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戦時体制下日本青年団の国際連携 一ヒトラー・ユーゲントと

      朝鮮連合青年団の間(2)

大串 隆吉

ll 朝鮮連合青年団の結成と皇国臣民教育

1 結成の経過

 朝鮮連合青年団(朝鮮連青と略す)は,1938年9月24日,ヒトラー・ユーゲ ント代表団が日本に滞在している時に結成された。この結成の経過を述べるに は,朝鮮における青年団組織の経過を振り返っておかねばならない。

 もちろん,朝鮮には日本で言う青年団は朝鮮人の間には存在していなかった。

日本人移民特に,農業移民と漁業移民の間では,彼等の集落で青年会を作る場 合があった。総督府が朝鮮人の青年会の組織化に乗り出すのは,1919年の3月

1日に始まる朝鮮独立大示威運動弾圧後からであった。この時期,朝鮮人を対 象とした青年会は,独立運動により生まれた朝鮮人の青年会に対抗し,日本の 朝鮮統治に同調する青年を育てるために普通学校の教師によって自然発生的に 始あられていた。例えば,平安南道北院青年会は,「大正9年全鮮における青 年会は雨後の筍の如く籏生したるか当地に於いて此の設立を企画せんとするの 声を聞きたるか故に直ちに学校職員と協議し若しこの青年会にして彼等が為す が侭に放任するときは時勢上大いに危険化する虞あるを以て学校が主体となり」

作られ,自警団ともなったのであった。また,黄海道兎山青年会は,1921年頃 各所に生まれた青年会の多くが「社会の安寧を害し,社会進歩を逆転せしむる か如き」状態であったたあ,公立普通学校校長,警察駐在所長,面長らが協議 し普通学校に事務所を置き,校長,駐在所長などが顧問となった青年会を組織 した。この青年会員は,誰でも入れるわけではなく顧問と会長が「適当と認定」

した者しかなれなかった(58)。この二っの青年会から,この当時官によって組織

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された青年会の性格がわかるであろう。それは民族独立運動からの防衛組織で もあったのである。

 この学校を中心とした青年会結成の動きを総督府は進めた。1922年5月の道 知事会議で政務総監は「学校教職員等を中心とする青年教化機関」すなわち青 年会を作るよう指示した(59)。それは,3・1独立運動弾圧後に斎藤総督による

いわゆる文化統治一軍隊や警察による暴力的抑圧が逆に朝鮮人の日本への反発 をかきたてることにきずいたため,暴力的抑圧をひかえ文化的な同化政策をお こなう一への転換によるものであった。「青年会に対しその内容の如何に係ら す一概に抑圧策をとる事は文化政治の根本義と矛盾す」(6°)るのであった。1922

年の朝鮮教育令改正に表れた日本と同じ教育制度を朝鮮人にも導入しようとす る文化統治は,青年団にも適用されたのである。

 先の政務総監の指示を受け,青年会設置基準を定める道庁があった。全羅南 道庁が1922年8月に出した通牒「青年団体の指導監督に関する件」は,青年団

の性格を「青年修養の機関」であるから「青年をして健全且っ善良なる国民た るの素質を得しめ一中略一忠孝の本義を体し品性の向上を図り体力を増進し」

「国家の進運を扶持するの精神と素質とを養成せしむるを要す」と日本の青年 会と同様にし,「団体の事を統ふる者は之を団員の中より推挙せしむるを要す」

と自治的青年会の存在を認めたのであった。そして,青年会は小学校あるいは 普通学校設置区域,または面,洞里を区域として設置し,学校及び書堂を中心

として組織することを指示した。しかしながら,これは一律に作られるのでは なく該当地に信頼できる青年一「中堅人物」がいる場合に限られた。そして,

これらの方針は朝鮮統治の枠内,すなわち「併合の精神を閲明」する当時の

「内鮮融和」政策一同化教育の一環であった(6 )。

 青年会は,多くの場合日本人と朝鮮人とは別に作られたが,1924年に朝鮮人

の青年会758団体約10万人,日本人の青年会57団体約2300人,両者一緒の青年

会42団体約6600名にすきず,「殆ど成績のみるべきものなし」(62)と所期の成果

をあげることができなかった。1932年頃には,「青年会の設立各地より籏出し

たりしも,今日に至りては有名無実のもの多く,其の存在する明らかなるもの

勘からず」(63)という状態になっていた。そして,総督府は青年会を作ることに

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消極的になる。その理由は,民族運動のための青年会がふたたびっくられて,

うかっに作ると弊害が出てくると判断したからであった(M)。

 朝鮮の近代青年運動は,民族解放運動の重要な一環として展開され,3・1 独立運動後も共産主義・社会主義の影響を受けた朝鮮連合青年会が1920年に,

朝鮮青年総同盟が1924年に結成された。それらとは別に,キリスト教会内の青 年会や親睦や学習を目的とした地域青年会が作られた。これらは「親睦と民族 運動としての社会運動と文化運動をするために設立され」,彼等が経営した夜 学は国権回復のたあの実力を養成することにあった(65)。このような動きが,官 製青年会にもあらわれることを恐れたのであった。

 農村振興運動の一環として

 1931年頃から青年会の必要が,宇垣総督下の農村振興運動のために中堅青年 を養成する必要からふたたび生じた。1932年9月9日政務総監は通牒「青年の 教化指導に関する件」を発し,民族独立運動にかかわる朝鮮の青年団体が多い

ため,青年団体の指導に力を入れるよう指示し,優良青年会に補助金を交付し はじめた。同月27日には警務局通牒を出し,反日青年が青年会に入らないよう に厳重に警戒することを指示した。この時期,民族解放運動に加え,農民組合 に青年部が組織され,それらが中心となって夜学会や,公会堂が建設される地 域が生まれ,争議も激化していたという事情を反映した通牒であったと考えら

れる。すなわち,「悪いものは何時までも取締もし,又弾圧も加えるが,一面 に於いていい青年団があればできるだけ助け」るためであった㈹。

 農村振興運動は,日本の農村経済更正運動を朝鮮に適用したもので,「自力 更正」のかけ声の下で生活・営農改善の五ヶ年計画をたてさせ,実行させた。

その中心を村落で担うのが中堅人物と呼ばれた。その養成は,農業補習学校,

農民訓練所,講習所などで行われた。初等学校卒業生を対象としていた農業補 習学校も1935年からは農業に従事している者を選抜し模範的農民一中堅青年を 育成することに転換した。この目的は,農民訓練所においても同様であった。

彼らは,模範的な農民になるだけでなく,天皇制に結合するために神社を中心

に再編されていた朝鮮の行政単位(面・洞里)に合わせて地縁的共同性を引き

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出すことを期待されていた(67)。そして,地縁的共同性を引き出すための組織と して青年団を組織することが期待されていたのである。

 そのために,総督府は1931年より地方中堅青年講習会あるいは青年輔導講習 会を開き,1933年度から年2回開催する。1933年度の講習会の科目と講師は別 表のとおりである。これを見れば,日本の青年団幹部が必ず講師となっており,

農村振興運動と青年団の組織化が結合していたことがわかる。そしてその前提 には「帝国臣民」として「国体を尊崇し,君国に忠実であるという信念」が必

要とされていた(68)。

 別表

1933年春期講師・講習科目()内は時間数

地方改良と青年団体(8) 大日本連合青年団主事 松原一彦 地方青年と農道の大本(10) 総督府嘱託 山崎延吉 農業の合理的経営並実習(10) 総督府嘱託 八尋生男

