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兼田 麗子 『留岡幸助と大原孫三郎の社会思想

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博士(学術)学位申請論文審査要旨

兼田 麗子

『留岡幸助と大原孫三郎の社会思想

一日本近代化過程における社会改良実践の一考察‑』

[1]本論文の主題

本論文はV社会改良者である留同率助(1864‑934)と大原孫三郎(1880‑1943)の二人を取り上げ,彼らが行っ た社会改良事業とその背景にあった彼らの社会思想を考察し,それらが持つ現代的意義を探ったものであるO明治 以降の急激な近代化は,日本社会に多くの深刻な問題を発生させ,国家もそれを放置しておくことはできず,上か ら官主導で問題の解決を図った。しかし他九 Tから民の立場でこれらの問題に積極的に取り組み解決のために努 力した人も多数いた。留岡と大原は,民の立場から社会問題に取り組み解決のために力を尽くした社会改良家で あったo Lかも,留岡も大原もキリスト教を信仰していた人物であって,彼らを社会改良運動‑と導いた根底には.

キリスト教的な平等観,人類愛というものがあったO また,両者とも西洋近代の社会思想を学び,そこから多くの ものを吸収した。だが彼らもまた時代の子であって,東洋・日本の儒教や尊徳思想の影響を深く受けていたOつま り,留岡と大原の思想には西洋的側面(キリスト教や近代西洋思想)だけでなく,東洋的側面(儒教や尊徳思想) もあったのであるO従って例えば,社会改良を論ずる上での鍵概念である公共という用語も,本論文では,西洋的 意味だけでなく東洋的意味でも使用されている。しかも,公共の東洋的意味も,その受け取り方は,生まれた時代

によって興っていて,明治以前の元治元年に生まれた留岡と明治13年生まれの大原とでは,明らかに違っている。

本論文が一貫して.比較方法的,歴史的手法で分析を進めているのはそのためである。そうした手法を探ることに よって,本論文は,近代西洋とは違った日本の近代化の特徴ばかりでなく,日本の近代化が持っていた問題点を際 立たせ,さらに,彼らが行った社会改良事業や彼らの思想が持つ現代的意義を一層明瞭にしている。これまで,簡

閲率助と大原孫三郎については,それぞjt個別の研究はあるが,留岡と大原を取り上げて論じたものはなく,しか も同じ視点から,即ち,キリスト教,東洋思想,社会改良運動といった視点から鋭い分析を行っている。そういう 意味で,本論文の研究上の意義は大変大きいものがあると判定される。

[2]本論文の構成

論文の構成は以下の通りである。なお本論文の分巌が, 1頁, 40字×28行‑1120字で,全387頁(脚注を含む), 約40万字であることを申し添えておく。

はしがき

第Ⅰ都 留問率助(1864‑1934年)

第1章留岡幸助一社会事業を本格的に志すまで 1 生い立ち

2 キリスト教信者になって 3 北海道空知集治監の教諭師 4 欧米事情の研究と渡米

5 監獄改良と不定期刑論

第2牽「民」の立場での実践例一巣鴨家庭学校 1 家庭学校

tl)監獄改良よりも根本的な対策一感化教育 (2) 「教育は引き出すもの」一三位一体実物教育 t31家庭fl'Jffi味一家族制度

(2)

322

(4)勤勉一労作業 (5)自然の感化一農業

(6)感化事業の支え‑キリスト教の愛 2 幸助の思想と実践の特徴

(1)学術 (2)自助 (3)国家主義

3 自主的・継続的な実践者

第3牽「官」の立場での活動一報徳思想と地方改良運動 1 地方改良運動

2 報徳思想

3 地方改良遊動への傾倒理由

(1)時代背景,及び内務省の動機と意図 (2)幸助の二宮尊徳観と地方改良運動の意図

i 幸助の二宮尊徳観

ii 地方改良運動に従事した幸助の意図 iii その他の人々の二宮尊徳観

4 具体的に幸助が説いたもの

(1)地方改良運動の必要性と報徳思想の有効性 (2) 「下」への要求

i 勤労独立

ii 愛郷心・公共心・共同心 (3) 「上」への要求

i 富者の推譲 ii 四角同盟

iii 国家の慈善への従事と慈善局の設置 5 幸助の果たした役割とその有意性

第4章 北海道家庭学校とオウエンのニュー・ハーモニー 1 北海道家庭学校

(1)設立までの経緯 (2)具体的活動内容 (3)特徴と意義

i 特徴 ii 成否・意義 2 設立の原因と背景

(1)設立の理由とその背景にあったもの

(2)幸助の北海道観と北海道の地を選択した理由 i 自然観・農業観・労働観

ii 空知集治監時代の経験 iii 社会政策的側面

3 比較としてのロバート・オウニンの実践 (1)ニュー・ラナ‑クでの実験と性格形成学院 (2)ニュー・ハーモニーでの実験

(3)オウエンとその実践の特徴

(3)

4 幸助とオウエンの相違 第5率 留岡幸助の人間観

はじめに

1 被差別部落問題への幸助の関与とそれに対する批判 2 幸助の人間観

(1)共働を支える愛と同情,困難と試練 (2)物質にまさる人間の霊性,人格 (3)主義,理想

‑[)アy‑守

(5)偏重的人間観一平等主義とは矛盾する人間観 (6)偏重的人間観一二分化的人間観,君子,小人 3 比較としての海老名弾正の人間観の概略

(1)情,教養,人格 (2)偏重的人間観 おわりに

付論 留岡幸助と法律関係者達との交流 1 刑法理論の古典派と近代派 2 米国のリフォーマトリー制度 3 ノ吊可滋次郎との交流

4 東京帝国大学の法学博士達との交流 第II部 大原孫三郎(1880‑1943年)

