。それらの表層が、既述してきたような、
小作料金納制の一早い主張であったり、大原奨農会−大原農業研究所につながるもの−の 設立であったり、または、倉敷紡績内での様々な福祉施策であったり、労働者の労働・生 理問題の解決を追求する倉敷労働科学研究所の設立だったのである。共存共栄を図ろうと した孫三郎は、信条の「一致協力」を標語として工場内に掲げたことも第 10 章で指摘し たが、世界、国家、社会、地域というコミュニティーの構成メンバー間の調和・協力・協 調に発展の基盤があると孫三郎は考えていたと思われる。
②対等、時代の趨勢、進歩、自己責任
上述のように、渋沢と同様に協調・調和を重視していた孫三郎には、現状に満足するこ とは退歩の第一歩であり、進歩や向上は必須であるととらえていた側面があった。そのよ うな進歩を重視する姿勢は、孫三郎の協調観にも現われている。「労働者の資本家に対する 考へ方が変つて来つつある今日としては当然の現象・・・今日では事業の組織に大なる変 化を来せるのみならず、職工の知識が一般に進化して自己の権利を自覚するやうになつて 来た折柄、・・・諸物価が騰貴して生活上に不安を感ずることになつた。・・このやうな労 働者の思想上の変遷も畢竟時代の変化に伴ふ産物であるとすれば、資本家も大いにこの点 について覚醒し研究し、これを調節緩和するの手段を講ずることに思を致さねならぬと思
ふ」41)と語った孫三郎の協調観は、渋沢のものと同様に時代進歩を把握したものであった。
また、旧時代性を排した孫三郎の協調観は、平等、公平、対等の観念をも備えたもので あった。倉敷紡績の労働者、ひいては庶民階級と富者との利害の一致を図っていくための 施策の1つとして孫三郎が大正12 年設立した倉紡中央病院−後に倉敷中央病院と改称−
の開院式で、孫三郎は、平等の人格を認めることの現われとして、完全に平等なる処遇を 目指すことを誓っている。「職工を人として平等の人格を認めて待遇している事実として一 般人と同じく平等な取り扱いをなす・・・庶民階級の人々に対しては、医療の方面に甚だ 不行届きがあつたことを目撃し、人道上捨て置き難い大事であると痛感し、一日も早く庶 民階級を中心とした病院を設立せねばならぬ、と考へた次第であります」42)という見解を孫 三郎は示していたのであった。さらに、対等を含有した孫三郎の協調観は、渋沢の場合と 同様に、自己責任という概念を伴っていた43)。孫三郎は、利害の一致を図るために自身は 自己責任で行動を起こし、自己努力を重ねた一方、協調相手である労働者などに対しても 向上・進歩していかなければならぬという自己責任を説いていた。
③自主性、使命感、下からの、積極性、根本的
そして孫三郎の協調観にも、自主的概念が含まれていた。子息の總一郎に「人間という ものは、決心と心掛け次第でどのようにでもなるものだ」44)と孫三郎は諭していた。孫三 郎は、岡山孤児院を設立・運営していた石井十次との交流によってふれたキリスト教に裏 打ちされた使命感と上に立つ場を有する者としての社会的責任感を自主的に持つようにな った。孫三郎は、「吾が道は一以てこれを貫く」という気持ちで利害の合致点探求を自主的 に遂行したのだが、「この際わが社が率先してこの主張を完全に実現するに至ったならば、
単に倉敷紡績の事のみにあらずして、実に天下の労働問題に対して先鞭をつけることにな るから、邦家のため速やかに諸君と協力一致」45)していくと、協調主義に立った自己の理 想と方針を説明している。また、「社会問題を政府の都合などに左右されないで、根本的に 研究する施設が必要なことを痛感するようになった」46)と語っていた孫三郎は、渋沢と同 様に民間からの活動を強く肯定していた。孫三郎のこれらの文言のニュアンスを考慮する と、孫三郎にとって協調会の協調活動は、根本的、徹底的、継続的、積極的で誠実なる改 善策とは思えなかったのかもしれない。それは、当面的で中途半端な妥協策に感じられた
のだろう。
ⅱ.孫三郎にのみ見られた点
