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マルクスの労働論--哲学的・社会学的側面をめぐって---香川大学学術情報リポジトリ

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マルクスの労働論

哲学的・社会学的側面をめぐって

小 於 秀 雄 〈目 次〉 1マルクスの労働論の研究動向 2 人間の存在規定 (1)二つの存在規定 (2)唯物史観による再規定 3労働の構造 (1)労働の弁証法的把墟 (2)相互作用活動としての労働 (3)経済学的労働概念 4 む す び 1一.マルクスの労働論の研究動向 マルクスが1882年に亡くなってから既に100年余り経過したけれども,彼の (1) 思想を特集の形で取り上げる雑誌もまだまだ数が多い。最近の特集を読んでい るとマルクスの思想を何とか再生しよう,あるいは活性化しようとしてマルク スの原像に立ち返り新しい視点と意味を掘り起こす試みが目立つ。マルクスの 思想において最も重要な労働の概念も,数多くの誤った解釈と論争の過程で風 化し錆びついてしまった労働論を解体して新たに再構築しようとする気運の真 只中にある。そのような動向を代表する一人に今村仁司がいる。彼は消費社会 の記号論の旗頭であるジャン・ボ、−・ドリヤールを日本に紹介したけれども,マ ルクスの思想を葬り去ろうとしているボ・−ドリヤールに対しては厳しい批判を 加えている。マルクスの思想を労働=生産(テクネー)の図式で割り切って生 産(テクネー)中心主義の西欧近代の伝統の中に押し込めるボードリヤールの 誤ちを指摘しながら,労働の概念に含意されている,生産(テクネ・−)以外の

(2)

相互作用,コミ、ユ.ニケ、一ショこ/といった活動の側面を中心に据えて新しい労働

(2)

論を作り出そうと試みている。マルクスの思想全体において労働の概念が持つ

重要性を考えると画期的な成果を期待できるかもしれない。今村のような批判

と試みは,ボードリヤ・−ルに限らず労働概念に関して間違った解釈をしている

と見なされるユルゲン・ハバ・−マスにも向けられている。/\バ・−マスも労働=

合目的的行為,労働≠相互的行為の図式をマルクスの労働論から読み取るけれ

ども,それは誤解である,または無理解であるといった厳しい反論が出ている。

ハパーマスほ現代の社会科学全体に対して幅広い影響力を持つだ桝こ反論もか

(3) なり厳しいものとなる。

一L般的に言って労働を生産(テクネー,ポイユシス),またほ合目的的行為の

側面だけで理解するか,それとも相互作用,または相互的行為の側面も重要な

要素の中に含めるかによってマルクスの思想に対する解読作業はかなり異なっ

たものになる。もし労働=生産(テクネー),労働≠相互作用という図式に基

づいてマルクスの思想を読んでいくならば彼の経済学批判の意義も薄らいでし

まい,恐らく古典派経済学や近代経済学と同じ基盤に立脚する思想のレッテル

を貼られて解体宣告を受けざるを得なくなるだろう。解体宣告までいかなくと

も近代思想に対抗する特別な地位から追放されるだろう。労働論に関して言え

ば西部邁,間宮陽介,杉村芳美らはメディア論の立場からマルクスの労働論を

(4) 自己対象化論,活動論という形で把握しながら限界を指摘する。彼らもボード

リヤ・−ルや/\バ・−マスと同じ様な誤ちを犯しているのかもしれない。少なくと

も反論する立場ではそう言わざるを得ない。また労働論の中に主体の哲学や主

体一客体の枠組を読み取る記号論着たちほ近代思想全体の解体作業の「格好の (5)

標的」にマルクスの思想を選んでいる。それだけ解体の意欲をそそる思想であ

ると考えられているのだろう。

経済学の内部でもカール・ボランニ、−を先達とする経済人模学の立場からは,

近代経済学に対してと同様にマルクスの経済学批判体系にほかなりのゆさぶり

がかけられており,価値形態論と貨幣論にはひび割れが生じつつある。その結

果,経済学批判体系は「資本論」や「経済学批判要綱」などにおいて主張され

ているような普遍的な射程を持つかどうかに関しては否定的な見解も出てきつ

(3)

つある。単なる市場経済論の一形態に引きずり下ろされかねない状況が生まれ (6) ている。もともと経済人類学はマリノウスキーやモ1・・・・・スの文化人類学と結びつ いて研究を進めてきたので実証的なデータを豊富にそろえている。そのような デ、一夕とデータ解釈を突きつけられた時にほマルクスの思想にほひび割れが生 じることは止むを得ない。例えばマリノウスキー・の調査研究が現れて以来,注 目されている義務的贈答制の経済には市場経済とほ全く異なった,独特の交換 (7) 活動が中心的な要素として含まれている。贈答制の交換から成り立つ経済を市 場経済のカテゴリ、・・・・・でもって解明できるのかどうか。できないとすれば現代の 経済学ほ射程を限定するか,または再構成されなければならない。マルクスの 経済学批判体系に関しては労働=生産(テクネ、−),労働≠相互作用の図式を 基礎とする限り市場経済論の制約を乗り越えることは難しい。言い換えれば労 働の概念から相互イ乍用の側面を取り出して贈答制の交換を解明できる相互作用 論を構築しなけれは経済人類学の批判を乗り越えることほできないだろう。恐 らく今村仁司たちが目指している研究の方向と重なるだろう。 労働論をめく■る研究動向として注目しておきたい傾向をもう一つだけ取り上 げておこう。アメリカではェ1−リッヒ・フロムやヘルベルト・マルクーゼたち が初期マルクスにおける労働観と人間観を再評価しながらヒューマニズム的マ ルクス主義を標模したけれども,どうやらその流行も過ぎ去って別の流れが現 れているようである。すなわち1970年代からほ初期マルクスと後期の「資本論」 とを接合するために1850年代の後半に書かれた「経済学批判要綱」(以下『要 楓且 と略記する)を解読のテクストに設定している。初期マルクスのヒューマ ニズムと自然主義を再評価するだけでほ現実の資本主義社会を解明することも できないし,また未来の社会を展望することも難しい。現実分析と未来への展 望を与えてくれそうなテクストこそ「要綱」である。さらに「資本論」よりも マルクスの就い直観とホンネが表現されているテクストでもある。そのような テクスト解読は経済学者というよりも哲学者たちによって精力的に進められて いる。「要綱」の中に初期の哲学と後期の経済学批判とを総合する社会理論,ま (8) たは社会存在論を読み取ろうというわけである。そのような思想家の山人であ るキャロル・グールドは自由と正義の存在論としてマルクスの思想を解釈しな

(4)