第6牽大原孫三郎一使命感が芽生えるまで 1 時代背景

2 生い立ち・環境 3 孫三郎の人生の転換期

(1)義兄,邦三郎の死

(2)森三郎からの二宮尊徳の著作

(3)林源十郎との交際と石井十次との出会い 4 人遺主義への大変換に影響を与えた人物・思想

(1)石井十次と聖普 (2)二宮尊徳

(3)ロバート・オウエン

第7章 倉敷紡績内での改革と大原社会問題研究所 1 倉敷紡績内での改革

2 大原社会問題研究所 (1)設立の経緯 (2)スタッフ

(3)活動

3 信念を持った人道主義的実践者 第8寧 労働科学と倉敷労働科学研究所

1 倉敷労働科学研究所と労働科学 (1)倉敷労働科学研究所の設立経緯 (2)労働科学とは

(4)

324

(3)倉敷労働科学研究所の活動と成果

2 労働科学と労働衛生行政の世界の状況と日本の先覚者 (1)労働科学と労働衛生行政の世界の状況

(2)労働能率と労働者保護‑テーラー・システム (3)日本の労働衛生政策一先覚者,後藤新平

3 孫三郎の労働者福祉に於けるリーダーシップと科学信奉 (1)リーダーシップをとった理由

i 地主・名望家

ii 社会や物事に対する批判的な視点

iii 最初の科学研究所一大原奨農会農業研究所‑の経験 (2)科学信奉の理由一慈善事業の限界と社会問題の複雑化 (3)科学信奉の結果‑ロバート・オウエンの修正

4 労働衛生・労働科学への貢献 第9車 大原孫三郎と温情主義の武藤山治

1 孫三郎の信念と特徴

2 当時の紡績会社をめぐる状況

3 武藤山治の先駆的実践一孫三郎との接点 (1)意思疎通制度一注意函・社内報 (2)購買組合と共済組合

4 武藤山治の温情主義

5 孫三郎と武藤の相違点一温情主義 (1)非対等的境遇の容認

(2)主観性・非普遍性・前近代性

(3)功利主義・経済合理主義・企業第‑主義 一温情主義採用の理由

6 武藤山治の思想基盤一孫三郎との相違点とそれら形成の背景 (1)封建的思想基盤

(2)自由主義・経済的合理主義 (3)近代企業家

7 微妙に異なる二人の人道主義者

第10章 大原孫三郎と儒教的人道主義の渋沢栄一 1 渋沢栄一と養育院

(1)養育院とは

(2)養育院での渋沢の活動 (3)当時の社会事業観・養老観 (4)渋沢の養育院観

2 渋沢の根本的主義一儒教的入道主義 (1)社会・国家・公利優先

(2)共同・人道重視

3 孫三郎と渋沢栄一との共通点 (1)人道・道徳・実践

(2)使命感・私心のなさ

(3)儒教的・国家尊重・共同と協調 4 孫三郎と渋沢栄一の相違点

(5)

(1)渋沢の非市民社会性 (2)孫三郎の市民社会的要素 5 孫三郎と渋沢栄一から学ぶもの 第11牽 大原孫三郎と渋沢栄一の協調観

はじJ6に

1 協調会とその協調主義 (1) 「協調」について (2)これまでの協調会研究 (3)協調会の設立とその背景 (4)協調会の協調主義

(5)鈴木文治の見解一労働者側

(小 味次廿一二I'JIU‑O li旧‑●出捌!0

・7、 ‑・一・般FI'J肘■荘Ln¥,m

tsI 協調会'jr言 2 福祉実践者の協調観

(1)渋沢栄一の協調観

l 温情主義の否定,時代の趨勢,進歩 ii 遺徳.徳義,誠実

iii 対乱11肋、双方の仙仙刷を¥‑'&!y張. II己/野カバi‑fl":.軒別 iv 自主性.下からの,使命感

(2)大原孫三郎の協調観 i 渋沢との共通点

① 中庸,共存共栄,協調

② 対等,時代の趨勢,進歩.自己蓑任

: ;岳 ∴ ‑、'.!蝣‑ '.蝣  '  ∴       晶:

ii 孫三郎にのみ見られた点 (D 社会

② 革新的.非権威主義的.上からの要素が少ない

③ 人間尊重,対等の鑑合いが大きい

④ 独立自営,主張,独創性 .ti^O U

第12輩 大原孫三郎の民芸運動支援 はじ<v>に

1 柳宗悦等の民芸運動と民芸観の特徴 (1)民芸運動の経過概略

(2)柳宗悦の民芸観の特徴 i 「民」重視の姿勢 ii 地域重視の姿勢 iii 迎合しない独自の姿勢

2 柳と民芸運動について‑先行研究による評価の概観

(1)批判‑ 「民衆との遊離」, 「実在しない理念的概念の民衆」, 「人間不在」

(2) 「民」と地域重視の姿勢への評価 (3)柳宗悦への評価

3 孫三郎が民芸運動に共鳴・支援した理由一柳との共通点の存在

(6)

(1) 「民」重視 (2)地域重視

(3)迎合しない独自の姿勢 4 倉敷の歴史的風土

(1)幕府直轄地

(2)自主的・民主的共同体 おわりに

付論 石井十次と日向高鍋 はじめに

1石井十次の特徴 (1)教育重視 (2)弱者の視点

(3)実践性・行動力・自主性 2 石井十次の故郷,高鍋

(1)高鍋藩のはじまり

(2)高鍋藩の特徴一十次に引き継がれていた特徴 i 教育重視

ii 民政・弱者の視点 iii 実践・行動力・自主性 おわりに

終車 近代化‑伝統から近代へ‑,そして現代・未来へ はじめに

1 概念の整理

(1) 「福祉」とwelfare, well‑being (2)忠

(3)市民社会・福祉市民社会

2 福祉実践にかけた先駆者たち‑留岡幸助と大原孫三郎 (1)社会事業家と実業家を取り上げた理由

(2) 1864 (元治元)年生まれと1880 (明治13)年生まれの人物を取り上げた理由 (3)幸助と孫三郎の共通点,相違点の概略

i 両者の共通点

ii 相違点一個人,氏,自由を尊重する孫三郎の姿勢 iii 相違点一留岡幸助の「上」からの実践と矛盾した人間観 3 幸助と孫三郎の考察を通して思索した点

(1)時代の拘束性

(2)儒教一江戸時代からの連続性 (3)土着・東アジア

(4)自然・環境保護

(5)過去の日本的精神面などへの無批判的礼賛,個人主義・ファシズムへ屈しない姿勢 4.歴史上の福利二実践と対比的な現代日本の原因

(1)官僚主導主義

(2)新制教育による影響一儒教的公共精神の消滅,利己主義,功利主義,物質主義 おわりに

参考文献

(7)

