〈論文〉
オーストラリアのソロモン諸島への介入と南太平洋政策の転換
八 杉 哲 司
* * オーストラリア学会はじめに
ソロモン諸島は我々の縄張り(our patch) である。ソロモン諸島が破綻国家となれば、 テロ集団や麻薬の運び屋、マネー・ロンダリ ングを行う人間などの避難場所となる潜在的 な可能性があることについて、オーストラリ ア国民が理解していると自分は信じている。 我々は、自分たちの玄関先(our doorstep) がそのようになることを望まない。ソロモン 諸島が破綻しないことは、オーストラリアの 国益である。だからこそ、我々はソロモン諸 島に関与しようとしており、非常に重大な政 策変更をしたのである(1)。 オーストラリアのハワード(John Howard)首 相は 2003 年 7 月 20 日、以上のように述べた。こ の 4 日後の 7 月 24 日、オーストラリアが主導し、 太平洋諸島フォーラム(Pacific Islands Forum: PIF)加盟国で構成されるソロモン諸島地域支援 ミ ッ シ ョ ン(Regional Assistance Mission in Solomon Islands: RAMSI)の第一陣がソロモン 諸島に到着した。RAMSI は、警察約 300 名及び 軍隊約 1,800 名で構成され、その目的は、民族対 立を発端として悪化したソロモン諸島の「法と秩 序の回復」、「政府機能の回復」、「経済再建」であ り、当面の最重要課題は法と秩序の回復であっ た(2)。 オーストラリアは従来、地域や国際社会から新 植民地主義的であるとの批判が生じることへの懸 念から、南太平洋島嶼国に対しては、援助や助言 はするが、各国の主権を尊重し、主権に関わる問 題には介入しない方針をとっていた(3)。そのた めオーストラリアにとって RAMSI は、「太平洋 島嶼国との戦略的関係の重要な転換(4)」、「太平 洋島嶼地域、特にソロモン諸島に対する政策の劇 的な変化(5)」、「南太平洋地域へのアプローチの 変化(6)」などと評価された。 オーストラリアがソロモン諸島に介入した理由 についての多い指摘は、2001 年の米国同時多発 テロ以降の国際環境の変化を反映して、ソロモン 諸島が破綻国家となればテロや国際犯罪の避難場 所となり、自国や地域に対する脅威になるとの認 識をオーストラリアが有していたという指摘であ る(7)。その際、シンクタンクの豪州戦略政策研 究所(Australian Strategic Policy Institute: ASPI) により2003年6月に公表された報告書『破綻しつ つある隣人』(8)が、破綻国家がテロや国際犯罪 などの避難場所となれば脅威になるという、介入 の理論的根拠や正当性を政府に提供したとも指摘 されている(9)。また、ソロモン諸島への介入は、 当時の争点の一つであったイラクにこれ以上関与 しない格好の理由を提供するものであったとの指 摘や(10)、国民の反発の大きいイラク戦争を避け つつ、ソロモン諸島への介入という形で地域の安 全に貢献することで、米国との同盟関係を良好に 保とうとの動機があったとの指摘もされている (11)。その他にも、ソロモン諸島の悪化した状況 が近隣地域に波及することや、これに乗じて域外 勢力が同地域でプレゼンスを確保しうることに対 するオーストラリアの懸念や(12)、地域の安全に 対する責任意識や人道上の義務感の高まり(13)、 地域の安全に対する責任を果たすことで国際社会 での評価を高めようとの動機があった点なども指 摘されている(14)。あるいは、当時、主権国家へ の介入に対する国際社会の意識が変わりつつあっ たことや、オーストラリアがソロモン諸島の悪化 した状況を強く意識するようになったこと、能力 面で介入に自信を深めていたこと、中国の台頭に よるアジア太平洋地域の潜在的な戦略的不安定性 に対し懸念を強めていたことなど、複数の要因を 指摘するものもある(15)。このように、介入の理由や介入の決定に影響を 与えた要因については様々な指摘がされているし、 それらが複数存在することは、自然なことであろ う。しかし、これらの指摘は、なぜ介入のタイミ ングが 2003 年中頃であったのかについては、必 ずしも十分に説明していない。2000 年にはソロ モン諸島からの介入要請があったし、その直後に はクーデターも発生していたのである。にもかか わらず、なぜ介入は 2003 年中頃となったのか。 こうした疑問が生じる理由の一つは、当時のオー ストラリアの南太平洋政策と、ソロモン諸島情勢 が悪化してから介入に至るまでの時期のオースト ラリアのソロモン諸島への関与の経緯について、 先行研究では必ずしも十分に注意が払われていな いためである。 そこで本稿は、最初に 1990 年代後半からソロ モン諸島への介入に至る 2003 年中頃の時期のオ ーストラリアの南太平洋政策、特に国防・安全保 障 政 策 に 注 目 す る。 そ の 後、 戦 争 記 念 館 (Australian War Memorial)が 2016 年に刊行し たオフィシャル・ヒストリー(16)を活用しつつ、 この時期のソロモン諸島への関与の経緯を整理し、 最終的になぜ介入が 2003 年中頃となったのかを 明らかにすることを目的とする。
1 .オーストラリアの南太平洋島嶼政策
1)不安定化する島嶼国への対応(1990 年代後 半~) 1996年に誕生したハワード政権は、翌年8月に は初となる外交・貿易政策白書を、同年 12 月に は国防白書策定のためのレビューの位置付けで 『オーストラリアの戦略政策』を作成・公表した。 当時のハワード政権の外交・安全保障政策はこれ らに規定されている(17)。まず、外交・貿易政策 白書では、アジア太平洋地域を重視し、特に地域 の大国である米国、日本、中国との関係を重視す る方針が打ち出された。続いてインドネシア、韓 国、ASEAN 諸国、南太平洋島嶼国、ニュージー ランド、パプアニューギニアなどとの関係が重要 とされた。南太平洋島嶼国に関しては、自らが果 たす指導的役割に対する国際社会の評価により、 国際社会での自国の立ち位置が左右されるとの認 識を示しつつ、これらの国に対し経済開発やグッ ド・ガバナンスのための支援をしていくとの方針 が示されている(18)。 もう一方の『オーストラリアの戦略政策』では、 アジア太平洋地域の重視など基本的要素について は外交・貿易政策白書を踏襲しつつ、自国の戦略 的利益として、①「地域の主要大国間の戦略的競 争による不安定化の阻止」、②「自国の利益と反 する利益を有する大国がアジア太平洋地域の安全 保障環境を支配することの阻止」、③「東南アジ アにおける良好な戦略環境の維持」、④「自国を 攻撃しうる外国軍が近隣諸国に足場を築くことの 阻止」、⑤「域内での大量破壊兵器の拡散阻止」、 この五つを掲げていた。この中で南西太平洋に関 しては、現在も予見しうる将来においても域外国 家が同地域で影響力を高めようとの証拠はないが、 潜在的な敵対勢力が同地域で影響力を高めること を阻止することが永続的な戦略的利益であるとし ていた。そして、この利益のためオーストラリア は、太平洋島嶼国にとって国防上の主たるパート ナーである立場を維持すべきとしている。加えて、 島嶼国は組織犯罪のような非国家主体の脅威に直 面しており、例えば法と秩序が崩壊しているよう な 状 況 に 際 し、「 実 質 的 な 支 援(substantial support)」を求められる可能性があると評価して いた。また、可能性は低いとしつつも、仮に域外 の潜在的な敵対勢力が南西太平洋島嶼国を攻撃し た場合には、実質的な支援をする可能性が非常に 高いとも評価していた(19)。実質的な支援が軍事 的関与を示唆していることは明らかであろう。 つまり、南西太平洋でのオーストラリアの国益 とは、同地域が自国の安全に対する脅威の源泉と ならないこと、すなわち、潜在的な敵対勢力がこ の地域で影響力を高めることを阻止することであ った。