農家経営の要諦(3) 中枢院参議 朴 相駿

1933年秋期講師・講習科目

農道の大本(10) 総督府嘱託 山崎延吉

農村経営の実際(8) 総督府嘱託 八尋生男

地方改良と青年団(8) 大日本連合青年団理事 田沢義鋪 農林試験場及高等農林学校 農事試験場技師 長井威三郎 臨地講演(6)

農村救治と中堅人物(3) 総督府嘱託 朴 相駿

農村の社会事業(2) 総督府社会課長 愈 萬兼

朝鮮の農業(3) 総督府技師 山本尋巳

朝鮮の儀礼(2) 総督府事務官 厳 昌攣

 しかし,青年団結成の方針は全道庁において重点課題とされたわけではなかっ た。総督府がまとめた『農山漁村振興計画実施状況並びに将来計画遂行上適切 と認める方策』(1934)によれば,青年団組織化を実施した道は,全羅北道,

慶尚南道,同北道,平安南道,江原道,威境北道,忠清南道で11道中7道であっ

た。ただし、すべての道で青年団以外になんらかの青年の組織化(例えば,普

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通学校卒業生指導)を行っていた)。そして,青年団は日本のように地域の全 青年を対象としたのではなく,振興青年団,指導青年団となずけ一部の青年を 組織したにすぎなかった。『朝鮮地方行政』誌1935年3月号は,「行政論壇」に

おいて農村振興運動のため「面に農村振興青年団を組織せしめよ」と提案し意 見を求めた。,翌月号に寄せられた郡守や道庁担当者の意見は,農村振興運動 のためになんらかの青年集団の必要性を認めながらも,それを青年団とするか どうかの一致は見られなかった。したがって,この時点では,行政担当者は青 年集団の必要性を認めながらも,青年団の組織化にっいては一致していなかっ

た。

 総督府は青年団の組織化に積極的であり,1936年5月に学務局長・内務局長・

農林局長・警務局長連盟の通牒「青年団の普及並びに指導に関する件」及び

「青年団指導要領」を発した(69)。これらは,青年団員の年齢を15才から25才と し,青年団の性格を「修養共励の機関」「健全なる国民,善良なる公民」をっ くり,「郷土文化経済の発達に貢献する」などとし、日本の青年団の性格を踏 襲し,かっ農村振興運動への寄与を重視していた。そして、重要な点でこの後

の朝鮮の青年団の基礎を作っていた。それは,第一に会員を初等学校の「卒業 生中志操堅実なる者」に限ることを原則にし,そのような者がいない場合は作 らないことにした。そして,「志操堅実なる者」からなる青年団を確立した後 に,その他の卒業生と卒業生以外のうち優秀な者を組織するよう指示した。第 二に,自治化を撤回し,団長は団員から選ぶことをせず初等学校長とし,班長・

副団長は団長の任命でその他の役員は団長の委嘱,班長・幹事は団長の命を受

けて活動するなど,統制管理,上位下達組織となった。この組織形態は,学校

で日本人化された青年による選良団体とし,植民地統治の先兵にしようとする

ものであった。したがって,朝鮮の青年団は,「社会を指導するとか事業を経

営する」のを適当でないと考えている日本の青年団とちがって,「社会を指導

する」ことになった(63)。しかし,通牒は,四半世紀のうちには初等学校の全卒

業生を団員とすることを意図していた。当面一部の者に限ったのは,不就学者

が多く日本語を解する者が少なかったこと,青年を内鮮一体の指導部隊にする

ためにはそれを支持する者に限らざるを得なかったからである(7°)。

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公民教育は皇民教育

 先の1932年の政務総監通牒は,青年会の目的を日本と同様に「青年相互修養 の力に依て品性を向上し体力を増進し以て健全なる国民善良なる公民たるの素 質を酒養し進んでは地方公共に奉仕し郷党文化経済の発達に貢献し国運の隆昌 に寄与するに在る」とし,1936年の学務局長他連名の通牒も「健全なる国民,

善良なる公民」の養成も目的としていた。これらによって1922年のそれと比べ ると「公民」育成の目的がつけくわわり,国民養成とが結びっけられることに なった。何故,公民教育がつけ加わったのか。

 その理由は,1931年から朝鮮人の地方制度への参加権を一部拡大したからで あったと考えられる。すなわち,諮問機関であった府協議会に議決権を与えて 日本人,朝鮮人別に選挙制としたこと,指定面を邑とし従来諮問機関であった 協議会を議決機関とした邑会とし,邑会議員及び普通の面協議会員を選挙制と

した。また,新たに道制を設け,道会を議決機関とし,議員の三分の一を道知 事の任命,その他を府会及び邑会と面協議会による間接選挙とした。しかし,

これらは多くの制限を持っていた。すなわち,府会,邑会,道会は議案の提案 権をもたず,選挙は制限選挙であった。したがって,この公民権は日本人と比 較すれば明らかなように,不完全な公民権であった。

 この不完全な公民権に基づいて公民教育と国民たる教育を結びつけようとす るとき,皇民教育が日本より早く強調されなければならなかった。公民教育は,

立憲国家,立憲自治が前提となるが,朝鮮人には立憲国家の公民であることは 拒否されており,立憲自治も不完全であった。そのことを合理化する論理は,

その不完全さが皇道にのっとっているという強弁であった。それは,1936年に 韓聖壽によって書かれた「朝鮮における皇民教育の特殊相」(『公民教育」6巻

4号,1936年4月)にあらわれていた。

 韓聖壽は次のように論理をたてる。1931年から選挙権が拡張されたのは,専 制から立憲自治への画期的大改正であるから,「立憲自治に対して,真剣なる 関心を持たねばならない」。しかし,そのための教育は「皇道政治への公民教 育」でなければならない。皇道政治とは,「天皇の『しらす』御統治に対して,

全国民が奉仕(まつりごと)するの仕組みを意味する。だから朝鮮における選

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挙行為も,選挙も,選挙せられた議員の議場における行為もすべて奉仕(まっ りごと)の精神に基づかねばならない」。

 っまり,立憲国家への政治参加が拒否され,立憲自治が制限されていても,

それは天皇の思し召しである。天皇の思し召しに従うことが公民教育となり,

それは皇民教育を意味する。ここでは,すでに公民教育は,皇民教育であるこ とが予定されている。結論は,「皇民文化への皇民を育てなければならない」

であった。

 1939年に朝鮮においては青年訓練所,中学校の規定が改訂された。改訂によっ て,訓練所及び,中学校の目的と公民科の目的は皇国臣民の養成になったので ある。青年団においては,1938年の朝鮮連合青年団の結成を前にしてこの目的 が前面にでてきたのである。

2 朝鮮連合青年団の結成から朝鮮青年団へ

 1937年7月7日日中戦争が始まった。朝鮮は日本の食料基地としてだけでな く「兵帖基地」としての役目と総力戦体制確立のための労働力動員の役割を負 わされていく。日中戦争が勃発すると,総督府は政務総監名通牒「青年団の強 化並びに普及に関する件」を1937年8月17日に発した。そこでは,「銃後の奉 公」、そのための「内鮮一体」が青年団の役割とされ,「全面的指導統制」のた

