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タマン・シスワとインドネシア現代政治 ――「9 月 30 日事件」への対応をめぐって―― [Taman Siswa in the Contemporary Political Situation of Indonesia : A Preliminary Study]

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(1)

東南 アジア研究 25巻 3号 1987年12月

タマ ン ・シスワ とイ ン ドネ シア現 代政 治

-

「9

3

0

日事件

- の対 応 を め

ぐって-土

治*

Ta-an Siswain theContemporary Political situation ofIndonesia:A PreliminaryStudy

KenjiTsUGHNA*

Since its founding in 1922 by KiHadjar Dewan tara atYogyakarta}the Taman Siswa

("Garden orPupils")has alwaysbeen i den-ti丘edwithtilenationalistmovementin lndo_ nesia・ AftertheIndependenceoftheRepublic orlndonesiain 1945itsexpansion accelerated owingtoitspopularlty)aSTaman Siswa was considered an authentic nationaleducational institution・ By the end or the 1950

S

, one hundred sixty-fourTamanSiswabrancheswith a total ofaboutfif'ty thousand pupils were establishedthrough outIndonesia.

However,the hori2:Ontalexpansion of the Taman Siswaschoolsinto variousregions Of theRepublicand the verticalrecruitment or teachers from different social backgrounds

,

coupledwiththegrowingpenetration orpolit

-は じ め に 本 稿 は ,1960年 代 後 半 の タマ ン ・シス ワ (Taman Siswa)の状 況 を , ジ ョクジ ャ カル タの 中央 指 導 部 の 動 向を 中心 に概 観 す る もの で あ る。 1922年 7月 に設 立 され て 以来 ,オ ラ ン ダ植 民 地 時 代 を 通 じて ,イ ン ドネ シア民 族 教 育 の 確 立 と将 来 の 国 家 原 理 の樹 立 の た め に きわ め *京都大学東南 アジア研究セ ンター ;TheCenter

forSoutheastAs ianStudies,KyotoUniversity

ical inAuence from every party and mass organization▼Inevitablyresulted in inter-and intra_branchtensionandconflict. Thecon且ict between the PKI (Indonesian Communist Party) group and the non-PKI group in TamanSiswagrew particularlyconspicuousaS

PKI became lndonesia's mostpowerfuland welトorganized politicalparty ln the years of

Guided Democracy.from 1959to 1965・ This article is a preliminary study ofthe criticaljunctureoftheTamanSiswamovement aftertheshockofthe"Coup ofSeptember30

9

1965.H Itwas a period when Taman Siswa had to dealwith con且ict within its ranks

,

aswellastrylng effectively to adjustto the drasticchangein the politicalsituation since the"Coup." て独 自で重 要 な 役 割 を果 た して きた 民 族 教 育 機 関 タマ ン ・シス ワ

(

「学 童 の 園」 の 意 ) は, 1945年 8月 に 国 民 国 家 イ ン ドネ シ ア共 和 国が 成 立 した の ち も ,共 和 国政 府 に よ る公 教 育 と な らん で私 学 校 と して存 続 して きた 。1) 制 度 1)タマン ・シスワ学校の成立 とその背景,初期の 発展,オランダ植民地政府-の抵抗運動などの 歴史的展開の過程 と,その政治的文化的意義に ついて,筆者はすでに [土星 1982]において 詳論 している。本稿はそれを基礎に して,現代 の政治 とくに現代の政治文化をタマン ・シス ワ を通 して考察す るためのひ とつのこころみであ る。 - 147- 447

(2)

東南 ア ジア研究 25巻3号 的 に は - 私 学 の教 育 機 関 にす ぎな い の に ,共 和 国政 府 とつ ね に 緊 密 な 関 係 を 保 って きた と ころ に ,独 立 後 の タマ ン ・シス ワの 特 異 な意 義 が あ る。 タマ ン ・シス ワ

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年 代 末 か ら

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年 代 半 ば に か け て は ,ス カル ノ大 統 領 (荏 任

1

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9

6

7

)

の 「指 導 され た 民 主 主 義」 の 政 治 理 念 を ,い ち早 く

1

9

2

0

年 代 以 来 提 示 しか つ 制 度 化 した とい う先 駆 的 立 場 を 享 受 して , ス カル ノ (及 び そ の 体 制 ) と密 接 な 関 係 に あ った [土 産

1

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2:

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]。 ス - ル ト大 統 領 (在 任

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-)

の 時 代 に な って も ,そ の 間 に

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年 の

「9

3

0

日事 件 」 とい う現 代 史 を 画 す る大 激 動 が あ った に もか か わ らず , タマ ン ・シス ワの 「指 導 性」 の理 念 は現 在 の 「パ ンチ ャシ ラ民 主 主 義 」 の理 念 を基 礎 づ け て い る とい って よい。 こ とに , タマ ン ・シス ワの 教 育 理 念 と して設 立 以 来 提 唱 され 実 践 され て きた

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' ("ツ ・ウ リ ・ ア ン ダヤ ニ" す なわ ち ,教 師 は 子 供 の先 頭 に 立 って指 導す るの で は な く,子 供 の後 か らつ き従 って い き ,子 供 が 歩 む べ き道 か らはず れ そ うに な った 時 だ け 手 助 け を して 元 へ戻 して や る とい う教 育 者 の 姿 勢 ) は ,現 在 で は イ ン ドネ シア文 部 省 に お け る公 的 な ス ロー ガ ン と して採用 され て い る。 しか も そ れ だ け で な く, この標 語 は も っ と一 般 的 に 「国 家 公 務 員 と国 民」 の 関 係 の あ るべ きか た ちを 示 す もの と して しば しば採 用 され て い る。 また ,政 府 与 党 ゴル カル

(

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)

の イ デ オ ロギ ー が タマ ン ・シス ワの理 念 と近 親 関 係 に あ る こ と も しば しば 指 摘 され て い る通 りで あ る。2) そ り意 味 で タマ ン ・シス ワの提 示 した 教 育 理 念 と組 織 原 理 は , と ぎれ る こ との な い一 本 の 糸 の よ うに ,国 民 国 家 イ ン ドネ シアの統 治 理 念 2)これについてはた とえ ば [Reeve 1985]を参 照。筆者は.1972年 の総 選 挙 キ ャンペーンの 際,ジ ョクジャカルタの ゴルカルがキ ャンペー ン開始に当た って,先ずデ ワン トロの墓に詣で た とい う話をい く人かの人 々か ら開いた ことが ある。 蓑 1 タマン ・シス ワ学校の学校数及び生徒数 (1932年∼1959年) 年度 学校数 生徒数 瞳 度 学校数 生徒数 1932 166 11,000 33 170 11,500 34 172 11,169 35 187 11,235 36 184 9,015 37 190 12,000 38 196 14,627 39 205 14,499 40 204 13,500 41 204 12,000 1950 78 51 76 39,122 52 88 42,254 53 96 43,360 54 100 44,575 55 122 44,674 56 144 48,907 57 152 46,898 58 159 49,126 59 164 49,395 出典 :LeeRam Hing [1978:43] と政 治文 化 を つ らぬ い て きて い る よ うに 思 わ れ る。 ジ ョクジ ャカル タに本 部 を お き全 国 の各 地 に分 校 を設 立 して きた この 教 育 機 関 の 変 遷 を ,学 校 数 と生 徒 数 に つ い て

1

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5

0

年 代 末 まで に つ い てみ る と表 1の通 りで あ る。 これ を み る と

,1

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3

0

年 代 に威 勢 を 誇 って い た タマ ン ・ シス ワは独 立 後 一 時 期 の低 迷 状 態 を 脱 して ,

1

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5

0

年 代 後 半 か らは 著 し く発 展 して きた よ う に み え る。 しか し実 際 に は 独 立 後 は ,牙 ラ ン ダ植 民 地 時 代 ・日本 軍 政 時 代3)に もま して 困 3)日本軍政時代,タマン ・シスワの通 常 の教 育 機関は次 々と閉鎖 され, 「農民学校」 (Taman Tani)と称する実業教育だけが辛 う じて存 続 を許 された。 また,デ アン トpは軍政に協力す るためにジャカルタに常駐することにな り,メ マ ン ・シスワの教育の現場か らは離れ ることに なった。軍政中に,デ ワン トロはスカル ノ,-ッタ,キヤイ ・マ ンス-ルと並ぶ民族を代表す る 「四人組」のひ とりと誘 え られ るに 至 った が,そのことは,彼がそれ以後 独 立 後 を 通 じ て,ひ と りタマ ン ・シスワの指導者 としてでな く,国政 レベルでの指導者 とみなされ るように なった ことを意味 した。それに より,デ ワン ト ロはタマ ン ・シスワか ら一歩身を退かざるをえ ないことに もなった。 軍政中 に は また, クマ ソ ・シスワは 日本軍当局か らさまざまな威圧を 受けた とい う。 これについての近親者の証言 と して [B.S Dewantara1979]を参照。 この筆 者はデ ワン トロの次男である。 - 148

