文学の表現技巧 : 寓話、童話、比喩表現について
著者名(日)
西村 成樹
雑誌名
社会文化研究所紀要
巻
72
ページ
95-102
発行年
2013-08
URL
http://id.nii.ac.jp/1265/00000435/
文学の表現技巧 ﹁焦点化﹂であると指摘している。焦点をしぼって他の部分を暗示するということから考えると、換喩も余情、解釈 の幅のある表現方法だと言える。 以上、寓話、童話、比喩表現、について考えてみた。たとえとは、ある事柄︵物事︶を別の事柄︵物事︶で表 現するということである 。 たとえを用いる理由は ﹁経済性﹂や ﹁余情性﹂や ﹁印象深さ﹂など様々あるだろう 。 中でも興味深いのは、たとえを用いるとおのずと意味がズレて余情、余白が生じるということである。AをBで 示した場合 、当然A=Bではないので 、微妙にそれぞれの意味する範囲がことなり 、解釈の幅が生まれてくる 。 他のものを借りて表現するからには、多少なりとも解釈の違いが生まれてくるということである。斬新なたとえ であればあるほど 、受け手はAをBとすることに新鮮な驚きと戸惑いを感じ 、また 、新しい意味や解釈を発見 、 創造する喜びを得るだろう。たとえの醍醐味とは、受け手がたとえに介入して、創造的な読み・解釈ができると いう点ではないか。ただし、斬新なたとえにはそのような醍醐味︵長所︶とともに、短所が表裏一体となってい る。短所はたとえが的はずれ、ひとりよがりになると、受け手にその意味するところが伝わらないということで ある。また、受け手による解釈の幅が広すぎると、その意味するところが定まらないという場合もある。ともあ れ、たとえはAをBのように見立てるという人間の知性的言語遊戯であり、受け手にはそれを読み解く楽しさが ある。そのような長所、短所をわきまえて使えば、大きな効果が得られる表現方法である。 参考文献 ﹃イソップのレトリック メタファーからメトニミーへ﹄ ︵樋口桂子 勁草書房︶ ﹃レトリック感覚﹄ ︵佐藤信夫 講談社学術文庫︶ ﹃レトリック入門 修辞と論証﹄ ︵野内良三 世界思想社︶ ﹃よくわかる比喩 ことばの根っこをもっと知ろう﹄ ︵瀬戸賢一 研究社︶ −
95
−(8)﹁人はパンのみにて生くるにあらず﹂ たとえるもの たとえられるもの パン︵種、個物︶ ↓ 食べ物︵類概念︶ 種が類を示しているので、種の提喩という となる。直喩と隠喩は二つのものの類似性による結びつきであった。提喩も類似性による連結ともいえるが、提 喩の種と類は基本的に同じカテゴリーに属するので 、提喩は類同性による比喩と言えるかもしれない 。さらに 、 野内氏は類の提喩を用いる理由 ・ 心理として 、﹁ 分かり切った対象をいちいち特定するのはわずらわしい﹂とい う ﹁ 経済性﹂と 、﹁あえて特定しないことによって拡がる表現の幅﹂という ﹁余情性﹂を指摘している 。種の提 喩を用いる理由・心理としては﹁具体的=個別的な表現のほうが印象的=効果的である﹂ことを挙げている。た しかに、類概念で大づかみにかつ簡便に表現すると、 ﹁経済性﹂ ﹁余情性﹂が生まれてくるだろう。ただし、 ﹁余情 性﹂は ﹁表現の幅﹂ ︵悪く言えば意味のあいまいさ︶なのだから 、受け手によってとらえ方 ︵解釈︶のズレが生 じる可能性がある。隠喩と、類の提喩は受け手によって解釈の違いが生まれることを考慮して︵あるいは楽しん で︶用いる必要がある。 次に 、換喩とは二つのものの隣接性による比喩である 。たとえば 、Aさんを社長と呼んだ場合 、社長はAさんの 肩書き ・役職である 。社長はAさんの類概念でも種でもないから提喩ではない 。また 、Aさんと社長は類似性で結 びついているわけでもない 。 社長という肩書き ︵ 呼称︶はAさんの属性 ︵ 特徴︶の一つである 。Aさんと社長は隣 接性によって結びついたものであり、これを換喩と言う。Aさんがいつも黒いかばんを持ち歩いて、 ﹁黒かばん﹂と 呼ばれたら 、それも隣接性による換喩である 。 野内氏の前掲書によれば換喩は守備範囲が広く 、﹁お銚子﹂で ﹁酒﹂ を表したり、 ﹁西陣﹂で﹁西陣の織物﹂を表したり、 ﹁暖簾をおろす﹂で﹁店を閉める﹂を表したりする場合も換喩で ある。さらに氏は ﹁換喩の本質的機能﹂ を ﹁特定の ﹁部分﹂ に焦点を合わせて残余の部分を指示 ︵暗示︶ すること﹂ 、 −
