J・M・ドジソン「南東部イングランドにおける
-ingas,-inga-地名分布の意味」に関するノート―
―アングロ・サクソン人初期定住との関連で――
著者
原 征明
雑誌名
東北学院大学論集. 経済学
号
66
ページ
25-46
発行年
1974-12-30
URL
http://id.nii.ac.jp/1204/00024417/
イングランドにおけるアングロ・サクソン人の初期的動向を知るうえで、その手がかりとなるものとしては、﹃アン J ・ M ・ ド ジ ソ ン ﹁ 南 東 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る 1 両 億 畳 ︲ 蓄 駕 l 地 名 分 布 の 意 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 二 五 五、参考地図 四 、 結 び 三三二一 、 、 、
︲量豊吻雷︲貴篭︲地名分布の意味﹂に関するノート
J・M・ドジソン﹁南東部イングランドにおける
目 次 はしがき インガス地籟研究史とドジソンの問題意織 インガス、インガ地名と異教埋葬地の地理的関係について l ド ジ ソ ン の 分 析 I | 、 は し が きlアングロ・サクソン人初期定住との関連でI
原
征
明
J ・ M ・ ド ジ ソ ン ﹁ 南 東 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る l 尋 偲 畠 ︲ 苛 曽 I 地 名 分 布 の 意 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 二 六 グロ・サクソン年代記﹄︵診冒唾?蟹閏○国。胃。昌菖の︶やくiダの﹃イギリス教会史﹄︵閏駕。蚤韓国R雷昔急§。§爵 聖篭蝿ミ謹選︶など周知の文献をはじめとしその他若干あるにせよ、一般にこの研究領域は記述的史料が極めて限られ た状態にある。従って、歴史学におけるその空白部分は、しばしば隣接諸科学に偶するいくつかの分野からの種々な る研究成果によって埋められることが少なくはない・ 地名学研究もその一つなのであり、それは考古学・人類学・言語学などと共に連年独自の成果をあげており、これ までのアングロ・サクソン社会経済史研究に貢献し新しい光を投じてきたことは否定できない事実だろう。因に、地 名学に対してわれわれが関心をよせるのは、例えばマイヤーズQ・Z.F・冨胃鵲︶によっても既に指摘されている様 ︵11︶ に、この分野での研究成果がアングロ・サクソン人定住の社会的状態、ないし定住者相互を晶初に結びつけた制度的 紐帯の如何を理解するうえで不可欠なものとして意義づけられると思われるからなのである。 本稿では、早期アングロ・サクソン・イングランドに関わる地名学的研究成果の一つとして、翼且罵く昌少愚冨gT o喝︺己昌閣・ゞ患認.の巻頭に掲載されたドジソンQ・言.。且鴨目︶の論文、↑弓胃盟唱昌呂貝①呂讐① 里吻耳号員。ロ具号の因己警呂国騨$︲z四日溺日‘昌智い︲息奮︲旨い呂吾︲圏駕因畠箇呂:をとりあげて、私なりの ︵ 冗 岳 ︶ 視角から整理してみることにする。なお、この論文に関しては青山吉信教授の最近の著作においても、その結論的な 部分について若干ふれられたが、この領域ではいわば近年の新説とみなされるものなので、少しく具体的に考察を試 みる次第である。 (2) (1) 魚.知。⑦,○.旨冒唄弓。。旦騨ロロ]・Z.F,三角望吋⑱P詞。當目画冒国凰冨旨騨国Q津届画昌哩諒ゴ印①再意昌⑮画蔚.陣己.①g・﹄鵠・P四四蝉 青山古偏﹁アングロⅡサクソン社会の研究﹄︵昭和四九年◆山川出版社︶三四三、三五一、二五七頁参照。
更に、このような地名が示す定住史的意味に関する研究は、古く一九世紀中葉におけるケンブルQ・塁.尻①目匡e のそれにまで遡りうるだろう。即ち彼は、このような︲貫駕動語尾をもつ二百以上もの地名をひろいあげ、それらを もって語頭のパーソナル・ネームの者を共通の祖先とみなす同族血縁集団に由来するアングロ・サクソン人の最早期 ︵ ? ﹄ ︶ 定住を示す地名形態と考えたわけである。ただし、このインガス・ネームは既に品初から地名そのものであったわけ でなく、元来﹁・・・の人々︵後窟︶﹂もしくは従者達という、いわばフォーク・ネームあるいはグループ・ネームを意 ︵ 叩 J ︶ 味していたことが明らかにされている。 ︵ 4 ︶ 換言すれば、やがて地名に転化するこのようなインガス・ネームは、その多くが当初おそらく特定の指導者の下で J 。 M ・ ド ジ ソ ン ﹁ 南 東 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る l 雷 駕 吻 善 ︲ 営 鷺 l 地 名 分 布 の 意 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 二 七 さて、ドジソンの論文の主旨は、既述のタイトルが示している様に、イングランド南東部におけるインガス、イン ガ地名︵さ蝿鬮・︲ご侭?亘肖①︲目ョ①︶の分布の意味をさぐろうとすることにあるのだが、ここで先ずインガス地名に ついて若干ふれておく必要があるだろう。 周知の様に、これは特定のパーソナル・ネームを語頭にもち、それにオIルド・イングリッシュの︲爵蝿の複数形 争当魯冑曳が語尾として結合した構造の地名なのである。そして、このインガス地名の分布状態に関しては、イングラ ンドの南東部および東部海岸寄りの猪地域においてとりわけ稠密さを呈し、西部に向うにしたがって稀薄になるこ と、また一般に諸河川の周辺にそれが多数出現する傾向にあるということが、これまでの諸研究によっても明らかに ︵ ■ 且 ︶ 六一れているのである□