(9) がら思想の活性化を試みている。その際にはやほり労働論の解釈が最も重要な

ポイントになっており,労働における相互作用を社会存在論の要に据えている。 自由と正義の社会存在論ほ日本で脚光を浴びている物象化論に対応するもので ある。相互作用,もしくは社会的関係のネガティヴな形態を物象化論が解明す ると考えるならば,ポジティヴな形態を構想し展望しようと試みるのが自由と 正義の存在論である。日本でほポジティヴな形態を構想することほどうも余り 好まれないようである。それほ日本のアカデミズムの体質なのか,それとも日 本のマルクス主義の特質なのかよくわからないけれども,ネガティヴな形態を 対象とする物象化論が重要な理論的潮流となっている。商品,貨幣,資本の物 神性の問題はいずれも人と人との相互作用が論点になるので,労働論から相互 作用論へと理論を展開できなければ物象化論は成立しない。したがって物象化 論を展開している研究者が明示しているかどうかはともかく,物象化論の前提 には労働=相互作用と解釈する視点がある。廣松渉が精力的に発掘に努めてき た新しい地平,並びに新たに構築した理論も人と人との関係が焦点となって (用 いる。物と物との関係のように見えてもその内実は人と人との関係であり,物 化された形態で現象する過程のメカニズムを解明しなければならない。 以上の研究動向を踏まえながら本稿でほマルクスの労働論を概観してみた い。記号論や経済人類学の側からの批判に対するコメントを述べることも反論 を試みることも差し控えておく。ただ批判の中で指摘されている問題点を考慮 しながら概観を試みる。 2..人間の存在規定 (1)ニつの存在規定 1932年に「経済学・哲学草稿」(以下,『経哲草稿』と略記する)がはじめて 公表されて以来,マルクスの労働論には明確な哲学的基礎があることが再認識 されるようになった。「経哲草稿」の公表と同時に早くも同年にマルクーゼによ る「初期マルクス研究−『■経済学・哲学草稿』における疎外論−」が出版され, (川 労働論の哲学的な研究も盛んになっていった。そのような哲学的な研究におい てほマルクスの労働の概念を人間の存在規定,または人間把握と結びつけて論

(5)

じるスタイルが確立された。そこで,まず今までの研究を踏まえて人間の存在 規定を二つの定式に整理して説明していこう。 第一・の存在規定は,人間は自然的な感性的な存在であり,対象的な受苦的な 存在である,という定式になる。この定式は,人間を大自然の中に生きる生物 有機体として植物と動物との連続性において把える自然主義(Natur・alismus) の立場を表している。少し長くなるがマルクスの文章を引用しておこう。 「人間は直接的には自然存在である。……・生きている自然存在として,人間 は−・方では自然的な諸力を,生命諸力をそなえており,一つの活動的な自然存 在である。これらの力は,人間のなかに諸々の素質,能力として,衝動として 実存している。他方では,人間ほ自然的な肉体的な感性的な対象的な本質とし て,動物や植物がそうであるように,一つの受苦している《1eidend》,制約をう け制限されている本質である。すなわち,人間の衝動の諸対象は,彼の外部に, 彼から独立している諸対象として実存している。 …人間が肉体的で自然力の ある,生きた,現実的で感性的で対象的な存在であるということは,人間が現 実的な感性的な諸対象を,自分の本質の対象として,自分の生命発現の対象と してもっているということ,あるいは,人間がただ現実的な感性的な諸対象に よってのみ自分の生命を発現できるということを意味するのである。対象的, 自然的,感性的であるということと,自己の外部に対象,自然,感性をもつと いうこと,あるいは第三者に対してみずからが対象,自然,感性であるという ilコ ことは,同一・のことである。」 この自然主義的な規定は現代の学問においてほ自明なもののように考えられ てほいるが,十九世紀前半のヨーロッパの思想界を支配していた科学技術万能 主義と観念論に対する反省の意味を込めて自然主義の考え方が力強く主張され ている。周知のように十九世潔己前半にフォイエルバッノ\によって「哲学を改造 する」ために自然主義の立場が表明された。しかしマルクスはフォイエルバッ ハの自然主義に満足せずにヘーゲルの弁証法を摂取しながら彼独自の自然主義 を確立した。フォイエルバッハの思想を支配していた静態的な考え方を取り除 いて人間を弁証法的に活動する,自然的な対象的な存在として把捉した。第一 の規定と労働の概念とをつなぐ要素こそ,活動的な自然存在であること,ある

(6)

いは感性的な諸対象によって生命を発現すること.になる。自然の中に静止した 状態で存在するのでもなく,静止した状態で自然や対象に相対するのでもなく 絶えず活動しており対象に働きかけている。受苦的な存在であり情熱的な存在 である人間は対象に向かう情熱,激情によって絶えず活動している。情熱によ る苦しみほ活動の源泉であり苦しみがなくなる時にほ活動も停止する。それ故 に情熱は存在の始点であり,その情熱ほ対象への働きかけを通じて実現できる。 弁証法を組み込んだ自然主義の立場は「ドイツ ・イデオロギ・−」における唯 物史観を経由して「資本論」の経済学批判体系においても守られており,マル クスが終始−・賞して自然と人間社.会との調和のとれた交流を構想していたこと をうかがぁせる。資本主義社会でほ自然を破壊し人間自身の自然を危磯におと しいれることが経済学批判の中で論証されるが,そのための方向づけは初期の 自然主義の中に表れている。現代の自然と社会との関係を考えると実に意義の ある立場であると言えよう。 第一・の存在規定ほ人間における生物有機体という基盤を確認したものである のに対し,第二の規定は人間独自の次元に関連している。マルクスに.よれば「人 間は,ただ自然存在であるはかりでなく,人間的な自然存在でもある。すなわ ち,人間は自己自身にたいしてあるところの存在であり,それゆえ類的存在で あって,人間は,その有《Sein≫においても,その知識においても,自己をそ のような存在《Wesen》 として確証し,そのような存在としての実を示さなけ

l!、王・ ればならない」。すなわち第二の規定は,人間ほ類的存在であり,自己意識を持

つ存在であり,対自的存在である,という定式にまとめられる。 第一・の規定の上に第二の規定が加えられると自然や対象に対して人間が働き かける仕方,つまり生命発現や本質実現の仕方が重要なポイントとなる。その ような人間独自の働きかけをマルクスはふるまう(sich verhalten)と呼んで

(痛 いる。類的存在,自己意識を持つ存在,対自的存在とはふるまう存在を意味し

ている。ふるまうことが労働することになる。それではふるまうとほどういう ことなのであろうか。労働の概念と直接に関連しているが,存在規定の範囲内 で考えてみるとまず,「人間的な諸対象は,直接にあたえられたままの自然諸対 象ではないし,人間の感覚は,それが直接にあるがままで,つまり対象的にあ

(7)

るがままで,人間的感性,人間的対象性であるのでもない。自然は…‥直接に ヨ‖芸 人間的本質に適合するように存在してほいない」。そこで人間は自然や対象を 「人間的本質に.適合するように」存在させるためにふるまう。そのためには対 象と人間的本質を認識できなければならない。したがって−,ふるまうことには 自分自身と自己の対象を認識できる能力が前提として含まれているが,マルク スはそのような能力をしばしば類的本質(Gattungswesen)と呼んでいる。類的 本質という言葉ほへ・−ゲルとフォイエルバッハから学び取ったものであり,人 間に備わっている理性,意志,心情(愛,思いやり),並びに人間独自の身体的 活動能力を意味している。類的本質を持っているから自分と対象の性質を認識 でき,それらの性質に適合したやり方でふるまう。ふるまう存在である点に・関 しても初期の「経萄草稿」に限らず中期から後期の著作の中でもくり返し言及 されている。自然を改造すること,社会を作り歴史を作ること,自分自身を変 えていくこと,イデオロギ、−を生み出すことなどはふるまう存在であることに 基づいている。ふるまう過程でふるまうことに.係る全ての要素が変化する。自 然,社会 歴史,人間自身,それに意識ほ変化する。したがって人間の本質と いう言葉を使う場合にマルクスは不変の実在を仮定しているのではなく,変化 する過程において全ての存在の本質を考えようとしている。 自己自身に対してあるところの存在,輝的存在,それ故にふるまう存在であ るという規定は,へ・−ゲルの「精神現象学」で叙述されている,弁証法による 人間把握を批判的に研究していく過程で得られたものであろう。現在われわれ の手許に残されている「経哲草稿」の第三と第四の草稿においてへ・−ゲルの弁 証法が丹念に批判的に検討されているが,恐らく現在まで発見されていないか, もしくは残されていないノートの中でも同様の研究が見られたかもしれない。 マルクスの思想全体について三つの源泉があると言われるが,それらの中で ヘーゲル哲学は思想全体を構成する方法的枠組になっているだ桝こ弁証法の意 義もかなり重要なものである。 弁証法と関連づけながらダイナミックに活動する存在として人間を規定する ことは大変にすぐれた視点であると言えるけれども,活動が向けられる対象が 物を中心に考えられてしまうとすれば相互作用論を展開できない。人間にとっ

