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 大田直子「サッチャリズムの教育改革」

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2000年度 大学院総合ゼミの日程と記録

日程

第1回

 大田直子「サッチャリズムの教育改革」

 (『岩波講座 現代の教育12 世界の教育改革』岩波書店,1998)の検討  コメント 松下(D院生),河合(M院生)

第2回

 深見匡「教育委員会法と教育の民主統制理念一中野区教育委員会準公選制運動を手がかり  として」(『教育学年報7 ジェンダーと教育』世織書房,1999)の検討

 コメント 渡辺(D院生),小池(M院生)

第3回

 修士課程2年生 修士論文構想の検討① 第4回

 修士課程2年生 修士論文構想の検討② 第5回

 修士課程2年生 修士論文構想の検討③ 第6回

 修士課程2年生 修士論文構想の検討④ 第7回

 修士課程1年生 修士論文構想の検討① 第8回

 修士課程1年生 修士論文構想の検討② 第9回

 テーマ:障害者の労働保障とは何か

  関川芳孝「障害をもつ人に対する雇用平等の理念

  (『講座 障害をもつ人の人権 第2巻 社会参加と機会の平等』有斐閣,1999)

  古賀 久「労働の保障」(『講座発達保障 第3巻 障害者福祉学』全障研出版部,1998)

  調 一興「雇用の問題と職業リハビリテーション」(『ADA (障害をもつアメリカ人法)の    衝撃』学苑社,1991)

  コメント 夏堀(D院生),松下(D院生),河合(M院生)

第10回

 テーマ:教育学における「エスノグラフィー」の限界と可能性

  志水宏吉「教育研究におけるエスノグラフィーの可能性一『臨床の知』の生成に向けて」

  (『教育のエスノグラフイー」嵯峨野書院1998)

  志水宏吉『よみがえれ公立中学校一尼崎市立「南」中学校のエスノグラフイー』

  (有信堂高文社,1991)

  コメント 竹石(D院生),西村(D院生),廣田(D院生),上間(D院生),吉永(M院生),

   代田(M院生),小池(M院生),松尾(M院生)

第11回

 博士課程1年生 研究計画の検討

(2)

第2回

テキストは、深見 匡「教育委員会法と教育 の民衆統制理念一中野区教育委員準公選運動 を手がかりとして」(藤田英典編『教育学年報 7 ジェンダーと教育』世織書房 1999)。報 告者は、渡辺大輔(D院生)と小池(M院生)。司 会は、松下(D院生)。

 はじめに、小池が論文の要約をした後、渡 辺が疑問と論点を提示した。報告者の論点は、

以下の3点。1.深見がいう「民衆統制型教育 委員会」が、黒崎のいう「民衆統制と専門的 指導性の調和」にまで言及していないため、

「民衆統制理念」の提出が、内外区分論による 民衆統制対専門的指導性というこれまでの教 育権理論の議論に回収される可能性があるの ではないか。2.深見の「民衆統制型教育委員 会」の理念からみて、「学校評議員」はどのよ うに評価されうるのか。3.学校選択をめぐる 議論において、教育委員会法の内に予定され ていた「教育を受ける側が専門職の力を媒介 としながら教育そのものを自ら決定していく 地域自身の自己学習プロセス」という民衆統 制理論は、いかに位置付けられるか。

報告者より、論点が提出された後、まず野元 より中野区準公選運動の際に、財政問題に関 してどのような議論があったのかについての 説明が深見に求められた。それに対し、深見 は、財政問題議論には、中野区では自由に教 育委員会で使えるお金ができないかというこ とで、独自の「枠配分の方式」というものを 出した。中野教育委員会は一定額を確保し、中 野区独自の自由裁量枠を作り、学校に予算編 成を呼びかけ、自治的な財政に取り組んだと 説明した。

 次に、深見は報告者より提出された論点1に 対して、本稿での「民衆統制理念」は、報告 者の述べる「民衆統制対専門的指導性」とは 重ならず、むしろ黒崎の「民衆統制と専門的 指導性の調和」の概念に近似するものと述べ、

