最近のアメリカに於けるミルトン学の動静
著者 越智 文雄
雑誌名 主流
号 21
ページ 1‑9
発行年 1958‑05‑15
権利 同志社英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016641
リカに於ける ン学の動静
最近のアメ
に ノレ
本稿で扱いたいと考えているのは大体一九五一年以降一九
五六年までにミルトγについてアメリカでどのような学問的
な動きがあったかということをその間に出版された書物や雑
誌などから概観しようとするものである︒﹁シェクスピア学﹂
S E
‑ 8 4 2 B ω n r
己主∞庄司)というものが考えられると同様
な意味で﹁ミルトン学﹂というものを考えたのである︒しか
しここで私はこの概観が書誌学的に完全で包括的な基礎の上
に纏められたものではなく︑どちらかといえば迩意的な手元
にある資料から得られたものであることは初めに断って置か
ねばならない︒けれども能︑う限り注意を払い︑この目的のた
めに有効と思われるものを拾い上げたつもりである︒
本論に入る前に二︑三英米の学界の第二次大戦後の特徴的
な傾向について一言すると︑アメリカの学者の女学研究がイ
越
ま 住
智
丈
ギリス本国でも可成り認められるようになったことである︒
例えばオヅクスフォードで出版されている吋常河内
S . 2
﹂ 夫
hpb同 誌 匂
N h S
目
2
のような最も保守的と思われる雑誌にも︑第二次大戦中より米国学者が参加し始めるようになった︒そ
の理由には半ば戦時中の財政難に由来していたようであるが
戦争目的遂行上︑英米の学者がこの方面でも協力態勢を取る
ようになり︑それは終戦後も引続き行われている︒叉︑アメ
リカ自体に於ても︑学界誌︑特に近代語学文学の綜合的研究
誌ともいうべき
PMLA
なども︑戦後︑現代文学の理論や文学批評︑ジョイスや︒ブルースト︑
T‑S
・エリオットなどのサ世紀作家の研究をも採用する方針を取るようになったこと
もその一つである︒又︑アメリカの古い大学も学問的という
よりも女学的になって来たということもあげられよう︒例え
ばハーバード大学の学者のタイプが︑キットレッジ(同日同a
R E
唱)型か︑
T‑S
エリオット型か︑その何れを選ぶか
‑ 1ー
① の問題にもそれがあらわれている︒
これらの傾向は本論で述べる﹁歴史批評﹂と﹁交学批評﹂
との聞の論争とも関係しているように思われる︒
今一つのミルトンの方面で顕著な今世紀に入ってからの動
きは︑英国に比して頗る多数のアメリカの諸大学の教授或は
研究者が単独で研究した書物の出版の多いことは勿論︑特に
共同でミルトン関係の著作の信頼の置けるテクストを出版し
ようとして来たことである︒その最も注目すべき成果は︑コ
ロンビア大学の
F ‑ A ‑
パタソンを編纂責任者として多くの
英米学者を動員し︑一九ゴ二年から一九三八年までかかって
一八巻の?︑ルトン全集﹂が刊行され︑更に一九四
O
年に パ
タソンの外にフォlグル(問︒弘乙が加わって︑この全集の
ための一一巻の治大な索引が完成︑附加されたことである︒
更に︑コロンビア大学に競うかのように︑ィェIル大学で
はアメリカの各大学のミルトユストの協力を得て︑
D ‑ M ‑
ウルフ(君主巾)を編纂責任者とする同
J Z
5 p
h 訟
久 a を
忠司
3
︑何時 羽山 ミケ (イ エー ル版 散す
︿著 作集
﹀七 巻を 計画 し︑ 既
にその第一巻が世に出たことも注目されねばならない︒更に
PMLA(
一九五一年十二月号)の報ずるところでは︑ウィスコンシン大学の
M ‑ Y ‑
ヒ
?
