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世紀転換期における〈太平洋の橋〉としての新渡戸稲造

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論 文

はじめに

本研究の目的は「太平洋の橋」を使命とした 新渡戸稲造(1862-1933)の「世紀転換期」に おける「実像」を提示することである。本稿で は,『武士道』(1900)が執筆された「世紀転換 期」に太平洋への膨張を主張し,東西文明の相 違を強調したアルフレッド・セイヤー・マハン

(Alfred Thayer Mahan)の存在を比較対象と して重視し,「日米関係の推移」に即して考察 を展開する。マハンの言説を判断材料とするこ とにより,『武士道』の執筆を到達点とする新 渡戸の言動を「環太平洋的視野」から再検証し,

新渡戸の穏当な評価の確立に資するものとした い(1)

1.「太平洋の橋」

政治,外交,経済,文学,宗教など,多岐に わたる分野で活躍した新渡戸が「太平洋の橋」

という使命を自覚したのは,1883 年 9 月のこ とである。東京大学入学時に「英文学」を副専 攻とした理由を外山正一教授に問われた新渡戸 は,「太平洋の橋」の意味を「日本の思想を外 国に伝え,外国の思想を日本に普及する媒酌」

[新渡戸 1969a: 20]であると説明している。し かし,すでに東京英語学校や札幌農学校におい て高度な英語教育を授けられていた新渡戸は,

東京大学に不満を抱くようになり,結局 1 年足 らずで退学した。その後,新渡戸は私費留学生 としてアメリカに 3 年間,国費留学生としてド イツに 3 年間留学し,札幌農学校の専任教員と して活躍した。教員としての職務に並行して,

新渡戸は北海道庁技師として開拓事業に従事し たほか,貧困層のために夜学校を設立するなど,

学外での社会活動の実践にも意欲的に関与して いた。ところが,そうした活動の反動で神経衰 弱となり,医師により転地療養をすすめられた 新渡戸は,日本で『農業発達史』(1898)と『農 業本論』(1898)を書き上げた後,病気療養中 のカリフォルニアで,手元には充分な資料がな かったが,英文著作『武士道』Bushido, The Soul

of Japan(1900)を執筆した[オーシロ 1992: 14-

81]。

『武士道』の執筆をめぐる問題点については 後述するが,大正時代に入った 1919 年,新渡 戸は「デモクラシー」に「平民道」という訳語 をあて,「デモクラシー」が政治制度ではなく,

キリスト教信仰に接続されるべき「道徳観念」

*早稲田大学大学院社会科学研究科 2010 年博士後期課程満期退学

小 林 竜 一

─ A・T・マハンと比較して ─

世紀転換期における〈太平洋の橋〉としての新渡戸稲造

(2)

であるという信念に基づき,「平民道」の普及 に尽力した。当時東京帝国大学教授であった新 渡戸は,吉野作造をはじめとする同僚からの批 判を甘受しつつも,編集顧問を務めた総合雑誌

『実業之日本』に「デモクラシーの根底的意義」

(1919),「デモクラシーの主張する平等論の本 旨」(1919),「平民道」(1919)などを連載し,

広範な読者に訴えることを通じて,「デモクラ シー」が普及する環境を整えた[斎藤 1978:

590]。

そうした努力と並行して,新渡戸は日本人に 対し,国益の観点からアメリカを理解すること を要請した。『実業之日本』に掲載された「米 国研究の急務」(1919)と題する文章で,新渡 戸は次のように述べている。「米国の勃興と勢 力の増大とは鏡にかけて見るが如く明であっ て,而して世界は此消息を無視するわけには行 かぬ,就中我国の如きは善かれ悪かれその影響 を免るることはできぬ,此時に當り米国及米国 人に対する正しき解釈と諒解とを怠れば,我国 そのものの未来を危ふするものとして憂ひざる を得ない」[新渡戸 1977: 175]。ここで新渡戸は,

知米派知識人の立場から,第一次世界大戦への 介入を契機として国際政治のヘゲモニーを掌握 したアメリカを「研究対象」として提示し,日 本人に対して正確な対米観を構築する必要性を 訴えた。日本人のアメリカに対する情緒的反応 への警戒が認められるという点で,新渡戸は偏 りのない対米観を提示し得ているように思われ る。

知米派知識人としての新渡戸の役割を正統的 に継承した人物は,高木八尺であった。太平洋 戦争を目前に控えた 1941 年,反米ナショナリ ズムが最高潮に昂揚するなかで,新渡戸の衣鉢

を継いだ高木は,アメリカ思想を把握する意義 を説き,関心の対象がアメリカの「物質文明」

に傾斜した日本人に対して警鐘を鳴らしてい る。高木はアメリカに実利主義,独善主義,道 徳的優越など,矛盾と欠陥を孕んだ否定的側面 が実在するということを首肯しつつも,以下の ように述べている。「アメリカの性格行動を解 剖するに,功利主義・拝金主義の一筋のメスを 用いんとする人あらば,其の無謀を警告したい のである。若し又アメリカの主張は,単に感情 の問題なりとし,其の背後にやがて主義と信仰 の問題の横はるを閑却する人あらば,其の短見 を戒めたいのである。我々はアメリカ理想主義 の諸力と,利己主義の諸力とに,夫々適当の重 さを与えて,我々の認識を精確にしなければな らない」[高木 1977: 301]。このように,高木 は日米関係が破局へと突入する緊張した状況下 にありながらも,「理想主義」と「現実主義」

とが交錯する「アメリカ文化のダイナミズム」

を的確に捉え得る確乎とした認識の枠組を確保 していた。とくに,「アメリカの主張は,単に 感情の問題なりとし,其の背後にやがて主義と 信仰の問題の横はるを閑却する人あらば,其の 短見を戒めたい」という高木の言葉は,日本人 に対して直接呈せられた苦言であったと考えら れる。

たとえば,和辻哲郎が「アメリカの国民性」

(1944)のなかで,アメリカ人の「闘争的性格」

や「世界制覇の野望」の根源が「フランシス・

ベイコンの機械による自然支配」と「トマス・

ホッブスの契約による社会正義」にあると述べ た時,和辻は高木が重視した「主義と信仰の問 題」を捨象してアメリカを理解していたのでは ないだろうか[和辻 1977: 284-287]。もとより,

(3)

アメリカの「性格」と「野望」の形成要因とし てマハンの存在に着目するのが本稿の立場であ るが,「世紀転換期」におけるマハンの影響力,

ならびに,その思想の根幹をなすキリスト教的 人間観を視野に入れると,和辻の理解は公平を 欠いたものであるように思われる。さらに,池 崎忠孝という人物は謬見に囚われていた。池崎 は「鎌倉武士の精神」に連なる日本がアメリカ に気兼ねをするようでは不甲斐ないと説いて