深見の提出した民衆統制型教育委員会のモデ ルと黒崎の素人統制と専門的指導の調和とい う教育委員会モデルは、事実上形式的には同 じものであることを述べた。これに対し、報 告者は、黒崎の専門的指導性を学校の教師と

いう部分で捉えていたために、論点1に結び ついたことを述べた。こうした報告者の捉え 方をうけて、大串は、深見にもう少し内外区 分論の流れを補足するよう促した。さらに続 いて、松下は、アメリカの教育行政の素人統 制対専門的指導性は、教育委員会内部での委 員と教育長といった緊張関係のことをさして おり、教師の専門性と素人統制との関係では 考えられていない。しかし、日本にこの理念 が導入されたとき日本独自の解釈が加わり、

発展してきたという経緯があるように思うと 述べ、その独自な枠組みというものが報告者 の専門的指導性=教師という捉え方にも反映 されているのでないかと指摘した。そして深 見に対し、アメリカの教育委員会論と日本の 教育委員会論との間にはずれがあると意識し ているかどうか、また日本で内外区分論があ る種独自の発展を遂げてきたという意見につ いてどう思うかと意見を求めた。これに対し、

深見は、アメリカでも教育長をはじめとして その専門職の対応に対し、地域住民がどのよ うに影響を与えられるかという課題がある。

教育専門職のカテゴリーにかかわりなく、地 域住民の教育要求にいかに応答が可能かとい う課題。そういう意味でいうと、日本の学校 対地域住民という文脈と同様の問題ともいえ

るが、アメリカの教育委員会の場合は、さら に現場の教員と教育庁という教育行政の専門 職との権力関係という問題もあるため、この 点に関しては論点の整理が必要だとした。

 越野は、黒崎は民衆統制型教育委員会とい う理念ではもはや不十分であると感じている と思われることを指摘し、深見に対し、理念 型として民衆統制型委員会を提出しているが、

現代でも優れた教育行政制度として働きうる

と思っているのかどうか、また思っていると

したら具体的な教育問題にどう応えうるのか

について問うた。これに対し、深見は、黒崎

の専門的指導性には教育長や教師も含まれる

が、それら自身の対抗を問題とするより、専

門家と教育を受ける側である素人との適切な

関係作りという課題にこれを引き取っている

のではと述べた。さらに、現代において教育

行政制度システムとして民衆統制型委員会が

有効に働きうるかについて、次のように述べ

(3)

た。この問題を考えるにあたっては、実際の 教育が有効となるかという問題と制度として 正当性を持ちうるかという問題に分けて捉え る必要があると整理した。後者の問題につい て、民衆統制型の教育委員会モデルは、手続 き的な正当性を持ちうると考えられると述べ、

その理由として、教育権論の専門職統制とい うモデルに対して、教育を受ける側自身の自 己学習というプロセスを含んでいるためであ ると説明した。しかし、実際に教育に有効的 に働きうるか否かについては、教育の民衆統 制という考え方をきちんと引き受けながら、

かつ教育が一定自由に行われるためにどのよ うな形で制度構造を考えたらよいかを検討す る必要があるとした。

 松下は、深見はアメリカの教育委員会制度 の理念を持ってきているが、それ自体がすで にアメリカにおいて形骸化していることにつ いてどう考えるかと問うた。これに対し荒井 は、アメリカの理念は民衆統制型であるが、実 際は教育長が権限を握っているとの批判があ ることは事実ではある。しかし、アメリカの 教育委員会制度をめぐっては、その理念は決

して捨てられているわけではないことを付け

加えた。

 大田より深見論文に関する議論への立ち返 りが促され、教育委員会法において中野区準 公選の評価はどのようになるのかという疑問 が提出された。これに対し、深見は地域住民 が発言権を奪われていたなかで、中野の準公 選は教育委員を地域住民が選ぶ、つまり教育 委員会の住民代表性という性格を非常に強く 位置付けたという点で評価されうると述べた。

