中島義一の「自由教育」論および『こども哲学叢書
』(全七編)の形成と理論構造の解明(その2) : 雑誌
『学校教育』に見る広島高師教育科(1918年4月
-1920年3月)における勉学状況と鰺坂(小原)国芳「
哲学と新教育論」の影響
著者名(日)
米澤 正雄
雑誌名
東洋大学文学部紀要. 教育学科編
号
37
ページ
87-101
発行年
2011
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002454/
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中島義一の「自由教育」論および『こども哲学叢書』
(全七編)の形成と理論構造の解明(その2)
一雑誌『学校教育』に見る広島高師教育科(1918年4月一1920年3月)
における勉学状況と鰺坂(小原)国芳「哲学と新教育論」の影響一
米 澤 正 雄*
本論文の課題は、中島義一(1893-1933-)の「自由教育」論および『こども哲学叢i書』 (全七編、1924-1931)の形成と理論構造を解明する第二回目として、中島の広島高師 教育科在学中(1918年4月一1920年3月)の勉学状況と鰺坂(小原)国芳「哲学と新 教育論」の影響のありようを、雑誌『学校教育』の内容の検討を通して、示すことで ある。本論文では次の三つのことを明らかにした。第一は、塙壽次郎・中島義一「本 校教育科入学志望者諸君のために」(『茨城教育』第408号、1918年6月28日)に示さ れた教育学関係参考書目は、雑誌『学校教育』掲載の「文検教育科受験参考書」およ び同教育科入学後の受講・勉学経験に照らして挙げられていること。しかし、『学校教育』 第63号(1918年11月1日)には、読者との質疑応答欄に「小学校教師の自己修養と しての哲学の研究方法」が掲載され、回答者として「鰺坂[小原]国芳」[1887-1977、 鹿児島師範、広島高等師範に学び、香川師範教諭を経て1915年京都帝国大学文科大学 に進学、1918年7月京都帝国大学文科大学哲学科(教育学教授法専攻)卒業、1918年 8月より1919年12月9日まで広島高等師範「教諭兼訓導」、1919年12月12日に成城 小学校主事に就任]が登場していること。第二は、佐藤熊治郎(1873-1948)が同時代 の新教育思想(及川平治など国内の大正自由教育の諸思想を含む)に批判的な論評を 加えつつ、論文「デモクラシーと子ども」(『学校教育』第70号、1919年5月1日)に おいて「立憲の大義を基礎とせる君主国体」にふさわしい「内面的服従」への子ども の形成を提唱していること。第三は、鰺坂(小原)国芳が、「教育の根本問題としての 真善美聖」(1918年11月12日、広島高師附属小学校において開催された、第四回全国 小学校教育研究会での「職員研究発表」、『学校教育』第67号、1919年2月20日、掲載) と題する講演をおこない、教師が自ら「哲学」する(真善美聖の問題を探求する)こ とによって、「子供は哲学者」として理解され、それ故「子供は哲学者」として新たに 働きかけられねばならない、と提唱したこと。そしてそのために、鰺坂が「修身教授 革新論(二)」(『学校教育』第69号、1919年4月1日)において、「修身教授の哲学化」 就中「小学校の修身科の哲学化」を提案したこと、である。中島はこのように、広島 高師教育科での鰺坂(小原)の担当科目「論理学」の受講を通して、鰺坂(小原)の「哲 学と新教育論」の影響を受け、後に「こども哲学叢書』(全七編)へと結実することに なる「子供は哲学者である」という原アイディアを、鰺坂(小原)から受容した、と 考えられる。 キーワード:中島義一/自由教育論/こども哲学叢書(全七編)/雑誌『学校教育』 /佐藤熊治郎/デモクラシー/鰺坂(小原)国芳/教育の根本問題とし ての真善美聖/修身教授革新論/子供は哲学者 *よねざわ まさお 東洋大学文学部教育学科1.はじめに 本稿の課題は、前回拙論1.に引き続き、中島 義一(1893-1933)の「自由教育」論および『こ ども哲学叢書』(全七編、文教書院、1924-1931) の形成と理論構造の解明を、雑誌『学校教育』に 見る広島高等師範学校教育科在学中(1918年4 月より1920年3月まで)の中島の勉学状況と鰺 坂(小原)国芳「哲学と新教育論」の影響のあり ように焦点づけて、おこなうことにある。 この課題の設定理由を説明する。 第一に、前回拙論に示したように、中島の主著 『自由教育の諸問題 自由教育批評論判』(1924) の理論構造には、篠原助市「批判的教育学」と佐 藤熊治郎の教育思想との接合が確認できる。しか し中島は、1920(大正9)年3月末に千葉県師範 学校に「教諭兼訓導」として赴任した後、早くも 1922(大正Il)年3月5日に水戸市において開 催された自由教育後援会で講演(中島の論題は「自 由教育の哲学的背景」)をおこない、さらに二年 後には『こども哲学叢i書 第一編 こども認識論 林檎の味』(1924年12月)の刊行にまで踏み 込んでいる。これらのことを念頭に入れるならば、 千葉師範赴任(1920年3月)後の中島における 篠原「批判的教育学」受容の、そして『こども哲 学叢書』へと踏み込ませるに至る、素地が、既に 相当程度にわたり広島高師教育科在学中に培われ ている、と考えざるをえない。広島高師教育科在 学中の中島の勉学状況を明らかにする必要がある のである。 第二に、1911(明治44)年4月に広島高等師 範附属小学校主事に赴任した佐藤熊治郎(1873- 1948)の主要著作、『三大教育学説の約説と批判』 (目黒書店、大正9年11月)・『教授方法の芸術的 側面』(目黒書店、大正10年11月)・『文化と教 育上の諸問題』(宝文館、大正ll年ll月)・『現 代教育思潮批判』(目黒書店、大正15年IO月)・『自 発性の原理の展開』(目黒書店、昭和5年5月)・『味 ひ方と考へ方の教育』(目黒書店、昭和5年10月)・ 『科学的教育学の展望』(目黒書店、昭和lI年1月) などは、いずれも、中島が広島高師教育科卒業後 に刊行されている。それ故、広島高師教育科在学 中の中島の勉学状況を明らかにするためには、当 時の広島高師の教授陣が数多く執筆している、雑 誌「学校教育』[1914(大正3)年1月1日創刊] の内容(口絵、論説、研究、講話、海外教育、雑 纂、質疑応答、新刊紹介、などから構成される) を取りあげ、特に同誌掲載の佐藤熊次郎論文を検 討する必要がある.検討の重点は、「デモクラシー」 である。なぜならば、広島高師教育科時代の中島 について、中島の郷里茨城県石下町出身の増田実 は、こう回顧しているからである, 「中島義一は、石下町本石下に生まれた。小 学校時代からの秀才」で、高等小学校の担任 であった増田唯一郎は彼の才能を惜しみ、高 等小学校を終わると、時の校長古茂田敬太郎 とはかって、約九ヶ月間普通科を学習させ、 一ヶ年勤務の後茨城師範第一部に入学した。 学校と彼の生家が近かった関係で、宿直の夜 は必ず彼と同宿して指導した担任は、中島が 経済的に必ずしも恵まれていなかったことを
憂いて有志を説き若干の学費を援助しても
