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平成二十九(二〇一七)年度 日本及び東洋美術の調 査研究報告

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Academic year: 2021

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平成二十九(二〇一七)年度 日本及び東洋美術の調 査研究報告

著者 中谷 伸生, 日本東洋美術調査研究班

雑誌名 関西大学博物館紀要

巻 24

ページ 75‑110

発行年 2018‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/16447

(2)

八九

金子雪操筆・後藤松陰賛《春秋山水図》

猪  瀬  あゆみ

はじめに  金子雪操(寛政六・一七九四~安政四・一八五七年)は江戸で生まれ、大坂で活躍した文人画家である。まだ詳細な研究は進んでいない画家ではあるが、本研究では後期の作品と考えられる《春秋山水図》(関西大学図書館所蔵)【図

及したい。 家・後藤松陰(寛政九・一七九七~元治元・一八六四年)に関しても言 1つにに儒たえ添を賛作品い】こた、る。ます考察ての

一、金子雪操の略歴

  まず初めに、雪操の略歴に関する主な資料を、刊行年が江戸時代のものを中心に挙げていく。関連資料・刊行年については、井渓明氏「大坂画人略伝」(『江戸時代における大坂画壇の研究』関西大学文学部哲学科、二〇〇一年)を参考にした。

   ①『浪華風流繁昌記』下之巻(天保四年・一八三三)

  雪操  吹田村  金子氏(通名録)

  雪操金子氏名ハ大美字ハ孟玉又各半道人ト号ス吹田ニ寓シテ翠陀小隠 ト号ス   ②『続浪華郷友録』(天保八年・一八三七)

  金子雪操  北新地桜橋

   ③『新撰浪華名流記』(弘化二年・一八四五)

  雪操  金子大美字不言号各半又有情痴者専南宗江戸人

   ④『浪華名流記』(安政三年・一八五六)

  金子雪操  名美字不言通稱六蔵又有塵海漁者各半有情痴者之諸號以寛政甲寅生江戸人初受畫訣於雪齋増山老侯受詩學於窪天民後祖元四家以隠逸自仕畫亦自有髙致今寓鳴坊第一街

   ⑤『浪華擷芳譜』(安政四年・一八五七)

  金子大美字不言號雪操又塵海漁者金翁諼叟荏土人住島街

   ⑥『浪華名家墓所集』(万延元年・一八六〇)

  画  雪操  江戸の産大坂上町に住を文人画に巧みにして其名世に鳴る

  (⑦

『浪華名家墓所記』(明治四十四年・一九一一)では、「雪操(狂歌師)  吹田の産、大阪上町に住す、文人畫に巧にして其名声を鳴る」とあり、なぜか狂歌師・吹田生まれになっている。本文のなかで編者の宮武外骨が、再三なる書写を経て誤字が多いことを指摘しており、雪操の略歴が時代を経て誤って写された可能性が考えられる。

  その他、明治以降の資料では、『浪華人物誌』(明治三十七年・一九〇四)、『大阪人物誌』(大正十五年・一九二六)に詳細な略歴が掲載されている 。特に『浪華人物誌』には、最も詳細な略歴が掲載されているため、この本を主な典拠として、彼の略歴を簡単に紹介したい。また、雪操について、田中敏雄氏の研究が存在しこれを参考にした

(3)

九〇

  金子雪操、本姓犬塚、名は大美、字は不言又は孟玉、通称六蔵、雪操以外にも各半道人、有情痴者、美翁、塵海漁者、金翁、謑叟、翠陀小隠などの号を使用した。寛政六年(一七九四)に江戸の犬塚姓に生まれ、金子氏へ養子に入り、幼い時に伊勢長島藩主・増山雪斎(一七五四~一八一九)に仕え絵画を学び、雪操の号を授けられた。この犬塚姓については、田中敏雄氏が学者・犬塚印南と何らかの関係があること、また絵画を学んだのは享和八年(一八〇一)・雪操八歳以降であることを推測している。その後、越後の釧雲泉(一七五九~一八一一)に山水の法を学び、画力を上げていく(田中敏雄氏は雪操十八歳の頃と推測)。中年京都に住み書法を加茂家に、また漢詩を釧雲泉の門人 である大窪詩仏(一七六七~一八三七)に学び、一時期金沢へ随行したようである。そして大坂の堂島桜橋に住居を構え、貧しいながらも悠々と画事に励んだ。特に藤澤東畡(一七九四~一八六四)や八木巽処(一七七一~一八三六)と親しかったようである。

