高山寺経函の年代測定と石水院の旧形復原
著者 永井 規男, 光谷 拓実, 菅澤 茂
雑誌名 関西大学博物館紀要
巻 18
ページ 33‑45
発行年 2012‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/8233
三三
高山寺経函 の 年代測定 と 石水院 の 旧形復原
永 井 規 男 光 谷 拓 実 菅 澤 茂
はじめに
本稿は前稿﹁石水院の旧葺板について﹂︽関西大学博物館紀要 第
16号
平成二十二年三月︾に続くものである︒前稿において高山寺法鼓台文庫
に収納されている葺板と石水院主室の天井板に転用されている葺板がも
とは石水院西広庇に用いられていたものであることを推測し︑その葺仕
様についても明らかにした︒本稿では高山寺収蔵の経函︵文書箱︶につ
いてその年輪年代を調査し︑経函を納置していたと考えられる石水院の
顕経蔵の旧形推定をするものである︒最初に光谷拓実による法鼓台文庫
格納の経函の年輪年代の調査とその結果を述べ︑ついではじめは東経蔵
と称していた石水院の内部柱に観察される痕跡をもとに︑かつての顕経
蔵の内部の形態を推定し︑法鼓台収納経函類と顕経蔵との関わりについ
て考察する︒最後に寛永十四年指図をもとにして︑石水院の平面の変遷
を推測し︑建築としての歴史的価値をより深めることを目指した︒ 一 年輪年代法による高山寺文書箱︵経凾︶の年代測定調査
年輪年代学と高山寺
年輪年代学︵古年輪学︶研究は単に木質古文化財の年代を明らかにす
るだけでなく︑計測収集された年輪データを蓄積することよって︑樹種
別︑地域別の年輪パターンのネットワークを構築するための基礎データ
となる︒ゆくゆくは木材の産地推定や古気候復原研究に貴重な情報を提
供することにつながる︒各種の木質古文化財のなかでも︑好個の素材は
年輪密度の高いヒノキやスギの柾目板材を使った唐櫃や文書箱類などが
それに該当し︑このような文化財からの年輪データの蓄積は貴重である︒
これまでに︑正倉院宝物木工品 ①の年輪年代調査を実施したのを皮切り に︑滋賀県石山寺所蔵の一切経経箱 ②︑奈良県興福寺一切経経箱 ③の実例を
とおして貴重な年輪データを蓄積することができた︒
一方︑これらの年輪年代調査を通じて︑一切経が作られた年代と箱の
制作年代とが整合的であるなど︑一切経の年代や社寺の履歴をひもとく
三四
うえでも重要な年代情報を提示してきた︒
京都府京都市右京区にある高山寺には︑貴重な文書や典籍などを納め
た文書箱が多数所蔵されている︒このたび高山寺の許可を得て︑年輪年
代法による文書箱の年代測定を実施することができた︒調査対象には︑
ヒノキ材かスギ材のもので年輪密度の高い柾目板が使用されているもの
のなかから蓋や側板を二十三点選定し︑年輪年代法による検討をおこな
った︒調査の結果からは︑高山寺の来歴を繙くうえでも貴重な年代情報
が得られたので︑以下に報告する︒
調査対象に選んだ文書箱と年代測定方法
収蔵庫に収納されている文書箱は︑各時代のものが新旧混在している︒
なかには年代の異なる箱と蓋が組み合わさったものも見受けられた︒文
書箱全体の大きさは︑幅㿌約三五・〇㎝︑長さ㿌約四〇・〇㎝︑高さ㿌
約二五・〇㎝のものばかりであった︒
調査対象としては︑まず︑年輪密度の高いスギの柾目板を使った蓋を
十八点︑正面左長側三点︑正面右長側一点︑正面短側一点の総数二十三
点の板材について実施することとした︒つぎに︑デジタル一眼レフカメ
ラを用いた年輪計測用の年輪画像は︑側板をのぞき蓋については表側よ
り年輪が鮮明に見える裏側を撮影した︒このとき︑実寸に換算するため
に布製スケールを写しこむこととした︒撮影済みの年輪画像は︑A
4サ
イズのカラーコピー用紙に印刷されたものから年輪読取器を使って年輪
データを収集した︒このときの最小読取値は一〇ミクロンである︒
実寸に換算された年輪データは︑コンピュータに入力し︑調査対象部 材間相互の年輪パターン照合や暦年標準パターンとの照合に備えた︒年輪パターンの照合法は︑時系列解析に用いられる相互相関分析手法︷ 五
年移動平均による年輪データの基準化↓移動相関分析︵r︶↓t検定︵t
値︶︸によった ④︒一組の年輪データを比較照合し︑年輪パターンの照合が
成立したかどうかの判断基準は一応の目安としてt値が五・〇前後以上
を示し︑なおかつ重複する年輪データが一〇〇層以上ある場合をおおむ