めに道連合青年団を年内に結成することを指示した。そして,翌38年1月朝鮮 連合青年団の結成が予告された(71)。この時期には,日中戦争の勝利のための総 力戦体制に寄与することが求められようになった。

 朝鮮連合青年団結成の1938年9月24日までに,皇民化政策の手がううたれて いた。皇国臣民の誓詞の制定,皇国臣民体操の開発,第三次朝鮮教育令の公付,

陸軍特別志願兵令の公布,青年訓練所規程の改訂などなど。また,朝鮮にあっ た自主的な合法団体を,幹部を強迫・懐柔して強引に日本の団体に合併させた。

青年団体ではYMCA, YWCAがそうであった。朝鮮YMCAは1915年に一度 日本YMCAに加盟したが,1922年頃脱退していた。1938年6月7日理事会で 日本YMCA再加盟を決定し,8月9日の定期大会でそれを承認した。また,

朝鮮YWCAは同年6月8日に日本YWCAへの加盟を決定した。これによっ

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て,朝鮮YMCA,同YWCAは国際組織から脱退し,国権回復を国際世論に

訴える道を閉ざされたのであった。

 朝鮮連合青年団結成のために,郡組織の結成が始められた。郡の第一号は 1937年4月結成の京畿道騙州郡連合青年団であり,道の第一号は同年10月結成 の京畿道連合青年団であった。いずれも団長は道の場合知事,郡の場合は郡長 にあたる郡守であり,副団長2名の中1名は,郡の場合内務係主任が,道の場 合内務部長であった。また,理事は団長の委嘱で,評議員には警察部長ないし 警察署長が加わった。朝鮮連合青年団の結成までにすべての郡と道の連合青年 団が結成された。

 発団式は道連合青年団役員と各青年団代表4200人余と志願兵訓練所生200人 が参加してソウルのソウル運動場で行われた。朝鮮神宮で入魂の儀が行われた 団旗が団長(朝鮮総督学務局長)に南総督から授与され,皇国臣民の誓詞の斉 唱,「海ゆかば」「朝鮮青年歌」の合唱,分列式,皇国臣民体操がおこなわれ,

日中戦争の勝利のために内鮮一体をめざし,青年が「銃後第一線の中堅たるべ き重責」を果たすことが宣言された。その後,東大門から南大門へと市中を行 進し朝鮮神宮に「君国に報ぜんことを期す」と宣誓を行った。そして,9月に 台湾連合青年団と共に大日本連合青年団に加盟した。

 団則によれば朝鮮連合青年団の目的は,「朝鮮に於ける青年団の発達普及を 計ると共に皇国精神の振起に依り帝国の興隆に寄与すること」にあった。総裁 の選任は評議員の決議を経て総督の承認を必要とし,団長は総督府学務局長の,

常任理事は総督府社会教育課長の宛職であった。理事と幹事は団長の委嘱で,

団長の命を受け仕事をすることになっていた(72)。

 結成当時,総裁に大野政務総監,団長に塩原学務局長がなった。1939年9月 の役員構成でその特色をみてみよう。総裁が川島義之陸軍大将にかわっていた。

常務理事は李源甫総督府社会教育課長,理事は41名で朝鮮総督府の役人,国民 精神総動員朝鮮連盟役員,朝鮮蹴球協会会長,京畿中学校長,京畿道内務部長,

京城府総務部長からなり,加盟道連青の役員は12名の幹事の内に1名いたにす

ぎなかった。理事と幹事合計54名のうち,朝鮮人は18名であり,日本人が多数

を占めた(73)。加盟団の意向が反映される道は各道連合青年団団長とその団長委

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嘱の者からなる評議員会(団則9条)にあったが,これは総裁の諮問機関にす ぎず,しかも団長は道知事であったから青年の意向による運営は不可能であっ

た。

 以上のような目的,役員,団則をみれば,朝鮮連合青年団は,朝鮮青年にとっ て皇民化政策と日本の戦時体制確立のための上位下達式の「天皇に絶対随順す

る」(朝鮮教育の三綱領のうちの第一皇国臣民たる自覚の徹底の解説。『文教の 朝鮮』151,1938年3月)ことをめざすファッショ的統制団体であった。加盟 青年団は,勤労奉仕団,勤労報国隊を結成して(この結成式は,神社の前で行 われた),砂防工事などの勤労動員や神社造営をおこない,陸軍志願兵制度に 呼応して身体訓練を重視して合宿をおこない,あるいは警察官を軍事教練の指 導者にあて,警察署長がその査閲官となった。さらに,朝鮮神宮を補佐する官 幣大社として創立された扶余神宮造営工事への動員,満州建設勤労奉仕隊の派 遣,靖国神社参拝・皇居の遥拝団の派遣などが行われた(74)。ここでは,社会を 指導する青年団よりも,軍事動員,労働力動員したがって皇民化の実践の中核 部隊としての青年団の姿が明確になった。

 他方で全羅北道では不就学青年の組織化をもめざして青年会が作られていた。

学校卒業者が中心となって夜学を設け,日本語の教育を行い,教練も行ってい た㈹。このような取り組みは,後の朝鮮青年団の時に取り組まれるようになる が,この時期にはは例外的であった。なぜなら,青年団員は初等学校修了者の 一部の者に限られていたからである。

 青年団員数は結成まで増えはしたものの,結成から一年たった1939年9月ま でに増加しなかった。それは,青年団が朝鮮青年に不評であったか,団員に適

青年団員数の変化㈹

年度 団数 団員数

日本人ノミ 朝鮮人ノミ 両者共同 内朝鮮人

1936年度 3560 154 3321 85 12a151 117450 1937年度 3047 134 2738 175 128,974 123,475

1938年度 3365 126 3056 183 161552 156,761

1939年9月 3363 125 3056 182 161486 156β71

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した青年が増えなかったかを示している。

 なお,女子青年団にっいては,1939年になると組織化が始められた。総督府 は「親日派」婦人団体の婦人問題研究会の発議を受ける形で(77)1939年9月2日 に学務局長通牒「女子青年団の普及奨励に関する件」を出した。これは,

1936年の「青年団指導要領」に準じながらも,既婚者・未婚者にかかわらず組 織し,小学校の卒業生単位と中等学校,専門学校の同窓生単位,さらに工場,

商店などでも組織することにした。指導上留意するべきこととして,皇国女性 の信念を確実にすること,家庭での日本語の常用化,朝鮮人と日本人との一体 化を挙げていた。しかし,39年9月当時朝鮮人が参加した女子青年団数は65,

団員数2899人にすぎなかった(78)。1940年秋には朝鮮女子青年団の結成が計画さ れていたが実現されず,翌41年の朝鮮青年団の結成に吸収された。

 1941年1月6日に大日本青少年団が結成されたため,それに応じて朝鮮連合 青年団も組織がえされた。同年3月4日朝鮮青年団が創立された。これは,青 年部,女子部,少年部の三部制とし,学校教育を受けている者を除く全青少年 を対象とした(したがって,少年部はlo歳から14歳までの尋常小学校,簡易学 校に在学していない者を対象)。したがって,従来のように対象者は限定され

なくなった。

 青年部は青年訓練所の生徒からなる第一班,20歳以下の非訓練所生徒からな る第二班,20歳以上30歳までの第三班に分けられた。そして,青年訓練所との 不離一体を強調するとともに,上からの直接統制を強調した。そして,単位青 年団は青年隊と名付けられ,邑・面だけでなく工場・鉱山にも青年訓練所と共