(3)

土 屋 :タ マ ン ・シス ワとイ ン ドネ シ ア現 代 政 治 難 な歩 みを続 けて きた。 施設 の貧 弱 さ ,教 師 の質 と志気 を維 持す る ことの困難 さ ,敏 育 内 容 の遅れ とい った ことが らに もま して タマ ン ・シス ワが直 面 した深 刻 な問題 は ,国 内政治 をめ ぐる対 立 , ことに政 党 間 の対 立が そ の 内 部 に も ち 込 ま れ て

,

「統 一体」(Persatua

n)

な い し タマ ン ・シス ワ 「家 族」(Keluarga)

と しての活動 が 困難 に な ってい った とい うこ とであ る。 この よ うな対 立 は ,植 民地 時 代に もい くたびか存在 したが ,独 立後は ,政 党政 治 の展 開, こ とに1955年 の国政総選挙 とそれ につづ く地方選 挙 の政 治過 程 で , もっ ともす ぐれ た組織 力 と最 大 の動 員能 力を誇 った イ ン ドネ シア共産 党 を 中心に して ,タマ ン ・シス ワそれ 自体 が 各政党 の支 持 調達 の母 胎 と化 し た ところに ,問題 の深刻 さが あ った。 なか で ち,

「9

3

0

日事 件」 前後 の数年 間は , タマ ン ・シス ワが もっ とも深刻 な危機 に直面 した 時期 で あ った。 そ の 当時 ,そ こでは ど うい う ことが らが生 じていた ので あろ うか。 そ の こ とを1965年 か ら66年 の時 期 を 中心 に 概 観 し てみ た い。 よ り一般 的 な問題 と してみ た場 合 に ,イ ン ドネ シアの さま ざまな制度 (軍 ,官 倭 ,政 党 ,社会 団体等 々) は,1965年 以降 の 激 動 の政 治過 程 のなか で ,それ に ど う対応 し 変 容 して きた ので あろ うか。 今 日み られ る よ うな政治制度 と政 治文 化 は ,そ の過 程 で どの よ うに して成 立 して きたの で あろ うか。 本 稿 は ,タマ ン ・シス ワとい う制 度 の変 容を通 し て そ の ことを具 体 的に考 察す るため のひ とつ の見通 しを た て よ うとす る もので あ る。 以下 Ⅰで は1965年 ま で の タマ ン ・シス ワ の状 況が概 括 され , Ⅰでは

「9

3

0

日事 件」 を め ぐる 対 応 が ま とめ られ る。 資 料 と して ほ , タマ ン ・シス ワの各種 の刊行物 を用 い る が , と くに そ の 機 関誌 『プサ ラ』 (Pu∫ara) の64年 か ら67年 頃に至 る各 号 を 中心 にみ て い く。 Ⅰ 再建 と内部対 立 1・ タマ ン ・シス ワの再建 日本軍政 府 の下 で 解 散 状 態 に あ った タマ ン ・シス ワほ1945年 8月の独 立 とともに再建 活動 を始 め た。 創立 以来 の 最高指導者 (「一 般 指 導者」 Pemimpin Umum と名 乗 る)4) で あ っ た キ ・- ジ ャ ル ・デ ワ ン ト ロ (Ki HadjarDewantara,1889-1959)が共和 国 初 代 の文部 大 臣に就 任 した こ とに よ り,タマ ン ・シス ワが新 興 の共和 国に 占め る正 当性 は 一層高 ま った。1946年6月に準備 会が 開かれ て ,(1)植 民地時 代 以来 の タマ ン ・シス ワの 目 的は ,イ ン ドネ シアが独 立 した ことに よ り達 成 され た ,(2)しか し当面 はなお ,公 教 育施設 の不 足 ,教 育 内容 の弱体 さを補 うために タマ ン ・シス ワは存続す べ きで あ る ,(3)なお(2)が 達成 され たにせ よ,イ ン ドネ シアが タマ ン . シス ワの よ うな 自らの原則 を もつ私 立学校 を もっ こ とは必要 な こ とで あ る, とい う3点 を 確認 した [Sajoga 1952:270]. この よ うな 学校 の存 続 と再建 の方 向は ,翌47年12月 の第 5回全 国大会 で再確 認 され る と ともに ,独立 後 の状況 にふ さわ しいか た ちで ,タマ ン ・シ ス ワの 五 原則 が 決定 され た。 「パ ンチ ャダル マ Pancadarma」 (「五 つ の義務」)と通称 さ れ る五 原則が ,共 和 国 の 国 是 「パ ンチ ャシ ラ」 (「五 原則

)

に適 うことを意 図 して 設 け られ た ことはい うまで もない。 それ らは,(1)

KodratAlam (自然 の根源 的 力), (2) Ke-merdekaan (独 立), (3)Kebudayaan (文 化),(4)Kebangsaan(民族),(5)Kemanu -siaan(人道) の五つ で あ り, タマ ン ・シス

4)Pemi mpinUmum とは総指導者,最高指導者

であるが,とくにそこには 「一般意思」の体現

者であるとい う了解が成立 していることを考慮

して 「一般指導者」を表現する.これについて

は [土星 1982:第5章,第6章]を参照。

(4)

東南アジア研究 25巻3号 ワが担 うべ き任務 として定 め られ た [ibid.:

2

7

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2

71

]。 ここで ,後年 ,論議 の焦点 とな る のが ,

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とい う概 念であ り, こ れ が<神性>にかかわ る理 念な のか否かをめ ぐる議 論が ,タマ ン ・シス ワが 容共 なのか否 かを め ぐる議論 に直結す る ことにな るので あ る。 この会議 では また新たに 「最 高指導会議」

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)

の陣容が 整 え られ , デ ワ ソ トロがひ きつづ いて 「一般指導者」 とな っ た 。5) とはい え ,当時 は オ ランダとの独立戦争 の 渦 中に あ り教 育機 関 として名実 ともに再建 さ 5)当時 の陣 容 は次 の通 りで あ った [Sajoga 1952:273

]

一般指導者 KiHadjarDewantara

議長 団 (Dewan Pengetua)

議長 KiHadjarDewantara

委員 NjiHadjarDewantara

,

Pronowidigdo,Tjokrodirdjo

,

SutopoWonobqjo

立案委員会 (DewanPertimbangan)

議長 Soewandhi

書記 S11pardo

委員 NjiS.Mangunsarkoro,NjiD.M. Hadiprabowo,S.Mangunsarkoro

,

Sukemi, Sindhoesawarno

,

Wijono Soerjokusumo,BambangSoeparto,

Djoemali 執 行委員会 議長 Darmobroto 第1副議長 M.Hadiprabowo 第2副議長 Soedarminta 書記 Soerjobroto

委員 Subroto,Sajoga,SjamsuHadjar Lelono,NjiSatrijowi bowo,Hertog,

AbdoelMoeis

執 行委員会教育部 部長 Darmobroto

部員 NjiSatrijowibowo,Soebroto

執 行委員会財務部

部長 Soedarminta

部員 Sajoga

,

M.Hadiprabowo

,

AbdoelMoeis 執 行委員会組織部 部長 Soerjobroto 部員 Sjamu,Hertog れ るまでにはなお数年 が 必要 であ った。 タマ ン ・シス ワが政府か ら公式に私学校 の認可を 受 け るのは -ー グ会議 後 の

1

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年法 令第

4

号 においてであ る

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]。

なお翌

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月には タマ ン ・シス ワは 「法 人」 の 資 格 を 得 , 「ジ ョク ジ ャカ ル タ に 本 部 を お く教 育 財 団

」(

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とい う名 称 を もつ こ とに な った

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しか るにそ の後 の タマ ン ・シス ワは さま ざ まな問題 をかか え ,決 して順調 な発展を とげ たのでほ なか った。 第

1

に設 立 以来 , 「自助 自立」 の原則をめ ぐって ,政府か らの援助 を 受 け入れ るのか否かについての議論 が 内部 で い くたび も く り返 され ,それが ,政府 ことに 文部省 とタマ ン ・シス ワの関係を冷 却 させ る ことにな った。 文部省は , 公 教 育 の レベル か らみて タマ ン ・シス ワの 教 育 設 備 と教 育 内容 の不 足を しば しば批判 した

