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明治期日本の和歌と〈政治〉─高崎正風を中心にして─

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明治 期 日本 の和 歌 と 〈

政 治 〉

高 崎 正 風 を 中 心 に して

キ ー ワ ー ド 和 歌,政 治,帝 国 日 本,高 崎 正 風,明 治 天 皇 は じめ に 最 初 に本 稿 の 目論 見 を記 す と,和 歌 あ るい は歌 人 た ちが,明 治 とい う新 時 代 を迎 え る にあ た り,ど の よ う に この ジ ャ ンル を定 義 し,変 質 せ しめ,そ の 期 を生 き延 び たか 測 定 す る こ とで あ る。 例 え ば1872年 に福 澤諭 吉 『学 問 の す ・め』 は,〈 世 上 に実 の 無 き文 芸 〉 と して 作 歌 す る こ とを挙 げ た。 そ れ に代 わ って 〈普 通 日用 に近 き実 学 〉')を推 奨 した こ と,ま た 同書 が 学 制 の 理 念 に影 響 を与 えて 国 家 に よ る教 育 が 実 学 重 視 の 線 に沿 って 立 ち上 げ られ た こ と2)を想 起 して も よい 。 これ は大 局 的 に は,和 歌 を た しな む人 々 とそ の ジ ャ ン ル に とって,危 機 の 時 代 の 到 来 と も言 え る。 もっ と も宮 中,明 治 天 皇 睦 仁 の 周 辺 に限 って み れ ば 後 に見 る よ う に歌 会 始 へ の 民 間人 の 詠 進 許 可 や ,在 野歌人の文学御用掛 な どへの登用があ り,別 の 流 れ が 存 在 した。 だが,そ う して 新 た に取 り立 て られ,睦 仁 に侍 した歌 人 た ち に は殊 更,そ の ジ ャ ンル を 国家 有 用 の もの と して 位 置 づ け,自 らを含 む歌 1)本 文 引 用 は福 澤 諭 吉/伊 藤 正 雄 校 注 「学 問 の す ・め 』(講 談 社,2006)よ り。 2)山 住 正 巳 「日本 教 育小 史』(岩 波 書 店,1987)参 照 。

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人 とい う立 場 を確 固 た る もの に押 し上 げ よ う とす る意 図 が あ った と考 え られ る。 この 問 題 を,高 崎 正 風(1836∼1912)を 材 料 に考 えて み たい 。 高 崎 は天 保 期 に薩 摩 藩 士 の 家 に生 まれ,幕 末 に は藩 士 と して 国 事 に奔 走,の ち明 治 初 年 代 に新 政 府 に参 加 した。1876年 に文 学御 用 掛,1912年 に正 二 位 勤 一等 男 爵 と して 死 去 す る まで,宮 内 省 御 歌 所 長,天 皇 ・皇 后 へ の 和 歌 の 指 導,年 々の 歌 会 始 の 選 者 ・点 者 と して宮 中歌 道 の要 職 を 占め続 け た。 また1891年5月 に は 「し き しま」 の 「現 今和 歌 十 大 家 」 で最 高 点,1899年5月 「太 陽 」誌 で は 「十 二 歌 匠 」 の 第1位 に選 ばれ て い る。 これ ら雑 誌 の 読 者 投 票 の 結 果 か らはそ の 名 が 巷 間 に も高 く,朝 野 を問 わず,当 時 歌 道 の 最 有 力 者 と認 識 され て い た こ とが 理 解 され る。 和 歌 は香 川 景 樹 を祖 とす る桂 園 派 の 流 れ を くみ,古 今 集 紀 貫 之 を重 視3)した 。 だが 往 時 の 名 声 に比 して,高 崎 が 論 じ られ る こ と4)はこれ まで少 な か っ た 。 そ の 理 由 を端 的 に言 え ば,実 作 者 ・研 究 者 の 興 味が1890年 代 に相 次 い で登 場 した与 謝 野 鉄 幹,正 岡子 規 ら 「新 派 」 歌 人 た ち に惹 き付 け られ て きたか らで あ る。 