に設けることにした。

 その教育目的は「皇国臣民たる性格の錬成」を共通目標に,青年部第一班に は軍人精神の培養,第二班には国語能力の培養,第三班には社会向上の精神的 中核であることの自覚と垂範を重点とした。そのうえで,内鮮一体生活の馴致,

国防国家体制即応の心身鍛錬,団体的規律訓練の徹底,生産力拡充の実践を目

標とした。朝鮮青年団の新たな性格は,在学青少年を除く全青少年を対象とし

たこと,青年訓練所と結合させて兵士養成一具体的には陸軍特別志願兵の養成

に力点を置くとともに,労働力動員も目的としていたことである。それらのた

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戦時体制下日本青年団の国際連携一ヒトラー・ユーゲントと朝鮮連合青年団の間(2) II

めの内鮮一体生活にならさせるために,行事による活動だけでなく日常生活の

起居・動作まで指示していた(79)。

 1944年朝鮮にも徴兵制が布かれることになった。これにむけて,1942年10月 1日に朝鮮青年特別錬成令が公布され,12月1日に実施された。これによれば,

17歳から20歳の朝鮮在住青年のうち,青年訓練所・陸軍兵志願者訓練所・中等 学校の生徒・修了者及び国民学校初等科修了者を除いた者のうち,道知事が指 名した者は青年特別錬成所におよそ1年間行くことが義務づけられた。したがっ

て,青年団の第二班加入者が対象となり,青年団と特別錬成所との結びっきが 要求された(8°)。特別錬成所では,教練と日本語の学習に力が注がれた。青年団

にも総督府は「国語」講習会を開催させるようにした。青年団員のうち日本語 が出来る者に講習を行い指導者にした。「国語を解するか解さぬかは直接訓練 に影響をもっもので国語講習は青年団の大きな仕事になっている」と言われ た(8 )。しかし,実際どの程度のひろがりがあったのかは不明確であるし,強制 連行開始の頃とほぼ時期が同じであるが、青年団の強制連行へのかかわりは未

解明である。

 朝鮮青年団は朝鮮連合青年団とちがって,大日本青少年団に加盟しなかった。

1938年9月改正の大日本連合青年団規約と39年3月制定の大日本青年団団則は 朝鮮,台湾,樺太の連合青年団も含んでいたが,大日本青少年団の団則では,

組織対象を日本に限定していた。なぜ,そのようにしたのかは,判然としない。

しかし,次のことは明確である。朝鮮青年団が大日本青少年団と別組織になる ことによって,在日朝鮮人青年の組織との整合性が生まれたことである。在日 朝鮮人の監視と同化のために組織された中央共和会の青年部に,在日朝鮮人青 年は組織され,日本の青年団への加入は否定された。これによって,朝鮮人青 年を日本でも朝鮮でも日本の青年団と別組織とするという組織的な整合性が生 まれた。この中央共和会が結成されたのは,1939年6月であったから,朝鮮青 年団結成に影響を与えたと考えられる。整合性は組織の面だけではなかった。

中央共和会青年部では,軍事訓練が行われ,陸軍特別志願兵になることが推奨

された。この点でも整合性を持っていたのである。

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3 日本青年団絶対論と新世代論

 日本の青年団と朝鮮の青年会とは歴史が異なるのは当然であった。総督府の 青年団担当者もそれを認めていたが,彼らにとって日本の青年団は絶対的なも

のであった。

 朝鮮総督府嘱託として青年団の指導にあたった奥山仙三は次のように言う。

日本の青年団は,日本の社会から青年の社交欲を基礎に自然に生まれ,神社を 中心として育ち,敬神崇祖の精神を本来的に持ち,したがって日本の国体観念 の明徴が指導精神となる。そのような青年集団が朝鮮に生まれなかったのは,

早婚の習慣があったため青年の時期が十分に確立されなかったことと儒教精神 により大人の権威が強すぎたことにある。そのため,青年の修養の機会がなかっ たから,日本の青年のように青年の成長する機会を作らなければならない。青 年集団は,朝鮮では民族独立運動の中から生まれたのであり,そうした青年集

団は日本の青年団とは異なると言う(82)。

 日本の青年団を朝鮮に移植するには,先述したように国権回復運動,民族独 立運動のため,また日本語が話せない等の同化教育を受けた者が多くない為,

むずかしい。そこで,同化教育を受けた普通学校卒業生を対象にすることにし たのは先に述べた。そこで,朝鮮青年に訴えるために登場したのが同祖論とと もに新世代論である。すなわち,「殊に今日の朝鮮に在りては,青年こそ凡て の場合に於ける先駆であり第一線の闘士である。壮年以上の者は学校教育も受 けず,世界の大勢は勿論,社会の動向も知らぬ者が大部分である。現状に於い て朝鮮の向上発展を図り,如上の使命を達成するに,其の推進力たるべき者は,

青年層を措いて他にこれを求めることは勿論不可能である」となる(83)。この点 で,『緑旗』1940年11月号(5巻11号)の「座談会青年問題を語る」は注目す べきものである。

 この座談会では,「新世代論」が盛んだったとその意味が語られた。すなわ ち,「今志願兵制度などによって,若い青年達が新しい教育をうけてのびて来 ますが,すでに過去の時代に教えられた者は今更そういう教育は出来ないし,

この時局に対して荷の重さを感じます。一中略一今の学生達と違い,30代の者

にとって,時局と自分の差を感ぜざるを得ない一中略一今まで思想的にいろい

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戦時体制下日本青年団の国際連携一ヒトラー・ユーゲントと朝鮮連合青年団の間(2) 13

うな道を歩んで来たものですからずい分おくれているのです。」(李泰俊)「20 代の人と30代の人は,はっきり違う雰囲気の教育をうけて来たのですから,そ

の間に思想的にひらきがあるのは当然です。従って30代以上の方で時局に動く 人間に,二重人格,三重人格の人が多いのです」(上田龍男)

 ここで20代とは1922年の朝鮮教育令による初等学校で教育された者である。

この年1年生として入学した者はこの当時20歳代前半になっていた。そして,

30歳の者は3・1独立運動およびその後の民族解放運動の勃興の時期に物心が っき,彼らが中等学校生徒の頃1926,27年には同盟休校が増えた時期であった。

李が「思想的いろいろな道を歩んできた」というのはこうした影響を受けてい たことを意味する。日本人の上田は,30歳代以上の朝鮮人に徹底的に「不信」

を表明している。この「不信」は上田だけでなく,朝鮮の支配者が共通に持っ

ていた(84)。

 しかし,初等学校進学率も日本語修得者も若い方が増大したとはいえ,20歳 代と30歳代以上を世代的に画然と区別出来る理由はなかったと考えられる。こ の座談会の後半部分は朝鮮青年の「文弱」さが言われている。また,志願兵制 度を実施してみると,意外なほど「皇民化」政策が,朝鮮人の中に浸透してい ない現実にぶっかっていた(85)。したがって,あくまで世代論は相対的なことで あった。相対的な意味であっても,そこに若い世代の皇民化政策の同調が見ら れるとするならば(確かに,志願兵訓練所の希望者は増大した),また軍隊や 労務への動員に青年が必要であったことから見れば,世代論は一部の事実と期 待が込められいた。期待とは,新世代の創出の期待であった。世代論は現実の 一部であるとともに新しい世代をっくるという課題を意味した。新世代の創出 のしかけが,青年団であり,青年訓練所,志願兵訓練所,創氏改名であり,19 46年に予定されていた小学校義務制,そしてそれらを包み込んだ皇民化政策で