このように本論文は,主題の追求に沿って,極めて綿密に構成されている。

[3]各章の概要

何れの章も,先行研究を十分踏まえた上で,各テーマについて非常に多くの文献を使い,それらを丁寧に読み解 き.整理し軽重をつけ手堅く議論を進めている。

第Ⅰ部

第1章では,社会事業を志すまでの留岡幸助の経歴が簡潔に述べられている。幸助は幕末に備中高梁に町人の子 として生まれたが,この地には明治になってもまだ身分制の余風が強く残っていた。小さい時から身分制に疑問を 抱いていた幸助は,魂の平等を説くキリスト教に次第に惹かれキリスト教徒となるO そして,このキリスト教信仰 が生涯,幸助の最も深いところを規定していくことになる。同志社大学別科神学科を卒業。その後,北海道空知集 治監教諭師に就任1895 (明治28)卒,監獄制度研究のため渡米,米国各地の監獄や施設を視察したO帰国後,刑 法理論の研究を緩めるとともに監獄改良に努めた。

第2章は.留岡幸助が「民」の立場から実践した例として,巣鴨家庭学校を取り上げ,その背後にある方法論や 思想を明らかにしている。幸助は, 1899年巣鴨に感化院を創設し,これを感化学校と名づけた。幸助が大教育家ペ スタロッテの「学校即家庭,家庭即学校」という考えに共鳴していたからである。この家庭学校では三位一体実物 教育(知育・徳育・体育・実物)が採用された。また,幸助はルソーやラスキンなどの自然観の影響を受け,天然 の感化カを信じ,それを教育実践に生かそうとした。さらに,欧米では宗教教育が感化事業を支えているので,辛 助も宗教教育を重視したO しかし,明治期の多くのキリスト教徒と同じように,草助も,国家主義的な見地に立っ て,体制内での社会改良を模索し続けた,と指摘されている。

第3章では,内務省嘱託として「官」の立場で行った率助の地方改良活動が.主に報徳思想との関係から論じら れている。明治国家は,日本の近代化を上から強力に推進したが,そのために官僚の役割が強調された。幸助は 1900年,内務省地方局の嘱託に就き,以後15年間,全国市町村の現実に直面し.地方改良運動に取り組んだ。その 時,幸助の運動の支えとなったのが報徳思想であった。ここで.天道と人道,勤労,倹約,推譲,分皮といった尊 徳の根本思想が手際よく述べられている。常日頃から日本のキリスト教界が日常的実践を欠いていることに違和感 を持っていたこと,農民の身になって指導した尊徳とキリストが酷似していたことなどが,幸助が報徳思想に傾倒

していった理由として挙げられているo幸助は,内務省の上からの運動の一翼を担い,報徳思想に基づいて,地方 改良運動に力を尽くした。しかし,幸助の思いとは袈腹に.明治政府は民衆に対する統制と支配を強化し,上から の指導体制を作り上げていったO

第4肇は,留岡率助が, 1914 (大正3)年北海道に創設した北海道家庭学校と感化農場が果たした役割と意義を, ロバート・オウエンのユートピア建設と比軟しつつ,考察している。幸助が北海道の地を選んだのは,教育は自然

と人間との共同作業であるという考えに見られるような自然観,農業観,労働観からであった。本論文は,北海道 家庭学校と感化農場を,個人的側面からだけでなく社会的側面からみても大きな意義があったと,評価しているO 例えば,社会的側面の意義の一つとして,幸助が地域全体の一員という視点から活動したことを取り上げ,コミュ ニティが重視されている現代から見ても評価されるとしている。これに対して,オウエンのユートピア建設は何故 失敗したのか,その理由について本論文は詳しく論じている。幸助の活動もオウエンの活動も人間愛に基づいてい た点では同じであった。幸助にはキリスト教信仰と国家的視点があり,また排他的でなく他人から学ぼうという姿 勢が見られた。これに対して,オウエンの土台にあったのは,キリスト教ではなく,全世界になければならない人 間愛・人類愛で,また,オウエンのユートピア建設は全世界規模のものでそこに無理があった。この箇所の論述は 大いに関心をそそるものがある。

第5輩では,初めに留岡幸助の人間観が考察され,その後で,同時代のキリスト者・海老名弾正の人間観と比較 され,幸助の人間観の特徴が明らかにされている。先ず,人間は本来,愛と同情を持っており,困殊や試練に遭遇 して発達する,という幸助の根本的人間観が,また霊性の開発や徳性の滴登の不可欠性,理想や主義の必要性を説 く,幸助の考えが手際よく述べられている。そして幸助には,一方で平等主義を主張していながら,他方ではそれ

(8)

32S

と矛盾する偏重的人間観があったことが,指摘されている。次に,留岡の人間観を海老名のそれとの比較で見ると, 人格,教養,心霊の救済.偏重的人間観,といった点では,留岡と海老名の考えにはそれほどの違いはない。しか し,自然や進化についての考えでは明らかに相違がみられる。留岡が自然そのものの存在を尊重したのに対して, 海老名は自然を人間が克服すべきものと捉えていた。