  天保八年(一八三七)には、吹田の井内左門に招かれて八・九年間住んだ。来阪時期について田中敏雄氏は、天保四年(一八三三)版『浪華風流繁昌記』には雪操の名がなく、八木巽処の没年(天保七年・一八三六)から、天保五・六年頃と推測している。しかし、資料①(一八三三)をみると、「吹田渡頭図」とともに名が掲載され、「吹田村」在住となっている。この資料を信用するならば、吹田から大坂に戻ってくるのが遅くとも『続浪華郷友録』(北新地桜橋在住)により天保八年(一八三七)となり、雪操は少なくとも文政十一年(一八二八)には吹田に招かれていることになる。『浪華人物誌』の典拠となる資料が誤っていたのだろうか。 ただし、雪操は吹田在住時に「翠陀」の号を用いたとされており、天保十年(一八三九)制作の作品(【図

)て陀」の落款を用いた作品にし関は、こる。す吹田滞在期とにう扱てしと を翠「るせさ想連田と(るこ吹はできない。こ言の論文では、作品にす 9断めたるいてい用を「翠陀」に、】)

  吹田から戻った雪操は、釣鐘町や島町に住み、安政四年(一八五七)八月五日に歿する。墓は四天王寺東門の清寿院にあり。

  現在雪操に関する資料が多く遺っているわけではないが、前述の資料③、⑥より、当時文人画家として認識されていたことがわかる。また、谿季江氏によって、長崎派風の花鳥画、円山四条派、仏画と幅広いジャンルの作品を描いたことが指摘されている 。そのほか『浪華人物誌』のなかで、青緑山水の法を努力の末に修得したとされる山水図は、画帖も含め現在十数点遺っている

二、作品・後藤松陰との交遊関係

  今回とりあげる関西大学図書館所蔵《春秋山水図》には、雪操の落款や印章はなく、後藤松陰の賛により雪操の作品であることが明らかになる。作品については、以下のとおりである

  《春秋山水図》

(双幅)  関西大学図書館所蔵

   紙本墨画淡彩、各一三二・三×四八・一㎝

   (春景山水図)【図

2】   「松陰」

(朱文長方印)

(4)

九一   次に、後藤松陰の略歴について紹介したい。金子雪操の資料と同じものに関しては、資料①というように該当番号を付与する。   『続浪華郷友録』(文政六年・一八二三)

  兼山  儒業  名機字世張俗称後藤俊蔵住高麗橋魚之店

   資料①  上之巻

  松陰  海部堀  後藤俊蔵(通名録)

  松陰後藤氏名ハ機字ハ世張マタ鎌(金+兼の俗字)山春草等ノ号アリ儒ヲ以て業トス

   資料②

  後藤松陰  海部堀  後藤春蔵

   資料③

  松隂  後藤機字世張号春草稱春藏美濃人寓南江戸濠

   資料④

  後藤松陰  名機字世張一號春草通稱春藏以丁巳生美濃人其學出程朱初學賴山陽今寓柁木街

   資料⑤

  後藤機字世張号松隂又春草住梶木街

   資料⑥

  儒  後藤兼山  名機字世張元治元年甲子十月十九日没天満東寺町天徳寺

  (資料⑦

では、「後藤兼山」と「後藤松陰(儒家)」が、別項目で記載されている。)

(墨書)人後藤機題己未嘉平月十又九日也」    「隠対間主陰松景春翁故操雪占笑相居長松山春藹外門料詩多仰俯鎮

  「機」

「長」(白文方印)

   (秋景山水図)【図

3】   「松陰」

(朱文長方印)