「日米戦争」を扇動し,無謀にも日本の勝利を 断言した。このような傾向は,日本を仮想敵国 と見做したホーマ・リー(Homer Lea)の『無 知の勇気』The Valor of Ignorance(1909)に対す る反応においても認められた。熱烈な愛国者で あったリーは,この「日米未来戦争論」でアメ リカ人の反日感情を刺激し,対決姿勢を強化す ることを意図していたようであるが,「排日論 者のバイブル」[麻田 1993a: 287]となってい たこの書物を『日米戦争』と題して訳出した池 亭吉は,著者の意に反して共感したというので ある[佐伯 1977: 185-188]。

しかし,その一方で,情緒的な反応を示した 日本人とは異なり,高木は学術的なアメリカ研 究の必要性を重視し,抑制した筆致を用いて「学 問上の好題目」を次のように示唆している。す なわち,「米国外交政策決定の原動力としての,

ルーズウェルト,ロッジ等の所謂膨脹論者と,

提督マハンに代表さるゝ大海軍論者と,而して 実業の政党となれる共和党の領軸との,地位並 びに相互間の連絡関係如何」[高木 1971a: 446]

というのである。

1919 年,高木はハーヴァード大学でフレデ リ ッ ク・ ジ ャ ク ソ ン・ タ ー ナ ー(Frederick Jackson Turner)に学んでいる[アメリカ学会

1985: 38-39]。したがって,高木の念頭にはター ナーの論文「アメリカ史におけるフロンティア の 意 義 」“The Significance of the Frontier in American History”(1891)があったと考えら れる。ターナーは「アメリカ発見から 4 世紀を 経て,憲法制定から 100 年の営みが過ぎた昨今,

フロンティアは消滅し,それに伴いアメリカ史 の第一期は終わった」 [Turner 1938: 229] と述 べ,19 世紀末葉のアメリカにおけるフロンティ アラインの消滅を実証した。逆にいえば,この ターナーの学説は,「大海軍建設」や「海外膨 脹主義」などが,いずれも「フロンティアライ ンの消滅」を契機として唱導された国家目標で あり,アメリカ大陸で充溢する国力の捌口が「西 部」から「太平洋」に転換したという動向の立 証であると考えられる。すなわち,アメリカ合 衆国の太平洋への膨張は「西漸運動」の延長で あり,フロンティアラインの消滅が「アメリカ 史の第二期」の開幕を意味する現象であったと 解釈されるわけである。このような現象を推進 した人物のひとりであるマハンについて,高木 は以下のように述べている。「マハンは『海上 権力史論』という本を一八九〇年に著しまして,

世界の歴史において海上権力というものが国家 の興亡に及ぼした影響を論じ,制海権の必要を 極めて強く主張した」[高木 1971b: 44-45]とい うのである。

マハンが『海上権力史論』で提唱した「シー パワー理論」は,アメリカ合衆国の海外膨脹政 策に理論的根拠を与え,国際政治の動向を左右 する力を持っていた。やがて,マハンの「理論」

はマス・メディアを介してキリスト教の福音主 義が混和した領土拡張主義的野心の実現を肯定 する「預言」へと変貌した。そして,マハンの

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論説に示された対日観が,「環太平洋地域」で 対峙する日本とアメリカに深刻な影響を与える ことになる。

2.マハンとは何者か

病気療養中の新渡戸が『武士道』を執筆して いた頃,アメリカではマハンが健筆を揮い,東 西の文化的差異を強調する論考をジャーナリズ ムで発表していた。『武士道』で自国を礼賛し た新渡戸とは異なり,マハンは「大陸発展」に 固執するアメリカ人を批判し,制海権の掌握に 立脚したアメリカ合衆国の環太平洋地域への膨 張を強く主張した。マハンが提唱した「シーパ ワー理論」は外交政策にも適用され,すでにア メリカは日本に脅威を与える存在となってい た。

1840 年,マハンは陸軍士官学校所在地とし て知られるニューヨーク州ウェストポイントに 生まれた。父デニス(Dennis Hart Mahan)は,

土木工学と軍事工学を専門とする陸軍士官学校 の 教 授 で あ り,『 戦 術 起 源 発 達 序 説 』An

Elementary Treatise on the Rise and Progress of Tactics

(1847)という著作をもつ敬虔なキリスト教徒 であった[Taylor 1920: 1]。当初,父のデニス はマハンの内向的な性格が軍隊に不向きである と判断したが,やがてマハンは海軍兵学校に入 学した[麻田 1977 : 14]。

1861 年,少尉として任官したマハンは,南 北戦争で従軍中に少佐となり,1872 年には中 佐へと昇進した。ある日,マハンはウィリアム・

F・ P・ ネ イ ピ ア(William Francis Patrick Napier)が書いた『ガリポリ半島戦史』History

of the War in the Peninsula(6vols. 1828-40) を 入

手した。それはマハンが自らの手で軍事史を書

けると確信した瞬間であったと考えられる

[Seager II 1977: 134-135]。

1883 年 6 月,マハンはチャールズ・スクリ ブナーズ社の「南北戦争における海軍」という シリーズで,処女作『メキシコ湾と内海』The

Gulf and Inland Waters

(1863)を出版した。ただし,

のちに提唱される「シーパワー理論」との間に 直接的な影響関係は認められず[麻田 1977:

17],マハンの執筆動機は出版社が支給する 600 ドルの賞金を獲得することにあったといわれて いる[Seager II 1977: 135]。しかし,海軍はマ ハンの処女作を高く評価した。おそらく,陸軍 重視の潮流のなかで海軍の意義を考察したとい う点が認められたのであろう。この執筆が契機 となり,マハンは大佐へと昇進し,初代教官と して海軍大学校に迎えられることになった。マ ハンは「学究的士官として,また,『メキシコ 湾と内海』と称する南北戦争における海軍に関 する書の著者としてもすでに著名であり,その 天分は誰もが認めている」[Taylor 1920: 29]

と紹介されたようである。

1890 年,マハンは海軍兵学校での講義を纏め,

これを『海上権力史論』The Influence of Sea Power

upon History, 1660-1783(1890)と題して出版し

ている。また 1892 年に『フランス革命時代海 上 権 力 史 論 』The Influence of Sea Power upon the

French Revolution and Empire

(1892)と『ファラガッ ト 提 督 』Admiral Farragut(1892) を 上 梓 し,

1897 年には『ネルソン伝』The Life of Nelson: The

Embodiment of the Sea Power of Great Britain(1897)

と『太平洋海権論』The Interest of America in Sea

Power, Present and Future(1897)を刊行した[麻

田 1977: 324]。

一方,アメリカ視察旅行中,『海上権力史論』

(5)

