• 検索結果がありません。

戦後教育改革の中の柳田国男

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "戦後教育改革の中の柳田国男"

Copied!
13
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

戦後教育改革の中の柳田国男

張 国生

はじめに

 「国民総体の幸福」(『農政学』)と「弘く人間 の知識の水準を高めること」(『木綿以前の事』)

を学問の目的にした柳田国男は常に民衆の教育 への関心を持っていた。柳田は民俗学的視点か ら教育をとらえながら、古くから続けられてき た民衆による自然な前代教育法を掘り起こそう とし、それを顧みない現代学校教育の改革を唱 え、「物言ひ」教育「一人前」教育、「史心」を 養成する教育、疑問を大切にする教育などを主 張していた。これらの教育に対する思いは戦後 における氏の教育実践によって開花したのであ る。本稿は、終戦直後の日本教育改革において、

柳田国男の教育的活動、教育改革に対する提言 及び柳田社会科の成立過程を考察し、教育改革 者柳田国男像を浮き彫りにしてみるものであ

る。

1.新しい日本のために

(1)「働かねばならぬ」

 第二次世界大戦終戦後、日本では、民主主義 教育改革が進められ、新しい教育がスタートし た。教育改革は、教育理念、教育行政、教育財 政、学校制度などにわたって行われたが、その 中では、教育課程の改革は、広範な教育研究者 と実践者によって実現された。そして、社会科 という全く新しい教科の成立は、新しい教育実

践の本領を現わした。社会科の成立と展開をめ ぐって、カリキュラム改造運動として各地の学 校で行われた。例えば、地域教育計画の「川ロ プラン」、地域学校の「桜田プラン」などが次々 と発表された。こういう教育的変革の中で、民 俗学者、教育学者の柳田国男は精力的な教育活 動、教育改革に対する提言及び柳田社会科を以 て、日本の民主主義教育改革とそれ以後の教育 事業に大きな貢献をした。

 その日本民族にたいする愛情を学問にとかし

て、日本国民を幸せにする学問である民俗学を

開拓した柳田国男は、その学者の目でずっと戦

争の成り行きを見守っていた。堀一郎の話によ

ると「戦争末期に、極端に刹那的な戦局の話や

戦災の絶望的な噂さ話を嫌われた先生は、すで

に遠い戦後の日本に思いをはせ、精神的支柱を

失って崩壊し去るかもしれぬ民族と祖国の将来

を、深い憂いをもって日夜考えつづけて折られ

たことは、幸いに近くに住み、親しく接してい

た私にはよく分かった」1)とあるように、戦後の

日本、将来の日本に対する思いと、日本への自

分の果たすべきことをも考えていたのであろ

う。そして、世の中の人々が虚脱と混迷の中に

迷っていたとき、当時満70才の柳田は、「いよ

いよ働かねばならぬ世になりぬj2)と自分を激

励した。つまり、日本が戦争によって困難な現

実に陥られたときに、日本の再建と将来を考

え、その学問によって、新しい日本に尽くし、

(2)

国民を幸せにするために、「働かねばならぬ」と 決心し、奮い立ったのである。

 「十年植樹、百年人間を育てる」という古来の 格言が示しているように、教育という作業は、

長い年月を要する事業である。終戦直後、日本 の面する課題はなによりも国の再建と民主的政 治改革であるのは言うまでもない。しかし、柳 田は、国を幸せにしたい民俗学者として、特に、

一人の教育学者として、もう、十年、二十年以 後のことを考えていた。戦争中から、もう日本 の将来を考えていた柳田は、戦後になって、教 育学者の目で、日本の将来を見、戦後教育の重 要性と緊迫性を痛感したのである。B本人の精 神を一新させる「百年人間を育てる」教育の改 革が、戦後日本における重大な課題であるとい う認識から出発して、柳田国男は、次の世代の 事、子供の将来を配慮して、新しい教育投身し

た。

 柳田の行動はまず学校現場の調査から始まっ た。「炭焼日記」によると、1945年(昭和20)10 月29日、柳田は孫の清彦をつれて、近所の小学 校を回り、「小学校のやけあとを初めて見る」。

11月10日、孫の清彦を連れて成城学園に行き、

「久しぶりに少年少女の群れて遊ぶのを見る」。

11月19日、「学校の中をあるいてかへる。体操 研究所の下も焼かれている」3)。

 1946年(昭和21)の1年間の間に、柳田は子 供のために多くの読み物を書いた。1月、「蟻地 獄と子供」(『定本』19)『鍛会速報』に発表。4 月から、児童科学雑誌『科学朝日』のために「棒

の生い立ち」(4月)、「味のある三角」(6月)、「自 在鈎」(7月)、「麻」(8月)、「かまど」(12月)な

どを口述した。5月、「生まれる言葉」(改題「ボ クとワタクシ」『定本』19収録)を児童雑誌『赤

とんぼ』に発表した。7〜9月、「謎と諺」(『定 本』21)を成城学園初等学校の研究誌『教育改 造』に発表した。7月、単行本『毎日の言葉』

(『定本』19)を出した。

(2)教育方法の改造

 終戦直後に始まった民主主義政治改革と教育 改革の背景の中で、柳田は教育改革の重要性を 改めて痛感したのである。柳田は、後に(1947 年)発表した「現代科学といふこと」という論 文の中で次のように述べている。