二、インガス地名研究史とドジソンの問題意識
以上、われわれはインガス地名をめぐるこれまでの研究動向の概容をたどってみたのだが、しからぱそれとの関連 でドジソンQ、富。ロ且蝿質旨︶が改めてインガス地名Iと、インガ地名lを検討していることの意競は、一体ど こに求められるのであろうか。次にその点を明らかにしなければならないだろう。 いまみた様に、例えばこのインガス地名の定住史的意味をめぐっては、そもそもそれが同族の血縁集団の定住なの か、あるいはそこに主従団的枠睦稽を看取しうるのかという点で諸説があるといえようが、そのこととは別に、このよ うな地名の多くがイングランドの南東部や東部海寄りの諸地域という、おそらく早くからアングロ・サクソン人の侵 入にさらされたと考えられてきたところに多く分布するということは既述の通りなのである。 ところで他方、このような地名が分布する諸地域は、しばしば異教時代におけるゲルマン人占領に関わる最良の考 古学的証拠が発見されるところでもあって、例えばケント、イースト・アングリァ、あるいはサシックスなどにみる 標に、そこには異教時代に帰属する多数の埋葬地合目邑智呂目︶が存在するわけである。つまり、異教時代の考 J ・ M ・ ド ジ ソ ン ﹁ 南 東 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る I 営 鷺 子 爵 糟 l 地 名 分 布 の 意 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 二 八 相互に結合された血縁者や従者達を包含する集団を意味していたということになるのだが、いずれにせよこうした見 解は以来早期アングロ・サクソン・イングランドの社会的状態の把握に関わる例証として、しばしば援用されてき なお、少しく前後するのではあるが、特にケンプルによるインガス地名の同族︵血縁的︶集団の定住という解釈 は、けっしてそのままの形で受け継がれてきたわけでなく、その後彼の見解を懐疑的とする諸説が拾頭したというこ ︵侯0︶ と、そしてまた地名学的研究動向として、近年はこのインガス地名をもってむしろ主従団的性格にその起源を発す るとみる主張が有利に展開されつつあるという、青山吉信教授による指摘のあることも、ここにつけ加えておきた た 0 ︵ n U ︶ ︲ 、 ○ ‘ 1 日 ■ 〃
ところが、これに対してドジソンの論文においては、はたしてそのような地名がアングロ・サクソン・イングラン ドの最早期局面に遡って位置づけられうるのだろうかということそれ自体が問題視されており、まさしくそのような 意識の下に地名の検討がされている。因に、ここで彼の主張を先取りするならば、彼はそのような地名の帰属する時 期についてそれが最早期に由来するのではなく、むしろそれより後の段階の証拠であるかも知れないというのであ り、その点で旧来よりなされてきた解釈に対して否定的な立場を示そうとするのである。もちろん、彼自身はそのよ うな主張を﹁試論﹂という形で提示し、慎重にも最終的な結論づけを回避しているが、少なくともわれわれにはこれ までの地名学的研究成果に対しいわば一つの新説を投じようとする姿勢がそこにうかがえるのである。 しからぱドジソンは、いかなる方法ないし根拠によって、彼のそうした見解に説得性をもたせようとしているので あろうか。即ちその方法は、一方ではインガス、インガ地名︵土撲冨駒.4債駕︲ご雷8︲口四日巴を地図上にひろいあげ、 他方考古学的証拠としての異教時代の埋葬地点e侭呂冨昼巴鴎5︶をそれと詳細に対比させ、この両者の関係が 少なくとも地理的に乖離するという事を、一般的な形で明らかにするということによってなのである。 古学的証拠が多数発見される地域は、一般にインガス地名も数多く分布するところであるのである。 このため、地名学の領域でも両者のほぼ共通する現象がみられるということについては、それが偶然によるもので ︵ 可 f ︶ ないのだという指摘さえあるわけである。従って、おそらく以上のことは、少なくともインガス地名の帰属する時期 に関して、それがアングロ・サクソン人の最早期定住との密接な関連で把えられるようになってきたことの所以であに関して、それぶ ったと思われる。 (1) 禺.毎.冨騨君自陣詞冨.鷲印画9コ︵&。︶・旨寓目巨曾ざロ冨昏の帥員ぐ喝旦国侭冒彦国:①Iz騨日①帥]患霞.ロロ豊︲忠.︾言︾ J 。 M ・ ド ジ ソ ン ﹁ 南 東 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る l 鳶 智 蛉 零 ︲ ご 婿 園 l 地 名 分 布 の 意 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 二 九