ズ
l
︿出
口
m
r g
﹀を責任者とし
て︑これも一流の学者︑ハーバード大学の
D
・ブッシュ
( 回
55
iズ大学の︑ラトガJ‑M
・フ レン チ︿
FS
口巴︑ト
ロシト大学の
A ‑
s
・p ‑
ウッドハウスハ君︒︒
S 2 8 )
を共 同編纂者として︑ミルトンの詩のみを対象とする各巻約六
O O
頁の四巻にわたる﹁集注版ミルトン﹂(ぐ﹀E O E H ζ
昌
F
寸O
Z)
の刊行を一九五六年から始めたい意向が伝えられてい
る︒これが若し完成すれば︑既に早くより出た︿﹀
E o m c ζ
ω
出﹀阿
自
ωHU何人同月切に並ぶものが出揃うことになる︒この
JH
kr
E C
E
反向冨
戸叶
OZ
はコロンビア大学出版部が引き受け︑
﹁コロンビア版ミルトン全集﹂と同じ体裁のものとすること
まで決められているが︑未だその第一巻は出版されたことを
聞いていないが︑恐らく近い将来に期待出来るものと思われ
以上は共同編纂のものであるが︑個人の学者で︑ミルトン る ︒
の伝記に関係のあるあらゆる事実を文献的に年代順に蒐集
し︑これを五巻の大冊にまとめる仕事を着実に実行している
のは
一フ
トガ
lズ大学の
I
・M ‑
フレ
γチである︒現在までに
四巻が出て居り︑その完成も間近い︒このような業績は一九
三
0
年代以後今日まで持続しているミルトン学の重要な基礎的貢献であろう︒
‑ 2ー
E
次にアメリカの学会に於けるミルトン研究のグループにつ
いて述べねばならない︒我々は
PMLA
によってそこには︑﹁ミ ルト ン
eグループ﹂の存在を知るのである︒この近代語
学協会の年次大会には分科会としてこのグループが活動して
いることを知っている︒更に︑この
MLA
がアメリカの全国的な組織であるのに対し︑アメリカ南部諸州の大学を横につ
らねた研究組織に
SAMLA(
叶官
∞︒ 己仔
﹀己
g
件付
足︒
2
仏P
F g m g m m
﹀ 出 血
C三田氏︒ロ﹀というのがある︒この組織の中の
吋宮
ω
宮5 2 z
宮口言 ロロ
2 2 2 Z P O H O
毛 が 大 会 の 年 会 に 於
いてミルトγ研究の特輯号を出したいと提案しそれが採択さ
れ︑一九五三年に医﹄向︑与め吋
q b
N
担当 足
N h
同J
C 弓 と し
て︑フロりダ大学出版部から刊行された︒これには南部の十
一の大学の学者よりなる編輯委員により準備されたものであ
る︒これに参加した大学名を挙げると︑︒開
O H m
仲 間 切 関
B E n
‑
円U♂
目 ︒ 片 山
F
門宮芯
宮山
V﹀ぬロ
S F o F
叶
2
5 8 2 v ω
︒
E
r ( U R
︒
‑ z p
C区
長︒
g p
者︒
F H F r
ロ ロp ω
窓口問︒丘で︑この書物に寄稿
された論文は七つある︒その中で︑デュlク大学のA・H‑
ギルパiト(の
5 2 6
のように古くからのミルトン学者もあ
るが新進少壮の学者がその多くを占めている︒これに﹁序
一言
﹂(
問︒
5 4
唱︒見﹀を書いたのは英国や大陸にもミルトン研究
でその名を知られたJeH・ハンフ方!ド(民阻止︒え)で︑今
は 者
g z g H
同
2 2 2 3 5
日々のリサーチ・プロフェッ
5
サーをしている︒彼がその序言の中で︑﹁アメリカに於ける
ミルトン関係の出版物の量はシェグスピア研究のそれに殆ん
ど匹敵するようになった﹂(六頁)と述べ︑特にかの国でミ
ルトン研究の盛んな理由として︑
﹁アメリカ人にとっては︑ミルトγはあらゆる英国作家の うちで建国の交に最も近似している︒彼の倫理的乃至宗教的理想主義はニL1・イングランドの清教徒達と共に海を渡って来た︒彼はリベラリズム︑又︑国教分離のために一公然と戦った︒彼は政治の諸原理を形成するのを助け︑自由の大義への渇望一を満した︒それ以上に︑彼は︑あらゆる学童が少くとも飲み干す機会のあったへリコンの泉の一つであった︒叉︑最後に︑彼は人類を︑氷遠に分離さぜる(哲学的︑宗教的︑審美的な﹀根本問題に加担したために︑﹃生ける︑過去﹄(岳冊目