ね可としている︒なお︑t値が五・〇以下︵t値三・五〜四・九︶を示
すときでも照合が成立することはあるので︑この基準はあくまでも目安
でしかない︒最終的にはこの照合位置で双方の年輪パターングラフを重
ね合わせ︑目視でもって問題のないことを確認してから残存最外年輪の
年代決定を下すこととした︒年代を割り出すにあたって使用したスギの
暦年標準パターンは︑興福寺所蔵の一切経経箱の年輪データで作成した
四八四年間分︵七七〇年〜一二五三年︶を用いた︒
結 果
文書箱の調査対象部材の計測年輪数やt値︑残存最外年輪の年代︵略
して年輪年代︶の結果は︑表
1に示した︒年輪年代が確定したのは二十
点で︑あとの三点︵№
11︑№
16︑№
23︶は確定できなかった︒年輪年代
法が判明したもののなかで︑辺材部︵心材部の外周部に続く色調の白っ
ぽい部分をいい︑秋田スギを例にとると平均的な辺材幅は︑四・五㎝〜
五・〇㎝程度である︶がすべて削除されたものは五点︵№
5︑№
6︑№
8︑№
9︑№
14︶あった︒このような形状のものから得られる年輪年代
︵残存する最外年輪の年代をいう︶は︑伐採年代より古い年代を示すの
三五
表1 高山寺所蔵の文書箱の年輪年代 試料
№ 部材名 樹種 年輪数 t値 年輪年代 辺材 備 考
1 第40号 正面左長側 スギ 367 7.9 1285 3.8cm 鎌倉時代後期
2 第40号 蓋 スギ 232 5.3 1209 2.0cm 鎌倉時代前期
3 第61号 正面短側 スギ 207+ 1 5.4 1202 3.7cm 鎌倉時代前期
4 第61号 蓋 スギ 197+ 1 6.4 1118 4.5cm 平安時代後期
5 第79号 蓋 スギ 238 6.9 1156 ─
6 第80号 蓋 スギ 213 5.7 1189 ─
7 第82号 蓋 スギ 404 6 1105 2.5cm 平安時代後期
8 第83号 蓋 スギ 182+ 2 4.6 1137 ─
9 第84号 蓋 スギ 188 5.2 1141 ─
10 第85号 蓋 スギ 201 6.3 1188 2.8cm 鎌倉時代前期
11 第86号 正面左長側 スギ 215 ─ ─ ─
12 第87号 蓋 スギ 240 8.3(:№15) 1152 3.0cm 平安時代後期
13 第88号 蓋 スギ 233 10.5(:№15) 1103 3.0cm 平安時代後期
14 第93号 蓋 スギ 243 3.9 1131 ─
15 第118号 蓋 スギ 136 4.5(:№ 1 ) 1246 4.2cm 鎌倉時代前期
16 第123号 蓋 スギ 155+ 1 ─ ─ 3.0cm
17 第124号 蓋 スギ 169 6.1 1281 4.2cm 鎌倉時代後期
18 第125号 正面左長側 スギ 113 5.2 1235 4.7cm 鎌倉時代前期
19 第125号 蓋 スギ 179+ 1 4.7(:№ 1 ) 1200 4.2cm 鎌倉時代前期 20 第125号 正面右長側 スギ 196+ 1 4.7(:№11) 1230 4.3cm 鎌倉時代前期
21 第129号 蓋 スギ 209 7.1 1198 4.5cm 鎌倉時代前期
22 第130号 蓋 スギ 167 4.9 1151 4.3cm 平安時代後期
23 第168号 蓋 スギ 213 ─ ─ ─ 永久元年七月六日
(墨書:1113年)
【奈良博寄託中の文書箱 第167号】
1 背面長側 スギ 177 7.9 1096 ─
2 正面長側 スギ 150 6.5 1100 ─ 永久元年七月六日
(墨書)
3 底板 スギ 151 5.2 1100 ─ ⎫
⎬同材 4 左短側 スギ 174(+ 1 ) 21.5(:№ 3 ) 1100 ─ ⎭
で︑文書箱の製作年代を推定するには︑い
ささか無理がある︒この場合の年輪年代
の解釈は︑あくまでも伐採年代の上限を
示す年代値として理解すべきである︒一
方︑辺材が残存していたものは十五点あ
った︒これらは︑正確な伐採年代は求める
ことはできないものの︑比較的伐採年代
に近い年代とみなすことができるので
︑
文書箱の製作年代を知るには重要な年代
値となる︒そこで︑辺材部が残存する十五
点の年輪年代の内訳をみるために年代区
分として平安時代後期︵一〇八六年〜一
一八四年︶︑鎌倉時代前期︵一一八五年〜
一二七四年︶︑鎌倉時代後期︵一二七五年