 松下より報告者から出された論点2・3に ついての回答が求められた。深見は、論点2に ついて、学校評議員制という動向は、これま で地域住民の学校への発言権が事実上奪われ てきたことを念頭に考えると積極的な方向で 捉えていると評価した。しかし、今の段階と して学校評議員制は、校長の助言機関に位置 付けられているため、こうした機能で十分で

あるかどうかについては、今後検討すべき課 題であるとした。具体的に、例えば、シカゴ

の学校委員会制度ように、学校そのものに小 さな教育委員会を作るといったところまでい

くと、民衆統制という理念が、形としては実 現しているといえると付け加えた。次に論点 3に関して。教育基本法第10条の精神は、教 育の民衆統制理念を何らかの形で実現すべき であるとすることを述べたものと捉えると、

ある種の学校選択も民衆統制理念の実現の可 能性があるのではとした。教育の地域自治の 考え方を徹底していくと当事者による自己決 定の析出が可能であり、そのスムーズなメカ ニズムとして学校選択をつなげる。自治の問 題と自己決定がイコールであるかは大いに検 討の余地があり、無視できない今後の課題で

あるが、つながりを重視し、教育の民衆統制 という理念は学校委員会的なものでも、学校 選択でも可能ではないかとした。

 浜谷は、地域、住民、民衆という言葉がだ されてきたが、学校の中でいかに当事者意識 を高めていくべきかということについてどう 考えるかと問うた。これに対し、深見は、例 として中野の準公選では投票率がどんどん低 下してきた経緯をあげ、住民の関心が低下し ているという指摘があったが、こうした点に 対し深見は以下のような見解を述べた。投票 率の高い低さに関しては大きな問題ではな

く、投票権を地域住民が権利として持ってお り、維持されているという点に着目している ことを述べた。さらに、浜谷は、例えば学校 の人事権等に関する権限を有しているといっ た意識、つまり住民がいかなる権限を有して いるかの意識の持ち方に着目することで、深 見が例としてあげた投票率の問題も含め、当 事者意識というものをいかに高めていくかと いう問題を考えられるのではないかと指摘し た。これに対し、深見は、こうした権限を有 していたニューヨークの教育委員会でもそれ ほど投票率が上がらなかったという問題をあ げ、当事者意識をいかに高めるかの問題につ いて以下のように引き取った。当事者意識を 高めるシステムは、教育委員会的、あるいは 学校委員会的なものと違った形で必要ではな いかという形で浜谷の指摘を引き取ることが 出来るとした。

 最後に大田から、深見は民衆統制が学校選

択で可能になるとの主張のようであるが、黒

崎の議論では、新たな、教育委員会制度では

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ない民衆統制と専門職の自律性の調和という 視点から学校選択が提出されており、両者の 概念には齪飴があるのではないかとの指摘が

あった。深見は、本稿での「教育の民衆統制 理念」は、黒崎とは異なる独自の理念である と返答した。さらに、大田からの具体的制度 構想は?との問いに対しては、ニューヨーク の第四学区のように、公選制教育委員会が管 理する学校選択、地域が管理する学校選択と いうモデルである、と答えた。

文責:吉永由美子(M院生)

第9回

検討資料:

1.関川芳孝「障害を持つ人に対する雇用平等 の理念」《講座 障害をもつ人の人権 第2巻  社会参加と機会の平等》所収 有斐閣

1999年

2.調一興「雇用の問題と職業リハビリテー ション」《ADA(障害をもつアメリカ人法)の 衝撃》所収 学苑社 1991年

3.小賀久「労働の保障」《講座発達保障 第3 巻 障害者福祉学》所収 全国障害者問題研 究会出版社 1998年

報告は夏堀摂(D院生)、松下丈宏(D院生)、

河合隆平(M院生)

司会は竹石聖子(D院生)

1.ゼミの流れ はじめに、夏堀から今回の テーマであった「障害者の労働保障問題」の 説明とそれについて議論を深めるための論文 の紹介があった。次に松下が関川論文、河合 が小賀論文の概要の説明を行い(調論文は紹 介のみ)、各々論点を提示した。そのあと、テー マに基づいて議論をした。

