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Field+ 2010 01 no.3よく、目に染み入るような釧路の夕焼けという思い出話をした。安 酒で酔いが回ってくると、夕焼けの描写はずっと細かくなった。北海 道の釧路は大塚和夫の故郷である。
沖縄が祖国復帰をした年、1972(昭和47)年の春に、大塚と河合 利光(現園田学園女子大学教授)、そして私の三人は東京都立大学大学 院修士課程の社会人類学専攻に入った。大学院の同期生であったこと に免じて、ここで故人を呼びすてにするのをお許し願いたい。
その頃に大学院生活を送った世代でないと、いまでは想像のしに くい時期であるだろう。同期入学の三人で英文講読会を開いたことが あった。テキストは、当時すでに数冊が刊行されていたA. S. Aモノグ ラフ(Association of Social Anthropologists Monographs)のシリー ズだった。C. Geertzという名前を見て、「この人類学者、いったいどう 読むのか?」などと囁き合っていたのだから、どのような時期だった のか、おおよその見当がつくかもしれない。
大学院には就職前の先輩たちがずらりと並んでいた。学籍を抜いた 人まで含めると、全部で20人近かったと記憶している。当然のことな がら、いつの日、この専門分野で飯を食えるようになるのかが院生た ちの大きな関心事であった。なにしろ人類学の知名度は低く、専任の ポストも少ない。先の見えない隘路を歩いていることは否定しようが なかった。
大塚は妻帯の大学院生だった。最初に顔を合わせたときには、高校 時代に釧路で同じ夕焼けを眺めたという美保子夫人と新婚生活を始め ていた。住まいは杉並の高円寺駅に近い木造の古アパートである。そ の頃の私は自宅生であったから、一方的にこちらが大塚の新婚家庭を 訪れることになった。お互いに酒とタバコに関してはきわめつきの愛 好者であり、さぞかし美保子さんには迷惑だったろう。
まだイスラーム研究に照準を定める前の時期である。大塚は将来を 見つめて、大量の専門文献を読み、アルバイトに時間を割きながら定 期的に英会話の講習を受ける、という勤勉な日々をすごしていた。見 通しの悪い隘路であっても、大塚にとっては進むべき一直線の道で
あったようだ。それに対して、私の方は人類学という学問に迷いを持っ ていた。いくらアフリカやオセアニアの民族誌を読んでもそこに描か れた人たちと実際にふれ合う可能性は小さい、異郷の人々について日 本語で書いたとしても当人たちがそれを読むことはあるまい、などと いうのが私の言い分だった。大塚はそうした素朴な迷いを一笑に付す ことがなかった。心ゆくまで語ろうとする姿勢をつねに崩さず、それ でいて人類学者への道をひたすら歩んで行くという強い信念は揺るが ないように見受けられたのである。
私たちが博士課程に進んだ頃から、日本の人類学を取り巻く状況は 少しずつ変わっていった。大学の教養課程を中心に文化人類学の需要 が増え、大阪に国立民族学博物館が創設された。隘路に拡張工事が施 され始めたと言っていい。そして、その状況の変化と歩調を合わせる ようにして、大塚と私はそれぞれ別方向の道を目指すようになった。
大塚と大学院生さながらの青くさい議論をした最後の機会は、1986
(昭和61)年の正月早々だったと思う。先輩にあたる野口武徳氏(当時 は成城大学教授)の葬儀のときである。大阪から上京した大塚は、前 の晩に私のマンションに泊まった。若い頃と同様、安酒とタバコに身 を浸しながら、相変わらず人類学の話ばかりをした。もう名前を読め るようになっていたギアーツの著作も話題の一つになった。野口氏の 葬儀に参列したと言うと意外に思う人がいるかもしれないが、大塚が イスラーム研究を始めたとき、その直接のきっかけになったのは当時 東南アジアのムスリムを調査していた野口氏の存在であった。
私たちの世代とはまた向きの違う隘路が、いま若い大学院生たちの 眼前に現れている。学生思いの大塚は、その状態をとても気にかけて いたはずである。しかし、とうとう二人でそんな話をする時間はなかっ た。そして、釧路の夕焼けはまぶしいぐらいだぜ、という大塚のあの 懐かしい肉声を聞くことも、もうない。
大塚和夫と共に
「隘路」を歩いていた頃
笠原政治 かさはら まさはる/横浜国立大学名誉教授
イスラーム人類学の先駆者 社会人類学者 大塚和夫
大塚和夫先生は、東京都立大学を拠点として開花した日本の社会 人類学という専門を礎に、その幅広い関心と深い知識をもって、歴 史と伝統の厚い、いわゆるイスラーム学者とも果敢に議論を交わし、
人類学におけるイスラーム研究を切り開いた方であった。人間の学 だからこそ必要な、分野をまたいださまざまな知識を身につけるこ と、そして人類学のもつ「フィールドワーク」という、研究者がそ の一生をかけて行う営みを、つねに第一に掲げられていたとも思う。
私自身は「イスラーム」の人類学者ではないが、フィールドにばか りに行く大学院生だった私に先生は、幅広い知識を積み上げるべき
新婚のころ。
1970 年ごろ。
(1949年10月11日 - 2009年4月29日)