〜一三三二年︶の三区分を設定すること
とした︒なお︑この年代区分は︑﹃国宝・
重要文化財指定建造物図録 ⑤﹄に従った︒
まず︑平安時代後期のなかに納まる可
能性の高いものは︑順に№
4㿌第 61号蓋︑
№
7㿌第 82号蓋︑№
12㿌第 87号蓋︑№
13㿌
第
88号蓋︑№
22㿌第号蓋の五材である︒
このなかで残存する辺材幅から推定して
№
4㿌一一一八年︑№
7㿌一一〇五年︑№
三六 13㿌一一〇三年の三点は︑№
12㿌一一五二年︑№
22㿌一一五一年の二点
に比べてやや古い年代を示している︒したがって︑前者の三点は紀年銘
のある№
22︵第号︶の年代︵一一一三年︶に近いグループのもので︑後
者の二点より早い年代に伐採された木材を使っていたことが推定される︒
一方︑鎌倉時代前期に相当するものは︑№
2㿌第 40号蓋︑№
3㿌第 61
号正面短側︑№
10㿌第 85号蓋︑№
18㿌第号正面左長側︑№
19㿌第号
蓋︑№
20㿌第号正面右長側︑№
21㿌第号蓋の八材が確認された︒残
る二材の№
1㿌第 40号正面左長側と№
17㿌第号蓋は鎌倉時代後期のも
のとわかった︒︵表
2︑表 3︑表 4︶ 以上のように︑年輪年代の判明した測定対象材の二十材について年代
区分を試みたが︑このような製作年代の違いが高山寺における宗教活動
上の動勢とどのように関連してくるのか︑今後の検討課題である︒
また︑二〇〇七年度には奈良国立博物館に寄託中の高山寺所蔵の文書
表 2 平安時代後期の文書箱の年輪年代 No. 4:第61号蓋 ─ 1118年+層 No. 7:第82号蓋 ─ 1105年+層 No. 12:第87号蓋 ─ 1152年+層 No. 13:第88号蓋 ─ 1103年+層 No. 22:第130号蓋 ─ 1151年+層 表 3 鎌倉時代前期の文書箱の年輪年代
No. 2:第40号蓋 ─ 1209年+層 No. 3:第61号蓋 ─ 1202年+層 No. 10:第85号蓋 ─ 1188年+層 No. 15:第118号蓋 ─ 1246年+層 No. 18:第125号正面左長側 ─ 1235年+層 No. 19:第125号蓋 ─ 1200年+層 No. 20:第125号正面右長側 ─ 1230年+層 No. 21:第129号正面左長側 ─ 1198年+層 第 4 鎌倉時代後期の文書箱の年輪年代
No. 1:第40号正面左長側 ─ 1285年+層 No. 17:第124号蓋 ─ 1281年+層
第40号 鎌倉時代後期 第82号 平安時代後期
第61号 鎌倉時代前期 第168号 永久元年七月六日(墨書)
三七 箱︵第号︶についても年輪年代法による調査を実施した︒板はすべて
スギの柾目板である︒しかもこの文書箱には№
23の第号と同じく蓋裏
に﹁永久元年七月六日﹂と書かれた墨書があり︑文書箱そのものも非常
に丁寧な作りとなっている︒調査は︑正面と背面の長側︑左短側︑底板
の四点についておこなった︒年輪年代は︑いずれの板も確定し︑正面長
側︑左短側︑底板三点は一一〇〇年+
層の年代が得られた︒目視によ
る観察ではいずれの板材にも明瞭な辺材が残存しているがどうかの判断
が難しい状況のものであった︒
したがって︑この文書箱に使用されている板材の伐採年代は︑辺材部
がほぼ完存しているものであれば年輪年代と整合的であるが︑もしそう
でないとすると伐採年代はかなり下った年代を想定しなければならない︒
しかし︑この文書箱の墨書銘は永久元年︵一一一三年︶であることを考
えると︑三枚の板材から得られた年輪年代の一一〇〇年は︑あまりにも
紀年銘の年代に接近した年代であるため︑目視的には辺材の残存状況が
判別できない状態にはあるが︑辺材がかなりの残存幅で残っている可能
性も捨てきれない︒長年のあいだに心材部と同じような色調が変化︑変
色しその差が︑判別しにくい状態にあることも多くの事例のなかにはあ
るので︑この場合はいずれかであろう︒
以上︑高山寺所蔵の文書箱の一部について︑年輪年代法による年代測
定を実施した結果︑平安時代後期頃のものが五点︑鎌倉時代前期頃のも
のが八点︑鎌倉時代後期頃のものが二点確認できた︒このように年輪年
代的に三区分された文書箱は︑高山寺の来歴とどのように結びつくのか︑
大変興味のあるところである︒ 文献① 光谷拓実﹁年輪年代法による正倉院宝物木工品の調査﹂︑﹃正倉院紀要﹄
第