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]。 デ ワン トロ以後 も, サル ミデ ィ ・マ ングソサ ル コ ロ (在 任 ,

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,サ リノ ・マ ングソプ ラノ ト (在任

,1

9

5

6

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)

らの タマ ン ・シス ワ関係者が文部大 臣 に就 任 していたにせ よ,現 実 の レベル で は 公教育を主宰す る文部 省 とタマ ン ・シス ワと の間には相互不信がつね に存在 していた ので あ る。 第

2

に教師 の資 質 や モ ラル が 変 化 し た。 かつ て ,教師は聖 職 であ り献 身 と禁欲を 旨 とす るモ ラルがつ らぬ か れ て い た [土星

1

9

8

2

:第

7

章 , 第

9

草]。 しか し, 独立後 の 経済的混 乱 と生徒数 のた え ざる増 加に よ り, タマ ン ・シス ワの教 師をたんな る職業 のひ と つ であ る とす る風潮 が強 ま ってい き,植民地 時代の タマ ン ・シス ワを支 えていた モ ラルは 次第に浸蝕 されつつ あ った。 それ は ,タマ ン ・シス ワが公教育 の下風 に立つ とい う状況 に 一層拍 車をか け る ことにな った

[

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97

8:45

-

4

7]。

(5)

土壁 :タマン・5'スワとインドネジ7現代政治

2.

内部対 立 の激 化 この よ うな退潮 と軌 を一 に して タマ ン ・シ ス ワが直 面 した のは ,す でに述べ た よ うに , 内部 での政 治的対 立が顕 在化 して きた ことで あ る。 何 よ りもそれ は , 「政 治を学 校 -持 ち 込 まない」 とい う設 立 以来 の原則が ゆ るぎ始 め た とい う点 で ,深 刻 な問題 で あ った。6) 植 民地 時 代以来 ,タマ ン ・シス ワの関係者 はいずれ も誇 り高 い民 族 主義者 で あ り,当時 の さま ざまな民族 主義 政 党や政 治 団体 に 「個 人 の資格」 で加わ る者 が少 な くなか った。独 立後 は この状 況 は さ らに顕 著 とな った。 と く に1950年 代 以降 , 各 種 の 政 党 内閣が組 閣 さ れ , さ らに1955年 に 国政 レベルで それ 以降 は 地域 レベルで選 挙 運動 が 展開 され る状 況 の中 で ,イ ン ドネ シアはかつ てない高 い レベルで の政 治動 員 の時 代を迎 えた。 タマ ン ・シス ワ 関係者 (中央 指導者 ,教 師 ,運営 委 員 ,卒業 生 な ど) の うち ,有 力 メンバ ー と して活動す る者 も 少 な くな く, と くに , 国民党 , 社会 党 , ムルバ党 ,共産 党 な ど非宗教 系 の政党 と の関係 が強か った。 なか で も,国民党 との間 に もっ と も緊密 な関係が あ った。7) 外部 で の さま ざまな政治活動 が タマ ン ・シ ス ワ内部 で の支持 者 の調達 や集票 活動 と して どの よ うに顕 在化 してい った のか は ,具体 的 6)この原則はタマン・シスワにおいてその創立以 来確固として維持されてきたわけでは決 してな い。1920年代末から各地にタマン・シスワ学校 が設立されてい くにしたがって,政治化した支 部ではしばしば特定政党の活動が学校内にもち こまれた。それ らはその都度,問題として取 り 上げられ,そのたびごとにこの原則が確認され てきた。すなわち問題をはらみながらもともか くこの原則が維持されてきた とい うのが実情 であった。詳細は [土屋 1982:第4章,第5 章,第8章,結章]を参照。 7)教師が個人の資格でさまざまな民族主義団体に 加入することは植民地時代に もさかんに行われ た。そ して当時の国民党及びブディ ・ウトモと の間にひときわ強い関係が成立 していたのも植 民地時代以来 の伝 統 で あった [土星 1982: 197-208

]

には 明 らか でな い。 しか し,1950年 代以降 , 中 ジ ャ ワ と東 ジ ャ ワのい くつか の分校 , 「タ マ ン ・シス ワ青年 団体」

,

「タマ ン ・シス ワ婦 人 団体」 を 中心に ,もっ とも積極 的 ・組 織 的 に浸透 しそ の勢 力を扶植 してい ったのは ,共 産 党系 で あ った。 彼 らは若 く有能 (ガ ジ ャマ ダ大学 の卒業生 が 多か った とい う) で デ ワン トロ (1959年 彼 の逝去 以降 は デ ワン トロ夫 人 が 「一般 指導者」 とな る) らの長 老 グル ー プ の信任 も得 て いた とい う

[

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1978:5ト53]。加 えて また ,ス カル ノの ナサ コム体制 や 容共派 の プ リヨノ

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が 長 期 (在任1957-66年 ) にわ た って文部 大 臣 の職 に あ った とい う情勢 も,共産 党系 の勢 力 拡 大に有 利 であ った。 このため1950年 代半 ば 以降 ,タマ ン ・シス ワ内部 の政 治 的対立 は共産 党系対反 共産 党系 の対 立 と して収赦 してい った。 そ の対立 の様 相 を タマ ン ・シス ワ中央 指 導部 の動 向を 中心 に略 述す る と次 の通 りで あ る。 設 立 以来 タマ ン ・シス ワは 「一般指導 者」 と 「最高指 導 会議」 に よって 中央指導部 を形 成 して きた。 指 導部 は数年 に

1

度 (植 民地時 代は4年 に 1度) 開かれ る全 国代表者 会議 に よって選 出 され る こと とされ た。 さて ,独 立 後か ら1971年 までに タマ ン ・シス ワほ ,8度 にわ た って指 導部 の編 成 替 え を 行 な って い る。 それ ぞれ,1952年10月,56年4月,60年 3月,63年10月,64年11月,66年5月,66年 12月,71年12月で あ る。 この うち,56年4月 か ら66年12月 まではいず れ も,共産 党系を め ぐる指 導部 の角逐を示 していた。 1956年4月 の第8回全 国大会 に よる第11次 最高指 導会議 の陣 容は ,6名 の中央業 務 委 員 と目名 の地方 委 員か らな っていたが , この う ち ,5名 は共産党系 (当時 の議長 ス ダル ミン トが 同年8月11日に死去 した欠 員 も共産 党系 に よって うめ られ結 局

1

7名 中

6

名 とな る) で あ り, しか も,業務 委 員会 の内副議長 ,組 織 - lらl- 451

(6)

東 南 アジア研究 25巻3号 部 長 ,福 祉部 長 の

3

名 までが 共産 党 系 で あ っ た

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,

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]。 これ 以後

1

9

63

年 まで の時期 を現 在 の タマ ン ・シス ワ正 史 で は 「暗 黒 の時期」8) と 名 付 け て い るが

,56

年 以来 両 者 の対 立 は年 ご とに 激 化 して い った。 共 産 党 系 の 指 導 者 は ス ダ ル ソが 「タマ ン ・シス ワ青 年 団体」 を 共 産 党 傘下 の 「人 民 青年 団」 に組 み 入れ よ うと こ こ ろみ ,副議 長 ス- ル ジ ョは 「教 師 連 合」 - の 共 産 党 の勢 力扶植 を こ ころみ た。 これ に 対 し て , 反 共 産 派 は 当 時 ボ ゴー ル在 住 の タ ウ ヒ ッ ド

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,社 会 党 の有 力 な政 治 家) や東 ジ ャ ワの クデ ィ リ在 住 の タ ヒ ル

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)

を 中心 に反 撃 工 作 を始 め た

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9

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年 末 に は ,共 産 党 の タマ ン ・シス ワ浸透 工 作 を記 した秘 密 書簡 が タ ヒ ル に よって暴覆 され た。 タ ウ ヒ ッ ド派 の反 共 産 派 活動 は一 時 的 に功 を 奏 し

,1

9

6

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月 の 第

9

回全 国大 会 に よる第

1

2

次 最 高 指 導 会議 の 陣 容 では , 中央 業 務 委 員6名 地 方 委 員

1

5

名 合 計

21

名 の 内 , 共 産 党 系 は

3

名 に 後 退 した

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]。な お この 間 ,創 立 者 デ ワン トロが

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6

日に死去 した のを は じめ , 戦 前 か ら強 力 な指 導 力を 発揮 して い た マ ン グ ソサ ル コ ロ (独 立後 は 国民 党 最 高 幹 部 で あ り