第Ⅰ部付論は,社会事業での先駆者である留岡幸助が,行刑制度の分野でも高く評価されていることから,幸助 と小河滋次郎や岡田朝太郎などとの交流を概観している。

第Ⅱ部

第6章では,大原孫三郎が社会事業家へと転換していく過程で,決定的に影響を受けた人物が取り上げられてい る。孫三郎は留岡幸助と違って,岡山倉敷の地主兼資産家に生まれている。だが,儒学者の孫であった父からも企 業家精神以外のものを受け継いだ。 15歳で東京に出た轟三郎は,東京専門学校(現早稲田大学)に入学したが,放 蕩三昧を極めた。しかしやがて人生の転換期を迎える。最初の転換は義兄・邦三郎の死であった。そして,下宿仲 間の友人・森三郎を通して二宮尊徳を,また,林源十郎を通して石井十次と聖書を知ることになる。これらの入物 と出会いその思想に触れたことが.その後の孫三郎の生き方を決定した。また,オウエンの理想主義からも孫三郎 は影響を受けた。

第7章は,大原孫三郎が手掛けた多くの事業のうちの倉敷紡績内の改革と大原社会問題研究所を取り上げ,それ らの意義について論じている。孫三郎は27歳の時,父に代わり倉敷紡績の社長に就任した。そして,工場を資本家 と労働者が共に働き高め合う場にしようという理想の下に,倉敷紡績内の改革に着手した。轟三郎のそうした理想 を表現したものが人格向上主義であった。この理想にしたがって行った具体的なものは,飯場制度の全廃.分散式 家族的寄宿舎の建設,工場内に職工教育部を創設したことなどであった。しかし,孫三郎の理想実現への情熱は, 当時,米騒動や労働運動が大きな社会問題になっていたこともあり,社会全体にも向かった。孫三郎は.そうした 社会問題の原因を科学的に究明し,その解決策を提示することの必要性を認識し,それを行う機関として,多くの

学者,研究者の協力を得て,大原社会問題研究所を設立した。本章は,その設立過程を敢蜜に記述している。

第8章では, 7肇で扱われた大原社会問題研究所から分離した倉敷労働科学研究所が取り上げられ,大原孫三郎 の果たした役割と科学尊重姿勢について考察されている。 1921年に同研究所は設立されたが, 「労働科学」という 名称は,ベルギーのソルヴェ‑研究所のイオティコ女史の著書から取られた。そして同研究所は日本における労働 科学の発祥地となった。しかも,規模は小さいながらも研究成果と提案を発信し,国の政策にも影響を与えること もあった。孫三郎が科学に期待するようになったのは,社会が複雑になり,慈善事業の限界を感じてきたためであ る。そしてその結果,オウエン的な考えを修正していったと,興味深い指摘がなされている。また本章では,労働 衛生行政の世界の状況とその日本における先駆者である後藤新平についての詳しい論述もなされている。

第9章では,大原孫三郎の経営理念である人格向上主義と武藤山治の温情主義とが比較考察されている。大原の 人格向上主義は,既に7章で詳しく論じられているので,本章では,多くのスペースが武藤の温情主義に費やされ ている。武藤の温情主義は時に家族主義ともいわれるように,家庭における親子関係を擬制したものである。武藤 は,親子の関係という家族的意味合いを持つ温情主義を掲げ,鐘ヶ淵紡績会社を率いたのであるが,武藤はそれを,

‑会社の枠を超え社会に対しても説いた。それは,ますます激しさを加えていた当時の社会に対する武藤の姿勢を 示すものであった。武藤は,享楽主義に走る資本家に反省を促すと共に,労働者にも利己主義に陥らないよう求め たのである。しかし,武藤の温情主義は.労働問題を前近代的な家的関係で対抗しようとするものであり,また, 功利主義,経済的合理主義的な理由から採用されている,といった点で大原の人格向上主義とは著しく異なってい

た,と論じられている。

第10車は,明治・大正時代に財界で活躍した渋沢栄一を取り上げ,渋沢が行った社会事業とその背景にある思想 を考察し,大原孫三郎との共通性と違いを明らかにしている。渋沢は社会事業でも多くのことに関わったが,本章 はその中で最も重要と考えられる養育院を扱っている。渋沢が養育院事業を推進すべきだとするのは,側隠・人 情・人道,また,共生・協同・社会への御礼という考えからで,社会防衛的見地というより人道的見地を強調して 養育院事業の重要性を説いた。そこには儒教的人道主義が見られた。渋沢はその儒教的人道主義に立って経済活動

(9)

も行った。それが「論語と算盤」という表現でいわれるものである。その特徴は,国家や公利を優先し共同や人道 を強調するもので,東洋の儒教思想と近代西洋の経済観念とを結合させたものであった。渋沢が,国家や共同を尊 重し共存共栄を重視した点では,大原も同じであった。だが,渋沢がそうしたことを「上」から考えたのに対して, 大原は「下」から考えた。要するに,渋沢には大原が持っている市民社会的要素が欠けていた,と説かれている。

第11章では,前章を踏まえた上で,渋沢栄一と大原孫三郎の協調観が考察されている。ここでの「協調」は.財 団法人協調会の協調主義が基軸になっている。同会は,原敬内閣時の内相・床次竹次郎が主導して設立されたもの で,渋沢が副会長を務めた。同会のいう協調主義は,平等な人格と人格の尊重を基底とし,労使の調和融合を目指 すものである。渋沢の協調観は,東洋的な徳義主義を基調とするものではあるが,時代の要求は拒まず,公平,対 等に立ち,権利と義務の一致,自己努力と自己責任,自主性と民間主導を肯定するものであった。一方,大原も時 代の要求を進んで受け入れ,公平,対等,自己賓任,自主性などといったものを積極的に認めていて,この点では, 渋沢と同じであったO しかし,大原の協調観は,主張や独創性といった概念を含んでおり,対等.公平,自由の皮 合いが渋沢のより大きく,市民臥 非権威主義的色彩の濃いものであった,という。

第12章では,大原孫三郎の多岐にわたる社会事業の中の文化事業の一つとして行った柳宗悦たちの民芸運動支援 について考察されている。ここでは,柳と民芸運動に関する先行研究の評価が概観され,柳の民芸観について論じ られている。柳の民芸観の特徴として, 「民」の重視,地域の重視,迎合しない独自の姿勢などが上げられているが, 孫三郎が柳らの民芸運動を支援したのは,まさにそうした柳の民芸観に共鳴したからであった。また,その背景に, 倉敷という土地の歴史的風土があったことが指摘されている。孫三郎の社会事業支援も倉敷という地域重視が核と なっていた。