彼 ら 「新 派 」 の 攻 勢5)によ り高 崎 ら 「旧派 」 は論 ・作 と もに超 克 された 3)以 上,高 崎 の履 歴 は,昭 和 女 子 大 学 近 代 文 学研 究 室 編 「近 代 文 学 研 究 叢 書 』 十 二 巻(昭 和 女 子 大 学 光 葉会,1959)ま た北 里 閾 『高崎 正 風 先生 伝 記 』(啓 文社 印刷 工 業,1959)を 参 照 。 4)高 崎 の 先 行 研 究 は 註3)の 他 に 木 俣 修 「高 崎 正 風 」(「明 治 の 歌 人』 短 歌 新 聞 社,1969),清 水 勝 「桂 園 派歌 人八 田 知 紀 と高 崎 正風 」(「鹿 児 島 女子 大 学研 究紀 要 」 1997・3)等 が あ る 。 また 高 崎 の属 した御 歌所 の詳 細,そ の役 割 を論 じた もの と し て恒 川 平 一 『御 歌 所 の 研 究』(還 暦 記 念 出版 会,1939),小 林 幸 夫 「明 治初 期 ・中期 に お け る古今 集 の復 活 」(『古今 集 新 古 今集 の 方法 』 岩波 書店,2004),「 旧派和 歌 」 か ら 「新 派 」和 歌 へ の 交代 期 につ い て論 じた もの に小 泉 蓼 三 『近 代 短 歌 史 明治 篇 』 (白楊 社,1955)が あ る 。 5)例 えば与 謝 野 鉄 幹 「亡 国 の音 」(「二 六 新 報 」1894・5・15)は,高 崎 の歌 を,〈 品格 の 野卑 構 想 の卑 俗 あ は れ 誰 が こ を現 代 歌 人 の 第一 位 に居 る 人 の作 と うべ な は む〉 と酷 評 した 。 また 正 岡 子 規 「十 た び 歌 よみ に与 ふ る書 」(「日本 」1898・3・4)は, 〈御歌 所 といへ ば え らい 歌 人 の 集 り,御 歌 所 長 といへ ば天 下 第一 の 歌 よみ の様 に考 へ ,従 て そ の 人 の 歌 と聞 け ば,読 まぬ 内 か らは や 善 き者 と定 め を る な どあ りが ち の事 に て …(中 略)… 御 歌所 とて え らい 人 が 集 ま るは ず もな く,御 歌 所 長

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明治 期 日本 の和歌 と 〈政治 〉 41 と考 え られ,後 者 は周 縁 化6>され て きた 。 「近 代 短 歌 」 史 観 と も呼 ぶ べ きこの パ ラ ダ イ ム は,「 新 派 」歌 人 を中心 に叙 述 し,「 旧 派 」 は取 り上 げ られ て も, そ の 踏 み 台 と して 位 置 づ け られ る。 同パ ラ ダ イ ム は,長 く明 治 期 短 歌 の 研 究,鑑 賞 を規 定 して きた。 だが 近 年 よ うや くそ の 軌 を逃 れ,高 崎 や 御 歌 所 を対 象 とす る研 究 が 現 れ 始 め て い る。 例 え ば長 福 香 菜 は,高 崎 の 明 治2,30年 代 の 歌 論 を詳 細 に読 み 込 ん だ7)。「古 今 和 歌 集 」 仮 名 序 や 香 川 景 樹 の 説 を踏 襲 す るの み と論 断 され て きた,そ の 歌 論 の 細 部 を再 検 討 しよ う とい うの で あ る。 ま た宮 本 誉 士 『御 歌 所 と国 学 者 』 (弘 文 堂,2010)は 高崎 の歌 論 の み な らず,薩 摩 国学 の 影響 を受 けた 思想 形 成 の 過 程,歌 人 と して の 活 動 は む ろ んの こ と,後 年 の 教 育 勅 語 の 普 及 を企 図 し た社 会 的 な諸 活 動 等 に も言 及 して い る。 実 証 的 な切 り口で,こ れ まで さ ほ ど 注 目され て こ なか っ た高 崎 の 諸 営 為 を資 料 か ら跡 づ け た功 績 は大 きい 。 