②畠.].言.屍の昌巨p自庸の騨曽扇冒団員一豐巳︵Fo且。己屋ちゞ軍留獄︾印乏.君8丘風骨少旬冨シロ唾Cl留制。雪 辞苣⑮ョ⑩胃、弓◆]91旨P写弓聖韓鷺畠里阜員Cs酉§電旦画侭昔員貰尋、晶垂、p葛g・ゞ且.ご閏.0.口目g︼ご麓. ③ 詞 冨 ↓ 聾 ① 胃 。 二 ゞ シ 画 哩 。 ︲ 留 〆 ・ 画 両 畠 冨 且 、 届 霞 ↓ 軍 望 今 同 国 . 国 騨 罵 尹 画 冒 耳 。 号 目 。 口 8 シ 己 哩 。 ︲ 静 曽 己 同 己 巴 騨 邑 ◆ 匿 曾 ↓ 冒 鵠 、 : ゞ 詞 。 目 騨 自 陣 洋 画 言 四 目 両 目 ご 面 目 置 呂 段 . 国 。 l シ , ロ . 電 腸 弓 箭 ゞ 戸 ] 鼠 ” 毎 . 冨 煙 三 日 陣 列 冨 ︾ の︹⑯口奇○二︵①色・︶¥○画亀匙・〒百壱m−,1m︺◇ ㈱なお、インガス地名の中には、その地域の自然的︵Ⅱ地理的︶特徴に由来する語と結合して形成されたものが若干あるとみ な さ れ る 。 亀 . 句 . 塁 . 、 蔚 員 。 宴 。 、 . 、 韓 ・ 、 P 望 今 ⑤ ] ・ 国 . 丙 。 匡 且 ↓ 弓 蔚 の ⑤ 量 ⑮ ョ ③ 胃 具 牙 巾 印 g 蟇 四 口 色 固 煙 呉 切 騨 曽 画 印 ︾ 冒 巽 菅 9 量 量 這 冨 旦 旧 § 号 彗 畠 斡 旦 ○ 琴 尋 馨 亀 営 ↑ 扇邉.︺”函、詞⑮画二群目声①○ユ哩雪具固ヨ巴豚彦国国。①lz“ョ⑱岬︸Foゴロ。口ゞ屋g﹃ごp弓巽早詞.顕.函。ロ唖蚕口︸シ困討g昼食 鈩呂さ︲留曽吊皀忠劃く巳巳−9.国②l曽式 1 伯インガス地名研究に関する最近の動向を記する邦普としては、例えば青山吉信﹃アングロⅡサクソン社会の研究﹂︵昭和四 九雫・山川出版社︶三五一’三五二頁、青山・今井・越路・松浦編﹁イギリス史研究入門﹄︵昭和四八年・山川出版社︶一四 (7) J ・ M ・ ド ジ ソ ン ﹁ 南 東 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る l ︾ 億 ; ︲ ﹄ 蘆 ロ ー 地 名 分 布 の 意 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 三 ○ 騨邑更一鑿逗貝箇I之a鴬騨︶亀砲電.ごC一、︺↓ロ印詳、︺・︾シ、函“切口二号︵⑮e・、同己聴ご印言国騨81z卸ョ①画毎日①口毎︺己牌再.]、冨騨で一 員、耳弓員5口自国衝。①lz騨冒巾冒山zの↑冒皐周垂廻一蟇逗為倉坐寄昌、的。国や電尋ご巳.×閼臼?↓︻・石色目員。画・国画哩厨百国:⑮lz画冒①印 雷電ゞ詩琶、雪lご◆ 頁等を参照。 亀ゞ﹄.冨騨君曾“計目色句.冨ゞ印篇.8コ︵⑪且︶や、.亀季P、蝉
局 面 な の で あ り 、 ま た ﹁ 補 ︵ 九 〆 ご ︶ 印 ① 茸 帝 目 ① ロ c で あ る 、 と 。 さて、ドジソンにおいては既述の様にインガス、インガ地名がはたして最早期定住に関わるものであるのかという 問題を異教埋葬地との関連で解明しようとするのだが、その検討に先立って、例えばエクウォール︵画駒弄憩昌︶やス ミス︵海.出切目群gなど地名学の領域における先駆者の、特にインガス地名に関して言及した箇所を引合いに出 ︵ 1 ︶ し、それに若干のコメントを与えている。即ち先ずエクウォールの主張については、アングロ・サクソン人定住との 、 、 関連でインガス地名の重要性を指摘した彼が、この地名をアングロ・サクソン人のプリテンヘの移住︵日億国唾目︶ 、 、 の時期にまでさかのぼらせ、他方ではこの地名が早期アングロ・サクソン人の植民︵8琴凰魁露目︶の性格にある種 の光を投げかけるものだと述べた部分をとりあげている。そしてドジソンは、いまみたエクゥォールの主張におい て、アングロ・サクソン人の﹁移住﹂と﹁植民﹂という言葉が同等のものとして取扱われていることを指摘し、イン ガス地名が帰煽する時期を考える場合には、その正確さを期するためにも右の用語が区別されねばならないという。 因に、ドジソンにおいては﹁移住﹂と﹁植民﹂を﹁定住﹂︵器邑①目gcにおける二つの過程と考える方諜一層便 利で、正確だろうとし、次のように規定する。即ち、﹁移住﹂は目億国目雷がプリテンに到来して定住地を確立する 、 、 、 、 、 、 局面なのであり、また﹁植民﹂というのは移住者によって占められた領域を越える定住地の拡張希蔦呂璽o易呉 J・M・ドジソン﹁南東部イングランドにおけるI韓侭鼠iき増l地名分布の意味﹂に関するノ1卜三一 叶 甲
三、インガス、インガ地名と異教埋葬地の地理的関係について
111ドジソンの分析I