(8)

で情熱や欲求の対象となるのは物だけでなく人間でもある。人に対してもふる

まう存在であることを忘れてしまうと労働の概念に.も致命的な欠陥をもたらす

ことになるだろう。頬的本質には理性と心情といった人間独自の要素が含まれ るが,それらの要素ほ人に対してふるまう場合にはコミュニケ1−ションの手段 として役立つ言語を生み出す。そこで人間が言語を作り使う存在であることを 確認し,言語,あるいはもっと敷術して言え.ばシンボルや記号と人間との係り 合いに対しても十分な注意を払わなければならない。人間はシンボルや言葉を

操る存在である,という規定を第二の規定から導き出して存在規定の最も重要

な部分としてつけ加えておく。マルクスにせよ,エンゲルスにせよ「ドイツ・ イデオロギー」などにおいてシンボルや言葉の重要性に関してほ十分な注意を 払っているけれども,シンボルや言葉を正面から取り扱っている部分は見当た らない。シンボル論の体系的な研究が欠落しているためにマルクスの思想では 人間関係,および人間の活動全般に関する考察に弱点が生じていることは否定 できない。マルクスの思想に対抗する方法論として記号論とメディア論が脚光 を浴びるのもマルクスの思想の弱点を突いているためである。記号論とメディ ア論への道が決して閉ざされているわけではなく研究がまだ不十分であると思 われる。追加した規定に基づいて記号論との接合も十分に可能である。 (2)唯物史観による再規定 二つの規定の中にマルクスの人間観の基礎を認めることができるとは言え, それらの規定だけでは人間を抽象的に把えているに過ぎない。人間はふるまう 人間的な自然存在であるから自然や他の人間と係り合うと同時に社会を作り, 自然を改造し歴史を作っていく。そこで社会が織りなす歴史の場面の中で人間 を再規定しなければならない。 初期マルクスから検討してみると,「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル法 哲学批判序説」において人間を社会的諸関係の中で把える視点は表明されてい るものの,自然との物質代謝を省いた政治的関係に焦点が据えられている。例 えば「現実の個別的な人間が,抽象的な公民を自分のなかに取り戻し,個別的 人I用のままでその経験的な生酒,個人的労働,個人的境遇の中で棟的存在となっ た時,つまり人間が自分の『固有の力』を社会的な力として認識し組識し,し

(9)

たがって社会的な力をもほや政治的な力というかたちで自分から切りはなさな

しlぃ い時,その時はじめて人間的解放ほ完成される」。政治的な網の目によって抑圧

されているユ・ダヤ人の姿を通して人間と社会との係り合いが認識されている。 人間によって作り出された政治的な関係がユ・ダヤ人を隷属状態に置いていると すれば,その関係を作り変えれば政治的な解放は実現される。しかし政治的な 解放だけでは人間的解放は完成しない。政治的な網の目を生み出している,もっ と基盤にある経済的な関係を変えなければならない。マルクスによれば「全て 山こl の解放は,人間の世界を,諸関係を,人間そのものへ復帰させることなのだ」。 ただ「ユ・ダヤ人問題によせて」の段階でほ社会的諸関係を織りなしている,幾 層もの関係については感づいていたようでほあるけれども,明確な認識には到 達していない。 自然との社会的物質代謝過程を基盤とする人間と社会との係りが概念的に把 揺されるのは「ドイツ・イデオロギ・一」の段階になってからである。そこにお いてふるまう人間的な自然存在である人間はあらゆる歴史の現実的な前提とし て把え直される。 まず「最初に.確認すべき事態ほ,これら諸個人の身体的組織およびそれによっ て与えられるかれらのそれ以外の自然への関係である。……もちろんここでは 人間の肉体の特性とか人間が直面する自然諸条件,地質学的,山水誌的,風土 的その他の諸関係に立ち入ることほできない。すべての歴史の記述は,この自 (川 然的諸基礎の変形から出発しなければならない」。そこでは,自然を対象とする 受苦的な自然存在であるという規定が歴史を記述する作業の出発点において再 確認されており,しかもより現実に即した定式に再構成されている。このよう に人間と自然との密接不可分の関係を確認した上で,続いて歴史と社会を作り 出す人間の存在規定が定式化される。「特定の仕方で生産的に活動する特定の諸 個人が,特定の社会的,政治的諸関係をとりむすぶ。…‥‥こうした諸個人なる ものは,自分や他人の表象のなかに登場するような諸個人ではなく,……一・ 定 の物質的な,そしてかれらの思うとおりにはならない諸制限,諸前提,諸条件 (1痴 のもとで活動している姿での諸個人である」。ふるまうということは自然を物質 代謝の基盤にしながら特定の社会的編制と国家とを産出してその中で活動する

(10)

ことである。さらに社会的編成をベースにして諸々の観念,表象,意識が生ま れる。人間ほ法,道徳,宗教,形而上学などの言語で語られる精神的活動の担 い手でもある。シンボルや言葉を操る存在である。しかしマルクスはシ∵/ボル や言葉の生産を語るけれども,それ以上その洞察を深める方向へは進まない。 ひたすら社会的物質代謝の過程を解明する方向へ進んでしまう。 「ドイツ・イデオ・Pギ、・・・・・」で初めて学問的な形で確認された唯物史観はその 後,十年間にわたる経済学研究の指針となりつつ,よりいっそう洗錬されなが ら1859年の「経済学批判・序言」において一つの公式の形にまとめられる。そ の公式は余りにも多くの人々によって取り上げられ論議され,無数の誤解を生 み過ぎたが,必要な部分だけをここに引用しておく。私ほ労働論の文脈におい て公式を引用し解釈しているものと.断っておこう。 「人間は,その生活の社会的生産において,−・定の,必然的な,かれらの意 志から独立した諸関係を,つまりかれらの物質的生産諸力の−・定の発展段階に 対応する生産諸関係をとりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構 を形づくっており,これが現実の土台となって,そのうえに,法律的,政治的 上部構造がそびえたち,また,一・定の社会的意識諸形態は,この現実の土台に 対応している。物質的生活の生産棟或は,社.会的,政治的,精神的生活諸過程 一・般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのでほなく,逆に彼らの (19) 社会的存在が彼らの意識を規定する。」 引用した公式についてここで論議することは余り必要でないので差し控えて おき,公式を労働論の文脈の中でごく簡単に意味づけてみよう。まず公式を,二 つの存在規定を統合する人間観を表明したものと考えておきたい。その場合に 初期のように抽象化された人間像でほなく,自然と社会とが織りなす歴史の中 において活動する人間像を表している点が重要である。したがって自然と社会 との係り合いから生まれる歴史的状況の中で活動する人間のふるまう仕方を も,つまり労働のあり方をも表現していると考えられる。ふるまう場合の過程 に関しては,物質代謝の次元と意識の生産の次元とが一度分析的に区.別され それらの次元の間に土台一上部構造の関連が設定された上で統合されている。 次元を区別すると言っても物質代謝をするふるまう活動の中で同時に意識の生