96
−(7)文学の表現技巧 ﹁隠喩がひとりよがりにならないためには 、Yによって臨時にどんな ︵
X
︶があらわされているのかという ことがあらかじめ相手に理解されなければならない。隠喩においては、 ︵X
︶とY
との類似性が、語り手と聞 き手のあいだにまえもって共有化されていなければならない 。隠喩はまぎれもなく 、類似性 ︽にもとづき︾ 、 類似性︽に依存し︾ている。 ﹂ ※XやYのような正立字体は言語表現︵語句︶そのものをさす。X
やY
のようなイタリック字 体は、それらの言語表現によってあらわされる意味内容をさす。 と述べている 。直喩の場合は ﹁ ∼のような﹂と言う指標があるので 、二つのものの類似性が弱くても成立する 。 それに対して 、 隠喩は指標がないので 、類似性が強くなければ成立しないというのである 。たしかに 、﹁ ∼のよ うな﹂という指標がないのに 、唐突に無関係なもの ︵類似性のないもの︶を結びつけた隠喩は解釈不能だろう 。 現代詩といういささかマニアックな文学がしばしば難解だと言われるのは 、 直喩でしか結べない類似性の弱い ︵あるいはない︶ものを 、隠喩で強引に結びつけることによるのではないか 。しかし 、解釈不能な隠喩も 、逆に 言えばどのようにでも解釈できて、無限の新しい読みが存在するとも言えるので、あれはあれで良いのかもしれ ない。 次に、提喩とは種と類によって、二つのものを結びつける比喩である。 野内氏の前掲書の例を借用して説明すると、 ﹁花見﹂という言葉の﹁花﹂ ︵ 類概念︶は桜の花︵種、個物︶を指 している。これを類の提喩という。また、 ﹁人はパンのみにて生くるにあらず﹂ という聖書の言葉の ﹁ パン﹂ ︵種、 個物︶は、 ﹁食べ物﹂ ︵類概念︶を指している。これを種の提喩という。図示すると、 ﹁花見﹂ たとえるもの たとえられるもの 花︵類概念︶ ↓ 桜の花︵種、個物︶ 類が種を示しているので、類の提喩という −97
−(6)直喩とは二つのものが ﹁ ∼ のような﹂ ﹁ ∼ のごとく﹂などの言葉によって結びつけられた比喩である 。﹁氷のよ うな目つき﹂などが直喩である。佐藤信夫氏の﹃レトリック感覚﹄ ︵ 講談社学術文庫︶では、 ﹁ ものごとの様子を 表現するために 、﹁XはYのようだ﹂ ﹁YそっくりのX﹂⋮ ⋮ ⋮ というぐあいにたとえる形式を ︽直喩︾と呼ぶ﹂ と説明されている。野内良三氏は﹃レトリック入門﹄ ︵世界思想社︶の中で、 ﹁直喩は読んで字のごとく﹁真っ直 ぐな、 直 接的な喩え﹂ 、 つまり ﹁ ここには喩えがありますよ﹂ と明示している表現法だ。つまり直喩は、 ﹁のような﹂ とか ﹁みたい﹂ ﹁まるで﹂ ﹁さながら﹂といった ﹁喩え﹂であることを指示する語句を介して 、二つの項を比較 ・ 対照する 。そして問題の両項はある程度結びつかないことが求められる 。﹂と説明している 。直喩とは結びつき が明示された分かりやすい比喩であると言える。野内氏はさらに、 ﹁ 直喩は異質なカテゴリー同士のあいだに ﹁類 似性﹂ ︵ 正確には ﹁間接的類似性﹂と呼ぶべきだろう︶を認定するのだ﹂と述べている 。二つのものが直接的な 言葉で、類似性によって結びつけられたものが直喩である。 それに対して 、隠喩は ﹁ ∼のような﹂ ﹁ ∼のごとく﹂などの言葉がない比喩である 。﹁氷の目つき﹂などがそう である。佐藤信夫氏は﹁あるものごとの名称を、それと似ている別のものごとをあらわすために流用する表現法 が、 ︽隠喩︾ ―― メタフォール︵メタファー︶である﹂ ﹁ 直喩が﹁YのようなX﹂とか﹁XはYに似ている﹂と言 うのに対して、ふつう、隠喩は肝心の本名Xをはぶいてしまい︵あるいはXという名称がもともとないので︶た だ 、﹁Y﹂とか ﹁Yだ﹂と言い切ってしまう 。﹂ ︵前掲書︶と説明している 。野内良三氏も ﹁隠喩は ﹁類似性﹂に 基づく ﹁見立て﹂である 。﹁XをYとして見る﹂ことだ 。XとYは普通は結びつかない異質なもの同士である 。 この点で直喩と似ているが 、直喩とは異なり 、喩えを指示する指標 ︵ ﹁ のような﹂ ︶がない 。﹂ ︵前掲書︶と説明 している。隠喩は二つのものが直接的な言葉なしで、類似性によって結びつけられた比喩である。 またさらに、佐藤氏は直喩と隠喩の類似性の程度について ﹁直喩は