r i
ロ的宮田門)という点から依然として論争の中心にある︑﹂と言う︒ハンフォードのこのような一言葉は︑ミルトンがアメリカ人にとっては気質的にも体質的にも親近性を持っている作家宅あることを強調したものと思われる︒-3~
亜
他の英国作家の場合にも一言い得ることであるが︑特に英国
詩の流れから見て︑十八世紀には
J‑
ダン
(UC
ロロ
白﹀
が第
三
流の詩人としての評価をうけていたに対Lミルトンは第一流
の詩人と見られ︑彼の強力な影響が十八世紀︑十九世紀と続い
て来たことは周知のことであるが︑それが主として
T ‑ s ‑
エリオットや
F‑R
・リlヴィス(F
E 三回)などの二十世紀
の理知的な批評家がこの地位を逆転せしめ︑ダンこそが英国
詩の本流で︑ミルトンは英詩を堕落させたというような非誘
を始め出してから︑とりわけ第一次大戦以後︑ミルトンか︑
ダンかの論争が始まり︑これが文学研究の本質は何かという
問題にかかわって来て︑学者群と詩人・批評家群との間の応
酬となり︑これがアメリカでは︑﹁歴史批評﹂(同室︒江口同‑
h H F H
∞
g E
﹀と
︑﹁ 文学 批評
﹂( ピ
B E q ( U H F E
由民)
との
聞の
一一
者選一への論争にまで発展し今日に到っていることは識者の
認むるところであろう︒後者の﹁文学批評﹂は或は﹁新批 評 ﹂
( Z 2 4 ( U H
伊丹 山口 山田 自) の立 場と 考え て大 差は ない であ ろう
︒
先ずこの両者の争点を
D ‑
ディ チー ズ( む丘 町} 括的﹀が 最近
出版した女学批評論集の中で行った区別は要を得ている︒被
によると︑歴史批評家の主張の中心は︑﹁或る作品が真に何
であるかを見きわめるためには︑それの書かれた伝統に註意
を向けねばならないよ(叶
o m m m
若宮門任問者︒長
H g
‑ q
ぽ
当時
的
r c
口広
宮山
可印
公
g
門 戸 ︒ ロ
Z F
叩
H
E
佳昨日
︒白
山口
当
E
n r w
毒患
者号窓口)と言い︑それに対して︑新批評家の主張は︑﹁作品が
真に何であるかは︑文学の芸術作品に相応しい言葉でのみ適
切に
↓評
価さ
れ得
る︒
﹂(
者}
三岳
町当
︒件
同町
田
‑
f u
ロ
g
gq
官
官︒
] U 2
可巾
‑
4
曲目 己 己 主
E g H H 5 3
︼
V H C
匂円円三
2 0
釦者
2 r o ご め 丹 市 マ
号可
白円
ゲ﹀
と考
える
︒
この両者の対立について︑カナダのトロント大晶子のミルト
ニス トの 一人
︑ A
‑ E
・パ
lカ
i(
回白
円}
門ぬ
るは
最近
の叫
ザミ
ミ
E
市町
き
N h s
め・H司﹁守一一誌上で次のような仕方で問題にしている︒彼
は︑伝統的な歴史批評は﹁ヒューマニズムの方法﹂とか︑も
っとも軽蔑的には﹁大学院の方法﹂と反対派から呼ばれてい ると言い︑これは﹁アカデミック・ヒLiマニスト﹂︑或は﹁交化︑特に思想史家﹂
( E 2 2 E Z
え
2 ‑ E 5 2 u
・︒
町民
m ‑
白田﹀の取っている立場であると一吉い︑これらの批評家が詩と
いうものを考えたり︑それに接近したりする場合に︑﹁観念
形態的に︑倫理的に︑歴史的に︑伝記一的に︑作詩法的に︑言
語学的に︑等々﹂
G P O ‑ c m ‑ s
‑ q w
伯 仲
E s ‑ ‑
予
E 2
岡
0
山
g
‑ q w E
・
0
需 品 E S ‑ ‑
予
官
C
由主山
口白
ロア
] v r