ただし当時、こうした事態が顕在化してい ると評価していたわけではない。むしろ、当時直 面していた課題は、そうした事態を誘引しかねな い島嶼国の国内の不安定化であり、介入が求めら れる可能性があると想定していたのも、こうした 事態であった。というのも、実際に 1987 年のフ ィジーでのクーデター、1988 年のヴァヌアツで の暴動に見られるように、南太平洋では 1980 年 代後半以降、不安定化する国が出現していたのである。 こうした状況にオーストラリアも関与を深める ようになっていた。例えば、1989 年以降、パプ アニューギニアで約 10 年に及んだブーゲンヴィ ル危機に際しては、長期間にわたり関与した。オ ーストラリアは 1994 年、紛争当時者による和平 会議の安全確保や会議参加者の警護を目的とした、 地域各国で構成される南太平洋平和維持軍(South Pacific Peace Keeping Force: SPPKF)の派遣を 主導した(20)。また、1997 年からは、オーストラ リア、ニュージーランド、フィジー、ヴァヌアツ の要員で構成され、休戦合意の履行の監視と報告 などを任務とする休戦監視団(Truce Monitoring Group: TMG)に参加した。オーストラリアから は、 外 務・ 貿 易 省 や 連 邦 警 察(Australian Federal Police: AFP)などから非武装の文民約 20名が参加し、軍は約80名によりTMGの後方支 援を行った(21)。1998 年 4 月の恒久的な休戦合意 に伴い、TMG が平和監視団(Peace Monitoring Group: PMG)へと発展解消した後は、オースト ラリアがこれを主導した。関係省庁からは非武装 の文民約 20 名が監視要員として参加し、軍は約 200 人により後方支援を担った。2001 年 8 月 30 日 にはブーゲンヴィル和平合意が署名され公式に紛 争が終了したが、PMG はその後も 2003 年 6 月 30 日まで活動を続けた(22)。 ブーゲンヴィル危機への関与は、オーストラリ アにとって近隣国への関与に係る経験や教訓を得 る貴重な機会であった。SPPKF は、地域を主導 し多国籍部隊を指揮する経験を得る機会であった。 また TMG と PMG は、国際的な平和監視活動に 文民を派遣する初の試みであったし、複数の関係 省庁から参加したことで、近隣国での活動に際し ての省庁間連携を強化する機会となった(23)。こ うした関与は、見方によっては介入と捉えること もできるが、オーストラリアの基本姿勢は、和平 プロセス進展の支援はするが、平和の強制はでき ないしその責任もない、それは紛争当事者が自ら 解決しなければならないというものであり、少な くともオーストラリア自身は、こうした関与を介 入とはとらえていなかった(24)。 近隣地域への関与で最大であったのは、1999 年 9 月 に 始 ま っ た 東 テ ィ モ ー ル 国 際 軍 ( I n t e r n a t i o n a l F o r c e i n E a s t T i m o r : INTERFET)による活動である。INTERFETは、 オーストラリアにとってベトナム戦争以来、最大 規模となる軍の海外派遣であり、ピーク時には最 大6,000名以上が参加した(25)。東ティモールは厳 密 に は 南 太 平 洋 の 島 嶼 国 で は な い し、 INTERFET は国連憲章第 7 章の下での平和強制 であり、PMGやRAMSIとは性質が異なる。しか し、オーストラリアにとって東ティモールと南太 平洋島嶼国は、自国の近隣という地政学的な観点 で そ の 重 要 性 は 基 本 的 に 同 様 で あ る。 ま た、 INTERFET とその後の長年にわたる東ティモー ルでの平和活動は、多国籍部隊の指揮や近隣地域 への大規模な部隊派遣といった、近隣地域での活 動に関し貴重な経験と教訓を得る機会であった。 AFP にとっても、従来の選挙監視や停戦監視に 加え、法執行活動や現地警察の再建といった海外 での活動を拡大させるものであった(26)。これら の近隣国への関与と貢献を通じ、オーストラリア が経験や教訓を得たのみならず、自信も深めたこ とは想像に難くない。 2)南太平洋政策の転換の兆し(2000 年) その後 2000 年 12 月には、1987 年以来となる 2000 年国防白書が公表されたが、その最大の特 徴は、自国の利益及び戦略目標の優先順位を明確 にした点であった。第一は従来同様、自国本土を 守るための「大陸防衛」であったが、第二に「自 国の近隣地域の安全の促進」、第三に「東南アジ ア各国との協力を通じた同地域の安定促進」、第 四に「アジア太平洋地域の戦略的安定維持への貢 献」、第五に「グローバルな安全維持のための国 際社会による努力への貢献」、とされた。軍の任 務も、第一に大陸防衛、第二に近隣地域の安全へ の貢献、第三に近隣地域を超えたより広い地域で の国際的なコアリションへの貢献と、優先順位を 付け拡大された。このことを裏打ちするかのよう に国防予算の拡大方針についても打ち出している。 こうした戦略目標や軍の任務は、自国を中心とし て同心円状に広がる形で優先順位を付与したとい えるが、特に第一と第二の戦略目標と任務が重視 されていたことは明らかである。というのも、白 書では優先すべき軍の能力として特に二点が強調
されたが、それは第一に海空戦力であり、敵の海 空からの侵攻に対応し自国を防衛するための能力 と、近隣地域への部隊展開を支援するための能力 であった。第二に陸上戦力であり、自国領土へ侵 攻する敵への対処能力と、近隣地域の安全に貢献 するための能力だったのである(27)。 さて、白書では自国の近隣地域として、インド ネシア、ニュージーランド、パプアニューギニア、 南西太平洋島嶼国、東ティモールが挙げられてい た。南西太平洋に関しては、島嶼国の統治能力が 低下し脆弱化することがオーストラリアの戦略的 懸念であるとの認識を示し、何よりも部族対立や 法と秩序の問題など、各国が抱える問題がその国 の安定や一体性を脅かすことに対して懸念を示し ていた。そして、そうした状況に乗じて敵対勢力 が地域に侵入することも懸念として挙げており、 こうした敵対勢力がオーストラリア攻撃のために 近隣地域を使用するような事態を防ぐことに利益 があるとした。加えて、「可能性は低いが、島嶼 国が外部から攻撃されるような事態が発生した際 は、実質的な支援をするだろう」とも表明されて いた(28)。 こうした内容は、先に見た 1997 年の『オース トラリアの戦略政策』を踏襲しているが、注目す べきは、近隣国での軍による活動は、当事国、地 域及び国際社会からの支持がある場合にのみ検討 するとの慎重な姿勢を示しつつ、近隣地域におけ る軍の作戦を検討する際の考慮要素が挙げられて いる点である。それはすなわち、①戦略、政治、 人道、同盟関係などの観点からの国益、②任務に 際しての明確な権限、目標、出口、③実行可能性、 ④国際社会の支持、⑤軍のその他の任務への影響、 ⑥訓練効果などの任務を通じた軍の利益、⑦人的 リスク、⑧派遣がより広い国際関係にもたらす影 響、などであった(29)。 実は、この白書の公表に先立つ2000年7月、地 域の不安定な情勢に鑑み、ハワード首相は太平洋 島嶼政策のレビューを指示していた。政府内での 検討を経た 2000 年 9 月 23 日の閣議では、太平洋 島嶼政策の選択肢として、①「関与の減少」、②「現 状維持」、③「既存の政策の強化・調整」、④「政 策の再検討及び大胆な措置の追加」、⑤「介入主 義アプローチの採用」、これら五つが示されたが、 既存の政策の強化・調整が採用された。加えて、 平和維持のための部隊を島嶼国に派遣する際の条 件として、自国の死活的国益にとって深刻かつ直 接的な脅威が存在すること、あるいはそうした状 況にエスカレートする深刻なリスクがあること、 大規模な人道危機が発生していること、などが確 認された。