文化から野蛮へ : アンリにおける生の自己否定論(
一)
著者 服部 敬弘
雑誌名 人文學
号 198
ページ 1‑20
発行年 2016‑11‑30
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015574
文 化 か ら 野 蛮 へ
│
│ アン リ に おけ る 生 の自 己 否 定論
︵ 一
︶│
服
│部 敬 弘
序 主
著﹃ 顕現 の本 質﹄ にお いて アン リは
︑自 己触 発概 念の 彫琢 を通 じて
︑フ ッサ ール やハ イデ ガー とは 異な る独 自の 現 象学 の 確 立 を試 み る︒ そ の独 自 性 は︑ 脱自 を 本 質 とす る
﹁超 越﹂ 領 域と
︑そ の 脱 自 を根 源 的 受 動 性 に お い て 被 る
﹁ 内 在﹂ 領 域 と い う﹁ 現 出 の 二 元 論
︵
duplicité de l’apparaître
︶﹂ に よ っ て 支 え ら れ て い る︒ し か し
︑こ の﹃ 顕 現 の 本 質﹄ の周 知の 企図 は︑ それ 以降 の歩 み に お いて
︑或 る 変 容を 被 る こと に な る︒ と いう の も︑ ア ンリ は
︑内 在 を﹁ 生﹂ と形 容す るこ とに よっ て︑ 一方 で内 在概 念に 一層 豊か な内 実を 与え つつ
︑他 方で
︑こ の生 を起 点と して
︑い わば 生の 一元 論と でも 形容 すべ き﹁ 生の 現象 学﹂ の構 築に 着手 する から であ る︒ 生 の現 象学 が︑ 現出 の二 元論 から 生の 一元 論へ の徹 底化 にお いて 完成 を見 ると すれ ば︑ その 完成 まで の道 は困 難を 伴 わな い わ け には い か ない
︒こ の 一 元論 化 に 伴 う困 難 を 如実 に 示 す 著作 の ひ とつ が
︑﹃ 野 蛮﹄⑴
で あ る︒
﹃野 蛮
﹄以 前
― 1 ― 文
化 か ら 野 蛮 へ
の著 作が アン リ哲 学の 理論 編で ある とす れば
︑﹃ 野 蛮﹄ は︑ 理論 的に は二 次的 な意 味し かも たな いと みな され てき た︒ 実際
︑﹃ 野 蛮﹄ はそ れま での 理論 的成 果を 社会 分析 に 適 用し た 点 で︑ アン リ 哲 学の 応 用 編 であ り
︑ま た その 分 析 対象 が時 事的 であ る点 で︑ それ は アン リ 哲 学 の﹁ 入門 書
﹂で あ るか の よ うに み え る︒ し かし
︑﹃ 野 蛮﹄ は︑
﹃ 顕現 の 本 質﹄ 以降 の歩 みに おい て試 みら れた 或る 主題 とそ の困 難と を集 約的 に記 述し てい る点 で︑ アン リ哲 学の 理論 編の 重要 な展 開を 含む 書物 でも ある
︒ そ の主 題が
︑﹁ 生 の自 己否 定
﹂で あ る︒ 超 越か ら 内 在へ の
﹁上 昇﹂ を 試み た
﹃顕 現 の 本質
﹄に 対 し て︑
﹃マ ル ク ス﹄ や﹃ 精神 分析 の系 譜﹄ は︑ この 内在 概念 のよ り 精 緻 な彫 琢 を 試み る と 同時 に
︑内 在 か ら超 越 へ の﹁ 下降
﹂を は か る︒
﹃ 野蛮
﹄は
︑ま さに この 内在 から 超越 への 下降 を﹁ 生の 自己 否定
﹂と して 主題 的に 語っ たテ キス トな ので ある
︒ 実 際︑ アン リが
︑内 在か ら超 越へ の下 降を 試み るこ とで 内在 と超 越と の架 橋を はか ると き︑ この 試み は︑ 一方 で生 の一 元論 化の 試み とし て解 釈し うる
︒と 同時 に︑ それ は︑ 他方 で古 典的 困難 をも 予測 させ る︒ 従来 の複 数の 指摘 の通 り︑ アン リの 二元 論は
︑そ の用 語法 の新 奇さ に反 して
︑実 質的 には 古典 的図 式の 中を 動い てい るが
︑古 典的 図式 の採 用は
︑古 典的 困難 をも 招来 しう るか らで ある
︒内 在と それ と根 本的 に異 質な 超越 とを 架橋 する 試み は︑ 超越 を許 容し えな い内 在内 部に 超越 の起 源を 組み 込 む と いう 困 難 な作 業 を 求め る
︒こ れ こ そ︑
﹃野 蛮
﹄が
﹁生 の 自己 否 定﹂ に おい て直 面す る困 難で ある
︒そ こで 本稿 は︑ 従来 哲学 的分 析の 対象 とし て顧 みら れる こと の少 なか った
﹃野 蛮﹄ が︑ まず 生の 一元 論化 を試 みた テキ スト であ る点 を示 し⑵
︑ さら にそ れが 伴う 困難 に対 し て いか に 自 覚 的対 応 を 行っ て い るか を明 らか にす るこ とを 目指 す︒ そ こ で 考 察の 手 順 は︑ 以下 の 通 りで あ る︒ ま ず﹃ 野 蛮﹄ にお け る 現 出 の 二 元 論 の 展 開 と し て︑
﹁ 文 化﹂ と﹁ 野 蛮﹂
文 化 か ら 野 蛮 へ
― 2 ―
の内 実を 確認 する
︵第 一節
︶︒ 次 に︑ 身体 と︿ 大地
﹀と の関 係 を 通じ て 文 化か ら 野 蛮へ の 転 落 の過 程 を 具体 的 に 描き 出 し︑ そこ に
﹁生 の 自 己否 定
﹂の 契 機を 見 る こと で
︑こ の 一 連の 歩 み を生 の 一 元 論化 の 試 み と し て 理 解 す る
︵第 二 節︶
︒ 最後 に︑ この 生の 自己 否定 が︑ いか に生 の運 動の 只 中 に位 置 づ けら れ
︑ま た 最終 的 に そ れが 超 越 への 下 降 と生 の一 元論 化を 可能 とす るか を論 究す るこ とに よっ て︵ 第三 節︶
︑ アン リに おけ る﹃ 野蛮
﹄固 有の 意義 を明 らか にす る︒ 第
一 節 美 的 世界 と し ての 文 化
﹃顕 現の 本質
﹄以 降の 歩み が示 す重 要な 点の 一つ は︑ 自 己 触発 と し て定 義 さ れた 内 在 が︑ 決 して 単 な る自 己 性 にと どま るこ とな く︑
﹁ 生︱
の︱
世 界︵
monde-de-la-vie
︶﹂ と 呼ば れ る 独自 の 厚 みを 備 え て いる こ と であ る
︒こ の﹁ 生︱
の︱
世 界﹂ を﹃ 野蛮
﹄は
︑﹁ 美 的世 界︵
monde esthétique
︶﹂ とし て記 述す る︒
﹃野 蛮﹄ は︑ この
﹁美 的﹂ とい う語 を
︑﹁ 感 性 的﹂ と同 義 の 概念 と し て使 用 す る︒ そ れは
︑﹁ 生
﹂と 同 義の 概 念 でも ある
︒ア ンリ によ れば
︑理 論的 意味 での 感性 とは
︑も っぱ らカ ント 的な 意味 での 感性 であ る︒ それ に対 して
︑実 践的 意味 での 感 性 と は︑
﹁生
﹂で あ り︑
﹁ 生に 属 す る世 界
﹂︑
﹁ 生︱
の︱
世 界 の 様式
﹂で あ る︒ ア ンリ は
︑﹁
esthétique