,49

年 か ら

5

0

年 にか け て文 部 大 臣に就 任 ) が

57

年6月 8日に死 去 し, 先 の ス ダル ミソ 8)ここに 「正史」 と称 したのは,1974年8月に完 成 した 『タマ ン・シスワ私学校 教 育 史』(全4 巻)を指す。 これは文部省が1973年以来発足さ せた 「インドネシアの私立学校教育史」のプロ ジェクトの皮切 りとしてタマン・シスワが指定 されたことの成果 として公刊された。執筆陣は タマン・シス ワ関係者5名か らなっていた。さ てここでは1956年か ら63年に至 る時期を 「暗黒 の時期」(periodeyanggclap)と規定 してい る [Team Studi1974:398]が, この時期 が65年まででな く63年までであることは興味深 い。63年を以て今 日み られるような指導部の態 勢が ととのえられたことが高 く自己評価 されて いるか らである。 452 トの死 とあい ま って , 創 立 以 来 の メ ンバ ー は ,デ ワン トロ夫 人

(

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9

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1), プ ロノ ウ ィデ ィグ ド

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, チ ョクpデ ィル ジ ョ

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9

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, ワル ドヨ

(

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な ど ,政 治活 動 を 厭 い教 育 のみ に献 身す る非 政 治 的 な グル ー プ (いわ ゆ る ムル ニ

<Mur

ni

-純 粋 > グル ー プ

[

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9

7

8:

5

6]

)

を残す のみ とな った。 この よ うな世 代 交 代 を反 映 して

,1

9

6

0

年 の 陣 容 では ,デ ワン トロ夫 人 が 「一 般 指 導者」 に就 任 し,業 務 委 員会議 長 に ワル ドヨが就 任 した が ,それ に続 く地 位 は , タ ウ ヒ ッ ドとス ラ ッ トマ ン

(

Soe

r

at

man)

とい う有 能 な活 動 家 に よって 占め られ る こ とに な った。 両 者 と も後 にみ る通 り

9

3

0

日事 件 」 以降 の緊 迫 した状 況 の なか で ,最 も重 要 な役 割 を果 たす ので あ る。 一

万1

9

6

0

年 に お い て一 旦 後 退 した か にみ え た共 産 党 系 は , 「青年 団体 」, 「婦 人 団体」 で 勢 力を 拡 大す るほか , ジ ョクジ ャカル タの ガ デ ィソ支 部 を 中 心 に し て 「影 の最 高 指 導 会 議

」(

Ma

j

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i

sLuhurBayangan)

を形 成 し, 勢 力下 の支 部 や 団体 に直 接 指 示 ・指 令を発 し て い た とい う

[

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9

7

4:4

02

]。 このた め ,青年 ・婦 人 団体 と も中央 指 導 部 の 統 制 が 不 可能 とな り,実 質 的 な分 裂状 況 を迎 え る こ とに な った

。1

9

6

0

年 に社 会 党 が 解 散 命 令 を受 け タ ウ ヒ ッ ドらの活 動 が 制 限 され た こ とも共産 党 系 に有 利 に作 用 した。 こ うした状 況 下 で 「最 高 指 導 会 議 」 そ の も の の棟 能 が停 止す る事 態 が 一 層 進 行 して い っ た。 危機 を 打 開す るため に

,6

3

1

0

2

9

日に は 「一 般 指導 者」 デ ワン トロ夫 人 の名 に お い て 中央 指 導 部 の改編 が 発 表 され た。 タマ ン ・ シス ワが 創 立 以来 掲 げ て きた指 導 者 の叡智 に も とづ く 「専 断権」 が 行 使 され た ので あ る。 この第

1

3

次 指 導 部 は そ の編 成 を大 幅 に変 更す る とい う点 で画期 的 で あ った。 それ は ,

(7)

「-土星 :タマン・シスワとインドネシア現代政治 般 指 導 者

,「長 老 団

」(

Pi

ni

s

e

puh)3

名 , 「一 般 指 導 者 へ の助 言 者

」4

名 ,「一 般 指 導 者 へ の補 助 者

4名 ,及 び 「最 高 指 導 会 議 委 員

5

名 か ら成 り立 って い た .9) こ れ は 「一 般 指 導 者」 で あ るデ ワ ン トロ夫 人 を 二 重 三 重 に補 佐す る態 勢 で あ った。 しか し,それ は タ マ ン ・シス ワの危 機 が さ らに 深 刻 とな った こ とを 示 す もの で あ った。 「長 老 団」 に は , デ ワ ン トロ夫 人 の ほ か プ ロノ ウ ィデ ィグ ドとチ ョク ロデ ィル ジ ョが 加 わ って 創 立 以 来 の伝 統 を 守 る姿 勢 を 示 した が ,「助 言 者」 の う ち に ス ル タ ン ・- マ ン クブオ ノ9世 や セ マ ウ ンの よ うな 著 名 な部 外者 が 加 わ った こ とは , タマ ン ・シス ワが 自 らの権 威 を 内部 的 に 確 立 しえ な い状 況 を 示 して い た。 この状 況 は 翌64年 に な る と さ らに 深 刻 に な った。64年11月 の指 導 者 会 議 は タマ ン ・シス ワ中央 で な くジ ャカル タの サ ル トノ邸 (元 タ マ ン ・シス ワ教 師 で ,当時 国 民 党 の指 導 者 ) で 開 か れ た。 会 議 で は ス カル ノ へ の 忠 誠 が 再 確 認 され 新 しい 指 導 部 が 編 成 され た の ち , 大 統 領 に報 告 しス カル ノの祝 福 を 受 け た。 こ こで 決 定 され た 第14次 指 導 部 に は ,先 の 「長 老 団」 に 代 えて5名 か らな る 「特 別 指 導 部 」

(

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が ジ ャカル タに設 け られ た。 こ こに は 共 産 党 の幹 部 ウ ィ カナ

(

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)

が 含 まれ た。 また 「助 言者 」

9)これ らの メンバーを以下 に 列 挙 す る。[Team Studi1974:Supplement,5]に よる。

一般指導者 NjiHadjarDewantara 長老 団 NjiHadjarDewantara

,

Pronowidigdo,Tjokrodirdjo

助言者 Sri Sultan Hamengku Buwono IX,Sartono S.H.,Dr.Semaun,

SarinoMangunpranoto

補助者 Wardojo,SupardjoS.H.,Sutarto,

Moh.TachirHuseini 最 高指導 会議

代表幹事 Soeratman 教 育部長 Soemawan

組織部長 SelamatKitaLingga

家族部長 Surjobroto 財政部長 KarsonoDijono

グル ー プは ,国 民 党 系 活 動 家 を 中心 に形 成 さ れ て い た。10)こ うして タマ ン ・シス ワの 中央 指 導 部 は ジ ャカル タの政 治 権 力 の分 配 状 況 を そ の ま ま反 映 し,そ の亀 裂 と対 立 が そ の ま ま 持 ち込 まれ る こ とに な った。 こ うして そ の本 来 の機 能 もほ とん ど停 止 して しま った の で あ る。 この よ うな硬 直 した状 況 は

,1

9

6

5年 の

「9

月30日事 件」 を 契 機 と して 大 き く変 化す る こ とに な る。 以下 に Ⅱに お い て ,そ の過 程 を 追 って み よ う。 Ⅱ 「9月30日事 件 」 へ の対 応

1.1

9

6

5

年 の状 況 「9月30日事 件 」 - の対 応 を検 閲誌 『プサ ラ』 に 沿 って跡 づ け て い くと,当初 か ら事 件 へ の対 応 は 迅速 で あ った とい え る。す なわ ち,

1

9

6

5

9,1

0

月合 併 号 で は 刊 行 者 (最 高 指 導 10)この時 「特別指導部」を形成 したのは以下の 5 名の メンバーであった [MajelisLuhur1964: 1-3

]

Supardo S・H・,Wikana, Sutarto,Mob. SaidISelamatKitaLingga

次に 「助言者」 グループは次の 7名か らなって い た [loc.cit.]。

Sartono S・H

I

Hamengku Buwono IX

,

Dr・ Semaum

Sarino Mangunpranoto

,

OsaMaliki,Wardojo,Sjaifuddin Zufri

この内,Sartono,Sarino,OsaMalikiは著 名な 国民党活動家,Wardojoも国民党 々負で あった。なお,1964年 とい う反社会党の状況下 でタウヒッドは指導部か ら姿を消 していたが, 同 じ社会党系の知識人 と目され て い た サイ ド が,そのような状況下に もかかわ らず 「特別指 導部」に参加 していることが注 目される。サイ ドは,タマン ・シス ワ精神の体現者 としてジャ カルタのタマ ン ・シスワ学校のカリスマ的指導 者 として知 られていた。共産党書記長のアイデ ィッ トもその子弟をサイ ドが主宰す るジャカル タのタマ ン ・シス ワ学校に通学 させていた とい う(1975年サイ ド氏 とのイ ンタビュー)。なお, 1964年にサイ ドが 「特別指導部」に参加 したの は,デ ワン トロ夫人の強い要望に よるものでも あった とい う[B.S.Dewantara1979;124]。 - 153- 453