そ し て,こ れ らの 諸 論 を参 照 しつ つ,先 に挙 げ た本 稿 の 課 題 を確 認 す る な らば 高 崎 の 歌 論 や 種 々の 社 会 活 動 とが,明 治 とい う新 国 家 発 足 の 時 代 に,和 歌 を 有 意 な もの と して 適 合 させ る ため の 方 途 と どの よ う に繋 が り,展 開 され たか 検 証 す る こ とだ ろ う。 そ う して 本 稿 は,高 崎 の1876年 か ら1910年 まで の 歌 論,営 為 に着 目 して 上 記 の 課 題 を検 討 す る。 とて 必 ず し も第 一 流 の 人 が 坐 るに もあ ら ざ るべ く候 〉 と して,実 名 こそ 挙 げ ない が 高 崎 の御 歌所 長 た る 資格 に 疑 義 を呈 す る 。 6)例 え ば戦 前 の 『現代 短 歌 集 ・現代 俳 句 集』(改 造 社,1929)に お い て,「 旧派 」歌 人 は収 録152名 の 歌 人 中,26名 に 過 ぎな い 。 高 島健 一 郎 「序列 化 され る 歌壇 一 改 造 社 版 「現代 日本 文 学 全 集』 と斎 藤 茂 吉 」(「横 浜 国 大 国 語 研 究 」2003・2)を 参 照 。 また 戦 後 の 三 一 書 房 『現 代 短 歌 大 系』(1972∼1973),筑 摩書 房 『現 代 短 歌 全 集 』 (1980∼1981)に 「旧 派 」 歌 人 は収 録 され て い な い 。 7)長 福香 菜 「高 崎 正風 歌 論 の変 質一 流派 と模 倣 に対す る意識 」(「表現 技 術研 究 」2010・ 3),他 に 長福 に は 「新 派 」 歌 人 た ち か らの 攻 撃 を受 け なが ら も,な お 歌 壇 に勢 力 を保 持 す る 御 歌 所 派 を再 考 した 「明 治 御 歌 所 派 歌 壇 の 再 検 討 一鉄 幹 ・子 規 に よ る 批 判 を め ぐっ て 」(「国 文 学 孜 」2009・3)が あ る 。

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1,明 治 初 年 代 の和 歌 観,和 歌 史 観 う も れ きの はな 高 崎 の ま と ま っ た 著 述 で 最 初 に 公 に さ れ た も の は 『埋 木 廼 花 』(宮 内 省,1876)で あ る。 これ は高 崎 が,1876年 の天 皇 の 「奥 羽」 巡 行 に随行 した 際,政 府 関 係 者 や 在 地 の 人 々 の詩 歌 を集 め て編 ん だ ア ンソ ロジ ー8)であ る。 ま ず,そ の 序 文 か ら彼 の 明 治 初 年 代 の 和 歌 観 和 歌 史 観 を確 認 して お く。 なお 以 下 の 『埋 木 廼 花 』 本 文 の引 用 は 「明治 聖 徳 記念 学 会 紀 要 」(2006・ll)掲 載 の 翻 刻 を使 用 して い る。 ナ コ リ 名 ぐは し き海 や 山や,城 の 趾 関 の 余 波 な ど珍 し き所 々 を ば,写 真 師 にお ほ カ ケ ヒ トノ ココ ロ せ て,其 の 真 景 を写 さ しめ 給 ひ つ れ ど,ひ と り 目 に み え ぬ 人 情 と,形 な き テ ブ リ 風 俗 とをい か が はせ む。 これ が 姿 を うつ しこれ が 影 を と どむ る もの はや が て 歌 な らず や,さ れ ば歌 は人 情風 俗 の写真 ともいふ べ きもの に しあ れば(… 後 略) まず 最 初 に,巡 行 の 先 々で 目に した海 山の 名 所,城 や 関 所 跡 な どを写 真 師 に命 じて 撮 影 させ た 旨が 語 られ る。 だが 高 崎 に問 題 視 され て い るの は,写 真 カ ゲ ヒ トノコ コロ テ フ リ は 〈真 景 〉 を写 す けれ ど,〈 目に み え ぬ 人 情 と,形 な き風 俗 〉 とが 写 し難 い こ とだ。 で は どう した らい い の か 。 高 崎 は これ らを捉 え る もの と して 和 歌 に 言 及 す る。 そ れ は 〈人 情 風 俗 の 写 真 〉 で あ る と言 う。 