﹂ の 二重 の意 味を 参照 する こと で︑ この 生の 世界 を感 性的 かつ 美的 世界 とし て捉 える
︒﹁ 芸 術家 や芸 術愛 好家 の特 別な 活動 は︑ 感性 によ る生 の現 実化 でし かな い﹂⑶
︒ した がっ て︑
﹁感 性的 世界 は︑ それ 自体 で︑
︹
・・
・︺ 美的 世界 であ る﹂⑷
︒ 美 的世 界を 構成 する 生に つい て︑ ここ で簡 単に 概観 して おこ う︒
﹁ 感性
﹂︑
﹁ 芸術
﹂と して の生 は︑ 一方 で︑
﹃顕 現の 本質
﹄に おけ る﹁ 情感 性﹂ と同 義の 概念 とし て捉 えら れる
︒つ まり
︑そ れは
︑根 源的 受動 性に おけ る自 己の 直接 的感
― 3 ― 文
化 か ら 野 蛮 へ
得と して の﹁ 自己 触発
﹂で あり
︑自 己性 の本 質 を 構 成す る 概 念で あ る︒ そ れを ア ン リ は︑
﹁自 己 保 存﹂ とし て 捉 えて いる
︒つ まり
︑生 の自 己触 発は
︑自 己と 自己 との 直接 性で あ り︑ 自己 と 自 己と の 紐 帯︵
﹁ パト ス の 絶対 的 拘 束﹂⑸
︶で あ るが ゆ え に︑ 自 己が た え ず自 己 で あ る こ と︑ 自 己 が 自 己 の う ち に と ど ま る こ と の 現 象 学 的 表 現 で あ る︒ そ れ は︑
﹁ 自己 を維 持す るこ と︵
se garder
︶﹂
︑﹁ 自己 を保 存す るこ と︵
se conserver
︶﹂⑹
であ り︑ この
﹁自 己保 存﹂ の契 機 が︑
﹁生 の恒 常性
︵
con-sistance
︶﹂⑺
を 確保 する
︒ 他 方で
︑そ こに は﹃ 顕現 の本 質﹄ では 言及 され なが らも 中心 主題 とな らず に﹃ マル クス
﹄以 降︑ 本格 的に 主題 化さ れる に至 った
﹁自 己増 大﹂ の契 機が 加わ る︒ 自己 増大 とは
︑い わば 自己 が現 実性 を獲 得す る過 程を 指す
︒自 己触 発と して の生 は︑ 単に 論理 的で 抽象 的な 同一 性で はな く
︑自 己 性︵
ipséité
︶と し て︑ つ まり 常 に 直 接的 自 己 感得 と い う具 体的 経験 とし て︑ その つど 現実 性を 獲得 する から であ る︒ こ の自 己現 実化 とし ての 自己 増大 は︑ 自己 と自 己 と の 同一 性 を 現実 化 す る過 程 で あ ると 同 時 に︑ 自己 を
﹁個 別 化﹂ する 過程
︑自 己感 得を 個々 の﹁ 調性
﹂と して 多 様 化 する 過 程 でも あ る︒ 生 とは
︑﹁ 絶 対 的 なも の が 自己 に 至 り︑ 自己 を感 得 し︑ 生の 本 質 であ る 自 己 抱擁 に お いて 自 己 を抱 擁 す る 無限 に 多 様で 多 彩 な仕 方
﹂⑻
だか ら で ある
︒そ れ を アン リ は﹁ 生自 身 の 可 能性 の 現 実化
﹂⑼
とみ な す︒
﹁ 生成
︵
adevenir
︶﹂
︑﹁ 歴史 性
︵
historial
︶﹂ と い っ た言 葉 で も 表さ れ る こ の現 実化 の過 程が
︑生 の自 己増 大の 過程 とし て把 握さ れる
︒ こ の過 程は
︑ア ンリ にと って 生が
﹁自 己を 陶冶 する
︵
se cultiver
︶﹂⑽ 過 程で ある
︒こ の語 が想 起さ せる 哲学 史 的 含意 を背 景と して
︑こ の 生の 自己 陶冶 の過 程が
︑生 の自 己増 大︑ ある いは 生の 自己 発展 の過 程で ある と同 時に
︑﹁ 文 化︵
cul-
ture
︶﹂ の 真 の意 味 と して 理 解 さ れる
︒芸 術 や 美的 世 界 は︑ 文化 の 具 体 的な 姿 で あ る
︒な お
︑芸 術 作 品 の 製 作 が
︑文
文 化 か ら 野 蛮 へ
― 4 ―
化と いう わけ では なく
⑾
︑む しろ 主体 の芸 術作 品へ のか かわ り 方︑ そ の﹁ 行為
﹂の あ り 方 が︑ 文化 と し ての 生 の 運動 とみ なさ れる
︒ で は︑ 文化 とし ての 生の 運動 は︑ 実際 の芸 術作 品 に お いて ど の よう な 仕 方で 与 え ら れる の か︒ ア ンリ は
︑﹁ ダ フニ の僧 院﹂ と呼 ばれ るギ リシ アの 教会 建築 を例 に挙 げる
︒ダ フニ の僧 院の 壁画 には
︑様 々な モザ イク や大 理石 とい った
﹁ 物質 的支 え﹂ によ って 表現 され た壁 画を 見る こと が で きる
︒こ の 僧 院建 築 を 構成 す る 第 一の 要 素 は︑ その 僧 院 に使 わ れて い る
﹁石
﹂や
﹁木 材﹂ と いっ た 物 質的 素 材 であ り
︑客 観 的 対 象 で あ る
︒し か し
︑そ れ は 僧 院 と い う 建 築
︵芸 術︶ 作品 の本 質を 構成 しな い︒ 芸術 作品 の芸 術性 は︑ 作品 の﹁ 美的 構成
﹂に よっ て規 定さ れる
︒そ れは
︑作 品や その 物質 的素 材を 超え た﹁ 統一
﹂︑
﹁ 作品 の全 体性
﹂で ある
︒こ れが 第二 の要 素で ある
︒ダ フニ の僧 院の 場合
︑丸 天井 や内 拝廊 等に 描か れた 作品
︵宗 教画
︶は
︑ま ずそ れが 描か れた 物質 的土 台と の有 機的 統一
︑さ らに それ ぞれ の作 品と の間 の有 機的 統一 が︑ その 作品 を作 品た らし めて いる
︒さ らに
︑こ れら の作 品の 背後 にあ る宗 教的 背景 全体 こそ が︑ より 高次 の統 一と して 僧院 全体 を支 えて いる
︒こ の統 一︵
﹁ 霊的 統一
﹂︶ は︑ その 部分 を取 り出 せば その 本質 が失 われ てし まう 統一 であ る︒ この 統一 こそ
︑作 品を 客観 では なく 芸術 作品 たら しめ てい る統 一で ある
︒ こ の統 一は
︑﹁ そ こか らど んな 生け るも の も 由 来す る と ころ の 能 産的
︿原 理
﹀︵
Principe naturant
︶﹂⑿
と 呼 ば れる
︒つ まり
︑単 なる 統一 の保 持だ けで はな く︑ それ は個 々の 作品 の芸 術性 を生 み出 す原 理で もあ る︒ 僧院 建築 は︑ 一方 でこ うし た個 々の 作品 を超 えた 全体 性に よっ て支 えら れな がら も︑ 個々 の作 品︵ 壁画
︑建 築︶ とい う形 で︑ 個別 的な 形態 とし ても 現れ てい る︒ アン リは
︑こ れを
﹁所 産的 諸形 態︵
formes naturées
︶﹂ と 呼ん だう えで
︑こ の所 産的 形 態を
︑単 なる 物質 的要 素と は区 別し て特 徴づ けて いる
︒客 観的 には 大理 石で ある 物質 は︑ 能産 的︿ 原理
﹀た る美 的構 成に 与る
― 5 ― 文