らった。小林要助・荒川隆之介、関井篤の三 氏であった。…[略]…師範卒業後一たん石 下へ帰ったが、向学の志やみ難く広島高師へ と進んだ。/以上のような関係で、彼はよく 帰省のたびに私の家を訪れた。子供心に、母 親似の彼の端正な顔と、特有のあたたかみの ある笑顔が焼きついて今もそれを忘れない. 私の母は、『義一さん義一さん』と呼んでいつ も彼を歓待した。そして義一さんは父と二人 で議論していた。義一さんは「デモクラシー』 ということばを盛んに口にしていた。どちら かといえば漢学者で国粋派の父が、義一さん のいう『デモクラシー』に対して、どのよう な受け取り方をしていたものか不明だが、ふ すまこしに聞くその言葉はふしぎに熱気をは らんでいた。私が小学校のころか、中学校に はいったころか、定かには記憶がないのだが[コ1」 雑誌『学校教育』に掲載された佐藤の諸論文と 「デモクラシー」に関する論説を、中島の勉学状 況の一端を示すものとして、検討する必要がある と考える。また、佐藤が広島高等師範附属小学校 主事として陣頭指揮した、「全国小学校教育研究 大会」[1915(大正4)年以降に開催]についても、 同誌掲載の報告を検討する必要がある。 第三に、広島高師教育科在学中の中島の勉学状 況を明らかにするうえで、特に注目すべき人物と して、佐藤熊治郎のほかに、小原(鰺坂)国芳を 取り上げる必要がある。小原国芳編『日本新教育中島義一の「自由教育」論および『こども哲学叢書』(全ヒ編}の形成と理論構造の解明〔その2) 89 百年史 第四巻 関東』の「茨城県」・「補遺 落穂ひろい」において、小原は、京都帝国大学文 科大学哲学科(教育学教授法専攻)を1918(大 正7)年7月に卒業して赴任した広島高等師範学 校における、担当科目「論理学」の受講者、「中 島義一」についてこう述べているからであるt: 「中島義一君…[略]…この入も珍しい立派 なヰ等教員でした.教育学専攻。広島時代のお 弟子さんです一t私[小原]が京大を出て母校広 島[高等師範]に赴任した時の学生でした,… [略]…/二ヵ年の教育科コースでしたが、こ の科は地方で数ヵ年、実際教育に従事した中か ら熱心党を集めた科でした。四ヵ年の若い諸君 よりも、とても、真剣な教育行者が多いもので した。…[略]…/中島君は[茨城県]結城郡 の石下の町の生れです。…[略]…私が京大を 出て母校広島高師に帰った時、教育科の学生。 私は丁度、中島君の組の論理学の担当。論理学 はさっさと済まして、哲学と新教育論を話しま した.恐ろしく共鳴してくれたものです。/中 島君も[広島高師教育科を]卒業してから新教 育で天下に旗揚げした千葉師範学校の教諭とな り、手塚[岸衛]主事と相伍して、大いに新教 育を講じました。そして近くの郷里に時々帰っ ては大いに新教育の息吹をかけたものです。… 〔略]…/…[略]…そして、中島君は得意の 名文で、『子どものための哲学』を書き上げま した。しかも六巻も。/『林檎の味』、『バベル の塔』、「プロメトイスの火』、『撤撹の花』、『ヨ ルダンの流れ』、『スフィンクスの謎』。/千葉 県の小学校では大変、読まれましたが、郷里の 茨城県でも盛んに、児童読み物として歓迎され ましたt3〕。」(なお、[]内は引用者の補足、 以下同じ) 「鰺坂国芳」が広島高等師範学校に「教諭兼訓導」
として在職したのは1918(大正)年8月から
1919(大正8)年12月まで,4,にすぎないが、広 島高師「教諭兼訓導」を辞した鰺坂(小原)が新 たに就任したのは、澤柳政太郎が校長を勤める成 城小学校の主事としてである「’SJ。しかも、中島 が広島高等師範教育科を卒業して千葉師範に赴任 したのは1920年3月末であり、手塚岸衛が191g 年5月に主事として赴任した千葉師範附属小学校 と成城小学校との間には、当初、お互いの小学校 の授業参観などを通して教員間の交流がある‘6 から、鰺坂(小原)から中島への、上記引用文中 の「哲学と新教育論」の影響は、鰺坂(小原)が 成城小学校主事として、そして中島が千葉県師範 学校「教諭兼訓導」として、赴任した後も持続す るものと想定することができる(ちなみに、中島 義一「こども哲学叢書 第一編 こども認識論 林檎の味』の巻末参考文献には、小原国芳「教育 の根本問題としての哲学」イデア書院、1923年6 月、が挙げられている‘7)、言い換えると、千葉 師範において中島が、篠原助市「批判的教育学」 を受容することによって自らの「自由教育」論と 『こども哲学叢書』を確立・構想しえたのは、そ の受容の素地として、篠原の親友、佐藤熊次郎の 教育思想の影響のほかに、広島高師教育科在学中 の中島への、鰺坂(小原)による「哲学と新教育 論」の影響が考えられるのではないか、というこ とである。雑誌『学校教育』の内容を検討する際 に、鰺坂(小原)による「哲学と新教育」の影響 の有無および程度を吟味する必要がある。 このような理由から、次節においては、雑誌『学 校教育』の内容を、次の三点にしぼって検討する。 第一に、同誌における広島高師教育科についての 説明および「文検教育科」受験案内と前回拙論で 論及した、塙壽次郎・中島義一「本校教育科入学 志望者諸君の為に」(『茨城教育』第408号、1918 年6月28日)の受験案内とを比較し、受験参考 書が「文検教育科」受験のものとかなり重複して いることを示す。そして、塙・中島の挙げた同教 育科受験のための教育学関係参考書には見られな い分野(「哲学」)の参考書が、中島の同教育科入 学後、鰺坂国芳「小学校教師の自己修養としての 哲学の研究方法」[「学校教育』第63号(第5巻 第13冊)、1918(大正7)年11月1日]におい て提案されていることを示す。第二に、同誌にお ける、佐藤熊治郎の諸論文と「全国小学校研究大 会」報告を検討する。第三に、同誌における鰺坂 (小原)国芳の諸論文と成城小学校主事就任(1919 年12月)後の諸著作を示し、鰺坂(小原)による、 中島への、「哲学と新教育論」の吹聴のありよう を明らかにする。これらを通して、広島高師教育 科において、同教育科卒業後の中島における、篠 原「批判的教育学」受容の素地がいかに培われて いるか、示してみよう。2.雑誌『学校教育』の内容の検討 (1)広島高師教育科についての説明、「文検教 育科」受験案内、および「小学校教師の自己 修養としての哲学の研究方法」 まず、『学校教育』第45号[1917(大正6)年 7月1日]「応答」欄に掲載の「広島高等師範学 校教育科」を取りあげよう,同教育科の目的はこ う説明される。 「此の教育科は、時勢の要求によって去大正 四年四月から設けられた者で、高等師範学校本 来の目的から見て、修身及び教育学科の中等教 員を養成することは勿論であるが、猶詳しく云 へば之に附帯した他の目的もある。第一中等教 員中修身教育学の素養乏しき者に之を与ふるこ と、第二府県市郡の視学を養成すること、第三 優良な小学教員を作り初等教育の改善を謀るこ と、第四小学教員に向上の途を開き之を奨励す ること等である1門。 また、同教育科の教育課程と取得資格および卒 業後の就職状況は次のように説明される。 「教育科卒業生に対しては、修身教育学の中 等教員免許状が一様に与へられ、猶法制経済科 及び選修した文科理科の学科に対しても其の成 績の卓越なるものに対しては其の免許状が与へ られる。…[略]…/第一回卒業者の得た地位 は、其の本人の入学前の経歴よって異なって居 るが、師範学校附属小学校主事一名、師範学校 教諭兼訓導五名、小学校長一名、視学三名、他 の十三名は都会地の大規模の小学校の首席若く は之に亜ぐべき訓導である,…[略]…俸給は 年棒七百円から月俸三十五円迄あったが、平均 すれば月額四十五円許になる。要するに入学前 十八円乃至二十二円位の訓導が、卒業後四十円 で奉職したと見れば宜しい。教育科卒業者に義 務奉職はない〔9]」。 では、同教育科の入学資格はどうか。おおよそ、 次の二つに分けられる。 「第一は中等教員免状を有する者。此れは其 の免許状の学科の何たるを問はず入学が出来 る。其の入学願書は地方庁を経ずして本人直接 学校へ出して宜しい。…[略]…/第二は小学 校本科正教員で二箇年以上普通教育に従事した 者は地方長官の薦挙に基き選抜の上入学を許可 せらる。凡二十名の採用人員に対して百二十名 許の志願者がある。此種の志願者が又三種に分 れる。(イ)英語を修めた師範学校卒業者及官 公立中学校若しくは徴兵令第十三条に依り中学 校と同等以上と認められた私立中学校卒業者は 直ちに選抜試験に応ずることが出来る。(ロ) 次に英語を修めなかった師範学校卒業者は英語 の入学試験を受けた上選抜試験に応ずることが 出来る。(ハ)次に師範学校、官公立中学校、 又は徴兵令第十三条により中学校と同等に認め られた私立中学校の卒業生以を外の者は教育、 国語、漢文、英語、数学の中一科若しくは数科 の入学試験を受けた上選抜試験を受けることが 出来るt10’,」。 