また、介入時の権限や、明確で実行可 能な目標及び出口があること、危機終息後の計画、 実質的貢献が可能であること、自国民の支持があ ること、などが確認された(30)。 選択肢として既存の政策の強化・調整を採用し たという点では、基本的に従来の南太平洋政策を 踏襲していたのだが、注目すべきは、近隣地域へ の介入について想定し、その際の条件を確認して いたことであろう。つまり、確認された条件が満 たされる状況になれば、介入もあり得たわけであ る。このことは、この時期にオーストラリアの南 太平洋政策の転換の兆しが現れつつあったことを 意味している。2000 年 10 月 30 日の PIF 首脳会合 においてビケタワ宣言が全会一致で採択されたこ とも、このことを示唆している。ビケタワ宣言は、 地域協力と安全保障への取り組みを一層発展させ ることを目的として、グッド・ガバナンスの実現 や紛争の平和的解決などの行動指針を示すもので あったが、域内紛争に際して地域で介入すること も視野に入れた宣言だったのである(31)。 このように、南西太平洋におけるオーストラリ アにとっての脅威とは、自国の安全に対して脅威 を及ぼすような敵対勢力がこの地域で影響力を高 めることであり、またそうした事態を助長するよ うな島嶼国の不安定化であった。そして、こうし た事態を防ぐこと、すなわち島嶼国を安定と安全 を保つことが、この地域におけるオーストラリア の国益と考えられていたのである。しかし、この 地域では 1980 年代後半以降、不安定化する島嶼 国が後を絶たなかった。そうした中オーストラリ アは、介入時の明確な権限や目標、出口、あるい は、実行可能性や軍のその他の任務への影響、人 的リスク、国際社会や同盟関係への影響、国内外 の世論の支持といった、島嶼国の安定と安全のた めに軍を派遣する際の条件を確認したわけである。 では、当時のオーストラリアは、仮に島嶼国が 不安定化した場合に影響力を拡大し得る敵対勢力
として、特定の国を念頭に置いていたのであろう か。この点に関し、国防副次官として 2000 年国 防白書を起草したホワイト(Hugh White)は、 中国の台頭というアジア太平洋地域の潜在的な戦 略的不安定性に対する意識が高まった結果、近隣 の島嶼国が脆弱化することで敵対勢力が浸透し自 国の安全保障に影響を及ぼしうるとの潜在的可能 性に対する懸念も強まったと指摘している(32)。 また、この地域では 1990 年代後半以降、島嶼国 による国家承認をめぐり、中国と台湾の間で争い が繰り広げられていたことから、存在感を高めつ つあった中国に対しオーストラリアが懸念を強め ていたとの指摘もある(33)。あるいは 2003 年当時、 地域における中国のプレゼンスを脅威と指摘して いた有識者もいた(34)。 確かにホワイトが指摘するように、2000 年国 防白書でも、自国の安全保障上、将来的に最も重 要な問題は、米中間の緊張関係の高まりとされて いた。ただし、オーストラリアは重要な戦略的対 話の相手である中国との対話を通じて、価値観の 相違や地域における米国の役割に対する認識の相 違を克服することに貢献していくとの姿勢も同時 に示されていた(35)。中国に対するこうした認識 や姿勢は、2003 年に入っても同様であったとい える。2003 年国防白書更新版では、米中間の戦 略的競争が今後も続くとの見通しが示されていた が(36)、2003 年の外交・貿易政策白書では、中国 の台頭は地域にとって最重要な趨勢であるとの認 識のもと、中国との関係拡大に期待を寄せつつ、 米中間の緊張の鎮静化を支援していくことがオー ストラリアの役割であるとしている(37)。 これらを踏まえると、当時のオーストラリアに とって中国とは、明確で具体的な脅威というより も、その台頭がアジア太平洋地域の潜在的な不安 定要因であり、長期的には場合により大陸防衛や 近隣地域の安全と安定に対する脅威にもなり得る、 といった存在であったといえる。もちろん、公表 される白書では、外交関係を考慮して特定の国を 明確に脅威と明示しないことも一般にあり得るが、 これ以降に公表された 2005 年や 2007 年の国防白 書更新版では、中国の軍事能力近代化に懸念を示 し始めている。さらに 2009 年の国防白書では、 中国の台頭について独立した項目で扱い、中国を アジア最大の軍事大国と位置づけ、軍の戦力投射 能力の強化や近代化の速度と規模が急激で近隣諸 国の懸案となっていると指摘している(38)。 したがって、当時のオーストラリアに、近年の オーストラリアに見られるような近隣地域におけ る中国の影響力拡大に対する懸念があったとは言 い難い。自国の近隣地域における中国の影響力拡 大とは、当時のオーストラリアにとっては、あく まで将来的には潜在的に可能性があるという漠然 としたものであったと捉える方が妥当であろう。 ちなみに、ホワイトも近年の著書において、2000 年国防白書の作成時、中国の台頭によりアジア太 平洋地域で米国との競合関係が紛争に至った場合 や、そうした事態が近隣地域での脅威となる場合 のことが念頭にあったと述べつつも、同時にその 後の状況について、テロとの戦いの結果、政策決 定者は日々の作戦に目を奪われ、関心はアジアで なく中東に向き、本来は長期的に注目すべき趨勢 に目を向けることができなかったと指摘してい る(39)。 3)近隣地域の情勢悪化とテロとの戦い(2001 年~) 実際に 2001 年 9 月 11 日の米国同時多発テロ後、 オーストラリアの安全保障上の焦点はテロとの戦 いに向けられていった。オーストラリアはテロ発 生後、10月2日には早々に特殊部隊の能力強化や 立法措置などの対テロ強化策を打ち出した(40)。 また、多くの自国民が被害者となった 2002 年 10 月 12 日のバリ島爆弾テロ事件を受け、同年 12 月 には統合の特殊部隊コマンドの創設、国内でのテ ロ対策のための軍の予備役の活用など、更なるテ ロ対策を打ち出した(41)。 同時にオーストラリアは、アフガニスタン戦争 やイラク戦争に参加するなど、米国が進める対テ ロ戦争を積極的に支援した(42)。仮に戦争となっ た場合に参戦するかどうかは未定であったが、既 に2002年8月には米軍とオーストラリア軍との間 でイラクと戦争になった場合について協議されて いた(43)。さらに、2003 年 1 月には中東地域及び その近傍への部隊展開を開始しており、アフガニ スタンでの作戦から転用された一部の部隊も含め、 2003 年 2 月の時点で約 2,000 名のオーストラリア
軍が展開していた(44)。3 月 18 日には、閣議でイ ラク戦争への参加を決定したことについて、ハワ ード首相が記者会見で発表し、3月20日には大規 模な作戦が開始された。その後、4 月 9 日にはバ クダットが陥落し、5 月にはブッシュ(George W. Bush)大統領が戦闘終結を宣言したが、以降 もオーストラリア軍は、約 2,000 名から約 800 名 に規模を縮小しつつ活動を継続した(45)。 こうした中、2003 年に入ると、2 月 12 日には 1997年以来となる外交・貿易政策白書が、2月26 日には 2000 年国防白書の更新版が公表されてい た。いずれの白書でも最大の焦点はテロであった が、同時に近隣地域の不安定化への懸念も示され ていた。外交・貿易政策白書は、アジア重視など 全般として 1997 年外交・貿易政策白書を踏襲す るものであったが、南太平洋については、テロ、 あるいは麻薬売買、人身売買、不法移民、マネー・ ロンダリングといった国際犯罪が脅威として高ま っているとの認識を示した。また、島嶼国は国内 の分裂や貧弱なガバナンスのため、テロ集団の活 動などに対して脆弱であると評価し、オーストラ リアは支援すべき重要な存在である南太平洋に密 接な関与を続けていくとしていた(46)。 2003 年国防白書更新版は、2000 年国防白書公 表以降の戦略環境の変化を受け、同白書の更新と いう位置付けで作成され、戦略環境の変化として、 特にテロと大量破壊兵器の拡散と近隣地域の不安 定化を指摘していた。