23号︑宮内庁正倉院事務所︑二〇〇一年
② 光谷拓実﹁年輪年代法と最新画像機器
︱
古建築︑木彫仏・木工品への応用
︱
﹂︑﹃埋蔵文化財ニュース﹄号︑奈良文化財研究所︑二〇〇四年③ 光谷拓実﹁年輪年代法による興福寺一切経経箱の調査﹂︑﹃奈良文化財研
究所紀要二〇〇三﹄︑奈良文化財研究所︑二〇〇四年
④ 光谷拓実︑田中琢︑佐藤忠信﹁年輪に歴史を読む
︱
日本における古年輪学の成立
︱
﹂︑﹃奈良国立文化財研究所学報﹄第48冊︑同朋舎出版︑一
九九〇年⑤ ﹃国宝・重要文化財指定建造物図録﹄︑文化庁︑一九七九年
二 法鼓台蔵経函の年代考
︱
年輪年代測定の結果についての考察︱
現在法鼓台文庫には整理番号によると三一〇函の経函︵文書箱︶が存
在するが︑それらについては石塚晴通氏による経函に記された識語の悉
皆調査がある ①︒それによると函番号第一五七の承平三年︵九九三︶二月
の識語が函底にあるものが最も古く︑第一六八函の永久元年︵一一二三︶
七月六日の蓋裏朱書がこれに次ぎ︑さらに安元二年︵一一七六︶の識語
のものがある︒なお前掲のように永久元年七月六日の識語がある経函箱
はもう一つある︒それは現在奈良国立博物館に寄託中のもので︑その年
輪年代は一一〇〇年を計測し︑函の制作年次とほぼ一致をみている︒鎌
三八
倉時代の識語のある函はなく︑右につづくのは第一六六函の文正元年
︵一四六六︶五月五日と記された識語であって︑室町中期まで降ることに
なる︒江戸時代の識語をもつものは数が多く︑第一六九函には万治三年
︵一六六〇︶九月廿九日に高山寺石水院経蔵施入の識語がある︒第五十八
函には文化十年︵一八一三︶に高山寺の坊院十無尽院の慧友が十無尽院
の古板を用いて二合の経函をつくった旨の識語がある︒慧友は文政・天
保年間にも経箱を調製しているが︑それらにも十無尽院の古板を用いた
ようである︒一一〇函には萬延元年︵一八六〇︶九月廿日に新調して高
山寺経蔵に納めた旨の識語がある︒なお石塚氏によると︑江戸初期の寛
永年間には顕證を中心に経蔵の整理・整備が行われ︑石水院の古材を用
いて調製された経函二十数合があるとされる︒近代に入っても経箱の新
規の調製は続けられたが︑その大部分は高山寺典籍文書綜合調査団によ
るものである︒
以上から︑現存する経函について︑識語などから判別できるものを時
代別にその数をあげると︑近現代四十三合︑江戸時代四十三合となり︑の
こる二百二十四合は江戸時代以前ということになる︒一方︑光谷の調査
によると︑年代測定に適う経函は二十一合で︑それらの時代別の内訳は︑
平安時代六合︑鎌倉時代八合︑のこる七合は辺材を欠くため年輪年代が
出せないが︑そのなかの五合は十二世紀に属すと推定できる範囲のなか
にある︒これを加えれば︑鎌倉時代のものは十三合となる︒なおこの計
算のなかで︑方便智院の廃絶により江戸初期の東経蔵の再編にともない
新調されたと石塚氏が見られた一連の経函のうち︑光谷によって平安時
代に特定されたもの三合︵第八十七︑第八十八︑第九十三函︶がある︒こ の三合は平安の古材を用いて制作されたと考えなければならず︑函の作成年代と函材の年代とが一致しないものも含まれていることを物語っている︒ このような問題を含んでいるにしても︑光谷の調査は経函群が鎌倉時代のものを中心として構成されていることを明らかにした︒というのも光谷の調査は全経函から年輪年代の調査に適う辺材を遺した函を抽出して行っているので︑その函材に辺材が有るか無いかは全く偶然的なことであり︑したがってこの方法による光谷の調査は︑結果として試料群から無作為に試料を抽出したものになっている︒したがってその試料群が示す傾向は︑推測統計学上︑全体の傾向を示すものと考えてよい︒この場合︑抽出試料の多くが平安︑鎌倉時代を示すことから︑法鼓台の経函の多数は平安︑鎌倉時代に属すもので︑数の上からは鎌倉時代のものを中心としていると推定することができるのである︒ つぎに究めたい問題は︑ではこれらの経函は本来どこに収蔵されていたかである︒経函の識語には格納場所を示す文言はない︒経函のなかに高山寺創立以前の平安時代のものがあることは︑どこかの古寺の経函が移されたことを物語っているが︑どこの寺であるのかを推定する手立てはない︒しかし︑このように多数の文書箱が今まで残存しえたのは︑これらの箱を格納した経庫が存続したからであったろう︒しかしその経庫は一つとは限らないし︑高山寺山内の子院などにもあった可能性はあろう︒ただ︑前稿で引用した近世の高山寺建築物の火災史 ②を考慮にいれる
