イ ン ドネ シアの都市人 類 学
Urban Anthropology in Indonesiaイ ン ドネ シアの都市 にみ る種 族 結合 :
ネ ッ トワー クと同郷 会
加
藤剛*
Urban Etlm icity in Indonesia:Networksand I.ocality-based Associations
K ATO Tsuyoshi*
Indonesian cities, espe cially Jakarta,have
variouslybeencharacterizedashavingapol y-cthnicprofileasoneoftheirsalientfTeatures.It
issaidthatIndonesiancitiesare"apluralsociety" (H.Geertz),"amosaicofethnicgroups"(J.D. Legge),and"acountryinacity"(W.Mertens). These characterizations all indicate that lndonesiancitiesareamicrocosm orthecountry
,
reflecting the ethnic diversity of Indonesia's population. Itseemsthatonecanhardlydiscuss Indonesiancitieswithoutdulytakingintoc on-siderationthequestionofethnicity.
Despitesuchpresumption,verylittlehad,for alongtime,actuallybeenstudiedabouturban ethnicityin Indonesia. A pioneerinthisfield ofstudiesisEdwardBruner,whofirstconducted researchamongTobaBatakmigrantsinMedan in1957-1958,andlaterinBandungandJakarta in1970. Itwasonlyfrom thelate1970S,twenty yearsafterBrun er'sinitialresearch,thatother scholarsbegantotakeanactiveinterestinthis topic. In addition to theirworks,studieson Indonesian urbanization and migration,which werelargelyinitiatedintheearly1970S,some
-* 京都 大学 東 南 ア ジア研 究 セ ンター;TheCenter forSoutheastAsianStudies,KyotoUniversity
timespresentresearchfindingsrelevantto the consideration ofethnicityin Indonesian cities. Alsoavailablenowareaconsiderablenumberof M.A.theses completed atthe University of Indonesla,Whichdealwithurbanethnicitybut hithertohaveseldom beenreferredtobyscholars concemedwiththistopic.
Inview ofthisincreasingvolum eofliterature touchinguponurbanethnicity,itwillbeuseful toreviewsomeofits丘ndings,particularlyifthis canbedonewithinaframeworkwhichallowsus torelatetoeachotherthevariouswaysinwhich urban etlm icity is expressed in Indonesia. Examples ofurban ethnicity are copious in personalanecdotesandscholarlyworks;butit remainstobeseenhowtheyareinterrelatedina meaningfulfashion. Thepresentpaperisi n-tendedtobeafirststeptowardtheamelioration orthissituation
iproposethreefTormsin whichurban ethnicity isexpressedinIndonesia:(1)networksoffamily members,relatives,andpeopleofthesamelocal orlgln,allofwhom generallyshareanidentical ethnicbackgroun dinIndonesia;(2)quasi-ethnic associationssuchaskin-basedassociations(e.g.
,
Javanesetrah),clan-based associations (e.g., TobaBatakmar・ga associations),and locality
-東南アジア研究 23巻4号 based associations(e.g.
,
Minangkabau villageassociations),whichallimplicitlyandsometimes expIicitlyincorporateethnicityasaprlnCipleof group-form ation;and (3)ethnic associations, Someexamplesofwhichareethnicdance-a nd-music groups,ethnic students'unions,ethnic religious organizations, and etlmic political organizations,whichutilizeetlmicityasamajor principleofgroup・form ationandarcestablished byand forun S阿 ified membersofan ethnic group,usuallyforspecificpurposes.
Thispaperhastwo limitedaimswithinthe scopeoftheaboveframework:(1)toreviewthe literature on networks,and (2) to consider 1ocality・based Minangkabau associations
,
through literaturereviewandthrough myresearch in Jakartain 1980-1981. TheMinangkabau caseissingledoutbecauseithasbeenrelatively wellstudied;itsexaminationwillhopefullyreveal how networks and one type ofquasi-ethnic associationarerelated.
The mostextensive literature on networks relatestoJakarta. Research丘ndingsshow that networksbasedonkinandcommonalityoflocal ongln arealmostuniversalamongthevarious ethnicgroupsinJakarta,forexample,Javanese,
Sun danese, Minangkabau, Batak, Bugis,
Gorontalo,and Madurese. Thenetworksare foundtooperateintheprocessesofmigration d∝ision-making,rural-urban migration,urban adaption, and rural・urban contacts. Such
多種多様 な文化的 タ コツ ボ の メ ンバ ー は, 商 莱,政治, あるいは 商店,役所 においては, 日常 的接触があるや もしれない。 しか し, 若干の例外 を除 き, (他 の面 では)お互い距離を 保 っている。 「複合社会」 とい う言葉 が, イン ドネシアの都市 ほ どぴった りあてはまるケースは,他 に類 をみな い. H.Gcertz【1967:34】 ジャカル タ は種族集団の形作 る モ ザ イ クで あ り, ジャカル タ外 に存在す る (種族 間の)競合閑 は じ め に 「複 合 社 会」(pluralsociety), 「種 族 の モ ザ イ ク」(mosaicofetlm icgroups), 「都 市 の な か の 国」(acountryinacity)- イ ン ドネ シ
392
networks are also mentioned in studies of Bandung, Yogyakarta, Semarang, Ujung Pandang,andM¢dan.
Studies ofluality-based Minangkabau as
-sociationsindicatethattheyoftendevelopoutof pre-existingkin/locality-basednetworks. Net -worksand locality-based associations in fact sharesimilarfunctions,such asprovidingas -sistanceinthecaseofmisfortuneandpromoting socialintcractionsam ongtheirmembers. Then, whydolocality-basedassociationsemergeatal1? (Orwhydotheynotinsomecases?) Sixfactors areimportantinconsiderationofthisquestion: (1)socialnormsandtraditionsinthehomeland whichmayencouragetheform ationofloc礼)ity -basedassociations;(2)socio-politicalstatusofan ethnicgroupinagivenurbansetting;(3)needs ofanurbanmigrantcommunity;(4)needsofthe localityoforigin;(5)historicalcircumstances; and(6)existenceofleadershipinaurbanmigrant com unity.
Locality-basedassociationsarevariableinthe courseoftheirorganizationallife. Wealways should try to study th〇m diachronically with properattention to thesixfactorsmentioned above. Inasequeltothepresentpaper,Iplan to document the history of locality-based Minangkabau associations from the early twentiethcenturytotheearly 1980S. Ihope thereto explicatemorefullythedynamicsof locality-basedassociations. 係を縮図 のように再現 している。 そ して ジャカル タ社会の構造 は,よ りひろ いイ ン ドネシア社会 に み る対立 を,際だ った形 において映 し出 して もい るO Leggel1964:169] ジャカル タは, まった くもって都市のなかの 国 である。それは, 自分・の運を, この イン ドネシア 文化の るつ ぼのなかで作 り直そ うと, イン ドネ シ アの隅 々か らや ってきた人 々によ り構成 されてい る. Mertens【1976:501 ア の 都 市 は , 種 族 を 軸 に して い ろい ろ と特 徴 づ け られ て きた 。 これ らの 表 現 に共 通 す るの 描 , イ ン ドネ シア の都 市 , な か ん ず く首 都 ジ ャカ ル タが , 多 種 族 国家 イ ン ドネ シアの 投 影 で あ る とい う認 識 で あ る。
イ ン ドネ シアの都市住 民 が,多様 な種族 の 寄 せ 集 めで ある とい う事 実 以外 に, 多 種族 か らな る都市 で の生 活 自体 が,種族 意識 を活 性 化 させ る現象 も,す で に以前 か ら指 摘 され て い る と こ ろ で あ る [Skinner 1959: 81。 H. ギ ア ツいわ く, イ ン ドネ シアの都市 に住 む地 方 出身者 は, 己の 出身地域 な い し出身 種族 の 文 化 と,「都 市文化 」 との 二 つ の 世 界 の 間 に 生 活 して い る 【Geertz 1967: 3610 ど うや ら, わ れ われ は,「種族」 (ethnicity) を抜 きに して イ ン ドネ シアの都市 を語 るわ け にはい きそ うもない 。 Ⅰ 「都 市 の種 族」 研究 の概観 上 に述 べ た よ うな予感 に もかか わ らず,実 際 には,種族 を正 面 に据 えた都市 研 究 は, イ ン ドネ シアには驚 くほ ど少 な い。 この分 野 で 先 鞭 をつ けたの は, アメ リカの人 類 学者 ブル ー ナ-で あ る。北 スマ トラ出身 の トバ ・バ タ ック(TobaBatak)族 の都市 移住民 を中心 に, 彼 は 1957-1958年 にスマ トラの メ ダ ン市 で, 1970年には ジャワのバ ン ドン市 と ジ ャカル タ 市 で それ ぞれ調 査 を行 な った。 バ タ ック族 は 幾 つ か の下位 種族 を包摂 し,大 き くは キ リス ト教 徒 とイス ラー ム教 徒 の グル ー プに分 か れ る。 そ のなか で も,研 究対 象 とされ た トバ ・ バ ク ックは代 表 的 な キ リス ト教 徒 の種族 で あ る。 ブル ー ナ-の調 査 の 内容 は、 都市 の 移住 民 と故 郷の村 との関係 , 父 系制 社会 で あ る ト バ ・バ タ ッ クが,都 市 で 形 成 す る 父 系氏族 (marga)会 の活動 , メ ダ ン, ジ ャカル タ, バ ン ドンとい う三 つ の都市 にみ る父 系氏族 会 あ る い は バ タ ック族 全 体 の た め の 親 睦会 の 比 戟 , さ らには都 市 の トバ ・バ タ ック社 会 に適 用 され る "バ タ ック理念" の分析 な どで あ る lBruner1959;1961;1963;1972;1974]
.