そして、選抜試験の内容についてはこう説明さ れる。 「選抜試験には従来教育学ばかりを課して居 た。此教育学は教育学原理、教授法、学校管理 法、教育史、心理学、論理学を含む。受験者は 其の準備として、師範学校で用ひた教科書又は 中学校教員検定試験に用ひた教科書を充分に復 習し、同時に教育雑誌等に現はれる新問題を注 意して居る必要がある。/…[略]…入学生募 集の公表は毎年十一月頃で、選抜試験は翌年二 月頃であるfl]」」。 以上、広島高師教育科についての説明の要点を 示した(中島は茨城師範本科第一部卒業であるか ら、中島の同教育科受験は、上記引用文(9)で 言えば、「第二」の(イ)によるものであろう)。 次に『学校教育』第27号(第3巻第2号)「応 答」欄に掲載の「文検教育科受験参考書」を取り あげる。「特に○を附したものなどは熟読を要す ると思ひます」として挙げられた推薦書の「その 他」の項目のなかに、「○師範学校用教科書、(宝 文館発行のものよろしからん)」として、宝文館 から初版が1910(明治43)年10月に一斉に発行 され、その後何度も改訂された、小川正行・佐藤 熊治郎・篠原助市著『教育学』(佐藤執筆)、同『近 世教育史』・『心理学』・『論理学』(これら三冊は 篠原執筆)、『各科教授法』・「学校管理法』(これ ら二冊は小川執筆)、が挙げられているからであ る。この「応答」欄において、読者の「問」、「文 部省検定教育科受験に要する準備としての参考書 名代価発行所を雑誌『学校教育』にて御教示下被 度此段御願申上候」、に対する「答」として挙げ られた参考書のうち「特に○を附したもの」など
中島義一の「自由教育」論および『こども哲学叢書』(全七編)の形成と理論構造の解明(その2) 91 を以下に示す(なお、◎がついている参考書およ び太字表記の項目・参考書は、前回拙論において 論及した、塙壽次郎・中島義一「本校教育科入学 志望者諸君のために」『茨城教育』第408号[1918 (大正7)年6月]28日]に挙げられている項目・ 参考書と重複するものを指す)。 心理学 ○心理学綱要(元良) 弘道館 ○最新研究心理学(中島泰) 同文館 ○教育的心理学(大瀬)廣文堂 心理学通義(上野) 大日本図書株式会社 論理学 ○新論理学綱要(十時) ◎最新論理学綱要(紀平) 弘道館 最新論理学要義(今福) 宝文館 教育史 ○系統的西洋教育史(田中) 同文館 ○近世教育史綱(野田) 同文館 ○東洋教育史(中島) 早稲田大学出版部 ○日本教育史(文部省) 弘道館 最近思潮 ○晩近の教育思潮(入澤) 弘道館 ◎最近の教育思潮(大瀬) 教育思潮研究会 ○現代教育教授思潮(乙竹) 目黒書店 教育学 ○新撰教育学(大瀬) 成美堂 ○改訂教育学講義(同上) 成美堂 ◎系統的教育学(吉田) 弘道館 ○教育学精義(森岡) 同文館 教育学概論(野田) 同文館 教授法 ○各科教授法精義(森岡) 同文館 ◎新教授法(乙竹) 目黒書店 訓練法 ○訓練論(吉田) 弘道館 管理法 ○学校管理法講義(渡邊) 宝文館 哲学及倫理学 ○現代思潮十講(桑木) 弘道館 ○倫理学要義(吉田静) 宝文館 其の他 ○実験教育学の進歩(吉田) 同文館 ○学校教育(小西) 博文館 ○現今教育の研究(同上) 同文館 ○人格的教育学の思潮(中島)同文館 ○教育教授の諸問題(吉田) 目黒書店 ◎師範学校用教科書(宝文館のものよろしか らん),12 上に挙げられた「文検教育科受験参考書」は、 項目として「訓練論」・「管理法」が分節化され「哲 学及倫理学」が新たに立てられていることを除け ば、前回の拙論において論及した、塙壽次郎・中 島義一「本校教育科入学志望者諸君のために」「茨 城教育』第408号[1918(大正7)年6月28日] において広島高師教育科への受験案内に挙げられ ている項目・参考書と、重複するものが多い。言 い換えると、塙および中島による広島高師教育科 受験のための教育学関係参考書目は、雑誌『学校 教育』に掲載された「広島高等師範学校教育科」 の説明[特に上の引用文(IO)]をベースにして、 これに同誌掲載の「文検教育科受験参考書」およ び同教育科入学後の諸科目の受講および勉学の経 験を加味して挙げられている、と考えられる。 これに対して、中島が同研究科に入学して半年 ほど経った『学校教育』第63号の質疑応答欄には、 「小学校教師の自己修養としての哲学の研究方法」 と題して、この「文検教育科受験参考書」目でい えば「哲学及倫理学」の項目に属する参考書が、「中 等教員」にではなく「小学校教師」に向けて、挙 げられている。「小学校教員として自己修養のた め哲学を研究致し度、如何なる書を如何なる順序 にて研究すれば宜しきか御教示を乞ふ」との読者 の問いに対して、回答者として「鰺坂国芳」が登 場し、次のように答えている。 「哲学研究と申しましても狭く解するか、広 く解するかによって色々答へられやうと思いま すが、自己修養の為とありますから、私は広い 意義でお答へいたします。/哲学の領分には、 どうしても真、善、美、聖、この四つの問題が 這入ってきます。所で、中々一人で研究は六か しうございます。認識論の如きは特にさうです。 或る一のアカデミック型があるものですから。 しかし絶えず読んでは考へ、考へては読む中に 自然と分ると思ひます。読書百遍意義自ら通ず で、分らぬ所をかじることが必要ですCL3)」。 そして鰺坂(小原)は、「先づ第一に概論の極 簡単なものと、哲学史の極簡単なものを読むがい いと思ひます。やはり鳥敵図が大事でせう。特に
哲学史の中にはすべての問題が入って来るし、且 つ思想の変遷もよく分りますから、極大事です」 と述べ、「1 概論」、「1[哲学史」、「皿 美学 宗教論」、「IV 雑書」に分けて参考書を挙げ、短 いコメントを加えていく, 「1 概論 1.哲学汎論 北澤、宇井両氏訳…[略]…/ これは至極平易で、全く常識的に多少文学 的に書いてあります、ほんの猪口です、… [略]… 2.天人論 黒岩涙香 ……パウルゼンの哲学 概論の抄訳とみるがいいでせう。簡潔で文 章もよいし、初学者にはゼヒ読んで頂きた いです。 3,哲学概論 朝永三十郎著…[略]…/これ も前のパウルゼンの著に大部分依られたの ださうです。梢進んだらゼヒ読んで下さい。 4.善の研究 西田幾多郎…[略]…/これは 少くとも何人も見逃してはならぬ本です ゼヒー生熟読玩味して下さい。特に御勧め いたします。 その外5.紀平正美氏著の哲学概論や 6.宮 本和吉氏の哲学概論[岩波書店、哲学叢書3、 1916年2月刊]も進んで読まれるとよいでせう。 宮本氏の方は有益なウィンデルバンドの哲学概 論の抄訳です。…[略]…原文のよめる人はゼ ヒ読むべき貴い本なのです。認識論だけでは[岩 波書店]哲学叢書中の紀平氏の認識論[1915 年10月刊]が日本文では一番よいでせう, 1[哲学史 1.西洋哲学史要 波多野精一…[略]…/簡 潔で一番よいでせう。進んでは 2.西洋哲学史 大西祝…[略]… 併し二冊は極近代及び現代がありませぬ。そ れには 3.現代思想十講、桑木厳翼…[略]・ 4.新理想主義の哲学 西田幾多郎…[略]… この二冊で相補ふて現代は完備するだらうと 思います。 ママ 皿 美学字教論 これには邦人の手になれるよいものは少いか ら訳本をあげます、 1.美学[岩波書店、哲学叢書6、1917(大正6) 年4月刊] 阿部次郎 …[略]…/これ は有名なリップスの美学の抄訳ですしかし 六かしいです 2 宗教論 石原謙訳…[略]…/有名なシュ ライーエルマッヘルの訳です。ゼヒ御一覧 あれ・ A」雑書 1-.人格の力 紀平正美…[略]…
こ自我論同 …[略]…