南太平洋島嶼国の状況は 2000 年当時よりも悪化していると評価しつつ、 それらの国の危機は直接、オーストラリアに影響 を及ぼすし、支援を求められることも想定される ことから、軍の迅速な展開も含む関与が求められ る可能性もあり得るとの認識が示された(47)。派 遣が想定される事態として島嶼国内の不安定化を 想定していたわけである。 ただし 2003 年国防白書更新版は、2000 年国防 白書が規定した戦略目標や軍の任務などの国防政 策の原則は依然として有効だとしつつも、新たな 国際環境を踏まえ、軍の任務の優先順位や保有す べき能力について再考する必要性もありえるとも していた。また、同白書は更新版の位置付けであ ることから、その内容は戦略環境の評価が主であ り、通常の国防白書のように今後保有すべき装備 品に関する記述はほとんどなかったが、特殊部隊 の強化や特殊作戦コマンドの創設など、対テロ戦 のための強化については打ち出していた(48)。 このように、近隣の島嶼国の脆弱化や不安定化 を背景として、オーストラリアは 2000 年には、 大陸防衛に次ぐ戦略目標として近隣地域の安全を 掲げ、更に地域に介入する際の条件も確認してい た。しかし、一方で 2001 年の米国同時多発テロ 以降、オーストラリアにとってテロとの戦いの優 先度が相対的に高まっていた。その結果、オース トラリアが実際にとった行動は、アフガニスタン 戦争への参加など、国際的なテロとの戦いへの貢 献だったのである。ソロモン諸島情勢が悪化の一 途をたどっていたのは、ちょうどこの時期であっ た。
2 .介入以前のソロモン諸島情勢とオース
トラリアの関与
1)介入要請とクーデターへの対応(2000 年 4 月~) ソロモン諸島では 1998 年末頃、首都ホニアラ が所在するガダルカナル島において、ガダルカナ ル人と移住してきたマライタ人との対立が顕在化 し た。 一 般 的 に「 イ サ タ ブ 自 由 運 動(Isatabu Freedom Movement: IFM)」と呼ばれるガダル カナル島民の武装集団が出現し、マライタ島出身 者の居住区を襲撃し、殺害や略奪、破壊行為を繰 り返すようになった。土地や家財を失ったマライ タ島出身者たちは、国内避難民となり、国際赤十 字委員会が設置したホニアラの難民キャンプなど に避難を余儀なくされた(49)。 その後、ソロモン諸島政府から支援を求められ た英連邦事務局の努力もあり、1999 年に入ると 和平協定が結ばれ、和平協定の履行監視を目的と し た 英 連 邦 多 国 籍 警 察 支 援 グ ル ー プ(The Commonwealth Multinational Police Assistance Group: PAG) が ソ ロ モ ン 諸 島 に 派 遣 さ れ た。 PAG は、フィジーとヴァヌアツの非武装の警察 官 25 名から構成され、その任務は、武器回収、 法と秩序に関する状況の監視及び報告、現地コミ ュニティの信頼醸成などであった。オーストラリ アは、ニュージーランドや英国と共に資金提供の形でPAGを支援した(50)。 しかし、2000 年 1 月 17 日にはマライタ州の州 都アウキで、覆面した集団が警察の武器庫を襲撃 し、高性能武器と弾薬を強奪する事件が発生した。 マライタ島出身者側にも「マライタ・イーグル・ フォース(Malaita Eagle Force: MEF)」と呼ば れる武装集団が姿を現したのである。なお、ソロ モン諸島警察の大多数はマライタ島出身者から構 成されており、その一部が武器庫襲撃に加担した とされた。こうしてホニアラ市内では暴力や犯罪 が日常茶飯事となっていた(51)。 か く し て ソ ロ モ ン 諸 島 の ウ ル フ ァ ア ル (Bartholomew Ulufa’alu)首相は 2000 年 4 月、オ ーストラリアに対し、ニュージーランド、オース トラリア、フィジー、ヴァヌアツ、ソロモン諸島 が参加する形での会合の場を持ちたいと書簡で要 請した。要請を受け 2000 年 4 月 22 日、太平洋・ 島サミットの開催に併せて会合の場が設けられ、 ダウナー(Alexander Downer)外相は、PAGを 50 名に拡大してほしいと要請された。さらに、 この会合後のウルファアル首相との協議では、オ ーストラリアの警察要員も現地で活動してほしい と要請されたのである(52)。 この要請に関しては、オーストラリアが介入要 請を拒否したという点のみが一般に強調されてき た。確かにダウナー外相は5月11日、オーストラ リア警察による介入要請は受け入れられない旨を ウルファアル首相に伝えている。しかし同時に、 オーストラリアは PAG を 50 名に拡大するために 約 80 万豪ドルの資金提供を決定し、ソロモン諸 島への関与を強めたのである(53)。そもそもオー ストラリアは、ソロモン諸島情勢が悪化した 1990年代後半以降、関与を強めていた。1997-8年 には 1,102 万豪ドル、1998-9 年には 1,333 万豪ドル、 1999-2000年には1,873万豪ドルと、ソロモン諸島 への援助額を増加させていたし、ソロモン諸島警 察に派遣するアドバイザーの増員なども行ってい たのである(54)。 ところが 2000 年 6 月 5 日、MEF によるクーデ ターが発生した。MEF は、警察署などの武器庫 から武器や弾薬などを奪取したが、このことは、 軍隊のないソロモン諸島において、政府の武器が ほぼ失われたことを意味していた。さらに MEF は、国営放送会社や電話公社などの情報通信部門 も支配下におき、また、ウルファアル首相を拘禁 するなど、首都ホニアラを掌握した。これらが短 時間で達成された理由は、一部の警察官が MEF と行動をともにしたからである(55)。 クーデター発生を受け、オーストラリアは6月 10~11 日、英連邦閣僚代表団の一員としてダウ ナー外相をソロモン諸島に派遣した。ダウナー外 相は、政府指導者や IFM、MEF の代表者など多 くの関係者と会談し和平を慫慂した(56)。また、 オーストラリア政府内では6月18日、ソロモン諸 島への対応として、休戦監視要員と非武装の警察 アドバイザーの派遣、地域枠組みでの平和維持活 動、これら二つの選択肢が閣議で審議された。そ の際、全ての紛争当事者が和平プロセスに貢献し、 第三者による介入に同意し、現地で活動する要員 の安全を保証すること、また、国連や英連邦の支 持があること、具体的な任務や活動期間及び出口 戦略が明確であること、これらが満たされない限 りは介入しないことが確認された(57)。その後、8 月 3 日には休戦合意に至り、10 月 9 日から 6 日間 にわたりタウンズヴィル空軍基地で開催された和 平協議を経て、10 月 15 日、タウンズヴィル和平 協定が署名された。協定の履行を支援するための 国 際 平 和 監 視 チ ー ム(International Peace Monitoring Team : IPMT)の設置も規定され た(58)。 このように、この時期のオーストラリアのソロ モン諸島への対応は、和平に向けた仲介や資金援 助などによる関与の強化であったが、注目すべき は、クーデターを受けソロモン諸島への介入につ いても検討していたことであろう。先に見たよう に、クーデター後の7月にはハワード首相が南太 平洋政策のレビューを指示し、9 月には太平洋島 嶼国への介入に際しての条件が閣議で確認されて いる。つまり、ソロモン諸島でのクーデターとは、 オーストラリアが南太平洋政策を再検討する上で 大きな影響を与えた要因だったのである。 しかし、当時のオーストラリアの対応やハワー ド首相の発言を見る限り、オーストラリアは当時、 介入の条件は満たされていないし、介入せずとも 資金援助などにより対応できると評価したといえ る。ハワード首相はクーデター発生から2日後の