即 日
c z m ‑ s ‑ q u
由主 明︒ 同
0 3 r )
風
に行 うと 一一 一一 口う
︒つ まり
﹁詩 を合 理的 な陳 述と いう 点か ら考 え
ること﹂(吉岳古
w
えU 0 2 4 Z Z H
吉田えE
片山︒口弘田仲間宮・586
にあるとする︒このような方法は︑新批評家から見
れば︑﹁詩というものを全く死物化する﹂(円
grH3245 与
8 r z q
骨主任目白色ものとされ︑非難を受けている︒
これに対して︑更にパiカlは新批評家の方法を次のよう
に説 明す る︒
﹁新批評家は﹁含蓄的﹄
( g D
口 ︒ 作 曲
昨 日
4d)と呼ばれるものを
強調することにより詩を理解しようとする︒その方法は﹃解
説的 方法
﹄( 良司 ロ
g S 4 5 2 y o
︺による︒伝統よりも才能
r
を︑特に︑特殊な才能を強調する︒この方法は二十年代の洗
練された理知的な﹃唯美主義﹄(田町田吾
2 E Z C
に由 来す る︒
その主張するところは︑良き詩とは殆んど﹃作者不明﹄(守
口 ︒ ロ 可
5 0 5 )
と一 一一 同っ てよ く︑ それ 自身 の言 葉の 宇宙 の中 に︑ 或
は︑詩的宇宙の中の星座の一部︑として存在しているものであ
る︒それ故に︑詩は歴史的な観点からではなく︑﹃詩的直接
一
一 4 ‑
性﹄
(宮
町民
口山
富虫
色2
4)
という観点から取扱われねばなら
ない︒その意味︑或は幾つかの意味は散文の陳述の意味では
テクスチャ!
なく︑詩的結構の綿密な研究によって把えられねばならな
い︒その場合︑哲学的分析よりも︑修辞学的分析の方法を用
い︑その注意を宮吋乱︒♂由
H U E m
己伊
予田
B E S ‑ 8 2 L m g r c h
s g
ロU
FO 4由 同 件 ︒
5
田ucz mH
Z口市田に集中し︑コ的形象の原H
型的︑予表論的︑顕現的︑終末論的︑修辞学的︑象徴的な
パターン﹄(出
Hn
HH
可2
匂m w r q i ] v o ‑ o m 山 口
問 ﹁ ゅ
u q
r
忠 岡 山 口w巾m w 口 日 同 伊 o ‑ 丹 c m r n B } W H r m Z 丘
町色
白同
M L 4 B
‑ u O ]
山口
唱と
な言
明︒
同日
H出
血肉
巾弓
向ロ
仏国
︒
向 ︒
2 5
に集 中す る︒
﹂
右に一不されたように新批評家の方法は頗る煩鎖な︑時には
晦渋な指標を設けて詩の分析を行い︑時には原詩そのものよ
りも難解とさえなる傾向を生んで来たようである︒
この両陣営がミルトン解釈に関してアメリカの学会で会的
な論争の形を取ったのが
PMLA(
一九五一年十二月)の誌上に同時に載った
A ‑ s ‑
P
ウッドハウスと︑c
・プルックスとの対慌的な論文である︒前者は︑﹁ミルトγ
の歴 史批 評﹂
︿叶 宮呂 田さ
H W M L O w ‑
口町 田言
︒内 宮山 吉ロ )と 題し
︑﹁ 歴史 批評
﹂
の立場に立ち︑後者は﹁ミルトンと批評的再評価﹂♀岳ぎ口
出口
仏わ
同伊
丹山
口同
日一
月中
何回
片山
ヨえ
布団
﹀と
題し
新批
評の
立場
を代
弁す
る︒
しかしウッドハウスは歴史批評の立場を弁護しながらも︑
最後
に︑
﹁両陣営はお互いを必要としている︒確かに我々歴史批評 家は新批評によって用いられた分析の方法から何らか学ぶべきものを持っている︒倒えば︑ブルックス氏の﹃ラレグロ﹄
AW J
と﹃イルペンセロiソウ﹄に関するエッセイの方法の如きが
それである︒恐らく叉︑新批評家も時としては歴史批評家の
発見した事柄から暗示を受けることもあろう︒疑いもなく我
々は今後も依然として意見の一致を見ないであろうが︑お互
いに関するわれわれの言葉は或る意味で良薬の苦さを持つだ
ろう
︒け だし 我々 はみ んな