(11)

産も行っているのであって人間の場合には意識の生産を含まないふるまいはあ り得ない。それから指摘しておきたいことほ,労働の二つの側面に関する問題 で合目的的行為と相互作用ほ社会的生産,物質的生産諸力と,それに対応する 生産諸関係という形で表現されている点である。マルクスは絶えず自然との係 りと,社会との係りに気を配っている。 マルクスの「気くぼり」にわれわれは 気を配る必要がある。そうしない時にほ大変に歪んだマルクス像しか浮かび上 がってこないだろう。「序言」の公式の中に.表明されている人間観と労働観はそ の後の後期マルクスにおいてもくり返し確認され,言葉を変えて表現されてい る。公式というものは余りにも凝縮され過ぎているために,とかく多種多様な 解釈や誤解を生みやすい。一・定の観点からマルクスの思想全体をテクストとし て取り扱い,その上で公式をテクストの−・部として解読しなければならない。 とりわけマルクスの思想は体系性と総合性を備えているので部分部分を取り扱 う場合には体系性と総合性を損わないように.気をつける必要がある。 3一.労働の構造 (1)労働の弁証法的把握 これまでの存在規定から人間は自分の情熱によって絶えず対象に働きかけて いる存在であることが示された。自分の情熱を実現するために対象,あるいほ 対象性という存在形式を絶えず必要とするということほ,人間が自分自身だけ では充足していないこと,またほ完結していないことを意味している。自己の 内部から何らかの本質的なものを外に出してみなければ,そして外にある本質 的なもの(対象性の形式で存在するもの)を自分の内部に取り入れなければ生 存することほできない。いつもふるまっていなければ自分の存在を維持できな いし,そうすることを通じて存在の本質を実現する。ふるまう活動こそマルク スが労働と名づけたものである。そこで人間の存在規定に密着しているふるま

う活動の原理を考察してみよう。

労働の原理に関してはマルクスほヘーゲルから基本的な洞察のはとんどを受 け継いでいる。マルクスによれば「ヘーゲルの『現象学』とその最終的成果と において一運動し産出する原層としての否定性の弁証法において−偉大なるも

(12)

のほ,なんといっても,ヘーゲルが人間の自己産出を一つの過程としてとらえ, 対象化を対象剥離として,外化として,およびこの外化の止揚としてとらえて いるということ,こうして彼が労働の本質をとらえ.,対象的な人間を,現実的 であるゆえに異なる人間を,人間自身の労働の成果として概念的に把握してい 伽) るということである」。この引用文において労働は否定の弁証法によって把握さ れていることがわかる。自己㌧対象化=外化=自己否定→対象=対象化され た自己=外化された自己→対象の享受=外化の止揚,という−・連の過程が労 働の概念として構想されている。全ての活動が軸として弁証法の原理を持って いて,その原理に従って対象が作り出される。対象の中に.は人間の能力やイメー ジが実現されている。ここで一・つの事例を取り上げてみよう。 絵を描く活動を考えてみると,描く主体である人間には描く能力とイメ1−ジ が備わっているが,主体の内面にとどまっている限り漠然としたままである。 キャンバスに相対してその上に絵の具を使い絵を描いていく過程でイメージと 能力は具体的な形象でもって表現される。それと同時に主体はキャンバスに現 れた絵という具体的形象に自己の能力とイメージを確認する。自己の内面にと どまる,言い換えれば自分に密着し過ぎている能力とイメージのような本質ほ それ自体をそのままで把握しようとしても困難であり,自己の外部にある対象 の形式で突き離してみた時に初めて明確に認識できる。そして描き出された絵 というものほ対象の形式で実現された自己でもあり,対象性,あるいは他者性 を獲得しない限り自己の本質である能力とイメ・−ジは実現されたことにはなら ない。対象である絵の中に自己の本質を確認した時に自己と対象とは統一・され る。対象性の形式でもって主体は自己の本質を所有したことになる。このよう な一L連の弁証法の過程についてはしばしば理解し難い言葉で叙述されるけれど も,自己実現と自己認識の形式的原理を述べているに過ぎない。否定性の弁証 法の原理を図式化すれば図1のようになる。図。.1の説明のために,正一反一合 のシェーマを使うことも,矛盾の発生→矛盾の止揚のシューマを使うこともあ ろう。また社会の変動を説明するためにも使われる。ただ弁証法を労働の原理 として把握することが前提とならなければいけない。 否定性の弁証法=労働の原理,という見解はマルクスがヘーゲルと共有する

(13)

自己の対象 性の展開 (正) 対象化 (矛盾の発生) 〔図1〕 否定性の弁証法

基本的立場と言える。しかしマルクスは,ヘーゲルが忘れてしまった人間的な

自然存在の規定を付け加えることにより労働の原理を人間の活動領域全体にま

で押し広げる。労働ほ意識の展開過程であり精神的な労働であると同時に,身

体的運動でもある。労働ほ単に菅学者の「哲学する」精神的な活動に限定され

ない,農民が農作物を作り出す活動でもあり,職人が道具を作る活動でもある。

それらの活動全てが労働の原理を持っている。

労働の原理は有名な労働疎外論からも導き出せる。「経哲草稿」の第一号稿で

論述されている疎外された労働(entfremdeteArbeit)は本来の望ましい労働の

裏返しであるから,転倒された形で労働の原理が貫徹する。周知のように疎外

された労働の概念には四つの関係が含まれる。労働者と生産物との関係,労働

者と労働との関係,労働者を含む人間と類的存在との関係,それに人間と人間

との関係である。疎外された労働の状況では四つの関係が本来の望ましいあり

方からズレて異常な状態になる。労働者は自分の精神的・身体的能力を使って

生産物を作る。その中に労働者の本質的なものが対象化される。しかしその対

象は労働の所有するところのものとはならず資本家に奪われてしまう。また労

働という活動自体も資本家の管理統制の下にあり,自分の意のままにならず他

人の活動のように思われてくる。そのために労働は自分の本質を実現し,さら

に自己を発展させる意義を失ってしまう。類的存在である人間は労働の内部で

(14)

こそ類的本質を実現できるのに,自己実現できない疎外された労働の状況では 類的本質も実現できない。労働は,個人個人の能力や個性の発揮とともに,個 人個人に分有されている類的本質の実現といった意義を含む。類的本質は個人 に分有されて個性とか個人の能力の形で現れる。個性や個人の能力を押し殺す ことは類的本質をこわすことにつながる。労働を通じて輝的本質が実現されな ければ個人は連帯の絆を失い,バラバラになり対立し合う。労働が本来の姿で 行われる場合には労働を通じて人間同志が心の交流をできるほずである。 これまでに述べた,四つの異常な関係は私的所有の近代的形態,つまり資本 主義という社会制度によって生まれる。近代の私有財産制度が疎外の四つの関 係を生むとは言え,疎外された労働が私有財産を再生産する。すなわち「私有 財産は,それが外化された労働の根拠,原因と.して現れるとしても,むしろ外 化された労働の−L帰結に他ならないことが明らかになる。後になってこの関係

