第5巻第3骨(1954)
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十七世繹新英
エクイチイの観念について
−−−=一
主として土地制度に.現われたエ⊥−
大 西. 鎗 作
TheIdea of Equityin the Seventeenth Centur−y
New Eng1and Towns.
−−−P−
As Mainly Seehih the Land Syst占m・−−
By Eisaku ONISHI
(Agsistant Professor of、History)
(Received
序 英人の楓民により十七せ紀薪英洲に形成された敢会は,クサンTow・nなる農村共同体を単位と た敢会であつキ.穫って此の地方の土地制度がタウンを単位としたことは当然であろ‖此の地方甲タ ウンほその土地制度放勿論∴配会約。政治的・宗教的制度に於いて一徹性を持っていた.この事は植 民時代の初期にあって,新英洲地方が西部と北部をアパ’ラチャ山脈に遮られ,東部及び南部が海であ る組立した地方であったこと..マサデュセッツ湾楓民地が早くから此の地方の中心的位置を占め,他 の楓民地に影響を及ぼした結果であるり後者笹つきMl・、亭glestonは次の様に説明する.「マサチチ セッツほその特許状甲十分な特権及び人民の知性と繁栄によって.その土地制度ほ他の楓民地のもの より,よLり十分に叉より早く轟展した.、その人ロと富と権力の優れて王、たととは,他の諸制度と向じ く土地制度に於いても,全新英洲の法律と慣習に顕著な影響を及寂したいそわ結果他の楓民地り土坤 (1) 制度が順次発展して来た時に,実質的にマサチ,ユセ ッツの土地制度の彪式を取った−..」かゝるマサ こ.セッツの影響力につき■更に潜憲されるべきことほ「 ̄新英洲の大部分が漕植民地からの移民によって 盾按植民されたことで,彼等ほ其処に長く住んでいでマサチエセッツの制度を知り,その勧凌が此p (2) 地方の新しい環境の下に於いてほ自然であり当然であると考えていた∧連であったり.」 元来マサチエセッツ酒会敢は貿易会敵或ほ土地会敢として特許された一ものであって,利益追求を目 的と・する当時の普廼ダ会敢であったり1630年会敢自体がウインスロプを知事としてマサチュッツ一三移動した後,従来の性格を一・変した・・会敢ほ特許状を怒法とした政治体に変り,貿易も土坤の開拳 (S)
も偶人或は団体の経営に任せ,会敢はこれを管理する政府となった. マサチュセッツ植民地政府ほ特許状に依って与えられた土地を個人及び団体即ちクウンに譲渡す夢 (4) のであるが,個人に対する譲渡は数が少く面積も大きくなく,マサチュセッツの土地制度全体妃対す る影響はあまりなかったと云ってよい.土地の大部分は団体に.譲渡された..これがタウンの始まりで(8) ある. タウンほ,譲渡された土地を個人に配分し,或ほ共有地として保存した..かくしてタウンに
成立した土地制度は英国の開放排地制度を模ねたものであった.英国でほ荘園制度そのものほ染奴の香川県敬染料大学学術報告 ・2印
(8) 滑滅によって既に十嘩埠タ・騒彗断鴨の本質を失?て㌧湖ミ,∴即脛魯である開放排地制度は 依然広般に農村に残務L・武、た.r tンピユ⊥すク「▲、ジ由佳東嶺ミとあ希臓を二稀府したのは,この地方の大土
地所有を許さない地形から考え−マ・も挙琴甲_与キであ甲こた,、クウ㌢り土地制度ほ従って・本通りに面し
て「箇で囲まれ個々に所有された家と宅地」ゐ配置された密集村乱その筒辺の耕地・牧草地それか \うlら共有の森林。放牧場等の未分割坤牒り′壕野ていた・:
本稿の意図する問題はタウンの土地制度確立忙当って,主として宅地・耕地。牧草地の傭人えの分
割に際して現われたエクイチイ equityb観念の意義を求あんとする試論である註(l)MelvilleEgleston,TheLandSystemoftheNewEnglandColonie?,p」18
(2)Ibid.,p.18,■■、 (3)H‖L Osgood,TheAmericari・r’Coionie畠′ihth畠 (4)個人に対する曜嘩野主菜なも脚蚤,傘紅き植民鞄中産史に於いて最も優琴な孝に対して与えられたのであって,彼等の多くほ政府の役人であり牧師であった..又彼等は多くの場合会社えの出資額を考庶され
ていたい 彼等えの誤渡件数は1631年かゃ弊6年野草5鳩間に10C件余あり,その最大のものはIsaac
Johnsonの代理人(3,200acres),Nowell(.2,000),Saltonsta11(3,200),Winthrop(3,OCO)及 知事Cradockに対する∵一華平方中京件で,これ以外の着で50Qa9TeS以上を受けた老ほ非常に少く, 多くの誤与は大きぐてその半分位であつキい (,鱒gle*on,?plICit,pP・24−251)′lJ (5)十七世紀初期のタウンの多数ほ尭喪の±眉那魯婁経過Lた1第⊥の殿帽はPlantationの殿帽で,捻会議
の諷可によって始まり,多かれ少なかれ徽会読の監督の下にあったり総会議は各人えの杓分地の割当を 指示し,土地熱波の蓼件が蓮行されていなし噸な極端な場合にほブランチ←ショソを直接管理した・第 二段階は自治的なタウンでノこのブラソテてヨソからタワソえの身分の射ヒにほ名称の変更を伴う・そし−と広肢な自治権を与えられるノ(A:畠MacLeムr;EよrlyNe示‘Ehg、1姦ndToふn9,bp.1去・⊥15。)
(6)RりJl曾aふn6i,Th占A壷rari去n露6blemih−tムesi豪teehthdeiitury,pb∴ (7)、1bid.,pP‖159.十160。参看 (8)→坤neBushMacLear,Ear・1y、鱒ewEnglandL・T9W鱒苧,pl13・ T・JlW?rtenbaker,ThePuritanOlig早rChy,ppl43−16,50,56,571・参宕Ⅰ.㌧土クイチイの意義
責ク? 関するマチエセッツ政府の土地改発を指示した時のてサチ子ニセッツ植民地記録に出る言薬である吏Ib:チュlチッツ給会議generalcourtほ此の時委員貧を筑零し,ウインスロブ,ノニンプレイ・エ
ンデイコ 、ケと・■ほ土地分割につい∴亨ェクイチイで行った与云う記録ほ他に見出すことが出来なかったが,
イブスーウ くう) イブチがマサチエセッツ櫓民地改称の監督の下に作られた最初のプラγテーーシ′ヨニンであったこと・,及びマネチ云・壱ッッでは植民者えの主砲分配がイブスウイッ‘、≠
.式的に.毒満容抽ともエクイチイの観念で行ゎれたと考えることカ咄来るいイブスウイプチ以前のサレ
ムを始めとする数箇の盲きクウンに廉いては,÷サチユセヅツ湾会敵の綺導者がそれぞれタウンあ建 設者とこなってい・て,・−・肢的立法は密らく必要としなかった∴然し建設者達の考えほ新しいプランテー ションは全体の利益の矧こ厳纂さこ服従して経営されなければならないとし,叉彼等ほ.このこ主を実行 (4) していた斯から見て,これちの古きタウンの土地谷配もエタィチィの観念で行われたと云える. 土地制度と密接な関聯性のある相続汝について,1639年占ネチィカット櫓虚砲の給会議は,人が森遺言葦死んだ場合そ、り財産目録ほ取りあげられ.「公の会議血epubliduecourtがその財産を秦
2隕 第5巻第3号(1954) (5一)
(衰じあれば),子供或ほ‘近親者に.,エ〆i・≠Y=・こ於いて彼等が適当と考え.る、如く仕分配サjペ営