﹁窮 極性
﹄( 岱ロ 包伊 丹
uじではなくとも︑
2兵理﹄公立手)に関っているのだから︒:::﹂そう和解的な
態度を取りつつも︑学者として自己の立場をも失うことなく
﹁我々は互いに忍耐強くなければならぬ﹂と結んでいる︒
これ に対 し︑
c
・ブルックスもお互いの争いではなく相互の了解を強調している︒
彼はディシプリンというものは両方共が必要であり︑叉︑
相互に必要である︒種々の批評の閣の正確な境界線について
は双方とも多分違っているだろうけれども︑その地域を一一層
注意深く探ってから︑交渉によって正確な境界を調整出来る
という意味のことを言う︒
﹁文学上の学識の諸相は︑互いに密接に関連していること
は︑我々が絶えず他との国境を侵犯しているということから
も明かである︒﹂と言い︑
C
・S ‑
ルイ
ス(
戸開
芝山
田)
や
D‑
プッシュが
T
・s ‑
エリオットのミルトン批判に反論したのは
誤解に基くものであると︑ここでも依然として新批評の立場
‑ 5 ‑
を固執はするが︑最後には︑
﹁繰返して言うが︑現代批評家と︑ミルトンの学者との間
には喧嘩というものは何もない︒﹂と結んで︑明かに論敵の
ウッドハウスの立場をも尊重する態度に出ていることは興味
深い
現在ではこの両陣営の夫々の主張は戦い尽された感がある ︒
ことは︑既に両者が歩み寄りを始めたことからも理解出来
前に掲げた る ︒
D ‑
デイチIズは︑﹁人は双方の立場に確かに
同意するに相違ない﹂と言いながらも︑実際にはそのように
問題が載然と区別出来るものではないとして︑
( u s r
︒ ロ ロ
4 ‑m w
虫色目白を説いている︒この﹁普通的中道﹂を選んで最近ミ
ルトン批評を試みたのは
R
・M
アダムズ(主同B
初であると
している︒即ち彼は︑或る時はアカデミック・ヒム!マニズ
ムの角度から新批評の方法を攻撃し︑叉時には他の或る角度
からアカデミック・ヒューマニズムを攻撃するという具合で
ある︒この点に於てバiカーもデイチIズと同意見で︑中道
説を支持し︑伝統的なアカデミックスの欠点はその宮仕ロデ
弓にあり︑新批評家のそれは︑
g H U E
三号にあると考え︑
そうかと言って一単なる中立主義﹂
(g
町 m 同
出
2
R
丸山田
容﹀
に堕
する危険はありながらも︑わえ
r o ]
山 口
4目
白虫 色目 白が 望ま しい
と考えている︒
l V
然らばバlカーやデイチlズが推称するアダムズのミルト
γ批評の方法はどのようなものかを一︑ご具体的に例示して
見ょ
う︒
アダムズは︑新批評の方法を次のような例を挙げて非難す
る︒例えば︑ミルトンの初期の作品︑特にコlマスを︑
C ‑
ブ①
ルッ クス や︑ J‑E
・ハlディハ出阻止巴のように︑﹁読み
過ぎ る﹂ (︒
4 2 4 2 3
批評家を攻撃する︒何故なら初期の詩
が形而上詩ででもあるかのような取扱いをするからである︒
従ってその詩の進行は︑そのイメジャリーから事細かにエク
スプリケイトされねばならない︒その注意は宮缶詰
np
d司片付
q v
nH
沼氏
口
u間
B
玄関
5 5
v g
o
芯 門 戸32
仏同
門口
田口
ぬな
もの
に集
中さ
れ
る︒それは﹁ひねくれて巧妙な混沌﹂(回目
) 2 4 2
忠守
宮町
刷
0
・
出 向 ︒
g n
E C
臼)を意味し人を楽しませる仮面劇特有の都会的に
磨かれた真面目な統一一性をぼやかしてしまうことになる︒こ⑦ れと同じく︑歴史批評家の一人︑
D
・C ‑
アレ ン(﹀口
g )
も ︑
アダムズの攻撃の対象となる︒何故ならリュシダスのような
詩をルネッサンスの文学的因襲という﹁濃厚な考古学的なく
もの 巣﹂
2 8
詰母島町
∞甘えぎ白ゲ﹀の背後に押し込んでぼ
o r