(8)

東南アジア研究 25巻3号

会議) 名で,次 の よ うな巻頭言が表紙裏に先 ず掲載 された。

-「読者諸兄-。本誌 の本号が まさに組み上

が ろ うとしていた時 , 自ら ``9月30日運動"

(Gerakan 30September)と名乗 る運動 の 結果 ,わが社会は混乱 のただなかにあ った。 権力の寒奪をめ ざす この運動は何名かの陸軍 の将軍 と士官を犠牲 に した。 こ こに 本 誌 を 通 じて ,全編集陣 及 び タマ ン ・シス ワ家 族 は以下 の ことが らを宣言 す る。 1.唯一 の神 が ``9月30日運動''(G.30S.)の危険か ら, <大統領 閣下/革命 の偉大な る指導者/共和 国軍最高指令官>を護 り給 うた ことに感謝す る。 2.G.30S.の非道 に よ り革命 の英雄た ちが犠牲 にな った ことに深い哀悼 の意を表す るとともに ,唯一の神がその霊を安 ん じ給 う ことを祈 る。 3.G.30S.は反革命 であ りそ の行為は人倫に背 くものであ って ,これを弾 劾す る。

4.

すべての人民に対 し, 民族 の統 一 と団結を達成す るべ く平静を保 ち ,警戒 の 念を強め る ように呼びかけ る。」[Penyele ng-gara 1965] これに次 いで 「編者 の言葉」が

2

ペ ー ジに わた って掲 げ られてい る。その前半 では ,逮 常通 りス カル ノをめ ぐる教育界の話題が提供 されてい るが ,後半では事件に関 して述べ ら れてい る。 ちなみに当時 の 『プサ ラ』編集陣 は編集長 ス ラ ッ トマ ン以下別記11)の通 りで , この体制は65年 中を通 じて不変 であ った。 さ てその 「編者 の言葉」 では ,事件 の経過が略 述 され る とともに 「ス-ル ト将軍 の10月1日 夜 の放送に よ り,ウン トンらに導かれ た行動 は権力奪取をめ ざす非合法的行為であ ること が 明 白とな った」 と明言 されてい る [ Reda-ksi1965a:ト2]。これ ら二つ の 文言が 正確 にいつ記 され たのかは不 明であ るが ,この時 点で陸軍寄 りの立場を 明示 してい る。 一方 ,タマ ン ・シス ワの 「公式」 の表 明は 10月5日付のデ ワン トロ夫人の声 明が もっと も早い もの で あ った。 「全 タマ ン ・シス ワ一 般指導者 ニ ・- ジャル ・デ ワン トロの声 明」 と題 された一文 は

3

項 目か らな り,ス カル ノ 大統領 の無事を神に感謝 し,タマ ン ・シス ワ の大統領に対す る忠誠を誓 うとともに ,大統 領が さらに壮健で革命を飯導 してい くよ うに 神の加護を祈 るも の で あ った [NjiHadjar Dewantara1965a]。ここでは,事件について の評価はい っさい避 け ,タマ ン ・シス ワが大 統領 と一体 であることを表 明す るに とどま っ ていた。 しか し,デ ワン トロ夫人は (おそ ら く同 日に), 以下 の通 りの電文 を陸軍省 に 宛 てて打電 した。 「ニ ・- ジ ャル ・デ ワン トロ 及び タマ ン ・シス ワ最高指導会議 とタマ ン ・ シス ワ全家族は ,9月30日事件において革命 の英雄たちが犠牲に倒れた ことに深い哀 悼の 意を表す る とともに ,御霊が神 の もとに安 ら かにあ らん ことを祈 る。 二 ・- ジ ャル ・デ ワ ン トロ」[N.H.Dewantara1965b]

それか ら約 3週間後の10月28日に ,デ ワン トロ夫人は 「全 タマ ン ・シス ワ一般指導者 の 声 明/指令1965年第 1号」 と称す る通告文 を 発 した。 タマ ン ・シス ワの内部に向け られた この通告は先 の

1

0

5

日声 明にひ き続 くも ll)1965年中の 『プサラ』編集陣は下の通 りであっ た 。 刊行者 タマン・シスワ最高指導会議 編集局 局長 Soeratman 書記 Himodigdojo 委員 HimlyJusuf,SelamatKita Lingga 補佐 (支局)負 Soendoro(ジョクジャカル タ), SarinoMangunpranoto(ブ タ ペ ス ト),Dra.A.Hendrarto Ds. (ジャカルタ),Drs.Sukandar(北 京),Drs.H.Soedjojo(オラ./ダ) 総務局 R.P.Sudarma ちなみに1964年中の編集陣もその中核となる編 集局のメンバーは65年 と同じである。66年 に なると編集局負のHimlyJusufと Selamat KitaLinggaに代わってSoehartoとNajono が登場する。 - 154

(9)

土 星 :タマ ン ・シス ワとイ ン ドネ シア現 代 政治 の」 とされ ,5項 目か らな っていた。骨子 は, 第 1に タマ ン ・シス ワは

「9

月30日運動」 と はかかわ りのない こと,第

2

「9

月30日運 動」 は反革命 であ ることが 明 らかに され た こ と,第

3

に タマ ン ・シス ワは反革命的分子 と 行為か ら 自己浄化す る義務 のあ ること,第4 にそのため の指示 は追 って通告 され る こと, 第5にす べ ての タマ ン ・シス ワ家族 は秩 序 と 安寧を達成す るために努 力すべ き こと, とい うものであ った

[

N.

H.De

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9

6

5

C

]

。 以上にみ られ る通 り,デ ワン トロ夫 人が10 月中に公表 した文 書は ,ス カル ノ- の全面的 支持 を表 明 しつつ ,陸軍 に弔電を打 ち ,一方 また ,事件 に関係 のない とい う防衛的立場を 示す な ど,タマ ン ・シス ワ内部 の さま ざまな 立場が微妙 に交錯 してい る状況が示 され てい る。先 の編 集部 の表 明が端的に軍寄 りなのに 比 して ,デ ワン トロ夫人 は この時点でなお タ マ ン ・シス ワの一体性を維持す る途 を摸索 し ていた とも考 え られ る。 なお ,これ までの段 暗では ,

"9

月30日運動 -共産党"

(

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pu-PKI)とい う定式は まだ現れ ていない。 『プサ ラ』 の内容それ 自身は この9,10月 号につ いてはす でにあ らか じめ予定 され てい た稿で埋 ま ってい るのに対 し,次 の

1

1,1

2

月 合併 号にな る と掲載論 稿その ものに変化が現 れ て くる。 先ず , 「編者 の言葉」 に おいて , それ まで 慣 例であ った ス カル ノ関 係 の 紹 介 が消 え ,冒頭か ら,

G.

S

OS.

の背後 に共産党 (PKl)が存在 していたに とどま らず , そ の 立案遂行者 であ った と主張 され る。 「事件 は, 共産党に よる正統 な政権 の奪取 で あ り反乱で あ る

」[

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1]とい うのであ る。 さて本誌 の内容を な す 6本 の 稿 の うち,

『婦人問題』 に関す る革命 の偉大な指導者 プ ンカル ノの教 え」 (この 「プ ソカル ノの教 え」 も

6

5

年 当時 シ リーズ物 として巻頭論 稿をな し ていた) はか5本は ,歴 史や言語や家庭生活 について の教養記事 であ るが ,それ らとは別 に ,編 集長 ス ラ ッ トマ ンが

G.

30

S.