  (墨書)穐景六十三翁松陰機」雪操翁    「晴数檻魚堪故題月平嘉未己政安山渓陽夕俯洗浄旦明粧如湾一碧眼

  「機」

「長」(白文方印)

  (春景山水図の裏・軸付近に、

「雪操春秋雙(幅)□(故)於故□中考可施題跋赤松栗□金子之書」と墨書あり【図

風が賛と類似しているため、後藤松陰が記したものだろうか。) 4】。「雪操」や「故」の書

  賛の内容から雪操歿後に、松陰が五言絶句とともに安政六年(一八五九)十二月十又九日・六十三歳のときに記したことがわかる。春景では、松の間に隠居すると、詩材となるものが多く俯仰し、屋外の草木が生い茂る春の山をみていると、笑みがこぼれるという春の穏やかな様を詠み、秋景では、欄干で魚を数え、周りは晴れた渓谷と碧い入江、また清らかな夜明けのような眼が洗われる夕陽の山の景色という静謐な秋の様子を謳った。雪操は安政四年八月五日に亡くなり、松陰は元治元年(一八六四)六十八歳で歿しているため、この賛の内容と一致する。雪操が亡くなってから二年後に松陰が筆をとったことになる。雪操の画と松陰の賛を合わせてみることで、より深くこの《春秋山水図》を堪能することができる。

(5)

九二

  後藤松陰、名は機、字は世張、通称春蔵または俊蔵、初めは鎌山、兼山と号し、後に松陰、春草と号す。寛政九年(一七九七)美濃大垣に生まれ、はじめ皆川淇園の門人・菱田穀斎(一七八四~一八五七)に師事。頼山陽(一七八〇~一八三二)の門に入り、篠崎小竹(一七八一~一八五一)を頼って大坂に移る。同年篠崎小竹の娘まち(町子)と結婚、娘婿となる。海部掘、梶木町などに住み、私塾「広業館」を開いた。当時、「文は松陰、詩は広瀬旭荘」と謳われ、春のごとく穏やかな人柄であったという。元治元年(一八六四)十月十九日・六十八歳で歿す。墓は天満東町天徳寺にあり。著書に『好文字』、『松陰亭集』、『三体詩』、『春草詩鈔』、『評註山陽詩鈔』、『竹窓荷浄書屋集』などがある

  後藤松陰は、浦上春琴や江馬細香の関連書簡からも、当時の画家たちと交流していたことがわかっているが 、現在のところ、雪操と関わりがあったことを示すのはこの作品のみである。同時代を生きた雅人たちであるため、何かしらの交流があったことは容易に考えられるが、もう少し雪操と松陰の接点を探ってみたい。

  まず住居に関しては、藤本篤氏によると、文久元年(一八六一)の書簡より、堂島に住んでいたが再び梶木町の旧宅へ戻ったことがわかっている(時期は不明) 。雪操も、資料②より天保八年(一八三七)には堂島に住んでいるが、文久元年頃は既に亡くなっている(松陰はその他、高麗橋魚之店、平野町中橋西、海部掘、江戸掘、梶木町に住んでいた)

  次に、共通の知り合いがいたかどうか考えてみる。『大阪人物誌』の雪操の項目をみると、「当時篠崎小竹の名府下に噪しく文墨の客之に交わら ざる者なし。雪操独り其門叩かず…」とあり、松陰の師である篠崎小竹とは交流がなかったようである。雪操は、物や周りのことに頓着しない人物だったことが、『浪華人物誌』や『大阪人物誌』からわかっている。そこで、自ずと浮かび上がってくるのが木村蒹葭堂(一七三六~一八〇二)の存在である。当代随一の文化人である彼は、幅広い交遊関係を持っていた。雪操が親しかった八木巽処の師は蒹葭堂であり、師の増山雪斎は、木村蒹葭堂が寛政二年(一七九〇)財産没収の罪を負ったときに庇護した重要人物である。また、釧雲泉も蒹葭堂を訪ねたことがわかっている。そして、松陰の師である頼山陽や篠崎小竹も、蒹葭堂と交流を持っていた。木村蒹葭堂が当時文化サロンのような役割を持っていたことは既に明らかになっているが、このような雅人たちの交流のなかで、松陰が雪操とつながりを持ったか、あるいは雪操歿後に賛を記しているため、この作品の所有者に松陰が賛を頼まれたことが考えられる。  次に、具体的に作品をみていく。雪操は、増山雪斎と釧雲泉から学んだことは前述のとおりだが、増山雪斎の《黄初平図》(関西大学図書館所蔵)【図