ブル ー ナ-の最 初 の調査 か ら四半世 幕己以上 た った に もか か わ らず ,残念 な が ら彼 の研 究 以外 , イ ン ドネ シアの都 市 の種族 に関す る研 究 蓄積 には,長 い 間 あ ま り注 目す べ き もの か な か った。 彼 の 調 査 以降, 「都市 の種族 」 (urbanetlm icity)に関す る研究 の 試 みが, イ ン ドネ シアで皆 無 で あ ったわ けで はない。 オ ランダ時代 お よ び独 立後 の二次 的 資料 を使 い な が ら, ジ ャカル タ 市 の 種 族別 人 口構 成 の 分 析 を 行 な った キ ャス ル ズ の 研 究 【Castles 1967】は, この 間の重要 な業績 の一 つ で あ る。 ほ か な ら ぬ ブル ー ナー 自身 も,1970年 の バ ン ドン調査 において は,主 と して イ リノイ 大 学 にお け る彼 の指 導下 の人 類 学 部大 学 院生 を動 員 し, バ ン ドン市 在 住 の トバ ・バ タ ック 族 , ミナ ンカバ ウ(Mhangkabau)族 ,ス ンダ (Sunda)族 , ジ ャワ (Java)族 の比 較研究 を試 みて い る【Brun er 197010しか しな が ら,ニ ュ ー ヨー クに本 部 を お く SEADAG (Southeast AsiaDevelopmentAdvisoryGroup東南 ア ジア開発 顧 問 グル ー プ)か ら,比 較 的潤沢 な資 金 援助 を受 けた とみ られ る この プ ロ ジェ ク ト の成果 は,私 の知 る限 り, ブル ー ナ-の論文 だ け で あ り 【Bruner 1972; 1974],彼 の 学 生 は,最 終 的 には上 記 プ ロ ジェ ク トとは違 う 内容 の調査 を 行 い,博 士論文 を 提 出 して い る。1)ブル ー ナーの教 え子 のなか に,彼 の調 査 1)ブルーナ-のバ ン ドン ・プロジェク トにおけ る研究対象諸種族 の調査分担は,SEADAG への報告 【Bruner 1970:I-2]によると,次 のとお りであ る。(1)ジャワ- スバ ル ラン (ParsudiSuparlan),(2)ミナンカバウ- -ルソヨ(Harsojo), (3)トバ ・バ タ ック-ブルーナ-, (4)都市在住 ス ンダ ・エ ))- ト - ホ リコシ (Hiroko Horikoshi),(5)都 市在 住 ス ンダ下層民- ウ ッ ド(Caroline Wood),(6)農村在住 ス ンダ- ウェッシン ダ(RobertWessing)。このうち,ハルソヨ(当 時パ ジャジャラン大学教授)を除き,あとは ブルーナ-の学生である.ホ I)コシとスバル ランの博士論文 【Horikoshi 1976;Suparlan 19761は,バ ン ドン ・プロジェク トと直接の 関係はな く,また, ウッドとウェッシンダが 博士論文を提出 した形跡はない。
東 南 ア ジア研 究 23巻4号 関心 を具 現 す る人 が 現 れ た の はつ い最 近 の こ とで ,既 提 出 の博 士 論 文 が 一 つ 【Pelly 1983】, 近 々提 出 予 定 の博 士 論 文 が 一 つ あ る と聞 いて い る。2) 最 後 の 例 に代 表 され る よ うに, イ ン ドネ シ ア の都 市 の 種 族 を 扱 う研 究 が ,この数 年 ,よ う や く幾 つ か 発 表 され るよ うに な った 。 ほか の 例 を挙 げ る と, (1)Abustam l19771- 甫 ス ラ ウ ェ シ州 ウ ジ ュ ン ・パ ンダ ン (Uj ungPan-dang)へ の トラ ジ ャ (Toraja)族 の 出 稼 ぎ形 態 と, 彼 ら出稼 ぎ人 が 多 く従 事 す る職 業 (靴 職 人 ) に代 表 され る都 市 で の 生 活 形 態 の叙 述 , (2)加 藤 【1983】- ジ ャカ ル タ の ミ ナ ン カ バ ウ同 郷 会 を 例 とす る都 市 移住 民 の 分 析 , (3) 加 藤 【1986]- ジ ャカル タに お け る主 と して ミナ ンカバ ウ族 の 種 族 内 姫 の歴 史 的 推 移,(4) Persoon l1982]- パ ダ ン ・レス トラ ン, 同 郷 会 , 個 人 史 を とお して み た ジ ャカル タの ミ ナ ン カバ ウ 出稼 ぎ ・移住 民 の 生 活,3) (5)上 記 Pellyl1983]- ミナ ンカバ ウ お よ び マ ン ダ イ T)ン(Mandailing北 ス マ トラ南 部 の バ タ ッ ク系 の 一 種 族 で イス ラー ム教 徒 ) の メ ダ ン へ の 地 理 的 移動 の歴 史 と, 両 種 族 が メ ダ ンで 別 々 に有 力 メ ンバ ー とな って い る二 つ の イス ラー ム組 織 ム - マ デ ィヤ(Muham adiyah)と ワ シ リヤ(Washliyah)の活 動,(6)Sairan【1982】
- ヨ グヤ カル タ (Yogyakarta)を 中 心 に 発 生 した と考 え られ る ジ ャ ワ族 上 層 階 層 の 一 部 に存 在 す る トウラの分析,4) (7)Salmonand
2
)
私の漏れ きいてい るところでは,提出間近 と み られてい る博士論文は, メダン在住 トバ ・ バ タ ック族 の家庭における, トバ ・バ タ ック としての社会化 (S∝ialization)の問題 を扱 っ ているとの ことである。 3)パ ダン ・レス トラン(restoranPadang)は, 香辛料をきかせた ミナンカバ ウ料理 (パ ダン 料理 ともい う)を供す る店で,都市 に多い。 パ ダ ンは,西スマ トラ州 の州都であ る。4
)
トゥラ(trah親族会)は,特定の祖先を起点 に双系的に規定 され る子孫の集 ま りで,その 形成 は古 くは1910年代 にまで さかのぼ るとい 394 Lombard【1977】- 仏 教 , 道 教 な ど の 寺 院 を 中心 に考 察 した ジ ャカル タ中 国人 社 会 の概 要 , とい った研 究 が あ る。上 記 以 外 に も,Forbesl19781,Hugo【1981b],
Jellinek l1978],Kato l1982L Le rman l1983], Naim【1979】な どの研 究 も, 直 接 的 に は 都 市 へ の 地 理 的 移動 を と り上 げ た も の で は あ る が , そ の 分 析 結 果 の な か に, 「都 市 の種 族 」 へ の 関連 を読 み と る こ とが で き る。 ま た , こ れ ま で あ ま り紹 介 され る こ とは な か った が , イ ン ドネ シア大 学 に提 出 され た修 士 論 文 の な か に,在 ジ ャカル タの 特 定 種 族 を 扱 った'もの が あ る。5)いず れ に して も , イ ン ドネ シ ア の 「都 市 の 種 族」研 究 は,1970年 代 の 後 半 以 来 , よ うや くそ の 緒 につ い た とい え る。 す で に述 べ た よ うに , ブル ー ナ ーが 最 初 に メ ダ ンで調 査 を 行 な った の は,1957-1958年 の こ とで あ った。 これ は , の ち に, イ ン ドネ われる【Sairan け82:31】。 起点 として選ば れる祖先は,特定王家 の 基盤 を 築 い た 人, 著名なイス ラーム教師,飲食業で財をな した 女性 と,いろいろである。なお, ジャワ族 は 系族 (lineage)の制度を もたない. 5)私が イン ドネ シア 大学 の 文学部 (Fakultas Sastra)お よ び 社会科学部 (Fakultasll mu-IlmuSosial)の図書室で閲覧 した修士論文 と
し て, Amali【1970】,Lobamebal【1973】,
Marzali【1973】(ガジャ ・マダ大学 へ の 提出 論文であるが,実質的調査はイン ドネシア大 学 所属 中 に 行 わ れ た),Pandjaitan【1977】,
Roosmalawati【1979
】
,Sis【1970】
,Supar
l
an 【19631,Suljohardjo【1974】,Swasono【1974】,Waworuntu-Osman【1975]が あ る。・これ ら の論文の 多 くは, ク ンチ ョロニ ン グ ラッ ト (Koentjaraningrat)と ヤ コブ ・フ レー デ ン ブ レヒ ト(JacobVredenbregt)の掃導になる が, と くに後者 は, シンガ ポール の バ ウェ ア ン(Bawean)移住 民社会の研究 も行 なって い る と ころか ら 【Vrcdcnbregt 1964],「都 市の種族」が学生 の修士論文 のテーマと して 選ばれ るにあた って, このオ ランダ人人類学 者 の影響が 強か ったの では な い か と思 わ れ る。バ ウェアンは, ジャワ海 に浮かぶ小 さな 島の名前である。