化 か ら 野 蛮 へ
とき
︑所 産的 形態
︑﹁ 作 品﹂ とし て提 示さ れう る︒ ダフ ニの 宗教 画の 場合
︑中 心に 位置 する 原︱
イコ ンた るキ リス トの 統一 に支 えら れて
︑そ の周 辺の 絵画
︵聖 史の 登場 人物
︶が
︑絵 画と して の意 味を 保持 する ので ある
︒こ の周 辺の 絵画 は︑ 統一
︑あ るい は﹁ 一な るも の︵
Un
︶﹂⒀
に支 えら れな が ら︑
﹁ 原︱
イ コン の 諸 顕 現な い し 諸流 出
︵
émanation
︶﹂⒁
のよ うに 現れ るの であ る︒ こう した 生の 統一 に支 えら れた 限り での 個別 的で 具体 的な 諸形 態が
︑僧 院の 芸術 性を 構成 する 第三 の要 素で ある
︒ し たが って
︑僧 院は
︑客 観化 され た物 質︑ 生の 統一
︑生 の個 別的 形態 によ って 構成 され る︒ 生︱
の︱
世 界と して の美 的世 界を 構成 する のは
︑後 二者 であ る︒ それ は︑ 生の 統一 が︑ 個別 的形 態と して 展開 する 運動 であ る︒ これ をア ンリ は︑ 文化 とみ なす
︒そ れゆ え︑ 文化 とは
︑単 に製 作さ れた 芸術 作品 のこ とを 指す ので はな く︑ 生の 統一 に与 るあ らゆ るも のを 指す
︒ こ こ で︑ 生 の 個別 的 形 態に 関 し て︑ これ が
﹁生 の 表 象﹂⒂
と 呼ば れ る 点に 注 目 し よ う
︒こ の
﹁生 の 表 象
﹂と は
︑決 して
﹁生 の客 観﹂ では ない
︒そ れは
︑生 がそ の自 己性 を手 放す こと なく 現実 の世 界に おい て現 れた もの であ り︑ 生が
﹁ 生︱
の︱
世 界﹂ にお いて 具体 化し た姿 であ る︒ つま り︑ 生は
︑自 己と の統 一を 維持 しな がら
︑多 様な 仕方 で︑
﹁生 の表 象﹂ とし て自 己を 現実 化す る︒ 逆に 言え ば︑ 生の 統一 に与 るこ との ない もの は︑ 生の 統一 から 切り 離さ れた 客観 的対 象へ と転 落す る︒ これ をア ンリ は﹁ 生の 客観 化﹂ と呼 ぶ︒ ダ フニ の僧 院の 例を 用い るな ら︑ アン リ は︑ ダフ ニ の 僧 院の 修 復 作業 に お いて
︑そ れ ぞ れ の壁 画 が︑ 中 心の 原︱
イ コン との 統一 を回 復す る形 での 修復 が真 の修 復と みな して いる
︒し かし
︑現 実に 進行 して いる 修復
︑つ まり 歴史 的変 遷に おい て徐 々に 改変 を加 えら れて きた 壁画 を製 作年 代に 従っ て元 の姿 に戻 そう とす る科 学的 修復 は︑ 作品 の素 材を
文 化 か ら 野 蛮 へ
― 6 ―
客観 的対 象と する と同 時に
︑原
︱
イコ ンと の関 係を 切 断 し解 体 す る︒ この 生 の 統一 か ら の 切断 と 解 体こ そ
︑生 の 表象 の客 観化 をも たら すの であ る︒ こ こで 重要 な点 は︑ 生は
︑一 方で
﹁生 の 表 象﹂ と して
︑す な わ ち芸 術 と して 現 実 化 しな が ら︑ 他 方で
﹁生 の 客 観﹂ とし ても 現れ うる とい う点 にあ る
︒つ ま り︑ 生 は︑ 一方 で
︑自 己 保存 と 自 己増 大 の 過 程に お い て︑
﹁生 の 表 象﹂ とし て︑
﹁ 文化
﹂を 実現 しつ つ︑ 他方 で︑ この 同じ 過程 の 只 中で
︑自 己 を 客観 化 す るの で あ る︒ こ の生 の 客 観化 の 過 程こ そ︑ 文化 が﹁ 野蛮
﹂へ と転 落す る過 程で ある
︒ア ンリ は︑ こ の過 程 を﹁ 生 の自 己 否 定︵
autonégation de la vie
︶﹂⒃
と呼 ぶ︒
第 二 節
﹁ 身 体︱
所 有
﹂ と生 の 様 態 で
は︑ なぜ 生は
︑自 己保 存と 自己 増大 を続 ける だけ でな く︑ 自己 否定 へ転 化す るの か︒ この 問い をア ンリ は次 のよ うに 表現 する
︒﹁ も し生 が必 然的 に文 化を 産出 する ので あ れ ば︑ 生の 自 己 増大 と い う目 的 に 向 かう 生 の 自己 変 革 運動 が︑ 反対 に︑ 退化 と弱 体化 の過 程へ と逆 転し うる のは
︑い かに して か︒ 野蛮 を現 に確 かめ るこ とが でき る以 上︑ 野蛮 それ 自体 が奇 妙だ とい うわ けで はな い︒ 奇妙 なの は︑ ほか でも ない
︑自 己増 大と して 内的 に構 築さ れ︑ まさ に文 化を 含意 する 当の 本質 から
︑野 蛮が 生じ ると いう こと であ り︑ この 可能 性そ のも ので ある
﹂⒄
︒ こ の問 いの 重大 性を 一層 明確 にす るた めに
︑美 的世 界に 関す るア ンリ のさ らな る分 析を たど って おこ う︒ 美的 世界 の成 立は
︑生 の自 己増 大の 過程 とし て理 解さ れた
︒で は︑ この 美的 世界 に︑ 人間 は︑ どの よう な形 で関 与し てい るの
― 7 ― 文
化 か ら 野 蛮 へ
か︒ アン リに よれ ば︑ 美的 世界 は︑ 人間 から 独立 して いる わけ では なく
︑あ くま でも 主観 性の 行為 の様 態に 根付 いて いる
︒個 々の 作品 の美 的性 格は
︑そ の統 一に 求め られ たが
︑こ の統 一は
︑主 観性 の外 部に ある もの では ない
︒ア ンリ によ れば
︑そ れは
︑作 品が 与え られ る仕 方の なか に存 して いる
︒ア ンリ によ れば
︑﹁ 作 品の 場所 は︑
︹・
・・
︺主 観性 その もの であ り︑ この 場に おい て︑ どん な感 覚も どん なイ マー ジュ も形 成さ れる ので ある
﹂⒅
︒ さ らに
︑個 々の 作品 は
︑作 者 や 鑑賞 者 が 感じ る
﹁個 々 の情 感 的 調 性︵
tonalité affective
︶﹂⒆
に 対 応 して い る︒ 情 感的 調性 とは
︑こ の場 合︑ 情感 性の 個別 的様 態︑ 生の 多様 なあ り方 を指 して いる
︒作 者は この 調性 を作 品に 投影 し︑ 鑑賞 者は 作品 に投 影さ れた 作者 の調 性を 感得 する
︒そ して
︑こ の調 性は
︑人 間が 行為 する 際︑ 常に 自己 触発 にお いて 感得 され るも ので ある がゆ えに
︑あ らゆ る行 為に 伴っ てい る︒ 作品 が客 観で はな く生 の表 象た りう るの は︑ 主観 性の 感得 す る情 感 性 が︑ 時 空間 で 個 体化 さ れ 客観 化 さ れ るの で は なく
︑自 己 触 発 内部 で 個 体化 さ れ て感 得 さ れ うる か ら で あ る︒ し たが って