ことを命じた..このコ奉チイカちトのインチスクレィ港Ⅰ雨estac斎‡’Lawはデリ青ズ三、毒一サ≠云養〉
ッッのインチスタシイ法以後に出来たもので,コネチイカッ叩これら肯き植民地め例正敏ろたを毒
・壱ある./とゐィン・≠ス多シイ洪はイブズウイし;≠ゐ土地分割ゐ場合と南じ形衰ゐ女離磨産ゐ趨痴の 原則を示した.そ±で十七世由の新英洲の敢会では土地威ほ財産相続正蘭しそ土、タィチj一∼謎青襲をし (6)
ほしば用い,それによって或る具体的な観念を意図していたと考え.るこ1とが出来る∴
占三ニーガタン痕民者が向故に土地設計に.当って,そめ意図した朗をェクイチイの言贋 これほ一つの問題であるり英由でほ古くからコモン・ローに対するエクイチイが痴達し老いた立と滋考えると,楓民地政府の港律・命令にエク々チÅの表甥が取られ一たのほ英国の所謂法律と心て、のキク守
チ右ど関聯のあると.と.を思わせる.タウンの土地分割は英国人にとっては新しい出来事で,′英国の普
通法では律するこ.と.の出来ないものである.叉イ.㌣テスタシイ洪ほ普通法ゐ規定する長子闇鱒草鞋対
立するもので,此の点から考えて「も,ピーユ・−リタンがチタイチイの表現を用いたの畔英国のヲ亨㌣‘ア言
ローに対するエクイチイの考えがあったかと想像される.コ、ネチ、イカットの知事ローが1639年?ヲネ
チイカットのインテスタシイ法によって実施された決定について.,「これらの慣行は,判決例琴に博
せちれた法則r・u19Sに基づいて居り,統一J・の傾向を革すとは云え,部数判朗の胸のヰ樗華声.需ghも丁 (S) eopsnessとequityの原理に依って行われた」と云った朋を見るとコモpy・ロT7Tに対、す■るエク夕子
イの思想が出ていることが伺える. 謀(l)Mass?ChusettRecords,in Egleston,OplCit”,p・29(2)EglestonOp…Cit,p.・30 (3)Ibid、,p”44 (4)坤idr,P・29
(5)q‖頑Andrews,TheConnecticutIntestacyLaw,pPt5−6・
(6)十七牡由?新英洲に於いてほ人民の大多数ほ県民でその財固ま主として不動産であったから,イγテ スタシイj敬は一億の土地分割注と云えるい(11節参照) (7)justiceは抽象的概念を意凍し,equityはより具体的概念を示す (8)CMAndrews.Op“Cit‖;pl6・籾てエクィチ†とは具体的に何を意味したかは,総会法任命の各クウンの委員会成ほクウシの住属
(l) の椅会の多数決忙よって決定されるので,各タウンでまちまちであった..以下兜づマサチ.ユセッツの 諸タウンの土地分割を見る〃 (2)イブスウィッチの1634年に行われた土地配分はわからないが,1665年の分割はC6mmbn6r・Sに蘭
率による財産評価によって分けられた..その比率ほ4,6,8で最も貧乏な者も最二も富んだ宥め半分な
(3) 与えられた..Haverhi11ほエステイトeStateを税帳から評価して決定したり即ち1643年「£20胱
相当するエステイトの所有者ほ宅地(ハウス。ロソツ)として20エイカ【を与え.られること∴その額
以下の所有者ほそれに比例して土地を受けること.牧草地・共有地・耕地についても土’の比例でゆくこ
(4) と.」が決められたn Spr・ingfield(Mass.)でほ1636年の最初の契約によると.,すべての住民は「我
々がすべての者のquality▲と.estatesに対し適当と考える棟に.,」宅地更に排地及び牧草地の持分
与えられることハ排地に.ついては,「かかる土地の最大の利用者である人数personsを主として考慮 (5)
される;すべての敏草地・放牧場に関してほ家蓄とエステイトが富んぜられること, ・u…い」恥rrthampto・nでは割当は豪族に灘し,「nameS,eStateSandqualification」によYjセ行われた∴然
しすべての独身者は4エイカーの牧草地(その他の持分地及び家族の各人に対する6エイカーわ外に一) (6) (7)を持つこと.Hadleyの土地分割に当ってほ各proprietorは彼の名前に結びつくエステイドの
辟(50から 200患で)によって土地を分けられる..或る場合には150のエステイ†が各propr・■r
etor・に,多分その者の評価額rateに加えて,考慮された.此のタウンでは土地ほ,各人の玲掛こ記入された不動産によって分割されたが,不動産のない家族の戸主もそれぞれの・分割の行われた際に
50エイカー,50エイカー,11エイカーが分離の基準に考慮された小成場合忙は⊥50に相当する割当地が班
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香川県茸集村大挙率療報告 べての戸主に∴£25に相当する割当地が16才以上の青年に与えられた.・ かくしてHadleyの最初のpr・OPrietor・S の閤でほ最大の分前ほ最′トのものの四億に過ぎず,後には五倍と.なったが「分 (S)
割のエクイチイほ疑われなかった一.」 コネテイカノ†のタウンを見ると,最初のクウンはコネチイカノ =I「流域に.出来た三つのクサンで あるが,その−・〟つWethersfi畠1dでほ宅地は多くの場合殆んど同じ大きさで約3エイカーであった それ以下ほなく,唯例外的に6,10,13,18エイカーがあった。Guilfordでは「すべての者は.土 地の購買・。相席・測量その他プランテーションに必要な公畢を進行するに資するすべて甲費用に対し,相応の負担を持たねばならぬ… そして土地q)分割は,彼等の出資し,使った額に・正確に比例し (10)
て分けられる1・べきこと..」然し拒も公民の許可なしに 500以上を出資することは出来な鱒ゝつた.与れ鞋
類するものに∴KiIlingworthがあ、る..そのタウンの「箇条」articlesは誰も購入費本に∴100以上
(11) を出資す急ことを禁じた.Enfield でほ重点会が酸けられそれに「各人の叡当地が何処にそして如
何なる順序に」置かれるべきかを決定する権限が与え.られた.、i ̄委員会ほ最善をつくして適当な分配
をしようとし,その者が最初の排他で不利な場合は次の排他で埋め合わす棟に層力し七い」耕地の分
割に当ってほ.,党づ耕地を大きく北部排地。賓部排他。南部排他と分け,各propriretor;は各排砲
で−・1)の持分を持つ様に注意がなされた..委員会ほ南排他でほ,各人が彼の土地をト山・ケ桝で金部」
所有せず,その排他の・−・部分で「約半分を」他わ部分で残りを保有することを命じた.その持分地ほ
、lご1per・SOnSandestatesの汝則によつ■て与えられ,30,40,50,60エイカpと.なった。Wbbdburyで
は宅地と最初の耕地の持分地を合せて,第一一・級の者に対する25エイカ」から最下級の者に対する10 (l:l) ェイカpに.分けられた..Guildfor・dについては前記の如く最初は出資額に.よつ、たが∴考の彼の分割
二(14) 笹際しては「彼或は彼等の合計のエステイト及び各家族?員数」によったと雛らオtる.Milforpdで
ほ宅地は2エイカー四分の三から71=イカーまでの太いさで分けられ,此の分配ほ所謂persons and
(1う) estatesの法則によって決定された.その後q)耕地。牧草地の分割も牝の洪則によ?た.Labar号eはMilfor・dの土地台帳に‥基づいてその第一個の耕地分割について次の様に説明する.