開始時 の タマ ン ・シス ワ」 と題す る論評を 「ス カル ノの教 え」 に次いで執筆 してい るのが注 目さ れ る。

7

ペ ー ジほ どの論 稿であ るが ,これ は もちろん 『プサ ラ』 に事件に関す る論評が タ マ ン ・シス ワ自身 の問題 と して取 り上 げ られ た最初 の ケースで あ る。 その中で ス ラ ッ トマ ンは ,創立以来 の 「学校 に政治を持 ち こまな い」 とい う原則 を共産党が踏み に じって きた ことを ,浸透工作 の具体例を あげなが ら非難 してい る。 そ こでは ,最高指導会議- の浸透 辛 "影 の最高指導会議''の成 立については じ めて公表 され てい る。 論 稿の最後 に彼は 自ら 次 の よ うに状況を要約 してい る。 (1)

「9

3

0

日事 件」 の過程 で ,中 ジ ャワの い くつか の タマ ン ・シス ワ学校 が事件に関連 していたために閉鎖 され た。(2)共産 党が タマ ン ・シス ワを党勢 力の拡大 のために利用 して きた結果 ,タマ ン ・シス ワの家族的共 同性 の 精神は浸蝕 され て しま った。 (3)タマ ン ・シス ワはいか な る特定 の政党 の影響 も受 け ること な く, 自らの独 自の進歩的革命的個性に よっ て国家 と民族 と革命 に貢献す る ことを通 して のみ ,再 び安寧を うる ことが で きる。(4)

「9

月30日事件」 は突発事件 では決 してな く,す でに社会 の各方面 にわ た って長期 に綿密 に練 られ て きた計画 の結果 なのであ る。 (5)現 在 の この混乱状況 か ら脱す るため には , しか るべ き政治的軍事 的行動 のはか に ,思想精神面 で の作戦

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が必 要 で あ る。 そ のため に ,イ ン ドネ シアの全 国民が パ ンチ ャシ ラを血 肉 化 す る

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努 力を行 うことが 不 可欠で あ る

[

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5:6

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2

]

この一文 に窺 え るのは

,

Fプサ ラ』編集陣が ス ラ ッ トマ ンを 中心に していち早 くタマ ン ・ シス ワの陣容を立て直す 活動を始 めた とい う ことであ る。 内紛を暴露す る とい う強行手段 とパ ンチ ャシラ的人間を生 み 出す 努 力をいち - 155- 455

(10)

東 南アジア研究 25巻3号 早 く提示 して

9

3

0

日事件」 以降 の教 育の 方 向を先取 りしよ うと した ことは ,そ の具体 的な現 れ であ った。

2.1

9

6

6

年 の状況 (1) タウ ヒ ッ ドの復帰

1

9

6

6

年 において タマ ン ・シス ワ内部 でなお どの よ うな角逐や経緯 が あ ったのかは必ず し も定かではないが

,6

6

年 中の最大 の出来事 は

1

2

5

日か ら

1

0

日まで 「第

1

0

回 タマ ン ・シス ワ全 国大会」 が

1

9

6

0

年 以来

6

年振 りに開催 さ れて

,

「新体制

」(

Or

deBar

u)

に適 う新 しい態 勢 と陣容を ととのえ ,長期 にわ た った 内紛を ひ とまず鎮 静化 した ことであ った。 この過程 で顕 著で あ った ことは ,新世 代 の リー ダー と して ス ラ ッ トマ ンが一 層頭角を現 して きた こ とと,タ ウ ヒ ッ ドが 中央 指導部 に復 帰 して , タマ ン ・シス ワの 「旧体制

」 (

Or

deLama)

ことに共産 党系 の清算に もっとも精 力的 に働 いた ことで あ る。併せ て また この両名 は ,ジ ャカル タで の中央政治 の政治過程に敏感 に反 応 しつつ ,次 第に ス カル ノ色を タマ ン ・シス ワか ら薄 め る とともに ,ス-ル トを 中心 とす る 「新体制」 の一翼を積極的に担 う立場 を 明 示 してい く。

1

9

6

6

年 中 の 『プサ ラ』 も

6

5

年 と同様 に

2

カ 月合併 号 の体裁 で 6回刊行 され てい るが ,各 号 の 「編者 の言葉」 か らス カル ノ大統領 をめ ぐるニ ュー スが消 えス-ル トを 中心 とす る政 治動 向が毎号伝 え られ る よ うにな った のが大 きな変化 であ る。 特 に

3,4

月合併 号では ,

3

1

1日の権 力 委任状 (いわ ゆ る

"

Supe

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'')の全文 が いち早 く掲載 されてい る

[

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9

6

6:8

]。 これ に よ りスハル トは秩 序回復 のため の全権 を委ね られ ,ただ ちに共産党解散令を発す るのは周知 の通 りで あ る。 タマ ン ・シス ワでは5月 に 入 って , 「一般 456 指導者」 名 において ,第

1

5

次最高指導会議 の 陣容が発表 され た。 これに よ り

1

9

6

4

1

1月に 結成 され た指導部 , ことに , 「特別指導部」 の解散が表 明 された。 これ と 同 時 に ,議長 ワル ドヨ,教 育部長 ス ラ ッ トマ ン,組織部長 ス プ ラプ ト,財政部長 タウ ヒ ッ ド,福 祉部長 スル ヨプ ロ トが ,

5

2

6

日付 で 任 命 さ れ た

[

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9

7

4:Suppl

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,5]

が , この中で注 目すべ きは

,1

9

63

年 以来指導会議 の メンバ ーか らはずれ ていた タウ ヒ ッ ドが復 帰 した こ とであ った。 これ と軌を一 に して , 66年 7月以降 ,タウ ヒッ ドは 『プサ ラ』 の編 集主任

(

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e

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)

として , 編集陣 に 名 を 連 ね る とともに ,同月号以来 旺盛 な執筆活動を 同誌上 において展開す る ことにな った。 タ ウ ヒ ッ ドの言論活動 は

6

6

5

,

6

月 合 併 号 に 載 せ た 「封建 的呼称を廃止 し変更す る こと」 とい う一文 を もって 再 開 され た

[

Tauc

hi

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1

96

6

a:2

3

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6

]。一文 の趣 旨は

,

「閣下

」(

Pa

-dukaYangMul

i

a)

な どに 代表 され る 封建 的 呼 称 を 止 め て

Bapak,l

bu,Saudar

a

な どの呼称に代 え よ うとい う 「人民代表会議」

(

MPRS)

の決定に 賛意を 表 しつつ- この 決定 は ス カル ノ大統領 の権限 と権威 を低下 さ せ る一連 の こころみ のひ とつ と して行われ た - ,どの よ うに呼び名を変 えてみ て も,そ れ を取 り巻 く精 神が封建 的な ままであ るな ら ば ,事態 の本質 は ま った く不変 であ る ことを 厳 しい筆致 で訴 え る ものであ った。かつ ての ガ ジ ャマ ダ (スデ ィヨノ ・ジ ョヨプ ライ ッ ト ノ) をただ ちに想起 させ る よ うな ,禁欲主義 の主張 の激 しさ12)は ,タ ウ ヒ ッ ドの晩年 の論 稿か らその死に至 るまで一貫 して認 め られ る ものであ った。 (2)

1

9

6

6

1

2

月大会 タマ ン ・シス ワの第

1

0

回全国大会は

1

9

6

6

年 12)ガジャマダ (スディヨ ノ・ジョヨプ ライット ノ)の思想については [土屋 1982:309-333, 461-465]を参照。 - 156

(11)

土産 :タマ ン ・シス ワとイ ン ドネシア現代政治 12月5日か ら10日まで ジ ョクジ ャカル タにお いて開催 され た。これ に先がけて 『プサ ラ』の ll,12月号はほぼ全ペ ー ジを大会準備のため についや してい る。 大会-向けて の提案は , 教育部長 ス ラ ッ トマ ンと財政部長 タウヒ ッ ド に よって行われたが ,両名 ともに ,具体的な 提案 でな くタマ ン ・シス ワのあ るべ きかたち を再確認 し今後 の方 向を指示す る とい う総論 的な決意表 明 で あ った。 「タマ ン ・シス ワ教 育の柱石」 と題す るス ラ ッ トマ ンの提案は