飢) は,相互作用へと変化するのである」。初期マルクスでは資本制生産のメカニズ

ムを明確に解明できていないために不明瞭な表現にとどまっている。疎外され た労働の概念によって語られている内容は資本制生産のメカニズムであり,資 本一賃労働関係の生産である。まとめると,図.2と図.3のような内容と立場 が初期の労働疎外論において語られている。囲い2の①∼⑲の関係を経済学批判 の体系でほ生産諸関係の概念に定式化する。また図.3の分析と叙述の立場ほ後 に下向法と上向法の方法論になる。 労働生産物 労 働 煩的存在 人 間 資本家 労働者 労働者 ② ③ ⑤ ①′ 資本家 ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ ⑨′ ⑲ 〔図2〕 疎外された労働の諸関係 疎外された労働にも労働の原理は働く。むしろ労働の原理が働くからこそ状 況次第で疎外された労働の悲劇も生まれる。対象性の形式を経なければ人間と しての存在をまっとうできない人間は常に対象喪失の危険を抱えていると言わ なければならない。マルクーゼは労働の負担性という概念でもって労働に含ま

(15)

現 象 社 会、心 こ哩 現 象 国民経済学的事実 ⑥ ∼ ⑲ 下 疎外された 上 向 労 働 向 ①−⑤ (始 点) 私 的 所 有 〔図3〕初期の疎外論における立場 れるパラドックスを指摘する。「労働する老ほ労働によっていわばかれの労働の 対象のなかにほいりこみ,そのことによって,働きかけられ,あるいほ働きと られた対象のなかで,歴史的生活空間や歴史的生活時間のさなかで持続し現存

¢2) し,『客観的に』現実的であり活動するものとなる」。歴史の中に入り込んだと

しても疎外された労働に陥らないためにはそれなりの意志と努力が必要であ る。弁証法の原理に則っていれば自動的に人間の本質が発現し確証されるわけ ではない。弁証法的活動自体が主体の意志と努力を要求する。「労働の負担的性 格は,特定の労働をおこなうさいに,あるいはまた特定の労働をおこなうまえ にあらわれる『不快感』,『抑圧感』,『疲労現象』などと同じものではない。こ れらはもちろん労働過程の形態を変化させることによって,また労働諸条件の 変化等によって,止揚されることができる一労働の負担的性格ほ人間の定在そ のものの存在構造のなかに基礎をもっているのであるから,それらを除去する ごユl ことによって動かされるものではない」。 (2)相互作用活動としての労働 労働の原理だけを取り上げると自然に働きかけて物を生産する合目的的な活 動の側面だけが一面的にクロ1−ズ・アップされてしまうけれども,労働の概念 には他の人問と係り合う活動の側面も含まれる。対象的存在,類的存在の規定 にほ人間は他者を必要としていること,または他者と相互作用しながら社会生 活を営むことが示唆されている。そこで労働の概念を構成する,もう一つの基

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本的な側面である相互作用活動の諸相について検討してみよう。 疎外された労働において類的存在からの疎外(囲.2の③と⑧)と人間からの 人間の疎外(図.2の①,⑤,⑨,⑩)ほ,人間の本来の相互作用活動から疎外 されていること,言い換えれば本来の人間らしい相互作用活動を実践できない ことを意味する。疎外された労働では対象化する活動が対象の剥奪になり自分 の活動のように感じられなくなると同時に,他者との心の交流を実現する活動 でもなくなってしまう。そこから生まれる社会的関係ほ労働する主体にとって ほ疎遠な社会的関係である。マルクスによれば「疎外された労働を通じて,人 間は,たんに疎遠な,そして彼に敵対的な力としての生産の対象や行為に対す る彼の関係を生み出すだけでなく,彼はまた他の人間たちが彼の生産や生産物 に対して立つ関係を,そしてまた彼がこれら他の人間に対して立つ関係をも生

伽) み出す」。労働の内部では実際にほ物を生産する側面と社会的関係を生産する側

面とが不可分に結びついており,思考による操作を通じてのみ両名を分離して 取り出すことができる。ここで注意すべき点は,労働が合目的的生産活動と同 じではないことと対応して生産も物の生産活動だけではなく人と人との関係の 生産活動にも拡大されることである。マルクスの生産の概念はテクネーと相互 作用とを総合する上位のカテゴリ”・・・・・と言える。労働=(テクネ1−,相互作用) であるから生産と労働の概念を互換的に使用してもマルクスの思想をべ・−スと する限り不当ではない。その場合にテクネーからはみ出たコミュニケーショこ/ の側面を統合する概念であることを忘れてはならない。ここで労働の概念を, 唯物史観と経済学批判を考慮して 図.4のように定式化しておく。土 台と上部構造から成る経済的社会

構成体(6konomische Gesell−

SChaftsformation)ほ経済,政治, 芸術などの社会領域におけるテク ネー的活動と相互作用活動を通じ 会構 テクネーー的活動 相互作用活動 径 宗教的活動 宗教的相互作用 上 部 構 造 構 法律的活動 法律的相互作用 成 体 土 Jh Eコ 経済的活動 経済的相互作用 〔図 4〕 社会諸領域における労働 て絶えず再生産される。図.4の土 台のテクネー的活動だけが労働ではないし,また生産でもない。

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「経背草稿」には相互作用に関する叙述ほ余り見当たらないので,1844年頃 に書かれたと言われるノ・−トから該当する適当な部分を引用しておこう。 「ジ・ェームズ・ ミル著『政治経済学要綱』からの扱粋」は「経菅草稿」よりも 少量の文章しか残されていないけれども,交換と相互作用に関してほ貴重な見 解が述べられている。 「われわれが人間として生産したと仮定しよう。そうすればぁれわれほ,そ れぞれ自己の生産において自己自身と他者とを二重に肯定したことになるだろ う。‥‥ 二,私の生産物を君が享受したり使用したりするのをみて,私は直接 につぎのことを意識する喜びをあじわったことだろう。すなわち私ほ,労働す ることによって人間的な欲求を充足するとともに,人間的な本質を対象化し, こうして他の人間的な存在の欲求にそれにふさわしい対象物を供給した,と意 識する喜びをあじわったことだろう。三,君にとって私は君と顆との仲介者と なっており,したがって私が君自身の本質の補完物であり,君自身の不可欠の 一部分であることが君自身によって知られ,かつ感じられており,だから私は 君の思考と愛とにおいて私自身を確証するすべを知っている,と意識する喜び をあじわったことだろう。四,私は,私の個人的な生命発現において,直接に 君の生命発現をつくり出し,したがって私の個人的な活動の中で,直接に私の 真の本質を,私の人間的な本質を,つまり私が共同的な存在であることを確証 位5) し実現したと意識する喜びを,直接にあじわったことだろう」 引用した文章には初期マルクス独自の難解な哲学用語は見当たらないもの の,決してわかりやすい表現とは言えない。「経菅草稿」と関連づけて解釈して いくと,労働は頬的本質の実現であり類的存在であることの確証であるから必 然的に他者とのコミュ・ニケーショこ/を含む。問題はコミュニケーショソの形態 である。疎外されていない労働の場合には生産物を交換することによってお互 いに相手の人格を認め合い,さらにお互いに相手の人格の価値を享受して喜び を感じ合う。お互いの人格の価値と喜びを共有し合う。そこでは交換に際して 自由と平等が前提となっていると同時に,交換を通じて自由と平等が実現され る。すなわち前提となる自由で平等な社会的関係が交換活動によって再生産さ れる。疎外されていない形態のコミュニケーションには友人,恋人の関係が含