「此の場合すべての者を公平に扱うことほ問題であった.土地はすべ、てが同じく肥沃とは限らず,叉 士地によってはその位置が不便であることもあったい そこで住宅から・一・哩成ほそれ以上屑恒れた岩石の 多い丘陵の麓に土地を与えられた者は,家から近い水利の傭のよい低地に二土地を貰った隣人に対し不 公平に扱われたと.云う感じを持つことは当然であるり Mi咋qrd は他の新英洲のタウンで行われた棟 に.所謂療嘩設定Sizin.gと.云う方法で此の問題を解決した…棟準設.定委員ほ分割される土地の地形 をあらゆる角度から見て標準的な−・地区を選定する..此の地所を榛準担と呼び,個々の割当地が鞄取さ れる時に,委員は注意深く,それを昭次度。豪からの距離のノ削こし於いて標準型と比較した、・その割当 地が標準型より土質が悪いとか,村落から遠いとか頁う場合にほ,委員は免税の特典を認めた特別な土 地を附加して与えたり 反対にその地層が棟準型よりよい場合和ま.譲与すべき蜃を■減らし然かも−・地 朗としで一・定の課税の対象として登鉄きした付 か掛こ・してすべての老が公平な取扱を受けることが出 来た.この耕地の第一−・次分割の対象と貪った土地は二つの地域で,宅地からの■方何によって東部耕地 西部耕地と呼んだ..各人は出来る限り衆に・近い耕地で土地を待た.一.各耕地は列“tier・S Or・声hots” に分けられ,個人の割当地はその中で地取りされた..此の場合更に公平を期する為に,各個入野割当(1(;) 地はまとまった一億朗で与えられず,二つ或は.それ以上に.分れて与えられた…」
以上新英洲の主なタウンの土地分割を調べたのであるが.分割方式は各タウンで異っていて一定の 単純な規則に・なっていない“然し−・般に数とエステイトが分割の基準として考慮されていることがわ かる.そこでEnfield或はMilford等で取られた所謂personsandestatesを・以て分割の−ト肢 的型として考えたいい此の規則は更に次の三原則,(1)その人のエステイトの大いさ,植民の′薦の共同費用に撞資した阻(2)家族の大いさ.(3)荒野に.於ける根底地建設の難事業の指導者とし
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(17〉 て申優秀性及び能力∴を藩味するとすれば,此ゐ地芳ゐ土地分割め基準として−パ層確喪に考慮され得
る‖かくてピュPリタンかェクイチイと考え七いたものはpersons andestatesめ規則と云うこと になる.此の規則を更に具体的に考えてみる′と;何れのタウンにもエステイトが条件に入って屠り, 数よりエステイトが重々ぜられたこ▲とが見られるが,然しエステイトをま過度に重視されザ,例えば出 資額の制約を受け(Guilford等),或はすべての戸主龍平等に一定の評価癖が与えられ(Hadl畠y),叉 不動産なき者。独身者も考慮された.Milfor・dの分割に著しく甥われた,土地の檀紙に応して配分を 公正ならしめようとする努力は他のタウンにも甥われている..かくて土地分割に甥われたよクイチ証 肇ま∴ エステイ〉トを謎め乍らも土地の均分化を意図していると−1芯解することが出来る 以上の土地分割のエクイチイについての諸史家のニ≡の見解を示すと,L∂bar・ee ほそれをピコー斗 (lう) (19) リタンの「平等愛」と解し,叉「正義と平等を求めんとする努力」の班われであると考えた.Weてtぬ・ bakerは,植民者ほ土地分酌に.当って「経済的ヂヰクラシイ・−えの決定的傾向を示した」とし,「宗教 野菜族故に対応する,即ち富の権威を主張し,来世の物と比較して此の世の物を崇める,富の鼓族政 (20) はあってはならない」と云って∼Labar6eと同じく楓民者の平等主義を到環し′たいこれに対し,軸−(望1) lestonは「我々の組先ほequalityと云う空想的理言釦とよって導かれたのでほなかった▲、」「数綾勿
論算定に当って重要な要素であったが,エステイトが備一層露要性を持ち顕著な位斎を占め叫肢に・分 し三三\ 割の主要な基礎とされた.」と云ってLabareeとほ稗異なる見解を示すが,然し叉「次なる不平等(霊:i) は助長されず,すべてが十分所有した…」として均分化の傾向を滑梅的に経めた
鞋(l)DorothyDeming,TheSettlementoftheConnecticutTowや苧 (2)CommoneI・Sは女ウソ設立に・当って,最初に土地の誤渡を受けた人達翠び彼等がその仲間に入ること を認めた人達を云う‖此の言葉は後拡大されて土地分割に際して,そゐ分け前に.与る人を広く指す様に なった∴Non・COmmOneI・Sほタウソ設立後その境域内にノ住む櫻檻なった人達であらゆる所有権から除 外された着である。(MacLear,Op.Cit.,Pp‖ユOl−102.) (3)Eglestop,OP・Citり,p・43い1634年の第一周の分割がユ665年の歩合と同じくエステイトに・よつf:とは必 ずしも云えない.−・股に時代が下る穫£ステイ、卜を畳んずる傾向を示す. 音 (4)1bid.,pl43. (5)1bld。,pp‖44,45. (6)1bidリp.45. (7う Prやprietorsと.云う言葉はCommoners と同窓義に周いられるが,やがて法的な交番に用いられる 様になった‖(1dib、,p、、36..) (8)1bid.,p‖33 (9)CM.Andrew$,TheRive;・Townsoiconnecticut,p,43 (10)Egleston,Op”Cit。pl4プ (ll)De叫ng,OpCitl,pl5l (]2)TJ.Wertenbak占r,ThehlritanorigarchiT,如47;50,51. (13)Ibid‖,p5l. (14)1bid‖,p.5l(15)LeonardWLabaree,Milford,ConnecticutThe Early Development of a Townas Shown inits Land Repords,P・4 (16)1bid”,p・5
(17)Ibidりp.4 (ユ8)Ibid‖,pりユ0. (19)Ibid。,p,29小 Labareeがピ土丁リタンが「平等を愛した」と云っているがそれがPuritanismの平 等主義を意味して屠れば−・考を質する,.Puritanism の性格は中世的衆族的なもので平等主義と云う 近代的考え方はなかった(l輩節参照) (20)Wertenbaker’,?p・Cit・p46 (21)Egleston,Op小Cit、、・p、、54・ (22)Ibid.,p,43 (23)Ibid,,p・54 ‡− インチスタシイ法とエクイチイ 1639年のゴネチィカット相見地が軸定したイγテスタシイ湊は,「エクイチイに於いて彼等が適当 と考える如くに,」財産を分配することを規定し.イブスウイヅチの土地分割の場合と同じく,エクイ