対 象 こそ 異 な るが,写 す こ とにお い て 和 歌 は写 真 と等 価 で あ り,当 時 最 新 の テ ク ノ ロ ジー と並 べ ら れ て,そ の 機 能 が ア ピ ー ル され て い る。 そ の 後,高 崎 は和 歌 の 歴 史 を叙 述 して ゆ く。 以 下 の 引 用 は,本 来 は連 続 し た箇 所 だが 読 解 の 便 の ため に,【1】 か ら 【3】 に分 け て掲 出 した 。 8)同 書 の 詳細 は拙 稿 「埋 木 廼 花 の 政 治 学一 天 皇 巡 幸 の文 学 表 象 」(「日本 文学 」2008・ 6)を 参 照 願 い た い 。

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明 治 期 日本 の 和 歌 と 〈政 治>43 コ トサ ヘ カ ラ ウタ 【1】 往 古 よ り言 嘩 ぐ支 那 国 に は詩 を書礼 楽 と叙 た た へ て其 道 の い と も尊 き コチ タ カ ラ を しへ 草 とは摘 み はや せ り。 我 大 御 国 は上 代 よ り言 痛 く言 挙 せ ぬ 国 質 に し あ れ ば,御 代 々 々の 勅 撰 或 は先 哲 の 家 集 の 類,く れ 竹 の よ よ に聞 ゆ るが 浜 ココロ の 真砂 の数 お ほか れ ど,さ るか た に用 ゐ られ しこ とは なか りき。 ただ其 精 神 カマ ケ モ タ シ ウチ イ ヅ ナ ゲ キ コ ヱ キ クモ ノ の 折 にふ れ 事 に感 て 黙 止 あ へ ず 発 出 る嵯 歎 の 声 音 に しあ れ ば 聴 者 の 心 を ウ ゴ カ ヒ トシ レズマ ツ リゴ ト タ ス ケ 感 動 し男 女 の仲 を和 らげ猛 きもののふ の こ ころを慰 むる な ど隠然 政化 の補 助 とな り しこ と も,か き数 へ ん に もた どた ど し きまで に な む。 モ テア ソ ヒモ ノ 【2】 され ど くだ りて の世 に は歌 て ふ もの を一 の玩 弄 物 と思 ひ謬 り,且 題 詠 て ふ こ との 起 り しよ り し らず し らず 実 を は なれ て 虚 を さ ぐ り本 を忘 れ て 末 ツ イ エ に は し り,つ とめ て 人 の 耳 を 驚 さ む とす る 流 弊 出 来 て,い や お と ろ へ に お と ろ へ 行 て ま こ との 歌 は ほ と ほ と地 を は らふ に い た れ り。 【3】 近 代 に至 りてや うや う紀 の河上 に さかの ぼ り,高 円山の奥 を尋 ぬ る人 々 ツ キ サマ 踵 起 りて 此 み ちの しるべ せ しよ り天 の したの 歌 の 体 や や あ らた ま り行 しか ど も,久 方 の 雲 の うへ は かへ りて 河霧 た ち隔 て,さ る風 の 吹 通 は ざ り しを, 今 の 大 御 代 とな りて もろ もろの 事 をす て 給 わぬ あ ま りに歌 の 道 をお こ し給 ヤ メ は む とて,其 家 とたて お か れ しを廃 止 られ 此 こ とに秀 た る人 々 を挙 もち ゐ 給 ひ,は た花 の 願 月 の 夜 は さ ら也 折 にふ れ 時 につ けつ つ 侍 らふ 人 々 に勅 題 ツ トヒハジ メ を賜 り,と しと しの御 会 始 に はあ まね く御 題 を告 しめ して天 の 下 の歌 をさ ツ イ エ へ め して 見 そ な はす こ と とは な りに た り。 され ど猶 彼 流 弊 を まぬ が れ ず し て ま こ との 言 の 葉 す くな けれ ば さか しお ろか な り と しろ しめ す 料 に はい か が あ らむ。 こ こ で は 和 歌 の 歴 史 が,〈 上 代 〉,<く だ りて の 世 〉,〈近 代 〉 と 〈今 の 大 御 代 〉 と に 分 け られ 検 分 さ れ て ゆ く。 コ トサヘ カ ラ ウ タ 冒頭 に言 及 され るの は 〈言 嘩 ぐ支 那 国 〉 の 〈詩 〉 で あ る。 〈支 那 国 〉 で は,