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まれる。友人関係の場合,自分で作った物を友人にプレゼソトしたとすれば,

そして相手が贈り物を喜んで受け取ったとすればお互いに友人としての価値と

喜びを共有することになろう。また贈り物の交換を通じて友人関係はいっそう

確かなものとなろう。恋人関係の場合も同様であるが,異性間にコミュニケー

ショこ/は限られる。疎外されていない,自由で平等な相互作用は結局のところ

友人関係のような形態になるだろう。労働の全ての領域において友人関係のよ

うな相互作用が確立されることがマルクスの理想でかったと考えられる。その

場合に贈答制の経済に基づく社会が考慮されていたのかどうか定かでほない。

マルクスにとっての問題は資本制社会であり,またそれを止揚した共同社食で

あった。 望ましい交換と相互作用の視点に基づいて資本制社会の社会的関係は分析さ

れ批判される。そのような作業は唯物史観と経済学批判の中で進められていく。

「ドイツ・イデオロギー」において初めて交換と相互作用は生産関係の概念に

ょって把握される。その点に関してほ既に人間の存在規定との関連において述

べておいたので引用した文章を参照してもらうことにしたい。ここでは相互作

用の把え方について重要なポイントだけを指摘しておこう。 まず「ドイツ・イデオロギ、− 」において労働の二つの側面ほ次のように把握

される。「労働における自己のそれであれ,生殖における他人のそれであれ生

活の生産は,かならずただちに二重の関係として−すなわち一面では自然的関

郎〉 係として,他面では社.全的関係として−あらわれるものである」。社会的関係の

側面は協働(Zusammenwirken),または交通(Verkehr)という言葉によっても

言い表されている。そこにおいて考察されていることは,特定の社会における

協働,または交通の諸形態であり,発展の段階である。協働とか交通の問題は

労働の分割と編成の問題でもあり,さらに所有関係と階級関係の問題でもある。

労働における相互作用には人と人とのコミュニケーショソ,労働と労働との関

連,さらに労働生産物と生産物との交換が内容として含まれるが,それらの内

容は生産手段に対する所有一非所有の関係を基軸に立体的に組織化される。社.

会における協働や交通を秩序づける関係をマルクスは所有関係,ないしは階級

関係に求め,その関係を中心に構成される協働と交通の形態のことを生産関係

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として概念化する。したがってどのような所有関係を基軸とするかによって生 産関係の形態も歴史的な変異を示す。 生産関係の歴史的なヴァリエーションに関してほ「ドイツ・イデオ・ロギ・−」 から「経済学批判・序言」に至るまでくり返し取り上げられ,歴史の発展段階 論に定式化される。先に引用した「序言」の公式の後半の部分にやはり公式化 された発展段階論が出てくるけれども,それについてほここでほ余り必要でな いので言及しないでおく。「序言」を中心とする生産関係の論議はマンネリ化し 風化しつつある感じを受ける。そのような論議を検討してみても意義のある洞 察を得ることはできないだろう。それよりも「ジェームズ・ミル著『政治経済 学要綱』からの抜粋」の引用文で取り上げられた相互作用の問題が経済学批判 体系の中でどのような形で把え直されているか,その間題の方が本稿では重要 である。そこでマルクスのホンネと鋭い直観が表現されている,1857年から 1858年の「要綱」を資料として相互作用の把え直しをごく簡単に検討してみよ う。 「要綱」においては三つの相互作用の形態が指摘されている。資本主義的生 産に先行する諸形態に対応する人格的依存,資本制社.会における物象的依存に 基づく人格的独立,そして社会主義社会以降における自由な社会的個性の交換, の三つの形態である。最後の自由な社会的個性の交換こそ最も望ましい相互作 用のあり方である。それは社会構成の土台となる経済の−・定の仕組.みと関連し ている。資本制社会では人間ほ商品交換を媒介としてお互いに相互作用するた めに人間と人間との関係が物と物との自立した関係となって現象する。理念の 上では自由で平等な人格が前提となって相互作用するように見えるけれども, 資本制社会の深層の生産過程を経由する限り不自由で不平等な社会的関係を べ・−スとして相互作用が行われる。所有一非所有の現実的関係がある限り「自 由な契約」により自由な商品所有着たちほ資本一賃労働の関係に入り込む。資 本一賃労働の関係を軸とする相互作用は決して自由に,しかも平等な立場で行 われることはない。 資本家と賃金労働者との相互作用においては「1)労働者ほ,彼の商品,労働, ……一 山つの価格をもっている使用価値を,資本が彼に譲渡する一・定額の交換価

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値,一・定額の貨幣と交換する。2)資本家は,労働自体,すなわち価値を指定す る活動としての,生産的労働としての労働を交換で手に入れる。すなわち彼ほ 資本を維持し倍加させ,そしてそれとともに資本の生産力,資本を再生産する 堤乃 力,資本自体に属する力となるところの生産力を交換で手に入れる」。労働者の 側から見れば,賃金と引き換えに労働力を一・定期間に限ってでほあるが資本家 に譲り渡すから,その期間の労働と労働生産物ほ資本家に属する疎遠なものと なる。−・定期閣内に労働力からどれだけの生産物が作り出されようともその果 実を労働者は直接に手に入れることはできない。手に入れるためには消費者と して商品の流通過程に赴かなければならない。その場で初めて自由に生産物を 処分できる立場になれる。自由に処分した後で再び「自由な契約」をして資本 一賃労働の鎖につながれる。 結局,資本一賃労働の関係を中心とするために全ての相互作用は不自由で不 平等な鎖を背負うことになる。そのような鎖を廃止した時に自由な社会的個性 の交換は生まれる。マルクスによれば「すべての労働生産物,すべての活動, すべての力能の私的交換ほ,諸個人相互間の自然生的および政治的な上位下位 の位階的関係のうえに.うちたてられた分配に対しているとともに,‥”=・−・生産手 段の共同的な領有と統制との基礎のうえに協同している諸個人の自由な交換と

囲 も対立している」。自由な社会的個性が発展する社会でほ全ての成員が生産を統

制し生産物の分配と消費にあずかる。そのような生産関係の上に自由な個性の 花が開く。「相互豊鏡化的」相互作用が展開する。そこでほ労働と遊びが区別で きなくなり,また職業労働と自由な労働との境界も消えているだろう。労働= 苦痛,消費=効用の考え方も現実性を失ってしまい人々の頭から消えてしまう だろう。 自由な社会的個性の「相互豊餞化」が可能となるためには資本制生産を廃止 しなければならないとは言え,資本制生産の文明化作用を歴史的前提としなけ ればならない。「社.会的な人間のあらゆる性質の陶冶と,できるだけ豊かな欲望 をもつものとしてのそうした人間の生産。なぜなら,豊かな性質と豊かな関係 −できるだけ全体的で普遍的な社会的生産物としてのその生産《というのは, 多面的な享受をするためには人間は享受する能力がなければならず,したがっ

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て高い水準の文化的啓蒙がおこなわれていなければならないから≫ほ,やはり