2.論文の概要の説明と論点 夏堀は、今回 のテーマ設定の理由について、「障害者の労働 を「教育学」的に考える必要があるのは、現 在、障害者の学校教育から社会参加への移行 の問題が露呈してきており、卒業後の社会参 加のために「教育」がどうあるべきかが問わ れていること、そして障害者の発達保障に関 する課題は、統合教育の推進という流れが示 されてきている中で、障害児教育の現場だけ

でなく、公教育全体のものになっていること により重要であると考えられるからである」

と説明した。

 今回の検討対象のひとつである関川論文で は、障害者の雇用問題を扱っている。それに ついて、松下は、関川氏は、障害者と「共に生 きる社会」の構築のためには、従来の健常者 をベースにした価値体系を再構築し、新しい 雇用平等のあり方を検討し直す必要があると 指摘し、したがって、「障害者が雇用上の機会

において同じスタートラインに立つためには、

外部環境によって負わされる社会的不利益

(ハンディキャップ)を軽減緩和し、事実上の 条件を均衡化させること」が最大の課題に なっていると報告した。

 それに対し、河合は、関川氏の「障害者」の 捉え方に着目し、関川氏の指す「障害者」は

「身体障害者」に限定され、重度障害者(特に 知的障害者)が排除されてしまっているよう に思われ、そこに社会効用論的な考え方が存 在しているのではないかということを述べた。

そして、発達保障論的観点からは、障害者の 就労問題は、「一般就労」には限定されない「福 祉的就労」の意義が強調されるが、従来の「保 護か、雇用か」という二者択一的な障害者対 策にとどまらない、発達保障論的レベルにお ける課題の理論的解決こそが、障害者におけ る就労問題の核心であり、関川氏の考えでは その点が抜け落ちているのではないかという ことを論点として提出した。

 次に松下は、関川氏が、結果の平等を重視 する立場から、「能力主義的な発想に貫かれて いる」とのADA法批判に対し、雇用平等法理 の核心は「機会の平等」の実質的な保障であ るとし反論していることは、とりあえず、成 功しているように思うが、ロールズ主義の、

「公正な機会均等」論こそ「真正の能力主義」

論と理解する立場から見れば、関川が「社会 権」の領域に棚上げした配分的正義論の問題 が、能力主義を批判するという観点からは主 題とされるべきではないかという論点を提出

した。

3.討論 非常にさまざまな角度からの指摘

や議論があったが、以下のように整理するこ

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とができると思われる。

1)関川論文の解釈(松下の論点)について。

 深見は、報告者に対し、次のような質問をし た。関川論文は、障害者の就労問題について、

「公正な機会均等」という概念の徹底化で扱え る問題と、「社会権」のレベルで扱える問題を 区別し、その分担領域を明確にすることを目 的としており、「社会権」の領域での障害者保 障がどの程度豊かに構想されているかはここ では直接述べていない。報告者の論点では、最 後に「これらの問題は配分的正義の問題」と

して棚上げしており、その雇用平等理念も、

「障害者の種別や程度で判断して『困難なも の』を雇用・就労の対象から除外し、保護の 対象として生活を援護してという従来の『保 護か、雇用か』という二者択一的な障害者対 策にとどまっているといえよう。」と書いてい るが、関川氏のこの論文をこれだけ読んだ範 囲では、そういうふうにでてこない、ここの ところではまさに「社会権」の領域で、関川 氏が障害者の雇用をどのように考えるかとい

うその具体的なプランによって評価が変わっ てくるのではないかと考える。第一に、関川 氏が「公正な機会均等」と「社会権」のそれ ぞれで注意すべき問題をあえて明確に分け、