︑生 と美 的世 界︑ 生と その 表象 との 関係 は︑ 自己 触発 とそ の調 性と の関 係︑ 生と その 個別 的様 態と の関 係 で あ る
︒こ れ を ア ン リ は
︑﹁ 身 体
﹂と
﹁︿ 大 地﹀
︵
Terre
︶﹂⒇ と の 関 係 で 説 明 し よ う と す る︒ こ の︿ 大 地﹀ の 概 念 は︑ ア ンリ が す で にビ ラ ン 論で 提 示 した
﹁絶 対 的 抵 抗﹂ と ほぼ 同 義 の概 念 で あ る︒ すな わ ち︑ そ れは
︑主 観 的 身体 の 努 力が 従属 させ る相 対的 抵抗 とし ての 有機 的身 体と は区 別さ れた
︑努 力が それ に対 して 屈す ると ころ の絶 対的 抵抗 であ り︑
﹁ 障害
﹂で ある
︒こ の︿ 大地
﹀こ そ︑ 客観 化さ れた 世界 とは 区別 され た︑ 生︱
の︱
世 界に 内実 を与 える 概念 であ る︒
︿大 地﹀ は︑ 身 体 から 離 れ て存 立 す るの で は な い︒ 身体 か ら 独立 し た 世界 は
︑客 観 化 さ れ た 世 界 で し か な い︒
︿大 地﹀ は︑ 抵抗 の﹁ 感情
﹂と いう 個別 の調 性と して
︑身 体自 身の 自己 感得 とし ての み現 れる から であ る︒ 身体 の自 己感
文 化 か ら 野 蛮 へ
― 8 ―
得 の 個 別 的 様 態 が
︿大 地
﹀で あ る な ら
︑︿ 大 地
﹀と 身 体 と は
︑常 に 直 接 性 の 関 係 に お か れ る︒ こ の 関 係 を ア ン リ は
﹁ 共所 有︵
Copropriation
︶﹂ と呼 んだ うえ で︑ さら にこ の所 有の あり 方を
﹁身 体︱
所 有︵
Corps-propriation
︶﹂ と 呼ぶ
︒生
︱
の︱
世界
︑生 の表 象︑ ある いは
﹁文 化﹂ とは
︑総 じて この
﹁身 体︱
所 有﹂ の現 実化 とし て理 解さ れる こと にな る︒ こ こ で︑
︿ 大 地﹀ に対 す る 身体 の 優 位を 強 調 し てお こ う︒ 両 者は
︑﹁ 身 体︱
所 有
﹂の 関 係 に お か れ て い る と は い え︑ つま り︿ 大地
﹀が
﹁絶 対的 抵抗
﹂と して 与え ら れ る とは い え︑ そ れは
︑あ く ま でも 身 体 運 動に 応 じ て変 化 す る︒
︿大 地﹀ とは
︑身 体が 感じ
︑身 体の 絶対 的統 一に よっ て支 えら れた
﹁調 性﹂ でし かな いか らで ある
︒ア ンリ はこ の点 につ いて 次の よう に述 べる
︒﹁ 本 質的 に︑ 自 然 は︑ 本源 的
︿身 体﹀ の 意の ま ま にな る
︒つ ま り それ は
︑運 動 の変 動 的 相関 項で あっ て︑ ある いは 運動 の固 定さ れた 限界 であ る︒ この 場合 の﹁ 固定 性﹂ は︑ 運動 にお いて のみ
︑運 動に よっ ての み規 定さ れて いる ので ある
︒﹂ し かし
︑こ の身 体と
︿大 地﹀ との 直接 的関 係 は 常 に保 た れ るわ け で はな い
︒と い う のも
︑自 然 の 工業 化 は︑ 身 体︱
所有 が崩 れ︑
︿ 大地
﹀が
﹁道 具的 装置
﹂へ と転 落し た事 態と して 理解 され るか らで ある
︒自 然は
︑﹁ 工業
﹂や
﹁サ イバ ネテ ィク ス﹂ とい った 科学 技術 の総 体へ と還 元さ れる
︒そ れは
︑本 来身 体が
︿大 地﹀ と維 持し てい た﹁ 共所 有﹂ の関 係が 崩壊 し︑ この
︿大 地﹀ が客 観化 に供 さ れ て﹁ 生 の教 え に 従わ な く なる
﹂と い う﹁ 存 在 論的 転 倒﹂ の 帰結 で あ る︒ そし て︑ これ をア ンリ は︑
﹁ 文化
﹂か ら﹁ 野蛮
﹂へ の転 落の 過程 の一 つと して 捉え てい る︒ こ こで 改め て想 起す べき は︑ 生が
﹁世 界﹂ へ と開 か れ る 仕方 が 二 通り 存 在 する 点 で あ る︒ 一方 で 生 は︑ 身体
︱
所有 を通 じて
︿大 地﹀ とし て自 己展 開す る︒ それ は︑ 生の 統一 が︑ 個別 の情 感的 調性 とし て展 開さ れる こと と等 しく
︑生 の自 己保 存と 自己 増大 の運 動に よ って 説 明 可 能で あ る︒ 他 方で
︑生 は
︑身 体︱
所 有 を 離れ て
﹁道 具﹂ と して も 展 開さ
― 9 ― 文
化 か ら 野 蛮 へ
れう る︒ この とき
︑生 は自 己自 身 と の 直接 的 関 係を 失 っ て︑ 客観 化 さ れ る︒ ここ に は︑
︿ 大地
﹀や
﹁生 の 表 象﹂ と呼 ばれ る﹁ 生︱
の︱
世 界﹂ と﹁ 道具
﹂や
﹁客 観﹂ と呼 ばれ る科 学的 世界 との 二種 類の 世界 が存 在す る︒ で は︑ 前者 が︑ まさ に生 の個 別的 様態 であ るな ら︑ 後者 は︑ 生と 無関 係で
︑生 とは 別領 域に 属す る世 界な のだ ろう か︒
﹃ 顕現 の本 質﹄ が提 出し た﹁ 超越
﹂と
﹁内 在﹂ と い う二 元 論 に従 う な ら︑ 内在 は
︑あ く ま でも 超 越 から 独 立 した 純粋 領域 とし て構 想さ れて いる
︒﹃ 野 蛮﹄ もま た︑ この 二 元 論に し た がっ て
︑二 つ の世 界 を 独 立し た 領 域と し て 考え るの だろ うか
︒ 本 稿の 問題 関心 に照 らし て重 要な 点は
︑ア ンリ が︑ 文化 から 野蛮 への 転落 を︑ 決し て生 の構 造に とっ て異 質で 偶然 的な 事態 とし ては 捉え てい ない 点 に あ る︒ 第一 に
︑ア ン リは
︑﹃ 野 蛮﹄ 第 四章 に 至 っ て︑ 野蛮 が
︑決 し て文 化 と 無関 係 では な く
︑ま た 相互 排 除 する の で もな く
︑む し ろ﹁ 相 互内 属
︵
inhérence réciproque
︶﹂ の 関 係 と し て 捉 え る べ き で あ ると 主 張 す る︒ 野蛮 は
︑生 そ のも の か ら生 じ る と いう こ と︑ す なわ ち 野 蛮 が生 の
﹁一 様 態﹂ で ある こ と を主 張 す るの であ る︒
﹁ 科学 を作 り︑ ある いは むし ろ科 学そ のも ので ある 超越 論的 諸 所為
︵
prestations
︶は
︑例 え ば芸 術 に おけ る創 造と 同じ 資格 で︑ 絶対 的な 生の 諸様 態と して 理解 され なけ れば なら ない
﹂
︒ し たが って
︑概 念化
︑抽 象化
︑観 念化 とい った 客観 化に 属す る理 論的 諸作 用は
︑す べて
﹁実 践の 様態
﹂で あり
﹁生 そ れ自 身 の 様態
﹂ であ る