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〈詩 〉 が儒 教 の経 典 で あ る五 経 の 一 と して 学 ば れ,治 国 の 一方 途 と して尊 ばれ て い た こ とを言 うの だ ろ う。 た だ し,〈 支 那 国 〉 で そ うだ か ら とい っ て,〈 我 大 御 国〉 で も同様 に,歌 が 政 治 と結 ばれ,用 い られ て い た わ けで は ない とい モ ダ シ ナ ゲ キ コ ヱ う。 そ れ で も,そ れ が 人 々の 〈黙 止 あ へ ず 〉 に発 せ られ る 〈嵯 歎 の 声 音 〉 で ウ ゴ カ あ る ゆ え に 〈聴 者 の 心 を感 動 し男 女 の 仲 を和 らげ猛 き もの の ふ の こ こ ろ を慰 ヒ トシレス マ ツリ コ ト む る な ど〉,人 々 を 感 化 す る 力 を 有 し て い た 。 そ の 結 果 と して,〈 隠 然 政 化 の タ ス ケ 補 助 〉 とな った こ と も数 多 い の で あ る。 この よ う に高 崎 は 〈支 那 国 〉 とはあ くまで も差 別 化 しつ つ 〈我大 御 国〉 の歌 の在 り方 に つ い て説 明 を加 え てい る。 【1】 モ テア ソビモ ノ 続 く<く だ りて の 世 〉 で 歌 は 〈玩 弄 物 〉 と思 わ れ る よ う に な っ た 。 特 に 題 詠 の 弊 害9)に よ り,歌 は 〈実 〉 か ら 〈虚 〉 に 遷 り,〈 本 〉 を 忘 れ て 〈末 〉 を 追 ツ イ エ っ た 。 〈人 の 耳 を驚 さ む とす る 流 弊 〉 が 現 れ,〈 ま こ と の 歌 〉 が 〈地 を は ら ふ 〉 つ ま り,無 く な っ た と言 う 。 文 脈 か ら,こ こ で い う 〈ま こ との 歌 〉 は,上 代 に は 存 し た とい う 〈嵯 歎 の 声 音 〉 と して の 歌 で あ る こ と を 確 認 して お く。 【2】 次 に 論 じ られ る の は,〈 近 代 〉 と 〈今 の 大 御 代 〉 で あ る 。 ま ず 〈近 代 〉 の 語 に 想 定 さ れ て い る の は 近 世,江 戸 期 だ ろ う 。 こ の 時 期,〈 紀 の 河 上 に さ か の ぼ 〉 サマ る者,つ ま り紀 貫 之 を遵 奉 す る もの が 現 れ,彼 らに よ り 〈歌 の 体 〉 はや や 改 ま っ た と高 崎 は評 価 す る。 これ は高 崎 の 私 淑 す る桂 園 派 の 祖 香 川 景 樹 な どを 指 し,つ ま り自派 の 功 績 を述 べ た箇 所 で あ る。 しか し景 樹 は在 野 の 歌 人 で あ って,〈 久 方 の雲 の うへ 〉,つ ま り宮 中 に は改 革 の 風 は行 き渡 らなか っ た。 けれ ど も現 今 の 〈大 御 代 〉 とな り,そ れ まで 宮 中歌 道 の 権 威 で あ った 歌 道 家 の 廃 止,〈 此 こ とに秀 た る人 々 〉す な わ ち高崎 ら在 野 歌 人 の登 用,臣 下 へ の 勅 題 下 賜,歌 会 始 に於 い て 民 間の 人 々 に も詠 進 が 許 可 され る な どの 諸 変 革 が 行 われ た とい う。 だが,人 々の 寄 せ る詠 進 歌 もや は り く人 の 耳 を驚 さ む とす 9)題 詠 の 弊 害 を指摘 した この 高 崎 説 は,そ の 師 で あ る八 田 知 紀 か らの 影 響 で あ る こ と を,宮 本 誉士 「御 歌所 長 高 崎 正風 の 思 想 と人 脈 」(『御 歌 所 と国 学 者 』 所 収 。 書 誌 は 本 文 前 掲)は 指摘 して い る。