X
とY
との類似性 ︽を提案し︾ 、類似性 ︽を設定する︾ものであった 。極端な場合にはX
とY
はまる で似ていなくてもいい。 ﹁∼のような﹂という指標が、新発見の類似性を説明してくれるからだ。 ﹂ −98
−(5)文学の表現技巧 ﹁塵も積もれば山となる﹂ たとえられるもの ︹教訓・メッセージ︺ わずかなものでも蓄積すると大量になる 普遍・抽象化された事柄 たとえるもの ︹ことわざの表層の内容・言語表現︺ 塵が積もっていき、山となるイメージ 具体・特殊化された事柄 このように、ことわざにもたとえられるものとたとえるものという比喩の構造を見ることができる。 そして 、たとえられるものとたとえるものとの関係が 、語句のレベルで成立する修辞が比喩である 。ただし 、 語句のレベルの比喩表現では、たとえられるものが抽象化された普遍的概念︵教訓︶であり、たとえるものが具 体的なものであるという分け方が成立するとは限らない 。たとえば 、﹁氷のような目つき﹂という表現ではたと えられるもの︵氷︶も、たとえるもの︵目つき︶も具体的な事物︵名詞︶である。これは語句のレベルでは、叙 述の長さに余裕がないため、 具 体的に描写したり、 抽象概念を説明したりすることが難しいことによるのだろう。 寓話 ︵物語 ・ 文 章のレベル︶ 、 ことわざ ︵文のレベル︶ で成立した、 たとえられるもの=抽象、 たとえるもの=具象、 という分け方が、比喩︵語句のレベル︶ではできないと言える。 さて、比喩には、主に直喩︵明喩︶ 、隠喩︵暗喩︶ 、提喩、換喩がある。 −
99
−(4)具体・特殊化された事柄 という構造が成立する。寓話は文章・物語の単位で比喩の表現方法を用いたものと言うことができる。 その文章 ・物語のレベルでの比喩 ︵たとえ︶を一文の単位にまで縮小したものが 、ことわざ ︵諷喩︶の類で あろう 。﹁猿も木から落ちる﹂ということわざには 、動物の猿が木からすべり落ちるという具体的なイメージと 、 物事の熟練者でもたまには失敗することがあるという抽象化された普遍的な教訓とが存在する 。同様に 、﹁塵も 積もれば山となる﹂ということわざには、塵が床の上に積もって行って、綿くずのようになり、ついには山とな るという具体的なイメージと、わずかなものでも蓄積すると無視できないほどの大量になるという抽象化された 普遍的教訓とが存在する。 ﹁猿も木から落ちる﹂ たとえられるもの ︹教訓・メッセージ︺ 熟練者でも失敗することがある 普遍・抽象化された事柄 たとえるもの ︹ことわざの表層の内容・言語表現︺ 猿が木から落ちるというイメージ 具体・特殊化された事柄 −
100
−(3)文学の表現技巧 イソップの教えは、現実には、いわゆる︿道徳的なもの﹀に留まってはいないのである。イソップ寓話の教 える道徳律とは、秩序正しい社会生活や集団生活を維持して行くための掟であって、それはむしろ、 ︿習俗﹀ と捉えた方がより適切な、意味の幅のより広いものと言える。つまり、寓話は︿習俗 ﹀を教化 するといった 方が、より一般的なのである。 と述べている 。寓話は道徳的な教化のみを行うのではなく 、もっと広く ︿習俗﹀ ・社会習慣の教化を行うもので あるという指摘である。たしかに、 ﹁笠地蔵﹂は﹁他者に親切にしなさい﹂という道徳的教えだけでなく、 ﹁地蔵 様は大切に扱わなければならない﹂という︿習俗﹀ ・社会習慣も子供に教えていると言える。 またさらに、樋口氏は、寓話は現実の日常生活から得られた﹁普遍的な教訓﹂を﹁現実の世界に回帰させ、生 気を蘇らせるために、具体性の肉付けをして生み出された﹂ものとしている。そして、読者は寓話を読むことに よって、 ﹁与えられたお噺しである現実的な特殊性から、普遍的な教訓を抽象化する歓びを得る﹂ ︵ 前掲書︶と述 べている。ここには寓話の持つ教訓・メッセージと、寓話の具体的な物語内容との関係が言い表されている。教 訓やメッセージは寓話の奥の普遍・抽象化された事柄であり、物語内容は寓話の表層の具体・特殊化された事柄 である。これは語句のレベルでの比喩の構造︵たとえられるものとたとえるものの関係︶と同じである。すなわ ち、 たとえられるもの ︹教訓・メッセージ︺ 普遍・抽象化された事柄 たとえるもの ︹物語内容・お噺し︺ −