J ・ M ・ ド ジ ソ ン ﹁ 南 東 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る l 爵 唄 鼠 ︲ 鴬 唱 l 地 名 分 布 の 意 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 三 二 さて次に、エクゥォールと比較すれば、地名の更に洗練された分析を行ったと評価されているスミス︵少.題切目群ご ︵ 向 j ︶ の主張について、ドジソンは次のように要約する。即ちスミスにおいては、︲等鐺語尾をともなって形成された地名 の複雑な系別のうち、−鳶駕吻1蔓億ロ︲タイプだけがアングロ・サクソン人定住の最早期局面に関連づけられるとい うこと、またインガス地名そのものは二つに大別され、一つはパiソナル・ネームに基づくところの古い形態であ り、この他に地勢的用語ないしはより古い地名にその基盤が求められ、その創出がオールド・イングリッシュ時代の どの時期かに属するものもあるということが提示されてきたのである、と。 ところでドジソンにおいても、このインガス、インガ地名はアングロ・サクソン人が居住したところ、もしくはそ れと何らかの関係があった領域に展開されたコミュティの名称であること、また多くの場合それが特定の人民ないし その者達の定住地の、現実の創始者または創始者と想定される者のパーソナル・ネームの上に形成された地名である とみなされている点で通説と同様なのである。さらにまた、地名研究の今日的な見解からみて、確かにパーソナル・ ネーム・インガス形式︵ご曾普目〒己画日①︲署嘱鼠、ざ片目昌巴が地名として使用された一時期は存在したように思わ れると述べている。けれども彼は、はたしてその時期はこれまで発見された異教埋葬地のそれと同じなのだろうかと 設問しているわけである。そして、いわく﹁もし仮りに、これまでインガス地名に関してなされてきたその主張︵イ ンガス地名と異教埋葬地は同時期に属するという主張l引用者l︶が妥当であるとするならば、インガス地名と りわけパーソナル・ネームに由来するそれは、発見された移住局面の異教埋葬との密接な関連において地図上に配置りわけパーソナル・ネー されるはずなのである。 なお、ここでわれわれはアングロ・サクソン人の異教埋葬に関するドジソンの見解に少しくふれておかねばならな いだろう。即ち彼においては、アングロ・サクソン人の異教埋葬が五世紀から八世紀初頭にかけての現象として把握 ︵川監︶ ﹂し﹂0
なぜならば、異教埋葬地がそもそも移住・定住者達のコミュニティによって使用されたものであるとしても、ある コミュニティは何らかの理由で比較的早く崩壊したかも知れないし、またこれと反対にそうしたコミュニティがキリ スト教時代に至るまで存続していたとすれば、それが旧来の埋葬方法とその埋葬場所を放棄せぬ限り、異教埋葬が証 拠として存在することになる。あるいは、移住後に開かれた植民地であっても定住者の改宗︵8口ご閏里目︶が行な われる以前であるか、そこにまだ教会が創設されてない場合には、何らかの形で異教時代の埋葬慣行が継続するだろ うと説明する。いずれにしても、このように等しく異教時代の埋葬とはいえ、あるものは最早期の移住者によるもの であるかもしれないし、またあるものは彼らの後商や一部キリスト教時代の者達のそれに属する場合さえあるとい うように多様であるというが、しかしドジソンにおいては発見されたアングロ・サクソン人の異教埋葬地の分布地図 が、少なくとも数種類の歴史的序列︵冨駕日旨昌駕呂gB︶を示すはずだとみなされている。即ち、 第一に、移住者のコミュニティがその死者を異教時代の葬式によって葬り、且つまたその定住が失敗せぬ限りキリ スト教の傾習により変更がなされる時期まで旧来のやり方と埋葬場所が継続して使用された所があるだろうというこ また第二には、異教時代の葬式と異教埋葬地を使用していた者達の地域に、キリスト教が導入される以前に﹁植民 地﹂が創始された場合のことである。そこでは、埋葬そのものが移住・定住地域︵冒昌唱画員︲駕騨行日①昌胃忠巴 よりも遅れて開始されるが、それは定住が失敗せぬ限りキリスト教の慣習に転換される時期まで継続するだろうとい されており、且つまたそれが穂々の理由によって、いくつかに類型化して位置づけられるのだと考えられているから うことである。 となのである. 需轄シめ一旬。 号 ■ J・M・ドジソン﹁南策部イングランドにおけるl農冒吻電iご磑園l地名分布の意味﹂に関するノート三三
﹄ ? M ・ ド ジ ソ ン ﹁ 南 東 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る l 曾 唱 伊 山 畠 。 l 地 名 分 布 の 意 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 三 四 第三に、もし定住が失敗した場合には、︹異教︺埋葬はその時点で停止するだろうから、埋葬地は限られた使用の 証拠を包含するだけかもしれないということである。 他方第四に、︹異教時代の︺埋葬慣習に対するキリスト教のインパクトは、ある場所では他よりも緩慢であったか もしれないのであって、この点はそのコミュニティの情感含呂睡目gcが保守的であるか進歩的であったのかとい うこと、あるいはまたそのコミュニティがキリスト教伝道者のコースと地理的に近かったか、それから遠ざかってい たかに依存する。そして、キリスト教の影響が緩慢であった場所では異教時代の埋葬慣習と異教埋葬地がキリスト教 ︵ 5 ︶ 時代に至るまで何らかの形で十分使用され続けたかもしれないのである、と。 以上、少しく長々と異教埋葬に関するドジソンの考え方をたどってきたのだが、その基本的な点は彼のいう最早期 における移住者達の異教埋葬地が、いわばその後の植民者達によって使用されたものと時期的に区別して考えられな ければならないということに尽きるだろう。 