︒こ の こ とが 意 味 する の は︑ 生 が 単に 客 観 化さ れ る だけ で な く︑ こ の客 観 化 がま さ に 生そ のも のに 由来 する とい うこ とで ある
︒す でに 美的 世界
︑生
︱
の︱
世界 が︑ 生の 表象 とし て︑ 生の 運動 の只 中で 理解 でき るこ とは 示し た通 りで ある
︒し かし
︑そ れだ けで なく
︑野 蛮の 段階 にあ る客 観的 世界
︑科 学の 世界 もま た︑ 生の 運動 の只 中で 理解 可能 であ る︒
文 化 か ら 野 蛮 へ
― 10 ―
第 二に
︑こ うし た客 観的 世界 の生 成は
︑生 の﹁ 偶然 的﹂ 様態 では ない
︒ア ンリ は︑ それ が﹁ 必然 的﹂ 様態 であ るこ とを 強調 する
︒例 えば
︑ア ンリ は︑ 客観 的世 界の 生成 を﹁ 生へ の嫌 悪﹂ と形 容し つつ
︑そ れが
︑ま さに
﹁生 が必 然的 に通 過す る 調 性の 一 つ﹂ に 根 ざし て い る と主 張 し︑ ま た︑ 科学 的 観 念性 と
﹁パ ト ス﹂ と が﹁ 内的 必 然 性に 従 っ て﹂ 結ば れて いる と説 明す る︒ ア ンリ は︑ すで に文 化か ら野 蛮へ の転 落の 過程 を﹁ 生の 自己 否定
﹂と して 理解 して いた
︒し たが って
︑野 蛮が 文化 の一 様態 であ り︑ 生の 一様 態で ある とい う主 張は
︑ま さに 生の 自己 否定 が︑ 生の 様態
︑そ れも 生の 必然 的様 態で ある こ とを 意 味 し てい る
︒実 際︑ ア ンリ は 次 のよ う に 述 べる
︒﹁ 生! の! 否! 定! は!
︑ま! さ! に! こ! の! 生! の! 一! 様! 態! で! あ! る! と! い! う! こ! と!
︑ この こと こそ
︑わ れわ れが より よく 理解 しは じめ るも ので ある
︒こ のこ とは
︑こ の否 定が それ 自体 とし て生 きら れて いる こと を意 味し てい る﹂
︒
﹃顕 現の 本質
﹄の 立場 とは 異な り︑
﹃野 蛮﹄ が︑ 文化 と野 蛮︑ すな わち 内在 領域 と超 越領 域と を︑ 生と いう 一つ の運 動に よっ て架 橋し
︑内 在の な か へ と│ その
﹁様 態
﹂と し て│ 包摂 し よ うと 試 み る とき
︑﹃ 野 蛮﹄ は︑ 生 の一 元 論 化に 積極 的に 乗り 出し てい るか のよ うに 映る
︒そ こに は︑ もは や二 つの 独立 した 領域 が並 存す るの では なく
︑一 つの 生と その 様態 だけ が存 在す る︒ 生が
︑一 方で
︑自 己増 大を 経て 文化 とし て展 開さ れ︑ 他方 でそ の必 然的 様態 とし て︑ 自己 否定 を経 て野 蛮へ と転 落す るの であ る︒ この 野蛮 にお いて
︑生 が消 滅す るこ とは ない
︒科 学は
︑生 を存 在論 的﹁ 基底
︵
Fond
︶﹂ と し て︑ 常に そ れ と本 質 的 関係 を 保 つ から で あ る︒ では
︑﹃ 野 蛮﹄ は 内在 と 超 越 とい う 現 象学 的 二 元 論 を︑ 最終 的に
︑生 の一 元論 へ導 くの だろ うか
︒そ うで ある なら
︑そ れは いか にし て可 能な のか
︒
― 11 ― 文
化 か ら 野 蛮 へ
第 三 節 生 の 自己 否 定 科
学を 生の 一様 態と みな し︑ 野蛮 を文 化の 一形 態と みな すこ と︑ それ は︑ 生の 自己 否定 を生 の運 動の 一形 態と みな すこ とで ある
︒こ の生 の一 元論 の確 立の ため には
︑ア ンリ は︑ 生の 自己 否定 を︑ 生の 自己 保存 と自 己増 大の 運動 のな かに 組み 込む 必要 があ る︒ では
︑こ こで 第二 節冒 頭の 問い を別 の形 で改 めて 提出 すれ ば︑ 構造 上客 観化 を許 容し ない 生が
︑い かに して 自身 の構 造内 部に 自己 否定 の契 機を 統合 しう るの だろ うか
︒ こ の問 いに 答え るた めに
︑生 の自 己否 定が
︑具 体的 にど のよ うな 形を とる かを 確認 しよ う︒ 生は
︑自 己触 発で ある 限 り で︑ 常 に 自 分 自 身 を 根 源 的 受 動 性 に お い て 被 っ て い る
︒そ れ を ア ン リ は﹃ 顕 現 の 本 質﹄ 以 来
︑﹁ 受 苦︵
sou-
ffrance
︶﹂ と 表現 する
︒こ の 受 苦に お い て︑ 生は 自 己 性 を実 現 し︑ 現 実性 を 獲 得す る が ゆ えに
︑こ の 受 苦は 自 己 増大 をも たら し︑ この 自己 増 大が
﹁力
﹂と し て 感 得さ れ る こと で
︑そ れ は﹁ 享受
︵
jouissance
︶﹂ や﹁ 喜び
︵
joie
︶﹂ を もた らす こと とな る︒ し かし
︑こ の受 苦は
︑た えず 自己 を自 己へ と釘 付け にす る︒ そこ では 自己 が現 実的 内容 とし て到 来し つづ ける
︒そ れは
︑た えざ る自 己到 来と して
︑自 己の 横溢 であ り︑ その 体験 は﹁ 横溢 の陶 酔﹂ であ る︒ しか し︑ この たえ ず直 接的 に 与え ら れ る 自己 と い う横 溢 的 内容 は
︑自 己 に は或 る 時 点で
﹁重 荷
︵
charge
︶﹂ と し て 感じ ら れ る
︒そ れ は
︑自 己 に と って は
﹁実 存 の 重み
﹂ とし て 感 じら れ る︒ 自 己 は︑ この 重 荷 を自 己 触 発の 直 接 性 にお い て 被る 以 上︑ そ れと 距 離 を置 くこ とが で き ない
︒そ の 結 果︑ 自 己と い う 重荷 が
﹁耐 え 難い も の
︵
intolérable
︶﹂ と して 現 れ る
︒ 享受 さ れ た自
文 化 か ら 野 蛮 へ
― 12 ―
己は
︑い まや
﹁重 荷﹂ とし て﹁ 支え るこ との でき ない もの
︵
insupportable
︶﹂ と化 す︒
﹁ この 重み はあ まり に重 く な り︑ 負 荷︵
fardeau
︶と し て︑ 支 え るこ と の でき な い 負荷 と し て 感じ ら れ うる と い う こ と は
︑次 の 事 実 に 由 来 す る
︒つ ま り︑ 生は
︑自 分が 背負 った もの
︑つ まり 自分 自身 から 解き 放た れる こと がで きな いと いう こと であ る︒ この 不可 能性 が︑
︹
・・
・︺ 重荷 を倍 加し
︑そ れを 耐え 難い も の とす る
︒し た がっ て
︑支 え るこ と の で きな い も のが
︑生 の 現 象学 的実 効性 にお ける 生の 内的 本質 でし かな い﹂
︒ 自 己が 自己 自身 にと って
﹁支 える こと ので きな いも の﹂ とな った 時点 で︑ 自己 には
﹁生 では あり たく ない とい う意 志﹂