と︑まとまった数の経箱を護持しえたのは︑石水院︵正確にはその中の
経蔵︶があったからこそと考えざるをえないのである︒すなわち杉山信
三九 三博士が指摘されたように︑創立期高山寺の東経蔵はやがて石水院と称され︑西庇に春日・住吉の神廟がつくられ︑石水院の名はこの神廟の存在によって広く世に知られる︒しかし経蔵としての機能は失われることはなく︑顕経蔵︑密経蔵のなかに経函群が護持されていったと考えられる︒ この推定が成り立つためには︑石水院のなかの︑いまはない顕経蔵と呼ばれた主室について復原し︑そこに現存する多数の経函が収納可能であったことを証明することが必要になろう︒ そこで次に石水院のなかにあった顕経蔵の経棚を含んだ内部の復原をこころみた︒この復原操作によってどれほどの経函が収納され︑保持されてきたのか︑その数的側面を窺ってみたい︒
三 顕経蔵の経棚の復原考察
高山寺本の寛永十四年指図︵図
1︶は顕経蔵内部に描く棚について︑東
面のを東方棚・乙聖教︑西面のを西方棚・用聖教と注記している︒なお
西方の用聖教の﹁用﹂は乙に対する甲の誤記かもしれない︒また﹁五重
ノ棚﹂と棚数も記している︒現在では棚を構成したであろう部材は現存
しないようであるが︑棚材を打ちとめていたと推測される釘穴が四箇所
の柱に認められる︵図
2︶︒これらの柱は当初材と目されるもので︑その
位置が動いていないとすれば︵その可能性は大きい︶︑棚は寛永指図のよ
うな状態でつくられていたと考えることが許される︒釘穴は敷居上から
内法長押の下までに点々とある︵図
3︶︒棚がどのような形状をしていた
図 1 高山寺所蔵の寛永14年石水院指図(写)
四〇 図 2 石水院現状略平面図と釘穴をのこす柱
図 3 釘穴をのこす柱の実測図
かを具体的に推定させる資料はないものの︑釘穴間隔から三段ないし五
段の棚がつくられていたと推定することができる︒棚は自立するつくり
であったと考えられるが︑柱と接するところでは柱に釘留めして揺れや
顛倒を防いだものであろう︒
棚の上下間隔はまちまちであるが︑三五㎝前後が四例︑四二㎝前後が
四例︑五二㎝前後が三例で︑ある程度の規格をもってつくられていたと
考えられる︒棚の奥行を知りうる手立てはないが︑寛永十四年指図が正
確な縮尺で描いてあるとすれば︑指図から読み取れる奥行き寸法はほぼ
一尺四寸︵四二㎝︶か一尺五寸︵四五㎝︶である︒
一方︑経函の寸法は︑年輪年代の調査対象にしたものに限るが︑表
5
のとおりである︒すなわち蓋をした状態で︑見付の幅は最大三七・四㎝︑
最小三四・〇㎝︑平均三六㎝である︒奥行きは︵函の両側に輪金具がつ
いた面を奥行きとした︶︑四二・一㎝から四〇・一㎝の範囲03内にあり︑
四一㎝台がほとんどである︒高さは二八・五㎝から二二・四㎝と幅が大
きいが︑二二例中一五例が二四㎝前後に集中している︒以上のことから
もちろん例外もあろうが︑幅三六㎝︑奥行四二㎝︑高さ二四㎝ほどを標
準の規格としていたようである︒
この奥行の四二㎝前後という寸法は︑指図から割り出した棚の奥行寸
法の四二〜四五㎝とよく見合っている︒高さの二四㎝は柱の釘穴痕跡か
ら推定される棚の上下の空き間隔寸法の︑もっとも小さな三五㎝に対し
て十分に収納操作が可能な数値︵かりに棚板厚を三センチとしても三二
㎝の明きがあり︑二四㎝の高さの函の出し入れはできると考えられる︶
である︒
四一 格納経函数の推定 指図から周囲の棚の総長は五四尺すなわち一六・
三mである︒これに標準規格の経函を納めていくとどうなるか︒経函相
互の空きを一尺すなわち三〇㎝とすると三六㎝の幅の経函を並べた場合︑
函相互の心々真間隔は六八㎝となる︒この数値で棚の総長を除すと二
三・九の数値をうる︒すなわち一段に二四函の経函を納置できる計算に
なる︒棚を三段としても上下四段に置けるわけだし︑指図がいう五段で
もありうるから︑格納できる経函数は四段だと九六函︑五段だと一二〇
函が納置できたことになる︒ここでの計算は函相互の間隔を広い目にし
ているから︑すこし詰めればこれらの数値を上回る数を百を超す函数は
十分に格納できたであろう︒
また経函の納置場所としては密経蔵もあり︑寛永十四年指図は一間四
方の小室の三方に棚を描き﹁五重棚﹂としている︒棚の奥行きは顕経蔵