の出版動向を見極め,その主張の適用性を看破 した金子堅太郎は,帰国後即座にその序章と第 1 章を抄訳した。さらに,1896 年に『海上権力 史論』の全訳が刊行されると,発売後数日足ら ずのうちに数千部が販売された。序文を草した 人物は,日本が海洋国家であるという認識を 持っていた,副島種臣である[麻田 1993: 2-3]。

こうした反響に鑑みると,マハンの著作が待望 された日本の社会では,マハンの思想を受容す る準備が十分に整えられていたと考えられる。

このように,日本の社会においても紹介され たマハンの著作は,「理論書」,「人物評伝」,「時 事評論」という系統に分類可能であるが,最初 に執筆された「人物評伝」である『ファラガッ ト提督』について,イギリスのさる海軍提督は マハンに以下のような書簡を送っている。「私 はグラントの名誉を毀損するつもりではない が,アメリカ人の間でファラガットの記憶が薄 れているのは,恥辱以外の何ものでもないよう に思われる。この男の偉大はグラント以上で あった」[Taylor 1920: 56]。南北戦争の英雄と されるグラント(Ulysses S. Grant)の評価を覆 したこの言葉は,マハンの視点の独自性を積極 的に評価するものであり,陸軍に傾斜した南北 戦争研究における海軍の意義を再考する上で,

重大な問題を提起しているように思われる(2)。 ただし,本稿では「人物評伝」ではなく,マ ハン理論の中核を占める『海上権力史論』,な らびに,その応用編に位置する『太平洋海権論』

を重視して考察を展開する。その理由は以下の 通りである。『海上権力史論』は列強の指導者 から「現代古典」として認められたマハンの代 表作であり,ここで提示された「シーパワー理 論」は,後のマハンによる著作のモチーフとなっ

ていると考えられるからである[麻田 1977: 6]。

また,『太平洋海権論』にはマハンが総合雑誌 に寄稿した「時事評論」が収載されており,「東 西文明論」や「アングロサクソン民族優越論」

などが錯綜するその主張は,「シーパワー理論」

の応用であると思われる。しかも,その波動が 日本にも及ぶものであったという意味で,頗る 興味深い。本稿で考察の対象とする論考は「合 衆 国 海 外 に 目 を 転 ず 」“The United States Looking Outward”(1890)と「20 世紀への展望」

“A Twentieth-Century Outlook”(1897)であ るが,そのいずれにおいても,マハンの主張は アメリカの「西漸運動」の領域を「大陸」から

「海洋」へと転換させるための「触媒」として 作用したのではないだろうか。

3.マハン―「理論家」と「預言者」

南北戦争における海軍の作戦行動を実証的に 考察した『メキシコ湾と内海』の執筆が契機と なり,マハンが海軍大学校の初代教官に任命さ れたということはすでに述べた通りであるが,

さる批評家は『メキシコ湾と内海』を次のよう に評価した。「入念な下調べをし,内面的主題 と大局的展望とを確保して,率直かつ正当な批 評精神を伴っているという点で,この著者は完 璧である」[Taylor 1920: 24]。こうしたマハン の素質を看破し,海軍大学校の初代教官として 抜擢した「具眼の士」は,初代校長スティーブ ン・B・ルース(Stephen B. Luce)提督であっ た。

南北戦争に従軍して以来,ルースは平素から 海上武力の作戦行動に関する根本原理を研究す るための機関を設立し,近代化に即した軍事思 想を確立する必要性を痛感していたようである

(6)

が[Taylor 1920: 28-29],マハンの『メキシコ湾 と内海』が実証的な南北戦争研究であり,ルー スの従軍経験が海軍大学校創設という形で具現 したことなどから考えて,海軍大学校はロバー ト・ペン・ウォレン(Robert Penn Warren)の言 う「南北戦争の遺産」であったように思われる。

たしかに,南北戦争は 60 万人もの死者を出し たという点で凄惨な内戦ではあったが,西部の 開発,急速な工業化,科学技術の発展,ならび にプラグマティズムの発達といった現象は,い ずれも南北戦争の所産であるといえる(3)

あるいはまた,ホーソンやメルヴィルから ウィリアム・フォークナーに至るまで,アメリ カを代表する作家には執拗に過去に拘る性格が あるということも想起される。文学作品が国民 性の反映であるとすれば,こうした傾向は,事 実を直視し,過去に学ぶというアメリカ人の特 質を裏書きする。アメリカ人である以上,マハ ンにも執拗に過去に拘泥する傾向が著作の随所 に認められるが,マハンは過去の事実を国策に 適用可能な独自の理論へと普遍化し,実際に国 際政治の動向を左右したという点で,文学者と は峻別されなければならないであろう。研究対 象としてのマハンが,学際的な視野を要求する 所以である[島田 1975: 25-26]。

いずれにせよ,マハンは『海上権力史論』に おいて,1660 年から 1783 年に至る戦史を検証 し,制海権を掌握する意義と目的を理論化した。

その中核は,第 1 章「シーパワーの要素」に収 斂するのであるが,ここでマハンは政治的,社 会的観点から「大陸」に対する「海洋」の優越 に関して,次のように書いている。「海洋が示 す第一に挙げるべき最も明白なことは,政治的,

社会的観点から考えて,巨大な交通路であり,

より適切な表現を用いると,巨大な共有地であ るという点にある。人間は海上をあらゆる方角 に針路をとれるが,従来海上で頻繁に使用され た航路が示すところでは,支配的原因となるも のの導きにより,人間は特定の航路を選択して いる。この航路は通商路と称されているが,こ れを決定する原因は,人類の営みに,つまり,

世界史に求められるべきなのである」[Mahan 1890a: 25]。ここでは「通商路の決定要因」が「支 配的原因となるものの導き」であると理解され ていることを重視したい。一見するところ,独 断であるかのように思われるが,現実を神の摂 理と同一視する言説は,伝統的キリスト教の世 界観の反映であり,マハンにおいては「科学と 信仰」が両立していたと考えられる。

したがって,マハンが実証性を同時に重視す るのも,驚くにあたらない。たとえば,『海上 権力史論』には,オランダを一例にして陸上交 通路に対する海上交通路の優位性について述べ られている件がある。つまり,オランダは大量 輸送において陸路に比べて安価な海上輸送力を 確保するとともに,ドイツ内陸部への接近を可 能にする水路を獲得したことが要因で商業的に 成功したというのである[Mahan 1890a: 25]。

マハンはオランダの歴史を分析し,経済性や効 率という「合理精神」が積極的に肯定する要件 に訴えて,海上交通路の確保を要請する自らの 主張に説得力をもたせつつ,武装船舶による商 船の防衛を要請する。すなわち,「通商保護」