あった。

 新世代が生まれていると言う現実の一部は,強制的な統合によって生じたも のであった。それは,学校を通じてにとどまらず,青少年に影響を及ぼす解放 運動への徹底した弾圧,その指導者への転向の強要によって生じた。先の李の

「思想的にいろいろな道を歩んできた」という発言も,「いろいろな道を歩んで

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14

きた」結果,座談会で皇民化の道を論じたのであるから転向を意味した。1938 年延禧専門学校卒業して渡米後一時,大日本連合青年団の嘱託であった李泳根

(イヨングン)は「私は先輩を失った。友を忘れた。けれども何者にもかえら れない悟りを得た。それは私を救い,同胞を救って余り有る永遠な道なのだ。

日本天皇への絶対帰一を悟ったのだ」と書いた。そして,「心の底より転向し た人々」を「有り難い先輩」だと言った(86)。

 転向した人は,しばしば皇民化の先頭に立った。3・1独立運動の際独立宣 言に署名した朴煕道(パクウィド)はこの時期自ら主宰した純口本語雑誌『東 洋の光』で次のように書いた。朝鮮青年の使命は「天皇中心主義からあらゆる 問題を純化統一し」「内鮮一体や東亜における民族共和の精神を実践によって 示すべきである」,それが「全人類のために指導的役割を果たす」ことになる と(87)。総督府は,こうした転向者を雑誌などによる宣伝家として,講習会など の講師として,官制団体の役員として活用した。その状況は,林鐘国『親日派』

(コリア研究所訳,お茶の水書房,1992)にくわしい。朝鮮連合青年団の朝鮮人 役員にも転向した者などの「親日派」が名を連ねた。それらの人は,1900年代 前半国権回復運動にに同調したが,この時期中枢院顧問になっていたサ致昊

(ユンチホ),総督府警部,全羅南道参与をっとめた中枢院参議高元勲(コフォ ヌン),総督府警部,京畿道刑事をっとめた総督府社会教育課長李源甫(イフォ

ンホ)などであった。

 新世代の創出は,日本帝国主義の敗北によって挫折する。しかし,青年団の 朝鮮への移植は,その敗北を待っまでもなく不可能であった。その理由は,抵 抗を別とすれば、農村の社会構造とその習慣が異なっていたことにある。

 朝鮮近世に日本の若者組のような集団があったとは考えにくい。朝鮮の農村

部落,特にその多くを占めた同族部落では,書堂が15歳前後までの初等教育機

関として作られていたが,早婚の習慣のため書堂修了と婚姻の時期とは接続し

ていた。したがって,婚姻のみを大人社会加入の条件と考えれば,若者の時期

はないことになる。しかし,労働の面から考えると一人前と見なされるのは20

歳で,15,6歳でも一人前の仕事を任されることがあったから,15,6歳から

20歳が一人前の労働が出来るようになる移行期であったと考えられる(88)。他方

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戦時体制下日本青年団の国際連携一ヒトラー・ユーゲントと朝鮮連合青年団の間(2) 15

で兵役は16歳から始まっていた。日本の年齢階梯集団である若者組が婚姻,労 働などの面で一人前になる養成期間であったのにくらべると,朝鮮の場合婚姻,

労働がそれぞれ別の時期であったことの違いが見られるとともに,兵役と婚姻 の時期がほぼ同じであったことを考えれば,15,6歳で一人前であったとも考 えられる。いつれにしろ、子どもから大人への移行期は短期間であったから、

若者組のように長く必要としなかった。

 しかし,近代になってからは,青年という言葉が登場してきていた。すでに 述べたように民族解放運動に参加する青年組織で青年会がつくられていた。青 年という言葉が,持っていた意味を明にまだ出来ないが、奥山仙三のように民 族解放運動の青年会をきりすててしまっては,朝鮮の青年問題,青年集団の特 質を理解できないことは確かである。

皿 第2回ヒトラー・ユーゲントとの相互交流 1 交流の経過

 ヒトラー・ユーゲントとの相互交流は継続された。第一回の相互訪問終了後 の1938年11月25日に日独両政府により締結された「文化的協力に関する日本国 ドイッ国間協定」には文化的協力の分野の一っとして青少年運動が挙げられて いた。これにもとづきドイッ側は1939年6月24日に第2回の交流の提案を行っ た。折り返し日本側は文部大臣から,秋に20人のヒトラー・ユーゲントを50日 間受け入れると提案した。日独両政府は,相互の提案を受け入れ,ドイッ側は 9月12日ジェノヴァ発,1940年1月12日ロッテルダム着の計画を作り,日本国 内だけでなく中国,満州国,朝鮮も訪問することを考慮していた(89)。

 しかし,この計画はヒトラー・ユーゲントの出発直前に急転直下中止となっ

た。

 その理由は,同年8月23日に独ソ不可侵条約が調印されたため,日本政府が 日独防共協定違反と抗議すると共に,平沼内閣が総辞職したからだと言われて いる(9°)。しかし,日本政府が正式にドイッ政府に抗議したのは9月18日だった

し,ドイッ側は同年9月1日駐日ドイツ大使館あてに「政治状況を考慮してヒ

トラー・ユーゲントの今年の訪問は不可能」と電報をうった(9 )。この日にドイ

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ッ軍がポーランドに侵攻し,第二次世界大戦が始まったから,「政治状況」と はこのことであった。したがって,計画の中止は第二次世界大戦の勃発が理由 となっていた。しかし,独ソ不可侵条約が日本政府に対独不信をもたらしたこ とは事実であった。

 そして,翌1940年にふたたび計画された。日本の文部省は同年8月中旬駐日 ドイッ大使館を通じて「日独青年指導者交流要綱」を提案し(92),ドイッ帝国青 少年指導本部に了承された。その要綱は次のようになっていた。

 1交換

  1)両国の戦時下青年運動を知るために,両国各6人が交換訪問する。

  2)滞在期間中,すなわち代表が招待国に入国してから出国までのすべて     の費用,食費,洗濯代,旅費,荷物運搬費,医療費を含む滞在費用を     招待国が負担する。

    代表団員には,到着後すぐ一人当たり400円(ライヒマルク)の小遣     いが支給される。

  3)滞在期間は約2ヶ月。

  4)視察その他旅行計画の作成は,基本的に受け入れ国にまかされる。

 ll日本代表団

  1)日本青年運動から選ばれた6人の優秀で有能な指導者。

  2)代表団の長は6人にふくまれる。

  3)日本代表団は,1940年9月中旬シベリア経由でドイッへ向かい,2ケ     月間滞在した後,ふたたびシベリア経由で帰国する。

 皿日本での担当機関

  すべての交流業務は日本では,日独青少年交換会により行われる。

これを受けて,両国は準備に入った。

 日本代表団

 前記要綱に基づきドイツ側は日本代表団の受け入れ計画を作った。日本青年

が銃後活動を学ぶために来ると判断したドイッ側は,ドイッ国内だけでなく占

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戦時体制下日本青年団の国際連携一ヒトラー・ユーゲントと朝鮮連合青年団の間(2) 17