さて、ドジソンは早期アングロ・サクソン・イングランドの異教埋葬地に関し、およそこのような歴史的存在形態 を想定したのだが、次にそのような考古学的証拠と他方当面の問題である地名学的鉦拠渉実際その細部において分布 の不一致を示すということに言及した旧来の見解をとりあげ、それに論評を加えている。例えばマイヤーズ。,Z. F・冨胃鵲︶の主張がその一例であるが、彼はインガス、インガ地名と異教時代の共同墓地含侭営吊日興①墨︶とい う二つの証拠が地図上に示す分布の不一致という問題について、この両者のうちいずれかが欠落しているという点を 強調し、その理由を次のことに求めたといわれる。即ち、先ず地名学的証拠に関しては何らかの理由で崩壊したフォ ークがあること、また忘れられた地名、変化してしまった地名があって、それがインガス地名の非残存性曾目− 22弓里具呂①︲蟄侭畠邑四目巴をもたらすということであり、他方考古学的証拠の側でも未発見の異教共同墓地が
というのも、こうした考え方は地名類型の歴史的意議に閲してこれまで容認されてきた見解に適合すること、新た に発見された埋葬地点がインガス地名と共に地図上にのせられても、この説明は修正を要しないこと、また更にはそ れ那インガス地名の少ないミドランド地方の波乱に富む政治上の歴史事件と関連することを彼︵Ⅱマィャiズ︶が立 証したという意味においてなのである。しかしながら、ドジソンの卒直な疑問は、一体なにゅえこのような一弓の証 拠を調和させて考える必要があるのかという点にある。そして、いわく﹁・⋮・・二つの証拠のそうした調和の必要は、 ︵そもそも︶インガス地名がアングロ・サクソン人定住の最初の段階に由来するという地名研究者の強調と異教埋葬 がいつでもどこかで偶然的に発見されるかもしれないのだという考古学者の側での憶測に対して生ずるにすぎないの ︵ 7 ︶ である。﹂と。いずれにせよ、このようにしてドジゾンは地名学的証拠と考古学的証拠との間のいわゆる﹁調和説﹂ ︵閏8目且凹建侭吾8塁︶に対しては批判的なのであって、むしろ異教時代の埋葬地とインガス地名等が地図上で 示す分布の不一致という難問は、もし仮りにこの二つの証拠が同じ時期に属するはずだということの要求が削除され るなら一掃することが可能になるとみなすわけである。 そこでわれわれは、以下ドジソンの叙述にしたがってイングランド南東部におけるインガス・インガ地名、および 異教埋葬地という二つの歴史的証拠の分布の状態を検討し、その要点を抜き出して列挙してみることにする。 ⑪ ケ ン ト ︵ 属 目 s に つ い て ケントでは、若干のインガス、インガ地名が異教埋葬地と接近している。⋮⋮が、疑いのある語源のものとして記 録されたそれでさえ、インガス、インガ地名は大部分があるものは遠くまたあるものはそれ程還くないが埋葬地から J ・ M ・ ド ジ ソ ン ﹁ 南 東 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る l 茸 鷺 翰 辿 畠 園 I 地 名 分 布 の 意 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 三 五 とを認めてはいる。 ︵ 戸 、 ︶ あると思われることである。もちろん、ドジソンもマイヤーズのこうした解釈が若干の傾聴に値いする部分のあるこ
J ・ M ・ ド ジ ソ ン ﹁ 南 東 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る l 註 鷺 蜘 毒 ︲ 韓 侭 員 l 地 名 分 布 の 意 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 三 六 移動している。⋮⋮この地方の漂積地質︵号胃鴨昌畠巴と対比してみると、こうした︹地名︺分布はいくつかの インガス地名がほとんど魅力のない粘︵植︶土地や白聖土壌a亀:。、冨弄geに立地していることを示すの であって、それはあたかも晶良の砂地や砂礫地が配分されてしまった時期にそうした︹インガス︺名の定住地が形成 ︵ R ︾ ︶ されたかの如くなのである、と。 ② サ シ ッ ク ス ︵ 普 盟 員 ︶ に つ い て サシックスでは、若干のインガス、インガ地名が異教埋葬地点の近くにある。地図上で國忠島吊.蜀①凰口頤 冨鼬罠侭および。ご冒魁函口としてのっているのがそれで、それらは埋葬地と地理的にも直接的な関係にあり、この両 者の間にはそこに回入するような自然的特徴や障害物が存在しないのである。⋮⋮しかし乍ら、このタイプ︹Ⅱi鳶對伊 ︲譜蝿駒l︺の地名の大部分は、埋葬地点と結びつけられないのである。︹即ち︺分布地点間の相違は、ケントで見られ る以上に顕著である。⋮インガス地名はウィiルド森林地合胃葛間武︶に入りこむことはなく、いわんや鈩垈胃 河と。匡鼻目①話との間の高地にある主要な異教埋葬地域に︹インガス地名が︺侵入するということはない.︹ただ︺ インガ︵ふ續窩I︶地名はウィIルドにも生じ、その異教埋葬地域の末端にも入りこむ.この︹サシックス︺地方の東 部と西部では数多くのインガス︵︲筆錆畠︶地名に対しての、記録せられた異教埋葬地︹分布︺の稀薄さまたはその欠 ︵ 9 ︶ 除が印象的であり、︹このことは︺とりわけ函儲堂国鴨地域においてそうなのである、と. ③ サ リ ー 翁 臣 目 暑 ︶ に つ い て サリーにおいては、︹インガス、インガ地名と異教埋葬地という︺二つの種類の証拠のほぼ排他的な性質を分布地 図が示している。︹即ち、異教埋葬地は︺鱒豐①聾愚騨︵Ⅱローマン・ロード︺の南東部において最も頻繁に発見さ れる。︹ところが︺インガス、インガ地名は散発的とはいえ、その最も稠密な分布が異教埋葬地域の南側の森林地