前者に力を入れているという見方が正しいか どうか。第二に、「社会権」として障害者の雇 用問題をどのように豊かにするのか、という

この2点を質問したい、と。

 それに対して、松下は、ロールズの枠組み から見た場合、一点目について、障害者の雇 用問題に関しても、おそらくロールズは、基 本的には「公正な機会均等論」により考える が、その上でそこから漏れた問題とされる「社 会権」の領域については、格差原理が扱うと いうことになると思うが、ただし、福祉的就 労に積極的な意味を見出すのかという観点か ら、格差原理がどの程度意味をもつのかとい うことについては、今後の私にとっての課題 であるが、しかし関川の基本的主張はそれな りの妥当性を持つと思うと答えた。二点目に ついては、河合の出した論点に触れ、どうも戦 後の発達保障論者がこだわってきたような福 祉的就労レベルでの労働権の確立に関する問

題について、ADA法ではほとんど触れられて おらず、むしろ一般就労こそ基本で、福祉的 就労はその付随的なところにとどまっている のではないか、そうであるならば、発達保障 論の観点から見た場合、ADA方における福祉 的就労は、「権利としての観点」より、「保護 の対象としての観点」になるのではないかと 思うと答えた。

 木戸口は、「関川氏が公正な機会を実現する ための措置というものを、機会均等原理の外 の問題として捉えた場合に、必要な配慮は いったいどこまでを指すのか。障害者の雇用 平等を考えると、機会均等そのものが徹底的 に進んだときに能力論という考えがどれだけ 妥当性を持つのか、それでも関川氏は最終的 に潜在的な能力の違いで議論するという限り は能力主義者にとどまっているのだという批 判が妥当なのか、それとも社会的に能力主義 そのものを引き下げていくという形で機会均 等を考える、それはある種の能力主義批判に はなると思うのであるが、それについてはど のように考えるか。」と質問した。

 それに対し、松下は「能力主義論という観点 から考えた場合は、インセンティブ問題は無 視できないと思う。ただし、その観点まで入 れると、能力主義をどのような形で批判する かが大きな課題となる。今回このテーマを 扱っている理由は、そのことについて障害者 の雇用問題から考えてみたかったということ だ」と述べた。

2)インセンティブ論について。

 浜谷は、障害者の労働に関して、障害者が 福祉的な労働によって発達すると同時に、一 方で、労働活動を通じ、ある種の競争原理の 中に組み込まないと、障害者らも生き生きし ないのではないか、たとえば、活動の中に、自 分たちががんばって昨年よりも良く稼いだな

どといったものが含みこまれないと、ただ報 酬だけを与えられてもやはり楽しくないので はないかと述べた。

 それに対し、乾は、障害者の給料は、もと

もとそれだけで、生活ができるようなレベル

ではないので、たとえば、給料が上がるとい

うことは、生活そのものに大きな影響を与え

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るかどうかとは別の意味を持つものである、

そう考えるとインセンティブ論については、

社会の中心で機能している能力主義の問題と 同質なのか異質なのか、と述べた。

 松下は、「インセンティブ」には非常に多様 な使い方があるとし、その中でも、ひとつに、

たとえば新自由主義的性格を帯びた活動は、

競争主義を煽って全体の生産性を上げると いった考えのレトリックとして使われる場合 と、もうひとつ、例えば一定の努力を引き出 すためという形で使われる場合の二つがある と思われると述べた。その上で、問題は、前 者の形でひろがるインセンティブ論について どのように考えるかであり、浜谷の指すイン センティブは、後者のおそらく努力をより頑 張るためとして使われているものであると述

べた。

 深見は、インセンティブの使われ方に違い があるとしても、社会権を考えるときに、社 会の中心にある能力主義の問題にどのように 折り合っていくかについては、個別に私たち が考えなくてはならない問題があると感じて いると述べた。

 松下は、インセティブ論は、先に説明した ように、区別することが非常に難しく、複雑 であるが、だからといってインセンティブは 無視することはできないと思うと述べた。

 乾は、先の浜谷の例を踏まえながら、その 例そのものが社会的なある種の配分機能とし て働くような意味でのインセンティブには絶 対ならないが、それにもかかわらず、何か意 味があるとすればそれは何か、もう少し考え てみたいとまとめた。

3)有資格者論(河合の論点を含む)につい

て。

 越野は、関川論文を引用し、関川氏は、ADA 法の雇用に関する部分についてはアメリカの 労働市場についての特殊な事情とヨーロッ パ・日本型の保護雇用制度のある国との違い