やかすからである︒叉︑ワープロウスキ
l(
当 時 H E C d 2 S )
の③ ようなユング
Q
ロロ也風の悪魔主義( ω
同 仲 間
ロ
2
5
﹀に従ってプロミ
iγ
アス風にセイタンを解釈する﹁原型論者﹂
F R
Z q
マ
‑ 6ー
丘町田宮)をも攻撃する︒即ち彼のように無差別に﹁漢とした 普遍 化﹂
(4
白
m h
g c
巳 話混w z
乱m m )
ずることは︑かかるパタ
ーンの持つ巧妙な操作をぼかすことになり︑人間の物語とい
うこの叙事詩の主要な関心に対し︑セイタンのような人物を
従属させるところの劇的な人物処理という手法を関却せしむ
ることになるからだという︒
それならば正しい批評は何を選ぶべきかというと︑﹁微妙
に特殊なもの﹂公宮田口宮守宮込山口三由ると︑﹁漢として普遍
的な もの
﹂
( H r o
∞ g g
q d E 4 2 E C
との﹁どこか中間どこ
ろ﹂
(由
︒自
2忌
E
巾σ
巾 件 当
2p )
を把握しなければならない統一
の原理が存在すると︑アダムズは信じている︒この点でアダ
ムズ には
﹁新 批評 的な 良識
﹂( ロ
2 2 H
片付包
向︒
︒︽
凶器
5 0
﹀と﹁
ア
カデミックな良識﹂とが二っとも多量に備わっているとバi
カjは認めている︒
V
以上は主としてアメ円ノカの学会に見られる﹁歴史批評﹂と
﹁新批評﹂との論争とその結果中道派の拾頭して来つつあ
る経緯を概観したのであるが︑最後に︑昨年(一九五六年)
五月十八日付の﹁タイムズ文芸附録﹂にアメリカのミルトニ
ストで歴史批評家を代弁する
D ‑ M ‑
ウルフが英国の支持界を主回標に長女のエッセイを発表したことに注目したい︒こ
れはアメリカの第一線の学者がロンドンの文芸紙に堂々と論 障を張ったところに国際的な挑戦の呑いがあり︑依然としてアカデミック・ヒューマニストの闘志が燃えていることを証明している︒そこでも亦々︑
T ‑ s ‑
エリオットのミルトン
に対する器識不足への攻撃や︑新批評家への調刺が見られ
る︒アメH
カに於けるの
25
白 同 氏 ロ
5 2 r o
仏の問題︑批評家と⑮ 歴史家の問題︑口当日仏冨
28
ロの伝統の再評価︑アメリカに於けるミルトン学の貢献など様々な興味深い問題を扱ってい
る︒ウルフの考えの二︑三を次に要約して見ることにする︒
ミルトンを全体として眺めるというマッソンの伝統が連綿
としてアメりカでは続けられている︒ミルトンの一部分にで
はなく︑伎の芸術︑生活︑思想の全領域に興味があるとも言
う︒の
25
白 ロ 山 口
B 2 r o
仏は
7 4 [
回 世 田
︒
P
C
忌 ゲ ︒P
吋詰
ロロ
F
など
の歴史的方法乃至はルネッサソス的網羅性と対立する︒一九
四八年に計画され着手されて第一巻を出した
7
︑ルトンの散文全佐川一の目的は文芸批評ではなく︑知性の歴史( E o ‑
‑ 2 E
E
払古田宮弓﹀であった︒多彼の散文が彼の詩にどんな影響を与えたかを新たに評価することが望まれる︒若い批評家が走
大な脚註を噸笑ずることは容易である︒
tz
立o
尚一
言︒
}M 84
・
1 8 0 8 5 r r u z q T u
(
大ぎすぎる・重すぎる・歴史が多すぎる!﹀と言ってだ︒しかしマッソンほどミルトンの資
源に相応しい批評家になるには︑どの位の年月を必要とする
かを心に描き得た者はなかった︒才能ある新批評家は︑﹁イ
ルペンセロiソ
lL
や﹁リュシダス﹂の達人に三週間でなれ
‑ 7ー
ょう︒それほど有能でなくても三カ月で成れよう︒マッソン
流のミルトン批評には一ニ
O
年を必要としたのだ︒こんな風な調子で新批評家を調刺し︑歴史批評を弁護する︒
ウルフは叉︑次のようにアメリカの大学に於けるミルトン
について説明する︒