領地,保護地の視察も組み入れた。そのため,訪問先にはワルシャワ,プラハ,

ロッテルダムが含まれていた(93)。

 日本代表団は,団長小山隆(文部省社会教育官),団員榊原孝,宮田佐市,

木下禮一,山西長太郎,幹事小塚新一郎からなっていた。団員が決定された当 時は,まだ大日本青少年団が結成されていなかったため,大日本青年団から榊 原孝,宮田佐市,大日本少年団連盟から木下禮一,帝国少年団協会から山西長 太郎が選ばれた。代表団は10月14日に日本を発っ予定であったが,ソヴィェト 通過のヴィザ発行が遅れ,ドイッに到着したのは翌1941年2月26日であった。

そのたあ,代表は大日本青少年団(1941年1月16日結成)の代表となり,一方 ドイッ側がたてた予定は狂ってしまった。

 ベルリンに着いた代表団は,ヒトラー・ユーゲントの歓迎を受け,灯火管制 下のベルリンの暗闇を歩いてホテルに投宿,翌日ミュンヘン近郊のガルミュッ シュ・パルテンキルヘンに向かった。そこで行われていたヒトラー・ユーゲン

ト第6回冬季スポーツ大会兼第5回国際冬季スポーツ大会を参観するためであっ た。そこに1週間滞在した。その後の訪問先はくわしくわからないが,ウアウェ ルト,ゾントホーヘン,インスブルック,ザルツブルグ,ミュンヘンを経て,

ベルリン,チューリゲン,ケルン,ハンブルグ,キール,東プロシア,ポーラ ンド,チェコ,ウィーンなどを回った。その後は山西によればフランスにも行っ ている(94)。占領地も見せるというドイッ側の初期の計画は生かされたわけであ

る。

 ベルリンでは,第2代青少年指導本部長アルトール・アクスマン,宣伝大臣 ゲッベルス,外務大臣リッペントロップと会見,ウィーンでは前青少年指導本 部長シーラッハと会った。

 滞在中,山岳地帯のユーゲント・ヘヤベルゲを利用した学童疎開状況を視察,

「平時の施設は直ちに戦争に役立つように」なっていることに感心する。さら に,空襲下で文化遺産の保護が進められていることに感銘を受けた。ベルリン では初めて空襲を体験,ケルン,ハンブルグでも空襲に会う。特にキールでは

3時間に及ぶ空襲を受け,「近代の戦争には戦線と銃後の区別がない,とはよ

く聞く処であるが,この時程身にしみて,この言葉を味わったことはなかった」

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18

のである(95)。その後4年にして日本でそれを味わい,ハンブルグ,ベルリン、

ドレースデンが壊滅的な打撃を受けることを想像しただろうか。

 ポーランド,チェコでは,東に移動していくドイッ軍の大部隊で町が溢れて いるのを見る。そのためワルシャワに行くのをあきらめることになった。しか し,山西によれば「占領地帯における青少年の勤労奉仕隊の活躍は素晴らしく,

男子は土地開発や食糧増産,女子は幼児の世話と家庭奉仕。そうした奉仕の合 間における青少年運動の集団訓練などを見るとき,若きドイッの生命が謬勃と

感ぜられた」のである(96)。

 代表団は訪問先で熱烈な歓迎を受けたが,ポーランド等で東へ移動していく 大部隊を見た代表団員達は,独ソ開戦がおこるかもしれないという一抹の不安

を感じていた。帰国のたあのソヴィエト通過のヴィザがふたたびなかなかおり ず,5月25日出発予定が,ベルリンを発ったのは6月6日であった。その間,

ベルリン大使館などから独ソ開戦間近の情報を得ていたようで,代表団は帰国 不可能な事態を想定した行動予定も考えていた(97)。東京に着いたのは6月21日,

翌22日ドイッ軍はソヴィエトに攻撃を開始した。

 ヒトラー・ユーゲント代表団

 ヒトラー・ユーゲント代表団は,以下の6名であった。団長ハインリッヒ・

ユルゲンス,団員ヴィルヘルム・ダニエル,ルドルフ・ミンケ,ゲオルク・ティー ル,ハインッ・ロータームント,ハンス・ペーター・ションマー。団長のユル ゲンスは第1回の代表団員としても参加し,この時青少年指導部外交部極東班

長であった。

 彼等はシベリア鉄道で10月17日満州里に到着した。その後の彼等の足取りは 大日本青年団の機関紙『大日本青年』1940年11月15日,帝国少年団協会機関紙

『少年団月報』32号,同年11月28日及び大日本少年団連盟機関誌『少年団研究』

17巻12号,同年12月に10月末までの足取りと簡単な予定表がのっているだけで,

しかもその予定と若干違っているので,分かる限り簡単に紹介しておく。

 満州里到着後,同日恰爾濱着,青少年義勇軍訓練所を見学・宿泊した。その

後,新京,奉天を経て,23日朝鮮のソウルに着いた。ソウルでは朝鮮神宮参拝

後開催されていた朝鮮博覧会を見学,小・中学校の見学,志願兵訓練所の参観,

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戦時体制下日本青年団の国際連携一ヒトラー・ユーゲントと朝鮮連合青年団の間(2) 19

朝鮮連合青年団との交流などをして27日出発,下関・門司を経て28日別府に着

いた。

 その後,神戸を経て30日大阪着,大阪では大阪城見学,鍛錬野外道場で中学 生などの農作業を見学,文楽座で文楽を楽しんだ。10月31日伊勢神宮参拝,11 月1日東京着,東京では日本武道の見学,宮城遥拝・靖国神社参拝などを行っ

たが,主な目的は紀元2600年式典の参加であった。10,11日に出席後(ここで イギリスの代表と顔を合わせ気まずい思いをした),おそらく茨城県内原の青 少年義勇軍訓練所を見学した。12日熱海に一泊。13日沼津で岳陽少年団(歴史 が古く模範的な少年団)と交流,14日清水へ。日光に行ったのはこの時期らし い。17日長野県上田に現れ,更正農村として有名となった浦里村を訪ね,戸倉 温泉に一泊,18日石川県金沢を訪問,19日福井県永平寺に入り禅の修行に参加

した。京都を経て23日奈良に現れ市内見学,24日橿原神宮と畝傍御陵を訪ね,

25日大阪を経て,宮崎に26日到着,八紘台での奉祝駅伝開会式と大日本青年団 西部動員大会に参加,宮崎日伊文化協会主催カトリック教会天主公会堂での日 独伊交歓会に出席,祖国振興隊の作業見学などを行った。29日には鹿児島県霧 島神宮参拝,30日鹿児島着,海洋少年団と交流,全日本海洋少年団総裁竹下海 軍大将がわざわざ同伴した。12月1日熊本着,2日阿蘇登山,3日門司港より 中国天津に向かった。このとき,団長ユルゲンスはアクスマンからの近衛首相 はじめ各大臣への2600年奉祝記念品を贈呈するため博多から飛行機で東京へ向

かった(98)。

 中国での行動でわかっているのは,天津を経て12月7日北京到着,11日には 蒙古自治連合政府のカルガン(張家口)へ蒙古民族の生活と習慣を見聞するた めに訪ね,12日満州国の新京に向かい,13日新京着。ハルビンをへて満州里に