香川県隠農科大学率癖報替 264 チ・イの皐棒鋼内容を示さなかった.此の法律ほ.始めほ特別裁判所Pa′r−ticula‡CduI・′t,後払は過言裁 判所に.・’よって実施された‖遮音裁判所の決定は,一長男に大き、な分け前を与え,寮及び子供にほ殆んど均 分に蘭‘い発熱をす:る傾向を高めて−いつた..1699年総会議は此の慣行を・・−・定の轍の添徐に∴した.\その 改革は爽の如く規定Lた∴「過言裁判所は無渡貢の財産を次の如く分配すること.動産の三分・一せ永 久に秦に.(婚姻持参物権に加えて)∴後部は子供に(或ほ死んで居る場合はその代理人に),平等に (】) 分け前を争えるい但し長男にほ二人前を与えられる...」かくしてインチスタシイ故に於けるエクイチイ は明確な規則となった. インチスタシイ壊ほ既蓮の如くコネチイカダトのみに行われたものでなく,ごの慣行わ遁2′7年に卑 くもナガセスに行われて屠り,其処でほ「相続に於いて長男のみは年長者であるこノと.を認めちれ, 他ほすべての子僕が同列に置かれていた.」1636年にプリマスは此の慣行を港辞にこした= ノーVサチー左 セッツでほ1640年参議員会議t如court ofassisねnt寧ほ或無道富死亡者の不動産を,長男佗廃す \こ1 −る二人分を保留して,彼の六人の子・供に.分配した..かく新英洲でほ所謂分割相続なるものが早く▲から 準ざしていたわけで,コネテイカソト楓民地ほその先例に倣ったに過ぎなノい 当時新発洲の人民ほ大多数が農民で,彼等の財麿ほ.そり多くが不動産であったとすれば,インチ、或 タシイ漁は・−一層の卓也分割法と云うことが出来る..然る時直横土地分割に∴示された複雑なネク{う㍉ の執念は,インチスクシイ法の示した意味によ、つて明確化されたと∴考え.ることが根来る′..それは gg’王eston が滞極的に認めたェ・クイチイの軍革をイクオ刃チィ?傾向に1於いて肪醇化したといえ る 以上で串地合割に?\、て?エクイティの意養を見て来たが,このエクイチイ、の意義庖ヤ層噸確にす るブ薦に1は当時の英阻農相及び南部棉属地との対比に於いて,考察しなければならなぃ 十六世紀。十七せ紀御期の英国の農村では,チ1ユ−・ドル朝に行われた童として羊の牧場の箆の囲込 道軌ほ事実は大規模に行われず,農民の保有地は耕作地でも共有地でも大部分開放されたまゝであつ
ノた.償民の大多数をま宋だ伝来の農業経営度武郎ち「耕地の蘭政所地割廣」、と「共同の牧草地主.共同の
放牧地との共有使鳳」の下に鼻糞。敏誓経営を恵んセいたゎであり,彼らは・「錦未だ研作め共同約慣習 (3) によって拘束されていたい.」 かゝる農村にぼ古くからの村落共同体の伝統が或程度保持されていたと牢えるが,然しその農村酢 会に特大きな敢会的琴化が進行していた.それほ土地の兼併による農民層の分化であったり富裕な農 民層は褒しい隣人の土地を買収し秦儲して経軍規模を拡大しゆくと共肇こ,かつて十如痺割如でに 見られた30エイカ一針基準と.す5農桑り上申足首克英つ守一蔑ま, かくて棟準以下の過′卜碇も亦その姿を現わし始めた‖ か・ゝる分化は十六世紀に入ろとますます瞭かと (i) なった, で問題になるのは十五世紀のうちに苗代から存辞したヴァゲイ?の弾一一・性を待った土地制度が全く崩 壊し,十六世紀に.ほ更に一層土地兼併の傾向が進行していた点である..かゝる英国債村に於いては少 くともノ土地朗萄の平等化えの観念は存在しなかった一.更に植民地に普及したインチスクシイ汝は,英 \ニl、「 国普通法の長子備統港と金く対立するものであったい この薔は,コネチィカノトのインチスクシイ汝 が,或る者(ジョン・ウインスロプ)の個人的な糾害娼系から起った問題ではあるが,′ そして叉名香 草命以後の英画政府がとった重∵商主養改発の大きな舞台を背景として発展した訴訟問題であるが,17 (6) 28年勅令によって,英国旗に反し特許状による保証がないとして禁示された事実が,面よりもこれを 寡書きする..かくして新英洲共同体のエクイチイは英国磯村との対比からも明確な姿を取るものと云 える.− 又ヴァジ孟ヤ・南北カロライナ等の南部植属地を見ると.土地は個人む芋・争えられ,′妖埠。白人の 年期労働者を使役する荘園的領地を作らうとする意慾が直ちに現われ,インチスタシイ漁なく長子相第5巻第3号(1954) 265
く7)(8) 統法が取られて.大土地所有が現われた..南部植民地は,北部が英国農村の「■前封建的」面を探った
のに.対し.その封建的面を■一層搾用したといえる 証(・1)C・叩・IAhdrews,TheCo蕪etti$ut鱒率巌cyLaw,わ・6 (2)Ibid.,p‖5 (3)、T由Wney,Op∵Cit…,−pp.1ユS9・・・・・h16つ.開放敵地観度は針一・^隠記迄拡股に存在していた(G. 1yan,English SocialHistory序文 林氏訳による) (4一)大塚久雄教授,近代資本主義の系譜上166,ユ67亘 (、5)1066年の/ルマy粗服前に英国の大部分に行われていた琶庫相続の密行にGavelkindがあった.こ れは土地財庫の所凄者のすべての息子にり父の死に賢しで平等に分潮を与えられる慣行である.この男 子の相続者の間に土地を分け卑慣行は総革国の一部特にケ■ソトに行われていた(American Husbandry,edited by H.TCarman,P49n)イソテスタシイ沫はrG卑Velkihd と そ−ゼの辞沫からヒントを得たものか(EglestoJlりOpィ′Citノノ,pノノ55参照) (6)Andrews,Intestacy Lawp12 (7)LMHacker,TheTriumphofAmerican℃apitalism,PP・106−110参著 大土地所有の例を見ると,十八倣紀初期でのヴブージチャのことであるが,WilliamByrdニ踵はユ00,O COェ・イカ誉−の大地主となって恩り,RobeTtCaIteてが死んだ時,後に300,〇00ェイカーの土地を減産 として残した. (.8)Intestacy Law,p.28
寛 A.1B.冨ulbert撃とH.B.AdanlS祝
典同体り羊ク、イチイ,或ほエクイチイの背景をなすコムナルCOmmlユnalな鷺熟ま如何に説明さ れるべきか,本節以下でエクイチイを規定する諸条件を検討する A”B・Hulber・tほ人間的要素よりも地理的要素を強調し,この地方のタウンは敬啓地によつて. 慮もよく説明され得るとして次の様に.云う.「これ等の凸凹の多い諸州は,これ等の無数の鮮かな卜さ な草地,即ち−・定の限られた数の廉族がそれぞれ生活するに十分なだけの大いさの地溝から,叉云い かえれば大きな高地。沼沢棚減森林が附属している肥沃な牧草地の見地から考えられねばならない..此 等の牧草地の′トさい面積.それに続く土堆の番卒な性質は大きな主要作物の栽培を不可能にし,各島 場はそれぞれの土質に腐って各轡の幾産物をつ、くる..如何なる土塊も,コネチィカノ (1) さえ,数ロノ′ド或ほ多ぐて:数埋以上にほ拡がっていない….」 新英洲のタウンの成立成ほその土地制度に.,此の地方の地形が大きな関係を韓〉つたことば無視でき ない..此の地巧の二地形は西部から北部にかけアパラチャの評佃脈が走って居り,それが高度1,500呪か ら2.000沢の焚から,ゆつくりロング。■アイランド。サウンド弟び大西洋に下がっている小この傾斜地野 はかつて平原の傾斜をなしていたが,浸蝕の結果凹凸の多い丘陵の集合体となった..梅岸は沈降によ りこ一ユー・ジ ャr・シイ以摘に見られる大きな平野を欠いている.この地方の土質はその多くが氷河時代 の沈澱物から主として成り石を多く包含し,コネチィカノト町流域を除けば,耕地としては不適であ った..植民地時代の研期にあっては,・一山エイカーの土地からこれ等の石を除却するのに60日q蚤労働 (空) を普通要し,−冬立てば又石が解明し,耕作する前に.もう60日の努力を必要としたと、云われる.かゝ る頑固な土地に.依存する生活は困難なもので∴不括者や不器用者ほ生活を維持してゆくこと.が出来ないし,まして余分な生産物をあげることは不可能であったいかゝる地形と土質は南部に発展した様な