何度か既述しているように、孫三郎にはキリスト者石井十次の影響が大きい。利他の精 神が強かった石井には、孤児のみならずその他の弱者を含めた、社会の各構成メンバーを 下から見る目が備わっており、それらの人々を対象にして同胞愛で生涯にわたり改善活動 を行った。協調・調和を図って利害の一致点を発見する、という孫三郎の姿勢は、感化を 受けた石井と同一ラインにあるものである。孫三郎は、石井の没後に岡山孤児院の清算な どを受け継いだ。孫三郎が石井と異なるところは、石井が人生をかけて行ってきた救済・
慈善事業では社会の協調・改善を図ることは不可能だと気づいた点にあった。孫三郎は石 井の経験をベースに「下からの」根本的・普遍的な解決策を求めるようになった。
一方、渋沢の場合は、第 10 章でふれた養育院への支援も、また、協調会参加もそうで あるが、常に国家の安寧・運営・繁栄が第一義となっており、その後始末、その目的実現 を支えるための慈善救済策として社会事業が位置づけられていた傾向があることは否めな い。渋沢と孫三郎のこのような処し方・見解の相違は、必然的に協調観の相違にもつなが っているように思える。ここでは、渋沢には見られずに孫三郎にのみ見受けられる協調観 の要素を考察することにしたい。
①社会
渋沢の協調観には、確かに、一般的な財界人と同じような保守的・伝統的側面が多少は あったことは事実である。渋沢と孫三郎の相違点の第1は、国家を第一義とする姿勢であ る。渋沢が労資協調を図ろうとする根本的な理由は、国家産業の発展、事業界の平和保持、
ひいては国家の安寧維持にあった。これらの事項を目的とした社会政策、及び研究を行う 機関として、渋沢は協調会をとらえていた。
孫三郎ももちろん、一般的な明治時代の人々と同様に、「国家」を尊重する意識を有して いた。平和を重視し、日露戦争時には「戦争を喜ぶのは御用商人だけ」という見解を示し てはいたものの、戦時公債に可能な限り応募することは国民の義務だと、孫三郎は父に進 言もしていた 47)。しかし、「神様より生に与へられたる仕事とは、生の思想を社会に実行
するといふこと」や「余は特定の人を教育すべきではなく、範囲を拡げたる社会の真の教 育者たることが、余の存在するなりと思ふ・・・範囲は人類なり」という孫三郎の日記中 の文言48)からも明らかなように、孫三郎の貢献・奉仕の場−協調・調和を図って利害一致 を目指す場−は「国家」よりも「社会」という視点でとらえられていたのであった。
②革新的、非権威主義的、上からの要素が少ない
「惟ふに社会問題とか、労働問題等の如きは、単に法律の力ばかりを以て解決されるも のでない。・・・各々権利義務を主張して、一も二も法の裁断を仰がんとすれば、人情は自 ら険悪となり、障壁は其の間に築かれて、事毎に角付合ひの沙汰のみを演じ、一家の和合 団欒は、ほとんど望まれぬことゝなるであらう。余は富豪と貧民との関係も、亦それと等 しいものがあらうと思ふ。彼の資本家と労働者との間は、従来家族的関係を以て成立して 来たものであったが、俄に法を制定してこれのみを以て取締らうとする様にしたのは、一 応尤なる思立ちではあらうけれども、これが実施の結果、果して当局の理想どおりにゆく であらうか。多年の関係に因つて、資本家と労働者との間に折角結ばれた所の言ふに言は れぬ一種の情愛も、法を設けて、両者の権利義務を明らかに主張するやうになれば、勢ひ 疎隔さるゝに至りはすまいか」49)という渋沢の見解には、労働問題を新しい社会の問題と は考えず、思想善導問題と考え、労資双方の自覚、自己啓発、修養、人情、情愛により解 決を果たそうとしていた側面がうかがわれる。このように、国益に尽すことを信条として いた渋沢は、労資が相互に敬愛忠恕の心をもって、「道徳的」「同義的」「人情的」に協調し て問題を打開していくべきだと強調していた。また、労資の中間に立って双方を善導する 必要があると主張した際の「労働者を啓発・訓練して、・・・誘導してやる」や「労働者動々 もすれば軽挙妄動に流れ易く、徒に血気に逸りて大事を誤まるの虞れがある。少なくとも 脱線的行動に陥り易い。故に慎重の態度を肝要とする」という発言50)の中には、「上から」
労働者を見ている感もある。