  「根本の原因は此のごとく、次から次へと考えら

 れるものがあったのみならず、その一つ一つも亦  他の色々の事情を複合していた。たとへば教育の  方法である。教育はいかなる場合にも必ず元の群  れから出てしまひ、以前の自分たちと同じ者を食  ひものにし、又は少なくとも彼等を家来にしよう  とする。いつになつても我々は全体の地位を高め  ることが出来ない。寧ろ従順なる少しも批評をせ  ぬ民衆を、成るたけ多く抱へて置かうとしたこと  は、政党全盛の時代とても同じことであった。今  回の如き大破綻こそは予期し得なかつたが、一つ  一つの場合を考えると、少なくとも斯うなりやす  い傾向だけは、よほど夙くから認められたので

 あった。」4)

 ここの大破綻はまさに敗戦のことである。柳 田は戦争と教育との関係をめぐって、戦争と敗 戦を招いた大きな原因の一つに「教育の方法」

があったと分析し指摘していた。柳田はまた 丁喜談日録』でついて次のように指摘している。

  「今までの所謂軍国主義を、悪く言わねばならぬ

 理由は幾つでも有るだろうが、ただ我々の挙国一

 致を以て、悉く言論抑圧の結果なりと、見ること

 だけは事実に反して居る。独り利害の念に絆され

 やすかつた社会人だけでは無く、純情にして死を

(3)

 だも辞せざる若い人たちまでが、口を揃へてただ  一種の言葉だけを唱へ続けて居たのは、勿論強ひ  られたのでも欺かれたのでも無い。言はば是以外  の思ひ方言ひ方、修練するやうな機会を与へられ  なかったのである。一方には又或少数者の異なる  意見といふものは、国に聴き方の教育が少しも進  んで居ない為に、抑圧せられるまでも無く、最初  から発表しようとする者が無かったのである。斯  ういふ状態がもしもなほ続くならば、どの様な不

 健金な挙国一一コL致が、是から後にも現はれて来ぬと

 は限らず、歴史に忍び難い悔恨の数十頁を留める  ことは、必ずしも是をただ一度とするわけには行

 かぬかも知れない。」S

 ここで、「是以外の思ひ方言ひ方を、修練する やうな機会を与へられなかった」教育は「不完 全な挙国一致」に導いたことと、柳田は指摘し、

「悔恨」が二度と来ないために、従来の教育方法 の改革の必要性を指摘していた。

2.教育改革への提言

(1)国語教育改革への提言

 1945年(昭和20)10月12日、柳田は、雑誌

『展望』の記者に国語教育を戦後自分の最大の 仕事の…つとしてあげた。そして『展望』の創 刊号のために書いた「喜談日録」の中では、次 のように書いている。

  「言論の自由、だれでも思つた通りに言へるとい  ふ世の中を、うれしいものだと悦ばうとするには、

 先づ最初に『誰でも』といふ点に、力を入れて考  へねばならない。もしもたくさんの民主の中に、

 よく口の利ける少しの人と、多くの物が言へない  人々とが、入り交つて居たとすればどうなるか。

 事によると一同が黙りこくつて居た前の時代より  も却つて不公平がひどくなることがあるかも知れ

 ない。」6)

 「誰でも」平等に教育を受け、「誰でも」平等 に国のことについて発言できるということは柳 田の願いであった。そして、教育を通してこれ を実現させるのは、自分にとって何よりも重要 な任務だと考えたのであろう。以上の発言か

ら、柳田国男の民主主義的教育観が伺われたの である。戦後の日本社会は、民主的な社会に なったから、国民は「誰でも」平等に生きる。そ の平等といえば、政治、経済などの面だけでな く、教育をも平等に受けられなければならな い。よく話せる人とよく話せない人が入り交っ ていると、不公平だ。なぜなら、もう、「一同が 黙りこくつて居た前の時代」ではなかったから である。言語生活の面でもみんな平等であるよ うに、柳田はその願いを国語教育に託したので

ある。

 戦後、柳田の教育思想の核となるものは、「よ き選挙民を育てる」だと言えよう。柳田はこれ をふまえて実践していた。歴史教育と社会科教 育では、「史心を持った選挙民」を目標にし、国 語教育でも「よき選挙民をつくりあげること」

を目標にしていた。そして、国語教育において は、目標の達成の為に、柳田は「話し方教育」を 選んだのである。1gca年(昭和21)5月3日、柳 田は、自宅で、成城学園の柴田勝ほか四人と話 し方教育の実践について討議をした。それ以 後、毎週木曜日に話し方教育の研究会を開くこ とにした。さらに、11月の「国語教育学会戦後 再興発会式」で『これからの国語教育』(r定本』

18)を講演した。この時、柳田は「国語教育は、

どうしても話方から始めなければなるまい」η

ということを強調した。国語教育の目標は「よ

き選挙民をつくりあげる」だから、選挙民とし

(4)