(:う) プランテーション制度の成立を許さず,農戌ほ小農地を自らの智意と労力に依ってのみ維持して行く ことが艶釆たい新英洲の土地制度が開放新二租馴鹿を模し,各自の保有地が′トさく且つ均分的傾向を示 〔たのは.如上の土地柄を背景に考えなければ理解出来ない相 打dlber・tは新英洲の地形の中特に、牧草地を蛋要祝したのであるが,牧草地はこの地方でほ少く此 処彼処に散在して,移住者にとっては貴重な対象となって−いた.マサチエセッツにしろコネチィカブ266 香川県立顔料大学学術報告 トでも・政府がタウンえ土地を譲渡するに当って特笹一小足のて比撃の牧草地を含むことを条件としたこ \1\
とは,牧草地に、ろいての富野さを示して居り,又プラ/テ∴ションの開けた順序が準草地な追うてい (5)
たことによっても,タウンなる密集村落の成立に牧草地が大きな影響のあったことは見逃せない・
Hulber−tは動こ牧草地の意表について次の如く詮明する..「■この倭小な敬啓地のもたらしたもう
ーつの露要な影執ま・精密な測量を必要とした・ことであったい牧草地は各漸英洲開拷地の生命の血で あらたから,その土地の一明まで異常に潰還なものとなった瀾凱ま注意深い精密さを以、つて吋及び吋の十分の−せでなされた.限られた牧草地について,かく吋まで数えて注意深く境界線を引き,自分
の権利を守ると共に他人の権利を犯さない桜に,靡い深く垣や隅の柱を看視しなければならなかった (6)
羊とは所謂ヤンキーの寄合。貯蓄心。悼揺さ。払潤さの性格を作った一・つの基礎的理由であったl・.」 牧草地に見られる細い計算は前記Milfordの桝地分割の際に取られた所謂畠izingを思わすものがある・敏草地掛でないにしても此の地方は,よき排他少く土地に稜々の変化があったのであるか
ら,む地分割に・当って典民の関心が大きかったこと.が想像される..Labareeがピ1⊥リクンの土地
分割を見てその平等愛と云ったのほ,此の地方の地形が戎程度影響していると云えよう.
H∴臥Adam苧ほ新英洲の土地制鹿ほ英国より来たものであるが,それは本質に於いては十七世紀
の準国鍵村のそれでなく,苗代サ・クソンの更にゲルマンの共同体の土地制度の番頭であると主張し た..Ådamsほこれについて次わ棟に瀧明する.「リークソン人のコムナル‘な精掛まノルマン・コンク エスト以後も残り,タウン/ジ/ヅプとパリノシュの中に存続した..殆んどすべ七の解毒の荘園の中にそれは特続した..荘園には殆んど必ず共有地,或は領主の荒蕪地Lor・d′sWasteとして知られる大き
な地嘩があった… こゝで土地なきテナツツ1andles占一te云ant去は,若干の背からの共有権即ち森林○芝土。敏寛一放牧の共有権を陳持していた..これ等の権利はサクソン村落の農民の省き権利の痕
跡に過ぎない..然し此等の共有権の権利は,中世英国の荘園制度と苗代ゲルマγの村落共同体組織と (7)
考結ぶ瑛の役をなしている.」「 ̄サ・クソン戌族は村落共同体の制度と農業慣習を竃代ゲルマニしヤから (S) 英国の楽部にもたらしたのであって,」掛こ十七世紀に「ニュー・イングランドの東部にもたらしたけ.」
これと同じ意見がG.EいHowardに.よって敢り上げられた∴Howardはクウンの政治制度を中
心として論じて,「 ̄英国の地方制度を移植するに当って,ニつの注目すべき現象が起、つた一.新興洲の クウンの政治は−披的輪郭に於いては母国のそれを継承していることほ認められるが,然し新薬洲の 政治を独特のものたらしめる様な創造的なエ天や実験が多くあり,制度の名称。機能に新しいものが 多くある‖又他面非常に興味ある制度上の逆行の例が見られる小原姶村落共同体の多くの常徴が復活 しているい 植民者は1,000年をさかのぼり.漸に出発し直していた..更に.精確に云えは滅びつゝある (9) とほ云え,まだ滑械していない母国の慣習に新しい生命が注入されたのである‖.」臥上岡氏の見解は 漸英洲の共同体の制度なり観念が省きサクソンの共同体から起るとする朋謂ゲルマン起原詮であ る Adamsはクウンの土地制度の一腰的面特に共有地の存在及びそれに関する規則・憤蜃を見た上カ、 ら,サクソンの土棚制度の靖頸を主張するのであるが,これ等の点についてはAdams、の云う如く, tll■) 新英洲の土地制度ほサクソンのそれと「懐接の類似点.」を・持っているり然しAdamsほ土地分割につ いては殆んど触れず,ただSal占mの土地分割につき次の様に説明する..こゝでは宅地は普通紛1’ェイカーの広さであった.耕地の分割は家族の数により決められ,最小の家族も10エイカー・を保痴す
る..「10エイカplotteとhouselott」が家族の戸主にとって鱒当な静与と見なされた..より多 く囲込もうとする企てがしばしばなされたが,タウンの当愚者は断呼としてかゝるすべての違犯を罰 (11) した..文末亡人も耕地の分割を同様に受けた以上のAdamsによるSalemの土地配分を見ると,単純な平等の原理によるもので,Salemほ
土地労割から見て−も,古きサクソンの額念が復活しているといえる..然しかゝる単純な平等の原琴笹第5巻療3骨(1鮎4) 267 (12) よる分割の例は償′トであって,土地分割?テク1チイは一腰に数より寧ろ封建的なエステイトが歪ん (1こi) ぜられ,サクソン的観念とは興った「−それ独特のものSuigeneris」と考えられるが,エステイト を富祝しながらも均分的傾向を示していたのであるから,タウンを支配したコムテルな常識の頸われ と/見ること (14) の観念にノ通ずるとすれば,エクイ、チイほ叉ゲ/レマンの共同体観念の苗甥と云える
此の場合サ・クソッの省き共同体御念が再現されるのほ、,新英洲の原始的環境に接して,民族的房
統,遺伝或は尭入感が働いた結果と云うことになる..十七世紀の英国農村にほ苗代の自治的な村落生 活の逸物が残二って居たのであり,アングロ・サ・クソンがかつてゲルマニヤから移動して来たブリトンの原始的環境と似た噺英洲の地形に感触した場合,移住者が無意識にそれを顔清さしたと云う画も考