◎[近世に於ける]我の自覚史 朝永三十郎 [略]… ●倫理哲学講話 西晋一郎…[略]… ○論[倫]理学の根本問題 安部次郎氏…[略] ・/リップスの著です、、世界的の著作、ゼ ヒ熟読されたし。 ●学校教師論 三浦修吾 …[略]…/これ は生きた教師論、修養書、宗教論です町, そして鰺坂(小原)はこう結ぶ。 「吾々は教育の根本問題として、哲学、道徳、 芸術、宗教の何たるかを解さねばなりませぬ. 殊に『自己修養』とありますが、私の教育論 です,教育学は一面、自己開拓自己深化の学 でなければなりませぬ。この方研究の足りぬ ことが現今教育の大なる欠陥の一です。ゼヒ 辛抱強く探求して下さい.教育徹底を図る唯 一の途だと思ひます。自己を深くすることが 即教育を深くすることです。七、九、三〇、(鰺 坂国芳)L15‘」 鰺坂(小原)によれば、「教育学」は教師にとっ ては「私の教育論」すなわち「自己開拓自己深化 の学」の「一面」を有する。教師は「教育の根本 問題として、哲学、道徳、芸術、宗教の何たるか を解さねばな」らない。このことによって、教師 は、「自己を深くすること」が可能になり、「教育 徹底を図る」ことができる、と,鰺坂(小原)に よる主張、「教育の根本問題としての哲学」、「教 育の根本問題としての芸術」、「教育の根本問題と しての宗教」……の、活字における初めての提示 であるt-/鰺坂(小原)が上の引用文(13)に挙げ た参考書目は、この「教育の根本問題」としての 「哲学、道徳、芸術、宗教」の視点から選択され ている、と言える。 なお、鰺坂(小原)が答えた問い 「小学校叶島義…の「自由教育」論および『こども哲学叢書』〔全七編)の形成と理論構造の解明(その2) 93 教員として自己修養のため哲学を研究致し度」 は、伝統的な教師論(「修養」論、上の注(13) に挙げられた書物で言えば、三浦修吾『学校教師 論』)の延長上に、新たに、「小学校」教師によっ て「哲学」が求められるに至ったことを意味する この背景には、上記引用文中に示されるように、 京都帝国大学文科大学哲学科の隆盛(西田幾多郎、 朝永三十郎、波多野精一らの教授陣、京都帝大に おける西田の担当科目「哲学概論」の前任者は桑 木厳翼)、岩波書店による「哲学叢書」12冊(i6) の刊行[1915(大正4)10月から1917(大正6) 年8月にかけて]、篠原助市、鰺坂(小原)国芳、 等、帝国大学文科大学(文学部)哲学科において 教育学を専攻した者が大学卒業後に高等師範学校 に赴任して教師教育(「哲学」もとついた)に従 事するようになること、などの諸要因がある。こ の世代による「哲学」的教育学(篠原による「批 判的教育学」、小原による「教育の根本問題とし ての哲学」、等)の確立のありようとともに、今 後の課題としたい, (2)佐藤熊治郎の諸論文と「金国小学校教育研 究大会」報告 ここでは、佐藤熊治郎の主要著作が刊行される までの、「学校教育』掲載の佐藤熊治郎の諸論文 を時系列に沿って示し、中島の「自由教育」論と 『こども哲学叢書』への佐藤の教育思想の影響に 関して若干の考察を加える。なお、[ ]内の「39 (4-2),1917.2⊥;18-31.」は、『学校教育』第39号 (第4巻第2冊)、1917年2月1日、pp,18-31,の 略記、また「→「(著書名)』」は、その論文がそ の著書に収録されたこと、あるいはその論文がそ の著書の論述内容に密接に関連すること、を示す 略号である。 1 2 ス↑4. 5 「人格と教材と方法」[4(1-4)、1914.4.1.; 1.7.] 「人格陶冶と読み方教授」[6(1-6)、 1914.6.1.;1_9.] 「存廃論」[9(1-9)、19149.1.;9-ll] 「人格的教育学とは何ぞ」[11(1-1D、 1914.lI.1,「人格的教育号」特集;5-22.]→「三 大教育学説の約説と批判』「第二編 人格教 育学」 「思潮と実際」[13(2-1)、1915⊥1.:3-ILコ
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8 9 10. IL 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 〈中島義一、広島高等師範学校教育科入学> 19.「歴史教授論(承前)」[56(5-6)、19i8.4.1.; 6.17.] 20,「教育者階級」[60(5-10)、1918.8⊥] 21.「国民的精神の教養」[63(5-13)、1918.IL1、 「国民精神の教養」特集;79-88.] 22.「国史教育概観」[67(6-3)、1919.2.20,臨時 増刊「第四回全国小学校教育研究大会」; 9.27.] 23.「学芸会に関する愚見」[69(6-5)、1919.4.1.: 44.47.] 24,「デモクラシーと子ども」[70(66)、1919.5」.: 1-5.]→『三大教育学説の約説と批判』「第 「暗示と教授」[17(2.5)、1gl5.5.L:22.28.] 「綴り方教授研究法の側面観」[20(2-8)、 1915.7」5,臨時増刊「第一回全国小学校教育 研究大会報告」:25-39.] 「参観(北陸より奥羽にかけて)(一)」[28 (3-3)、 1916.3」.:76-87.] 「参観(北陸より奥羽にかけて)(二)」[29 (3-4)、 1916.4,1,:74-8L] 「女教師問題」[32(3-7)、1916.7.1.:1-4.] 「分団式動的教育法を読む」[35(3-10)、 1916.IO.1.;1-14] 「戦後の初等教育」[36(3-ll)、1916.11.1,; 30.36] 「再び分団式動的教育法を評す」[39(4-2)、 1917.2」.:6-18.コ 「児童の自己活動を中心問題とせる教育思潮」 [40(4-3)、19172」5,臨時増刊「第二回全国 小学校教育研究大会」:22-33.なお、この号 には、「第二部会 部長」手塚岸衛(群馬師 範附属小学校主事)の主導する「協議題 学 習成績の考査法」;195-248.も掲載されてい る、] 「自己活動の意義如何」[45(4-8)、1917.7」.: 正.8.] 「創造的勤労教育」[49(4-12)、1917.11.1、「創 作的教育」特集;47-59.] 「教授方法の倫理的科学的芸術的三方面」[54 (5-4)、1918220,臨時増刊「第三回全国小学 校教育研究大会」;24-35]→「教授方法の芸 術的方面』「第一編 序論 教授方法の三方 面」 「歴史教手受論」 [55 (5-5)、 1918.3.1,;15-21.]三編 民本主義の教育学説」 25.「・」・学校令の改正」[71(6-7)、191g.6⊥:70. 73.] 26.「休業問題」[70(6-8)、1919.7.1.;45-47.] 27.「時間割のこと」[74(6-10)、1919.9.1。;1-7.] 28.「デュヰーの民本主義」[76(6-12)、 1919、11.L「思想問題と教育」特集;67-76.] →『三大教育学説の約説と批判』第三編 29.「デュヰーの民本主義(二)」[77(61-3)、 19[9.12.1.115-26.]→『三大教育学説の約説 と批判』第三編 〈1920年3月25日、中島義一、広島高等師範学 校教育科卒業、同年3月31日附で千葉師範に「教 諭兼訓導」として赴任〉 30.「創造教育とは何ぞや」[82(7-5)、920.4.25, 臨時増刊「第五回全国小学校教育研究大会講 i寅」 ;7-23.] 31.「興味論」[83(7-6)、19205.1、;11-19.] 32.「形式陶冶論(一)」[86(7-9),1920.8.1.; 6-11.] 33.「形式陶冶論(承前)」[87(7-10)、1920.9」.; 9.15.] 『三大教育学説の約説と批判』(1920.ll.10.) 『教授方法の芸術的方面』(1920.11.18.) 34.「自学主義批判(一)」[93(8.3)、1921,3.L: 3.10] 35.「自学主義批判(承前)」[94(8-4)、1921.4,1,; 5-9.] 36.「自学主義批判(承前)」[95(8-5)、 1921.5.L ;] 37.「自由教育批判」[lol(8-11)、1921.11⊥; 28.31.] 38.「自由教育批判」[102(8-12)、1921.12⊥; 3-10.] 39,「自由教育批判」[103,1922.Ll.;3-13.] 