︑﹁ 生 に対 して 背を 向け るこ と︵
se tourner contre la vie
︶﹂
︑﹁ 自己 の重 荷を 下ろ そう と意 志す るこ
fa dé ired es oi
と︵vouloir de se
︶﹂
︑﹁ 自 己か ら逃 れよ うと する 意志
﹂ が生 じる
︒そ れを アン リは
﹁生 が自 分自 身を 否定 しよ うと す る意 志﹂ と名 づけ る︒ つま り︑ 生が 重荷 へと 変わ った 時点 で︑ 生の 自己 否定 が生 じる ので ある
︒ 生 の自 己否 定は
︑重 荷を 下ろ そう とす る欲 求で あり
︑自 己以 外の もの へと 変わ ろう とす る欲 求で ある
︒し かし
︑こ の 自己 否 定 が︑ 実 際に 実 現 され る こ とは な い
︒自 己 との 紐 帯 を切 断 す る こと は 永 遠に 不 可 能だ か ら で あ る
︒そ こ に
﹁ 不 満︵
mécontentement
︶﹂ や﹁ 不 安︵
angoisse
︶﹂ が 生 じ る︒ そ れ を ア ン リ は
︑生 の 運 動 の﹁ 抑 圧
︵
refoulement
︶﹂ と 表現 する
︒こ の抑 圧に よっ て生 じる のは
︑自 己増 大の エネ ルギ ーが 使用 され ずに ただ
﹁不 快感
﹂だ けを 生じ させ る事 態で ある
︒自 己増 大の 運動 は︑ 阻害 され
︑停 滞と 膠着 状態 を強 いら れる
︒ こ う し た 状況 に 対 して 生 が 見出 す 唯 一 の解 決 策 は︑
﹁外 在 性 への 逃 避﹂ で あ る︒ こ の逃 避 の 諸 様 態 が︑
﹁野 蛮
﹂に ほか なら ない
︒ア ンリ は︑ その 具体 例を
﹁テ レビ
﹂に 求め てい る︒ テレ ビは
︑第 一に 芸術 作品 では なく 科学 技術 の産 物で ある
︒第 二に
︑そ れは
︑生 の統 一と い う 恒常 性 か ら遊 離 し て︑
﹁時 事 性
︵
actualité
︶﹂ と い うた え ず 移ろ い ゆ くつ
― 13 ― 文
化 か ら 野 蛮 へ
かの 間の 映像 を与 え続 ける
︒ダ フニ の僧 院に お いて は
︑キ リ ス トと い う 原︱
イ コン を 不 動 の中 心 と して
︑そ れ と の有 機的 連関 を維 持し たま ま︑ その 周辺 に多 様な 宗教 画が 配さ れて いた のと は対 照的 に︑ テレ ビに おい ては
︑こ のよ うな 中心 がな く︑ ただ 映像 の経 過が
﹁消 え去 るた めに のみ
﹂視 聴者 の前 に置 かれ てい る︒ ここ にア ンリ は︑ 生︱
の︱
世 界が 破壊 され た﹁ 死﹂ の世 界と して の野 蛮の 典型 的な 一例 を見 出し てい る︒ 本 節冒 頭の 問い に戻 れば
︑こ うし た生 の自 己否 定︑ ある いは 自己 破壊 は︑ 生自 身の どの よう な構 造か ら必 然的 に帰 結 する の だ ろ うか
︒重 要 な 点は
︑こ う し た生 の 自 己 増大 か ら 自己 破 壊 へ の転 換 の 瞬間 が
︑ア ン リ に と っ て
︑自 己 が
﹁ 重荷
﹂と なり
︑﹁ 支え るこ との でき ない もの
﹂と なっ た瞬 間に 求め られ てい る点 であ る︒ アン リは
︑こ の瞬 間を
︑文 化か ら野 蛮へ の転 落の
﹁源
︱
点﹂ とみ なし てい る︒ では
︑ど のよ うに して 自己 は﹁ 支え るこ との でき るも の︵
support-
able
︶﹂ から
﹁支 える こと ので きな いも の︵
insupportable
︶﹂ と なっ たの か︒ この 否定 の 接 頭辞
﹁な い
︵
in
︶﹂ は︑ い つ︑ どこ から 到来 した のか
︒
﹃野 蛮﹄ にお いて
︑自 己触 発に おけ る自 己 の 感得 は
︑美 的 世界 を 支 え︑ 文化 を 可 能 とし て い た︒ しか し
︑こ の 自己 が突 如と して
﹁支 えら れな いも の﹂ とな る︒ 前節 の︿ 大地
﹀の 図式 を再 び用 いる なら
︑身 体は
︑自 然を
︑一 方で
︑そ の﹁ 身体
︱
所有
﹂に おい て︿ 大地
﹀と して 享受 し な がら
︑他 方 で︑ こ の同 じ 自 然を 突 如 と して 客 観 化し
︑外 在 性 へ逃 避 する の で あ る︒ なぜ こ の﹁ 自 己﹂ とい う
﹁重 荷﹂ が︑ 突 如と し て 支 える こ と ので き な い も の へ 転 化 す る の だ ろ う か︒ こ の問 いに 対し て︑ いつ 生の 自己 否 定 が 生じ る か につ い て は︑
﹃野 蛮
﹄は
︑次 の よ うに 明 言 する
︒す な わ ち︑ 生の 運動 であ る﹁ 力﹂ が︑ その 自己 感得 の﹁ 絶頂
︵
paroxysme
︶﹂ に達 した とき であ る︒ しか しな がら
︑な ぜ この 絶 頂 にお
文 化 か ら 野 蛮 へ
― 14 ―
いて 突如
︑自 己否 定が 生ま れる のか に つい て
︑﹃ 野 蛮﹄ は 明確 な 答 えを 提 出 して は い な い︒
﹁︹ こ の 絶頂 に お いて
︺わ れ われ は
︑力 の 行使 を
︑そ れ 固 有の 存 在 論的 条 件 の否 定 と い う形 態 以 外で は
︑考 え るこ と は な い﹂ と 述べ る に 終始 する
︒ま た︑ ここ で生 の自 己否 定は
︑﹁ 緊 張が 弛緩 する
﹂ 事 態と して も 語 られ る
︒し か し︑ こ うし た 一 連の 生 の 自己 否定 的契 機が
︑い かに して 自己 触発 構造 のな かに 統合 され う る の かに つ い ては 明 確 な説 明 を 見 出す こ と がで き な い︒ それ は︑ 生の 原初 事実 のよ うに 前提 され てい るだ けで ある
︒ た だ︑
﹃ 野蛮
﹄に おけ るア ンリ の一 連の 思索 から は︑ 生 の 自己 否 定 に関 す る︑ 二 つの 重 要 な 言及 を 見 出す こ と がで きる
︒第 一に
︑教 育へ の言 及で ある
︒一 方で
︑ア ンリ は︑ 野蛮 へ転 落す る生 の自 己否 定の 運動 が︑ 生の 必然 的契 機で ある こと を強 調す る︒ それ が必 然的 契機 であ る以 上︑ 生の 自己 否定 は︑ いわ ば個 人の 意志 とは 無関 係に 生じ る過 程と いえ る︒ その 意味 では
︑個 人は
︑決 して 文化 から 野蛮 への 転落 に抗 うこ とは でき ない
︒重 荷を 支え るこ とが でき なく なる のは
︑個 人の 意志 の弱 さゆ えで はな く︑ 生の 必然 性ゆ えだ から であ る︒ し か し
︑他 方 で
︑ア ン リ は
︑こ の 野 蛮 へ の 転 落 が︑ 個 人 的 努 力 に よ っ て 回 避 し う る 可 能 性 を 示 唆 す る︒ 例 え ば︑