1

0

月22日付 で執筆 された もので あ り,「G-30-S/ PKI に よって一体性を破壊 された とい う誤 りを二度 と く り返 さないために」 タマ ン ・シ ス ワの原則を再確認す る ことを趣 旨 としてい た [Soeratman 1966:2-18]。 骨子 は , メ マ ン ・シス ワの五原則 (パ ンチ ャダルマ)が 国是 であ るパ ンチ ャシラと適合 しこれ とパ ラ レルの関係 にあ ること,と くに ,パ ンチ ャダ ルマの 第 1項 KodratAlam とは , 神 の被 造物 としての人間 と自然に賦与 された力であ って ,パ ンチ ャシラ第 1項 の 「唯一神へ の信 仰」 と同 じ内 容 で あ る こ と。 タマ ン ・シス ワは , かね て か ら,"zendings-arbeid"と "reddings-arbeid"(す なわち , 家族的共 同 性を創 出す る とい う伝道的役割 と教育活動 を行 うとい う実 践 的 役 割) の 「二重機能」 (du且pungsi)を有 して きた こと。 教育 シス テムにお い て ほ ``tutwurihandayani"と い う理念を遂行 して きた こと。 政治 と教育の 分離を掲げて きた こと。 この よ うに ,ス ラ ッ トマ ンの論 稿は タマ ン ・シス ワの 「正統 な道」 を,1922年 以来 のそ の正史の中にひ もといて再構成す る とい う立 場 を持 していた。 一方 「タマ ン ・シス ワを再建 しその闘争 を 継続す る」 と題す るタウヒ ッ ドの提案は ,当 時財政 部 長 で あ った 彼 が タマ ン ・シス ワの "Zelfbedruipingssysteem"(自助 ・自立 シス テム) とい う原則 の再点検を行 うものであ っ た [Tauchid 1966b:19-54].36ペ ージ に もわた る長文 の この論 稿の骨子は ,自立の原 則を支 えるのは禁欲 と献身 とい う精神 の緊張 感であ る,これが あ って こそ ,タマ ン ・シス ワほひ とつ の共 同体 として成立 しうるのであ る し, 逆に これがなければ ,PKI/Gestapu の徒の侵入を許す ことにな るのであ る。 い ま こそ タマ ン ・シス ワは創立の精神に立 ち帰 っ て ,これを再建 しなければな らない。 そのた めに必要 な資 金は 自己調達が可能であ る (メ ウヒ ッ ドは10ペ ー ジに もわた って計算 の基準 を示 しつつそれを証 明 してい る)。 『プサ ラ』 は この二つ の 提 案 の ほ か に , サ イ ド(Mohamad Said,1917- 1979)の 「Mawasdiri」 の 稿 を 載 せ て い る [Said 1966d:63-65] (サ イ ドについ て は 「おわ り に」 で触れ る)。 そ して 最 後 に MPRSの1966年7月5日 付の教育に関す る決定 [MajelisPermus ya-waratan Rakyat Sementara Republik

indonesia 1966:66-67](「教育 の 目的は其 のパ ンチ ャシラ的人間を形 成 す る こ とに あ る」 と規定)及 び陸軍 のセ ミナーの討議 の抜

粋 [Kodam VII/Diponegoro 196 6:68-69]を 掲 げてい る。 1966年9月8日付 で 記 され て い る こ の 抜 粋 は ,「新体制」(Orde Baru)の 内容にかかわ ってい る。 そ の 骨 子 は , 「旧体制」 とは PKIとそ の同調者 に支 配 された Gestapu以前 の 秩 序 の こ とで あ り, それゆえ ,PKIは 「新体制」 に とって 第- の敵であ る。「新体制」 とは1945年憲法 とパ ンチ ャシラの精神 ,- なかんず く唯一 の神-の信仰 とい う原則- を実現す る こと をめ ざす。 「新体制」は個人崇拝を認めない, しか し,それは ,強 固 な 指 導 性 pimpinan (leadership)と強 力な政府を否定 す る も の ではない ,む しろ建設 の時代においてはその よ うな方 向性が望 ま しいのであ る。 巻末 に さ りげな く載せ られた この抜粋は重 - 157- 457

(12)

東 南 ア ジア研 究 25巻3号 要 であ る。 そ こには , 「新体 制」 の中に 当初 か ら芽生 えていた リー ダー シ ップのあ り方 に タマ ン ・シス ワが ま ことに敏感 に反応 してい る ことが窺 え るか らであ る。 (3) 大会決議 と新指導部 第

1

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回大会で の決定事項 は次 の よ うな もの で あ った

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「教育及 び文化

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日付), 「宗教教育

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日付),及 び 「社会経済」 (10月 9日付) について の声 明が 最高 指 導 会 議 の名 において発表 された 。次 に

,

「タマ ン ・ シス ワ家族 と支持者へ の呼びか け

が 同 じく 最高指導会議 の名 において

1

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日に発表 さ れた。最後に

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日付 で ,新 しい指導部 の陣容が ととのえ られ た。 これ らの各 々につ いて以下 にみてい こ う。 三種 煩 の声 明はいずれ も政府 に対 して要請 を行 うとい う体裁を とって い た。 こ の うち 「教育及 び文化」 声 明 では , 現行 の 教 育関係 の法 案 の見直 し,パ ンチ ャシ ラ教 育実現 のた め の手 引 き書 の作成 ,文化 の各領域 を規定す る国民文 化法 の制定 な どを ,政府 に要請す る ものであ った。 また , 「宗教教育」 の声 明で は学校 で積 極的な宗教教育を行 うべ きことが 要請 され , 「社会経済」 の声 明では , 日常生 活物資 の引下 げ と教育費 の援助が要請 され て

た 。 次 に 「呼 びか け」 では ,タマ ソ ・シス ワを 文 化 闘争 の団体 で あ る と と も に 新社会建設

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の団体 であ る と規定 した上 で ,

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に よ って破壊 され た タマ ン ・シス ワ家族 の根本を 再建す るため に ,この大会 以降 団結 の力を強 めていか なけれ ばな らない ことが強調 され て いた。 「声 明」 も 「呼びか け」 もこの よ うに 「新 体制」 へ と同調 してい く傾 向を一層は っき り

と示 していた。

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に 代表 さ れ る 「新体制」 側 の キー ワ 458 - ドが 頻用 され る一方 ,ス カル ノ大統 領へ の 言及 はほ とん どみ られ なか った。 この よ うな 「声 明」 や 「呼びか け

以上 に 重要 で あ ったのは ,この大会で ,第

1

6

期 の新 しい指 導部 の陣容が ととのえ られ た ことであ 13)第16期の陣容 は以下 の通 りで あ る[Majelis Luhur1967a:7-8]。

一般指導者 NjiHadjarDewantara

個 人助言者 NjiRatih Saleh Lahade

個人補 助者 SarinoMangunpranoto

最高指導会議 議長 Wardojo

第1副議長 MochammadTauchid

第2副議長 Mochammad Said

第3副議長 MochammadTachir Huseini

部会代表 Soeratman

組織部会長 Suprapta

教育部会長 Soeratman(兼任) 家族部会長 S.Surjobroto

財政部会長 Wirjah Sastrowirjono

事業 ・開発部会長 M.Tauchid(兼任)

各地代表委員 (17名)

SugondoKartoprodjo(メダン),Aman

(メダン),Tugino (スソゲイゲロン-パ レンバ ン),Drs.Wan Achmad(パ レ

ンバ ン),SlametDjajaseputra(テレッ クブ トン),SarinoMangunpranoto(ジ ャカル タ- 兼 任),Sudiro(ジャカル タ),Urip Supeno(ジャカル タ),I.H. Koesmani(ス マ ラ ン), PeniDeblot Sundhara(ジョクジャカル タ),Sajoga

(ジョクジャカルタ),S.A.Soedibjo(ジ ョクジャカルタ),Najono(ジョクジャカ ルタ),Bambang Suparto(スラバヤ),

Mudiomo(ス ラバ ヤ),Dr.Soendoro

(スラバヤ),MaktalSudarsono(プロポ リンゴ)

法務委員会

議長 Drs. Ⅰrpan Kusumahadibrata B.Sc.(ジョクジャカルタ)

委員 Dra.DarsitiSoeratman(ジョク ジャカルタ),Walipah Mudiomo S.H.(スラバヤ),TurkiTjokr

o-prawiro(プルオ レジョ),Pudji Atmowidjojo(ツー レン- マ ラ

ン)

監査委員会

議長 Rachmat(チ レンポ)

委員 Tugiman (ジ ャカ ル タ), Noto Budisajoga(マラン)

(13)

土屋 :タ マ ン・シス ワとイ ン ドネ シア現代 政治

る。

指 導部 は , 「一 般 指 導 者

(デ ワン トロ夫 人) とそれ - の2名 の助 言者 (デ ワン トロの 次 女 に 当 た る

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サ レ ・ラ-デ 夫 人

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及 び サ リ ノ

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が上 位 に おかれ , これ とは 別 に 「最高指 導会議」 が構 成 され た。 そ の任 期 は1966年 か ら70年 まで と定 め られ た。 構 成 は 議長