40「自由教育批判(承前)」[104,1922.2⊥; 3.17.] 41.「自由教育批判(承前)」[105,1922.3.1.; 3-19.] 『文化と教育上の諸問題』(1922,1LlO.) 『教育学概論』宝文館、1923年1月。 『現代教育思潮批判』1926年5月(増補版、 1927年)。 「最新教育学汎論』宝文館、1927年12月。 『自発性の原理と展開』ig30年5月 『味わひ方と考へ方の教育』1930年10月。 「科学的教育学の展望』1936年1月、 以上、中島義一の広島高師教育科在学中を中心 として、その前後にわたり、雑誌『学校教育」掲 載の佐藤熊治郎の論文を年代順に列挙した。広島 高師教育科に在学中の中島の勉学状況として、主 要な特徴をあげてみようc まず、前回拙論において指摘したことであるが、 中島が同教育科入学直前に著された佐藤論文「教 授方法の倫理的科学的芸術的三方面」(1918.2.20.) は、『教授方法の芸術的方面』(目黒書店、 1920.11.18.)第一章に収録されたのち、中島『自 由教育の諸問題 自由教育批評論版』(宝文館、 1924年)「本論」部」「第三章 教育方法の問題」 冒頭部の論述内容に用いられている。このことが、 茨城師範卒業後のころの中島に示された「技術に 関する方面」への「趣味と長所」(「図画の如きは [中島]氏が最も得意とする所」)にもとついた、 同研究科在学中の中島における、佐藤の上記論文 の論述内容の受容によるものか或いは鰺坂(小原) 論文「芸術教育について」(1920.1⊥)を介した 佐藤同論文の位置づけによるものか。またそれが、 千葉師範赴任後の中島において、同師範付属小学 校「自由教育」に適合的なカリキュラム論を構成 する際に、手がかりとして、佐藤による「文化価 値と教科との関係」図(『教授方法の芸術的方面』 36頁)あるいは「文化価値と教育の内容」図(『文 化と教育上の諸問題』39-40頁)が参照されたこ とによるものなのか。これらの問題の解決につい ては、今後の課題としたい。 次に、大正自由教育を含む「新教育思想」の思 潮および論者への佐藤の論評についてであるが、 上記の論文リストに示されるように、「自己活動」、 「デュヰー」、「分団式動的教育法」(及川平治)、 「創造教育」、「自学主義」(樋口長市)、「自由教育」 (千葉師範附属小)など、非常に多岐にわたって いる。「分国式動的教育法」をめぐる及川平治と 佐藤との論争は議論がかみあっていない。しかし、 これら大正自由教育の諸思想に対する佐藤のスタ ンスのありようについては、篠原助市「批判的教 育学」の論文が佐藤による批判の対象外に置かれ ていることとともに、今後の課題としたい。なお、 篠原の京都帝国大学大学院進学(1916年9月)後、 佐藤はむしろ、篠原の論展開を視野に入れた上で、
中島義一の「自由教育」論および『こども哲学叢書』(全七編)の形成と理論構造の解明(その2) 95 自らの見解提示を試みるようになるのではないか [例、篠原論文「ヂューイの教育論」1917.12.i.・ 1918.1.L)・論文「最近の教育理想」(1918.4」5.) の後に著された佐藤論文「デュヰーの民本主義」・ 「同(二)」(1919」1.1.・1919」2」.)]t一この疑問に ついても、今後精査していきたい。 最後に、「デモクラシー」についての広島高師 教育科在学中の中島の勉学状況に触れておこう・、 中島の在学中、「学校教育』誌に掲載された「デ モクラシー」に関する佐藤論文は、「デモクラシー と子供」(同誌第70号、1919.5.1.)、「デュヰーの 民本主義」・「デュヰーの民本主義(二)」(同誌第 76・77号、1919.9」.・1919.ll.1.)の三編である,(な お「デモクラシー」についての佐藤以外の論文に は、森準三「余が観たる米国のデモクラシー」同 誌第62号、1918.10.1、堀卓次郎「『デモクラシー』 について」同誌第69号、1919.4」、などがある。) いずれも、デューイ来日の年に書かれている。こ れらのうち、論文「デューイの民本主義」・「同(二)」 は、先行研究である篠原助市論文「ヂューイの教 育論」[初出は『哲学研究』第二巻第十一冊第
二十一号Ggl7年12月1日)・第三巻第一冊第
二十二号(1918年1月1日)]に依拠してその論 旨の一部分を敷行した内容であり、篠原論文を何 ら乗り越えるものではない。佐藤自身が、論文の 冒頭部において、「余の知る限に於て其の[デュ ヰー]の根本思想を最も明快に叙説せられたもの は畏友篠原文学士の雑誌哲学研究紙上に発表せら れた一論文である」17」と告白している通りであ る一しかし佐藤のこの告白は、中島をして、佐藤 熊治郎の「畏友篠原文学士」と「雑誌哲学研究紙 上に発表された一論文」「ヂューイの教育論」を 意識させずには置かなかったのではないか,まし てや、佐藤論文「デュヰーの民本主義」(1919.9⊥) が「学校教育』誌に掲載される前に、同誌に鰺坂 (小原)論文「小学校教師の自己修養としての哲 学の研究方法」(19】8.ll⊥)が既に掲載され、し かも鰺坂(小原)が回顧するように、広島高師鰺 における鯵坂の担当科目「論理学」を中島が受講 しているとすれば、中島が鰺坂(小原)によって 「哲学と新教育論」を吹き込まれ、佐藤論文「デュ ヰーの民本主義」の上記告白をきっかけにして、 「雑誌哲学研究紙上に発表された」篠原論文 「ヂューイの教育論」を、広島高師教育科在学中 に既に読んでいる可能性も考えられる、ともあれ、 佐藤論文「デュヰーの民本主義」・「同(二)」は、 既に「雑誌哲学研究紙ヒに」論文を掲載している 「篠原文学士」を中島に知らしめたことにおいて、 少なからざる意味を有する、と私は考える. しかし、「デモクラシー」に関する佐藤論文の なかでより興味深いのは、当時の社会状況につい ての佐藤の見解が示された、論文「デモクラシー と子供」(1919.5⊥)の方である。論文「デモク ラシーと子供」において、佐藤は、「金甑無欠の 国体を傷つけることなく徐々に最も公平にして穏 健な民本理想の実現を図るのが国民の一大任務で あり、取りわけ我々教育者の責任である」との視 点から、「デモクラシーと子供との関係」を考察 する場合、「想像的に自分を学級担任者の位置に 居らしめ」る必要がある、と述べる。なぜならば、 「将来をかけて子供等を国体に添うた穏健な民本 思想の方向に導くには、我々の子供等に対する態 度…・体得に基いての民本的な態度が根底になる と考へられるから」である。「デモクラシー」に ついて子供に教授しようとするならば、例えば、 「帝国議会の議員選挙に関することを[子供 に]読ましめ聞かせるに当たって、直接国税の 納額三円(改正実行を仮定して)を選挙資格と すると言った丈では…[略]…説明にならない。 何故に納税其の他の条件を以て選挙資格を制限 するのか、何故選挙資格に該当する納税額を引 き下げることになったのか、将来如何になるの が理想であるのかといったやうなことに就いて 子供に適応する程度に於ての啓発を要する、勿 論民本だの民主だのといふ言葉を担出す必要は ない、国民を国政に参与せしめて下さった根本 の精神、潮っては国民を人格者として一様平等 に見て下さって居る根本の精神を飲み込ましめ 得れば事足りるのである。併し子供に自由とか 平等とかといふことを説聞かせるに就いては極 めて慎重な考慮を要する。…[略]…/…[略] ・我々の子供は立憲の大義の漸次国民生活の中 に浸徹しつ・ある君主国体の下に置かれて居 る。…[略]…彼らはふさわしい国家も立憲の 大義を基礎とせる君主国体であると考へられ る。我々は一方に於て本能的に力ある者たらん とする彼らの服従心を認むると共に、他方に於 ては自由に対する彼等の強い要求を認めて善導 扶披漸次立憲国民としての性格の基礎を築かしめなければならない。…[略]…学級といふ一 小国家をして立憲国民としての性格の圃場たら しめやうと思ふならば、外部的権威に対する非 民本的の盲目的服従を強ふることを避けて、自 発的内面的の服従に導くことを標的として進ま ねばならない。