を述べた上で、「その考え方や諸制度との比較 からは多くの点を学べるが、とくに大きなイ

ンパクトをもたらすことはないと思われる」

と述べているが、この部分についての報告者 としての見解と、もし関川氏の見解が、説得

力があるとすれば、そのことのわが国にとっ ての意義について質問がなされた。

 それに対して、松下は、関川論文では、雇用 の問題は大きく扱われているので、一つの検討 材料になると思われ、その中でも、有資格者論 についてはわが国でも検討に値するのではな いかと説明した。

 浜谷は、日本での「有資格障害者」議論に ついて、いわゆる精神障害あるいは知的障害 の人たちに、この概念がうまく適応できるよ うに、時代とともになってきているのかどう か、たとえば、必要な設備や作業環境等への 配慮だけでなく、受け入れる人たちの障害者 の理解なども当然含むべきであり、そのこと により就労の可能性がある作業能力をもつ人 たちは実際にはかなりいるはずである、それ を考えれば、必ずしも精神障害とか、知的障 害には、「有資格障害者」の概念はあまり意味 がないように思う、と述べた。

 夏掘は、この問題に関して、権利論で説明 するときに、特別な配慮はいらないけれど、必 要な配慮はしてほしいというような主張はし ているが、その違いについては理解が難しい

と述べた。

4)「障害者にとっての労働の意味とは何か」

について。

 越野は、「障害者にとっての労働」について、

発達保障論の中に、生産労働を人間の本質と するような見方があるように思えるが、果た してそれは本当に「働く」ということに集約 されるかどうか、最重度も含めたすべての障 害者にとっての幸福の生活について考えたと きに、生産労働といった形だけではない形が あるかどうかも含め、その点については一度 突き詰めて考える必要があるのではないか、

と述べた。それに対し、大串は、関川氏は、「人

間と労働」の関係については、マルクス主義

という観点で考えると、思想労働、生産労働

といった経済的な概念だけではなく、思想的

なものにもなる、思想として考えていたもの

を、経済的な面に引き戻してしまうと、重要

な問題が落ちていくのではないか、また、余

暇活動についても、雇用関係の中に余暇的な

精神を組み込むことは可能なんだという主張

(7)

もあり、「働く」原理を思想の問題として考え れば、決して矛盾しないのではないか、と述 べた。河合は、その問題こそが、これまで共 同作業所によって追求されてきたのではない かと加えた。その上で、大串は、共同作業所と の関連があるのかもしれないが、市場経済と は異なる論理で動くような経済活動をする場 所があってもいいのだということならば、そ のことを認知するとはどういうことになるの か、ロールズの議論とはどのように重なるの かという問題を投げかけた。

 ほかにも、「障害をもつ親達の就労観とそれ に伴う子育てに対する考え方」や「新自由主 義と障害者の権利に関する問題」など、さま ざまな角度からの指摘や議論があった。全体 として、「ロールズに代表される現代正義論と 障害者の雇用問題についての検討」、「能力主 義とインセンティブ論との関係」、「障害者に とっての労働の意味とは何か」が大きな論点 であったように思われる。

(文責 小池 雄逸)

第10回

テキストは、志水宏吉編「教育研究における エスノグラフイーの可能性一『臨床の知』の 生成に向けて」『教育のエスノグラフィー』嵯 峨野書院(1998)、志水宏吉編『よみがえれ公 立中学一尼崎市立「南」中学校のエスノグラ

フィー』(1991)。報告者は、上間、竹石、廣 田、西村(以上D院生)、小池、代田、松尾、

吉永(以上M院生)。司会は、松下(D院生)

 はじめに、竹石から本テーマ設定の理由お よびテキストの要約についての報告があり、

人類学・心理学・シカゴ学派・CCCSにおける エスノグラフイー・質的研究方法の動向(西村、

吉永、竹石)、日本におけるエスノグラフィー 導入の動向(上間、代田、松尾、小池、廣田)