シア独立後の ジ ャワ社 会研究の火 つ け役 とも な った C.ギ ア ツ(CliffordGeertz)た ちの 調 査 に遅れ る こと,わず か に4年 で あ る。 この よ う に,比 較 的早 い 時期 に研究 の 出発点 が あ った に もかか わ らず ,種族 の都市人 類学的 研 究 は,なぜ イ ン ドネシア研 究 において もっ と早 く関心 を呼ぶ ことがなか ったのか。 ブル ーナ-の研究の影響 力の問題 は別 に し て も,上 の疑 問 にたい して,幾つかの答 が考 え られ る。 た とえ ば,(1)人 類学者 ,社 会学者 ともに, これ まで イ ン ドネシアの農村研 究 が 中心 で あ り,都 市 にまで あま り関心 が ひ ろが らなか った, (2)イ ン ドネ シア諸 社会 を研究す る人 のなかで, ジ ャワ社 会の研 究者 が最 も多 く, ひるがえ って,人 口 ・政治 の面 で絶対 的 優位 を保 つ ジャワ族 の 間で は,種族結合が重 要 視 され るよ うにはみえな い, (3)国民統合 の ため種族 意識 の高 揚 を押 え よ うと して い るイ ン ドネ シアにおいて,都 市 の種族 の研究 は, ま さに種族意識 を真 っ向か らとり上 げるわ け で, こう した研究 の実施 は, これ までの政 治 状 況下 で は難 しい,な ど。 そ して,さ らには, 「都市 の種族 」 とい うテーマ 自体 が, あるい は,「種族」 が政治 的 に骨 抜 きとさ れ て い る 現況 で は, イ ン ドネ シアの都市社 会 を理解す る面 で, あま り有効 な分析 枠で はな いのか も しれな い。6) と もあれ,「都市 の種族」 に関す る あ る程 度 の研究蓄積 が み られ るよ うにな った現在 , これ まで の研究成果 を概 観 し,都市研 究 にお ける分析枠 と しての 「種族」 の限界 を探 り, さ らには将来 にわ た る研 究 の展 望 を模 索す る こと も必要 で あろ う。 そ うす る ことが, イ ン ドネシア都市研 究 にお ける 「種族」 の正 しい 6)都市研究のみならず,インドネシア研究にお ける分析枠としての 「種族」の有効性に関す る疑問については,Kahnl1982]を参照。た だ し,カーンも,分析対象としての 「種族」 の重要性を否定 しているわけではない。 評 価 に も繋 が ることにな るので あ ろ うか ら。 上記作業 のための手順 と して,本 稿では, 都市 にお ける種族 結合形態 の類型化 と比較 に 焦点 を あて る。具体 的 には,種族結合 を,「種 族」 を内包 し, あ るいは 「種族」 を中心 と し て発現す る人 間関係 の展 開ない し集 団形成 ・ 集 団活動 と理解 し,種族結 合の形態 を三つ に 分 けて考 え る。 1)「種族」が結合原理 と して意識 され る こ とは少 な いに して も, イ ン ドネ シアにおいて は多 くの 場合,「種族」が 先 験 的 に 内包 され て い るところの親族 や 同郷者 間の繋 が り,す なわ ち親族 , 同郷者 の イ ンフォーマルな ネ ッ トワー ク (network) 2)同一親族,同一氏族 ,同一地域 (と くに 同一村 )の 出身者 が形成す る親族 会(kin-based association),氏 族会 (clan-basedassociation), 同郷会 (locality-basedassociation)の よ うに, 間接的 にせ よ「種族」が結合原 理 と して 関わ っ て い る準 種族的結社(quasi-ethnicassociation)
3)特定種族 に属す る不 特定 の人 々が,「種 族」 を主 た る結 合原 理 と して特定 の 目的の た め に形成 す る種族的結社 (ethnicassociation)
3類型 の説明か らわか るよ うに,本 稿 では, 種 族結合 を特定種族全体 の結合を 目指す動 き や「種族」を中心 的結合原 理 とす る集 団形成 ・ 集 団活動 に限定せず, よ り幅の ひろい もの と して理解 した。 この よ うな解釈 によ り,種族 結 合 に関連す るさま ざまな研究蓄積 が烏 轍で き ると考 えただ けで な く,種族 によ って は, 組織化 され た種族結 合が希薄 なの はなぜか と い った 問題 関心 も,考 察 の視野 に入 れ る こと が可能で あろ うと考 えたか らで ある。 類型 の説明 に もみ られ るよ うに,結 合原 理 と しての 「種族」 は,上 記3)種族的結社 にお いて最 も顕著 で あ る。 しか し, 1)ネ ッ トワー クや2)準 種族的結社 も, イ ン ドネ シアの都市 移住民 に とって親族 ,出身池,種族 が大 部分 において重 な りあ う以上 ,「種族」 と無縁 で
東南 アジア研究 23巻4号 はあ りえない。次項 で述べ るよ うに,「種族」 の一側面 で ある地方語 や郷土料理の 日常的体 験 の場 は ネ ッ トワー クで ある。私が ジャカル タの ミナ ンカバ ウ移住民の調査 を して いた時 ち, ジャワや ス ンダ と違 い ジャカル タの ミナ ンカバ ウには,売春婦 にまで身を落 とす女性 が いな い ことが挙 げ られ,彼 らの親族 ・同郷 ネ ッ トワー クの相互扶助 の強 さが 「種族」 に よ って説 明 され るこ とが しば しばあ った。 準種族的結社 に「種族」が関わ って い ること は,ミナ ンカバ ウの村 ス リッ ト ・アイル (Sulit Air)の 同郷会の,次 の よ うな定款 の文 句 に窺 われ る- 「われわれ は以下 の ことを十全 に 自覚 す る もので ある。即 ち,ス リッ ト ・アイ ル人 は, ミナ ンカバ ウ社会の一旦 と して ミナ ン カ バ ウの 慣習法や 風 俗習慣 を 心 か ら尊重 し,かつ また イス ラー ム教を あつ く信仰 す る もので ある」 【Buku Petunjuk Musyawarah SASKeVII 1981:12]o 種族結合形態 の うち 2)と 3), と りわ け 3) は, 自発的結社 (volun taryassociation)と し ての性 格 が強 い。2)の 同郷会 と親族会,氏族 会 は,地縁 と血縁 とい う異 な る組織原理 に依 拠す るが,多 かれ少 なかれ故郷での社会規範 へ志 向 し,会 の 目的,活 動 も主 と して メ ンバ ーの社会福祉 を 目指す ところか ら, ここで は 同 じ範 噂 に括 って考 えた。3)の具体例 と して は, 1980-1981年 に私が ジャカル タ在住 ミナ ンカバ ウの 間で見 聞 した もの に,次 の よ うな ものが ある。 (1)Kesenian Minang Rantak Kudo- ミナ ンカバ ウ芸能 ・演劇 集団,(2) Gumarang- ジ ャカル タの サ ッカー ・リー グに加盟 して い る ミナ ン カ バ ウ ・チーム, (3)Yayasan Bun da- ア ダム ・マ l)ク副大 統領夫人 (1981年 当時)が主催す る ミナ ンカ バ ウ ・エ リー ト夫人 の 集 ま り,(4)Yayasan Kebudayaan Minangkabau- ジャカル タ在 住 ミナ ンカバ ウ知識人 の集 ま り,(5)
A
m indo (AsosiasiRestoran MinangIndonesia) -396 バ グ ン ・レス トラ ン轟 営 者 の 集 ま り, (6) Kesemian KumbangJnta i- シラッ ト(silat 太 極拳 のよ うに空手 と踊 りを一 緒 に したよ う な 護 身 術) を 守 り ひ ろ め る 会, (7)TuahSekatoPenylarMinangJakarta- ミナ ンカ バ ウ語 によ る ラジオ放送番組 の関係者 の集 ま り,(8)Keluarga Mahasiswa Minangkabau
- ミナ ンカバ ウ出身 の大 学生 の集 い。また, これは ミナ ンカバ ウではないが,の ちに述べ るバ タ ック族 の教会組織 に代表 され る宗教 団 体 も,種族的結社 に入 れて よいで あろ う。 な お,現在 の イ ン ドネシアの政治状況下 では, 種族的政治結社 は存在 しえな い。 結 合原理 と しての「種族」は, 1)ネ ッ トワー ク,2)準種族的結社, 3)種族的結社の順 に顕 著 で ある。しか し,「種族」に対 す る感情 移入 の度 合 いは,必ず しもこの序列 に準ず る もの で はない。上 の ミナ ンカバ ウの種族的結社 の 例 が示す よ うに,現 在 の政治状況 の も とで は,種族的結 社 は多 くの場合, 同業者, 同好 者, 同階層者 (と くに上層 階層者 ) 中の特定 種族 出身者 の親睦会な い しサ ロンの様 相を呈 してお り,「種族」が これ ら親睦会を形成す る 主 た る 「口実」で はあ って も,強度 な感情 移 入 を ともな う結合原 理 と して働 いて いるよ う には思 わ れ な い。 ま た, 3形 態 の うち,1) と2)の間には連続性 を認 め つ つ も,三者 の 間 に種族結合形態 の発展段 階を想定 してい る わ けではない。 上 記3種類 の種族結合 の形態 は, あ くまで も便 宜的な もので あ り,総 ての種族結合の形 を網雇 してい る とは考 えていない 。 各形態 問 の移行 形態,都市 にお ける種族 的境界(ethnic boun daries)の再構築現象, あ る いは 南 ア フ リカにお けるよ うに,「白人 」,「黒人」とい っ た大 きな種族 ・民族 的 カテ ゴ T)-が,それ 自 身で意 味を もつ よ うな状況 も想定 され るが, いずれ につ いて もイ ン ドネ シアにおいては研 究蓄積 が乏 しく,本 稿 の議論 か らは一応捨象