/…[略]…デモクラシーの思 想からすれば亜米利加に行なはれて居るといふ 学級の自治制度の類も教育の有効な一手段と考 へられるが、…[略]…大供の間にさえまだま だ自治らしい自治を見られない今口の情況であ る……結局手を加えて加えて彼等[子供]の間 の利害観念の調停を図ってやり、相互他の人格 と自由を尊重するやうに導くの外はない「1門。 佐藤は、大正期の子どもをとりまく時代状況(特 に普選運動)について、「我々の子供は立憲の大 義の漸次国民生活の中に浸徹しつ・ある君主国体 の下に置かれている」と把握する。それ故、子ど もには、「統治の総覧者」が「国民を国政に参与 せしめて下さった根本の精神、潮っては国民を人 格者として一様平等に見て下さって居る根本の精 神を飲み込まましめ得れば事足りる」のである。 言い換えると、「学級といふ一小国家」において 子どもたちを将来の「立憲国民」として育成しよ うとするならば、「金甑無欠の国体を傷つくるこ となく」「立憲の大義を基礎とせる君主国体」に ふさわしい「自発的内面的の服従」を行うよう、 子どもたちを導かなければならない。それには、 「亜米利加に行はれて居る学級の自治制度」はあ まりにも時期尚早であり、教師が「手を加へて」「相 互他の人格と自由を尊重するやうに導くの外はな い」、と。ここには、「理論的教育学』「第九章方 法上の原理」「第五節社会」の「自活」について の論述における、篠原の「自治」論および「学校 市制度」批判と同質の思考法が伺われる。佐藤は、 基本的に、「立憲の大義を基礎とせる君主国体」 説の立場から立論している。中島は、佐藤のこの 立場をどう受け止めたのか。はたして中島は、佐 藤のような「立憲の大義を基礎とせる君主国体」 説の立場に立って、千葉師範付属小学校「自由教 育」における「自治」活動を位置づけたのであろ うか。今後の課題としたい。 なお、「学校教育』誌における「全国小学校教 育研究大会」報告について述べると、「第二回全 国小学校教育研究大会」に関する臨時増刊・同誌 第40号[1917(大正6)年2月15日コには、手 塚岸衛(群馬師範附属小学校主事)が「第二部会 部長」を務めて「協議題 学習成績の考査法」 の協議・検討をリードしている。また、中島が広 島高師研究科一年次に在学中、1918(大正7)年 U月8日から同月12日まで「第四回全国小学校 教育研究会」が広島高師附属小学校において開催 され、鰺坂国芳教諭が最終日に、「教育の根本問 題としての真善美聖」と題する「職員研究発表」 をおこない、参加した「会員に多大の感動を与え た」、『学校教育』誌に掲載された広島高師附属小 学校において開催された「全国小学校教育研究大 会」報告と『教育研究』誌に掲載された東京高師 附属小学校での研究大会報告との対比は、手塚が 主事を勤め中島も赴任した後の千葉師範附属小学 校の研究発表会の内容とともに、今後の研究課題 としたい。 (3)鰺坂(小原)国芳の論著 次に、鰺坂(小原)国芳の著書と「学校教育』 に掲載された鰺坂(小原)の論文を、中島の広島 高師教育科在学中から『教育の根本問題としての 哲学』(1923年6月18日)刊行のころまで、年 代順に示し、中島の「自由教育」論と『こども哲 学叢書』への影響について、若干の考察を加えて みよう。 〈1918年4月、中島義一、広島高師教育科に入学〉 《1918年7月、鰺坂国芳、京都帝国大学文科大学 哲学科(教育学教授法専攻)を卒業、同年8月、 広島高師に「教諭兼訓導」として赴任》 1 2 3 4 「国民精神i函養方案の基礎論」[63(5-13)、 1918.11.1、「国民精神の教養」特集、 1918,lLl,;94-106.] 「小学校教師の自己修養としての哲学の研究 方法」[同上、「質疑応答」欄:164-165.]→『教 育の根本問題としての哲学』 「調査問題 生年月と学業成績との関係調査」 (広島高等師範学校教諭 鰺坂国芳、ほか同 校三訓導による)[67(6-3)、1919.2.20、臨 時増刊「第四回全国小学校教育研究大会」; 27.45.] 「教育の根本問題としての真善美聖」[同上、 「研究発表」欄ll18-127.]→「教育の根本
中島義一の「自由教育」論および『こども哲学叢書』(全七編)の形成と理論構造の解明(その2) 97 問題としての哲学』 5.「修身教授革新論(一)」[68(6-4)、1919.3.1. ;3-9.]→『修身教授革新論』 6,「修身教授革新論(二)」[69(6-5)、 1919.4.1.:9-15.]→「修身教授革新論』 7,「学校劇について」[同上:47-50.]→「学校 劇論』 8.「修身教授革新論(三)」[70(6-6)、 19195、1.;5-15.]→『修身教授革新論』 g.「修身教授革新論(四)」[71(6-7)、 1919.6.1.17-14.]→「修身教授革新論』 10.「小学校の英語科について」[同上;89-91.] 『教育の根本問題としての宗教』1919.618. IL「爆裂弾」[75(6-11)、1919.10.1.;78.81.] 12.「思想問題と宗教」[76(6-12)、1919.11.1、「思 想問題と教育」特集;103-113.]→『教育の 根本問題としての宗教』・『思想問題と教育』 『思想問題と教育』191g」2.8, 《1919年12月9日、鰺坂国芳、広島高等師範を 退職、同月12日、成城小学校主事に就任》 13.「芸術教育について」[78(7-1)、1920.1.L; 10-16,]→鰺坂論文「教育の根本問題として の芸術」、成城小学校編(著者代表 鰺坂国芳) 『児童中心主義の教育』大日本文華株式会社 出版部、1921(大正10)年6月、pp.1-53.(成 城小学校で1920年ll月ll日から同月16日 まで開催された第一回講習会の活字化) 〈1920年3月25日、中島義一、広島高等師範教 育科卒業、同月31日附で千葉師範に「教諭兼訓導」 として赴任> 14 「婦人問題」[80(7-5)、1920.5.1、臨時増刊「第 五回全国小学校教育研究大会講演」、「研究発 表」欄1113-120.]→『婦人問題と教育』 『婦人問題と教育』1920.5.10. 『修身教授革新論』1920.6.1. 『教育改造論』集成社、1920.9.10. 『修身教授の実際(上)』1921年7.10. 『修身教授の実際(下)』1922年7,15. 『真人の生活』1922」1.16. 『自由教育論」1923.3.5, 『学校劇論』1923.4.1. 「教育の根本問題としての哲学』1923.6.18. 中島の広島高師教育科在学中に著された鰺坂 (小原)の論著には、大まかに言えば次の二つの 特徴が認められる。 第一は、上記の鰺坂(小原)による論著のリス トに示したように、中島の同教育科在学中に、「教 育の根本問題としての哲学(真善美聖)」、「教育 の根本問題としての道徳」(「修身教授革新論」)、 「教育の根本問題としての芸術」、「教育の根本問 題としての宗教」、に関する鰺坂(小原)の見解 の骨子が、教育学すなわち教師自身の自己探求・ 自己深化の学として、すべて提示されていること である。特に鰺坂論文「教育の根本問題としての 真善美聖」は、「第四回全国小学校教育研究大会」 における「職員研究発表」としておこなわれただ けに、教育界において一大センセーションを巻き 起こしたはずである。これが、同教育科一年次に 在学中の小学校訓導経験者、中島に(しかもその 「職員研究発表」をおこなった本人、広島高師「教 諭」鰺坂の担当科目「論理学」を受講していたと 鰺坂の言う中島に)、影響しないはずがない。 第二に、教師が自ら「教育の根本問題」を探求 するならば、即ち哲学する(真善美聖の問題を探 求する)ならば、これにもとついて、教師による 新たな子ども理解(哲学する子ども)がおこなわ れ、それ故に子どもへの新たな働きかけ(哲学す る子どもへの働きかけ)が構想され実践されるこ とになる。言い換えると、教師自身による「真善 美聖」の問題の探求に照らして、子どもも、「真 善美聖」の問題の探求者として理解され、「真善 美聖」の探求を促進するように、教師によって新 たに働きかけられることになる。中島による『子 ども哲学叢書』(全七編、1924-1931年)にとっ て注目すべきことは、鰺坂(小原)の見解におい て、教師が「教育の根本問題としての哲学」をお こなうことによって、「子どもは哲学者」として 教師に捉えられ、そのような者として新たに働き かけの対象になることである。 論文「教育の根本問題としての真善美聖」にお いて鰺坂(小原)は次のように言う。教育の「根 本問題」は「真、善、美、聖の問題、即ち哲学、 道徳、芸術、宗教の四」つである。これらの「教 育の根本問題の研究」がほとんどなされていない ことが「今日の教育の根本欠陥である」。例えば、 「現今哲学の中心問題は認識論である」。「真理と は何か、認識の態度、根元、限界、更に学問論。 それ等は認識論の中心問題であるがそれらを弁へ ずに、教授法が云為されやうか、教科の価値論が