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明治 期 日本 の和歌 と 〈政治 〉 45 る流 弊 〉 を逃 れ きれ ず,〈 ま こ との 歌 〉 が少 ない と高崎 は嘆 くの で あ る。 【3】 以 上 で く上 代 〉 よ り く大 御 代 〉 まで の 和 歌 史 が 概 観 され た わ け だが,高 崎 はそ れ を くま こ との 歌 〉 の 減 少 過 程 と認 識 して い る こ とに注 意 して お こ う。 そ して そ の 〈ま こ との 歌 〉 の減 少 は,次 の よう な問題 を呼 び起 こす。 つ ま り, 〈上 代 〉 で あ れ ば 〈男 女 の仲 を和 らげ猛 き もの のふ の ここ ろを慰 〉 め な ど した, さ らに天 皇 が 人 々 を 〈さか しお ろか な り と しろ しめ す 料 〉 と して あ っ た和 歌 の 機 能 が 今 で は失 われ か けて い る とい う問 題 で あ る。 ゆ え に現 今 の 和 歌 で は ヒ トシ レズマ ツリ ゴ ト タ ス ケ 〈隠 然 政 化 の補 助 〉 とな る こ とは ほ とん ど期 待 で きない,と い う認識 が高 崎 にあ るの だ。 こ う した認 識 は,天 皇 睦 仁 に も直 接 に開 陳 され て い る。 『進 講筆 記 』(吉 川 半 七,1893)は 高 崎 が 睦 仁 に対 して,1883年 に古 今 集 仮 名序 を講 義 した記 録 で あ る。 こ こ に は 〈古 の 歌 〉 が す べ て 〈嘆 息 の 声 音 〉 で あ っ た こ と,そ れ が 〈真 の歌 〉 で あ り,〈 人 の 心 を撮 影 に とっ た と同様 〉 で あ る こ と,そ して 過 去 に は こ う した和 歌 を用 い て 天 皇 が 〈作 者 の 賢 愚 得 失 を も知 しめ した 〉 と語 ら れ る。 翻 って,現 今 の 明 治 期 で は,睦 仁 が 〈此 道 の 研 究 〉 に熱 心 で あ り,人 々 に 〈歌 をた て まつ ら しめ て御 覧 遊 ば され る〉 こ とが 〈い に しへ の聖 帝 明王 〉 の事 績 と通 う と言 い,睦 仁 を古 代 の 明 主 と重 ね る。 歌 会 始 にお け る民 間 人 の 「詠 進 」 許 可 を称 え た箇 所 で あ るが,こ こで も人 々の 〈詠 進 の 歌 〉 が,か つ て の そ れ と異 な る こ とが 問 題 視 され る。 只 々赤 顔 に堪 へ ませ ぬ こ とは,詠 進 の歌,い に しへ の よみ くち とちが ひて, 兎 角 後 生 の 弊 風 を脱 しませ ぬ は,遺 憾 千 万 で ご ざ りま して,こ とに正 風 は 薄 徳 菲 才 を以 て,点 者 に挙 げ られ,お ほ け な く も両 陛 下 の 御 製 を奉 戴 し, 歌 道 顕 要 の 地 位 を 冒 して 居 ます れ ば,今 此 章 を講 じて 聖 聴 を煩 し奉 る につ けて,冷 汗 が 背 に なが れ ま して,恐 催 の い た りに堪 へ ませ ぬ 。

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高 崎 が 〈遺 憾 千 万 〉 に思 い,〈 冷 汗 〉 が流 れ,〈 恐 催 〉 す る と言 うの は,睦 仁 が 古 代 の 明 主 に比 され るの に,人 々の く詠 進 の 歌 〉 が 〈い に しへ の よみ く ち〉 に対 応 して ない か らで あ る。 そ して 歌 会 始 の 詠 進 歌 を審 査 し,選 をす る 〈点 者 〉 で 〈歌 道 顕 要 〉 の地 位 にあ る 高崎 に は,明 治 に欠 如 した 〈ま こ との歌 〉 の 回復 が,課 題 と して 立 ち上 が って くる。 そ して,そ れが 回復 され る とき に, マ ツリ コ ト 和 歌 は再 び 〈政 化 〉 を助 け る こ と とな り,国 家 に有 意 な もの と して 定位 され る だ ろ う。 皿,官 僚 ・社 会 活 動 家 と して の 営 為 ナ ゲ キ コ ヱ 高 崎 が 当代 にお け る欠 如 を憂 うる 「ま こ との歌 」,そ れ は また 〈嵯 歎 の声 音 〉 で あ り,〈 人情 風 俗 の写 真 〉 で もあ っ た。 