ては、候補者のいうことを正確に判断しなけれ ばならない。だから、聴く能力、読む能力、話 す能力の養成は国語教育の大事な作業である。

戦前の国語教育は、「口真似をさせる」教育であ り、個人の正しい判断力の育成を妨げた。国民 が惑わされて戦争に駆り立てられたことには、

教育に欠陥があったからである。柳田は以上の ような考えにから国語教育の改革に提言した。

後に、柳田は国語教科書の編集、国立国語研究 所の評議員などをし、国語教育に尽くしていた

のである。

(2)歴史教育改革への提言

 国語教育の外に、柳田は歴史教育にも熱意を 示していた。総合教科としての社会科が成立す る前に、柳田は歴史教育の改革について多く発

言した。

 1945年(昭和20)12月、歴史の授業は地理と ともに停止され、教科書の改定が進められてい た。1946年(昭和21)10月、文部省編集小学校 用の歴史教科書『くにのあゆみ』が刊行され、

歴史の授業が再開された時、歴史教育に情熱を 傾けていた柳田は早速反応を示した。10月28日 に、「歴史教育の使命一『くにのあゆみ』に寄 す」(r定本』未収録)をr毎日新聞』で発表し た。柳田は教科書廃止の持論をもっていたが、

当時の状況を配慮して「新教科書を通覧する と、固有名詞や年代を思ひきつて少くしたのみ ならず、かなり改良苦心の跡がみられ、よくこ れだけ書けたものだ」と評価しながら、歴史教 育と教科書の改善を求めた。柳田の意見は主に 次の5点であった。

 ①現在から過去へ遡る歴史記述の採用  ②暗記学習廃止のため無試験制度の導入  ③生活文化内容の充実

 ④近世以降の歴史の重視

 ⑤教科書の絶えず改定と民間による教科書編

集の奨励8)

 以上の提言からは柳田が戦前から唱え続けて きた歴史教育改革への思いが伺われた。しか し、柳田の歴史教育論が戦後教育改革期におい て開花したのは、氏の社会科教育の実践である 柳田社会科であった。

3.社会科に寄与して

 社会科は、従来の地理、歴史、公民を統合し た総合教科として登場すると、多くの教育関係 者の注目を浴びた。終戦直後、「働かねばなら ぬ」と決意し、自分の学問を教育に寄与しよう とする柳田国男は、もっとも社会科を歓迎した 一人であった。1946年(昭和21)10月、文部省 が社会科委員会を設置して、社会科を構想する

「コース・オブ・スタディズ(学習指導要領)」お よび教科書づくりを検討する段階に入った時、

柳田はもう強い関心を示した。社会科発足の動 きに応じて、1947年(昭和22)2月、柳田は『教 育文化』に「歴史を教へる新提案」(「一つの歴 史教案」と改題し、『定本』31に収録)を発表し た。この「歴史を教へる新提案」で、柳田は、教 科書統一化の否定と合科学習、統合教科の設置 などと教育行政について文部省に提言した。当 時の文部省にとって、柳田のこの発言はどれほ ど影響を与えたかは、もう調べようもないが、

後に、設置された社会科および教科書編成制度 から見れば、柳田の提言どおりであったと見ら

れている。

 1947年(昭和22)4月、「学習指導要領・社会

科編」が公布され、9月に社会科が実施される

ことになった。柳田は、それに応じて二つのこ

(5)

とをやった。一一つは民俗学研究所の設立であ る。5月24日銀座で開かれた研究所世話人会に おいて、柳田はその挨拶で、研究所成立の理由 を三つ上げた。その第3の理由について次のよ うに述べている。

  Fこの第三の理由は諸君もすでに御認めであろ  う。日本の普通教育にはこの四月から、小学校の  歴史科がなくなった。戦争がもたらした最も大き  な結果の一つである。是れに代つて設けられる社

 会科といふものは、米国などの例を聴いて見ると、

 あんな新国でもやはり歴史を包含して居る。三つ  の構成分子といふことが明示せられて居る。我邦

 の『歴史』といふ名称だけが除去させられたので、

 実質上の歴史を子供に教へてはいけないといふ意

 味では無いのであった。(中略)危ぶまれることは

 嬉しくもないが、こちらは是でほぼ社会科の全部  がまかなはれる位に思つて居る処だから、是を自  分の立場を説くまことに好い機会だと、悦ばずに

 居られないのである。」の

民俗学研究所の成立は、柳田国男が終戦直後 に考え付いたことで、若手民俗学研究者に資料 と研究の場を提供し、『郷土生活研究所』の事業 と『木曜会』の歴史を継承するためである。し かし、柳田が急いで研究所を設置したのは、新 しい教科である社会科の登場を配慮し、民俗学 と対応させ、研究所を中核した民俗学研究の発 展によって、「社会科の全部をまかな」おうとし たからである。研究所は、民俗学研究に大きく 寄与したのはいうまでもなく、柳田の目指した 社会科教育の研究と実践の発展のためにも、重 要な役割を果されたのである。

 もう一つは、二回にわたった成城学園初等学 校の教師たちとの座談会である。この座談会 で、柳田は、社会科を「世の中」、「史心」教育

と位置付け、授業の内容についても、具体的に 話した。これはこれから成城学園初等学校にお ける社会科教育の研究と実践に対して大きく寄 与した。座談会の内容は、後に、「社会科の新構 想」にまとめられ刊行された。「社会科の新構 想」は柳田社会科の出発点となるものである が、初期社会科の成立に対して、一つの思潮、