6月7日、「太平洋の小さな国々が、オーストラリ アが地域の警察官として出しゃばることを望むと は思わない」、「軍人であれ警察要員であれ、許容 できないリスクのある状況では派遣できない」、 「我々は必ずしも要請どおりの支援は必要ないと 評価し、要請に同意しなかったが、PAG 拡大の ための資金援助に同意した。我々は非常に大きな 援助をしてきた」と述べている(59)。 2)IPMT による関与(2000 年 11 月~) オーストラリアにとって、非武装とはいえ警察 官も含め文民を現地に派遣するIPMTを主導する ことは、援助と助言を超える形でのさらに踏み込 んだ関与であったが、その活動内容などを踏まえ れば、こうした関与はブーゲンヴィルでの経験を 踏襲したものであったといえる。2000 年 11 月か ら開始されたIPMTの任務は、和平協定に基づき 現 地 に 設 置 さ れ た 平 和 監 視 委 員 会(Peace Monitoring Council : PMC)を支援することであ り、具体的には、返納される武器の受領や保管状 況の監視、協定の履行状況の監視と報告、地域コ ミュニティの信頼醸成などであった。 IPMTは、 紛争当事者の合意を得た非武装・中立の組織であ り、オーストラリア、ニュージーランド、クック 諸島、トンガ、ヴァヌアツ、英連邦のいくつかの 国から要員が参加した(60)。オーストラリアから は、IPMTを主導する外務・貿易省に加え、オー ストラリア国際開発庁(Australian Agency for International Development: AusAID)、AFP、国 防省の要員が参加した。軍は、避難民の保護と避 難という緊急事態に備え、ホニアラ沖合に艦艇を 派遣し、現地には大佐級の軍事顧問に加え、後方、 通信、情報、セキュリティ、爆発物処理の専門家 で構成される分遣隊が派遣され、IPMTの後方支 援にあたった(61)。 IPMT により、2001 年 6 月までに約 900 の武器 が回収されたが、そのほとんどは自家製の武器で、 警察から強奪された500以上の半自動、自動の武 器は、武装集団や犯罪集団が保持したままであっ た。こうした状況の中、IPMT の活動を 2001 年 11 月まで 6 か月間延長することが決定されたが、 2001 年 6 月 6 日には IPMT 要員に対する発砲事案 まで発生するなど、和平プロセスは思うように進 展しなかった。ソロモン諸島が当時、このような 状況になった理由の一つは、ソロモン諸島警察に あった。警察の中でも武装した警察部隊(Police Field Force)は、MEF を支持しており、武器回 収を行う意図も能力もなかった。というのも、ソ ロモン諸島政府はタウンズヴィル和平協定署名後、 増加する犯罪などへの対応のため約850名の特別 警察官(Special Constable)を採用したが、なん と採用されたのは元 MEF の人間であり、あろう ことか彼らは武装した警察部隊に配置されたので ある。この武装した警察部隊はその後、一般のソ ロモン諸島警察とは分極し、日常的に犯罪に手を 染めていった(62)。 警察が MEF と結びついていることで、ガダル カナル島民の間では、マライタ島出身者だけでは なく政府や警察官に対する不信感も高まっていた。 さらに、民族紛争そのものも収束したとはいえず、 より複雑化して継続した。IFM では、主要なリ ーダーの一人であったケケ(Harold Keke)が、 タウンズヴィル和平協定の受け入れを拒否し、 IFM か ら 分 離 し て「 ガ ダ ル カ ナ ル 解 放 戦 線 (Guadalcanal Liberation Front: GLF)を名乗っ てガダルカナル島南部で勢力を拡大し、反政府を 掲げる戦いに転じていった。また、IFM や MEF の内部では多数の分裂が起こり、争いが複雑化し て い っ た(63)。 さ ら に 2001 年 12 月 20 日 に は、 IPMTの司令部近傍への発砲事案も発生した。ソ ロモン諸島はこの時期、経済は崩壊し、法と秩序 も崩壊した無法状態にあると報じられ、いわゆる 「破綻国家」の烙印を押されるようになっていた。 政府の財政も崩壊状態にあった(64)。 こうした中、オーストラリアでは 2002 年 2 月 14 日、閣議において、ソロモン諸島に対して法 と秩序の分野でさらなる支援を提供することが承 認された。他方で、IPMTに関しては、オースト ラリアの要員は2002年3月中頃には帰国し、地域 各国からの要員も6月25日に活動を終える予定と された(65)。IPMT終了の理由は、IPMTではこの 時期のソロモン諸島の問題に対応できないと評価 されたためであった。ダウナー外相とニュージー ランドのゴフ(Phil Goff)外相は2002年6月、共 同記者会見において、現在のソロモン諸島の問題 は、民族対立ではなく法と秩序の崩壊であり、犯
罪を取り締まれない警察の能力にあるため、両国 はソロモン諸島警察の能力強化のための支援を継 続していく旨を述べている。問題が民族対立から 法と秩序の問題へと変容する一方で、IPMTの任 務は、和平協定の履行を監視する PMC の支援で あり、ソロモン諸島警察の能力構築や、犯罪取締 などの警察活動の権限については与えられていな か っ た の で あ る。 こ う し て 2002 年 6 月 25 日、 IPMT は活動を終えた。活動期間中に約 2,000 の 武器の回収と保管を支援し、警察の武器庫から奪 われた武器も100ほどは回収されたが、依然とし て400ほどは回収できない状態のままであった(66)。 3)IPMT 後の関与(2002 年 6 月~) オーストラリアはIPMTの活動終了後、法と秩 序の問題をソロモン諸島が自ら解決できるように、 ソロモン諸島警察の能力強化を支援するという形 で引き続き関与した。例えば2002年10月24日には、 以後 3 か月間で最大 30 万豪ドルを提供すること、 引き続きアドバイザーとして警察官を派遣するこ とを表明している(67)。しかし、情勢は悪化の一 途をたどり、ソロモン諸島では犯罪が横行し、そ れが罰せられない無法状態に陥っていた(68)。そ うした中、ダウナー外相は2003年1月8日、『ジ・ オーストラリアン』紙に投稿した論説において、 ソロモン諸島に対し資金援助や能力構築支援など を継続する用意があることを示しつつも、できる ことには限界があるとして、不介入について以下 のように釈明した。 ソロモン諸島を占領するためにオーストラ リア軍を派遣することは全く馬鹿げたことで ある。広く太平洋地域の怒りを買うことにな ろう。オーストラリアの納税者を納得させる ことも非常に困難であろう。(略)出口戦略 はあるのだろうか。オーストラリア主導であ れ、英連邦主導であれ、PIF主導であれ、ど れだけ枠組みを整えようが、介入は成功しな いだろう。根本的な問題は、ソロモン諸島の 根深い問題に対する答えを外国は持っていな いということである(69)。 同様に 2003 年外交・貿易政策白書でも、南太 平洋に密接な関与を続けていくとしつつも、「オ ーストラリアは新植民地主義国ではないし、オー ストラリアが南太平洋の独立した主権国家である 島嶼国の問題を解決できるとは考えておらず、島 嶼国が自らの問題に自らの方法で取り組むことが 必要である」とされていた(70)。2003 年国防白書 更新版も、軍の展開も含め地域への関与が求めら れる可能性もあり得るとしつつも、「オーストラ リアがソロモン諸島の問題を解決するだろうと、 期待されるべきではない。そのようなことはでき ない。暴力に終止符を打ち、経済や政治の問題に 取り組むために必要な安定をもたらすことができ るのは、ソロモン諸島の国民と指導者だけである」 としていた(71)。 このように、オーストラリアは 2000 年のクー デター以降、積極的な仲介や IPMT の主導など、 ブーゲンヴィルでの経験を踏襲する形でソロモン 諸島への関与を強めた。このこと自体は、オース トラリアにとって近隣のソロモン諸島の安全と安 定が重要であることを示している。しかし、ソロ モン諸島の状況が悪化する中、この時期に至って もオーストラリアが介入にまで踏み込まなかった のは、2000 年のクーデター前後の時期と同様、 介入の条件が満たされそうにないと考えていたた めであろう。先に見たダウナー外相の発言や外交・ 貿易政策白書からは、オーストラリア政府が当時、 新植民地主義的であると非難されることに懸念を 抱いていたこと、言い換えるならば、国際社会や 地域、自国民の支持を得ることはできないと考え ていたことが窺える。かといって、ソロモン諸島 の状況の悪化を放置することもできない状況でオ ーストラリアがとった行動は、援助と助言により 関与を続けることであった。しかし、次に見るよ うに水面下ではこの時期、介入へと至る直接的な 動きも生じつつあったのである。