そ の 回復 が な され,政 治 と結 びつ く こ とが あ る な らば,そ れ は和 歌 に よ り可 視 化 ・抽 出 され た 「ま こ と」=人 々 の 人 心 が 政 治 の 対 象 とな る こ とを意 味 す る。 周 知 の 通 り和 歌 を治 国 の 具 と し て 政 治 と結 ぶ 発想,い わ ゆ る 「政教 主 義 的 文学 観 」'°)は,この ジ ャ ンルの歴 史 の 上 で は 目新 しい トピ ックで は ない 。 だが 高 崎 の 場 合,注 目す る必 要 が あ る の は,人 心 を政 治 の 対 象 とす る発 想 が,彼 の 歌 人 と して の 営 為 の み な らず, そ の 官 僚 や 社 会 活 動 家 と して の さ ま ざ ま な施 策,思 想 と も対 応 して い る と考 え られ る こ とで あ る。 例 え ば1879年,宮 内 官僚 で あ っ た 高 崎 は 同僚 の福 羽 美静 ら と,〈 明 治 維 新 前 後 に於 け る旧 藩 士 及 び志 士 の 言 行 ・節 義 を編 述 し,以 て 修 史 の 料 に資 し風 教 の 資 に供 せ ん こ と>11)を宮 内卿 に願 い 出,そ の取 り纏 め役 を命ぜ られ て い る。 ま た1881年 に は,元 田永 孚 ら と と もに編 纂 した 『幼 学 綱要 』 が 完 成 す る。 同 書 は,和 漢 の 事 績 菅 原 道 真 や 楠 木 正 成,ま た蜀 の 諸 葛 亮 な どの 例 話 を掲 げ 10)渡 辺秀 夫 「〈歌 の ち か ら〉 天 地 ・鬼 神 を動 か す もの一 『礼 楽 』 と 「歌 』」(「国 語 と 国文 学 」2002・5)の 語 。 同論 で は,古 今集 仮 名 序 を検 討 して 〈「和 歌 」 に よっ て国 を 治 め る 〉 思想 を 「政教 主 義 的 文 学 観 」 と呼 ん で い る。 11)「 明 治 天皇 紀』 四 巻(吉 川 弘 文館,1970),明 治 一 二 年 九 月 一 六 日の 記 述 。

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明治 期 日本 の和歌 と 〈政治 〉 47 て,〈 国民 の 思想 と道徳 実践 の 指導>12)の た め編 まれ た と され るが,こ れ らの 編 述 に関 わ って い た事 実 か らは,人 々の言 説 や 履 歴 を歴 史化 し,〈風 教 の資 に 供 せ ん〉 や く道 徳 実 践 の 指 導 〉 な どの 語 に示 され る よ う に,国 民 の 人 心 陶 冶 に用 い よ う と した高 崎 の 仕 事 の 性 質 が 見 えて くる だ ろ う。 さ らに次 の よ う な 例 もあ る。 十 九 日,往 年 侍 補 高 崎 正 風,同 元 田永 孚 と御 前 に砥 候 せ る 日,明 治 功 臣の 写 真 を蒐 集 して 添 ふ る に其 の 歌 詩 を以 て した ま は ば 感 興 頗 る深 か るべ き 旨 を聖 聴 に達 し …(中 略)… 現 在 文 武 百 官 の 写 真 を座 右 に備 へ た ま は む と し,之 れ が 蒐 集 を宮 内 卿 に命 じた まふ …(中 略)… 翌 十 三 年 三 月 二 十 二 日太 政 官 は,参 議 大 隈 重 信 等 六 名 を除 くの 外,大 臣以 下 三 十 八 名 の 写 真 集 まれ る を以 て,一 人 三 葉 宛 を宮 内 省 に送 付 す,同 年 同月 天 皇, 更 に各 官 省 准 奏 任 官 以 上 並 び に癖 香 問砥 候,其 の 他 有 意 華 族 の 歌 詩 を蒐 集 した ま は ん とす 。 こ こで 高 崎 は元 田永 孚 と と もに 〈明 治 功 臣〉 の 肖像 写 真 と 〈其 の 歌 詩 〉 の 蒐 集 を天 皇 に願 い 出 る。 そ の 理 由 と して 〈感 興 頗 る深 か るべ き〉 こ とを睦 仁 に助 言 した とあ るが,こ の 蒐 集 は君 主 の 興 味 を満 足 させ る以 上 の 意 味 を持 つ だ ろ う。 