一つの実践として、大きな役割を果たしたので

ある。

 柳田国男の教育活動は、立体的なものであっ た。教育現場、研究所、研究会のほかに、「上」

での活動もすさまじかった。

 1947年(昭和22)7月5日、柳田は文部省の 社会科担当官である勝田守一、豊田武、塩田嵩、

宮下三七男を招き、研究所のメンバーも同席さ せ、「文部省社会科関係者との座談会」(『社会科 の諸問題』に収録、昭和24年刊)を開いた。座 談会で、柳田は文部省内における社会科教育へ の取組状況と問題点を聞き、自分の社会科に対 する主張を話した。柳田は中央集権的な画一教 育の否定、郷土学習、近世史の重視、「倒述式」

歴史学習、子供主体の質問重視学習、農村の実 態の教材化などを提案した。この座談会では、

柳田が直接教育行政官に意見を出したが、残念 ながら受け入れられらなかった。座談会は意見 不統…のまま終ったが、柳田の社会科に対する 情熱は下がるどころか、もっと意気込むように

なった。

 1947年(昭和22)10月、国の教育政策に参画

しながら、文部省内で社会科教育を行政の面か

ら携わるために、柳田は文部省社会科教育研究

委員に就任した。この時、日本社会科教育研究

会が設立された。新しい教科である社会科の普

及と発展を図り、研究と実践の指導をし、戦後

(6)

の教育に大きく役に立たせることは、この研究 会設立の目的である。もちろん社会科に大きな 期待をかけている柳田は、参加しないわけには いかなかった。

 敗戦によって、日本の古くからの教育の「鋳 型」(「『民俗学辞典』序」1951)がこわされた。

初期の社会科教育の実践では、いろいろな民間 による教育実践が相次いでいたが、例えば、川 ロプランを代表とする地域教育計画運動が、全 国に広がっていたことである。この運動は、戦 後教育改革と模索期において、一つの民間教育 の動きとして、一定の歴史的な役割を果たした のであるが、問題点もあった。川ロプランを注 目していた柳田は川ロプランは注入式教育に陥 る危険があり、政治的イデオロギーに支配され る危険性があると認識し、「川口市のやうな特 殊な事情をもった郷土の教育法に、御手本を得 ようとするが如き人が、斯う沢山に有るやうで は、私たちの頼りとする次の代の国民の、幸福

が危ぶまれます」1°)と警鐘を打ち鳴らし、「国民

が白紙で学校を出て、批判の出来る人間として 世に立ってほしい」11)と提言したのである。

 しかし、川ロプランは、1948年から1949年

(昭和23年〜24年)にかけて、全国的な教育実 践のモデルとなった。つづいて、福沢プラン、

北条プラン、本郷プランなどの民間教育計画実 践が出現していた。1949年(昭和24)に入って から、川ロプランを代表とする地域教育実践運 動は下火になり、それに代わって、新しい模索 としてのコア・カリキュラム運動が全国教育界 を風靡しはじめた。

 この時、戦後の新教育、特に、新教科として の社会科教育に大きな期待を抱いている柳田国 男は、現われてきえる各種の実践プランに振り

回されること、あるいは、アメリカの直訳的教 育の奔流の中へ身を委せるようなことを防ぐた めに、社会科教育の「鋳型」づくりを当面の急 がなければならない任務だと考えていた。この 社会科教育の「鋳型」は、後に成立した「日本 人のものの考え方や、習慣及日本文化の発展に ついて」12)考えさせ、学習させる柳田社会科そ のものであった。

4.柳田社会科の成立過程

(1)柳田国男と成城学園

 柳田社会科が1947年(昭和22)にr社会科の 新構想』でスタートした出発地は、成城学園で あった。柳田社会科の発足と展開そして現在の 見直しというと、成城学園とは離れない。それ で、先ず、柳田個人と成城学園の関係を述べて

おく。

 柳田と成城学園の創立者澤柳政太郎との関係 について、為政氏が次のように回想している。

  「学齢期に達した不肖の入学先としてこの学校が

 選ばれたのは、両親はのちのち『電車通りを横切  らずに徒歩通学ができる』という安全第一の点を  強調していたが、実は澤柳先生への信頼と期待と  があってのことと察せられる。父国男にとっては

 年齢からも大分先輩に当たるが、いわゆるr薩長』

 勢力がいまなお中央官界を牛耳っていたときとし  て非主流官人キャリヤーの先導たる先生は、骨の  髄まで開明派的な日頃の発想と併せて、父の信頼

 する御人だったはずである。」13)

 1927年(昭和2)4月、柳田父子は学園から分

譲された土地に書斎を新築して住むようになっ

てから(現在の世田谷区成城6の15の13)、成

城学園は教育者としての柳田の活動する重要な

場となった。成城学園における柳田国男の教育

(7)