行くために15日新京を出発した(99)。

 さて,この旅行の特色は何であったのか。第1回の時と同様に「国体の本義」

に繋がる日本の文化・精神に接することにあった。その頂点が紀元2600年式典 への参加と宮崎の八紘台の見学であった。第2に青年団・少年団との交流であ

る。第1回と異なっていたのは,日本の植民地朝鮮と偲偏政権,あるいは占領

地を見学したことである。

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20

2 交流の成果

 それでは,日独の青年にあたえた影響は何であったのだろうか。まず,第1 回にはなかった,両国の「生存圏」であった植民地と占領地を訪問したことか

ら。第2に相互の文化・政治体制の精神の理解をめぐって。第3に日本の青年 組織に与えたヒトラー・ユーゲントの影響にっいて、述べよう。

 日本の代表団がドイッの占領地での青年の活動を見て,それを力強いものだ と感じたのは先に見た。ドイッでは日本の青少年義勇軍に関心が持たれていた。

Guerfes Kaufmann著『Das kommende Deutschland』Berlin 1943には「日 本の青年が,植民者の新しい世代を養成するたあ我々の農村奉仕に似ている植 民男子・女子青年のために特別の訓練所を持っていることは,注目に値する」

(223p)と書かれていたし,すでに1939年に『Das junge Deutschland』33巻 1号には青少年義勇軍訓練所が紹介されていた。ドイッでは占領地域で労働奉 仕隊が活躍し,1941年頃から併合地域での農村奉仕一武装農民が組織され,そ

の訓練所も作られていた( °°)。

 ドイツの代表団は,満州国で青少年義勇軍訓練生と交流して何を感じたのか。

それは,同じ課題を持った者としての共感であった。ユルゲンス団長は「『ド イッの国境付近には武装農民というのがあるが,17,8歳で出陣する満州の青 少年隊にはかなわない』と大いに感激」したと報じられた( ° )。また,ダニエ ルは青少年義勇軍訓練所で訓練生と交流したことをこう書いている。「質素な 訓練所の夕食の後活発な会話が続いた。そのとき数人の若者が熱心に彼等の経 歴とこの訓練所への入所動機を話してくれた。ここで重要なのは,日本人の見 方では冷淡で非友好的な満州国に理想を生かすために来て、人生を始めた若い 愛国心に満ちた人たちである。一中略一それに対し我々は我々の武装農民,世 襲農地,ヒトラー・ユーゲント活動(農村奉仕ほか)にっいて説明した。短時 間の座談であるにもかかわらず、この訓練所の青年達と強い結びっきが出来た

ことを貴重な経験,特別な喜びとして持ち帰る」(1°2)

 第2の点について。日本の代表団は帰国してから報告会を開いた。分担報告

したが,現在団長の小山の報告しか見ることが出来ない。この小山報告は「戦

時下独逸の青少年教育」と題して『日本青少年新聞』259号,1941年7月1日

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戦時体制下日本青年団の国際連携一ヒトラー・ユーゲントと朝鮮連合青年団の間(2) 21

に掲載されたもので,物質的条件の整備と計画性,精神的訓練と政治教育の徹 底,雄大なる目標一技術教育の実際・相関連する諸施設・一貫せる「現実性」

に分けられ,ドイッを絶賛した。

 例えば,一般の下級な技術はチェコ人などにまかせ,高級な技術者としてド イッ人が養成されるよう準備されているため,「少年工養成所の設備は立派な

もので,指導には少しの隙もない」と評価する。また,青少年の教育が国防軍 に結びっけられ,「青少年の特設部隊というものも直ちに国防に関連するよう に仕組まれていることに非常な堅実さを見いだした」のである。小山が,ナチ ス体制で学ぶべき点ではないと言ったのはただ一つであった。それは世界観教 育であって「此の点では光輝ある歴史を有する我々としては殊更に学の要は感 じません」と述べた。この点を除いては絶賛であった。小山に限らず代表団に 共通したことで,山西によれば滞独中,陸海軍の視察団と意見交換をすると代 表団員は礼賛に終始したため,海軍の視察団員からナチス崩壊を予告されたと

暑,(103)

Eiつ  o

 他方,ドイッ側はどうであったのか。彼等は日本の産業・技術ではなく,日 本人の精神と文化に関心を持った。彼等は,日本人の文化と精神を貫くものは,

祖先崇拝と祖国愛を柱とする神道であると考えた。また,日本人の生活を動か す精神は禅の中にあると考えた。中国を訪ねることによって,すでに皇帝もお

らず,伝統文化も廃れているのを見,「侍の国」の優位性を認識する( °4)。

 こうした関心はヒトラー・ユーゲントの代表団に限ったことではなく,ナチ スに共通した関心であった。それは,忠孝であり,靖国神社で再会しようと言 う宗教的精神であった。宣伝省大臣ゲッベルスは,1942年末『帝国』誌の巻頭 言に,「われわれが国民意識と宗教心と名づけているものを完全に一致させる

エネルギーを生み出せなかったことが,我々の国民的不幸である。それが実際 に意味するものをわれわれは口本国民に見ることができる。国民的かつ宗教的 な思考と感情から信じられない原動力をもっ愛国的熱情が生まれている」と書

いたのであった(1°5)。

 宮田佐市は,ドイッが日本より優れた点を指摘すると「ドイッ崇拝」だと言

われることは遺憾だとして,むしろドイッは日本人の精神に学ぼうとしている

(22)

という。「実はドイッの現在最も優れて居る部面、例えば責任を重んずる指導 者理論は武士道精神に,民族共同体理論は我が国の万民翼賛の尊くも美しい国 体に範をとりっっドイッの国情に適合せしめ様と努力しているのだと云う事を 知る事が出来るのであります」(1°6)。この指摘は,ゲッベルスの発言からみれば 的外れではなかった。ドイッ留学者あるいはドイッ研究者のなかでも,日本国 体の精神一その宗教性と帰一性をナチスドイッは学んでいるあるいは学ばなけ ればならないという主張が展開されていた。青年に限らず,ナチスドイッとの 交流は,日本人の中に「国体の尊厳」が世界的に普遍性を持っことが出来ると

いう確信をもたらしたのである( °7)。

 第3点に移ろう。

 第1回のヒトラーユーゲントとの交流が行われた1938年末から,第2回の 1940年末までの間に,青年団に起こった事を概観しておこう。

 1939年4月1日に大日本連合青年団は大日本青年団に改組された。大日本青 年団は連合体から「全国青年団を指導統制」する(規約第3条)中央集権的な 団体をめざした。団長には有馬良橘海軍大将がなった。そして,従来の修養団 体から,アジア盟邦青年組織との同盟,勤労報国運動など高度国家国防体制と 日本の生活圏の獲得のためのアジアの再編一「東亜新秩序」の建設をめざす運 動体としての性格を強めた。

 1939年4月から青年学校の義務制が始まったため,19歳までの勤労青年の義 務制が1945年度までに完成することになった。文部省はそれにあわせ,同年6 月小学校から大学生までの学校生徒を学校毎の学徒隊に組織することを計画し た。この案は文部省の青年政策の根本的転換を示すものであった。なぜなら,

青年を学校単位に組織することは,青年団の否定だったからである。そのため、

地域と郷土を基礎に結合してきた青年団には認めがたく,大日本青年団が抗議 するのも当然であった。この案は一時棚上げとなった。

 そのかわりに文部省が,青年団と少年団体の統合を計る計画案を発表したの は,1940年9月16日であった。これは,第二次近衛内閣による,高度国防国家 体制のための国民組織づくりに即応したものであった。このときから,1941年

1月16日の大日本青少年団結成まで,その性格をめぐって大日本青年団内には,

(23)