と同じに描いている︒ここでも顕経蔵と同じ計算で五〇函の収容ができ
たと見なすことができる︒
以上から顕経蔵と密経蔵の両方で一四六函から一七〇函の納置ができ
たという勘定になる︒これはあくまで推定の域をでるものでないが︑こ
の数値は現存する江戸時代以前と目される函の︑約二二〇合という数値
にはおよばないが︑しかしその大部分を石水院内部に収納し得たことを
示している︒
四 石水院の旧形
石水院指図は仁和寺本と高山寺本の二本が知られている︒高山寺本は
番号 部位 幅
㎝ 長さ
㎝ 高さ
㎝ 厚み
㎜ 40 函 31.7 39.6 23.5 9.0
蓋 34.0 41.5 5.3 9.0 全体 34.0 41.5 24.4 61 函 34.0 39.5 23.0 9.0
蓋 36.5 42.0 5.4 9.0 全体 36.5 42.0 23.9 65 函 33.9 39.3 22.8 9.0
蓋 37.0 41.7 4.5 10.0 全体 37.0 41.7 23.8 79 函 34.4 39.9 23.3 9.0
蓋 36.5 42.0 5.5 10.0 全体 36.5 42.0 24.3 80 函 33.3 39.3 23.5 9.0
蓋 35.5 41.8 5.2 9.0 全体 35.5 41.8 24.4 81 函 34.0 39.6 23.2 9.0
蓋 36.3 41.5 5.2 9.0 全体 36.3 41.5 24.1 82 函 34.7 39.4 21.5 9.0
蓋 36.6 41.5 4.9 8.0 全体 36.4 41.5 22.3 83 函 33.0 39.0 23.3 8.0
蓋 35.8 41.4 5.5 6.5 全体 35.8 41.4 24.1
番号 部位 幅
㎝ 長さ
㎝ 高さ
㎝ 厚み
㎜ 84 函 33.9 39.1 23.1 6.5
蓋 35.9 40.9 5.2
~5.6 7.0 全体 35.9 40.9 23.8 85 函 31.8 39.4 23.8 6.0
蓋 34.1 41.6 5.2 7.0 全体 34.1 41.6 24.5 86 函 33.8 40.6 25.7 9.0
蓋 36.0 43.0 4.5 9.0 全体 36.0 43.0 26.6 87 函 35.0 39.5 23.3 10.0
蓋 37.0 41.8 5.0 10.0 全体 37.0 41.8 24.3 88 函 34.8 39.4 23.2 11.0
蓋 37.2 41.8 4.5 10.0 全体 37.2 41.8 24.2 92 函 34.5 39.5 23.5 12.0
蓋 37.4 41.7 4.9 10.0 全体 37.4 41.7 24.5 93 函 34.6 39.3 23.5 10.0
蓋 37.2 41.5 4.7 10.0 全体 37.2 41.5 24.5
番号 部位 幅
㎝ 長さ
㎝ 高さ
㎝ 厚み
㎜ 118 函 33.8 39.1 26.8 9.0
蓋 35.3 41.5 4.8 8.0 全体 35.3 41.5 27.6 123 函 33.3 39.8 26.7 8.0
蓋 35.5 41.9 4.9 8.0 全体 35.5 41.9 27.5 124 函 31.5 37.9 24.7 10.0
蓋 33.7 40.1 5.2 8.0 全体 33.7 40.1 25.5 125 函 32.0 39.5 23.5 9.0
蓋 34.4 41.6 5.0 9.0 全体 34.4 41.6 24.4 129 函 32.1 39.8 23.3 8.0
蓋 35.3 41.7 5.2 9.0 全体 35.3 41.7 24.2 130 函 32.4 39.9 23.7 10.0
蓋 34.4 42.1 5.4 9.0 全体 34.4 42.1 24.6 168 函 31.8 38.2 20.4 9.0
蓋 34.1 40.4 5.0 9.0 全体 34.1 40.4 28.5 表 5 年輪年代測定対象の経函寸法の実測表
四二
仁和寺本の写しとされる︒しかし︑両者間にはかなりの違いがあり︑単
純に写しとは言い切れないものがある︒杉山信三博士は高山寺本をもと
にして寛永十四年の改造直前の石水院平面図を提示されたが ③︑それは高
山寺本の図のなかから十四年建添﹂と朱で注記された二本の柱︑すなわ
ち顕経蔵内部にたつ独立柱と南広縁軒柱の中央十二尺間の真中にたつ庇