的活動は、竹F昌之(成城学園初等学校)のま とめた年表によると以下の通りである。

・1928(昭和3)年2月3日

 成城高等学校で「日本における漢字につい  て」を講演。

・同年5月16日

 成城学園母の会で「ウソの歴史」を話す。

・1931(昭和6)年5月25日

 柳田国男の「民俗に就いて」の講演会。

・1932(昭和7)年12月6日

 成城高等学校で「歴史の一回性に就いて」を  話す。

・1933(昭和8)年3月7日

 成城高等学校卒業式に長男為政の父兄として  参列し、挨拶をする。

・1935(昭和10)年6月24日

 柳田国男の「歴史と言語」と題する講演会な  らびに座談会。

・1936(昭和11)年1月6日

 砧村婦人会、成城高校女学校で主婦・母・嫁  の地位の歴史的変遷に就いて話す。

・1945(昭和20)年3月13日

 成城高等学校の通年動員から帰った生徒に

 「家の霊魂の話」をする14)。

 戦後、柳田は、成城学園の教師たちと一緒に

「話し方教育についての会」をつくり、また、同 校の雑誌「教育改造」に「謎と諺」(昭和21年 7月〜9月)の原稿を書き、戦前より、さらに親 密な関係を築いた。後に柳田社会科の発足と展 開とともに、成城学園はさらに柳田の教育理論 研究と教育実践の場なったのである。

 以上、成城学園が柳田社会科の誕生地になっ た一つの原因といえるが、それに、もう一つの

要因があった。

 成城学園初等学校は、その創立期と創立者に からんで、大正期新教育運動の一翼を担ったの である。以来、進取の精神に基づいて、「教育実 践校」の伝統を持っていた。戦後、1947年(昭 和22)4月、社会科という新しい教科が誕生し たのであるが、社会科をめぐる検討と実践は ずっと前に発生していた。「成城小学では、すで に、昭和8年に社会科の問題を取り上げ、修身・

歴史・地理教育の改革に取り込んだ」1%戦前の 修身・歴史・地理教育の改革と戦後の社会科教 育とは、違う点も多いと考えられるが、社会科 の成立をめぐる模索という意味では、成城小学 校は初期社会科成立直前の桜田小学校で展開さ れた社会科教育の研究と実践より、14年も早 かったといえる。こういう点から考察してみれ ば、柳田社会科が成城学園で誕生し、実践され たのは、偶然ではなく、そこには柳田社会科の 成長に必要な土壌があったからである。

 なお、初期社会科成立した時代に、成城学園 初等学校では、二つの思潮が併流していたそれ は、当時CIE初等教育課主任ヘレン・ヘファ ナンによってもたされたアメリカ社会科教育の 思潮と、柳田が主張した「日本の社会科」の思 潮であった。

 当時、翻訳調の初期社会科教育の模索の流れ の中で、柳田及び成城学園初等学校の研究同人 によって、柳田思潮の「日本の社会科」がとど まり、展開されたのである。

(2)柳田社会科の成立

 1947年(昭和22)4月、成城教育研究所の主 催で、柳田を囲む社会科の座談会が開かれた。

この座談会の趣旨は、後に、『社会科の新構想』

として刊行された(成城教育研究所編、1947年

(8)

10月10日)。この『社会科の新構想』は柳田社 会科の理論的出発点となったのである。

 『社会科の新構想』の目録は次のようになっ

ている。

 社会科とは

 「世の中」、史心

 一年の社会科

 おつかさん、落書帳、遊びの時間、オブリゲー  シュン

 ニ三年以上の社会科  公民、歴史、地理  社会科のテーマ

 読書、事実、食物の変遷、道具の変遷、歴史、礼  儀、風俗習慣、年中行事、交通、言語芸術と心意  現象、産業

 社会科の学習

 実例三つ、漸進主義と革新主義、質問の重視、文  化の吸収、理科と社会科、内証の世界、好奇心と  価値、ディスカッシュン

 農村の社会科

 文部省案について、農村児童の表現力と感受力、

 郷土の調査、古人の経験  社会科の参考書1e

 この座談会で柳田は新しい教科である社会科 に対する理解を深め、民俗学と社会科との同質 性を確認し、社会科を「この機に思いきつてや つてみたらよくはないかと思う」IDと社会科教 育への意欲を示した。

 また、社会科の性質については、「社会科とい うものは『世の中』と言っていることと同じだ ということを力説しなければならぬ」、社会科 における歴史学習は「史心を養うということが 歴史教育の一・ts主眼だ」1nyと発言し、社会科と

は「世の中」と「史心」の教育だと定義付けを しようとした。「世の中」については、「世とい うことは、田舎では家の一代一代ということで 集合的な意味をもつておるのだから、人の世は

どうだろうなあ。世の中、人の世、世渡りそう いうふうになるだろうと思います」19)と解説し ていた。「世の中」教育は、つまり人がその…生 涯の中で、生活に必要な知識を学ぶ教科であ る。「史心」は歴史についての関心のことで、

「生徒達が大きくなった後までも、事ある毎に 判断の基礎を正しい過去の知識に求めるやうな

気持ち」2°)ということである。この「世の中」学

習と「史心」の養成は、柳田社会科の特色に なっていたのである。

 1947年(昭和22)9月、新設の社会科は二学 期開始とともに全国の学校で一一斉に始まった。

柳田は『社会科の新構想』で提唱した社会科の 方針を展開し、それにかける期待を実現させる ために、情熱を燃えて、教育活動を始めた。

 前述のように、成城学園初等学校では、当時、

二つの思潮が併存していた。成城学園初等学校 の教師たちは、柳田の指導をうけながら、社会 科の実践を始めたのであるが、1947年(昭和22)