した。7) 従 来 , イ ン ドネ シア都 市 部 にお ける種族 的 紐帯 が指 摘 され る場 合 ,種 族結 合 の形態 が 区 別 され る こ とな く,種 族結 合 の事 例 ,具 休 例 が , あたか も無 作 為抽 出の ごと く提 示 され る 傾 向 に あ った。種 族結 合 の形態 を分 けて考 え る ことに よ り, これ まで の 「都 市 の種 族」研 究 の成 果 が鳥 轍 され るだ けで はな く,異 な る 種 族 結 合 形態 間の相互 関係 につ いて も,新 た な視 点 を得 る こ とが で き るので はな いか, と い うのが私 の抱 負 で あ る。 上記
3
種 類 の種 族結 合 の うち, 今 回 は 1)の ネ ッ 1,ワー クと,2)の うちの 同郷 会 につ いて 考 察 す る. ネ ッ トワー ク考 は, 過去 の この研 究 テ ーマに関連 す る調査 結果 の点検 で あ り, 同郷 会考 は,1980年10月 か ら1981年12月 にか けて ,途 中病気 で 中断 は した ものの,私 が在 ジ ャカル タ ・ミナ ンカバ ウ族 に関 して行 な っ た調 査 結果 を中心 と して の検 討 で あ る。 ミナ ンカバ ウの 同郷会 に考察 を絞 った の は,過去 の研 究 蓄積 が比 較 的豊 富 で あ る こ と,そ して, ま た,他 種族 の準 種 族 的結社 に関す る研 究 が まだ乏 しい現状 で は,特定種 族 の事 例 を検討 す るほ うが, ネ ッ トワー クと同郷会 , ひいて は ネ ッ トワー クと準 種 族 的結 社 の関係 につ い て , よ り明確 な展 望 が開 け るので はな いか と 考 え たか らで あ る。 ネ ッ トワー ク, 同郷会 の考 察 ともに,現 今 の状態 に限定 されて い る。 しか し,本 稿 の続 論 と して ,近 い うちに, ミナ ンカバ ウ同郷会 の発展 をオ ランダ時代 か ら現 在 にわ た って跡 づ け, その特 徴 の歴 史 的展 開 を振 り返 って み たい。本 稿 の最 終項 で述べ るよ うに, 同郷会 は, そ して お そ ら くほかの種 族結 合形態 も, そ の様 憩 は歴 史 的 に変容 す る もので あ り,過 7)種族的境界の変容 ・再構築の例は,幾つかの 下位種族を包摂するバクック族について報告 され て い る 【Bruner 1972;1974;Castles 1972;Pelly 1983].
時 的視 角 は 「都 市 の種 族」研 究 に不 可 欠 で あ る。 ミナ ンカバ ウの種 族 的結社 や , イ ン ドネ シア他 種 族 の種 族結 合 につ いて は, いず れ機 会 を改 めて検 討 した い と考 えて い る。 Ⅱ 「種 族 」 の体 験 イ ン ドネ シアの都 市 に住 む人 々に と り,「種 族」 の体 験 は 日常茶 飯 で あ る。 この件 験 は, 早 くは生 まれ故 郷を あ とに し,都 会 に出て く る過 程 か ら始 ま る。 言 葉 ,景 色 ,家屋様 式, 宗 教建 築物 ,服 装 ,料 理- それ まで生活 の 一 部 と して,比 較 的無 意識 に受 け入 れ られ て きた これ ら日常性 の諸側 面 は,都 会 で異 質 な もの と触 れ るこ とによ り, 己の 出身種 族 の特 徴 と して再 認 識 され るよ うにな る。 都 会 に住 みつ い た あ と も,「種 族」 の体験 は続 く。地 方 出身者 の家庭 の食 卓 にの ぼ る料 理 は, おそ ら く多 くが 郷土 色 の強 い もの に違 いない 。 私 が ジ ャカル タで知 って い る一 家 族 は, ご主 人 が ミナ ンカバ ウ人 ,奥 さんが ジャ ワ人 で あ ったが,す で に何十年 と ジ ャカル タ で暮 ら して い る ご主人 のため に,奥 さん は ジ ャワ料 理 よ りは るか に辛 いパ ダ ン料 理 を,毎 日調 理す る との こ とで あ った。 家 族 が 日常 的 に話 す言 葉 も,都 会 生 まれ の 「二世 ・三世」, 夫 婦 の 出身種 族 が異 な る 家 磨 , あ るい は高 等 教育 を受 けた一 部 の人 々を 除 き, ほ とん どが地方 の言 葉 で あ る。 た とえ ば,1973年 に, ア トマ ・ジャヤ大 学 が行 な っ た ジャカル タの行 商人 1,00 人 に関す る調 査 結果 によ る と,行 商人 の 出身地域 を示す数 字 と,家 庭 での 日常言語 とを示す数 字 の間 に, わず か の開 き しか な く (表 1), ジャカル タ 在 住行 商人 の ほ とん どが, 出身地域 の言 葉 を 家 で話 して い る ことがわ か る。 言 葉 は, 時 には,家 庭 の外 に まで その影 響 力 が ひろが るO ジャカル タ の HKBP(Huria KristenBatakProtestanバ タ ック ・プ ロテス東南アジア研究 23巻4号 表1 在 ジャカルタ行商人の調査にみる出身地域と日常言語 出身地城 西 ジャ ワ 写 譜 霊 ヤ芳 苧ス 言 その他 合 計 39.5% 27.1% 13.4% 14.6% 5.4% 100%(n-
1
,㈱ ) 日常言語 ス ンダ ジ ャ ワ 言 君 主雲; その他 合 計 32.1% 29.5% 17.3% 14.0% 7.1% 1(
氾%(n-1,(X氾) 出典 :HawkersinJakartaVol.1[1976:170】;Vol.2[1976:Tables79,82] タ ン ト協 会) で は,自己の組織 の教 会 を トバ ・ バ タ ック族以外 の プ ロテス タ ン トに も開放す べ く,月 に1度 , 日曜 日の礼拝 を イ ン ドネシ ア語 で行 うよ うに した。 ところが, イ ン ドネ シア語 での礼拝 日には,毎 回バ タ ック会衆者 が減少 して しま った とい うことで あ る 【Pan -djaitan 1977:57-58]. 言 葉 や料 理 ほ ど 日常 的で はない に して も, 都 会 で も定 期 的 に表 出 し体験 され る 「種 族」 に,結 婚 式 に と もな う伝統 や儀式 ,衣装 ,育 楽 が あ る。花 嫁 の衣装 をみただ けで,代表 的 グル ープにつ いて は 出身種族 を判 別 す ること が で き るほ ど,結 婚 式 の様 式 が,都 会 で もつ 種族 的 アイデ ン テ ィテ ィを 表 出す る力 は 強 い。 したが って,種 族外姫 が起 こ った場合, どち らの種族 の儀式 ・伝統 を使 うか, あ るい は どの よ うに二つ を折 衷 させ るか は,両 当事 者 , と くに彼 らの親 に とって重要事 で あ る。 「種族」 の体験 には, これ までの例 のよ う に, 当該個人 の選択 や決断を あま り含 む こと な く,比 較 的 日常 的,習慣 的 に繰 り返 され る もの も あ れ ば,個人 個人 に よ って よ り選 択 狗,主 体 的 に求 め られ る もの もあ る。 た とえ ば,都 会 で楽 しまれ る娯楽 が あ る。 ジャワ人 な ら, これ は ワヤ ン (wayang伝統 音楽 を と もな う影 絵 芝居 )の ラ ジオ放送 を聞 くことで あ り 【Surjohardjo 1974:107,110】, ジャ カ ル タに住 む 他 種族 な ら,「国軍 ラ ジオ 放送」 (RadioABRI)が曜 日をかえて流 す ア ンボ ン 398 (Ambon), ミ ナ ン カ バ ウ, ス ン ダ, バ タ ッ ク (そ して もちろん ジャワ) の種族番 組 を き くことで あ るか も しれ な い。8)市 場 と して どれだ けの大 き さが あ る か は 知 らな い が,ジャカル タの カセ ッ ト ・テ ープの店 には, い ろい ろな地域 の芸 能,普 楽 ,芝居 の テープ も売 られ て い る。 主 体 的 に選 択 され求 め られ る 「種族」体 験 ・ 「種族」表 出の幅を,私 が ジャカル タで観 察 し た ミナ ンカバ ウの例 で い うと, た とえ ば西 ス マ トラで発行 されて い る新 聞 『シンガ ラン』 (Singgalang)または 『進路』(Haluan)の定 期 購読, 1980年 以来毎年 テ ィムの劇 場 で催 され て い る 「ミナ ン歌謡 曲大 会」 (FestivalLagu MinangPopuler)の観 賞,1970年代初頭 に始 ま ったス ナヤ ン (Senayan)競 技場 での ジャカ ル タ在住 ミナ ンカバ ウ全 体 の ための レバ ラン 祭 (Le baranイス ラームの断食 月 明 けの聖 祭) - の参加, ジャカル タの14の民 間 ラ ジオ放 送 局 が流 す ミナ ンカバ ウ番組 の愛 聴 , ミナ ンカ バ ウ音楽 や ドラマの カセ ッ ト・テープの購入 , 西 スマ トラの有 名 な景 色, と くに ブキテ ィン ギの ンガ レイ (Ngarai)峡谷 の 絵 によ る 自宅 の居 間の壁 の飾 りつ け,庭 の/卜鳥小屋 の屋 根 を ミナ ンカバ ウ風家屋 のそれ に擬 して作 るこ と, あ るいは ベル ソー ンが観 察 した, ミナ ン カバ ウ ・ベ モ運 転手 に よ る ミナ ン カ バ ウ人 経 営屋 台店 の潜 り場 と して の利用 【Persoon 1982:1501, な どが あ る。9) 8)これらの種族番組についての情報は, ミナン カバ ウ番組を担当 してい るJussParamato lntanとのインタビュー (1980年12月27日) による。 9)『シンガラン』,『進路』 と もに, ジャカル タ に代理店があり,首都で購読可能である。な