やれやうか1‘}」.また、「道徳とは何か。」「道徳 とは二元の争闘である一理想と現実、天と地、霊 と肉、唯心と唯物、理性と本能これら反対の二元 の葛藤である一…[略]…人にのみこの戦いはあ り得るのである。…[略]…かく道徳生活の何た るかを解し、道徳批判を誤らず、児童の内心生活 に触れねばならぬ1e」。教師が「道徳とは何か」 を根本的に問い直し、「理想と現実」、「理性と本能」 等、「反対の二元の葛藤」が「人にのみあり得る」 ことを認めることによってのみ、教師は「児童の 内心生活」における「二元の葛藤」を理解するこ とが可能になり、子どもにおけるその「二元の葛 藤」の克服への援助を構想することが可能となる、 と鰺坂は捉えている。同様に、教師が「絵画、彫 刻、音楽、詩歌、建築等に対して深く知」り、さ らに「それらの総合芸術としての劇」について 「もっと知」ることによって、「児童の本性否人間 生活そのものが劇的なものである」ことが理解可 能になり、それらの指導、例えば「図画教授」や 「書方教授」における「鑑賞教授」の必要性が理 解され、構想できるのである。さらに、「宗教と は何か。神と人との関係である。而して全人格の 要求である。…[略コ…自己に忠実であれば、そ こに真剣な宗教が生れざるを得ない」。「宗教生活 とは、小我を捨て大我に絶対帰依融合することで あり、小宇宙と大宇宙との合致にある」。そして「児 童の理解の為にゼヒ教師自身が宗教に対して理解 を有せねばならぬ。つまり児童価値の承認、神の 子として彼等を認むることが酒養である」。かく して「児童はすべて宗教者である」、と鰺坂(小原) は捉えるfコ11。 鰺坂(小原)によるこのような思考法を一般 化すれば、教師は、自ら「哲学」することによっ て、「子どもは哲学者」として理解され、それ故 「子どもは哲学者」として新たに働きかけられな ければならない、ということになるc、実際、鰺坂 (小原)は論文「修身教授革新論(二)」『学校教育』 第69号(1919.4.i.)において「修身科の哲学化、 しかも小学校の修身科の哲学化」を提唱し、「子 供は…[略]…哲学者である」と主張する。 へ N N h h h l 「思惟なきの国民!!……/哲学なき国民!! N N N 1 N N ・/大胆に自由に、大にもっと考えさして欲 しい。……深めよ。もっともっと日本人を深め l h h 1 へ } s ねばならぬ,……ここに於て/修身教授の哲学 化 を叫びたい。仏蘭西では中学校で哲学を やってる。その外の国でも高等学校になれば大 抵やる、……然るに我国では普通の師範学校で やらない一高等学校でやらない、大学校も哲学 科の外ではやらないz……我が教育は何を以っ て救はう,/修身科の哲学化、しかも小学校の 修身科の哲学化なぞと叫んでも痴人の夢としか 人は思ふまい。けれども決してさうではない、 h 1 h 1 N h 1 1 N N /「児童は大人の父である』とワーズワースは 申しましたが、……彼等こそは実に、神秘哲学 者である,大詩人である,彼等の心の裡にその 貴い神秘の閃きを見出して欲しいz一面から云 うと今日の教育はこの貴い萌芽を殺して居るの ではあるまいか。/子供は思ったより1利巧であ る。哲学者であるt22,」。 鰺坂(小原)は、教師が、「教育の根本問題と しての哲学(真善美聖)」の探求によって、「子供 は哲学者である」と理解し、それ故、「子供は哲 学者」として新たに働きかけるために「修身教授 の哲学化」、就中、「小学校の修身科の哲学化」を 提案する。鰺坂(小原)はこれによって、「思惟 なき国民」の現状を克服しようとしたのである。 鯵坂(小原)による「教育の根本問題としての哲 学(真善美聖)」論にもとつくこのような提案こそ、 広島高師教育科在学中の中島が鰺坂(小原)によっ て鼓吹された「哲学と新教育論」の骨子にほかな らない。中島は、後に『子ども哲学叢書』(全七編) に結実することになる「子どもは哲学者である」 とする原アイディアを、既に中島の同教育科在学 中に、中島の受講した「論理学」担当者、広島高 師「教諭兼訓導」の鰺坂国芳から受容していた、 と考えられる。
3.おわりに
以上、広島高師教育科在学中の中島義一の勉学 状況と鰺坂(小原)国芳「哲学と新教育論」の影 響のありようを示した。 中島義一が広島高師教育科を卒業して千葉師範 に「教諭兼訓導」として赴任した翌日、『学校教育』 第81号(第7巻第4冊)[1920(大正9)年4月 1日]の「雑纂」欄に、「思潮の中心から卿」と 題する「思潮」評論文が掲載される。取り上げら れた論文のひとつは、「生活準備と連続的発展 篠原助市氏」である。「篠原助市氏の論文は哲学 研究の2月号に出ている[論文「生活準備と連続的発展』『哲学研究』第5巻第2冊第49号、
中島義一の「自由教育」論および1「こども哲学叢書』(全七編)の形成と理論構造の解明(その2) 99 1920.2⊥]「…[略]…新カント派… [略]…と 見るべき立場に立ち、教育其の物の解釈の根本的 改造を試みて居る」と評者は述べ、篠原による、「生 活の為の準備」としての教育への批判と代案とし ての「連続的発展」について要約する、 「生活準備説は社会と個人を切離して二元的 に見、児童の現在に独自の意義を認めず之を方 便視し。その結果実利主義又は職業主義となり、 理想を見誤って居る,…[略]…/連続的発展 といふ観念は経験を…[略]…指導する規正原 理であるIdeeであって経験[の構i成原理]で はない.現在のみを見て如何にして他日社会に 立って活動しうるかといふ[生活準備説の立場 からの]疑問に対しては、いふ所の現在は流る る時である。生命の躍動の躍進する尖端であ り、刻々に発展する現在である。過去は其の中 に働き未来は其の中に熟する。斯くして現在は 横には個人と社会、更に拡張して全実在と自我 との接触点であり、縦には全過去と全未来とを 一点に集巾したものである。故に斯る現在を外 にして何処にも教育の着眼点は定め得られな い。完全なる現在は必然に完全なる未来である。 現在に着眼する教育のみが完全なる生活準備で あるL24)」。 そして評者はこう結ぶ。 「私共が多くの教育書に対して常に抱いてゐ た不満は学的根拠の欠乏か又は十分に消化され ない事であったが、この論文によって幾多の渇 望が薔せられたやうに思ふ。篠原先生の論が余 り大きな法螺をい一に明快に論じ去り論じ来っ た所は胸のすくやうな感がした25」。 ここで「篠原先生」は、「新教育」思想受容者 としての福井師範附属小学校主事時代(1906年 一1912年9月).26’iとは異なり、「新カント派」の「学 的根拠」を有する、「十分に消化」しきった、「明 快」な教育学の理論を提示する研究者として、教 育界に改めて登場している。「篠原先生」は、こ の前年の1919(大正8)年5月に、母校東京高等 師範に教授として着任する,そして、福井師範勤 務以来の盟友・手塚岸衛の求めに応じて、同年「八 月下旬には四日間に渉って、哲学の手ほどき」を 手塚が主事を勤める千葉師範附属小学校において 既におこなっていた。