9月の社会科実施から、成城学園で柳田社会科 の公開授業が行われ、r日本の社会』の編纂が開 始される1951年(昭和26)10月までは、成城 学園において柳田社会科への移動期であった。

この間に、柳田は、全国の社会科教育に関心を しめ、働き掛けながら、成城学園の教師たちと 一緒に社会科教育の理論的検討と実践に取り組 み、徐々に日本式の社会科一柳田社会科を成立 させたのである。

 1948年(昭和23)1月12日、柳田は成城学園

と明星学園の小学校教師を民俗学研究所に招

(9)

き、研究所のメンバーと一緒に「社会科教育と 民俗学」(『社会科の諸問題』所収)と題する座 談会を開き、社会科実施初年度の状況について

話し合った。

 座談会では、社会科の教育内容をめぐって教 材、単元、参考書、教育内容、教育法などが取

り上げられ、柳田は「どの学校でも同じような 事をやっているのが不審でならない。(中略)行 事に集中する事は反対です」21)と学校行事を中 心とした単元構成の足りなさを指摘した。ま た、「日本全国の三分の二あるいは五分の三一 四が農村といってよいだろうね。それを忘れて はいけない」鋤というように、農村、山村、人 生、日常生活などの内容を教材にとりいれるよ

う提言した。

 柳田は何度も民俗学研究の全国機関紙『民間 伝承』に文章を載せ、民俗学と教育への対応を 主張した。1948年(昭和23)7月、柳田は7月 に出された『民間伝承』に「社会科教育と民間 伝承」の特集を組んだ。柳田は文章を載せ、再 び、民俗学研究の社会科への対応の重要性、必 要性を訴えた。

  「社会科教育の原理は、どのようにも難しく説き

 立てることが出来ましせうが、ともかくも始めて  人世にばつちりと目を開いた者に、退屈させるや  うな話をしてよいといふ理由は有り得ません。試  験に引掛けなければ記憶もしないやうな知識を詰  めこんでそれが何になりませう。さうして又彼等  くらい経験の浅い者が、自ら知らうとする問にも  答へられぬやうだつたら、我々の学問などは大よ  そ無用なものです。彼等を完全な世の中の人に、

 育て上げるといふ空論でないならば、我々はまつ  この最初の関門に立つて、自己検討といふものを

 しなければならなかつたのであります。」pm

 以上の記述から、柳田の学問観と教育観が伺 われる。柳田は終始国民の幸せに有用な学問を 主張していた。そのためには、柳田は社会科教 育においてその民俗学学問を社会科と対応し、

教育に寄与しようとするのである。柳田は戦前 から知識の詰め込み式教育に反対し、近代学校 教育の改革を唱えていた。新教科社会科の登場 は、柳田にとってその教育改革論を実施する絶 好の機会であった。そして世の中の人間育成の 教育に役立たつ社会科を作るのは最初の関門 で、慎重に検討しなければならないのである。

 1949年(昭和24)4月1日から、文部省検定 教科書使用開始された。6月16日から、民俗学 研究所で週一回の研究会が始められた。この研 究会で柳田は成城学園初等学校社会科部員を指 導し、研究を進め、1951年(昭和26)の10月 まで、2年5か月継続された。当時は、日本の 社会科は発足期の難関から脱したが、アメリカ の影響はまだ大きく、日本の社会科としてはま だ整えていなかった。社会科を中心とした生活 経験学習が主流となり、全教科におけるコア・

カリキュラム運動が始まった時であった。この 研究会の趣旨は、日本独自の社会科教育の「鋳 型」を作ろうというものであった。この研究会 の結果は、後にr社会科単元と内容』にまとめ られ、刊行された(『社会科単元と内容』昭和24

〜26年試案1951年10月20日、成城学園初等学 校刊)。1951年(昭和26)10月26日、成城学園 を会場とした第1回全国私立学校研究討議会が 開催され、この会場で柳田社会科の授業公開と

「単元とその内容」の発表が行われた。これを以

て柳田社会科の成立が宣言されたのである。単

元の内容は表1の通りである。

(10)

表1 「単元とその内容」(昭和24〜26年度試案)24)

1年 2年 3年 4年 5年 6年

1学期 学校のまわり 海

すまい 共同生活 報道(ニュース)

道路 遠さ近さ 食物 あかり 日本という国 労働

古さ新しさ ねんりょう 自然 工場

着物

2学期 郵便 市 本 交通 貿易

家畜 しごと 貨幣 技能 殖産 世界の国々

消費 技術 人の一生

3学期 物をつくる 火 健康 友だち 移住 正義

遊び 安全 年中行事 郷土 時代と人 平和

(3)柳田社会科教科書『日本の社会』

 柳田国男はもともと教科書無用論を唱えてい た。1946年(昭和21)年9月、文部省編輯歴史 教科書『くにのあゆみ』が刊行された時、柳田 国男は「歴史教育の使命一『くにのあゆみ』に 寄す」という文章を『毎日新聞』に発表し、こ の教科書を評価しながら、「私は元来、教科書な しで歴史を教へてはどうかと思つている」25)