一方、「人道を明らかにし、風俗の改良をはかる」や「第一貯蓄心、第二人道、第三総て の徳義心、第四倉敷気質、これ等の振興発達を図らんとす」51)という孫三郎の決心は、儒 教的人道主義がベースにあった渋沢と同一種のものと思われるが、孫三郎の協調観には、
いわゆる「新しい時代の青年」的な革新的要素52)が含まれていたと考える。もちろん、「経
済と道徳の一致」を説いた渋沢も道義一辺倒ではなく、功利的特徴なども有していたこと は確かである。しかし、情愛に偏することなく科学的な結論を求める姿勢、自由や経済性 と矛盾しない平等を実現しようとする姿勢、といった近代・科学的・合理的精神の度合い は、渋沢よりも孫三郎の協調観の方に強く現われていた。
さらに、孫三郎には権威主義的ではない、「下からの」、つまり民衆の立場53)から協調を とらえる視点が強かったといえる。幼年期から富者の子息という理由だけによって不当な 扱いを数多く受けた孫三郎には、反抗心や反発心が強く根づいていた。権力や威信を誇る ものには反発を感じた。渋沢の場合は、数多くの社会事業を、「経済界の大物」54)として支 援したが、その大物性ゆえに、政治家や官僚、及び企業の上層の人達との間の方により密 接な関係を築いていき、自然に「上から」見る視点が孫三郎よりは多く存したのだと推測 する。もちろん、渋沢は、時間が許す限り来訪者全員に応対する方針を貫いていたことは 確かであるが、それでも石井十次のような、実地的な真の民衆密着型の−民衆の立場で下 からとらえる−視点を発揮するまではいかなかったのではなかろうか。「日本の敵は英国に あらず、露国にあらず、現在の如く腐敗せる宗教と而して教育と政治である・・・田中正 造の直訴事件を聞き、藩閥政治の弊に大きな義憤を感じ、『議会は正義の為に総ての問題を 議決するのではなく、感情により議決せる有様なり。・・この代議政治の弊を改革するは世 界人民の幸福である』」55)と考えた孫三郎の協調観には、権威主義的な「上からの」要素は とても少なかったと言えるだろう。
③人間尊重、対等の度合いが大きい
また、この「下からの」という姿勢は、孫三郎の人間自身を見る目、人間尊重の姿勢に つながったのではないかと推測する。第 10 章での渋沢と孫三郎の比較においても、孫三 郎には個人の人格の尊重、及び自覚ある自主的な人間になるための支援の尊重が見受けら れたとの見解を示したが、協調によって人間の利害を一致させようと努めた孫三郎には、
科学的、文化的に人間らしい幸福という視点が渋沢よりも強かったと考える。「従来は比較 的円満であつた労働者と資本家との関係を、工場法の制定に因つて乖離せしむるやうなこ とはあるまいか。・・・彼等は小供にも働かせ、自分も出来るだけ長時間働いて、たくさん の賃金を得度いとの趣意であるが、・・・。彼等に取っては、少し位衛生設備に欠くる点は
あっても、成る可く労働賃銭の多からんことを希望して居るのであるのに、徒に衛生設備 ばかり際立つ程行き届いても、命と頼む賃銭が却て滅却されては、彼等は寧ろそれをより 大なる苦痛と心得るであらう」56)という渋沢の考えは、もっとものようではあるが−実際、
武藤山治などの資本家がこのような論法で工場法制定に反対したのだが−そこには「人間 としての」、「人間として稼ぐ」という視点が欠如している。経済のための人間か、人間の ための経済か、という点があまり顧慮されなかった時代にはもっともらしい主張である。
劣悪な労働条件で働かざるをえなかった女子工員達の状態改善を科学的研究で図ってほ しい、と孫三郎が真から要請していたことについては、第8章でふれた。孫三郎は、労働 者も生活者であり、人間であって、平等に好ましい労働環境と生活環境、そして満足と希 望を享受するべきだと考えた。つまり、孫三郎は、人間性や自由を売り渡す経済活動では なく、人間性に基づいた経済活動を行いながら労資の協調を図ろうとしたのであって、そ の協調観の中には人間尊重の視点57)が強く備わっていたのであった。
④独立自営、主張、独創性