千葉師範附属小学校「自由 教育」の始まりである。広島高師教育科において 鯵坂(小原)国芳「哲学と新教育論」の影響を受 け、「子どもは哲学者である」とする原アイディ アを受容していたと考えられる中島義一が赴任し たのは、「新カント派」の「批判的教育学」の立 場に立つ「篠原先生」の指導を受けて「自由教育」 を試行しつつあった附属小学校主事・手塚岸衛と 諸訓導を擁する、千葉県師範学校であったのであ る。(未完) 注 (D 米澤正雄「中島義一の『自由教育』論および「こ ども哲学叢書』(全ヒ編)の形成と理論構造の 解明 篠原助市「批判的教育学』と佐藤熊治 郎の教育思想との関連において 」『東洋大 学文学部紀要 第63集 教育学科編 XXXV (2009年度)』2010年2月、pp.91-llL (2)増田実「石下の自由教育 大正自由教育の一 側面 』需書房、1978年、pp.68-69. (3)小原国芳編『日本新教育百年史 第四巻 関東』 玉川大学出版部、昭和44年、p.84. (4)『広島文理科大学/広島高等師範学校/元第二 臨時教員養成所 一覧 昭和十二年』広島文理 科大学. 1937(昭和12)年、p.346.なお、同 頁には「鯵地國芳」と記載されているが、誤植 である。 (5)北村和夫『大正期成城小学校における学校改造 の理念と実践』成城学園沢柳研究会、1977(昭 和52)年、P.138. (6)雑誌『教育問題研究』には、成城小学校の教師 による論文、古閑停「千葉の一日」同誌、第7 号[1920(大正9)年IO月1日]、赤井米吉ほ か「千葉師範附属小学校参観記」同誌、第40 号[1923(大正12)年7月1口]、が掲載され ている。また、中島が千葉師範附属小学校主事・ 手塚岸衛とともに、1920(大正9)年秋、成城 小学校で開催された講習会に参加したことや成 城小学校と千葉師範附属小学校との教師間の交 流は、「一昨年の秋であったと思ふが其のとき の成城の大講習会に千葉から手塚主事と中鳥 (?)訓導(或は教諭?)とが出て来て成城の 承諾を得て一般に配布したスリモノの中には、 [略]…自教育といふ言葉をどうも故意に用 ひてあるらしく見える、それでまだこの頃には 千葉師範でもあきらかには自由教育とは名乗っ てゐなかったと思はれる」、「千葉はもとより成 城のまつ開いた道をしばらくは歩かせてもらっ
(7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) たにすぎない」、「成城と千葉とははじめ大に関 係もあり連絡もあった。成城の主事や訓導も幾 度か出張したことである」、との永野芳夫の言 [参照、永野芳夫「所謂八大教育主張の批判」『教 育学術界』第46巻第1号、1922(大正11)年 10月1日、pp.110-11L]に示されている。 中島義一『こども哲学叢書 第壼編 こども認 識論 林檎の味』文教書院、1924年、p.165, 中島は、この書物の参考文献として、「ウィン デルバント著 哲学概論/出隆氏著 哲学以前 /村岡省吾郎氏著 知識の問題/小原国芳氏著 教育の根本問題としての哲学」の四冊をあげ ている。ちなみに、小原国芳は、『教育の根本 問題としての哲学』イデア書院、1923(大正 12)年6月、において、「書き上げるに、最も お世話になりましたものは、/[京都帝国大学 文科大学における]西田[幾多郎]先生の[哲 学概論の講義の]大学ノート/朝永[三十郎] 先生の西洋哲学史の大学ノート/Windelband; Einleitung in die Philosophie./全くお三人の賜 物です。」(同書、p.508.)と述べている。小原 国芳のこの著作は、当時の京都帝国大学文科大 学哲学科における西田幾多郎担当の哲学概論 (ヴィンデルバントの.ヒ記『哲学入門』をテキ ストとして使用、参照、西田幾多郎『哲学概論』 岩波書店、1953年)と朝永三十郎の西洋哲学 史の講義(著書としては『近世に於ける「我」 の自覚史』東京宝文館、1916年)にもとつい ている。京都帝国大学文科大学哲学科(教育学 教授法専攻)を卒業直後に赴任した小原が、広 島高師教育科在学中の中島に吹聴したのは、自 ら京都帝国大学において受講した、西田の哲学 概論と朝永の西洋哲学史との講義内容、および 京都帝国大学文科大学哲学科に提出した自らの 卒業論文「教育の根本問題としての宗教」の内 容、であると考えられる。 「広島高等師範学校教育科」『学校教育』第45 号(第4巻8冊)、1917(大正6年)7月1日、p. 77. 同上、p.77. 同上、pp.77-78. 同上、p.78. 「文検教育科受験参考書」「学校教育』第27号(第 3巻第2冊)、1916年2月1日、pp.93-94. 「小学校教師の自己修養としての哲学の研究方 法」『学校教育』第63号(第5巻第13冊)、 1918(大正7)年ll月1日、p,164. (14)同上、p,|65. (15)同上、p.165. (16)岩波書店の「哲学叢書」全12冊は以下の通り である。1.紀平正美『認識論』1915年IO月、 2.田辺元『最近の自然科学』1915年lI月、3. 宮本和吉『哲学概論』1916年2月、4.速水滉 『論理学』19!6年4月、5.安倍能成『西洋古 代/中世哲学史』1916年6月、6.阿部次郎『倫 理学の根本問題』1916年7月、7.石原謙『宗 教哲学』1916年7月、8.上野直昭『精神科学 の基本問題』19i6年10月、9.阿部次郎『美 学』1917年4月、10.安倍能成『西洋近世哲 学史』1917年4月、11.高橋里美『現代の哲学』 1917年8月、12.高橋穣「心理学』1917年7月。 (17)佐藤熊治郎「デュヰーの民本主義」『学校教育』 第76号(第6巻第12冊)、1919年11月1日、p. 67. (18)佐藤熊治郎「デモクラシーと子供」『学校教育』 第70号(第6巻第6冊)、1919(大正8)年5 月1日、PP. 2-5. (19)鰺坂国芳「教育の根本問題としての真善美聖」 「学校教育』第67号(第6巻第3冊)、1919(大 正8)年2月20日、pp.118-119。青森県にお ける大正自由教育は、1920年5月6日、成城 小学校主事・鰺坂(小原)国芳による青森師範 および青森女子師範での講演から始まり、青森 女子師範附属小学校(訓導経験者)を中心に広 まる、と言われる(参照、小原国芳編『日本新 教育百年史 第三巻 北海道/東北』玉川大学 出版部、1969年、pp.117-120.)。しかしそれは、 広島高師附属小学校における第四回全国小学校 教育研究大会での、1918年11月12日の「職 員研究発表」、鰺坂国芳「教育の根本問題とし ての真善美聖」にまでさかのぼる。この研究大 会への参加者のなかに、「出三五 青森女子師 範訓導 木村忠蔵」が確認できるからである (『学校教育』第67号、p.198.)。「鰺坂(小原) 国芳」の名前は、木村を介して青森女子師範附 属小学校訓導の間に伝わり、本稿に示した鰺坂 の論著が、上記1920年5月6日の講演以前に、 特に青森女子師範附属小学校の訓導の間で既に 注目を集めていた、と考えられる。 (20)同上、p.122.
中島義一の「自由教育」論および「こども哲学叢書』(全七編)の形成と理論構造の解明(その2) 101 (21)同上、pp.124-126. C22)鰺坂国芳「修身教授革新論(二)」『学校教育』 第69号(第6巻第5冊)、1919(大正8)年4 月1EI、P.13. (23)稿堂「思潮の中から」『学校教育』第81号(第 7巻第4冊)、1920(大正9)年4月1日、pp. 91-93. (24)同上、p.93. (25)同、p.93. (26)参照、拙論「篠原助市における「国民教育』論 としての教育学理論の形成・展開とデューイ思 想の受容・評価との関係の解明一福井師範時代 (1906年4月一1912年9月)における『新教 育』思想受容と 「児童の歴史化」の問題化一」 日本デューイ学会紀要第52号、2011年10月、 PP.1-12,