と、持論の教科書無用論を訴えた。また、「一つ の歴史科教案」のなかで、「楽をしたがる人には やや迷惑かも知れぬが、教科書は無い方がよい というふのが私の意見である」26)と言ってい た。その理由は、「教科書に書いてあるものは、

ほんの要項にすぎず、決して歴史の全部ではな い。生徒達が大きくなつた後までも、事ある毎 に判断の基礎を正しい過去の知識に求あるやう な気持を養成する事が、歴史教育の眼目であ る」2nということである。柳田国男が教科書廃 止論を唱えた理由は、ある決まった形をもった 教科書による教育に対して警戒心を寄せ、画一 的な教材に偏る教育に反対するからである。柳 田は現代の学校教育に対して常に疑問を持って いた。明治時代から始まった学校教育より前か ら、村において民衆による自然な教育法が存在

していた。これは教科書ではなく、口承による 教育であった。しかし、日本の近代学校教育は、

この前代教育法を顧みず、ひたすら文字による 教科書を教えることに終始し、国定教科書によ

る教育において、そのまま覚え込むことを強要 されていた。これは勿論、戦後民主主義教育の 方針に反するし、柳田国男の能力養成中心に、

疑問を大切にする教育論にも反している。そし て、社会科が発足直後も丁社会科の事』の中で、

「社会科には教科書を使ふつもりかどうか」28)

と書いていた。

 しかし、教科書不要論者の柳田国男は教科書

編集に情熱を燃やしていた。・一一一見矛盾するが、

「百年単位でことを見ようとする姿勢を考える と、それらの矛盾はたいてい説明がつく性質の ものである。(中略)自分の学問を通して後の時 代に貢献することを日頃から考え続けた柳田が 教科書づくりに乗り出すのは不思議でもなんで もない。いわば当たり前の帰結だったといって

いい」(長浜功『常民教育論』)29)。社会科が新教

科として登場すると、実践先行ということで各 教育現場で早速教育実践が盛んに始められた。

当時の状況から見れば、教科書の使用は当然の

ことになるとみられている。自分の学問を戦後

(11)

の教育に寄与しようとする柳田はこの教科書編 集のことを見送ることは当然できなかった。特 にアメリカから伝来された社会科はどういう形 で日本に定着するか、日本の社会科教育はどう いうふうに発展するかは、まだ疑問である。翻 訳調、舶来調の社会科が行われている中で、日 本の教育の「鋳型」(『民俗学辞典』序1951)が 壊された。「社会科については殊に、まるで国情 の違った外国の教え方のまね」3°)をするぐらい で、日本の現状と歴史から学び、日本の伝統文 化に根ざして教育を行おうという心構えが、教 師には整えていなかった。このような状況に面 して、柳田は教育の一つの方向を示すために社 会科教科書の出版の必要性を痛感した。そこで 柳田が考案したのは、長年の研究している民俗 学の学問をもって社会科に寄与し、民俗学の学 問と社会科教育とを結合させ、戦後の教育のた めに一つの「鋳型」になる日本式の社会科を樹 立することであった。

 1951年(昭和26)、実業之日本社版社会科教 科書『日本の社会』の編集作業が開始された。

柳田国男を始め、民俗学研究所の所員および成 城学園の教師たちが、中心となって進められ た。1953年(昭和28)5月、『日本の社会』9冊

(2学年1冊、3〜6学年各上下2冊)が完成 し、8月30日に文部省の検定に合格した。しか し、同時に編集された中学校用の社会科教科書

『社会』は検定不合格となった。1953年(昭和 28)5月、『日本の社会』は発行され、翌年度か ら使用始められた。柳田社会科が見直される 今、この教科書は柳田国男の教育思想、教育実 践、柳田社会科を研究するにも大きく役に立っ ている。1985年(昭和60)11月第一書房によっ てr日本の社会』の復刻版が出版されたが、1

学年のものはない。長浜功氏の話しによると

「八方手をつくして探したが、教科書の現物が みつからないのである。」「編集にタッチした人 や出版元でさえ 不明 という状況で今日に 至っている。」31)と指摘している。また、竹下昌 之氏は、「柳田国男編『「にほんのしゃかい」一・

ねん・取扱いの手引』と称する教師用指導書が 昭和29年4月20日付で発行され、その本に、本 教科書のページが単元ごとに記述されているこ とから、本教科書は、見本本として発行された ことは確かである。」鋤と指摘している。一学年 用の教科書は未だ確認されず、今でも不明の謎 のままであるが、研究関係者の努力により、近 い将来明らかになるであろう。

おわりに

 本稿では、終戦直後の教育改革における柳田 国男の教育的活動、教育改革に対する提言及び 氏の教育実践である柳田社会科の成立過程を考 察してみた。成城学園を始めとする教育現場で の柳田社会科成立後の実践は紙幅の都合で触れ ないことにした。また、柳田社会科の特色及び 学習指導方法に関しては、同『教育科学研究』

第13号『柳田社会科の理論と方法』をご参照頂

きたい。

 柳田社会科は、1947年(昭和22)の『社会科 の新構想』から出発し、1951年(昭和26)のr社 会科単元と内容』(成城学園初等学校社会科単 元)を以て成立した。1953年(昭和28)の『社 会科教育法』と、1954年(昭和29)の教科書『日 本の社会』及びその『学習指導の手引き』の刊 行によって理論的・内容的に確立した。そして、