﹃ 野蛮
﹄第 七章 にお いて アン リは
︑﹁ 教育
﹂に その 可能 性を 託し て い る
︒ 教育 が
︑文 化 的 陶冶 を 助 け︑ とり わ け 哲学 教育 の復 権は
︑大 学教 育を 支配 する
﹁科 学的 な知
﹂に 対抗 しう る可 能 性 を与 え る こ とに な る
︒ し たが っ て︑ 確 かに 野蛮 への 転落 を︑
﹁ 個人 的﹂ 問題 とみ なす なら
︑生 の自 己否 定と は︑ 個人 の資 質の 問題 へ還 元さ れる だろ う︒ しか し︑ 個人 の資 質で 生の 自己 否定 が生 じる なら
︑そ れは 生の 自己 否定 の﹁ 必然 性﹂ と矛 盾す る︒ アン リは こう した 生の 自己 否定 の超 個人 的性 格に つい て両 義的 立場 に とど ま り 続 ける
︒こ の 両 義性 は
︑內 年代 以 降 の アン リ が 主題 化 す る﹁ 生﹂ と﹁ 自己
﹂︑ あ るい は﹁ 絶対 的生
﹂と
﹁生 ける 者﹂ との 関係 に深 くか かわ る︒ とい うの も︑
﹃我 は真 理な り﹄ 以降 のア
― 15 ― 文
化 か ら 野 蛮 へ
ン リは
︑両 者 の 関 係を
︑一 方 で﹁ 相 互内 在
﹂と し て語 り
︑そ の 区 別 を 最 小 化 し つ つ
︑他 方 で
︑独 特 な 意 味 で の
﹁超 越﹂ とし て語 るこ とで
︑そ の区 別を 最大 化す ると いう 両義 的態 度を とる から であ る︒ 第 二に
︑創 造活 動の 不在 への 言及 であ る︒ 野蛮 への 転落 は︑ 重荷 を支 える こと がで きな くな る瞬 間に 駆動 する
︒そ れは
︑ア ンリ によ れば
︑生 の自 己増 大の エネ ルギ ーを
︑芸 術の 創造 活動 に使 用す るこ とが でき ない から であ る︒ この 事態 を︿ 大地
﹀の 概念 によ って 表現 する なら
︑そ れは
︑生 が︑ 身体
‐
所 有を 通じ て生 の表 象と して 十全 に展 開さ れな い状 態で あり
︑つ まり は生 が﹁ 抵抗
﹂に 出 会 う こと が な く︑
﹁客 観
﹂と し か出 会 わ な い状 態 と 等し い
︒し か し︑ 生が 望ん でも 抵抗 と出 会い えな い事 態が 存在 する なら
︑生 は︑ 抵抗 を自 らの 意の まま にで きな いこ とを 認め るこ とに なる だろ う︒ それ は︑ 生の 絶対 的先 行性 と矛 盾 す る こと に な る︒ とは い え︑ 生 は︑
︿大 地
﹀す ら 自 ら産 出 す ると 主 張 する なら
︑生 は︑ 自己 感得
︑有 機的 抵抗
︑絶 対的 抵抗 との 区別 をす べて 失う こと にな るだ ろう
︒
﹃野 蛮﹄ が︑ 生の 自己 否定 の問 題を
︑個 人の 資質 や創 造活 動の 不在 へ還 元す ると き︑
﹃野 蛮﹄ は︑ 生
=
内在 の定 義と 矛盾 をき たす こと によ って でし か︑ 生の 自己 否定 の起 源を 説明 する こと がで きな い︒ 生の 自己 否定 を生 の内 的構 造へ 組み 込む こと は︑ 現出 の二 元論 から 生の 一元 論へ の移 行が 求め る不 可避 の条 件で ある︒し かし
︑内 在と 異質 な超 越を 内在 内部 に位 置づ ける 困難 な作 業に とり かか る と き︑ ア ンリ の 思 考は
︑﹃ 顕 現 の本 質
﹄で 獲 得 した 自 己 触発 と し ての 内在 概念 とは 根本 的に 相容 れな い事 象に 対峙 する こ と を 強い ら れ てい る よ うに 思 わ れ る︒ それ は
︑内 在 と超 越 と の︑ 或る 種の 等根 源性 とい う事 象で ある
︒ア ンリ の思 考に 課せ られ たこ の事 象は
︑内 在と 超越 とい う概 念枠 組だ けで は思 考不 可能 であ り︑ その 意味 でこ の概 念枠 組を 内側 か ら 根 底的 に 揺 るが す も ので あ る︒ そ う であ る 以 上︑ この 事 象 は︑ アン リの 思考 にと って 決し て二 次的 では あり え な い︒
﹃ 野蛮
﹄の 分 析 を通 じ て 浮か び 上 が った の は︑ ま さに こ の 根本
文 化 か ら 野 蛮 へ
― 16 ―
的事 象で ある
︒た とえ
﹃野 蛮﹄ が生 の自 己否 定論 に不 十分 な解 決し か示 して いな いと して も︑ われ われ をこ の事 象へ と導 いた 点に
︑﹃ 野 蛮﹄ 独自 の意 義を 見出 すこ とが でき る︒ 結
以 上︑ 本稿 は︑
﹃ 野蛮
﹄が 文化 とし て定 義す る内 実 を︑ 美 的世 界 の 記述 を 通 して 確 認 し たの ち
︑こ の 文化 が 野 蛮へ と転 落す る過 程を
︑﹁ 身 体︱
所有
﹂の 概念 をて がか りと して 探り
︑最 終的 にそ れが
﹁生 の自 己否 定﹂ とし て論 じら れる 過程 を概 観し た︒ そし て︑ 最終 的に この 生の 自己 否定 が︑ 自己 保存 と自 己増 大か ら成 る生 の運 動の 内的 構造 へと いか に統 合さ れる かを 追跡 し︑
﹃ 野蛮
﹄に おけ る生 の一 元論 化の 試み と︑ その 困難 への 自覚 的対 応を 明ら かに した
︒ し かし
︑生 の自 己否 定が
︑い かに 生の 自己 触 発 構 造の 内 部 に組 み 込 まれ る か と いう 問 い に対 し て︑
﹃ 野蛮
﹄は
︑解 決に は至 って いな い︒ その 意味 で︑ 現出 の二 元論 か ら 生 の一 元 論 への 道 は︑
﹃ 野蛮
﹄に お い て 十分 に 仕 上げ ら れ てい ると は言 いが たい
︒本 稿の 分析 は︑ この こと を明 らか にし たは ずで ある
︒た だ︑ 同じ 主題 は︑
﹃ マル クス
﹄の 領有 論︑
﹃ 精神 分析 の系 譜﹄ の意 志論
︑さ らに は無 意識 論 を はじ め と する
﹃顕 現 の 本質
﹄以 降 の 諸 分析 に お いて
︑断 続 的 な形 で取 り上 げら れ︑ その 解決 の糸 口が 探ら れて いる
︒﹃ 野 蛮﹄ も事 実︑ 野 蛮の 生 成 を﹁ 政治 経 済 の 超越 論 的 生成
﹂ とし て語 るこ とで
﹃マ ルク ス﹄ を参 照し
︑ま たそ れを
﹁未 使用 のエ ネル ギー
﹂と して 語る こと で﹃ 精神 分析 の系 譜﹄ を参 照す る︒ そう であ る以 上︑ これ らの 分析 につ いて は︑ 稿を 改め て論 じる こと によ って
︑生 の自 己否 定論 に対 する アン リの 解答 の全 体像 を見 定め るこ とと した い︒
― 17 ― 文
化 か ら 野 蛮 へ
注
⑴
M.Henry,Labarbarie,Paris,PUF,1987.