え.られないことはない..Adamsは勿緬この移属が団体をなした移虎であったことを考慮した上ミせ, コムナミルノな精神の復活を云って\居ると考えるが,何が故に南部植民地と興って移民が団体移住をな し,根民地政府も団体に妾として土地を与えたか,更にこの団体によって形成されたタウンの性格ほ 如何なるものであった 詳(1)J.T.Adains,The American,pp.42−43 (2)MaxS琴Yelle,TheFoundatiohofAmericanCivilization,pフ8 (3)北部に於ける白人と黒人の能率を比較すると,白人の能率ユOCに対し黒人のそれほ4つに過ぎ■ない (鱒Huntington,CivjlizationandClimate,p・22・) 北部では叡姦の使間は経瀦的に不利であった(4)CM.AndTeWS,Tbe RiveでTowns o壬Conn,pp36・−−3フい コネティカットでは普通大分・の一項 はノ‘し分の−の比率…Egleston,Opl申,pり32
(5)Egleston,OPCit,Ph32 (6)JTAdams・Op・Cit・,p”43
(フ)rf BAdams,TheGermanicO璃inofNewEnglandせowns,p..
(9)G,E…Howard,AnIntroduction to七he LocalConstitutionalHistory of the US・Vol1,
p“5l (10)C.MlAndrews,The River Towns ofConn,p..43
(11){1H.R Adams,Village Communities of CapeAnne and Salem,pp.3l,33サー35
(12)Egleston,Op・Cit・,pp.42N43 (13).Andrews,RiverTowns,pl43
(]_4)新英洲のタウンの起源については諸税あり,AdaTpS,打0・ⅣaTdと同じくダルマソ起源静を取る史家に JoIln Fiskeがある‖Fiske,ほ然し教会の影響をも諷めた
(Fiske,American PoliticalIdeas;CivilGovernmentin the uSh)
ダウンrの教余起源説をはつきり取る史家にNoahPorterがあるP彼ほ云う・・“Outofthechqrcn grew the town;Or rather 坤e town was evolved or developed along with the churGh
Whetherchurchmembers,aSin Massand New Haven,Wereatfirsttheonlyvoter軍, or玩・hether,aSinConn,thetown votedintoits commc血Wealth,those men,and those only}Who were fit to be fre如1en,itwas au:the same,aS the church was thegerm and the meeting house wasthe $enter Of the self−gOVerned commonwealth,and became the scene of a11those public transactions which should connect man with his fellbw
man,and withhisGod,irianOrganizedand commonlife”(Porter,The New England Meeting Hou$e.p4J) EいChanningはゲルマン起源説を全然拒否したわけでないが,次の三条件から起ったとする.(1)積 層地の経済条件(2)移住者が母国からもたらした政治的経験(3)植民地に適切なものとして確立さ れた教会制度と土地制度.ElChanning,TownandCountyGoYelhnment,pp。51M26. 絨その他マサチコセノツ特許状を模ねた併にタウンの政治制度の起源があるとする「特許状班論」 新英洲の環境ほ移住者の住んで来た断とは全開異なっていたので,移住都ま政清史上新しい制度を創 めたとなす「独創誅」,叉スイスの工,andsgemeindeの模倣とする誇もあるLJ.FSly。TownGovern・ mentin Mass,pp5;・NS2,68.参看
香川鼎立農科大学学術報告 268
ⅠV Cong軍曙ationa且呈sm
くi) 新英洲への構成は「コングレダイション,隣人,家族によって」行われ‘たことが特徴である.マサチヒ.サッツの盲いタウンの例を見ると,Watertownほ英国のエセヅクス州 Boxfordのコ
ングレゲイシ∵ヨこ/の住所となり,彼等ほ.教師Philips及びRichardSaltonstall卿に導かれ一彼等自身 及び彼等の家族を荒野に移すことを決心した.Dor’Chesterは「■西部の地方West Country.」の人々 グループによって植.民されたのであ Plymouthを去る前に教会を作っていたルRoxburIyはその多くがrlンドン及びその周辺特に・エゼヅ し二1クス州のMainzから出た人々のグルpプによって作られた“Cambridg’eの設立は独特のもので
知事・副知事・参議員に.よって特別な層的即ち楓民地の首府であり防築の重層拠点として作られ、程. 然し此のタウンもグル,プに.よる移民に.よった.,即ちBraintreeの・−・団がNewTowneえ移転す ることを命ぜられ..後にShepardの挙る−∴団が本国から加わった..Shepardが移住するに薫った理 由の一一つとして彼自身次の棟に云った..「母国の若干の人々が.私の親しい友人であるが,共に生活 する為に.出かけることを私に求めた‖或る者ほ党に・行っていた.∴そ・して私に手紙を寄こして,我々の 仲間の為に土塊を用意していることを知らして来た.その一人ほJohnBr・igbtである∴私ほ私と共 (3) に其処え行くことを,私の基督信者の友が決意したこと.を知った。」 コネ・チイカ=・のタウンはマサチエ・セッツかちの移動と・よぅて成立する?であづ七,1634年Wate‡・t tQWnから最初の移民がや、つて釆Pyquazに住所卑定め∴翌年彼等のjソグレゲイ5/去ンの他の者達が其処にやって釆た.この移動にはWatertownゐ牧師Ge占rgephillips及びネの会衆の多く
が参加しなかったので,彼等を革別に新しい教会を組織し,彼等自身の教師を呼げ串ばならなかった.1635年の真に・ほDorchester’.の会衆の:一朝がMatt?n甲ug笹碍屈し‥Johp・Washam及び残り
の会準が翌年加わり,かくてそのコングレゲイショγ傘部が移動レた・何故に,1635年の秋Newtownの先駆者がSackiaugに植民し.・翌年牧師Thomas Hooker 及び Newtownのコングレゲイシ
ョこ/の観部が加わった.1637年にこれ等の植民地はそれぞれ Wethersfield,Windsor,Hartford く4〉 と命名され,コネ∵チイがソト相成地の基礎が出来た. Milfordの植戌は最もよく漸英洲の植民の形式を示す.∵このタウンは′New Haven から分れた ∼・団のビュrリクンに・よって1639年作られた.この…−・団の中心人物ほHerefordshii・e出身の牧師 Peter∴pruddenであった”このl・一層の移住はこれで三回目で,これよ隼揮半前た彼等の多くは−ヤruddenの友人であり叉彼の教区居であった一口ンドシからJohn Davenp9rt,ilheophilus