「人は事業でありその人の生活で主張を実行すべき、みずからの主張がじゅうぶんに貫 かれておればそれでよい、私は主張のない仕事は一つもしないように主張のない生活は一 日も送らないように心がけている」58)と語った孫三郎は、自分の主張と一致せずとも他に 追随していくという比較的楽な道を進むのではなく、自分の主張に従って独創的な方法で 社会内の協調を図ろうとした。つまり、真に対等で人間尊重の「下からの」視点をもった 社会協調実現のために自分自身の主張に正直になって具体化、実践していったものが科学 研究所の設立・運営、企業内改革、地域の教育活動など様々な事業であったのである。
従って、主張や独創性という概念を包括した孫三郎の協調観は、当然の如く独立自営と いう概念をも含んでいた。孫三郎は、福祉実践に着手し出したばかりの明治 35 年に、私 立倉敷商業補修学校を設立した59)。岡山県の認可を得て高等小学校の教室を借用して開始 したその学校は、数年後には廃止となったのだが、孫三郎は、校長として修身の授業を担 当した経験を有している。その際、福沢諭吉の『学問のすゝめ』や『西洋事情』、『文明論 之概略』などからの抜書きで教案をつくり、それまでの封建思想に代わる万人平等、自得 自省、独立自尊、進取不退、向上一路などの重要性を説いた。独立自営を重視する孫三郎
の姿勢は、外遊中の子息、總一郎に対する書簡中の「人に依らず自力によりて努力工夫す べし。自力によりて生きる事は人間としての修養の第一なり」60)という忠告や岡山孤児院 の解散理由を後年語ったときの言葉、「子供のためには、人は同情してくれるものだといふ 感じを持たせた。即ち独立心を滅ぼし、自営の精神を奪ったのは最も悪かったと思ふ」61) からもうかがえる。
おわりに
これまで見てきたように、大原孫三郎と渋沢栄一は、儒教的・東洋的な道徳観をもって 協調、利害の一致を図ろうとした。渋沢には、「此二つの要素は、恰も陰陽相和して物を生 ずるが如き関係に立つもの」62)という発言にも端的に出ているような東洋的理念で協調を 図り、労資問題を解決しようとする側面が強かった。また、「同心謬力精神の高揚」を奨励 した63)孫三郎にも明らかに東洋的な考え方が存在した。しかし、渋沢の協調観も、また孫 三郎の協調観も、共通して封建的・差別的ではない儒教的・東洋的なものであった。利害 が対立する者双方に説いた両者の協調観とは、守旧的ではないが儒教道徳的であったこと に由来し、中庸、中正で偏せず、また、最初から対立や闘争を前提とする姿勢や過激性を も排除したものであった。利他的要素と使命感を強く帯びて、問題解決に挑んだ2人の福 祉実践の先駆者たちから我々が学ぶものは多い。このような両者の協調観は現代の我々が 学ぶべき要素を多数含んでいる。
そして、大原孫三郎の協調観には、さらにプラスの側面があると評価されてよい。孫三 郎の協調観には、国家よりも社会、また、民衆的と「下からの」の度合いが高い、自由で 非権威主義的、独立自営を重視する側面もあった。渋沢とのこの相違の理由は、前述した ように生誕年の差もあれば、生涯を通じて社会の弱者救済を民の立場から図った石井十次 の影響もあっただろう。孫三郎の青年期に計り知れない影響を与えた石井十次は、その自 然観に於いてルソーの影響も受けていたが、社会救済政策の面においては、英国のブリス トル孤児院院長のジョージ・ミュラーや救世軍のブース、及びペスタロッチと共にジョン・
ロック、ハーバード・スペンサーに大きく感化されていた64)。また、英国のウェッブ夫妻 が来日し、救貧よりも防貧の必要性を強調したことの影響もうけている。従って、石井十 次から強い感化を受けた孫三郎には英国的な社会救済観が影響していると推測してもかま
わないのではないかと考える。渋沢は、儒教的・論語的観念に裏打ちされた協調観を持っ ていたが、孫三郎は、儒教的観念プラス英国的社会救済観にも影響を受け、「下からの」市 民・民衆的色彩の強い協調観をもっていたと考える。
現在、紛争や経済苦難、及び社会構造変化に伴う様々な問題が深刻となり、利害の対立 が前面に出てきがちである。国家間、地域間、個人間、及び「民」と「官」の間の協調や パートナーシップはとても重要なものとなってきている。それにもかかわらず、利己主義 や独善が幅を利かせているように感じられる。