﹁もしもこれらの背景研究がその脚註や記録や註解で以て
ミルトンの詩の美学に対する興味や彼の芸術への愛を減少さ
せるに役立つとするならば︑何人も大西洋のアメリカの側に
於てこのような結果を結晶させはしなかっただろう︒毎年ミ
ルトンは英文学専攻のための選択科目として殆んどあらゆる
アメリカの大学に於て教えられている︒通常︑散文に於ける
背景に関する読物を少々と︑常に代表的な詩の勉学に集中さ⑨ せている︒ミルトンのコlスに加えて︑﹁英文学概観﹂
( ω 5 2
4白
可︒
同開
口ぬ
医師
げピ
8 5 2 5
を取ることを要求せられるすべて
)
の大学二課程の学生は︑殆んど必ず﹁失楽園﹂の一部を含め
て詩の幾っかを読む︒それに恐らくk
尚之 号む 忠良 町む の数 頁を
加えているだろう︒散交を少し研究すれば︑それだけミルト
ンの定大な思想の領域がいかに彼の芸術と解き放ち難いほど
に織込まれているかを示して余りがあるにと言う︒
ウルフは叉︑過去コ一十年間のアメリカのミルトン学の貢献
について次のようにも力説する︒
英文学の鑑賞や亨受に害となる目的に奉仕するどころか︑
過去三十年のミルトγ学は︑特に共同の研究はアメリカの生 活に詩人ミルトγ及び︑今尚大部分未解決のままになってい
る思想や葛藤の時代としての十七世紀に対する興味を甚だし
く更新させた︒シェグスピア以外の如何なる英国の作家もミ
ルトンほど多くの変らぬ読者を見出しはしない︒シェグスピ
ア及びミルトンの集注版はあの偉大なる
0
・E‑D
のように
﹁どんなに学識があって退屈であっても﹂♀o毛
2 2 F R z p
q
仏ロロ)その詩や劇に対する興味を減少させることは出来ない︒もしこのような書物がその調子に於ての
22
由巳口であっても︑それらは英国の学問研究に於ても亦︑長い伝統を持
っているのである︒今日までミルトンの散文は多くの大学院
の学生に︑確かにアンダーグラデ品エイトの学生にも︑まこ
とに奇妙な思想や言語の近より難い化合物であった︒コロン
ビア版の全集や︑イェlル版の散文全集も同様の研究上の刺
戟を受けて漸次増大して行く筈である︒アメリカの学者達は
彼らの学生をして﹁失楽園﹂の中に我々の共通の言葉の中の
果しない美しさを見出し得るよう助力を与えつつあり︑叉ミ
ルトンの中に﹀
p g m
と
M m E S F S
との驚歎すべき融合を
見出し得るよう助けつつある︒叉︑チャールズ一世や︑クロ
ムウエルの時代の中に︑
T ‑
ジェファ1
ソシ
( T F H Z
ロ)の
時代の徴候が見出されつつある︒ミルトンは正に詩人である
と共に︑革命家であり︑彼の倫理的︑社会的ディレンマの描
写は現代人にとって増々魅力を加えているのである︑とアカ
デミッグ・ヒュマニストのために熱烈に論じている︒この主
‑ 8 ‑
張に対する直接の反響は未だあらわれていないが︑これを読
んだ
T ‑ s ‑
エリオットや
F‑R
・リ
l
ヴィスなどはどんな 顔をしているであろうか︒何か物言いたげに見える︒
以上の概観から言い得ることはアメリカのミルトン学は最 近︑量質共にシェクスピア学に比肩し得るほどの成果を示し ていること︑じかも英本国に於ても見られない共同研究の企 画が着々実行に移され︑表向きにはとも角も︑内心英国の学 者を脅威しつつあることは︑国際的な外交や勢力の均衡に於 ける英米の関係と幾分類似したものが見出されるように思わ れる︒今後のアメリカとイギリスとのミルトン学の趨勢もわ れわれの興味と関心をつなぐに充分であろう︒
(昭 和三 三・ 四・ 一
O)
註
①
H f
患者色島田見吉田昨日ロ巧2 8 p
(民間
H 8 5 F H E S
二九二貰②ロ望広口丘口
r g ‑ n W E N ‑
H
符b h k
曲 ︑ y d h R b a H
︒ ﹄ い
N .