伽) 資本のうえにうちたてられた生産の一・条件であるからである」。自由な社会個性

の開花には客観的条件とともに,その条件を受けとめる力量を持つ人間が存在 しなければならない。マルクスの思想が単に理想郷を追い求める社会思想と異 なる点は,「相互豊鏡化」的相互作用を可能とさせる現実的基盤を経済学批判の 帥 枠組に基づいて解明していることにある。 (3)経済学的労働概念 (1)と(2)では労働論の菅学的,並びに社会学的側面を考察してみたけれども, 経済学も労働論の重要な部分である。ただ論点から省いたので今まで取り上げ なかった。最後に今までの論述と関連する範囲内で経済学的側面を検討してお こう。 労働の弁証法的概念ほマルクスの労働概念の軸であるが,古典派経済学から 受け継いだ労働概念も組み込まれている。経済学史の上では労働価値説と呼ば (3】) れている労働観である。二十世紀の近代経済学でほ効用価値説に立って物を消 費する主体が感じる欲求充足の度合いに価値の尺度を求めており,労働は効用 とは対立する苦痛を伴う,欲求充足の犠牲,または断念と考えられる。消費= 効用,労働=苦痛の図式である。そのような見方は限界革命以後の近代経済学 に特有のものではなくて,古代ギリシア以来のヨーロッパの思想の伝統的見方 でもある。古来,汗水を況して働くことは奴隷や農奴などの卑しい身分の者が することであって,ポリスの市民や騎士たる者は労働以外の政治,軍事,芸術 などの活動に専念すべきであると考えられていた。近代社会に浸透し始める禁 欲主義も労働に禁欲生活の方法的中心を設置してきた。欲求を統制したり断念 する最も効果的な方法は働くことにエネルギーを費やすことであった。ただ古 代から中世までの社会と近代社会とでは労働を卑しいものと見なすか,神聖な るものと見なすかに違いはあった。神聖であるとしても苦しいものであると考 えるので消費=効用とは対立する。 アダム・スミスを中心、とする古典派経済学老も労働価値説ではあるが,ヨー ロッパの伝統的な見方に立って労働を概念化している。消費に効用を求める点 では近代経済学と同じである。だが労働に価値の源泉を求めており,労働なく

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しては人間に効用を与える物は生じないと考え.る。消費のために効用を−・時的 に断念して労働しなければ価値のある消費の対象ほ生まれない。消費主体の欲 求充足を通じて価値ほ実現するにしても,その価値を生み出すものほ労働であ

る。限界革命以後,切り捨てられた労働の意義を古典派経済学ほ守っている。

たとえ労働を苦痛な活動であると見なしているとしても。それではマルクスの 場合ほどうであろうか。 古典派経済学と同様に労働なくしてほ価値のある生産物は生まれないと見な すけれども,消費=効用,労働=苦痛の図式だけに依拠しているわけではな い。むしろそのような伝統的図式を転換しようとする姿勢がうかがえる。転換 のための戦略的拠点は既に述べたような人間の存在規定と労働に.対する弁証法 的把握である。労働ほ人間の存在それ自体と密接不可分の関係にあり存在の本 質を実現する活動である。経済活動だけでほなく政治,学問,芸術,宗教など の諸活動全般に対して労働の概念は適用される。また消費活動も相互作用の岬・ 環を形成するものとして労働のカテゴリーに組み込まれる。したがって消費= 効用と労働=苦痛とを対立的に把える視点ではない。労働ほ,消費における効 用を生み出すために.犠牲を強いられる,あるいは苦痛を負担する,卑しい活動 でほなく,人間が自己の本質,または固有の価値を実現する活動である。古典 派と近代派の労働観が生まれる基盤ほ資本制生産にあり,疎外された労働の現 実を当然のことのように錯覚しているために労働と効用とを対立的に把えてし まう。資本制生産が廃止された時にほ人間の活動全般を統合する本来の労働へ の道が開けてくるはずである。 以上のような労働の哲学と社会学に基づいて経済学批判が構成されていると すれは,そこに表現されている労働の概念も古典派や近代派とは異なったもの になる。ここで「資本論」に見られる労働の定式化を取り上げてみると「労働 は,まず第叫・に人間と自然とのあいだの−・過程である。この過程で人間ほ自分 と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し,規制し,制御するので ある。人間は,自然素材に対して彼自身一つの自然力として相対する。彼は, 自然素材を,彼自身の生活のために使用されうる形態で獲得するために,彼の 肉体にそなぁる自然力,腕や脚,頭や手を動かす。人間は,この運動によって

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自分の外の自然に働きかけてそれを変化させ,そうすることによって同時に自 分自身の自然《天性》を変化させる。彼は,彼自身の自然のうちに眠っている

烏2) 潜勢力を発現させ,その諸力の営みを彼自身の統御に従わせる」。この引用文を

読んでいると初期マルクスの労働概念が抵抗なく想い浮かんでくる。青年マル クスと壮年マルクスとが二十年の隔たりを飛び越えて結びついて一つになって しまう。ただ経済学批判の文脈に適合するように仕上げられてほいる。もうし ばらく壮年マルクスに語らせてみると「労働過程の単純な諸契榛ほ,合目的的 な活動またほ労働そのものとその対象とその手段である。……要するに労働過 程では人間の活動が労働手段を使って一つの前もって企図された労働対象の変 伽) 化をひき起こすのである」。この引用文あたりになると成熟した経済学老マルク スの顔が出てくる。労働,労働力,労働対象,労働手段の区別は生産の仕組み 別〉 を解明するためにほ必要不可欠である。 労働の定式化に労働の二重性と商品の二要因といった洞察が付け加えられる と資本制生産のメカニズムもかなりよく見えるようになる。商品に現される労 鍋

働の二重性(Doppelchar・akterderindenWarendar・geStelltenArbeit)という

洞察ほ古典派とも近代派とも異なる,マルクス経済学独自の労働観である。商 品とは何かという問題に対して明確な答えを与えるためには労働の二重性とい う視点に立って商品交換のメカニズムを説明しなければならない。交換におい て使用価値と(交換)価値と呼ばれる要因が生産物の中から現れる時に生産物 郎) ほ商品になる。商品を成立させる二つの要因は人間の労働の性格に由来する。 既に述べたように労働は個人個人が個々の労働対象と労働手段を要素として 使って具体的な物を作り出す活動であると同時に,人間に共通する顆的本質を 実現する活動でもある。このように労働は個別性=独自性と普遍性=共通性 とを兼ね備えた活動であるから,労働の生産物にも二重性が反映される。 個別性の側面に関して言えば労働は個人が行う独自な活動になり生産物も具 体的な形態を持つ個物になり,そのために個人個人の具体的な欲求を充足する 使用価値を含む。それに対して普遍性の側面では労働は個人の個々の活動に共 通する類的本質の実現であり生産物は類的本質という共通のものを,つまり交 換のための共通の価値を含む。マルクスは個別性の側面を具体的有用労働→使