このような中では、渋沢や孫三郎のような利他的で東洋的理念に基づく中庸的な協調観 がもう一度見直されるべきであり、我々は学んでいくべきであると考える。さらに、言う ならば、「下からの」市民・民衆性をもった要素−自由・平等・自主・独立・科学性・合理 性−をもきちんと備えるべきであると考えるので、孫三郎にのみに見受けられたこの側面 を付加した協調観が今、顧みられるべきである。
本章は、現代と同様に、社会構造の変化に直面していた近代国家づくりのプロセスにあ って、福祉実践にかけた先駆者たち−大原孫三郎と渋沢栄一−のベースにあった協調観を 考察・再評価した。現代の我々が学ぶこと、現代に求められている協調につながりうるエ ッセンスを両者の協調観を中心にして抽出したつもりである。
つまり、それは、本章の最初に、新聞記事から拾ったキーワードを基に整理したような 協調観、「利害の対立した者同士が、対立や衝突を前提として諦めるのではなく、短期・長 期的に合理的なプラスの結果を目指して、対等に且つ、派閥や党派、属性に囚われること なく、納得のいくまで話し合い、双方の価値観を十分考慮・理解した上で、当事者の主張、
譲歩、調整の結果として、相互の問題を穏やかに連携して、解決していこうとする姿勢」
というようなものであり、現代に求められている協調につながりうるエッセンスだと考え るのである。
注
(1)日本経済新聞2004年6月10,12,21日,7月28日;朝日新聞2004年7月3,8日。
(2)高橋彦博「協調会調査事業の特徴」『大原社会問題研究所雑誌』522号、2002年、2‐9 頁;梅田俊英、「協調会の組織動向」同上、10‐20頁;横関至「協調会農村課長松村勝
治郎についての一考察」同上、21‐29頁;高橋彦博「協調会研究の現状」同上、538・
539号、2003年;1‐9頁,梅田俊英「戦時下の協調会と村山重忠」同上、10−23頁;
横関至「町田辰次郎と協調会」同上、24‐41頁。
(3)島田昌和「高橋彦博著『法政大学大原社会問題研究所叢書 戦間期日本の社会研究セン ター大原社研と協調会』」『渋沢研究』第14号、2001年、53頁。
(4)米騒動については、孫三郎が社会問題研究所を設立しようと考えたきっかけの1つであ ったなどと、これまでも何度かふれてきたが、富山県の一漁村に端を発したこの米の廉 売要求運動は、全国へ広がり、警察と軍隊が出動しても鎮静までに 2,3ヶ月も要した民 衆運動であった。当時の寺内内閣は責任をとって総辞職をし、新たに原敬内閣が登場し た。革命的な思想を底流に有したこの未組織的騒動は、社会・労働行政に対する政府の 意見を大きく転換させることになった。なぜなら、政府や官僚は、この米騒動の中に、
国家存続をも危険な状態に陥れかねない、反国家的な思想を感じ取り、体制維持のため に封じ込めなければならないと理解したためである。民衆の力を政治家、官僚、資本家、
そして民衆自身に認識させることになった米騒動に対する政府の対応の詳細については、
大霞会編『内務省史』第1巻、1971年、325−7頁を参照。
また米騒動より先の1918(大正7)年6月には、社会・労働問題への対処法を検討する ための諮問機関、「救済事業調査会」が内務省内に設置されていた。桑田熊蔵や矢作栄蔵 などの社会政策学会の有力メンバーも委員として参加したこの調査会に対して政府は、
労資の関係を円満にするための施策について諮問を行った。その結果として出された答 申の中には、「労使マ マの協同調和を図るため適切なる民間機関の設置に関し調査すべき」と いう項目があった。これに基づいて具体化されたのが協調会の創設であった。この調査 会には、労働組合法制定と治安警察法第 17 条の撤廃を目標としていた高野岩三郎も委 員として加わっていた。また、社会政策を慈善政策と区別しない内務省の貧民救済事業 的な視点が当初から批判されていたこともあって、この委員会名は、大正10 年1月に 社会事業調査会と改められた。これらの経緯については、『内務省史』第3巻、1971年、
384頁;同上、第1巻、324頁;浜口靖彦「協調会と第一次大戦後の労資関係」『社会科 学討究』第15巻、1970年3月、219,226頁;池田信『日本的協調主義の成立』啓文 社、1982年、8,13,17‐20頁を参照)。