第Ⅲ部付論は,大原孫三郎に大きな影響を与えた冒向高鍋生まれの石井十次がキリスト者として生きた生涯を取 り上げ,純粋なキリスト教徒として,民の立場から社会問題の克服,とりわけ孤児教育に捧げた十次の一生を考察 している。

終章は,本論文で取り上げた留同率助と大原孫三郎の共通点と相違点を概略し,率助と孫三郎の社会思想が持つ 現代的意義を考察したものである。福祉を享受できない人々に共感を持っていた,社会・労働問題に穏健かつ改良 主義的態度で,しかし.情熱を持ち果敢に取り組んだ,などの点では.率助と孫三郎とは共通していた。だが,個 や個の独立性,民主や自由を尊重する点では,轟三郎の方が幸助よりもより強かった。両者の間にこのような違い が生じたのは,幸助が1864 元治元)年生まれで, 1880 (明治13)年生まれの孫三郎より16歳上であったというこ

とがあった。だが.官僚主義がまだ残り,経済的合理性が優先され功利主義が支配的な今日,幸助と孫三郎の社会 思想と社会改良に尽くした態度は,いまなお現代的意義を失ってはいない。

[4]分析と評価

審査員から出された意見等を摘示すると以下の通りである0 第i部

第1輩で,留岡の刑法理論への言及がなされているが,議論が短くて理解しにくいところがある。付論「留岡幸 助と法律関係者達との交流」が審かれた所以であろうか。

第2章で,留岡が国家主義的になった理由の一つとして,横井時雄などの熊本バンドを挙げているが,この点は 極めて重安であるので,もっと詳しく論じてもよかったであろう。注(1)で感化法に触れられているが,これに ついて研究を深めていけば,本論文の主題からはやや外れるけれども,当時の内務省と司法省との関係など興味深 いことが分かるかもしれない。

第3輩で,幸助と内村鑑三のキリスト教信仰の土台には土着的なものがあったと指摘されている。しかし,内村 の二宮尊徳に対する態度には微妙な変化が見られたともいわれる。幸助と内村との関係は,第2聾と第5率の本文 と注でも少し触れられているが,そこでは,寧ろ,両者の違いが強調されている。幸助と内村との関係は,幸助の 理解にも重要だと思われるので,も少し詳しく論じてもよかったのではないだろうか。また,内務省は当時, 「田 園都市」構想を持っていたといわれるが.幸助にはそうした構想はなかったか。調べて見る価値はありそうである。

(10)

330

第4章で,感化部で行われていた活動が取り上げられているが,規模や人数などの具体的な記述があれば,もっ とよく理解されるのではないだろうか。

第5章における幸助と海老名の人間学の比較は非常に鋭く,両者の人間観の特徴がくっきりと措かれている。た だ幸助と海老名の自然観の比較は,興味深いものであるだけに短いのか階しまれる。

第Ⅱ部

第6章で,孫三郎の父・孝四郎について触れていて,大いに興味をそそるような人物のようであるが,残念なが ら少ししか言及されていない。また,孫三郎がオウエンをどういう経緯から研究するようになったのか,これにつ いてもあまり触れられていない。資料がないのであろうか。

第7章で扱われている大原社会問題研究所の設立に関わった学者の多くはマルクス主義者であったが,彼らは同 研究所を含む大原の活動をマルクス主義の立場から理論的にどう理解していたのか。これは興味深い問題であるの

で,もっと深めていけは 今後の研究に広がりと厚みを加えるのではないか。

第8章の注(44)で,孫三郎は早くから小作金納制を主張していたと述べた後で,轟三郎が柳田国男の『農政論』

を読んで影響を受けたと書かれているが,この点についても研究を深めていけば,孫三郎の農業論だけでなく,蘇 三郎と柳田との関係もより明らかになるのではないか。

第9章で,鐘紡共済組合が, 1922年制定の健康保険法に影響を与えたと述べられているが,当時の鐘紡の経営や 労働問題と政府の立法とは連動していたところもあったのではないか,今後の研究に期待したいO本章における武

藤山治の温情主義についての分析は大変鋭く,武藤と大原孫三郎の違いを浮き彫りにしている。

第10章と第11車で,大原の人格向上主義と渋沢栄一の儒教的入道主義との共通点と相違点とが,詳細かつ的確に 論じられていて,余すところがない。

第11章で協調会に対して異なった立場からの議論も述べられていて,公平な議論がなされている。

第12章は,孫三郎の民芸支援と民芸観が取り上げられているが,このテーマはこれまで先行研究がないものだけ に,大いに評価できる。

全体

本論文の特徴の一つは,常に現代という視点から議論が進められているということであって,それが本論文の現 代社会に対するレリバンスを高めている。申請者はもともと現実問題に強い関心を持っていて,修士論文のテーマ も「21世紀の日本の高齢者福祉」というのであった。本論文は,そうした現実への関心を思想史の中で,考えてみ ようとしたものだともいえる。実に, 「官」と「民」あるいは「公」と「私」ということが,本論文の核心である。

この「官」と「民」の問題こそが,留岡幸助を扱った第Ⅰ部でも,また,大原孫三郎を取り上げた第Ⅱ部でも,主 要テーマであって,随所にオリジナリティが見られる0第Ⅰ部の,特に第3象 第4車では, 「官」と「民」との 問で揺れ動く留岡の苦悩がよく捉えられている。しかしそれはまた,近代国家への道を歩み始めた明治という時代 の苦悩の反映でもあった。これに対して大原には,財団法人協調会への入会を拒んだことからも明らかなように,

「官」の影は殆ど見られなかった。そこには,大原が留岡と違った思想を抱いていたこともあるが,市民社会へと 動き始めていた当時の日本社会の時代背景もあった。また,第Ⅱ部,第9章や第10車などで,大原と比較されてい る武藤山治や渋沢栄一も, 「官」と「民」という視点から捉えられている。