Eatonその他NewHavenあ建紋者と共に,一腰をなしてボストンに渡駄して来た..一年の後に ボストンからDavenportの・一団と共にQuinnipiac川の河甲に移動し,New王申V誓のタウン を建設した”こ\でPr−uddenな中心とした−・団は替らく滞在するのであるが,NewH年Venの教会 が組織された同じ日にPruddenの友人達ほ別笹に会合し,彼等自身の教会契約を結んだ。Pr・uddenは前年の冬牧師の屠なかった Wethersfield で説教したことがあり,この馬Wethersfieldのl一
(㌘・) 時的に彼の教区民となった人々の若干が,彼の人物に打たれMilね‡・dえの移動に加わった 以上の植民の形式を見ると甲なるグルー−・11或は知人の填りでなしに,▲コングレゲイションの移動時 にはその全部の移動であり,その中心に牧師が屠ること.が注目される.更に重要なこ\とほ,Dor・Ch− ester・,Milfor・dえの楓民の場合,移動する前に契約による教会を組織していたことである..教会を 持たずに楓民した場合,タウン設立と.同時に契約による彗会が作られた 教会は契約に・よって成立すると云う思想即らCor鳩r・egationalismは.,元来セパラテストSepa− r・atistsの作り則したものであった.1t=パラチ女トほルpテルの=priesthood of allbelieversけ に拠り所を求め,その昔実に含まれる論理を徹底的に追求し∴基′好教会のデモクラシイーの概念に尿269 第5∵巻第3骨(1954) (6) 直でに何元寵.一その盲典由理論を始めて明確にしたのはRobertBr.owne‘であうた1・彼に・よれば; 「英層教会の改革が不可能なら独立のコングレゲイションを設立すべきであるい コングレゲイシ、ヨン
の権威は国立教会から得るのでなく,紳から慣接待ているのである..炭の信徒の団体は自ら結合しで
紳との契約によわて基督の教会を構成する∴僧職授与Or・dinationほ必要でなく.各コングレゲイ ションほ肖ら牧師を選ぶべき権限を聖書から与えられてこいる..∵僅俗政府との関係については,役貞magistratesは何等宗教上の権威を持つべきでなく,彼等は普通の基督教徒と・同じであるべきであ
(7) る..」
ピ.ユrLリタンがセパラチストのC9ngre卵tionalismを取るに薫った経過についてこ詮ある”「 つは,ピせ−リクン大移住の尭駆者によって作られたサレムの教会が,近くに設立されていたセパウ チス†の楷筏地プリマスの影執こよって∵始めてコングレゲイシ′ヨナリズムを教会制度笹採用↓∴その (g) 後のマサチふゃ★ツ等の柏民地の教会はすべて∵ニれに倣ったと・なす詭である・・他は,ピゴ・・・リクシほ 1630年までに既に彼等自体の教会の制度に対する具体的綱額を終っていたのであって,プrリマネの兜 (9〉 例がな、くてもコングレゲイショナリズムを採用していたと.云う.両説濫ついてほ・その正否を確めるこ とほ困難であるが,戸ゝ\る意見の分オtる析以ほ いでセパラチチトのそれでなく,そのコングレゲイショナリズムは長老主義の潰族的傾向吟強く赦われていたこキで奉ろル即ちそのコングレゲイ、ショナリズムは単に教会制度と・しての意義しかなか?た ■(10)
点であろ. り1)ピサー、リクエズキの本来?性格は中世朗琴味に磨ける徹底的教草丈化■で,トレルチの所謂苗プロ、テ (lゴ)
スタンチ不 会の分離を認めず,国立教会である英国教会を必ずしも妹意していたわけでなく,唯英国教会の若干 の点を掛こ改革するこ.とを主張した‖両者の溝が深まった時,見いよいよ分離して母国を去った後に 至っても,彼等ほ常に英国教会を羊「贋」の教会でありロ.−マ教会の如く反基督ではないと率い,それ・、IB、 畔多くの撃徒を含み人イ岬その中で救済を見出すことカ海来ると云、つて居る朗カゝら考えても,彼等の
思想がアンダリカこ・ズムに対して僻別変ったもの或は進歩的なものを持っていたと・ほ云え年い (14)然しdユ【リクンがマングレゲくィシらナリズムを韓用したことは,アrグ
レゲインョナリズムによったのであって,教会ほ信徒が「紳及び相互忙契約し,紳の前ですべての紳の 造を相共に歩くことを誓う」こと.に・よって成立し,牧師。長老等の役僧はすべて選挙によって決められ た∴教会契約の思想牲植民地政治体?成立に影響を与えた・即ちChqr.chCovenantほPlantation り了) CovenantK.道を開いた…尤もマサケュ.セッツの場合ほ特許状がその植民地の基本港の役割を待った ので,ブランチイシ∵ヨこ/契約を必要と.しなか、つた..クウンの成立についてもマサチエセッツ政府の監督の下に設立されたので敢えて契約を必要と.しなかった∴然しタウンは広般な自治権を与えられたので (18ノ
あって,1635年の総会議の決議はこれをよく示していた..ブラシティション契約はマサケュセッツから分離して成立したクウンにほ朋瞭に潤われ■7こ.コネチィカノ ==流域に作られたタウン(併謂
rive吏tb壷n岳),ニュー・ヘブンそ・の他多くのクウンは,その基礎としてブランチイション契約を持(19) ち,コネチイカツトの三つの川クウソが合同してコネチイカツト植民地を形成した時,≠ネテイカッ
ト基本線なるブランチイション契約によらた・・かくて新英洲ではタウンなる共同体は教会敵会として又政治団体と.して,契約に基いて作られたとなす.官、想が行われ1ていた,
・二!】1 原始的業頃の中に少数の家族より成るコングレゲイン:−ンが集約によ、つて教会を作り軋会を作つ
た時,その共同体の軋会には個人は共同の利益に奉仕すべきであると云うコムナルな意識が,より強 (二l)
く養成されて来ることが考えられる.原始共同体が豪族・氏牧の昔誠に結ばれた.1卦体であったのにと、ナ 応して,新共洲の共同体ほ宗教的契約的思想に結ばれた柾会であった270 香川県立農科大学学術報告 Osgoodほかゝる敢会の性終について次の棟に詮明する:「新葵洲の共同体を構成した入牢_のグ ル・−プはデモ・クラチックに.組織されていた.そのことは1彼等には階級観念がなかったとか,強い親 族約性格の.指導者或は象族がいなかったと云うことを意味しないり然しそれは,かなりの程度の敵会 的▲政治的平等が戚等の申に存在して居り,かゝ、る平等を㌧維持しようとすることが,各グループの意
ここご・ 識約数繋であったと云うことを意味する...」