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以下 副議長

3

名 ,各部 会 代 表 1名 ,

5

部 会 の部 会長 か らな る中央指 導部 と,17名 よ りな る各地方 代表 委 員 ,法 務委 員 会 ,監査 委 員会 の四つ の カテ ゴ リー よ りな っ ていた。 なお 「長老 団」 はそ こで は結成 され なか ったが,1971年 以降復活 す る こ と に な る。 そ の一覧 は注13)に掲 げた通 りで あ るが , これ に よって ,タマ ン ・シス ワ指 導部 は1950 年 以来続 いた 内部抗争 に名実 ともに結着 をつ けた。 この構成 か ら注 目され る こ とは次 の諸 点 で あ る。 第 1は ,タマ ン ・シス ワ関係者 で 当時 の文 部 大 臣で あ った サ リノが ,デ ワン ト ロ夫 人 の助 言者 及 び ジ ャカル タ代表 委 員 と し て重 要 な役 割を担 っていた こ とで あ る。 国民 党活動 家 と して著 名 で あ った サ リノが この時 期 に文 部大 臣に就 任 していた こ とは , タマ ン ・シス ワに とっては大変 好都 合 な こ とで あ っ た。14)第2は,1965年 前後 に おいて重 要 な役 割 を果 た した ス ラ ッ トマ ン,1966年 以後復 帰 した タ ウ ヒ ッ ドの両 名が この大会 で あ らた め て指 導部 の中核 を 占めた こ とで あ る。 す なわ ち ,ス ラ ッ トマ ンは各部 会 代表 と教 育部 会長 14)サ リノの文部大臣としての就任期間は,1966年 7月25日か ら67年10月17日までの「Ampera 内閣」時代の15カ月間であ り,タマン・シスワ が 「新体制」に向けて適合をしてい く上でもっ とも重要な時期であった。 サ リノは1910年 に 中ジャワの プルオ レンジ三に生 まれ,1932年 以来 タマン・シスワ学校の教師となった。独立 後は,国民党の指導者 として頭角を現 し,文部 大臣のほか -ソガl)一大使 (1962年∼66年) をつとめ,晩年はタマ ン・シスワの 「長老団」 のひとりであった (1971- 83年)01983年に死 去。 を兼務 し, タ ウ ヒ ッ ドは第

1

副議 長 と事業 ・ 開発 部 会長 を兼務 した。事業 ・開発部 会 は , 「新 体制」 に沿 うために新設 され た部 会 で あ り,タ ウ ヒ ッ ドは これ 以後 精 力 的 に 活 動 す る。 ちなみ に デ ワン トロ夫 人 の死後 は ,タ ウ ヒ ッ ドが 「一般 指導者」 の地 位に就 き,1976 年 以降は ス ラ ッ トマ ンが そ の 任 に 就 い て い る。 (4) 「教 育記 念 日」 問題 (1967年 5月) この大会 に は文部 大 臣の資格 でサ リノが 出 席 したほか ,来 賓 と して 当時 のデ ィポネ ゴ ロ 師 団長 ス ロノ少将 も出席 し て 祝 辞 を 述 べ た

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1967b・・23-27]。タマ ン ・シ ス ワは この大 会以降 ,一 層 「新体制」 寄 りの 姿勢 を強 め た。文 部省 との関係 も緊密 化 し, 補 助 金を積 極的 に受 け入れ て教 育施設 の拡充 を はか り,私学校 の教 育機 関 と して順 調 に発 展 して きた。 この過程 に おい て , タマ ン ・シ ス ワが 直面 したひ とつ の 問題 は , 「教 育記 念 日」 に関 して あげ られ た タマ ン ・シス ワ批 判 で あ った。 これ は,1967年4月か ら5月にか けて生 じたが ,当時 ,大統 領 代行 に就 任 した ばか りの ス-ル トが , タマ ン ・シス ワを積極 的 に評価す る方 向を示 した こ とは ,そ の後 の 政 府 とタマ ン ・シス ワの関係を 規定す る うえ で ,大 きな意義 を もっていた とい え よ う。 そ こで 以下 に この問題 を概観 して お きたい。 イ ン ドネ シア共和 国は,1959年4月に デ ワ ン トロが死去 した のち ,

1

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日付 で 彼 を 「国民英雄」と定 め , さ らに,12月16日付 の大 統 領 令 (1959年316号) に よって,デ ワン トロ の 誕 生 日で あ る

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日を 「国 民 教 育 記 念

」(

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(ただ し この 日は休 日と しない) と定 め た。 この よ う に ,デ ワン トロが 「国民英雄」 とされ そ の誕 生 日が 「記 念 日」 とされ た ことは ,デ ワン ト ロのみ な らず タマ ン ・シス ワそ の ものが 国家 と国民 に対 して もつ意義 を あ らためて公式 -三 乗認 され た こ とを示 していた。 - 159- 459

(14)

東 南ア ジア研究 25巻3号 しか るに これに対す る公然た る疑義が1967 年 にな って 表 明 された。 先 ず こ の 年 の

4

月 14日に ,「教師同盟幹部会

」(

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)

「5

2

日を国民教育記念 日とす ることを拒 否す る」 旨の決定を 行 な った。 そ の 理 由 の 骨子は以下 の よ うな ものであ った

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1968:72]。 5月 2日を記念 日とす る の は 個 人崇拝 の しる Lであ って ,これは 「新体制」 及びパ ンチ ャシラと1945年憲法 の精神に対立 す るものであ る。 デ ワン トロは決 して崇拝 さ れ るべ き唯一 の教育 の先覚者ではない。 しか もタマ ン ・シス ワは

PKI

宣伝 の道具 とされ た。 またその

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の 概 念はパ ン チ ャシラの うち最重要 の柱 である 「唯一 の神 への信仰」を失わせ るものであ った。教育記 念 日として もっともふ さわ しいのは (文部省 が正式に発足 した)11月25日であ る。 この 日 こそ国民が英雄的な闘争に立 ち上が ることを 決意 した 日なのであ る。 さらに

4

月26日には , 「イ ン ドネ シ ア教 師行動隊

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の 中央指導部決定が ジ ャカル タ で公表 された。それは 「指命 :

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日を国 民教育記念 日として祝 うな !」とい う戟 閲的 な もので,その内容はほぼ以下 の通 りであ っ た [ibid.:70-71

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日を記念 日と定めたのは

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の 文部大臣 プ リヨ ノの提言に基づいて ,その当時の大統領決定 として定め られた ものであ り,かつ ,タマ ソ ・シス ワのデ ワン トロは唯一 の国民教育の指 導的人物ではない。す でに ,現在

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傘 下 の さまざまな教師連盟が これについての決 議を採択 してい ることにかんがみて以下 の決 定をす る。 (1)5月2日を記念 日とす る こ とを 拒 否 す る。(2)イ ン ドネ シアの全ての教師に対 して こ の 日を記念 日として祝わない よ うに との指令 を発す る。(3)

KAGI

傘下 のすべての地方支 460 部 の関係者に ,依然 として 「旧体制」 の上に 安住 してい る文部省内の分子に対す る警戒 の 念を強め るよ う指令す る。(4)立法府に対 して ただちに新 しい教育記念 日を設定す る よ う要 求す る。(5)

KAGI

は今後 も一貫 して,1945 年憲法に則 って教育の民主化達成 のために闘 うものである。 これ ら二つ の声 明にみ られ る通 り,そ こで はデ ワン トロの個人崇拝を否定す るだけでな く,タマ ン ・シス ワその もの-の攻 撃が公然 とな された。 この

KAGI

は ,さまざまな私 立学校 の教師 の連合体であ ったが ,彼 らは , タマ ン ・シス ワと 「旧体制」 (具体的 に 文 部 省)が密接な関係にあ った ことに併せて疑義 を皇 していた とい って よい。 5月2日を 目前に控 えてな された この よ う な攻 撃に対 して タマ ン ・シス ワ自身は何 らの 公式 の反論 も示 さなか ったが ,この問題 は , 記念 日当 日に ス-ル トが大統領代行 の名にお いて , 「開発を 達成す るための 教育を」 とい う趣 旨の演説を行 うことに よって ,一挙 に結 着をみた。演説は冒頭か らデ ワン トロの名を あげて ,民族教育の樹立に貢献 した彼の偉大 な功績を讃え るために 5月 2日を記念 日とし て定めた ことをあ らためて明言 し,パ ンチ ャ シラ精神に もとづいて開発を達成 し公正で繁 栄 した社会をめ ざす ことに今 日の教育の第一 の任務が あると説 き

,

「さあ諸君 ,本 日,1967 年5月2日の この良 き 日を ,国民教育を実現 す るための新 しい出発点 としよ う」 とい う言 葉で しめ くくっていた [ibid.:72-74]. この演説は ,教育記念 日に関 してデ ワン ト ロとタマ ン ・シス ワの意義を保証 した とい う 点で重要 であるとともに ,これ以後 ,パ ンチ ャシラ精神の教育 とい うことが らが ,公民教 育 と政治教育の根底におかれ るよ うにな った とい う意味で も重 要 で あ った。 事実 , こ の 演説 の直後か ら,デ ワン トロの功績を再確認 す る主張 や パ ンチ ャシラ道徳

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