︵ 尋 の 里 片 口 画 瀞 巴 お よ − ︵ 、 ︶ 存在するのである、と。 および ⑥ エ シ ッ ク ス ︵ 因 隠 間 ︶ に つ い て エシヅクスでは、インガス、インガ地名の分布が中部地域において最も著しく、それはまた既にマイヤーズによっ て指摘されているようにローマン・ロードとも関連づけられる。︹これに対して︺エシックスで見出される異教埋葬 地は、一般にロンドンⅡコルチェスター間の道路上とその南側・東側に存在する。︹しかし︺インガス、インガ地名 は︹異教埋葬地に関する︺この範囲に制約されず、しばしばその道路の北側や西側に出現する。他の諸州における様 に、それはあたかもこのようなタイプの地名が異教埋葬地をつくりだした者達と関連づけられないかの如くにみえる のである。︹ところで︺エシックスにおけるインガス地名現象の著しい特色は、星座︵8易罵言建呂︶を形づくって J ・ M ・ ド ジ ゾ ン ﹁ 南 東 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る ’ 一 覺 畠 ︲ 菖 胃 l 地 名 分 布 の 嘩 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 三 七 ㈱ ミ ド ル セ ク ス ︵ 冨 墓 昌 爵 間 ︶ に つ い て ミドルセクスでは、当該の︹インガス、インガ︺地名が極めて少数であり、既知の異教埋葬地も同様に極めて少な い。︹そして︺両方の種類の証拠は、この地方の同一部分に存在しているが、︹それは︺この地域が初期の農耕に対 ︵ 皿 ︶ して極めて限られた土地しか与えなかったからである、と。 ⑤ ハ ー 。 ト フ ァ ド シ ャ ︵ 雷 の 鼻 ご 巳 、 三 思 ︶ に つ い て ハiトファドシャでは、当該の︹インガス、インガ︺地名は埋葬地点と関連づけられない。︹つまり︺異教埋葬地 分布のパタiンは、北側からの⋮⋮定住を示唆する。︹けれども他方︺インガス、インガ地名は、F函河の源流 ︵函①呂駕制幽目の︶上に分布するのであり、それはあたかも南側からの、即ちエシックスから定着した植民を記念す ︵函①画○駕制幽昌の︶ ︵ 理 ︶ るかの如くである、 テムズ河に通じる主要な諸河川の低地区域︵ざ亀鴎諦四号隅︶沿い、即ち埋葬地域の北側に と ・
J ・ M ・ ド ジ ソ ン ﹁ 南 東 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る l 鴬 鷺 吻 ・ 山 穏 詞 l 地 名 分 布 の 意 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 三 八 いる二つの地名集団、即ち魚畠鴎グループならびに陶呂冒鴇グループが出現することである。こうした地名集団 は、広範な領域をしめる複合的なインガス定住地であるが、しかし︹それらは︺異教埋葬の形跡をともなっていな い。⋮⋮エシックスにおける罰且冒鴨系列の陶葛騒侭闇は、それらの村落全体の中の︷卑乱爵昏弄、なのであり、 これは単一の社会が数多くの定住地に拡延したか、あるいはまたその構成者達の正体那支配的な集団のそれの中に消 滅させられたような同盟︵8己諦号国畠︶を示唆するのである。⋮⋮このような観察から次のことが生じてくる。即 ちそれは、インガス地名が単一の定住パターンを越えて発達した複合的な社会組織となりうる、各々が自己顕示︵意 識︶的な実体、即ち法的にも︹また実際に︺認識された社会的・地域的な単位の出現と結びついた人達を表現してい ︵ 皿 ︶ るかもしれないのである、と。 叫同.同丙君昌、国営曾呂国:?z凹日隅旨胃侭P匡呂ゞ届鵠︶︾弓.巨四I巨・ ② 具 ] ・ 冨 口 且 鴨 C P 弓 胃 の 侭 昌 睡 畠 弓 : 負 普 の 国 厨 賃 号 員 ざ 毎 旦 昏 の 同 国 瞥 昏 国 営 ? z 騨 目 ⑦ 切 目 ︲ 営 鴨 吻 電 − ミ 鴨 ︲ 昌 曾貝寄︲恩駕国弓巴四目.画輯、獄哩冨且蔚ご邑鈩月冨8]呂国、ぐ巳︲浜︾昌認P ③シ”関野昌昏.︽国画。③lz騨目勝回且普①餌口哩。l留関。国静旦の目印目“酋吋厨愚巴⑦。冒己。圃冨②日。国巴Fの鼻目⑰︾届圏・︶ 串ざ患嶺鳥誌囲p画意酌﹃登署出自爵︼ご⋮xF目]弓.雪l鵠. ㈱]・冨.ロ。岳$ロ↓息蝿農..P蝉 ⑤禺・]、冨・。。烏:ロ↓誉只.弓.四l祭 ⑥].z、F・冨胃,↑国風苗ご旨晉①ロ白異酔鴨切割.冒帥﹄苫葺鼠轌.貝︵岳謡︶・ 例]・要員ロ。岳呂P§・鳥.ゞ詞騨 ⑧具.]、目.己。骨、。p↑琴武・︼弓.やl旨. ⑥島.]・冨.□且鴨目¥曽只↓召・屋l届.