結 語 要するに.−トヒ世紀噺英洲の共同体土地制定に甥われたエクイチイは,自らの智意と注意によっての み土地から報いを得ることの出来る私固な新英洲の土地,英国農村に残る死せる形骸となってい■た省 きサクソンの開放耕地制度及びそれに伴う慣習,団体による植民,成立した教会。祀会は契約によつ ていたと云う思想,かゝる条件の中に養成された強いコムナルな意識がもたらしたものと解すること が出来る.叉当時にあってほ土地投磯の利益がなかったと云う常識的理由も大さな要素であった. 十七世紀に成立したタウンなる共同体は盈葉村落共同体として存在の常襲を持っていた∴十・七世紀 後半に入ると特にマサチ㌧.セッツでは漁業が発展し酎業が盛んとなり.海岸のタウンは農集村落の性 格を漸次失った..タウンの土地制度肖体に於いて−も開放耕地制度による密集村落の形態から,農場 /ご$) far・mによる分散的形態えの変化が現われて−釆たいかくて1二八せ紀に入るとタウンは土地に・関する限 り協力とか宿意■の利益の精細を全く失い,新しい発展段階に入った…クウンに対する土地譲渡は省い ピューリタンが意図しなかった利益を得る手段と化した..土地の譲渡を総会議から受ける者はコング レゲイションでも隣人のグル⊥ブでもなく,自らの計算で事業をサる土地投資家となった.総会議はそ の土地に対する管理権を失い,楓民の条件は土地の謀受人達の手中に置かれた,.・−・方タウンの住虎ほ 単なる偶然の柏民者となる傾向を示し,彼等は同じ場所に住んで居るという以外に∴は共同の利益を・持 持力 たず,叉不在地主ほ飛躍的に.増加していつた かゝる変動の渡の申に十廿世紀に存在した強いゴムナルな意識がタウンから失われて行ったことは 必然である…然し十七世紀タウンのエクイチイは,新英洲をし1て,南部楓民地の■ブランチイショシ制度 に対する′ト農自営農民の地方たらtノめる登要な役割を演じた意儀ほ認められなけれはならない…文政 拾的に.ほ/清教徒自体のシオクラシイに.対する民主的反ヌ三勢力の実質的基礎を作ったことにもなった 詫(l)lLL Osgood,Op‖Cit”,P425 (2)ABMacLear op.cit,Pp.18,19,33 (3)Ibidり,p“33(4)G”M”Dutcher,A Retrospect of Three Centuries of Self・・Government andSteadyHabits Coz】neCtiqutIs Tercehtenary,p.3 (5)L・W・La申ree,Op・Cit,ppt、i−I2 (6)Separatistsに与え・られた軽蔑的憩昧を絶ったBrownistsの別名は轡の名から出た.彼の思想を 表したパソワレツトの顧は“TheI一ife andMannersofTrueChristians”(Lg…Tyler,England in America,p.154。’) (フ)J・T‖Wertenbaker,Op,Citl,pp19一−・20..Ⅴ・LParrington,MainCurrentin Am.Thought, pp.8−勺.参看
(8)C…M・Andrews,The Fathersof NewEngland,p19;Parrington,Op.Cit,pp.16−17;E. B‖Green,The Foundationof Am NationalityJp.107.等
(9)Wertenbaker,OplCit・,pp2CM2.7:W W Sweet,The StoryofReligioninAmeI・ica,p49; Miller and Johnson,The Puritans,pp‖61M7
(10)新英洲Congregationalismの水質忙ついては,AndersonandFisch,Philosophyin Ameriea, pp.8−9.参君
欝5巻第3骨(1954) 271 (u)Osgood,Op.Citり,11cbap.1..p11T舐aIlism参看 (13)Mi11er andJohnson,Op.Cit.,pp.9q10. (14)Pu‡itanismの凍質が以上の如きものとすれば,Pur・itan岳がCongI喝atio云ailsmを採用したことは 少くとも形剤勺には矛盾である」・Par・ringtonはこれに?いて「教会制度に伽venant−Pr■incipleを 採用したのはピ・ま・−・リグソにとっては・一つの誤謬を犯したことになった」と云い(.opcitリp.22.、) J.T.adamsは“oddpart”と云う表現を取っている。(Adams,the Amer・ican。p.68.) (15)Miller,Op‖Cit.,p45 (ユ.6)J.T.・Adams,Op・Cit‖lp.68 1648年のCambridge Platformは教会の成立ほ契約に基くことを正式に公諷した。 (17)Ander$Onand (18)GEHowardタOp.亡兄.;わ∴58 (ユ9).丁.T・Adams,Founding of甲声Wl王ng匝nd,p98/ New Havenについて,CM.Andrewsは「構.医者ほポストソを去る前に契約を起草していて,多 くの者は共同野市民師奉数的約鬼?下に既に統一一・された眈会としてQuinnipiacに到着したのであろ う」(TlleFather・$OfNeふEngland;p69) (卸)Mil壬oT、dのタウソを最初建設したのほ44人の教会毘と10人の住民であったい168フ年の土地分潮はユ34名 に与えられた…(Labaree,Op.Git.,pp”2,27,).Grotonのタウンえは稔会讃ほ60家族を予定して土地を 与えた.−一・股にブランチイショソを作る場合,一環数の家族が一蔓の期間内に入植することを要求さ れていたが,その家族の数は普通,牧師維持の為に.必要と考えられた20家族であったり(Eglesto払qp cit,pp33小34)これ等のことから身えて最初のダウソの人口は多くなかったことがわかる. (21)E・・B・・Greemc隕Cit,p・ユ0声・参看反面に排他竹意識も出る(MacLea‡■,132) (22)Osgood,OP,Citバ,P‖426 (23)weitenbakerlOP,Cit.,pPt18S・−−190. (24)D=Deming,Op。Cit,pp.,51・−−53. R占s u m e
Theland was mainly granted to communities of settlersin the New England
COlonies eariy during the colonialyears小The settlers or・g・anized their settlement$in accordance with the o]d English manor。The hom¢・lots,the arableland and meadow were divided to particular personsin the principle of・equity.Thisidea bfequity meant.theruleof persons and estates,Which show寧d,in pr・aCtice,thetendency to an equaldivision..This notionofequality ar2d equity was fomented by thegeOgraphical featur・eSOfNewEngland,theSaxonsurvivalintheoldEnglandbrou女htbythecolonis−