⑵
Cf.F.Seyler,«Barbrieouculture»L’éthiquedel’affectivitédanslaphénoménologiedeMichelHenry,Paris,ÉditionsdeKimé,
2010,p.42.
こ の 研 究 は
︑﹁ い か に 生 が
│ そ の 内 在 ゆ え に 可 視 性 を 逃 れ る に も か か わ ら ず
│ 思 惟 さ れ 語 ら れ う る の か
﹂︵p.82
︶ と い う 問 い を 提 出 す る 点 で
︑ 本 稿 と 問 題 関 心 を 共 有 し な が ら
︑ ア ン リ の 諸 テ キ ス ト に 生 の
﹁ 規 範 性
﹂ の 根 拠 を 探 査 す る 点 で
︑ 生 の 内 部 構 造 に お け る 生 の 自 己 否 定 の 位 置 づ け を 問 う 本 稿 の 歩 み と は 異 な っ て い る
︒ な お
︑ 同 じ 著 者 に よ る 同 一 主 題 の 別 の 角 度 か ら の 分 析 に つ い て は 120.BsLein,aras»arbderauenRdecelleetrycahiselaspp.97-2011,30,n°g,bourtrphiSedsquesophiloHenMich ︑trouvetrouvereouvielar«Reler,leeyS.F.rCfdebaéenspelareenttdéondeund’esssquiE?m
こ こ で セ レ ー ル は
︑ 次 の よ う に 述 べ る
︒﹁ 思 惟 と 情 感 性 を 結 合 す る 紐 帯 が 維 持 さ れ ね ば な ら な い の な ら
︑ こ の こ と は
︑ 後 者
︹ 情 感 性
︺ の 前 者
︹ 思 惟
︺ に 対 す る 優 位 を
︑ 思 惟 に 授 け る こ と な く 放 棄 す る と い う 条 件 で の み 可 能 だ ろ う
﹂︒
⑶
Ibid.,p.53.
⑷
Ibid.,p.65.
⑸
Ibid.,p.128.
⑹
Ibid.,p.170.
⑺
Ibid.,p.192.
⑻
Ibid.,p.68.
⑼
Ibid.,p.126.
⑽
Ibid.,p.191.
⑾
Ibid.,p.174.
⑿
Ibid.,p.59.
⒀
Ibid.
⒁
Ibid.
﹁ 能 産 的
﹂│
﹁ 所 産 的
﹂︑ あ る い は
﹁ 一
﹂│
﹁ 流 出
﹂ と い っ た 古 典 的 術 語 は
︑ 生 の 統 一 と そ の 個 別 化 と の 関 係 を 表 す ア ン リ な り の 表 現 で あ る
︒ し か し
︑ こ の 古 典 的 用 語 法 の 使 用 は
︑ 単 な る 術 語 上 の 借 用 に と ど ま ら ず
︑ ア ン リ の 哲 学 的 歩 み そ の も の
文 化 か ら 野 蛮 へ
― 18 ―
を も 制 約 す る こ と に な る
︒ 本 稿 の 関 心 は
︑ こ の 哲 学 的 制 約 の 一 端 を
︑ 生 の 自 己 否 定 の 構 造 を 通 し て 明 ら か に す る こ と に あ る
︒ な お
︑ 同 様 の 文 脈 で 用 い ら れ た
﹁ 能 産 的
﹂ と い う 形 容 詞 は
︑ す で に 次 の 箇 所 に も 見 ら れ る p.144.la1985,,risPaPUF,e,yshanalycps ︒CdeogialnéGé,ryen.Hf.Me
⒂
M.Henry,Labarbarie,op.cit.,p.66.Cf.R.Kühn,«LaNatureaisthétique,oul’UnitéoriginairedelaVieetduMonde.LacohérenceetledéfiduprojetpénoménologiquedeMichelHenry»,inG.Jean,J.LeclercqetN.Monseau
︵éd.
︶,Lavieetlesvivants,
︵Re-
︶lire
MichelHenry,PressesuniversitairesdeLouvain,Louvain-la-Neuve,2013,pp.217-236.
⒃
Ibid.,p.113.
⒄
Ibid.,pp.40-41.
⒅
Ibid.,p.76.
⒆
Cf.M.Henry,L’essencedelamanifestation,Paris,PUF,1963,p.582,p.827.
⒇
M.Henry,Labarbarie,op.cit.,p.81.
Cf.M.Henry,Philosophieetphénoménologieducorps,Paris,PUF,1965,§IV.M.Henry,Labarbarie,op.cit.,p.83.
な お
︑ 身 体
│ 所 有 は
︑ あ く ま で も 身 体 運 動 や 実 践 に 根 ざ し た 独 特 の
︿ 大 地
﹀ の 所 有 の 仕 方 を 指 す 概 念 で あ る
︒ す で に﹃ マ ル ク ス
﹄の
﹁ 領 有︵appropriation/Eigentum
︶﹂ 論 に は こ の 概 念 の 萌 芽 を 見 る こ と が で き る M.Henry,Marx,t.II,Paris,Gallimard,1976,p.105. ︒Cf.
M.Henry,Labarbarie,op.cit.,p.82.
Ibid.,p.104.
Ibid.,p.102.
Ibid.,p.105.
Ibid.,p.108.
Ibid.,p.115.
Ibid.,p.116.
Ibid.,p.115.
― 19 ― 文
化 か ら 野 蛮 へ
Ibid.,p.141.
Ibid.,p.172.
﹃ 野 蛮
﹄ に お け る こ の 記 述 は
︑﹃ 顕 現 の 本 質
﹄ 第 七 十 節 に お い て は キ ル ケ ゴ ー ル の 絶 望 の 分 析 に 即 し て 展 開 さ れ る
︒
Ibid.,p.172.
Ibid.,p.119.
Ibid.,p.127.
Ibid.,p.162.
Ibid.,p.182.
Ibid.,p.181.Cf.M.Henry,Généalogiedelapsychanalyse,op.cit.,p.370-371.
Ibid.,p.185.
Ibid.,p.193.
Ibid.,p.172.
Ibid.,p.173.
Ibid.
Ibid.,p.213.
Ibid.,p.227.
Ibid.,p.158. 文
化 か ら 野 蛮 へ
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