ミナ ンカバ ウ族 で は な く, これ は北 ジ ャカ ル タに住 む 南 ス ラウェ シ出身 の ブギ ス(Bugis) 族 の事 例 で あ るが ,217人 の世 帯主 に関す る 調 査 に よ る と,84% の人 に と って, 同 じブギ ス人 との 交 友 関係 が最 も 深 く,82% の 人 に と って, 理 想 的仕 事 仲 間 と して ブギス人 が最 も望 ま し い と の結 果 で あ る [Roosmalawati 1979:207-208,2591。 また,上 記 ベル ソー ン は, パ ダ ン ・レス トランで働 くス ンダ人 の例 と して ,多 くの ミナ ンカバ ウの 同僚 に囲 まれ, 仕 事 場 - の帰 属 意識 が もてず , あま り幸せ で はな い とい う話 を語 って い る【Persoon 1982: お,シンガランは,西スマ トラの山の名前で, ムラビ山 (GunungMerapi)と並んで有名で あるが,後者 と同名の山はジャワにもあ り, そのため1968年12月創刊のこの新聞の名前に は,前者が運ばれたということである (創刊 者のひとりNazifBasirとの1981年1月7日 のインタビューによる)。ティム (TIM また は TamanlsmailMarzuki)は,劇場,展覧 会会場などか らなる一種の総合芸術施設であ る。 ミナンカバ ウ人は,略 して ミナンない し パダン人 (orang Padang)と も呼 ば れ る. 「ミナン歌謡曲大会」 は, オ リジナル な ミナ ン歌謡曲 (歌詞は ミナンカバウ語)の競作の ための もので,地区予選を勝ち残 った優秀曲 10曲が, この大会でプロの歌手によって歌わ れ,最優秀曲が選ばれる。優秀曲10曲は,カ セ ッ ト・テープとして も売 り出されている。 スナヤン競技場での レバ ラン祭は,多 くのジ ャカルタ在住 ミナンカバウ人を引きつけるよ うで,1972年1月の聖祭には,20,tX氾以上の 人が競技場に集 った とい う (AnekaMinang,
No.I,1972の記事=HalalBitHalalSumbar 2Januari1972"を参照)。私が ジャカルタに 滞在 した1981年の レバ ランには, この集団祝 賀が ジャカルタで開かれた形跡はな く,その かわ りに1981年8月30日に,バ ン ドンの ス ポーツ ・ホール (SportHallPajajaran)で, 「バ ン ドン ・ミナン社会 ・親睦の夜」(Malam SilaturahmiMasyarakatMinangBandung)
が開かれている。 ジャカル タの ミナ ンカバ ウ ・ラジオ番組についての情報は,1981年の 「第2回 ミナン歌謡曲大会」のプログラムに よる。ベモ(bemo)とは,小型の軽自動車で, 近距離の乗合 自動車 として使われる。 169】。 ブギ スの例 , 同一 出身種族 経 営 の 屋 台 店 を溜 り場 とす る ミナ ンカバ ウ ・ベ モ運 転手 の例 , さ らには パ ダ ン・レス トラン に 働 くス ンダ人 の例 とい い,都 市 で の交 友 関係 も,「種 族 」 によ って大 き く規 定 されて い る ことが窺 え る。「ミナ ンカバ ウ人 は 一 般 的 に 誰 と で も うま くや って い け る。 しか し,や っぱ り "自 分 た ちの人 間''とのつ きあいが一番 打 ち解 け る」- ジ ャカ ル タ の 南 外 れ チ ラ ン ダ ック (Cilandak)に住 む ミナ ンカバ ウ人 た ちの ため の親 睦組織,ASA (AwaksamoAwakわ れ わ れ 同士)の メ ンバ ーの言 葉 で あ る【ibid.:160】. 軍 の官 舎 の よ うに,多様 な種 族 の 出身者 が無 作 為 に集 め られ た と思 わ れ る よ う な 居住 空 間, そ して比 較 的経 済 的 に も保 障 され て い る と思 わ れ る生 活 にお いて さえ ,バ タ ック, ミ ナ ンカバ ウ, メ ナ ド(Menado)とい った 種族 ごとの親 睦会 が存 在す る とい うの も【Mu且ich 1979:851,交友 関係 にお け る 「種 族」要 素 の 強 さを物 語 って い る。 「種 族 」 の体 験 は, 己が主 体 と して の体 験 だ けに とどま らず , 己が客休 と して の体 験 を も含 む 。都 市 - の新 来 者 が, 自己の種 族 的背 景 を 自覚 させ られ るの も,他 種族 の メ ンバ ー に よ る 「自己」 の特 定 種 族 カテ ゴ リーへ の分 類化 ・客 休化 によ る ところが大 きい 。種 族 カ テ ゴ リー,さ らには種 族 ス テ レオ タ イプ (「口 の うまい ミナ ンカバ ウ人 」,「粗野 なバ タ ック 人」, 「血 の気 の多 い ブギ ス人 」 な ど) を用 い て の, 己によ る他 者 の認 識 ・同定 , あ るい は その また逆 は,都 市生 活 で は きわ めて 日常 的 で あ る。 したが って,居住 地 の隣近 所 の住 人 ,近 くの雑 貨屋 の主 人 , 学校友 だ ち,商 売 仲 間,職 場仲 間 とい った, 自己の まわ りに存 在 す る人 間関係 の認 識 地 図 にお いて も,人 々 の 出身種族 ・出身地域 が,一 種 の 目印 とな っ て い る。 私 が, ごみ ごみ と した ジャカル タの 居 住 区で, イ ンタ ビューの ため人 の家 を捜 し まわ った時 も,住 所 ,名前 に加 えて,捜 し求
東南 ア ジア研究 23巻4号 め る家 の人 が どこ出身 の人 か, と聞 き返 され る ことが しば しばで あ った。 上述 の よ うな 「種族」 の休験 は,1960年代 にスマ トラのパ カ ンパルで,「ミナ ン カ バ ウ 族」 と 「バ タ ック族」 との間 に時折偶発 した といわれ る種族衝 突 の よ うな場合 を除 き, そ れ 自体 で直接種族結合 と結 びつ くこ とは珍 し い。本 稿 で は, こう した, カテ ゴ リー と して の 「種族」 の体験 の存在 を認 めつつ も, よ り 恒常的 な種 族結合 の形 を, ミクロな レベルを 出発 点 と して考察す る。 と くに,家庭 での食 事 や 日常言 語 で もわか るよ うに,親 族,友 人 , 同郷人 とい った,結果 的 に同一 種族 に属 す る 人 々の イ ン フォーマルな繋 が りが,種族 意識 のいわ ば素材 を再生産 し,種族結 合 の一 つ の 基盤 とな り, さ らには 「種 族」 の体験 に, 自 己 に と って の身近 な意 味を付与 す る もの で あ る と考 え たい 。 都市 への地 理 的 移動 , あ るい は都市 での生 活 に お い て,「種族」 を 内包す る こう した イ ンフォーマル な ネ ッ トワー クが 存 在す る ことの確認 は,都市 の種族 を語 る際, 避 けて とお る ことので きな い基礎 的 な作業 で あ ろ う。以下 では,イ ン ドネ シアのなか で も, この点 に関 して最 も情 報量 の多 い ジ ャカル タ につ いて,調査結果 を概 観す る。 Ⅲ 地 理 的移動 とネ ッ トワー ク 他 の東南 ア ジア諸 国の首都 と同 じよ うに, ジャカル タの人 口は第2次世界 大戦後急激 に 増 加 した。1941年 か ら1947年 にか けて50万 か ら60万前後 で あ った首都人 口は,1949年 には 100 万 を軽 く突 破 し, その9年後 の 1958年 に は200 万 台を, さ らに1963年 には3(氾万 台を記 録 して い る
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1980:171。 そ の後 も人 口は増 え続 け,1980年 セ ンサ スの 結果 は650万 で あ った【
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1980 1981:9]o この よ うに急激 な人 口増加 は,そ の多 くを 400 地 方 か らの 人 口流入 に 負 って い る。 1961年 と1971年 の セ ンサ ス を 比 較 した ス ピア(