3 .ソロモン諸島への介入
1)ASPI の動向 2003年4月下旬以降、オーストラリア政府内で ソロモン諸島への介入という政策が形成されてい ったという点が、先行研究の一致した見解であろ う(72)。4 月 22 日のケマケザ(Allan Kemakeza)首相からの介入を要請する書簡の送付を発端に、 以降、6 月 5 日にはオーストラリアとソロモン諸 島の両国政府間で協議がなされ、6月25日にはハ ワード首相が介入の意向を表明し、7月24日には RAMSI の第一陣がソロモン諸島に到着した。し かし、介入に至る直接的な端緒は、より早い時期 にあった。国防副次官から ASPI の所長となって いたホワイトと戦略・国際プログラムのダイレク タ ー で あ っ た ウ ェ イ ン ラ イ ト(Elsina Wainwright)は2002年12月12日、国防省、外務・ 貿易省、AusAIDの代表者とソロモン諸島情勢に ついて議論していたのである。その際、二人はオ ーストラリア主導の地域的な介入ついて切り出し たが、コンセンサスには至らなかったという。関 係省庁のどの程度の地位の人間と協議をしたのか は明確にされていないが、国防省では、ASPI の 分析が副次官まで報告されていることが確認でき る(73)。単なる意見交換では終わっていないとい うことがいえよう。 ASPI はこの後の 2003 年 6 月 10 日、ソロモン諸 島への介入を提言する報告書を公表するが、ホワ イトは2003年2月の段階で、報告書のドラフトを オーストラリア政府の人間に配布していた。さら に在豪ソロモン諸島高等弁務官のトザカ(Milner Tozaka)にも配布し、ソロモン諸島議会のケニ ロレア(Peter Kenilorea)議長、ラプリ(John Ini Lapli)総督からドラフトに対する意見をいた だきたい旨を伝えた。ドラフトでは、少数の軍及 び警察の要員で構成されるオーストラリア主導の 多国籍ミッションにより、ソロモン諸島の法と秩 序を回復し、国の主要機能を再建させるという構 想が描かれていた(74)。実際のRAMSIは当初、よ り大規模な軍で構成されたが、最初に法と秩序を 回復し、その後長期的にソロモン諸島の政府機能 や経済の再建に取り組むという構想は、このドラ フトの構想と同様であった。このことは、ASPI の構想が RAMSI の構想を検討する際の政府当局 者の「頭作り」に繋がったことを示しているとい えよう。しかも ASPI の構想は、国家再建という ソロモン諸島への関与の出口までも視野に入れた ものであった。 重要であったのは、報告書のドラフトをソロモ ン諸島政府にも配布したことである。トザカ高等 弁務官は、ケニロレア議長とラプリ総督にドラフ トを渡すだけでなく、ケマケザ首相に対しても、 ASPI は政府機関ではないが、オーストラリアが 現在、ソロモン諸島にどのような支援ができ得る のかについて積極的に検討していると説明し た(75)。説明を受けたケマケザ首相は、熱狂的な 反応を示したという。ソロモン諸島の総督と議長 から意見をもらいたいとのホワイトの要望は、ケ マケザ首相には、オーストラリアの政策変更を示 唆していると誤解されたのであった(76)。かくし てケマケザ首相は4月22日、ハワード首相に対し、 「ソロモン諸島の非常に困難な状況に対するオー ストラリアより強固な支援の可能性について、可 能であれば早急に会って話がしたい」との書簡を 書いた(77)。 ただし、ホワイトは、ケマケザ首相がハワード 首相に書簡を書くことを期待してドラフトを配布 したわけではなかったという(78)。では、なぜホ ワイトはこのような行動をとったのか。ASPIは、 独立したシンクタンクとはいえ、政府が設立を決 定し、国防省が予算の一部を負担する形で 2001 年8月に設置され、その目的の一つは、戦略や国防・ 安全保障政策に関し政府に提言することであっ た(79)。また、2002 年 12 月 7 日の新聞記事でホワ イトは、「破綻国家への対応について国際社会で 議論されるようになったため、2、3 年前に比べ れば、オーストラリア国民も政府も、近隣地域に 対する新しい政策を許容しやすくなってきてい る」と述べている(80)。こう見るとホワイトは、 自らの安全保障観に基づき、自らが適時だと考え るタイミングで、自己の職務である政府への助言 をしただけということになる。この点は推論の域 を出ない。ただしいずれせよ、報告書のドラフト をソロモン諸島にも配布するという ASPI の動向 こそ、介入へと至る直接的な発端であり、介入の 決定に影響を与えた一つの重要な要因であった。 なぜなら、報告書に触発されたケマケザ首相の書 簡をハワード首相が受けとった後、介入に向けた 動きが急速に進展するのである。 2)ハワード首相の決心 ケマケザ首相の書簡を受け取ったハワード首相 は翌日の4月25日、ダウナー外相と対応について
協議した。その際、オーストラリアが主導し太平 洋島嶼国の警察要員で構成される部隊を派遣する という案も出たが、結論は出ず、今後も協議を続 けることになったという(81)。ハワード首相はこ の時点で、介入の決心はしていないものの、選択 肢として介入を排除していないことが窺えよう。 一方、政府の事務レベルでは 5 月 1 日、首相内 閣府、外務・貿易省、国防省が書簡への対応を検 討していた。検討資料では、ソロモン諸島への対 応案として、①「現状維持」、②「太平洋島嶼国 で構成する警察部隊による限定的な介入」、③「オ ーストラリアによる直接介入」、④「目標を定め た支援措置をパッケージ化して支援(a package of targeted measures)」、という四つの案が提示 されていた。短期間で法と秩序を回復するために は直接介入が最も効果的だが、介入は、再植民地 化やイラク戦争の関係でメディアが当時使ってい た「レジーム・チェンジ」とみなされるリスクが あると評価されていた。その結果、事務レベルは、 ソロモン諸島情勢は介入のコストに見合うほど国 益を脅かすようなものではないと評価し、望まし いのは、資金援助などの目標を定めた支援措置を 数多く追加する形で既存の支援を強化することで あると結論付けた(82)。つまり、事務レベルも効 果的な対応は直接介入であると評価していたのだ が、国際社会の反応や国際関係への影響といった 観点から、介入すべきでないと判断したわけであ る。とはいえ、何も手を打たずに状況を放置する わけにもいかず、既存の支援を強化するという、 無難ともいえる結論に至ったといえよう。 ちなみに、この事務レベルの検討からは、地域 やソロモン諸島における敵対勢力の影響力拡大に ついて、どのように評価していたのかは確認でき ない。この点に関し例えば、ソロモン諸島が当時、 国家として承認していた台湾から多額の援助を受 けていたことから、国内の不安定化に伴いさらに 台湾への依存が深まるのではないかとの懸念がオ ーストラリア政府内に存在したとの指摘があ る(83)。あるいは、ケマケザ首相が 2003 年 4 月、 オーストラリアのみならずインドネシアにも支援 を要請していたことから、オーストラリアはイン ドネシアによる介入を懸念していたとの指摘もあ る(84)。