(5)内務省地方局の中に救護課が新設されたのは大正6年8月であった。その2年後の12 月には救護課から社会課に改称されたのだが、「社会」の文字が内務省の官制上で用いら れたのはこれが初めてであった。この社会課は、その翌年の8月に拡充されて独立の局
−社会局−となったのだが、このような本格的な社会行政確立の契機となったのは、や はり大正7年の米騒動であった。それまでは、労働行政を農商務省が担当し、治安上の 取締りを内務省の警保局が担当していた為、その分界が不明瞭であった。その上、労資 の対立が激化するようになると、政策理念をめぐって両省の対立も余計に目につくよう になった。そこで、原内閣時代の大正9年になって、社会行政の拡充と統一を図るため、
社会局が内務省内に設置された。この社会局が労働行政を所管したのは、2年後の11月 に外部社会局となってからのことであった。
また、社会局官制に基づいて、大正12年2月には参与15名が任命された。その際、
労働組合の代表として鈴木文治に参与への就任が要請されたが、組合の代表が政府の機 関に就任することに対しては、組合員からが強い反対が出るだろうとの推察によって、
鈴木は参与への就任を辞退した。上述した行政の変革などについては、『内務省史』第1 巻、104,327,338,344,348‐9頁;同上、第3巻、396頁;池田信『日本的協調主 義の成立』240頁などを参照。
(6)国民思想の善導啓発にも力を入れた床次竹二郎は、地方改良運動が開始された時の地方 局長であった(『内務省史』第1巻、340頁,木下順「日本社会政策史の探求(上)−地方 改良,修養団,協調会−」『国学院経済学』第44巻第1号、国学院大学経済学会、1995 年、27頁)。
(7)社会全体の調和を確保するために、労資協調を図り、階級対立の激化を予防する機関を 設立するに際して床次内務大臣は、まず、徳川家達、清浦奎吾、大岡育造、渋沢栄一の 4 人に相談をもちかけ、人事面などについての設立準備が開始された。協調会が内務大 臣と農商務大臣の認可を得て財団法人として正式に発足したのは 1919(大正8 年)12月 22日であったが、それより先の8月には発起人会が開催され、設立趣意書と綱領が発表 されていた(『内務省史』第3巻、385頁)。
資金面については、政府からの補助金200万円と三井などの財界から集まった約600 万円が基にされた(池田信『日本的協調主義の成立』31頁他)。この資金の調達について
は渋沢の尽力が大きかったこと、及び渋沢による会計監督が厳しかったことが伝えられ ている(床次竹二郎「渋沢翁と労働問題」『故子爵渋沢栄一翁追悼講演録』協調会、1932 年、38 頁)。協調会の会計の不明瞭性については、読売・報知、国民、東京朝日などの 新聞が記事として何度も取りあげ、1924 年には内務省の事務監査を受けた(渋沢青淵記 念財団竜門社編『渋沢栄一伝記資料』第31巻、渋沢栄一伝記資料刊行会、1960年、545
‐9頁)。この会計ということについて床次は「創立以来薨去になる迄一々細大洩さず監 督をせられた。・・・創立以来毎月一回は必ず収支の状況を子爵に報告しなければならな い。そうして一々それに対して御尋ねになる。・・・百圓以上の支拂は必ず子爵の判がな ければ出されぬと云ふやうなことでありました」と語り、渋沢の厳しいチェックがあっ たことを指摘している(床次竹二郎「渋沢翁と労働問題」39頁)。一方、協調会の費用効 果性については渋沢も、「色々な調査をしてゐる。何ちらからも好かれない事は、何ちら にも片よらぬからであるとも云へないではないが年費五十万円も出してやつてゐる仕事 としては、効果が挙がらなさ過ぎる。年十三万円位でやつてゐる養育院の事業は、あん なによく捗つてゐるのである」と語ったり、「実際現在では、資本家からも労働者からも 嫌はれ、其上世間からは協調会は何をしてゐると非難されてゐる始末である・・・年費 五十万円もだしてやっている仕事としては、効果が挙がらなさ過ぎる」という発言をも らしたことがあった(『渋沢栄一伝記資料』第31巻、566‐6頁)。
(8)『財団法人協調会史−協調会三十年の歩み−』偕和会、1965年、5頁;『社会政策時報』