号 ︑ 一 お
き
z
w (
句
H 2
8
広 口 ︒ 国
曲 目 ︼
w z
‑ H
‑ H E 3
一一
一二
八頁
③ 同
J︒
3
ミ︒ めど お込 号仕 入同
u
己c g
日∞)
の
H N 2
目 ︒
d q
﹀E ‑
を
2
J W 2 2 E
u]U20﹃
H
︐﹃富
山
‑
S E C ‑
昆巳曲目三と題して最近の七つの著書の批評傾向を分類概観している︒②
22
三
﹁
H
切O O F
同コ
ど刊
で匙
・語
3
︑R
尚 とq s (
り 目 ロ ロ 日 間)
同c r g p H k g ι c p
H
吉田) 四七
l
六一一 貝に 含ま れた 論文 を指 す︒
③
・
H N
Z ‑
九
r
E B
由L﹃
窓辺
︑﹄
h s s s A H
炉︑ 足︒ 与ミ 町立 寄与( ( U C H a
出︒
己己
S
包H
回日時可
H V B
恒国
w
忌 町 田 ﹀
m w J C m g F F S E E L M ‑
問・
出向
H
身L d S
句 ベ足︑・
e v b
ミミ む
s
き司
ハ出
向
H n c z H F H
申 臼﹀
同 コ ﹄ 問 ︑ ︒
︑ ハ て
ミ︐
﹄い
き
3 E Z
⑦ ロ
・ ︒
‑ K
‑ o p U 1 b q
同今
話︒
詰.
︒
5
3
口
w e
s u p
将民凡
な
h
h s
﹄
h g
s w h
思号︑︿ 吋
r o H o r s E G E E ] M 5
♂
H U R )
③同 州・ 同
‑
・
2 2 c d s z v h N h
門N4ぐ事守 ミ氏
︑
3 3 H F S h a g p
問 ︒
L
待問
︒向
日同
︼川
田
f E H V
円 ︒ ロ
O D
︻ 同V H
申 印N )
① 出 雲
2 N
い寄 ミミ
も
h N
N V N
ミミミ
(間
同門
︽凶
a v
冨 印可
H
∞w H
也印由
)三
O
四頁 に
R窓 口
円 ︒ロ
dロ
ι22
曲 目 印
v u
の題で発表したもの︒ウルプは初めの章でも述べたように現在﹁イエール版ミルトシ散文集
の一 編纂 責任 者で もあ り思 想家 とし ての ミル トジ の研 究愛 国を 出し てい る︒
⑬ロ ミ三 宮白 師団
S
はエデイムパラ大学の教授であった人でミルトシに関する七巻に及ぶ最も五大なる背景的資料を駆使した伝記を残したので知られる︒⑪前に述べた﹁イェiル 版 散 文 集
﹂ の こ と
︒
‑
⑬
∞
2 2 M
刊 の2 3 0
はアメリカの大学でもよく問題になっている
o
U巳
n r s h H V Y E
込立さ﹄い
$3 G言 語 並 び に
44色
m r u e
‑
S ‑
参照
︒
‑ 9 ‑
シェイクスピアの生家ハ扉口絵参照﹀
シェイクスピアは一五六四年四月二三日にこの半木造三階の
建物で生れた︒建物の一部分は現在では詩人の生︑涯︑時代︑作
品の背景を説明するのに好都合な書物や絵画や遺品の陳列に用
いられている︒詩人の生れたと伝えられている部屋の窓ガラス
にはさまざまな訪問者のサイシが残っているが︑その中にはカ
1ライルのサイγも見受けられる︒この家の庭園には︑詩人の
作品に出てくる種々の草芯や木々が豊かに生育しており︑今な
おす ばら しい
︒