いずれの指摘も検証が困難であり、こう した懸念が介入の直接的な理由であったとは言い 切れない。とはいえ、前述の中国も含めこうした 国が同地域で影響力を高めることに関して、当時 のオーストラリアが漠然としながらも潜在的に可 能性があり得るものとして意識しており、こうし た意識が介入の決定に何かしら影響を与えた可能 性はあり得る。 さて、事務レベルが検討している頃、ハワード 首相は、招待を受けブッシュ大統領の別荘を訪問 しており、5 月 3 日には首脳会談も行われた。事 務レベルの資料をハワード首相が見たのはその後 の航空機内であったが、ハワード首相は介入に反 対との結論には同意せず、機内から電話でダウナ ー外相及びヒル(Robert Hill)国防相と協議し、 介入のためのオプションを検討するよう指示し た(85)。また、機内でケマケザ首相に返事を書き、 さらにダウナー外相に対し、何ができるかキャン ベラで話し合おうとの伝言を、ケマケザ首相に会 った際に伝えるよう頼んだという(86)。ダウナー 外相は、5 月 16-17 日の太平洋・島サミットの際 にケマケザ首相の考えを聞いてきたと述べている ことから、この時にハワード首相の意向をケマケ ザ首相に伝えたと考えられる(87)。 こうした一連の経緯からは、ハワード首相がブ ッシュ大統領との首脳会談後には、介入について 決心を固めていたことが窺える。つまり、ハワー ド首相が介入を決心する上で、ブッシュ大統領と の会談が何らかの影響を与えたと考えることは妥 当であろう。オーストラリアのある政府高官によ れば、「ハワード首相は、安全保障上の優先事項 である自分たちの裏庭(backyard)に再び焦点 を当てることを決心して米国から戻ってきた」と いう(88)。 ただし、様々なテーマがブッシュ大統領との会 談で話し合われた中で、ソロモン諸島や南太平洋 についてどのような協議がされたのかは確認でき ない(89)。ハワード首相は後年、ブッシュ大統領 との話を通じて、オーストラリアが太平洋島嶼国 の平和を支援する主導的役割を担うことを、同盟 国が期待していることについて思い出したと回想 している。同時に、イラクの占領段階におけるオ ーストラリア軍の関与を避けるためにソロモン諸 島情勢の悪化を理由にしなかったし、オーストラ
リア軍のイラクへの関与は戦闘段階のみに限定さ れ、占領段階は含まないという約束をブッシュ大 統領が再確認したとも語っている(90)。 自身の回想であり、必ずしも全てが事実である と言いきれないが、ハワード首相が以前から、イ ラクの占領段階における平和維持活動にオースト ラリア軍が関与しないことを明確にしていたこと は確かである。ハワード首相は、イラク戦争への 参加を表明した 2003 年 3 月 18 日の議会において、 「軍の関与は戦闘段階のみであり、既に展開して いる部隊に限定されるだろう」と明示してい た(91)。また、4 月 17 日にも軍の大部分を撤退さ せることについて言及し、「平和維持のための大 規模な部隊の派遣はオーストラリアには適してい ないし、東ティモールでの平和維持の責任がまだ 残っている」と述べている(92)。 とはいえ、イラクにおいて戦闘から占領へと段 階が移行する時期に、改めてイラクへの軍の増派 についての働きかけや圧力が生じていたことは考 えられる。米英の高級事務レベルは、占領段階に おける平和維持に貢献するようオーストラリアに 働 き か け て い た と い う(93)。 ま た、 ラ イ ス (Condoleezza Rice)米大統領国家安全保障補佐 官が当時、オーストラリアの国際平和維持活動の 経験に期待するような言及をしていたことから、 会談時にブッシュ大統領がイラクの占領段階にお けるオーストラリアの軍事的貢献を求める可能性 があるとも報じられていた(94)。そうした中、ハ ワード首相は 5 月 4 日、記者会見で以下のように 述べた。 ブッシュ大統領は昨日の会談の際、オース トラリアが大規模な平和維持部隊を提供しな いことについては当初から明確に理解してい たと繰り返し述べた。(略)ブッシュ大統領は、 オーストラリアがイラク戦争に参加する場合、 その形態は、特殊部隊や戦闘機などによる軍 事作戦への参加であって、平和維持のための 大規模な部隊を派遣することではないという ことを、常に理解していた。我々は、この点 について最初から非常に明確にしており、決 して誤解はない(95)。 ハワード首相は、軍をイラクに増派しないこと について、自らブッシュ大統領の確約をとり公表 したのである。確約をとる上でハワード首相がソ ロモン諸島への介入を口実にした可能性は否定で きない。推測に過ぎないが、例えば、国際テロ対 策における米豪間の地域的分業、すなわち、オー ストラリアは自国の近隣でテロ対策に注力する、 といった類の話を持ちかけた可能性も考えられる。 いずれにしても、結果としてイラクへ軍を増派し ないことについて再確認できたことが、ハワード 首相が介入を決心する上で、同盟国との関係や、 軍の余力という実行可能性の観点で重要であった。 3)軍の活動状況(1999 年~2003 年) ここで改めてソロモン諸島情勢が悪化した 1990 年代末から 2003 年までを通貫してオースト ラリア軍の活動状況を振り返ってみると、軍はこ の期間、国内外で複数の作戦を常続的に同時並行 で行っていた。1999 年は、ピーク時に最大 6,000 名以上を東ティモールに派遣しており、ブーゲン ヴィルでの作戦などの他正面の作戦も含めたオー ストラリア軍全体の作戦規模は、1972 年以来、 最大であった。その後、2000 年に入り 2 月には INTERFET の業務を国連に移管し、東ティモー ルへの派遣規模は約 1,600 名に縮小されていた。 ソロモン諸島からの介入要請とクーデター発生は その後の 4~6 月にかけてのことであったが、こ の頃オーストラリアはシドニー・オリンピックを 控えており、軍は 9~10 月のオリンピック期間中、 約4,000名が治安作戦に参加していた(96)。 その後 2001 年の上半期、作戦規模は低下して いたが、東ティモールでは引き続き約 1,600 名が 活動していたし、9 月には米国同時多発テロが発 生した。以降、オーストラリアはテロとの戦いに 注力し、軍は、特殊部隊や航空機、艦艇など約 1,100 名がアフガニスタン戦争に参加した。さら に当時は、不法移民の流入阻止などの国境警備の 負担も増加しており、2001 年後半のオーストラ リアの作戦規模は、作戦の数という点では 1972 年以来最大であった(97)。 2002年5月、東ティモールの独立に伴い、オー ストラリアは派遣規模を約 1,250 名に縮小させ た(98)。しかし、アフガニスタン戦争への参加は
継続しており、10 月にはバリ島爆弾テロ事件が 発生した。さらにこの頃にはイラクへの関心も高 まっており、2003年1月にはイラク戦争の可能性 に備え、中東やその周辺地域に軍を事前展開させ ていた(99)。 このように、1999 年こそ最大 6000 名以上を東 ティモールに派遣したが、これは瞬間値であり、 半年後には約 1,600 名に規模を縮小していた。そ して、その後の 2000~2002 年の軍の海外派遣の 規模は、約 3,500 名を超えることはなかった(100)。 この間の予備役を除くオーストラリア軍の総員は、 約 50,000~52,000 人であることから、割合でいえ ば海外での作戦規模は軍全体の約 7%を超えるこ とはなかった(101)。ここで 2003 年のオーストラリ ア 軍 の 海 外 で の 作 戦 規 模 を 見 る と、 最 大 は RAMSIを派遣した当初の時期の約3,600名であり、 そのうち 1,700 名がソロモン諸島で活動してい た(102)。これが仮にイラクへの関与の規模を約800 名に減少させず、当初の 2,000 名を維持、あるい は増派していた場合、軍全体の作戦規模は 5,000 名近くになったことになる。 