戦時体制下日本青年団の国際連携一ヒトラー・ユーゲントと朝鮮連合青年団の間(2) 23

ヒトラー・ユーゲント型組織を念頭に置きながら異論が生じた。

 『青年指導』6巻9号,1940年12月にはヒトラー・ユーゲント代表団と日本 の青年との懇談会が掲載されているが,それは指導者のあり方や,女子活動,

青年の体位向上などにっきヒットラー・ユーゲントから学ぶという体裁をとっ ていた。そして,この懇談会の司会が,大日本青年団常任理事栗原美能留であっ たことは象徴的であった。なぜなら,彼はヒトラー・ユーゲントにぞっこんほ れこみ,青少年団体の一元てき統制の急先鋒であり,日本の青年団はまだヒト

ラー・ユーゲントから学ばなければならないと考えていた。

 まだヒトラー・ユーゲントから学ばなければならないという意味を説明する ために,大日本青少年団結成と栗原との関係についてふれておく。大日本青少 年団は,一国一青少年組織で,中央統制組織であった点でヒトラー・ユーゲン トの影響を受けていた。しかし,その質にっいて反対する日本青年館職員は少 なくなかった。その理由は,青少年団が学校教育と不離一体となることにより,

学校の下におかれ,また学校を管轄する文部官僚によって統制されることで

(実際,青少年団団長は文部大臣,副団長は文部官僚であった。),青年運動と しての特質を失うことを恐れたからであった。すでに大政翼賛会が結成される 直前,大日本青年団本部の一部首脳部は大政翼賛会を準備した新体制準備委員 会に意見書を送った。その「組織大綱」は新組織=後の大政翼賛会に青少年指 導本部を設け,そこに青年局長官をおき,青少年組織に関する事項は青少年指 導本部に一元化することを提案していた(1°8)。これは,あきらかにヒトラーユー・

ゲントを参考にしたものであった。

 そこにこめられていた青年運動のイメージは大日本青年団職員里村正夫によっ て語られている。青年運動は青年の手によって行われなければならない。その 課題は時代によって異なり,この時代には大政翼賛の国民運動の一環として,

大衆的訓練,実践的教育の組織でなければならないから,実践と教育を結びっ かなければならない。すなわち,「青年運動の任務は大東亜共栄圏の確立一国 防国家体制の建設の国家目的に即応して青年大衆を広範に組織し,訓練し,動 員すること」にある( °9)。したがって,実践は政治的実践である。この主張は,

従来修養団としてのみとらえれていた青年団を政治・教育運動団体へ転換する

(24)

24

ことであった。したがって,彼等は大日本青年団にも満足していたわけではな く,都道府県連合青年団が行政に指導されているのを改め,中央から地方まで の行政から独立し,一貫した指導体制を作ることを意図していた(1 °)。そして,

彼等は青年団外の青年組織の一部の指導者からも支持を得ていた。

 彼らは,青少年団団長が文部大臣,その他の役員も多くが官僚になることか ら,官僚統制になり青年の主体性を奪うこと。そしてまた,教育のみを強調す ることにより,青年から政治性を抜き去り,大政翼賛運動にあらわれた新体制 建設運動のらち外に青年が置かれることへの不満を持った。彼らにとっては,

青少年団は姿こそヒトラー・ユーゲントに似ているものの,青年の中から指導 者を選び,青年自身を青年が組織する点,それにより下から新体制一ファッショ 体制を作る点において,そしてまた先の「組織大綱」のような集中性において 劣っていると考えた。学ばなければならなかったのはこの点であった。そして,

彼等が期待したのが栗原であった。

 先の座談会で栗原は,ヒトラー・ユーゲントにおいては指導者が青年の中か ら選技されること,ナチス体制を支える高度な政治性を持っ点に同感を示した のであった。さらに栗原が大政翼賛会青年部長になったことは,そのもとに青 少年団が組織されることによって運動の一分野になると彼等は考えた。反対派 の青年たちは,栗原が副団長にもなることを期待した(m)。しかし,大日本青 少年団役員は,団長文部大臣,副団長1名には文部官僚、1名は女性となった。

 革新右翼の青年団幹部のもくろみは,官僚機構の前に挫折した。栗原は青年 ほど徹底していなかった。「官は,陛下の御信任を辱うしているいはば表玄関 だ,表は表として立て,表裏一体となって国民は協力しなければならぬ」と栗 原は言った( 2)。青少年団の全国幹部が文部官僚になり,道府県幹部は内務官 僚であり,革新右翼青年が青年運動の中心になるべきだと考えた20歳代青年は らち外に置かれ,単位団は団長が青年学校長,副団長以下役員も学校職員が優 先された。青年団に対する指導・統制官僚機構は安泰であった。むしろ少年団

まで統合し学校の統制下に置くことにより,文部省の影響力は大きくなった。

大政翼賛会運動はナチスに可能であった官僚制に手をっけることが出来なかっ

た。大政翼賛会青年部は解散する。

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戦時体制下日本青年団の国際連携一ヒトラー・ユーゲントと朝鮮連合青年団の間(2) 25

 しかし,1942年7月大日本青少年団は大政翼賛会の組織替えに伴い,大政翼 賛会の傘下に入り,文部省は指導する場合は翼賛会を通じることとなった。そ

れにより「国民運動団体へ移行」したといわれた。しかし,規約の根幹は変わ らず,単位団,都道府県団の役員体制,単位団の組織体制は変わらず,「国民 運動団体」にっいての理解はあいまいであった(113)。なぜなら,規約の根幹は 変わらなかったため,依然として単位団は青年学校の下に置かれ,文部官僚の 介入は依然として守られていたからである。そして,その方針も変わったわけ

ではなかった。

 青年団の学校一特に青年学校との一体性は,青年団の地縁性を失わせた。な ぜなら,工場・事業所に作られた私立青年学校との一体化は地縁的結合を根拠 にしなかったし,地域青年の工業労働力の動員による私立青年学校生の増加は,

町村青年学校生の減少と町村立青年学校の統廃合をもたらした。青年学校の統 廃合は,町村において従来の地縁的結合を無視したより広範囲な青年団の統廃

合をもたらしたのである(ll4)。

皿 新しい世界秩序とドイツと日本の青年 1 大日本青年団第15回大会と日本の青年

 朝鮮連合青年団結成の翌年,1939年9月16・17日ソウルで大日本青年団第15 回大会が開かれた。この大会は,大日本連合青年団が同年4月1日に大日本青 年団に再編されて,初あての大会であった。同時に満州国,中国占領地あるい

は中国のかいらい政権下の青年代表が参加した日満支青年交歓会も開かれ,日 本のアジア植民地化のための「東亜新秩序」建設に貢献する「東亜青年の大同 団結」が叫ばれた。ソウルで大会が開かれたのは,兵帖基地となった朝鮮の青 年を傘下におさめたことを誇示し,さらにアジアへの影響力の拡大によるファッ

ショ的再編を行う「団結」を誇示し,そのための飛躍点にすることにあった。

すなわち,「聖戦の兵靖基地であり,神州大八州を胴体とすれば正しくその肢 体である」朝鮮に「全国大会の回を重ねること15回にして,今や我らは初めて 内地を離れ」大会を開けることは,天皇の威光のおかげであり,「日章の御旗

を中心として」東亜の新秩序を作る連携に意義が求められた(1 5)。

参照

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