既にみた様に、ドジソンの問題意識はインガス、インガ地名が一体発見せられた異教埋葬と同時期に属するか否か という事にあったわけである。従ってまた、旧来の見解に示された如くこの両者の証拠が時期的に一致するというな らば、こうした地名lとりわけパーソナル・ネiムに由来するインガス形態lは、少なくとも移住期の異教埋葬 との密接な関連で地図上に配腫されるはずなのだとみなし、まさしくそうした観点から彼によって詳細な検肘が賦み られたのであった。しかしその結果、対象とされた南東部諸州では、両者の証拠が一致する若干の事例もみられたが、 大勢としてむしろインガス、インガ地名が異教埋葬地の分布と乖離する動向にあることを彼は示したわけである。か くして、ドジソンにおいては例えばエクゥォール︵国ゞ国添竃畠︶やスミス︵P関切ョ寄島︶などにみられた旧来の解 釈、あるいはまたマイヤーズQ・Z.F・冨冑舟︶の﹁調和説﹂などとも異なった形で地名学的証拠と考古学的証拠 との間の乖離の意味づけが行われることになる。即ちその意味づけ瀞なされる方向は、彼が既にのべていた様に二つ の証拠が同時期に属するはずだという要求がもし削除されるなら、不一致の難問が解決可能になるだろうとした、そ J ・ M ・ ド ジ ソ ン ﹁ 南 東 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る l 営 賄 畠 ・ I 農 冒 l 地 名 分 布 の 恵 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 三 九 卿 ⑬⑫⑪卿 笥 風p, 詞呂昌a ー−−− ]・冨・ロ。骨8号・菅員患号.厨l扇.
四、結
嵩?ロ。旦晒gP、勲軋。、P届◆ 嵩 . ロ 。 回 、 鰯 。 P ざ ら ゞ 豆 か 嵩 . ロ 。 ロ ぬ い 。 P 等 黄 ? . P 雷 . CO雪国圏:呂煙且浄Z.F,冨胃⑦印︼幻日自由目国風冨冒四目口昏①厚]嘗爵留量興国①宮田忠目,畠・↑岳認↓弓恥爵I びを結びたいと思う。 J ・ M ・ ド ジ ソ ン ﹁ 南 東 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る l 踏 農 胃 鉾 ︲ ﹄ 侭 穏 l 地 名 分 布 の 意 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 四 ○ のような方向に求められていくわけである。そして、このような新たな観点から当面の問題であるインガス、インガ 地名の帰属する時期を考えているといえるだろう。そこでわれわれは、ここで改めてドジゾンの主張を整理して本稿 さて、ドジゾンはパーソナル・ネーム・インガス形式︵隼隠厨呂巴当凹冒③i蚤習免さ風ロ巳鼬︶が地名として用いられ ︵ ■ 八 ︶ た一時期は確かに存在したとみなした那、これまでの考察から、南東部イングランドにおいてこの種の地名とそれが あらわす社会組織は、移住局面の埋葬やキリスト教的慣習が導入されるまで異教埋葬を継続していたようなコミュニ ティという、この両方から移動された地域における定住と大むね結びつけられるとみなしている。そして、このよう な移動は、そもそも定住が移住領域から拡張しつつあった時、即ち移住局面が完了した後の時期に流行した現象とみ 、 、 なされることを主張する。従って、インガス社会組織も移住が終った後の植民の局面に出現するのであり、まさしく そのような時期における新たな定住に対してインガス・ネームが付与されたとし、さらにまた南東部諸州の証拠はそ ︵ 句 色 ︶ のような時期の開始が六世紀にあることを示唆するというのである。 もちろん、この南東部諸州においても一部ではあるがインガス、インガ地名と異教埋葬地が地理的に並置される場 所が事実存在したことも確かなのである。あるいはまた、もし仮りにいまみたドジソンの主張が妥当であるとしても そうしたインガス、インガ地名とは直接関係づけられないといわれるような多くの異教埋葬地に対して生ずる地名形 態︵Ⅱ非インガス地名︶があることも、われわれは想起しなければならないだろう。従って、換言するならばインガ ス、インガ地名および一般的にそれときわだった関係にあるとみられた異教埋葬地という既存の証拠の双方を含め て、そこに存在しうるいくつかの可能なパターンが考えられねばならない。このような問題をドジソン自身はどう処 理しているのであろうか。次にそれをみていくことにする。彼は先ず、非インガス地名曾呂I雷唄湧亘鷺①︲口四日巴