創刊号、協調会、1920年、171頁。
(9)池田信『日本的協調主義の成立』32頁。
(10)協調会は、調査研究活動を行い、諮問などに応じ意見を提出するという活動を行った。
その他、協調会の理念を普及・徹底させるための事業として、知識階級を閲覧対象と目 した機関誌、『社会政策時報』を大正9年9月から創刊した。そこでは、主として社会・
労働問題に関する国内外の情報が提供され、実施した調査の結果も公表された。また、
大正10年4月からは、「労働者に提供して、其精神を修養し、知識を啓発し、併せて高 尚なる趣味を涵養し親しき座右の友たらしめんとする」月刊労働雑誌、『人と人』を発行 した。他にも協調会は、図書館開設、職業紹介、及び労働争議の調停やその防止にも携 わった。また、社会政策講習所−協調会館設立とともに社会政策学院と改名−も協調会
によって開講された。この講習所では、社会政策の実務面に携わる可能性を持つ「中学 校、高等女学校の卒業者」が、渋沢栄一による「社会道徳に就て」や留岡幸助による「制 度と人」などの講義を受けた。さらに、『最近の社会運動』−設立10周年記念として刊 行した最大の力作−をはじめとする700余りの社会問題の図書が協調会によって出版さ れた。尚、これらの事業については、『財団法人協調会史−協調会三十年の歩み−』;法 政大学大原社会問題研究所編『協調会の研究』;高橋彦博『戦間期日本の社会研究センタ ー』;木下順「日本社会政策史の探求(上)−地方改良,修養団,協調会」30 頁;米川紀 生「協調会の成立過程」『新潟大学 経済学年報』第3号1978‐Ⅰ、1979年、74−5頁;
同「協調会の労働組合論」『新潟大学 経済学年報』第 26・27 合併号 1978‐Ⅱ・1979
‐Ⅰ、1979年、82頁;『渋沢栄一伝記資料』第31巻、532頁;永井亨他編『添田敬一 郎伝』添田敬一郎君記念会、1955年、69頁を参照。
(11)『内務省史』第3巻、386頁。
(12)1912(大正元)年に鈴木文治を指導者として結成された労働者団体の友愛会は、当初は、
教育活動を通じて労働者の社会的地位の向上を図るという、労働者の修養・共済機関と いった特徴を呈しており、労資が協調して国家・産業の発展に貢献していくという協調 的な生産主義的労資調和論を主張していた。しかし、英米のデモクラシー思想やロシア 革命の社会主義思想の影響を受けたことによって、社会主義的色彩を強め、創立7周年 には大日本労働総同盟友愛会と改称した。改良主義や労資協調主義はもはや排除され、
階級闘争や革命論が訴えられるようになったのであった(池田信『日本的協調主義の成 立』2頁;浜口靖彦「協調会と第一次大戦後の労資関係」231頁;大霞会編『内務省外史』
1977年、146頁;『渋沢栄一伝記資料』第31巻、447,449頁;三輪泰史『日本ファシ ズムと労働運動』校倉書房、1988 年、249 頁)。鈴木文治に対して協調会への参加が要 請された時期は、鈴木自身が労働者ではないという批判を友愛会内で浴びていた頃と一 致する。企業家の出資によって設立される協調会に鈴木が参加することなどは到底不可 能な状態であった(島田昌和「渋沢栄一の労使観と協調会」『渋沢研究』創刊号、1990年、
44頁)。
(13)鈴木文治『労働運動二十年』一元社、1931年、192‐7頁。
(14)当時の欧米の思想は、内務省をはじめとする若手官僚にも影響を及ぼした。革新的な
考え方は労働行政にもあらわれるようになり、これが行政革新の推進力となった(『内務 省史』第1巻、340頁)。
(15)床次竹二郎「我国の労働問題」『社会政策時報』第29号、1923年を参照。
(16)三輪泰史『日本ファシズムと労働運動』252,256頁。
(17)協調会設立に先立った1919年2月から 3月にかけて、資本家団体の日本工業倶楽部 が、「信愛協会」と名づけた労資協調機関の事業内容と組織案をまとめた。5月には労資
「両者ノ協同融和ヲ図ル」信愛協会の「設立趣意書」と「綱領」を日本工業倶楽部は作 成し、床次内相に提出した。この信愛協会の趣旨は温情主義的であるとの指摘が関係者 から出されたが、「協調会綱領」に影響を与えたようである(浜口靖彦「協調会と第一次大 戦後の労資関係」224頁他を参照)。