本論文では, 「比較」という方法が随所で取られ,それによって,論点が鮮明になり,主張が一層明瞭になって いる。最も大きな比較は,西洋と東洋・日本という比較で,その基本軸はやはりキリスト教と儒教である。そし て,キリスト教と儒教の比較は,西洋の市民社会と日本の市民社会の違いの理解に大きな光を投げかけている。そ の他,オウエンのユートピア論と留岡幸助と大原孫三郎の理想主義との比較(第4, 8章),フランクリンと二宮尊 徳の職業倫理の比較(第3牽),ペスタロツチやトルストイと留岡の教育観や勤労観の比較(第2牽),また,比較 軸は少し異なるが,内村鑑三の中における西洋のキリスト教と「代表的日本人」の思想の比較,などが注目される。

何れも,論点を際立たせ,主張を明瞭にしている。時代や世代の相違が,社会思想や活動・実践に大きな違いを持 ち込んでいることを,多くの比較で明らかにしている1840 (天保11)年に生まれた渋沢栄一, 1864 (元治元)年

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生まれの留岡, 1867 (慶応3)年に生まれた武藤山治, 1880 明治13)年生まれの大原の間には,社会観,人間観 に大きな違いが認められる。その違いが.専ら儒教の受け止め方の違いや時代背景の違いに由来することを,本論 文は独自の観点から詳細に論じている。

本論文全体を通して,自然一環境問題が,一つの重要なテーマになっている。第Ⅰ部では,第2章で,留岡幸助 の自然観と感化事業の関係が扱われ,第4章で,留岡の自然観が,農業観,労働観との関連で論じられているし, 第5車でも海老名弾正の自然観との比較がなされている。また,第二部でも,第14車で,大原孫三郎の自然観に触 れられていて,柳宗悦の民芸に共鳴したのは,真の芸術は自然から得るところ大であるという自然観からであると, 指摘されている。さらに,終章でも,留岡と大原の自然一環境観が包括的に述べられている。留岡も大原も,近代 西洋の社会思想や科学・技術から多くを学んだが,自然観に関しては近代西洋の征服論的自然観ではなく,寧ろ東 洋的自然観を受け入れ,自然と経済社会との調和・共存を目指した。もっとも,ルソーやラスキンなどの自然観に は共鳴してはいたがO こうした留岡や大原の自然一環境観は,自然一環境問題が最も深刻な問題になっている現在, 改めて見直されてよい。そういう意味で,自然一環墳問題が本論文の一つの重要なテーマになっているのは,本論 文の現代的意義を高めていて評価される。

本論文は恐らく,目次にあるような順序で番かれたのであろう.後にいくほど議論の枠組みが明瞭になっていて, それだけ主張が説得力を持っている。これは.基本的に帰納的方法を採る社会科学研究においては当然のことでは あるが,しかし例えは 殺後のところに置かれている概念の整理や研究対象の記述などは液初のところに置いても よかったのではないだろうか。そうすれば,読者は初めから本論文の議論の枠組みが見え,本論文全体の理解を容 易にするのではないだろうか。だが,本論文は主題の追求にしたがって,順序を追って着実になされており,構成 上に問題はないo 終車において,主題の研究を今後は,世界・東アジア.日本というより広い空間の中で,しかも 本研究の過程で次第に熱成してきた福祉市民社会という概念で,追求していこうとする方向性が示されており,本 研究の将来の発展が大いに期待される。

以上を総合的に判断した結果,本論文が「博士(学術)早稲田大学」の学位に倦するものと認めるO一

2006年10月4日

主任審在fl 審 査 員 審 査 員 審 査 員 怒 ffi 員

早稲田大学社会科学総合学術院教授 早稲田大学社会科学総合学術院教授 早稲田大学社会科学総合学術院教授 早稲田大学社会科学総合学術院教授 早稲田大学政治経済学術院教授

経済学博士(早稲田大学)古賀勝次郎 照屋 佳男 経済学博士(神戸大学) 東棟 隆進

.島  S ft

白木 三秀

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博士(学術)学位論文概要書

『留岡幸助と大原孫三郎の社会思想

一日本近代化過程における社会改良実践の一考察‑』

兼 田 麗 子

1.問題意識と巨的

1980年代のいわゆるバブル経済以降の探刻な不況の影響もあって,構造改革と民間活力が重視され,自由,魂争 に基づく効率性・市場原理の重要性が再確認されている。自己賓任や自助努力がこれまで以上に強調されている感 もある。市場原理の追求は,人間活動の効率化や活性化にとってもちろん不可欠なものである。しかし,我々のよ り良い暮らしのためには,経済効率と同様に,協同・共存についても再認識の必繋があることは指摘されてきた。

現在,生活スタイルや人々の意識,及び社会構造の変化によって少子高齢社会化が進んでおり,労働九 年金と いった経済・社会・福祉の問題は一般的にとても大きな不安材料となっている。より良い暮らしを求めてのニーズ は多様化・増加する一方で,もはや,それらへの対応を一極集中的に国に期待すること,或いは園をはじめとする 公的機関に依存するのみの福祉政策には無理があるのではないかと考えられるようになってきた。このような状況 下で.自助の精神を持ちながら,国や自治体の限界にも対応しようとする非営利団体(NPO)や互助の活動が活 発化し,クローズアップされるようになった。我々により近い存在の主体が地域を中心にしてリーダーシップを発 揮していく重要性がこれまで以上に強く認識され始めている。

私は,修士課程では.フィランソロピー(社会貢献)精神を基礎に持つNPOをテーマに選択して,日本のNPO の現状と問題点を他国との比較も含めて整理した。そして.高齢者福祉分野のNPOを事例にとり, NPOが公共分 野の「下」からの担い手として発展を遂げて,人々の期待に応えていくにはどのような役割を担っていけば良いの かを考察するためにアンケート調査を行ったO その結果として,私は,高齢者福祉分野に於けるNPOには,国や 自治体,及び営利企業とは異なる役割分担の可能性が存在すること,そしてそれが期待されていることを確認したo また, NPOのみで現実問題の実際的解決にあたることは錐しく,政府などの「官」とNPOなどの「民」が連携して いくことが重要であることも再認識した。