第二に、初期の埋葬地のみをともなう非インガス地名は、インガス以前のコミュニティ︵ないし若干の場合、おそ らく消滅したインガス・フォーク︶をあらわすのであって、それは初期の埋葬地が使われなくなる時点でその場所に 存続しなくなったコミュニティを示すかもしれないということである。 また第三に、後期の埋葬地のみをともなうか、あるいは埋葬地が全く発見できないような非インガス地名は、イン ガス局面が終った後に形成された新たな領域における非インガス的なコミュニティを表わすかもしれ厳い、と。 次に、インガス地名に関して考えられる類型についてであるが、第一に、初期の埋葬地のみをともなうインガス地 名は、既に消失した移住期のコミュニティにより以前に定着された場所を、未発見の埋葬をもつインガス・コミュニ ティが再植民︵恩8旨昌魁霞目︶したことを示すか、あるいはまた、初期の埋葬地の放棄へと導ぴくような埋葬慣習 の変革をともなう前インガス・コミョーティにおける、インガス的実体︵︲営鱒蕩箆呂垂ご︶の発展を示すかもしれ に関して次のような類型を考ている。即ち、 第一に、初期から後期に至る埋葬地産ともなう非インガス地名は、長期存続のコミュニティ、つまり前インガス局 面・インガス局面、そしてインガス局面以後も存続していたが、しかしそれがインガス・ゴミ昌一ティの地位に到達 しなかったか、あるいはその場所にインガス・ネームが進行しなかったようなコミュニティの定住産表わすかもしれ 尭峰いこし﹂0 第二に、初期から後期に至る埋葬地をともなうインガス地名は、︵後に︶インガス社会へと発展した謡、その伝統 的な埋葬慣習と共に元々の場所に︵鴬亀営︶継続したような前インガス・コミュニティを表わすかもしれない。 また第三に、後期の埋葬地のみをともなうか、あるいは発見せられた埋葬地を全くもたないようなインガス地名 J ◆ M ・ ド ジ ソ ン ﹁ 南 東 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る ’ 一 一 蝉 鼠 ︲ 雪 贈 l 地 名 分 布 の 意 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 四 一 ないということ。
ドジソンは、先の問題が以上のように考えることで解消されうるとみなしているようである。もちろん、個々の事 例がそのいずれに属するのかということには言及されていないのであるから、それはあくまでも可能なパターンとし て把握されねばならないだろう。 ドジソンのインガス地名に対する考え方をいま一度整理してみると、南東部諸州から与えられた証拠にみる限り、 そもそもインガス地名は移住以後の、しかしそれほど遅くはない植民の過程と同時期の社会的発展の結果をあらわし ていると思われることなのである。 換言すれば、インガス、そしてインガ地名はイングランドに移住した最初の者達に続き、それにとって代わ割劉創画 のいわば第二の衝動︵号①開8呂旨胃冨等の記録ということになるだろう。因に、最初の者達が占めていたところ に関して、ドジソンはそれ瀞むしろイングランドの海岸地帯ないし既にローマ人達によってきり開かれた地域なので ︵ n 号 ︶ あるといっていることもつけ加えておくことにする。 以上が、不十分ながら筆者の問題関心に沿って検討したドジソンの主張なのである。ドジソンは、今みたような方 法で地図上に分布する異教埋葬地とインガス、インガ地名の乖離の問題にその解決を求めようとしたわけであり、そ の意味ではこうした相矛盾する所与の証拠に対して、いわば新しい形での調和を与えようと試みたといえるだろう。 使用を助長するのである、 な地名としてインガス、〃 J ・ M ・ ド ジ ソ ン ﹁ 南 鴬 部 イ ン グ ラ ン ド に お け る l 鳶 冒 “ 零 ︲ 農 間 I 地 名 分 布 の 意 味 ﹂ に 関 す る ノ ー ト 四 二 ︵ 内 心 ︶ は、埋葬悩習の保守性をともないインガス局面に新たな領域で創設された植民地を示すかもしれないのである、と。 、 、 、 こうして、インガス局面というのはそのような新たな植民地への拡張が、地理的に許容される場合にだけ明確に現 われるかも知れないのであって、その際には旧来の地名とか伝統的な埋葬地という移住・定住期の背景を離れ、新た な地名としてインガス、インガ地名が使用されるのを助長し、新たな未発見の共同墓地の如き異なる種類の埋葬地の と ○
もちろん、彼自身も認めている様に、インガス地名l特にパーソナル・ネームに由来するそれIが一体いつの時 点で旧式のものとなったかという問題も残されている。あるいはまた、こうした南東部イングランドの諸状況が必ら ずしも他の諸地域にみるインガス、インガ地名にも妥当するとは限らないわけである。その意味では、アングロ・サ クソン人の初期定住研究に光を投げかけるこうした地名学的成果も、その他の諸条件、例えば定住地域の更に詳細な 地理的状況、また当時の政治的抗争にみるような動向などと共に、改めて検討してみる余地は残るだろう。 (4)(3) (2) (1) ⑰ 。 □ ・ 閉 。 開閉一届 早■ ].富.ロロ旦頃、。。、弓宜⑩印碕昌働。四回。巾昌すぎ③己尉耳号厘兵ロコ具津尉両ロ哩酎毎国“。①lz世胃吊⑮旨I量恥買い毒I目蝿口1冒切。匡庁ぽI 固宮唾胃己善P弾ゞ目︾富の島①ご里少月︸国moさ輌学ご畠︲嵐、、馬、P ].富↑己。色、印。言一等瞳・噂己p]mll罰. 留冨.己呂鴨。己ゞ馨蕊:弓.届l岳. ︺ ‘ 夛 声 己 。 ユ い め 。 昌 尋 一 具 ︾ P 唖 P J・M・ドジソン﹁南東部イングランドにおけるl量習吻●︲農間I地名分布の意味﹂に関するノート四三 申 中
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