を実現するためには,「海上武力」が強化され な け れ ば な ら な い と い う の で あ る[Mahan 1890a: 26]。

しかし,麻田貞雄は「シーパワー理論」が,「商 船」,「艦隊」,および「根拠地」を「支柱」とし,

(7)

「制海権と通商」の確保を目的としたものであ るという図式を提示し,「海上武力」の増強の みを目的とすると理論であるという解釈を退け ている[麻田 1993: 8]。麻田の図式は,「狭義 の海上武力のみならず,広範な意味での平和的 通商と海運を含めたものである。こうした必要 条件を満たしてのみ,艦隊は自然かつ健全に育 まれ,その存在理由も明確になる」[Mahan 1890a: 28]というマハンの言葉に呼応する。し たがって,「シーパワー」という言葉については,

狭義の「制海権の掌握」のみを目的とする標語 としてではなく,包括的な国家戦略の理論的支 柱として理解される必要があるように思われ る。

さらに,マハンは「シーパワー」の「源泉」

として,「地理」,「地勢」,「領土」,「人口」,「国 民性」,「政府の性格」などをテーマに各論を展 開して自説を緻密に裏付けるとともに,「地理」

的観点からイギリスの優越を指摘する。つまり,

当初海洋国であったオランダは独立を死守する ために陸軍の拡充に力を過剰に注いだことが一 因で国力を消耗し,フランスも海洋から大陸へ と拡張政策を転換したことで国富を消耗した。

一方,イギリスは植民地帝国であるために周辺 海域への兵力の集中が不可能であったが,植民 地体制の発展に比例して商船隊や富が著しく増 加し,そうした国力の増強に呼応して艦隊も増 強させた。すなわち,オランダとフランスは「海 洋」を軽視したために国力が衰えたのに対し,

イギリスは「海洋」を重視した結果「七つの海 の 覇 者 」 た り 得 た と い う の で あ る[Mahan 1890a: 29]。こうしたマハンの見解は,「波濤を 征する者は世界を制す」と喝破したトゥキュ ディデスやテミストクレス以来の伝統的歴史観

に連なるものであり,両者は「シーパワー理論」

の源泉であると考えられる[麻田 1977: 20]。

このように,マハンは過去との連続性を重視 したのであるが,その一方で,批判の矛先を同 時代のアメリカに向け,現状を次のように分析 する。「合衆国は海外貿易の至遠地に一つの港 すら所有していないということを,想起しなけ ればならない。合衆国の地理的位置は,同盟国 の港に基地を見出す場合を除き,通商破壊を首 尾よく行なうには非常に不利である」[Mahan 1890a: 31]。マハンはアメリカの欠落要因を指 摘することにより,「大陸国家」から「海洋国家」

へとアメリカの外交政策の転換を促し,通商保 護を大義名分とする海上武力を充実させ,列国 に対して優位に立つべきであると主張してい る。

同時に,マハンはアメリカの国民性について も,アメリカ人には先天的に「海洋」への愛好 があり,健全な「シーパワー」の基礎となる特 質が存続すると述べ[Mahan 1890a: 38-39],以 下のように続けている。「シーパワーの欠落の 為にフランスの国運が傾いたという事実を知悉 する人は,フランス同様,合衆国が国内に富が 満ちているために,シーパワーを無視しつつあ る の を 嘆 き 悲 し む か も 知 れ な い 」[Mahan 1890a: 39]。この言葉は重要である。「大陸中心 主義」から「海洋中心主義」への転換を迫った 時にマハンが批判の対象としたのは,いわゆる

「モンロー主義」に固執するアメリカ人であっ た。マハンは「モンロー主義」を通じてアメリ カ人の間に道義的退廃が蔓延することを憂慮し ていたと考えられる[麻田 1977: 25]。たしかに,

19 世紀末葉のアメリカ人は,「神(GOD)」で はなく,「金(Gold)」を究極目的とし,農業生

(8)

産の増大,ならびに,鉄道網の整備などの「大 陸発展」に精力を注入していたのであるが[亀 井 1998: 16-17],こうしたモンロー主義的傾向 のなかに,「孤立主義」と「大陸発展」と「金

(Gold)」とを「三要件」とする「近代アメリカ 人の意識構造」が端的に示されていると思われ る。この意識構造は,アメリカ人の「海洋」へ の関心を希薄にする要因であり,マハンのキリ スト教的世界観とも相容れぬものであった。「絶 対者たる神」を抱き,「福音伝播」の天命のもと,

「海洋国家」への転換が歴史的必然であると主 張したマハンにとり,合理主義が混和した近代 アメリカ人の認識の枠組は克服の対象でしかな かったのであろう。

したがって,「領土」や「人口」に関する考 察においても,アメリカ人は批判の対象となっ ている。ここでマハンは「シーパワー」の発展 が国土の総面積ではなく,海岸線の長さと港湾 の特性により定められるべきであると述べ

[Mahan 1890a: 43],「海洋史観」に裏付けられ た独自の南北戦争観を提示したといえる。すな わち,南軍の敗因は,長い海岸線と多数の入江 に比例した海上武力が致命的に欠落していた点 にあるというのである[Mahan 1890a: 44-45]。

ところが,「大陸発展」に関心を持つアメリカ 人は,陸軍の必要性を重視した。その結果,海 軍は予算削減の直撃を受け,蒸気機関の発達に 逆行して,海軍の主要艦船は,蒸気船から帆船 へと退行した[麻田 1977: 17]。マハンにとり,

このような海軍の弱体化は,海外膨張主義を国 是とする西洋列強諸国からの脱落を意味してい たと思われる。そこで危機感を抱いたマハンは,

通商における本能的な嗅覚や,利益追求におい て発揮する大胆な態度,ならびに,利益に到達

する手段を発見するための勘を備えているとい うアメリカ人の特質を強調し[Mahan 1890a:

57-58],海外発展の精神的支柱となる「進取の 精神」と「男性的衝動」の恢復を要求したと考 えられる。

やがて,「モンロー主義」が主潮流となった 時代精神に抗したマハンの主張は,強力なプロ パガンダへと変貌することになる。1890 年 4 月,

マハンは『アトランティック・マンスリー』の 編集者から書簡を受信した。この編集者はマハ ンに次のように書いている。「貴殿の驚くべき 著作『海上権力史論』の一節で,私は覚醒致し ました。貴殿が注意を喚起されたのは,中米地 峡を貫く有事の際には太平洋岸の防衛が手薄に なるという点であります」[Taylor 1920: 113]。

『海上権力史論』は内外の政治家,あるいは 海軍関係者には深刻な衝撃を与えたのではある が,読者層が識者に限定されたことを想定すれ ば,『海上権力史論』のような専門書が世論を 左右することは不可能であったと思われる。大 衆を扇動するには,扇情的な言葉を用いて,そ の恐怖や憎悪といった「大衆心理」に広範に訴 える必要があるからである。そうした傾向を踏 まえた編集者は,マハンに次のように提案した。