【図に《春景逸思図》の釧雲泉たる。まれらみが類似点 5岩い右幅】の岩の苔の筆遣や、の墨線で描法るす表現・表面を

【図を眺める人物を描ているい まず雪操の春景をみると、色は使わずに墨のみで描き、画面右下には外 がらの影響ら感じれる。師かにてきへと延び現いそへうな山の空間表上 6上と、るみを】

現表【図 7】。画面右上の空白を用いた渓谷の奥行

【図図》 8「・は、水山秋春《作制年十八翠保】たい用を款落の」陀天

9こ画面左のる。本作品きでがとる】みもに画面構成の左幅のの

(6)

九三 山が、窮屈そうに今にも上に伸びていきそうな躍動感のある描き方になっており、点苔法を用いて、春の草木の生い茂るさまが表現されている。また秋景をみると、画面真中にある入江の波間が、線を用いた特徴のある表現になっている【図

雲寺蔵)【図 10】。この描法は、天保十年頃制作《山水図》(紫

【図りおれか描にうよくびな 上部に家屋がひっそりと描かれている。画面右下・人物の衣服が風にた 11はる。まの波間にもみられた色付遠方の山画面れ、さ】け

ができる作品となっている。 12全体的に夕暮れの静】、さを感じることけ

  本作品の制作年は不明であるが、天保十年制作【図

品と推測することができる。天保後期以降の制作といえよう。 作品・秋景山水図の山肌が同じような筆遣いで描かれおり、同時期の作 9】の左幅と、本

  雪操の画業について、谿季江氏は、天保十年(一八三九)前後を境として、画風が変化すると述べている 。雪操が「翠陀」の号を用いた吹田滞在と考えられる期間は、彼にとって重要な滞在期間だったといえる。例えば、関西大学図書館には、制作年不明の《春景山水之図》【図

《青柳山水図》【図 13】、

14】が所蔵されている。本作品と比較すると、【図

大美」の落款が用いられた【図 固く未熟な作品といえよう。しかし、吹田滞在期と考えられる「翠陀金 は人物や遠方の山の描き方に類似性を感じられるが、全体的に筆遣いが 13】

天保後期以降の作品として位置づけたい。 い知ることができる。以上のことから、本作品は、画力が安定してきた れる。雪操が修練を積み、技術を向上させていったことが、ここから窺 致と、画面に奥行が感じられるようになり、明らかな画力の飛躍がみら 14】になると、絹地を活かした濃密な筆 遣いの山水図と比較しても、これが雪操の独自性だといってよい。 だと感じることができる。同時期の岡田半江にみられる、潤いのある筆 徴が、濃密な筆致で描く風景描写と、画面からあふれ出る自然の躍動感 画業を充実させていった。そして、本作品をみたときに、雪操絵画の特 時の長崎派・四条派など様々な画風の影響を受けながら、前述のとおり 蘋の影響を受け、写生的な花鳥画などを描いた人物であるが、雪操も当 用うわ思にてよるいる。いれ指摘」とをしている。師の増山雪斎は、沈南 く、西洋的遠近表現言及かについてかるなすで、は「従来な何で遠近法の (天保十四年制作)た時期である。田中敏雄氏は、雪操の《山水図襖絵》 りも、画家同士が交流を持ちながら個人で活動していた文化背景があっ のような町人が文化活動を支持した。狩野派のような組織体制というよ 。文人画家の数は、増加していき、木村蒹葭堂るの時期に名を挙げてい 坂画壇の「安定期」と捉え、岡田米山人・半江親子等と共に、雪操もそ か。武田恒夫氏は、十九世紀初頭の文化期(一八〇四~一八)頃から大   雪操が活躍した当時の大坂画壇は、どのような時期であったのだろう おわりに