その後,博士課程で私は, NPOとそれに関連する現代の福祉政策を学ぶことを選択せずに,それらを見据えな がら,現代社会が抱える問題の処方を歴史に求めることにした。歴史研究から出発して,民間活力溢れる市民福祉 社会づくりに必要な視点を過去から洞察しようと考えたのであった。

2.日本近代化の過程

封建時代を終えた日本は,欧米諸国の近代国家という枠組みのみを模倣した形で,中央集権国家を「上」からつ くっていった。当時は,現代と同株に,意識や社会構造が変化し,閉塞感や危機感の充満する変革の時代であった。

当然,近代的な個人や市民という意識は人々の間に確立されておらず,政府・官僚主導による「上」からの.とい う動きが主たるものであった。そのような時代制約の中で,人々のフィランソロピー精神.変革への参加意志と勇 気.行動力,創意工夫の度合いはかなり大きかったと言えるのではないかO明治維新も国の行末を危ぶんだ一種の

「下」からの動きだったとも考えられ,近代国家成立以前の日本でも民間活力や果敢な行動力.創意工夫が富んで いたと思われる。現代になって注目を浴びている民間による社会貢献の動きは,日本の歴史上にこれまで存在しな かった新しいことではなく,遡ること100年前の20世紀初めにも存在したのであった。

従って,私はそのような時代に生き,フィランソロピー精神の下で,自分達のよりよい生活のために問題点を 進んで改革しようとした先駆的な社会改良者の思想と実際の活動を現代的意義を求めながら考察することにした。

我々が生活する場としてのコミュニティへの貢献可能性について歴史に指針を求めたいと考えたのであった。

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3.実践者,留岡幸助と大原孫三郎

資本主義化による社会構造的な貧富の差が発生し出した明治・大正期には社会貢献を行い.変革や啓蒙に従事し た入物は多数存在した。福祉に何らかの役割を果たした人物は少なくないと思われるo Lかし,私の力量から考え ると,可能な限り少数例に絞って研究することが最善策と思われたため,考察する際に念頭に入れておきたいキー ワードを書き出してみた。その結果,フィランソロピー精神,人類愛,キリスト教などにまでつながり得る権威主 義的でない公共性一江戸時代からの連続性‑.民間人としてのリーダーシップ.体系的な実践,創意工夫,経済や 現実に対する合理的視点,個人も重視する姿勢.私益偏重や功利主義的ではない.心・精神・道徳と学術・経済・

物質・科学の両立などというものが浮かび上がってきたO また,東アジア的‑儒教圏的‑な観念に偏重するのでは なく,逆に近代欧米的な観念に無批判に追随するのでもなく.それら両者を重視し,無意識的にも融合を図ろうと した可能性を持つ人物を考察したいと考えた。このような基準に従って.私は,社会事業家の留同率助(1864‑

1934)と実業家の大原孫三郎(1880‑1943)を選択した。

留岡幸助は,幕末に生まれ,明治,大正.昭和を生きた日本の社会事業の先駆者と目される実践家である。明治 維新を経て急連な近代国家づくりへと向かう中で様々な社会的歪みが表面化してきた時代に.多様な人との交流を 通じて多岐にわたる活動をした人物である。キリスト教を信仰するようになった率助は,同志社を卒業後,活ける キリスト教で社会改良へと乗り出した。率助の最初の本格的な社会実践の場は,教会を拠点に伝道を行った京都の 丹波周辺であった。その後,率助は,以前から心密かに目指していた監獄改良への道を一歩踏み出すことができた。

率助は北海道空知集治監の教範師に就任し,そこで,囚人達の置かれている状況やそれまでの経歴などを見開する 機会を得たのであった。そして,国家が「上」からつくられていた時代で,なお且つ.監獄改良の分野では「官」

関係の人達でも海外留学があまり見られなかった頃に.事助は, ‑民間人として,海外に於ける監獄状況や動向を 研究するために渡米した。明治時代という時代の制約上,惰民観や国家主義という側面も幸助は有していたが,活

けるキリスト教で不遇な人たちを照らし, 「施し」的な慈善事業から学術を備えた社会事業へと進める必要性をい ち早く説いた。また,率助は,民間人として信念に基づいて感化教育に携わったのみならず.内務省地方局の嘱託 という「官」の立場からも社会改良を試みた。公的福祉制度としては1874 明治7)年に制定された馳救規則しか 存在しなかった頃に率助は,社会行政の整備も必要であるとの見解を示し, 「民」と「官」との連携をいち早く図

ろうともした。

もう1人の大原孫三郎は,留岡幸助よりも16年後に.地主と紡績会社の経営を兼ねる資産家に生まれ,青年期に 岡山孤児院を運営していた石井十次に感化されてキリスト者となった一地方の実業家であったO大資産家の子供と して生まれ,金銭での失敗に直面した轟三郎は.石井十次や聖番.二宮尊徳などから影響を受け,より良い社会づ くりのために尽力することが自分の使命であると改心・決心した。その後.孫三郎は,自分が経営を行うように なった倉敷紡績内の改革を人格向上主義という信念に立って断行していった。資本家と労働者の利害の一致の存在 を確信していた孫三郎は,地主と小作人,及び富者と貧者との間にも一致点があると考え,小作人や労働者の生活 安定のために独自の対策を講じていったOそれらが大原農業研究所や大原社会問題研究所,倉敷労働科学研究所, 倉敷中央病院などの設立であった。また.孫三郎は,岡山孤児院に対して物心両面での支援を行うと共に,倉敷と いうコミュニティの人々の啓蒙にも貢献した。当時の知識人を私費で招聴した倉敷日曜講演会は長期にわたって継 続された。さらには,優秀な学生や研究者の教育・留学襲用の支援も多数行った。大原孫三郎は,頑固な性格など によって生前,誤解される面も多かったようであるが,その支援やリーダーシップは,一概に,資産家だったため に可能だったとは言いきれないほど徹底したものであった。