「本誌に興味深い論文を 4000 語程度で寄稿して 頂けますと幸いです。『海上権力史論』でなさ れた示唆を拡げて考えますと,海軍行動の中心 は地中海から大西洋へと転換しましたが,やが て,太平洋へと移行するように思われるのです」

[Taylor 1920: 113]。この編集者の依頼を快諾 したことを皮切りに,マハンには帝国主義的イ デオロギーを正面に打ち出す「預言者」として の側面が強まったように思われる。

このような経緯で『アトランティック・マン

(9)

スリー』に掲載された論文が「合衆国海外に目 を転ず」である。マハンは次のように述べてい る。「人心や視点が一方に傾斜するときは常に そうであったが, 他方における利害得失は看過 された。わが国が豊富な資源によって輸出量を 高い水準に保っているという喜ばしい事態は,

実をいえば,保護貿易下におけるわが国の製品 に対する諸外国からの需要がもたらしたという よりは,わが国土の自然の惜しみなき恩恵が与 えたものである」[Mahan 1890b: 4]。このよう に,マハンは「自給自足」の国家であることに 自己満悦するアメリカ人の精神を批判する。と いうのも,マハンは「大陸国家」という現状に 満悦するアメリカ人の精神にデカダンスの匂い を嗅ぎとっていたというのである[麻田 1977:

25]。

ローマ帝国が衰亡した原因は,「安逸」,「富」,

「軟弱」を崇拝する態度にあるというのがマハ ンの歴史認識であった[麻田 1977: 同上]。「軟 弱」は暫く措き,「富」にせよ,「安逸」にせよ,

いずれも「合理精神」が積極的に肯定する目的 であり,「神の国」を欣求する「信仰」とはお よそ相容れぬ要件である。いわゆる「見せびら かしの消費」のもと[斎藤 1972: 17],信仰の 衰微や海上武力の退嬰にかねてより憤慨してい たマハンは,一般大衆という読者層を想定し,

挑発的な言辞を巧みに用いて,アメリカ人に「強 靭なる精神」の恢復を要求する。こうしてマハ ンは,大衆の関心を「アメリカ大陸」から「太 平洋」へと転換させようとしたと考えられる。

そこで現実的な懸案となるのが,日米の利害 が衝突する可能性を孕むハワイ諸島の処遇で あった。ハワイの併合について「わが国の国運 が発展するにつれ,これまで満足してきた活動

範囲を超えて海外に自らの勢力―および勢力下 にある人民の福利―を拡張する必要性を痛感す るに至ったということの最初の成果となり,象 徴となる」[Mahan 1890b: 49]と考えたマハン は,1893 年,反帝国主義に立脚する民主党の クリーヴランド政権下で,ハワイ諸島の戦略的 価値をテーマにした論説を書いている。『ニュー ヨーク・タイムズ』紙に掲載されたその文章に おいて,マハンは預言者的特質を遺憾なく発揮 した。「サンドウィッチ諸島[ハワイ]は,北 太平洋において地理的にも軍事的にも比類なき 優位を占めているのであるが,将来この諸島が ヨーロッパ文明の前哨地点となるのか,あるい は,中国の比較的野蛮な文明の前進基地と化す のか ― それは,たんにアメリカ合衆国のみな らず,全文明世界にとっての大問題なのである。

中国の莫大な数の大衆は現在のところ不活発で あるが,かつて野蛮な侵略軍の洪水のもとに文 明を葬った凶暴な衝動に再び駆られる日が到来 するのを,極東事情や東洋人の性格に精通する 海外駐在の軍人の多くが懸念しているというこ とは,わが国の識者の間では十分に知られてい るが,一般国民には広範に注目されてはいない と思われる」[Mahan 1893: 32]。東シナ海にお ける制海権の掌握を意図する中国の野心が周辺 地域の安定を脅かす昨今,マハンの中国に対す る警戒は 21 世紀の趨勢を予見するようであり,

興味深い見解であると思われるが,中国の「野 蛮な文明の前進」を防止する上で,「ヨーロッ パでの軍備全廃」は「博愛家のユートピア的な 夢」であり,「世界の将来に惨事をもたらす」

行為であるとマハンは警告している[Mahan 1893: 33]。すなわち,ハワイを「文明の前哨基 地」として固守するという大義に訴えることに

(10)

より,マハンは世論の説得を画策したのではな いだろうか。しかし,こうしたマハンの主張は,

クリーヴランド政権に黙殺されたようである

[麻田 1993: 11]。

ところが,1897 年になると風向きは一変した。

共和党のマッキンリー政権下の外交委員会で は,マハンの論文を援用し,ハワイを巡る紛争 は「東洋文明」と「西洋文明」との間の「大闘 争の前哨戦」であり,「太平洋の鍵」を支配し て優位を占めるのがアジアであるのか,あるい は,アメリカであるのかというのが「真の争点」

であると公言されたというのである[麻田 1993: 12]。

1897 年 9 月,『ハーパーズ・ニューマンスリー マガジン』に掲載された「20 世紀への展望」に おいて,マハンは日本の発展を視野に入れ,「世 紀転換期」という現象が人為的所産であるにも 拘らず,国際関係と国家間の相対的比重との両 面で,変化の兆候があると分析する。要するに,

1897 年の時点では,日本の発展が些細な現象 にみえようとも,これを即座に食い止めなけれ ば世界の政治的均衡に重大なる変動をもたら し,ひいては,人類の福利に甚大なる悪影響を 及ぼす根本的要因となる可能性を孕んでいると いうのである[Mahan 1897: 217-219]。

このように,東洋の台頭を懸念するマハンは,

文明観を次のように披歴している。「東西の両 文明は別々に存在し,それ自体で自己完結する。

ただし,両文明は地理的に接近しつつあり,そ れが憂慮の因となっている。しかし,一層重大 なことは,物理的利益の追求という点で共通の 理念を所有しているにもかかわらず,精神的理 念においては相容れるところが全くないという ことなのである」[Mahan 1897: 228]。すなわち,

マハンはキリスト教文明と非キリスト教文明と を峻別し,「二分法的思考」に立脚して非キリ スト教文明を「野蛮」であるとカテゴライズし

[入江 1977: 146],東西文明の根本的異質性を 強調することで,「東西文明の衝突」を預言した。

キリスト教的人間観に依拠することにより,覇 権主義的野心を孕んだ人間の本質から目を逸ら すことをしないところにマハンのリアリズムが 顔を覗かせていると考えられるが,マハンは「日 本の驚くべき発展は,この点に関する最も明白 なる証である」[Mahan 1897: 235]と追記する のを忘れない。要するに,マハンは東洋文明諸 国が西洋の利益範囲に脅威を与える端的な兆候 を日本に認め,日本の西洋文明圏への侵入に危 機感を強めているのである。一方,アメリカ人 に対しては非キリスト教国の台頭という現実を 突きつけることにより,アメリカ大陸の開発と いう観点からのみ問題を処理しようとする態度 を批判しつつ,海外発展は不可欠であり,国家 が単独では存続不可能であるという従来の主張 を繰り返し,「モンロー主義」の克服を要請する。