(18)桑田熊蔵は社会政策学会を創立した学者の1人として有名である。また、松岡均平も 同じく社会政策学会会員であり、谷口留五郎は、福岡県の前知事であった。桑田等のド イツ学系の学者達によるドイツの社会政策協会にならった社会政策学会は、それまでの 日本の学界や実業界に支配的な影響力をもったミルやスミスなどの英米流の自由主義経 済学とは異なる、「一種の挑戦的な姿勢」をとるようになった。社会政策学会会員の中に は、協調会の役職に就く人も多かったが、社会政策学会内部に一枚岩的な思想が存在し ていたわけではなかった。この学会の代表者であり、また保守派代表でもあった桑田熊 蔵は、反社会主義、反自由放任主義の立場をとり、「下」からの改良を不可欠なものと考 えながらも、国家による「上」からの改良によって資本主義の安定・発展化を目指そう とした。
そのような桑田よりも革新的な社会政策思想を有したのが福田徳三であった。福田は 社会主義にも関心を示しはしたが、資本主義体制内での社会政策を探求した。桑田が社 会政策を国家の視点で捉えたのに対し、福田は、社会と社会の力の視点で捉えたと言え る。
また、福田徳三と共に学会内のリベラリズム代表と目された高野岩三郎−大原孫三郎 の要請を受け、大原社会問題研究所の所長に就任し、その運営に当った学者−は、桑田 などと同様にドイツで学びはしたが、英米流の自由主義的学風も取り入れていたといわ れる。高野岩三郎が社会政策や社会主義に関心を持ち出した発端は、東京大学の学生時
代に聴講した金井延の経済学講義であった。大学院で「労働問題を中心とする工業経済 学」を専攻した高野の指導教授は、金井であり、金井も社会政策学会に高野の勧めで入 会していた。
ドイツのミュンヘン大学で統計学と経済学を学び、ドイツ人女性と結婚した高野が、
ドイツ学の影響を受けていることは確かである。しかし、高野は、経済学を、人民統治 的・国権的な法学や国家学とは異なるものだと考えた。社会科学の確立に大原社会問題 研究所で尽力した高野は、長崎と東京の下町で成長したことに由来し、民衆の視点を有 していた。また、自由民権運動思想の影響も受けている。そして、兄の高野房太郎は、
米国から帰国し、労働組合制定運動を展開したために、治安警察法第17条で弾圧され、
その後に中国大陸で客死している。これが最大の理由だと想像するのだが、このような 要素が絡み合って、高野岩三郎の思想は、ドイツ的国家主義一辺倒ではなく、英米的な 自由主義思想にも感化されたのだと考える。高野には、「町人的反抗で」「不当な権力の 発動や不合理な言動には強く反発」する側面があったのである(大島清『高野岩三郎伝』、
岩波書店、1968年、12,15,74‐88,430頁;池田信『日本的協調主義の発展』11‐3 頁;木下順「日本社会政策史の探求(上)−地方改良,修養団,協調会」27頁)。
(19)理事交代の詳細については、『財団法人協調会史−協調会三十年の歩み−』21‐2頁;
『戦間期日本の社会研究センター』157‐60頁他を参照。
(20)『渋沢栄一伝記資料』第31巻、525頁。
(21)床次内相に命じられて協調会の設立全般を企画したのが地方局長の添田敬一郎であっ た。床次は、添田が兵庫県の参事官であった際の同県の内務部長であった。協調会設立 から 1 年弱を経て、新常務理事に就任することを依頼された添田は、「実は甚だ意外且 迷惑・・」と考えながらも熟慮の結果、受諾した(『添田敬一郎伝』45‐8頁)。
「協調の静態は社会連帯の思想であり、其の動態は社会政策の実行である・・・社会 改造の目標はより善き社会の実現に在らねばならぬ。・・・富の専制が人類の堕落である と共に、暴力の専制も均しく人類の堕落である。資本家も自覚せよ、労働者も自覚せよ」
と説いた添田は、協調について、「一種の保守的乃至反動的の意義を附し、恰も之を現代 労働運動の理想に逆行するものであるかの如く看做さんとする」のも、また、「資本家と 労働者とを現状の儘に於て妥協せしめんとするものなり」というのも誤解であり、「若し