(7)

九四 ①  国立国会図書館デジタルコレクション『浪華名家墓所集』(写本)を参照した。②  その他参文献・『稿本大阪訪碑録』(浪速叢書刊行會、一九二九年)、『日本人名大事典  覆刻版』(平凡社、一九七九年)、『日本歴史人物事典』(朝日新聞社、一九九四年)、『大阪墓碑人物事典』(東方出版、一九九五年)、『大阪人物辞典』(清文堂出版社、二〇〇〇年)③  田中敏雄「金子雪操筆  山水図襖絵について」『近世大阪画壇の調査研究 Ⅱ』大阪市立博物館、二〇〇〇年、二四~三一頁。人物の生没年は、『関西大学所蔵大坂画壇目録』(関西大学図書館、一九九七年)、佐々木丞平・佐々木正子『文人画の鑑賞基礎知識』(至文堂、一九九八年)、『大坂画壇の絵画

文人画・戯画から長崎派・写生画へ

』(関西大学図書館、二〇〇六年)を参照した。④  前掲書③、佐々木丞平・佐々木正子、一八六頁。⑤  谿季江「吹田ゆかりの文人画家  金子雪操の画事

山水図を中心に

」『関西大学博物館紀要』一四号、二〇〇八年、一五~二四頁。⑥  前掲論文⑤(谿季江、一六頁)、田中敏雄「大阪芸術大学図書館所蔵  大坂画壇の画家の作品について」(『大阪芸術大学紀要』三五号、二〇一二年、一三四~一三六頁)。⑦  落款・印章・賛・寸法は、『関西大学所蔵大坂画壇目録』(前掲書③)を参照した。⑧  略歴は、『浪華人物誌』、『大阪人物誌』、『大阪墓碑人物事典』、藤本篤「山崎僊司あて後藤松陰書状」(『大坂の歴史』一〇号、一九八三年、八五~一二〇頁)を参考にした。⑨  平野翠「後藤松陰の書簡」(『大阪府立中之島図書館紀要』第一五号、一 九七九年、五八~六四頁)、『類聚名家書簡次扁  図版コ~ノ』(日本書誌学大系、青裳堂書店、二〇一六年、二九頁)。⑩  前掲論文⑧、藤本篤、一〇七頁。⑪  前掲論文⑧、藤本篤、九一頁。⑫  前掲論文⑤、谿季江、一八頁。⑬  武田恒夫「近世の大坂画壇」『近世の大坂画壇』大阪市立美術館、一九八一年、八八~九〇頁。⑭  前掲論文③、田中敏雄、二七頁。

図版出典【図

1~ 4・ 7・ 8・ 10・

【図 12】筆者撮影

【図 5】『大坂の書と画と本』関西大学図書館、一九九七年 図【 6々基佐年八九九一、堂文至』識知礎賞木】の画人文『子正木々佐・平丞鑑 9・

【図 九二年 11世所近九一館、物博市堺』

名の・】『風・水山

人画阪大景 13・ 14】『関西大学所蔵大坂画壇目録』関西大学図書館、一九九七年

(8)

九五

図 1 ・春景山水図 図 1 ・秋景山水図

図 2 図 3

図 4

図  版

(9)

九六 図 5 ・右幅

図 9 ・右幅 図 6

図 9 ・左幅 図 7 ・部分

図 8 ・部分

(10)

九七

図11 図13

図14

図12・部分 図10・部分

参照

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一一 Z吾 垂五 七七〇 舞〇 七七〇 八OO 六八O 八六血

この点、東レ本社についての 2019 年度及び 2020

〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」

〔付記〕

「地方債に関する調査研究委員会」報告書の概要(昭和54年度~平成20年度) NO.1 調査研究項目委員長名要

本報告書は、日本財団の 2016

本報告書は、日本財団の 2015