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Speare)の計 算 では, ジ ャカル タに お け る こ の10年 間の人 口増加分 の うち,人 口流入 によ る増加 の割合 の ほ うが,首都人 口の 自然増 加 によ る割合 よ りは高 か ったで あ ろ うとの結果 で あ った 【Hugo 198lc:71】。 後者 の 自然増 加 部分 に も,実 際 には都 市移住 民 の子供 も含 まれ て い るわ けで, この点 を勘 案 して1971年 セ ンサ スを もとに推 計す る と, 当時の ジ ャカ ル タ人 口の3人 にふ た りは,地 方 か らの移住 民 な い しその子供 (年 齢20歳 以下 の子供 )で あ ろ うとの結論 で あ る 【Speare 1975:68]。 東 南 ア ジア の 六 つ の 大 ・中都市 で, 行 商人 (hawkers)に関す る大規 模 な調査 を 行 な った マ ッギ ーた ちの研 究結果 を みて も,都市在住 行商 人 の 出身地 を調べ る限 り, これ ら都市 の なか で, ジャカル タほ ど古典 的 な移住民都市 (migrantcity)の ス テ レオ タイプ に 合 致 し, それ も全 国か らの 出身者 が集 中す る移住民都 市 は ほか にない との ことで あ る 【McGeeand Yeung 1977:105-106】。10) 移住 民 や 出稼 ぎ人 が故郷 を あ と に す る 場 令 ,「ジャカル タにい けばなん とか な る」 と, ただ あて もな く出か ける ことは まず ない。11) 「ボス トンバッグ片手 にプ ラットホームに降 り 10)マ ッギーたちが調査 した都市は,クアラ ・ル ンプール,マラッカ,マニラ,バギオ(Jlaguio), ジャカルタ,バンドンである。すでに述べた ア トマ ・ジャヤ大学の在 ジャカルタ行商人の 調査 も,このプロジェク トの一環である。 ll)地理的移動を問題にする場合,近年指摘 され ているように,定着的移動を示す移住(miga -tion)と,一時的移動を示す循環(circulation) ない し出稼ぎとを区別す るのか本筋 で あろ う。 しか し,本稿では,両者の区別が議論の 進行に深 く関わることはな く,地理的移動の 意味で,「移住」と 「出稼ぎ」という言葉を互 換的に使用する。なお,イン ドネシアや東南 アジアにおける循環的移動の重要性について は,Goldsteinl1978】とHugo【1982)を参照。た ち, い くあて もな く途方 に くれ る田舎者」, 「都 会砂 湊 で友 だ ち もな く孤 独 な毎 日を送 る 地 方 出身者 」- この よ うな イメ ー ジが, 出 稼 ぎ都市 住 民 に関す る一 つ の固定 観 念 と して わ れ われ の頭 の なか に あ る。 しか し, こ う し た イメ ー ジが 間違 って い る こ と, それ もと く に 「第 三世 界 」で は通 用 しな い ことは,幾 多 の研究 の示す と こ ろ で あ る。 こ れ らの 研 究 は,都 市 へ の地理 的 移動 過 程 , さ らには都市 生 活 にお け る,家 族 ,親 族 ,友 人 , 同郷 出身 者 間 の社 会 的 ネ ッ トワー クの重要 性 を指 摘 し て い る 【Hugo 1981a】。 この点 につ き, ジ ャ カル タ在 住 移住民 に関す る諸 調査 の結果 を例 に,少 し詳 し くみて み よ う。 1. 1973年 に テ ンプル は, ジ ャカル タ に や って きた移住 民 の社 会 的背景 や ジ ャカル タ で の生 活 振 りを調 べ るべ く, ジ ャカル タ内 の 世 帯 を任 意 に抽 出 し, そ こ か ら年 齢 14歳 以 上 , ジ ャカル タ滞在 5年 以 内の男 女 移住 民的 3,2(対 人 のサ ンプル を得 て い る。 ジ ャカル タ 滞在 年 数 が短 い とい う こ と も あ る の で あ ろ う, テ ンプル の移住 民 サ ンプル の職 業 には, あま り社 会 的地位 の高 い もの はみ られ な い。 多 い ほ うか ら順 にい う と,主 婦 (23.3%),熟 練 労 働 者 (20.9%),非熟 練労働 者 (19.1%), 飲食 物 の 行 商 人 (12.5%), 学 生 (9.2%) な どで あ る 【Temple 1974:143】。 この 調査 の結果 に よ る と, ジ ャカル タへ 出発 す る以前 に, ジ ャカル タで の生 活 に関す る予 備 知識 を も って い た人 の数 は82.2%に もの ぼ り, それ も この知識 の供 給 源- これ は ひ ろい意 味で の "コネ" とい って よいで あ ろ う- の うち 85%は, ジ ャカル タにす で に住 んで い る親 戚 や友人 で あ った 【ibid.:99-1(泊,131】。12) テ ンプル は 同 じ調査 プ ロ ジ ェ ク トの な か 12)「友人」という言葉は,これ以後の調査結果で も何回か出て くるが,その意味は必ず しも明 らかではない。 しか しなが ら, ジャカルタ生 活の経験のない人 々に とって,「友人」 とは で ,世 帯 の任 意抽 出 とい う手 だて で は接近 す る こ との難 しい人 々, た とえ ば住民 台 帳 に登 録 され る ことの少 な い下 層 民 を も調査対 象 に 入 れ るべ く,行 商 人 , ベ チ ャ引 き,売 春 婦 , 不 法 占拠者 (squattersこの サ ンプルで は多 く は層拾 い) を それ ぞれ2(氾人 か ら300人ず つ ほ ど イ ンタ ビュー して い る。13)これ ら貧 しいが ゆ え に, 都 市生活 に 関 す る情 報源 や 都 市 に "コネ''を もた な いで あ ろ う と思 われ る人 々 で さえ,事 前に "コネ''の なか った人 の割合 は,行 商 人 , ベ チ ャ引 き,売 春 婦 ,不 法 占拠 者 の順 に13.8%,14.6%,26.2%,28.8% で あ った 【ibid.:99]。
2.
親 族 ,友 人 , 同郷者 か ら ジャカル タに つ いての情 報 を得 るだ けで は な く,実 際 に こ う した人 々を頼 って ジ ャカル タへ や って くる 事 例 も数 多 く報告 され て い る。 それ も,地 理 的 移動 にお け る この依存 の形 を とお して, 当 該 出身地 か らの ジャカル タ移住 の開拓者 を起 点 に移住 の輪 が順 次拡 大 し, いわ ゆ る 「連 鎖 多 くの場合,他郷出身者や他郷での学友では な く,家族 ・親戚以外の同郷出身者を指すの ではないかと思われる。ちなみに,テンプル の任意抽出世帯サンプルにおいて "コネ"杏 もっていた人たちのうち,事前にジャカルタ を訪ねたことの ある人は 4.6%にす ぎな い 【Temple 1974:131].親族だけでな く,同村 出身の友人間の繋が りの重要性は,西 ジャワ か らの出稼ぎ ・移住活動の調査を行なったヒ ューゴも指摘 している と ころで あ る 【Hugo 1981a:187-188】
。
13)一時訪問以外の 目的で都市 へ やって きた者 は,正式たこは都市 で の落着 き先 の 「隣組」 (RukunTetangga)の長を通 じて, ジャカル タの末端行政機構に自分の到来を届け出なけ ればならない 。 しか し, この手続きは,費用 や書類の整備など難 しい問題があるため,下 層民は無視す るのが常 で あ る。 ジャカルタ の 「隣組」 に つ い て は,Logsdon 【1974】 とAldrich 【1981:121-1231を参照。 ペチャ (beca)とは,三輪自転車の人力車のような も ので,人や荷物を乗せて走 るための近距離を 中心 とする交通機関である。東南 アジア研究
皇
3
巻4
号 移住」(
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】の諸健 族 につ いて記録 されて い る。3
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先 の テ ンプルの調査 によ ると, ジャカ ル タにや って くる とい う行 程 自体,われわれ の想像 とは逆 に,必 ず しも孤 独 な旅で はな い。 ひ と りだ けで ジャカル タにや って きたの は, 1.の 任 意抽 出世帯 お よ び行商人 , ベ チ ャ引 普,売 春婦, 不法 占拠者 の サ ン プ ル の 順に い うと,3
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で あ り,全 休 で5
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前後 で あ った。 そ の他 の人 は, キ ョウダイ, オ ジ, ジャカル タ 在住 ない し村在住 の友人 ,両親 ,伴 侶,他 の 家 族 な どにつ き添われ ての ジャカル タ行 で あ る【
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同様 に, ジャカル タ在住 マ ドゥラ人 100 人 につ いて の調査 において も, ひ と りで ジャカ ル タに出て きたのは1
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ほ どで,残 りの9
0%
は家族 や 同郷人 と 同伴 で ジャカ ル タへ や っ て きてい る【
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4
.