すなわち,アメリカの帰趨は「アメリカ大陸の 発展」にではなく,「太平洋における制海権の 掌握」に委ねられているというのである。マハ ンは以下のように述べている。「伝統であれ,

制度であれ,言語であれ,そうしたことを考慮 すると,アメリカ合衆国諸州はヨーロッパの一 員であるように思われる。太平洋こそ,アメリ カの西漸運動が西洋と再会する場所であり,こ こでアメリカと将来の世界との関係が明白にな る」[Mahan 1897: 235]。

「大陸」を領域とする「西漸運動」については,

ターナーが提起した「フロンティア理論」によっ て実証されたが,それは 19 世紀のアメリカ人

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を対象とした学説の域を出るものではなかっ た。それに対して,1902 年にアメリカ歴史学 会(American Historical Association) の 会 長 に就任したマハンは,ターナーを超えた観点で 20 世紀の趨勢を予見し,「大陸中心主義」が主 流であったアメリカで「海外膨張主義」を提唱 することにより,国際政治の帰趨を左右する存 在となっていたように思われる。

マハンの言説は,「キリストの福音」によっ て人類は救済されるという「福音主義的」世界 観が混和したものであり,そうした世界観の延 長に「白人専横主義」が位置している。それゆ え,マハンの主張にはアメリカ人の道徳的独善

(moral narcissism)を心地良く擽る効果があり,

キリスト教文明圏のアメリカで「民族膨張の天 命」を国民感情に訴える上でも,大いに効力を 発揮したのではなかろうか(4)。敬虔なキリスト 教徒であったマハンのキリスト教観によれば,

キリスト教信仰により,来世の実在に対する確 信が与えられるわけである。同時にそういうキ リスト教信仰は,現世を相対化する視座の獲得 に直結する。つまり,マハンは過去によって現 在を相対視し,西洋の倫理的規範に依拠して東 洋を相対化することにより,アメリカの「大陸 開発」であれ,日本の文化的膨張であれ,何れ の現象にせよ,これを批判の対象となしうる視 座を確保していたのであろう。マハンには「戦 略家」であると同時に,アメリカに瀰漫する「拝 金主義」,「孤立主義」,そして「道徳的退廃」

を仮借なく批判する「警世家」としての側面が あり,そこに未来を展望する視野を持つ「預言 者」としての特質が混入していたと考えられる。

では,同じくキリスト教徒であり,『武士道』

の執筆に熱誠を捧げた新渡戸は,「世紀転換期」

における「日米関係の推移」に対して,どのよ うに対応したのであろうか。

4.「シーパワー理論」と「太平洋の橋」

1880 年代後半に形成されたマハンの「シー パワー理論」は,1890 年代後半には「福音伝 播の天命」が混和した「帝国主義的イデオロ ギー」へと変貌した。マハンの主張はセオドア・

ルーズヴェルト(Theodore Roosevelt)という 信奉者を得て「環太平洋地域」の趨勢を左右す る「鍵」として実際に適用された[麻田 1993b:

12]。

1897 年,日本の平和的拡張(移民)がハワ イ官憲に拒絶されると,日本政府は在留邦人保 護の名目で軍艦「浪速」をハワイに派遣した。

しかし,この行動がマッキンリー政権を刺激す ることとなり,1898 年 8 月 15 日にアメリカは ハワイ諸島を併合した[麻田 1993b: 12]。

それどころか,1897 年にアメリカはハワイ を巡る対日戦争を想定していた。ルーズヴェル トの要請により,海軍大学ではハワイ介入に必 要な兵力が研究されていたのである[麻田 1993b: 12]。1907 年になると,日本を敵国と想 定した「オレンジ作戦計画(Orange Plans)」

が立案され,翌年 10 月 18 日には親善の名目で 16 隻もの「グレート・ホワイト・フリート(白 塗りの主力艦)」を横浜に寄港させるなど,実 質的な示威行動も挙行されている[麻田 1993b:

20-21]。

その一方で,知米派知識人はアメリカの動向 に対して,楽観的な見通しを示していた。たと えば 1891 年,徳富蘇峰は「日米同盟論」を提 唱し,「太平洋の女王」として日米が共存する ことを理想とした。やがて蘇峰はマハンの「シー

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パワー理論」を援用し,「海洋国家」である日 米英の三国が連携して「大陸国家」であるロシ アが脅かす清国の権益を独占しようとする「日 米英同盟論」を主張するに至った[澤田 2005:

28-29]。マハンが「精神的理念については何ら 相容れない」と述べていたにも拘らず,「日米英」

の利害衝突の可能性を想定することなく,「海 洋国家の連携」を唱道するとは「楽観」の極み であるが,新渡戸はその蘇峰が主宰する The Far East に英文論説を寄稿した後,病気療養中 のアメリカで執筆活動に入った[オーシロ 1992: 80-81]。「太平洋の橋」を使命とし,1891 年 に は H・B・ ア ダ ム ズ(Herbert Baxter Adams)教授による指導のもと,日本人の手に なる最初の学術的な「日米関係」をテーマにし た 著 作 で あ る『 日 米 関 係 史 』The Intercourse

between the United States and Japan: An Historical Sketch(1891)を刊行したという事実を根拠と

すれば[斎藤 1972: 23-24],新渡戸がアメリカ の太平洋地域への膨張に関心を抱いていたと,

そう考えるのが妥当であるように思われる。

ところが,「日米関係の推移」に対応し得る 知的条件を備えており,しかも,「太平洋の橋」

を使命とする知米派知識人の先駆者という側面 があったにも拘らず,新渡戸がマハンの存在に 強い関心を示し,アメリカの動向を時局の推移 に即して紹介したという証拠はない。

その一方で,1884 年からの 3 年間にわたる アメリカ留学時代にクエーカー派の集会で条約 改正問題を訴えるなど,新渡戸はかねてより日 米間の不平等に強く反発していた。1894 年に 治外法権が撤廃されていたとはいえ,関税自主 権の回復が達成される 1911 年の日米通商航海 条約の調印を迎える迄,新渡戸はアメリカ思想