つまり、1998年のソロモン諸島情勢の悪化以降、 2003 年の介入に至るまでの期間中、軍が各種作 戦に従事していたことで、現実的な問題として、 その余力が十分ではなかったという側面が少なか らずあった。しかも 2001 年以降の任務の中心は テロとの戦いであり、その背景には米国との同盟 関係があった。それがイラクでの本格的な戦闘終 了後、イラクに増派しないことについて米国から 再確認できた。このことは同時に、ソロモン諸島 に軍を派遣しても、軍全体の海外での作戦規模を これまでと同程度の 3,000 名前後の規模に抑える ことが可能になることを意味していた。ちなみに、 RAMSI の第一陣がソロモン諸島に到着する前日 の 7 月 23 日、ハワード首相は、「自分は、自国に より近い地域での作戦に人員を派遣しなければな らない可能性があり得ることを常に心に留めてい るため、大規模な平和維持部隊をイラクに配置は していない」と軍の余力に関して言及している(103)。 4)介入に向けた諸条件の整備 その後の経緯は、介入のための条件が速やかに 整えられていく過程であった。5月28日には国家 安 全 保 障 委 員 会(National Security Comiitee: NSC)において、武力介入や多国籍の警察部隊に よる介入など様々な選択肢が検討され、引き続き 検討を続けることが確認された(104)。6 月 5 日には ソロモン諸島政府代表団が訪豪した。ハワード首 相は協議後、「特定の行動をとるかどうかは何ら 決定していない」と述べつつも、「検討すべき治 安と経済の問題があることは明らかである」と含 みを持たせた(105)。また、ソロモン諸島の治安と 経済に対する支援の範囲と、支援の前提としてソ ロモン諸島が満たすべき条件について、ケマケザ 首相に書面で示した(106)。 6 月 10 日には ASPI が報告書を公表した。報告 書では、ソロモン諸島は破綻しつつある国家とし て認識され、破綻すれば麻薬売買や人身売買など の国際犯罪やテロの避難場所となり、その結果、 それらの脅威にオーストラリアが脆弱となり、さ らに地域にも問題が波及するとされていた。結論 として、オーストラリアはこれまでとは異なる、 より積極的な政策に転換する必要があると論じ、 二段階で構成される介入を提言していた。最初の 段階では少数の軍隊のバックアップを受けた警察 活動に焦点を当て、法と秩序の回復には、多国籍 で構成される150名程度の警察官で十分であると していた。第二段階は、法と秩序に係る制度の再 建や、ガバナンスの創設、経済・社会開発など、 長期的な能力構築活動が想定されていた(107)。ダ ウナー外相は報告書の公表に際し、「我々は、こ の非常にタイムリーな報告書に記載されているよ うな強化されたアプローチ、あるいは『協調的介 入(cooperative intervention)』を検討している」 と述べた。また、「地域の問題は、太平洋島嶼国 の完全なオーナーシップに基づき解決される必要 があるが、オーストラリアがより積極的に治安に 関する支援にまで拡大して関与することが必要に なる状況があるかもしれない」と、太平洋島嶼政 策に変化が生じていることも公に示した(108)。な お、この公表は、介入に対する国内外の感触を得 るために、政府が公表する前にタイミングを見計 らってシンクタンクから発信したことに意味があ ったと考えることが妥当であろう。報告書の公表 にダウナー外相が臨席したことは、公表に関して 政府と ASPI との間で調整されていたことを示し
ており、公表のタイミングなどについて政府の意 向が反映されたことは想像に難くない。 その後の6月25日、ハワード首相は議会におい て、ソロモン諸島への介入について政府として初 めて公にした。最終決定ではないと断りつつ、ま た、ソロモン諸島からの正式な支持などが必要と の条件を付けながらも、「政府としては強い意向 があり、その用意もある」と述べた。また、「検 討されている支援には、実質的な警察活動、司法 支援、経済支援と、これらをバックアップする軍 による支援が含まれる」と明らかにし、「軍によ るバックアップは、この種の作戦を成功させるた め、そして安全性と効率性のために不可欠である」 と述べた。また以下のように述べた。 この種の作戦を引き受けるという我々の意 欲は、地域政策の非常に重大な変化を意味し ている。太平洋に破綻国家が存在することは オーストラリアの国益ではないし、国際社会 にとっても挑戦である。国際社会は、オース トラリアが地域で指導的役割を果たすことを 自然なことだと理解し、期待している。もし 我々が今、何もせずソロモン諸島が破綻国家 となれば、将来的には国際的な麻薬売買やマ ネー・ロンダリング、国際テロなど利用され る潜在的可能性が生じうるが、将来これに対 応しようとすれば、よりコストと困難さが伴 うことは不可避である(109)。 ハワード首相のこの発言は、介入について議会 の支持を得るためのものであったが、同時に、新 しい地域政策を初めて公に宣言する機会でもあっ た。ハワード首相は以降、こうした発言を繰り返 すようになる。ただし、ソロモン諸島が破綻すれ ば国際犯罪やテロの避難場所となり、オーストラ リアや地域の脅威になるとの理屈を最初に公に示 したのは、先に見た ASPI である。つまりハワー ド首相は、介入の根拠としてこの理屈が国内外の 支持を得られるかどうかの感触を得た上で、自ら も公に発言するようになったとも考えられる。ち なみにハワード首相は後年、「ソロモン諸島の人々 を助ける RAMSI は、オーストラリア国民から好 評を得ると確信していた」と述べている(110)。実 際に 2003 年 8 月 2~3 日の週末にかけて行われた 世論調査では、ソロモン諸島への介入について国 民の75%が支持していた(111)。 重要な点は、オーストラリアが当時、実際にソ ロモン諸島がテロ組織の避難場所になる可能性が 顕在化しているとは評価していなかったことであ る。ダウナー外相は6月25日、テロの証拠はない との認識を示しつつ、「問題は、仮にソロモン諸 島が破綻国家になると、テロ集団の避難場所にな り得る潜在的な可能性があることである」と述べ ている(112)。つまり、オーストラリアが介入を決 心した直接的な理由は、ソロモン諸島がテロ組織 の避難場所になるとの脅威認識が、この時期に劇 的に高まったためというわけではない。ただし、 ソロモン諸島が破綻国家となれば、テロや国際犯 罪の避難場所となり自国や地域の安全に対する脅 威になるとの理屈は、介入について国内外の支持 を得る上では重要であったといえよう。 その後6月30日には、ビケタワ宣言が規定する 手続に基づき、シドニーでPIF臨時外相会合が開 催され、ソロモン諸島政府からの正式な要請と議 会での介入承認を条件に、PIF加盟国で構成され るミッションによるソロモン諸島への介入を承認 することで合意された(113)。7 月 17 日にはソロモ ン諸島議会において、ミッションがソロモン諸島 で活動する際の特権、免除を規定する法案が成立 した(114)。ミッション第一陣がホニアラに到着す る7月24日には、ミッション参加国間の公式な取 り決めが関係国により署名された(115)。 こうして、国際社会や地域、自国民の支持も得 つつ、任務の目標や権限、出口、あるいは人的リ スクの低減など、介入の諸条件が整えられていっ た。かくしてハワード首相は 7 月 22 日、RAMSI によるソロモン諸島への介入を NSC で承認した ことについて説明し、ミッション全体の作戦名は、 現地のピジン語で「友人を助ける」意味の「ヘル ペム・フレン(Helpem Fren)」と発表した。オ ーストラリアは、約 1,500 名の軍人、約 250 名の 警察要員を差し出し、2,225 名からなるミッショ ン全体の一部を構成するとされた。ハワード首相 は、改めて「我々の縄張り(our patch)である 世界の一部分において状況が悪化することを許容 しない」、「自国の玄関先(our doorstep)に破綻