柱を消すことでつくられた図である︒﹁仁和寺真光院﹂の印がある仁和寺
本は︑図面としてはほとんど同一内容であるものの︑顯経蔵の内部および
南北の側筋に高山寺本にはない柱を画いている︵図
4︶︒その図から寛永
十四年の建添え柱を消すと︑ここでも寛永十四年の改造直前の状態にな
る理屈であり︑それは杉山博士案とは違う様相を示すものになる︵図
5︶ ︒
この図では身舎の東北隅と東南隅の入隅柱がたっていて︑この建物が はっきりと一間四面堂の構成をもっていたらしいことを推測させる︒現状では東南隅の化粧隅木をうける舟肘木の組物は内法上にたつ束が支えている︵図
6︶が︑指図ではこの束が柱として描かれているのである︒そ ④
してこの舟肘木の裏側では︑北行きの桁が納まっていたと考えられる仕
口が残っていて︵図
7︶︑この桁があったとすれば北端でこの桁をうける
柱すなわち東北隅の身舎柱の存在が必然視されてくるのである︒仁和寺
本の描写は誤りとはいえないのである︒こうした柱があってこそ﹁建て
添え﹂するという言い方が生きてくるのであり︑このこともまた東北隅
の身舎柱の存在を裏付けするものであろう︒
この推定のように四本の入隅柱がたつ構成は︑古代的なものを考えさ
せる︒そのことから推定平面の年代を︑東経蔵に西面に春日・住吉の両
図 6 東南隅の組物付の束柱
図 7 図 6 の裏側の木組
図 4 仁和寺所蔵の寛永14年石水院指図の略図
建添柱 建添柱
図 5 図 4 に基づく石水院旧形の推定図
身 舎 庇 庇
庇
又 庇
四三 大明神御形像が安置され︑東経蔵が神殿にもなった文暦二年︵一二三五︶
まで遡らせることも許されるであろう︒
寛永十四年指図は︑同年に催された開帳を機に施された修理改造を示
すものであるが︑ではその改造とはどのようなものであったのだろうか︒
指図に変更箇所として記された柱の﹁建添え﹂が顕経蔵に内部にあるこ
とから︑それは主として顕経蔵の改造であったと考えられる︒その顕経
蔵内部の﹁建添え柱﹂は︑顕経蔵の東西幅を二分する中央線上に位置し
ている︒顯経蔵の南面と北面においてもこの中央線上の位置に柱がたっ
ている︵図
1参照︶︒たぶん︑このようにすることが目的だったのである︒
その結果︑顯経蔵を南前面から見るとき︑経蔵正面の中央に柱がたつこ
とになって︑左右の対称性を見せ︑整然とした構成感を与える︒このよ
うな意図をもった変更は︑顕経蔵内部の構成そのものに変更を間接的に
も示すのであろう︒その変更は︑憶測内にとどまるが︑顕経蔵の広さの
拡張を目的としたものであった可能性が大きい︒なんらかの理由で顕経
蔵を拡張する必要が生じ︑身舎部と東庇部を︑空間的にひとつのものと
したのであった︒指図の記述によれば︑顕経蔵の内部の棹縁天井の高さ
は七尺五寸と低く︵この高さは現在の東庇部の天井高と合う︶︑室内の広
さに比例しない極端に低平な空間であったことがわかる︒
以前の顕経蔵部は現在は四室に分割されているが︑それは明冶二十二
年の移築時の改造によるものである︒このように顕経蔵内部は幾度かの
改造を経ている︒
移築時に小屋の梁組が大きく変わったようなので︑創建以来の改造過
程の追及は容易ではないだろうが︑そのことは将来に行われるであろう 大修理における徹底した調査に期待したい︒
五 石水院葺板の年代
前稿において石水院の旧材と考えられるコウヤマキの長葺板について︑
その葺方の仕様や葺かれていた元の場所についての考察を巡らせた︒け
れども葺材が何時のものかの解明は課題として残されていた︒ところが
幸運なことに昨年末︑放射性炭素年代調査法による葺材の年代測定をお
願いすることができた︒放射性炭素年代調査法は︑加速器質量分析法︵A
MS︶と暦年較正曲線を用いたウイグルマッチ法という新しい方法によ
って︑その精度が飛躍的に高いものになり︑歴史時代の遺物の年代測定
にも応用されてきている︒石水院葺板の年代測定は︑中尾七重氏︵武蔵
大学総合研究所︶を研究代表者とする科学研究費補助金︵基盤研究︵
B︶
﹁文化財建造物の高精度放射性炭素年代測定﹂における測定対象のひと
つとして行われた︒その結果が本稿校正中に届けられたので︑中尾氏の
お許しをえて︑その正式な報告に先立ち︑測定結果の概要をここに付け
くわえて報告するものである︒このことについては中尾氏のご寛容に厚
く感謝申し上げたい︒
石水院葺材については︑二点︵第一材︑第二材︶の遺材を選んでその