の紹介に必ずしも積極的ではなかった。実際,

新渡戸が「デモクラシー」の普及に努めたのは,

大正時代に入ってからのことである。こうした 事実に即して判断すると,「世紀転換期」にお ける新渡戸の関心は「クウェーカリズムの普及」

と「日本の文化的膨張」に傾斜したものであっ たということになりはしないだろうか。それゆ え,新渡戸は札幌農学校教授時代に『ウイルリ アム・ペン伝』(1894)や『建国美談』(1895)

の出版を通じてクエーカー教徒の業績を紹介し たのであり,1899 年になると,「東西平等主義」

を前提として,日本人の立場から,西洋の「道 徳的独善」に対抗して『武士道』を執筆したと 考えられる。こうして新渡戸は,西洋列強から の屈辱や圧力に反発し,「白人専横主義」の克 服を試みたというのである[平川 2003: 77]。

内 村 鑑 三 の『 代 表 的 日 本 人 』Japan and the

Japanese(1894)や岡倉天心の『日本の覚醒』

The Awakening of Japan(1904)など,英文著作の

刊行をはじめとする文化的膨張に日露戦争の勝 利が加わり,欧米ではキリスト教文化圏に侵入 した日本人の心理や基層文化への関心が高まっ た。こうした時代思潮に呼応して『武士道』は 版を重ね,「英文学」の教養が散りばめられた 典雅なる文章は各国語に訳されて広範な読者を 獲得し,新渡戸の名は日本紹介の第一人者とし て世界に知られることになった,という肯定的 な解釈が『武士道』の執筆に関しては支配的で あった[オーシロ 1992: 95-97]。

無論,新渡戸の『武士道』は総花的な知識の 羅列を意図したものではない。したがって,「日 本についての素養の欠如といったものを露呈し ている」[太田 1986: 20]とか,「新渡戸は元来 日本については相当無知な人だった」[太田

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1986: 29]などというような批判は,「的外れ」

で「悪趣味」な妄評であり,こうした見解によっ て「文学作品」としての『武士道』の価値が毀 損されることはあるまい。しかし,18 世紀ア メリカの最大の神学者であるジョナサン・エド ワーズ(Jonathan Edwards)は,神と人間と の間には決定的な「断絶」があり,「理性」の 要求に人間は断じて応えることは出来ないとい う厳しい人間観を示していた[児玉 1969: 153- 154]。すなわち,人間にはカインとアベルの昔 から,互いに「血」を流す存在でしかないとい う側面があるのも厳然たる事実であるというの がエドワーズの人間観であったと考えられる。

ところが,エドワーズが固執した「カルヴィ ニズム」とは異なり,新渡戸が依拠する「ク ウェーカリズム」は,「原罪」の問題を棚に上げ,

万人の心中に「キリストの魂」が宿るという立 場を肯定する。しかも,「クウェーカリズム」

には「永遠のキリスト」という特質がある[佐 藤 2006: 170]。この特質は,キリストがユダヤ に生まれたという『聖書』の記述を否定し,「神」

とキリストの両者が天地の創造者であると主張 するものである。それどころか,ソクラテス,

孔子,そして釈迦といった紀元前の人物に対し ても,時空を超越してキリストの恩恵が与えら れるということを認める立場なのである[佐藤 2006: 67]。こうした「クウェーカリズム」の特 質を考慮すれば,クエーカー教徒であった新渡 戸が「日米関係の推移」という現象を軽視し,「歴 史」が要求する「因果関係」を捨象して,「東 西平等主義」を怪しむことなく『武士道』の執 筆に熱誠を捧げ,「近代日本人としての自己意 識」をキリスト教に接続させようとしたという ことも,驚くにあたらないであろう。新渡戸に

とり,「クウェーカリズム」は日本が後進国で あるという現実や,日本人としての「劣等意識」

を克服するための格好の「触媒」となっていた ように思われる。新渡戸のような知米派知識人 がそうした世界観に依拠せざるを得なかったの であれば,「過去」と徹底的に対峙し,福音伝 播の美名のもとに覇権主義を肯定するアメリカ 人に対する「正しき解釈と諒解」など,日本人 には不可能な要求であったのではあるまいか。

それに,「世紀転換期」において,新渡戸の問 題意識は「クウェーカリズムの普及」や,日本 人としての「自己意識の解明」に偏っていたの であり,現実を見据えた「環太平洋的視野」を 確保するためには,新渡戸自身も「成熟」を必 要としたのではないだろうか。それに何より,

「世紀転換期」に限定していえば,「環太平洋地 域」でのアメリカの動向に盲目であったという 意味で,新渡戸の「太平洋の橋」は「対岸なき

〈一方通行の〉橋」でしかなかったのではある まいか。

いや,新渡戸に限らない。戦前の知米派知識 人の宿痾とでもいうべき半面的理解や楽観的態 度は,蘇峰も同じであった。蘇峰はアメリカの ハワイ併合であるとか,グアム,フィリピンの 獲得というような事実を踏まえて日米の衝突を 予見するようにはなっていた。しかし,新渡戸 同様,蘇峰の対米観も極めてナイーヴなもので あった。蘇峰はラルフ・ワルド・エマソン(Ralph Waldo Emerson) の 精 神 に 傾 倒 し た[ 木 村 1982: 316-319]。エマソンは,伝統がもたらす 桎梏の超克を目指した 19 世紀アメリカを代表 する人物である。エマソンの人間観は,伝統的 キリスト教の根本教義である「三位一体説」な ど歯牙にもかけず,クウェーカリズムを触媒と

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して形成されている(5)。つまり,エマソンは過 去を蔑視し,「神の内在」を肯定しつつ,「善と 悪」の「二元相剋」というパウロ以来の倫理的 緊張を回避したという点で,エドワーズの峻厳 なる人間観とは凡そ相容れぬ人間であった。ア メリカに連綿と連なる伝統的人間観の峻厳を理 解してはいなかったという意味で,蘇峰の「ア メリカ文化」に対する理解も偏頗であり,「罪」

の問題に徹底的に対峙する「アメリカ文化」の 伝統がもたらす特質を見誤り,日米関係を楽観 視するに至ったのも見易い道理であろう。

1924 年,ついに「排日移民法」が成立した。

この時にも知米派知識人はもっぱら情緒的に反 応し,「拝米」から「排米」へと態度を豹変さ せた。アメリカ文化の一面に共鳴していた蘇峰 は衝撃を受け[澤田 2008: 46],新渡戸も同様,

「アメリカの土は踏まぬ」ことを決意した[松 隈 1969: 250]。それに対して,高木は「聖書を 持ちつつ銃を荷うピューリタンの姿は象徴的で あると思う。彼等は一度敵の襲撃挑戦を受け,

又家族の危殆を見れば,武器を執って強烈に戦 う。しかも彼は平和の神の僕たる確信に些の矛 盾を感じない」[高木 1941: 300]と発言し,「二 律背反」が両立する「アメリカ文化の特質」を 洞察した。高木は新渡戸の「クウェーカリズム」