ジャカル タへや って く る た め の 旅費 に つ い て ち,通 常,家族や親族 の助 け を受 け て い る と思 わ れ る。 ジャカル タを含 む バ ン ドン,スマ ラン(
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, ヨグヤカル タ, ス ラバ ヤ と い う ジャワの五 つ の大都市 に住 む約8
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X仙人 の 地方 出 身者 につ いて の調査結果 に よ る と, この うち自力 で旅 費 を 調達 した の は3
3
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で,5
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%
の人 は, 両親, キ ョウダイ, オ ジ,夫 な ど に旅費 を工 面 して もらって4
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い る【
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.
ジャカル タ到着 後 も,親 族 や友人 との 繋 が りは重要 で あ る。 表2は,最初 に ジャカ ル タにや って きた時 の居候先 に関す る三つ の 調査 の結果 で あ る。ヒュー ゴの調査 は,西 ジャ ワの1
4
の村 か ら ジャカル タに移 り住 んだ人 々 につ いて の もので あ り, ナ イムの調査 は,西 スマ トラ出身 の主 と して ジャカル タ在住 ミナ ンカバ ウ移住民 につ いて, そ して タ ン トウの もの は,東 ジャ カ ル タの プ ラ ウ ・ガ ドゥン (Pul
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)
に住 む移住民世帯 の世帯主 に 関す る調査 で あ る。 なお, タ ン トウのサ ンプ ルの 出身地 は, 西 ジャワ(
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, 中 ジャワ (44%),東 ジャワ (9%),外 島(
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で あ る【
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】。表2
の示す とお り, 居候先 は 圧倒 的 に "家族 ・親 戚" が多 く, "友人M が それ に次 いで い る。 6. 表2の調査 の うち二つ は,移住民 の ジ ャカル タ到来後 ,誰 が彼 らの仕 事 を見つ ける 手助 けを したか につ いて も質 問 して い る。 こ の点 に関す る もう一 つ の調査結果 を加 味 した ま とめが,表3に掲 げて あ る。表2と同 じよ うに,"家族 ・親 戚''の助 けが大 き く,"友人 " が2番 目に重要 で あ ることがわか る。 表2
出稼ぎ ・移住民のジャカルタ到着後の寄宿先 出身地 嘉族忘 友人 その他 ‡ン表 出 典 西 ジャ ワ5
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表3 出稼ぎ ・移住民のジャカルタでの仕事の斡旋者 嘉族忘 友人 詣 賃妄 ‡ン表 出身地 霊LLV,.e 友人 IEIhVilbtWbー:/乙 出 典 西ジャ ワ 50%2
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同 じ く仕 事 との脈 絡 に お いて , ジ ャカル タ 在 住 1、バ ・バ タ ッ ク女 性 の密 輸商 晶 の担 ぎ屋 56人 に 関す る調査 に よ る と, 彼 女 らの うち64 % が家 族 に,25%が友 人 に商 売 の資 本 を提 供 して も ら った とい う結 果 が 出て い る 【Pandj a-itan 1977:1181。14) 7. 表 3と同様 の結 論 は, た とえ統 計 的 に は結 果 が提 示 され て い な い に して も, 移住 民 の 出身 地 と特 定 職 種 との結 びつ きか ら,次 の よ うな職 業 につ いて も観 察 され て い る- ア イス ク リー ム売 り,建 設 現 場 の労 働 者 , ベ チ ャ引 き (以 上 ジ ャ ワ人 )【Jellinek 1978:145; ㌢abel 1978:36;Tantu 1979:45-18], 国 際 旅 客 線 従 業 員 (事 務 職 お よ び空 港労 働 者 ), パ ン売 り,雑 貨行 商 人 , タバ コ売 り (以上 西 ジ ャワ出身者 )【Hugo 1981b:207-208】, マ ドゥ ラ人 の 屋 台 の 串 焼 き 売 り 【Lobarnebal 1973:104-110】, そ して パ ダ ン ・レス トラ ン の従 業 員 【Persoon 1982:133】。これ らの観 察 が示 す の は, た とえ ば, ジ ャカル タの ア イ ス ク リー ム売 りの総 て が 中 ジ ャ ワの特 定 村 の 出身者 で あ る とい う こ とで はな く, この村 出 身 の ジ ャカル タ在 住 者 に は, ア イス ク リー ム 売 りが 多 い とい う こ とで あ る。求 職 者 , 就 職 斡 旋 者 と もに,家 族 ,親 戚,友 人 とい う紐 帯 を フルに活 用 して い る こ と, つ ま り 「連 鎖 移 住 」 だ けで な く, マ ク ドナ ル ドた ち の い う 「連 鎖 就 職」(chain occupation)【MacDonald andMacDonald 1964:90】の存 在 す る こ と 14)就職 斡旋 における家族や同郷 ネッ トワークの 重要性は,出身地 とジャカルタとの距離が遠 くなるほど,顕著になると想像 される。たと えば,前述の,ア トマ ・ジャヤ大学が行なっ た ジャカルタ行商人に関する調査結果による と,出身地域 ごとの行商品目への特化は,ジャ ワ島出身者よ りも外島出身者に,よ り顕著で ある。ただ し,一般的に,スマ トラ出身者は 布地や 日用雑貨の行商に, ジャワ出身者は飲 食物の行商に といった専門化は認 め られ る
lHawkersinJakarta V01.2 1976:Tables 81-A,81-B]
O
が知 られ る。 こ う した紐 帯 の活 用 に は, 就 職 斡 旋 者 に と って も, た ん に家 族 ・友 人 と して の道 徳 的義 務 を果 たす とい う意 味 に と ど ま ら ず , 気 の お けな い家 族 や友 人 が 同業 分 野 で働 いて いれ ば, い ざ とい う時 に も頼 りにな る と い った就 職 斡 旋 者 に と って の プ ラス の面 も存 在 す るの で あ ろ う。15) 8. ジ ャカル タ到着 後 の居 候 先 に関す る結 果 か ら想定 で き るよ うに, 移 住 民 の ジ ャカル タで の居 住 場 所 に は, な ん らか の地 理 的集 中 が み られ る。 もち ろん ,公 務 員 ,銀 行 員 , 軍 人 , 警察 官 の よ うに,官 舎 や 宿 舎 が あて が わ れ る こ との多 い人 た ちの 間 で は, こ う した集 中 は必 ず しも存 在 しな いか も しれ な い。 しか し・ イ ン ア オー マ ル ・セ ク タ ー (informal sector都 市 雑 業 層 )に属 す る人 た ちの 間 で は, 居 住 地 の 集 中 は珍 し くな い 【Hugo 1981b: 214-
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。
先 の テ ンプル の 調査 によ って も, 任 意 抽 出世 帯 サ ンプル お よ び下 層 民 サ ンプル を 含 む全 移 住 民 サ ンプル の うち, ジャカル タ 内 の居 住 場 所 近 くに, 同村 出 身者 の ま った く 住 ん で いな い人 は平 均 約42%で あ り, ひ ろい 意 味 で の 同郷 出身者 が近 所 に いな い人 は27% 15)1983年に,Jll元が ジャカルタで行なった工場 労働者についての調査によれば,女子サンプ ル50人,男子サ ンプル73人の大部分 (それぞ れ78%と44%)が,家族,親戚,同郷の友人 よ り現在の仕事 についての情報を待ている。 しか し,一方では,女14%,男43%が,職業 安定所の紹介によるもので もある。川元のサ ンプルのうち親が ジャカルタに居住 している 者 (女11人,男48人)は,そのほとんど総て が ジャカルタ生まれ とみ られ,上の計算か ら は除外 した 【川元 1985:表 1,衰 13】。 こ の結果は,工場など,よ り組織化 された職場 における就業形態が, と くに男子の場合,行 商その他の都市雑業層におけるそれ とは異な る可能性を示唆 している。 しか し, こうした 解釈を受容する前に,川元のサンプルの80% か ら90%は,現職への採用以前にすでにジャ カルタに居住 していること,また,サンプル の働 く工場は, 日系の合弁会社の ものである ことなどを考慮 しなければな らない。東南 アジア研究 23巻4号
に しかす ぎ な い rremple 1974:156].16)居 住 地 に関す る同様 の結果 は,在 ジャカル タの ミナ ンカバ ウ 【Marz