測定をお願いした︒その年代測定の解析結果は︑第一材は一〇四八〜一
〇七六年︵ピーク値一〇六九年︑九五%信頼限界で九五%の確率︶︑第二
材は一一九三〜一二二五年︵ピーク値一二一六年︑九五%信頼限界で九
五%の確率︶であった︒いずれも白太をふくむ辺材を残さないため︑両
四四
材が同時期に伐採されたとするなら︑確実にいえるのは一三世紀前半か
それ以降の伐採ということになる︒
以上が放射性炭素年代調査の概要である︒これは望外の結果であった︒
前稿においてこの葺材は文暦二年︵一二三五︶に西庇に神殿を設けたと
きに付加された東経蔵西広庇に使用されていたものと推定したのであっ
たが︑測定結果は高い信頼度のもとで遺材が鎌倉時代中期に属すことを︑
場合によっては文暦二年当初のものですらありうることを明示してくれ
たからである︒
なお前稿でこの長葺板の葺き方を推定しておいたが︑図7の下辺に現
石水院の主室の天井の裏側が写っている︒目板打ちの天井板四枚が見え
る︒この天井板は西広庇旧葺板を明治二十二年の石水院移築時に再利用
したもので︑旧葺板の表裏を逆にしているものの︑かつての葺方をほう
ふつさせるものである︒
石水院は年輪年代調査によって西広縁長押が貞永元年︵一二二三︶に
伐採の材であること︑そして今回の放射性炭素年代調査によってその旧
葺材が一三世紀前半のものである可能性が高いことが判明した︒これら
の新しい理科学的な成果によって︑石水院の建立年代はほぼ確定できた
といえるであろう︒
おわりに
以上︑二稿にわたって国宝石水院という建造物について︑いわば付随
的な建築上の考察を重ねてきた︒前稿では法鼓台文庫収納され︑また石 水院主室の天井板としても転用されていた槇の長葺板の原位置とその葺仕様について考察し︑この稿では明治二十二年の移築のときに四室に細分された旧顕経蔵の経棚のことを︑法鼓台文庫収納の多数の経函と関連させて考察した︒これらから得られた新知見は僅かなものであるが︑石水院が﹃高山寺縁起﹄にいう東経蔵の後身であるという杉山信三博士の指摘は︑追認できたと思う︒加えて年輪年代調査法と放射性炭素年代調査法という︑あたらしく近年著しくその信頼性が増した二つの科学的調査を応用できたことで︑全く別の観点からその建立年代をほぼ確定できたことは大きな収穫であった︒ 石水院は︑開山明恵上人存生時に遡る︑高山寺開創時の唯一の生き残りの建物なのである︒そのことはあらためて銘記されるべきであろう︒
また経蔵としては現在その体をなしていないが︑古図によりその形態が
明らかである︒最近経蔵についての包括的な研究を展開された堀祥岳氏
は経蔵に⑴経楼型︑⑵書架式型︑⑶輪蔵型式︑⑷寶造型の四類型があっ
たとされたが ⑤︑それに従えば石水院は⑵に属し︑さしずめ書架式中の開
架式経蔵であったということができよう︒経蔵研究上の貴重な存在にな
ろう︒註
①︽石塚晴通﹁高山寺経箱指識語﹂﹃高山寺経蔵典籍文書目録﹄完結編︵汲古
書院 二〇〇七年︶︾
② 高山寺の火災史は前稿で紹介しておいたが︑小川義章師の﹁高山寺雑攷﹂
四五 によると︑江戸時代中期の宝暦年間︵一七五一〜一七六四︶に高山寺山内にあった中世の建物は仁王門と鎮守社︵石水院︶の二棟だけであった︒経函を収納していた可能性がある禅堂院も享保二年︵一七一七︶に焼失している︒このように山内でまとまった数の経函を保持できたのは石水院だけしかなかったのである︒③ 杉山信三﹁高山寺石水院について﹂︵日本建築学会近畿支部研究報告 一
九五七年︶︑同﹁明恵上人の高山寺庵室について﹂︵奈良国立文化財研究所
年報 一九五九年︶
④ この柱の下部を切断して束として残すことは構造的には出来そうもない
が︑図
6に写る長押・鴨居は実は一材からつくり出されていて︑実体は胴
差として束にかかる上部荷重を支えている︒改造時の絶妙なというしかな
い仕事である︒ ⑤ 堀祥岳﹁︽経蔵︾再考
︱
類型と機能︱
﹂︵臨済宗妙心寺派教化センター﹃臨済宗妙心寺派教学研究紀要﹄第九号︑二〇一一年︶
付記 前稿において鶴林寺太子堂の長板葺が正面の流れ一間の孫庇のものという
指摘が山岸常人氏によってなされているとしたが︑山岸氏からこれについては
関知しない旨の御注意をうけた︒戦前の修理時に推測されたことであったのを︑
勘違いしてこのように書いてしまった︒ここにお詫びを申し上げ︑訂正する︒
分担
一︑光谷拓実
二〜五︑永井規男・菅澤 茂