について報告がなされた。各領域におけるエ スノグラフィーをめぐる動向をレヴューし、

志水論文の批判的検討を行ったうえで、エス ノグラフィーを用いることによって教育の現 場を開いていく必要性があることを確認し、

以下の二点の論点を提出した。①エスノグラ

フィーという方法が突出した形で語られてい る事態は、学校を開くという点では、一定評 価されようが、方法の新奇さが突出している 事態であると、否定的にとらえられることも できるのではないか。②現場に入れば否応な しに現場のカオスが調査者を襲うことになる が、そのカオスをも引きうけていくような

「知」それ自体を問いなおすことなしには、「臨 床の知」(志水宏吉)とは、研究者側の有益な

ものに回収されるのではないか。関係性、そ れ自体から生起するやっかいなことを引き受 けるような形での理論化を考えることはでき ないだろうか。

 まず、大串から、アメリカの心理学の研究 の変遷のなかでエリクソンが出て来ないのは なぜかという質問がなされた。それについて、

乾は、エリクソンにおけるライフヒストリー 研究は非常に重要な位置を占めているが、そ れは、心理学領域よりは、むしろ社会学の領 域において引き取られていることを指摘し、

それに加えて、浜谷は、心理学においてエリ クソンをかなり倭小化してきたことを指摘し

た。

 木戸口からの、「ある事柄について対象を構 造化していく時に、構造論的アプローチでは なく、エスノグラフィカルな方法によって構 造化していく最大のポイントは何か」という 質問をうけて上間はエスノを志向する理由と して以下の二点を挙げた。一つには、教育に おける閉塞感が高まっている現状に対して、

教育現場に他者が入りこんで何らかの枠組を 使うことによって、当時者の見えない部分を 明らかにし学校を開いていくといういていく 可能性があること。二つには、「政策の独断性」

(志水宏吉)へのオルタナティヴとしてエスノ

ということを作り上げて行くという伝統があ

るが、政策に対する問題提起のひとつのスト

ラテジーとしてエスノが有効ではないかとい

うことである。その後、「学校を開く」という

イメージをめぐって、実際にエスノを研究手

法として取り入れている竹石、上間、西村ら

が、エスノでなければ描けなかったものはな

にか、さらに、場の側の文脈の問題と研究者

の認識との間の異同関係が、それらを描き出

す時にどのように絡んでくるのかについて各

(8)

自の意見が述べられ、議論が展開された。

 これまでの議論を受けて、乾は、教育学に おけるエスノグラフィーあるいはスクールエ スノグラフィーがもつ固有性の問題をどう考 えるのかという論点を提起し、対象領域に よっても違うので単純にいえないが、スクー ルエスノグラフィーにおけるかなり大きな問 題として、教師集団の認識と生徒側のコンテ キストとのズレがあるのだということが前提 となっているということが、スクールエスノ グラフィーが有する本来の固有性ではないか と述べた。さらに、大串は、エスノグラフィー における対象の限定性、二重の対象設定の問 題について指摘した。

 また、荒井は、スクールエスノグラフィー の固有の問題に、報告者の関心がかなり引き ずられているのではないかという印象を述べ たうえで、心理学などいずれの領域において も、何らかの形で対象を関係としてとらえよ うとする問題意識があると思われるが、そこ では、関係の質が問題となるのであり、ワー チのいう「伝達と交渉」ということでいえば、

伝達的な交渉場面が問題なのではなく、交渉 的な関係場面が問題であると述べた。

 大田から、エスノグラファーがアドバイ ザーとして対象に働きかけることによって、

対象との弁証法的関係ができあがってしまい 以前の対象とは違ってしまうと考えられるが、

それがエスノグラファーの本来的立場なのか、

エスノグラファーが学校内部に入りこんで子 どもや教師の相談役となることによって学校 を開くことがその本来的な仕事なのかという 質問がなされた。それに対して、上間は、現 在エスノグラファーの当事性をめぐる議論が