教科書『日本の社会』は、1954年度(昭和29)か

ら使い始め、1962年度(昭和37)まで、ほぼ、

(12)

表2 実業之日本社・小学校社会科検定教科書『日本の社会』単元名一覧表33)

1学年 2学年 3学年 4学年 5学年 6学年

わたくしたちは なかよし 海の人たち 友だち 日本という国 報道

一年生

からだを 川 山の人たち

私たちの町や村

日本の貿易

じょうぶに 人間と自然

なつのたのしみ

とおいところ どうぶつと 世界の人々

しょくぶつ 産物をふやそう 道具の

単 ちかいところ むかしと今

がっこうの

社会と人

いちにち こよみ

私たちの

うちのひとたち ふるいもの 生活と労働 日本の貿易

あたらしいもの

かいものとみせ

すまい

元 がっこうの あかり 工場 平和

きんじょ ねんりょう

ゆうびん たべもの

あきのよろこび

人の一生

着物 私たちの

しごと じょうぶな 生活と消費

ふゆがくる からだ

おしょうがつ 火

共同生活

うたとことば

なかよく あんぜん 移住

あそぼう

もうすぐ二年生

9年間小学校で使われていたが、1963年度(昭 和38)から、16年間の教育実践をもった柳田社 会科は、教育実践の場から消えていかざるを得 なかった。その挫折の原因としては、行政hの 影響、扱いにくいこと、柳田教育論の目指した

「史心と風土感」に対する教師の理解と力量の 不足などが上げられるが、受験勉強の過熱はそ の挫折の大きな要因ではないかと思われる。こ れは実に考えさせられる問題である。ユニーク な教育遺産一柳田社会科の継承と研究を通し て、教育者としての柳田国男に対する理解が深 められ、当面の教育についてもいろいろ考えら れると思う。

(1)『定本 柳田国男集』(以下『定本』と略  す)、筑摩書房、「月報」17、pp.6−7

(2)「炭焼日記」、『定本』別巻4、P.235

(3)「炭焼日記」、『定本』別巻4、P.261,266,269

(4)「現代科学といふこと」、『定本』31、p.13

(5)「喜談日録」、『定本』29、p.450

⑥「喜談日録」、『定本』29、p.448

⑦「これからの国語教育」、『定本』18、p.547

(8)長浜功『柳田国男教育論集』、新泉社、1983

 年2月、p.28,30よりまとめ

(9)「民俗学研究所の成立ち」、r定本』29、 p317

(13)

(10)「社会科のこと」、『民間伝承』、1948.1、『定

 本』13、P.344

(11)柳田国男「社会科の諸問題玉長浜功編  『柳田国男教育論集』、新泉社、1983、p.198

(12)成城学園初等学校・民俗学研究所賛助『社  会科単元と内容』、成城学園初等学校刊、

 1951.10、 p.5

(13)柳田為政「父柳田と信州」、『信州教育』第

 1176号、1984

(14)成城学園初等学校『「道」を核にした地域  教材の開発』、成城学園初等学校研究双書

 60、  1988、 p5

(15)成城学園初等学校『社会科教育の改造』、

 国土社、1975、p.8

(16)成城教育研究所r社会科の新構想』、成城  教育研究所、1947、p5,7

(17) 鵬書  P.45

(18)前掲書 P14

(19)前掲書 p.12

(20)柳田国男「歴史教育の使命一『くにのあ

 ゆみ』に寄す」、『毎日新聞』19・ 5.10.28、r定

 本』未収録

(21)前掲書(16)P.196

(22)前掲書(1(りp.M

(23)「社会科教育と民間伝承」、『定本』25、p536

(24)前掲書(17)巻末

(25)益田勝実編『現代日本思想大系29一柳

 田国男』、筑摩書房、1965!7、p.329

(働「一っの歴史科教案」、『定本』31、p393

(27)前掲書(25)

(28)「社会科の事」、『定本』13、p.340

(29)長浜功『常民教育論』、新泉社、1982、p.193

(30)柳田国男「地方自主の教育」、『国民の歴  史』、1948.12、『定本』未収録

(31)前掲書(29)P.302

(32)『柳田国男「日本の社会」』復刻版解題、第  一・書房、1985、p.116

(33)二学年〜六学年は前掲書。一学年は『柳  田国男「日本の社会」学習指導の手引き』、

 実業之日本社、1953

参照

関連したドキュメント

 戦後実施された表記法上の国恩政策によって,国民の実生活の上にいろいろ

その一例として、新中国で戦犯教育を受けて帰国 した元戦犯たちの戦争責任認識や謝罪のあり方を 本誌前々号から検討してきた

文部省が解体の危機 にあ った ことを考xれ ば中央集権 教育行政 の官僚的 集権化.任 命制教育委員会,教 育長 的な管理体織 ま復活 強化

「戒貪争は則ち、満足することを知らずに只争うことを戒むべし。責任のある競争は国家を進歩

年)にもそれぞれの科目について国家試験による

書で培った能力などを十分にし、かして,日本民

近代国民国家の成立以降教育はいかなる形態に せよ国家権力との間に顕在的かつ潜在的な権力

「民衆統制理念」の提出が、内外区分論による 民衆統制対専門的指導性というこれまでの教