に共感を寄せつつも,「日本英学史」にその名 を刻印する神田乃武や服部他之助の薫陶により エマソンの精神にも通暁し(6),内村鑑三の教導 を介してエドワーズに連なる伝統的な「贖罪信 仰」に接触することにより[アメリカ学会 1985: 7-23],戦時標語が瀰漫する時代思潮を超 克して,アメリカ文化のダイナミズムを捕捉す る精神の強靭を確保したのであろう(7)。高木の 面目躍如たるものがあるように思われる。

おわりに

1919 年,アメリカに対する正確な理解を怠 れば日本の将来は危ういものとなると新渡戸が 発言したことについては,すでに触れたとおり である。その新渡戸と雖も,「世紀転換期」に おいては,「クウェーカリズム」に翻弄され,「東 西平等主義」を前提に行動した。「太平洋の橋」

としての新渡戸の言動も,「東西文化の仲介者」

というよりは,「日本文化の代弁者」としての 側面に傾斜したものとなり,覇権主義的な傾向 を内包する「アメリカ文化」の紹介は,日本の 社会が要請したにも拘らず,閑却された。この ように,『武士道』が執筆される一方で,「太平 洋の橋」を標榜した新渡戸が「シーパワー理論」

に対して傍観者同然の対応に終始したという状 況は,却って国益を損なうものであったのでは あるまいか。新渡戸を称して「永遠の青年」と いったのは賀川豊彦であるが,新渡戸とマハン との間には 20 年ほどの年齢差があった。こう して両者を比較すると,「新渡戸の純真」と「マ ハンの老獪」を痛感せざるを得ない。新渡戸と マハンを時代思潮の象徴として対置すると,現 実認識や将来への展望に認められた両者の力量 差は,「太平洋」で対峙する日本とアメリカの 国力の格差に呼応していたようにさえ思われ る。

冒頭でも述べたように,新渡戸は政治,外交,

経済,文学,宗教など,広範な領域で活動を実 践した。したがって,新渡戸の「実像」を正確 に把握するためには,多岐にわたる学問領域か らの複合的なアプローチの可能性が考えられ る。文学や宗教のみならず,政治,外交,経済 も国民性の反映であるとすれば,「日米関係の

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推移」という歴史的文脈を踏まえつつ,マハン を比較対象として新渡戸の言動を検証すること により,いわゆる「不平等条約」が効力を持っ ていた「世紀転換期」という「条件」の下に置 かれた新渡戸が,病気療養中であったにも拘ら ず,日米間の格差の克服を目的として『武士道』

を執筆せざるを得なかったという「ディレンマ」

に直面した状況― 新渡戸の「実像」―を捉え ることができるのではないだろうか。

1892 年,長男が夭折し,深刻な衝撃を受け ていた新渡戸は,その翌年,『札幌農学校』The

Imperial Agricultural College of Sapporo

(1893)と題 する英文著作を刊行した。「政治は決して教育 機関に干渉してはならない」[新渡戸 1987: 35]

という主張にみられるように,新渡戸は札幌農 学校の存続問題に対応せざるを得なかった[松 隈 1969: 172]。公私にわたる難局に直面した新 渡戸は,その反動で神経衰弱となり,「太平洋 の橋」という使命を念頭におきつつも,療養生 活を余儀なくされ,「果たされぬ使命」に苛立 ちを強めていた。「平民道」を提唱し,正確な 対米観の構築を要請した大正デモクラシーの時 代とは異なり,日本の社会にアメリカ思想を紹 介するという「太平洋の橋」としての使命に応 える余力など,「世紀転換期」の新渡戸には,

もはや残されてはいなかったと考えられる。

新渡戸の愛吟に「見る人の心々にまかせおき て高根にすめる秋の夜の月」[新渡戸 1969b:

160]という一首がある。この詩歌こそ,新渡 戸が紋切型の思考によるカテゴライズを拒む行 動様式と思想構造を持つ人物であったというこ とを端的に伝えているように思われる。新渡戸 を研究対象とし,その「実像」を把握するため には,学際的な視野,公平な視点,ならびに穏

当な判断基準の確保が必要とされているのであ ろう。

〔投稿受理日 2010.9.25 /掲載決定日 2011.1.27〕

⑴  環太平洋的視点から新渡戸稲造とマハンの動向 に注目した研究として三輪公忠「ソフト・パワー,

ハード・パワー―日露戦争前後のアメリカの対日 イメージと日本人の自己イメージ,セオドア・ルー ズヴェルト,マハン,朝河貫一,新渡戸稲造を中 心に―」『軍事史学 40(2・3)』(軍事史学会)が ある。本稿とは異なり,日本への対応をめぐって,

セオドア・ルーズヴェルトがマハンと対立した「国 際協調主義者」として,また新渡戸の『武士道』

に共感する「異文化抱擁主義者」として理解され ている。

⑵  比較文学者の島田謹二が「伝記作家」としての マハンを高く評価した[島田 1975b: 157]参照。

⑶  Robert Penn Warren, The Legacy of Civil War

(New York: Random House 1961)参照。Warren は「南北戦争」を理解することなしに「現代アメ リカ」は理解できないと述べ,「南北戦争」は「第 一次世界大戦」と「第二次大戦」のための「秘密 の学校」であったと主張している。

⑷  Robert Penn Warren, “The Use of the Past”

in New and Selected Essays(New York: Random House: 1989)参照。Warren は「過去」との連続 性を喪失したアメリカ人の「道徳的独善」を手厳 しく批判する。

⑸  Emerson と‘Quakerism’との関係は,Emerson 研究者に比較的軽視されがちなテーマであるが,

Stephen E. Whicher や Gay Willson Allen など,

優れた Emerson 学者は Emerson の思想形成にお ける‘Quakerism’の意義を重視している。

⑹  高木は学習院中学在学中,服部に英語を学んで いる。なお,服部には代表作として『聖哲エマソ ン』(民友社)がある。

⑺  1947 年,敗戦後の精神的支柱の恢復を意図し て,Emerson の“The American Scholar”(1837)

が高木によって訳出され,『アメリカの學者』(新 月社)と題して刊行されている。

(16)

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(London: Sampson Low, Marston & Company, 1897)

Seager, Robert II 1977 Alfred Thayer Mahan The Man and His Letters(Annapolis MD: Naval Institute Press, 1977)

Taylor, Charles Carlisle 1920 The Life of Admiral Mahan(London: John Murray, 1920)

Turner, Frederick Jackson 1891 “The Significance of the Frontier in American History”, in The Early Writings of Frederick Jackson Turner, ed. Everett E. Edwards (Madison WI: The University of Wisconsin Press, 1938)

参照

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