あり、その問題について、エスノグラファー が有する当事者性について一旦認めたうえで、

(エスノグラファーが直接やりたいものは相談 役ではないが)その当事者性について把握す

ることがひとつの解決方法としてあることを 指摘した。その上で、当事者に実践的に介入 せざるを得ない側面が生起してくることもエ スノグラフィーのなかにくみこまざるを得な いことがあるのではないかと指摘した。これ について大田は、エスノグラファーが介入す ることによって対象が変化してしまうことに

ついて、それに対して自分が明らかにしてき たことについて限定をつけていかなければ、

エスノグラフィーとして書かれたこと自体、

エスノグラフィーの調査結果として了解され ないのではないかと述べたうえで、ただ単に 学校に入り込んで観察記録を書けば、エスノ グラフィーとして認められるのか、なぜそも そも現場に入りこんで、エスノという手法を 用いるのかを先行研究との関係において明示 しなければ、学校に入り込んでいろいろな教 授活動を援助している保護者がみて切り取っ てくるようないわゆる教育実践の現場で切り 取ってきた記録との相違を明確にできないの では

ないかと指摘した。

 木戸口は、廣田の報告を受けて、教育実践 記録とエスノグラフィーは単純には同じもの ではないと考えているが、日本の教育学・教 育社会学におけるエスノグラフィーの系譜に ついて、教育実践記録に対する研究のどうい うかかわり方を指して、伝統があるとしたの か、また、教育実践を記録することとエスノ グラフィーとの相違はどこにあるのか。教育 実践という当事者性のあるものとエスノグラ フィーと密接な関係にあることは間違いない が、教育実践、教育実践記録、解釈というこ ととエスノグラフィーという方法論とを分け るポイント、メルクマールは何か。そのなか で、とくにどういうことが戦後教育学の実践、

分析の伝統の中で引き取る課題なのかという ことについてはどのように考えればよいのか という質問をした。

 乾は、日本の教育学全体についていえば、エ

スノグラフィーが方法的意味をもつのではな

いかと、かなり共通に注目されることの前提

としては、やはり教育実践との関係において

生徒固有の文脈のもつ意味が大きくなってき

ている、逆にいえば、すごく子どもを把握し

にくくなってきているという背景がある。さ

らに、全生研グループの生活指導実践記録論

において、実際に自分自身がやったことをど

う対象化するかということと同時に、それを

対象化しながら自分の振る舞いが生徒の固有

の文脈の側からどう見えてくるのかというこ

と自身を実践記録として対象化して描けなけ

(9)

れば実践記録たり得ないという議論がなされ た時期があることを指摘した。そこは、かな り実践記録とエスノグラフィーが双方の課題 としては重なり合う部分があるが、にもかか わらず、教師がどこまで対象化するかという 問題は限界があるとすると、そこの問題でエ スノグラフィーをどうつなぐのかという問題 設定はそのコンテキストではありうるだろう と述べた。そうすると、実践記録一般がエス ノグラフィーとつながっているようなことを 一般化すると(なきにしもあらずであるが、)

やや乱暴な議論になってしまうのではないか と述べた。乾の発言を受けて、木戸口は、エ スノグラフィーをやる人によって認識が違う と思うが、エスノグラフィーの可能性と限界 について、過小に評価する必要はないが、ど こからどこまでがエスノグラフィーの領域で どこから先がはみ出るのか、その領域をリア

ルに描く必要があるではないかと述べた。浜 谷も乾の発言を受けて、子どもの側の論理に 則した把握・理解力がなければ意味がなく、教 師言葉や教師文化でしか日常起こっている現 象を記述できない人がいくらエスノグラ

フィーをやってもそれを超えることはできな い。教師が自分の中で二面性、すなわち、教 師言葉や教師文化を体得していると同時にそ れを批判的に対象化できる力を有している人 はエスノグラファーになれるのではないか。

したがって、観察はナイーヴであってはなら ず、学校文化を分析するのであれば、学校文 化や教師文化とは違う専門性をもって学校文 化に切り込んで記述していくことが求められ るのであり、そのうえで教師の言葉との合作

(専門性のぶつかり合い)によって生み出され てくるものではないかと述べた。

文責:河合隆平(M院生)

参照

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