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i 1973:13ト133,135 -137】や ブ ギ ス 【Roosmalawati 1979:11仁一118】につ いて も観察 されて い る。 9. 同村 出身者 や家族 ・親 族 が ジャカル タ で比 較 的固 ま って居住 して い る と い う こ と は, 日常生活 にお けるつ きあいにお いて も, 彼 らの間の交流 が盛 んで あ ろうことを示 唆 し て い る。 私 が ジャカル タで知 りあ った ジャワ 人 や ミナ ンカバ ウ人 のなか には, ジャカル タ に キ ョウダイが何人か いて,
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カ月に
1度 か2
度 ,定 期的 に キ ョウダ イの誰 か の家 に家 族 連 れで集 ま り,食事 を と もに した り, あ るい はア リサ ンをす る と開 いた ことが あ る。17)漢 た, これ は ミナ ンカバ ウにつ いて の例 で あ る が, たん に結婚 式 や葬式 とい った特別 な機 会 に同郷 出身者 が集 まるだ けで はな く, 日常生 活 にお いて も, 日ごろの ジャカル タでのつ き あいが, 同村 出身者 を中心 に形 成 されて い る ことが報告 され て い るrKahn 1974:230;加 # 1983:49-51;Persoon 1982:131-132). 10. 家族 ,親 族,友人 , あ るいは同郷 出身 者 間の交流 は, な に も ジャカル タ在住者 の範 囲 に限 られて い るわ けで はな い。 こう した関 係 ・繋 が りは,都 会 の生活空 間を越 えて, ジ ャカル タと出身村 との間で も密 で あ る。交流 の形態 も,村 への仕 送 り,村 か らの学費 の送 金 ,手紙 のや りと り,電話 が あれ ば電話 での 連 絡 , 時 には村長 の ジャカル タ訪 問, ジャカ 16)ここでの「同郷」の意味ははっきりしないが, テンプルはDistrictとい う言葉を使 ってお り,州 (propinsi)の下 の県 (kabupat〇m)杏 持すのではないかと思われる。 17)ア リサン (arisan)とは無尽講のことで,10人 前後で,とくに女性を中心に開かれる。毎月 なにが しかの金をプール し,銭引きでこれを 受けとる順番を決める。ア リサンに関する詳 しいことは,C.Geertz【1962】と Papanek 【19801を参府。 404 ル タ在 住者 の一 時帰 郷,小 学校校 舎や モス ク の建 設 とい った村 の開発計画 へ の資金援助 , 村 人 の ジャカル タ一 時訪 問 とさ まざまな形 を とる。18) ミナ ンカバ ウにいた って は,母 系親 族 の共 有田 (hartapusaka)の収 穫米 の一 部が, 毎 年定 期 的 に,村 の親 族か ら ジャカル タ在住 の親 戚 の もとに送 られ て く る こ とす らあ る 【Persoon 1982:157】。 つ ま るところ, この よ うな出身地 と都市 と の繋 が りが あれ ば こそ, 1. の情 報 ・コネの 提供 に始 ま り, 9.の ジャカル タ内での交友 関係 の場 にいた る個 々の ネ ッ トワー クの環 が 一 巡 ・連 結 され,相互 に補 強 しあ うことに も な るの で あ ろ う。 以上 , ジャ・カル タ在 住 地方 出身者 に関す る 調査結果 を 中心 に,イ ンフォーマルな繋が り, なか んず く家族 ,親 族 ,友人 , 同郷 出身者 を 中心 とす るネ ッ トワー ク- 以後 ,親 族 ・同 郷 ネ ッ トワー クと呼ぶ- と,地 理 的移動 や 都市生活 との関係 を整理 ,点検 して みた。 こ う した ネ ッ トワー クの存 在 は,私 が これ まで 検 討 した デ ー タの示す 限 り,多 くの種族 に共 通 して み られ る現 象で あ り, また,そ の発現 は ジャカル タのみ に限定 されない 。 ジャカル タに関す る調査結果 ほ ど幅 と奥行 きが な く, また 多 面 的 で も な い が,親 族 ・同郷 ネ ッ ト ワー クに関す る似 たよ うな結果 は, イ ン ドネ シアの他 の都市 , た と え ば バ ン ドン 【Brady 1975; Bruner 1972;1974】, ヨ グ ヤ カ ル タ 【Mantra 1981;Sairan 1982;Yunus 1978】
,
18) これらの形態のより詳 しいことについては, Brunerl1972:226LIhgol1981b:Chap.7;
1983:23-29LJellinckl1978:144-149],Kahn l1980:33),Katol1982:222-239L加藤【1983: 56-57),Lobarneball1973:88-89),Marzali 【1973:145-146
1
,Moir【1978:48-511,Naim l1979・.215-226),Pcrsoon l1982:141-142, 145LRoosmalawatil1979:264-265LSurjo -hardjo【1974:1171,Tantu 【1979:97-111, 1581,Templel1974:115,156-1581を参照。ス マ ラン 【Lerm an 1983], バ ])の町 【Boon 1977:115-118;Geertz 1959:32-33],ウ ジュ
ン・パ ンダ ン【Abustam 19777,Forbes 19781, メ ダ ン 【Bruner 1961; 1963; 1972; 1974; Pelly 1983]な どにつ いて も観察 されて い る。 ネ ッ トワー クは, 自発 的結社 な どと違 い, 組織化 され た構 造 を もたな い。 に もかかわ ら ず , ネ ッ トワー クは,その構成 員 の行 動 にた い し,愛 情 ,道徳的 義務 ,慣 習 な どに裏打 ち された社 会的 コン トロールを発 揮 し, ゴシ ッ プ, 消極 的交 際,交 際拒否 な どの制裁 を加 え う る。 ネ ッ トワー クが も た らす 積極 的効果 (物 質 的援助 ,精 神的満足感,帰 属 意識等 々) とともに, こ う した コン トロールの存在 が, 都 市 へ の 地理 的移動過 程 に お い て, ネ ッ ト ワー クを イ ン フォーマルなが らよ り実体 の あ る もの と し, また,特定都 市や種 族 を越 え て 比 較 的 普 遍 的 な もの 【Gravesand Graves 1974;GravesandGraves1980;Hugo 1981a】 た ら しめて い る源 で あ ろ う。 普 遍 性 と は 別 に, ネ ッ ト ワ ー ク の 変 異 (variation)ち,将来 ,考 察 の対象 とされ る必 要 が あ る。 た とえ ば,親族 ・同郷 ネ ッ トワー クの ひ ろが りや強 さには, イ ン ドネ シアのな か で も種族 によ って違 いが あ る と思 われ る。 この点 で, ミナ ンカバ ウや バ タ ックのよ うな 単 系制親族 制度 の社 会 と, ジャワのよ うな双 系 制親 族制度 の社 会 との比 較 は,興 味深 い研 究 テ ーマで あ る。 ネ ッ トワー クの ひ ろが りや強 さには,種族 的差 ばか りでな く, 当然,個人差 ,職業差 , 社 会階層 差 な ど も存在 しよ う。 また, 同一個 人 にお いて も, ライ フ ・サ イ クル や都市生活 へ の適応 サ イ クルの段 階 によ って, それ は変 化 しうる。 同様 に, ネ ッ トワー クの ひ ろが り,強 さ は,歴 史 的状況 によ って も左 右 され る。 た と え ば, ミナ ンカバ ウは, 1958-1961年 に中央 政 府 にた い して反乱 を起 こ し鎮圧 され たが, この時期 およ びその後数年 間は,相互 扶助 の た めの ミナ ンカバ ウの親 族 ・同郷 ネ ッ トワー クの拡大 が 目覚 ま しか った。 親 族 ・同郷 ネ ッ トワー クは,都市 の地方 出 身者 に とって の イ ン フォーマル ・ネ ッ トワー クの一つ の類型 で あ り, ほか に職場仲 間,近 所づ きあい,学校仲 間な どによ って形成 され るネ ッ トワー クも存在す る。両 類型 間の相対 的比 重 は,個人 によ って も, あ るいは上 述 の よ うな個人 の生活史 にお け る ライ フ ・サ イ ク ル ・適応 サ イ クルの段 階 によ って も, そ して 個人 の異 な る生活場面 (た とえ ば家庭 と職 場, あ るいは相互 扶助活動 と経済活動 ) に よ って もさまざまで あ る。 けだ し,個人 ,個 人史 ,種族 ,歴史 な どを 切 口とす るネ ッ トワー クの変異 の 同定 は,今 後 の 「都市 の種族」研究者 に とっての重要 な 研 究課題 で あ る。 しか し,変異 の問題 は問題 と して,所得 レベル,工業化 段 階 と もに まだ 低 く,一方 で就職斡旋施設 ,失業保 険,他 の 社 会福祉政策 も不整備 な イ ン ドネシアの現状 で は,公務員 な どの一 部の例外 を除 き,農村 か ら都市 へ の移動過 程, あ るいは都市 での生 活 にお いて, ネ ッ トワー クの果 たす役 割 が依 然 と して大 きい こと も事実 で あ る。 そ して, 多種族 国家 イ ン ドネ シアの現 実 は,「種族」を 内包す る親族 ・同郷 ネ ッ トワー クの意 味を, さ らに増 幅 させ る結果 とな って い る。 Ⅳ 同郷会 :ミナ ンカバ ウの事例 現在 , イ ン ドネ シアにお ける同郷会の名称 は,一般 に イ ン ドネ シア語 の イカ タ ン(ikatan 繋 が り)な い しプル クンプ ラン(perkumpulan 集 ま り) とい う言葉 で 表現 され る こ とが 多 い。 イカ タ ンや プル クンプ ランの あ とには, クル アル ガ(keluarga家 族 )や ワル ガ(warga メ ンバ ー) と い う言葉 と, 出身地 の 地名 が つ け られ るのか ふ つ うで あ る。 た と え ば,