4.社会事業家と実業家,生年に16年の差がある人物を取り上げた理由

1人ではなく最初から2人を考察対象に取り上げたことには理由があった。可能な限り多くの社会改良例に目を 向ければ,時代性や日本における福祉や公共に関する状況変化の過程を考察することができると期待したからであ る。しかし.私のカ墓からいって多数例を考察することには無理がある。そこで, 2人を例にとって研究を進める ことにしたのであった。それでは,なぜ同じような範噂でくくれる2人を選択しなかったのか,というと.前述し た私の課題を繰り返すと,自分達の問題を自分達自身のものとして受け止め, 「民」の立場から改善に積極的に寄

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334

与しようとした動きの考察である。 「民」とは,キリスト敦の隣人愛に基づいて弱者救済活動を積極的に行った幸 助などの社会事業家達ばかりではない。 「民」の中のそのような人達ばかりが社会実践を積極的に果たしたのでは なかった。ステレオタイプ的に型にはめて社会実践をとらえたくなかったため,全くタイプの異なる2人,それも 並行的に研究されることのほとんどない留岡幸助と大原孫三郎を選択した。

さらに,取り上げた2人の生年には16年のずれがある。渋沢や福沢などの「天保の老人」に近い留岡幸助と「明 治の新青年」に属す大原孫三郎を考察することによって,近代日本の形成過程,及び社会改良の思想の変化を浮き 立たせることができるのではないかと考え,少し時代がずれた人物を取り上げた。

5.構成

本論文は,留岡幸助を扱った第Ⅰ部と大原孫三郎についての第Ⅱ部から成っている。第Ⅰ部の第1章と第2章で は,幸助の経嵐 民間人として創設した感化学校での実践活動とその背後にあった思想についてまとめた0第3章 では,報徳思想を手段として,幸助が内務省嘱託の地位で携わった地方改良運動の有意性の考察を試みた。第4章 では,社会事業経験の集大成として幸助が創設した北海道家庭学校と新農村での実践をロバート・オウエンの実践 とも比較しながらその有意性を考察した。第5章では,人権観念の欠如が批判されることを鑑みて幸助の人間観に Elを向けた。そして,第Ⅰ部の付論として,行別制度分野でも活動した幸助と法律関係者達との交流について簡単 にまとめてみた。尚,留同率助については,石井十次研究と同級 個別的な教育・施設面などの研究が意欲的に行 われているが,私は,日本の社会思想史の研究の歩みの中で幸助を扱おうとしたので,そのような詳細な施設史な

どには踏み込まなかった。

次に,大原孫三郎について記した第Ⅱ部では,初めの第6車で,孫三郎の生きた時代,及び孫三郎の経歴と思想 形成過程についてふれた。第7章と第8章では,孫三郎の倉敷紡績内での改革や大原農業研究所,大原社会問題研究 所.倉敷労働科学研究所の設立に関して取り上げた。第9牽,第10肇,第11車では,各々,鐘紡の経営者,武藤山 治と「財界の大物」ながらも社会事業に多数関わった渋沢栄一を取り上げ,孫三郎と比較検討を行った。さらに第 12章では,孫三郎が行った柳宗悦など‑の支援と孫三郎の背後にあった故郷の風土からの影響に関して考察した。

そして第Ⅱ部でも付論として,第12率と関連付けることを目的として,孫三郎に大きな影響を与えた石井十次の思 想形成についてまとめてみた。

2003年10月に,留岡幸助と大原孫三郎を考察した『福祉実践にかけた先駆者たち‑留岡幸助と大原孫三郎』を出 版し,その後,不足な点などについて様々な評やアドバイスを得た。また,時間の経過と研究の続行により,考え 直したり,再認識する点なども出てきた。それらを基にして,色々と書き足してみたこと‑新たに行った必須概念 の整理,留岡幸助と大原孫三郎について,また両者から学んだこと‑を終章では記述した。これまで,.考察事例に 目を和ナる場合,可能な限り事実をみるべく,実証科学的ということを考慮してまとめたつもりであるが,結びの 代わりとしてまとめた終章では,私なりの意見を多数入れて記述してみた。全13章プラス付論2つから成る本論文

は,社会事業の先駆者たる留岡幸助と実業家の大原孫三郎という‑見かけはなれた人物を取り上げはしたが,両者 の人類愛や使命感につながったと思われるキリスト教,伝統的な儒教的・報徳思想的考え方,オウエンとの対比な どという共通の基軸一束アジア的なものと近代欧米的なもの‑をもって一貫して考察することに注意を払った。そ の一方で,その基軸を念頭に置きながらも,考察するテーマや分野は,社会事業家と実業家という両者の相違を浮 き立たせるものを選択したつもりである。

6.考察を終えて

私は,留岡幸助と大原孫三郎の人道・博愛主義に基づいた率先的な実践の研究を通じて,社会構造の変化に対し ては,国や地方自治体のみが改革に当たるばかりではなく,民間人も意識改革や努力を行い,リーダーシップを発 揮しながら対応していく必要があることを改めて強く感じた。幸助も孫三郎も,個人の人格の確立と独立自営の精 神をことさら重視すると共に,人間愛,共存・公共・フィランソロピー精神に基づいて行動した。両者は,儒教精 神を引き継ぎ,そしてキリスト教にも感化を受けた人物であった。言わば,儒教圏的側面と近代欧米思想からの影 響を融合させた特徴を有していたのであった。それらが現代の我々に語りかけるものは多いと考え, 2人の人道・

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博愛主義に基づいた率先的な実践から学んだ点を私なりに整理した。私の研究のほんの始まりでしかない。そこで は,到底着手することはできなかった研究課題も見えてきたo それら‑キリスト教などまでにつながり得る権威主 義的ではない儒教の中の公共性や東アジアとの関連性など一について紘,今後,徐々に扱っていきたいと考えてい るところである。

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