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用価値という形で,また普遍性の側面を抽象的人間労働→(交換)価値という 即 形で概念化する。後者の側面は商品交換の過程で初めて現れてくる。したがっ て自然経済の下では潜在化しており,商品交換が全面的に展開する資本制生産 になって生産を貫通するカを持つようになる。資本ほ個々の商品や貨幣に姿態 変換しながら抽象的人間労働=価値を吸収してふくれ上がっていく運動体,つ まり価値増殖する運動体である。その場合に資本に含まれる抽象的人間労働= 価値の大きさは貨幣の量によって表示されるから資本制生産は絶えずより多く の貨幣を追求する宿命を背負ってしまう。 問題は個人個人,またほ個人個人の労働を資本の下に従属させ,そこから抽 象的人間労働=価値を引き出しながら,労働する個人に直接に還元しない点で ある。すなわち労働する個人が類的本質の実現である抽象的人間労働=価値を 享受できないことこそ重大な問題である。あるいは自由なコミュ.ニケーショソ を通じて抽象的人間労働=価値をお互いに.自由に享受することができず,資本 の価値増殖のために商品交換を通じて抽象的人間労働=価値を受け取るはめ になってしまうという疎外の問題が生まれる。ここで初期マルクスが提起した 問題にまた戻ることになる。その問題を経済学批判の視点から解明することが 後期マルクスの仕事であったが,これ以上の考察は論点から外れるので差し控 えておく。 4.む す び 労働論ほマルクスの思想の土台であるために経済学だけでは処理できない部 分であり,哲学や社会学の問題としても取り扱われなければならないだろう。 それだけに様々な分野の研究者がそれぞれの関心に基づいていろいろな思いを 込めて論議している。近代文明の壁を乗り越えるための足がかりをマルクスの 労働論に求めて解読を試みている思想家も多い。もしそこに何らかの足がかり を得たと,あるいは得られるものと確信すればマルクスの思想全体が輝いて見 え,経済学批判体系全体に対して解読の努力を傾けていくだろう。逆にマルク スの労働論も近代文明の運命を背負っていると見なしたならば一つの歴史的退 席として,また偉大な使命を果たし終えた思想として思想史の良き対象になる

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かもしれない。 本稿では将来においても思想の使命を十分に果たすことができるものと確信 している研究動向に即してマルクスの労働論を再検討してみた。概観した程度 であるから個々の問題に十分な検討を加えることはできなかった。それらの問 題の中では労働の二重性と資本制社会,労働と遊び,労働論とメディア論,将 来における労働のあり方などの問題ほマルクスの労働論においてメイン・テ一 冊 マをなすけれども,まだ明確な答えを与えられていない。果たしてマルクスの 労働論から納得のいく説明,あるいは答えを導き出すことができるかどうか。 冒頭の研究動向でも触れたように今後のマルクスの思想の運命を左右する重要 な課題である。 注 (1)「思想」1983年3月号,「別冊経済セミナー」1983年2月号,「現代思想」1983年3月号, 「季刊・科学と思想」1983年7月号,「経済」1983年3月号,などがある。いずれもマルク ス没後百年を記念した特集を組んでいる。 (2)今村仁司の労働論の研究に関してほ.注(1)の雑誌に掲載された論文の他に,「労働のオント ロギ・−」(勤草喜房,1982年)がある。またボードリヤールの批判に関してほ今村仁司「消 費社会の記号論仙ボードリヤールの場合−」(『日常と行動の記号論』勤草雷房,1982年) を参照。 (3)/、バ・一マスのマルクス批判ほ「イデオ・ロギーとしての技術と学問」(山本啓訳,紀伊国屋 書店,1968年)に見られる。それに対する反論は山本啓「ハパーマスの社会科学論」(勤草 喜房,1980年)を参照。 (4)西部邁「労働のソシオ・エコノミックス(2)活動論とメディア論」(『経済セミナー』1976年 6月号),間宮陽介「経済社会のソシオロジック」(『経済評論山982年4月号∼9月号),杉 村芳美「労働の構造一自己対象化論について−」(『経済セミナー』1982年12月号)。 (5)「現代思想」ではデリダ,ドゥルーズ,クリステヴァ,バタイユたちの特集号が刊行され ている。そこにはマルクスをターゲットにした論稿がしばしば見られる。マルクスをター ゲットにした論文は1983年3月号のマルクス特集にもいくつか含まれている。例えばその 一つとしてM・ライアン「マルクスとデリダーマルキシズムとデコンストラクショソー」。 (6)経済人煩学とマルクスの思想との関連をめぐる問題についてほ「消費社会の解読」(1982 年5月号),「人類学の最前線」(1982年6月号),「贈与と交換」(1983年4月号)などの「現 代思想」の特集,並びに吉沢英成「貨幣と象徴」(日本経済新聞社,1981年)を参照。 (7)贈答制のシステムについてはB・マリノウスキー「西太平洋の遠洋航海者」(『世界の名著・ 第59巻』寺田和夫他訳,中央公論社,1967年),並びにM・モース「社会学と人類学I」(看

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他事他訳,弘文堂,1973年)の贈与論を参照。 (8)DavidMclellan「Marx’sGrundrisse」Macmi1lan,1971,「MarxandtheWholeMan」 CroomHelm,1975,AliRattansi「MarxandtheDivisionofLabor」Macmillarl,1982 (9)キャロル・グールド「『経済学批判要綱』における個人と共同体」(平野英一り他訳,合同出 版,1980年)。 (10)虞松渉「マルクス主義の地平」(致草書房,1969年),「唯物史観の原像」(三−・新書,1971 年),「資本論の背学」(現代評論社,1974年),「弁証法の論理」(青土社,1980年)など。 (11)マルク1・・・・・ゼ「初期マルクス研究」(良知力他訳,未来社刊,1968年)。 (1幻・マルクス「経済学・哲学草稿」(城壕登他訳,岩波書店,1964年,206ペー・ジ)。 (13)同上 208ページ。 (14)ふるまう点についてほ「経哲草稿」の訳老である城塚登「弁証法と現実的世界」(『論理学 のすすめ』筑摩書房,1971年)を参照。 (用「経香草稿」208ページ。 (1ゆ マルクス「ユダヤ人問題によせて」(城塚登訳,岩波書店,53ペ・一ジ)。 (17)マルクス=エンゲルス「新版ドイツ・イデオロギ、−」(花崎率平訳,合同出版,1966年, 30ベトージ)。「ドイツ・イデオロギー」に関してはマルクスとエンゲルスの原稿の持ち分をめ く小って論議が続けられている。廣松渉による「ドイツ・イデオロギ・−」の復元作業も大変に 貴重なものであるが,ここでは花崎の訳に従う。 (1㊥ 同上 39−40ページ。 (19)マルクス「経済学批判」(大内力他訳,岩波書店,1956年,13ページ)。 (20)「経萄草稿」199ページ。 恰1)同上 102ページ。 (22)「初期マルクス研究」136ペ、−ジ。 (2∂ 同上113ページ。 伽)「経習草稿」101−102ページ。 ㈹ マルクス「ジュー・ムズ・ミル著『政治経済学要綱』からの抜粋」(『マルクス=エンゲル ス全集・第40巻』大月書店,1975年,382−383ページ )。 (姻「ドイツ・イデオロギー」58ページ。人間の活動を,対自然関係と対社会関係の二つの側 面から把える視点ほマルクスの思想の根幹をなす。「資本論」でもくり返し言及される視点 である。 佗7)マルクス「経済学批判要綱」(高木幸二郎監訳,大月苔店,1958−65年,196ページ)。 錮 同上 79−80べ、−ジ。 (29)同上 337ページ。 (30)「相互豊餞性」の問題は互酬性の規範に関連する正義の問題にもなる。そのことに関して はキャロル・グールドの研究を参照。疎外,搾取,物象化を正面から取り扱うことは本稿で ほしない。 (:川 てルクス主義の労働観に関してほエンゲルス「猿が人間になるについての労働の役割」が

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