天 皇 はそ れ を宮 内 卿 に命 じ,そ の 旨 は さ らに政 治 の 府 で あ る太 政 官 に も伝 わ り,写 真 が 集 め られ て い る。 い さ さか 大 仰 に も見 え るが,こ れ は写 真 蒐 集 とい う行 為 が,天 皇周 辺 に と って大 事 で あ っ た こ とを示 す証 左 だ ろ う。 一 般 に コ レク シ ョ ンす る側 とされ る側 で は,そ の 権 力 は非 対 称 的 で あ る。 蒐 集 者 は蒐 集 物 に対 して 一 方 的 に ま な ざ し,カ テ ゴ リ ー化 し序 列 化 す る こ とが 可 能 で あ る。 つ ま りコ レ クシ ョン行 為 そ の もの が コ レク シ ョン対象 に対 して, 圧 倒 的 な権 力 差 を顕 示 す る だ ろ う。 そ う なれ ばそ れ は支 配 行 為 そ の もの と も 12)海 後 宗 臣 「教 育 勅 語 成 立 史 の研 究』(東 京 大 学 出 版 会,1965)

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言 え る13)。 更 に 注 目 し た い の は,高 崎 ら は 肖像 に 当 人 の く歌 詩 〉,つ ま り和 歌 や 詩 を 添 え る こ と を 主 張 して い る こ と だ 。 こ こ で 高 崎 が 和 歌 を 〈人 情 風 俗 の 写 真 〉 と 解 して い た こ と を 想 起 し た い 。 な ら ば,天 皇 は 臣 下 の 詠 作 を 通 して そ の 心 中 ま で 覗 き見 る こ と に な ろ う 。 つ ま り詩 歌 蒐 集 は 天 皇 の 支 配 を,肖 像 とい う 外 形 に 加 え,そ の 内 面 の 領 域 ま で 進 め る もの で あ っ た と も解 し う る'4)。 ま た,詩 歌 蒐 集 か ら三 年 後,1883年 に 高 崎 は,「 か な の く わ い 」 に 参 加 し て い る 。 会 は,〈 主 眼 を 国 字 改 良 に 置 き …(中 略)… か な 文 ま た は ロ ー マ 字 文 の 言 文 一 致 化 とい う こ と と共 に,明 治 三 〇 年 前 後 の 活 発 な 言 文 一 致 活 動 の 誘 因 と な り,あ る い は 言 文 一 致 体 小 説 出 現 に 拍 車 を か け た>15)と も評 さ れ る が,同 会 幹 事 で あ っ た 高 崎 に は,次 の よ う な 発 言 が あ る 。 こ の め い ぢ 二 十 ね ん に,こ て い の う た ふ み を い ッペ ん し ま して,つ く りや す く よ み や す い もの と して,ひ ろ い よ の な か の べ ん り に そ な へ …(中 略)… ぶ ん し や う を こ と ば の ひ つ き と い ふ ほ ん らい の せ い しつ に ひ きか へ し ま して,み ・ ひ と り の や くめ で わ か る や う に い た し た い と お も ひ ま す 。 「か な の く わ い の し ん ぽ を の ぞ む 」(「か な の て か ぐみ 」1887・2) こ こ で 語 られ る の は 〈こ て い の う た ふ み 〉 二固 定 の 歌 文 を くい ッペ 13)コ レ ク シ ョ ン行 為 の 政 治 性 につ い て,松 宮 秀 治 『ミ ュ ー ジ ア ム の 思 想 』(白 水 社,2006)を 参 照 14)1867年 の奥 羽 巡行,ま た1878の 北 陸 ・東 海 道 巡行 の 際 には,巡 行 先 の 人 々 の詩 歌 が 蒐 集 さ れ て い る 。 そ れ ぞ れ 『埋 木 廼 花 』(書 誌 本 文 中),「 千 草 能 花 』(宮 内 省,1880)と して 高 崎 に よ り纏 め られ,宮 内 省 か ら出 版 され た 。 天 皇 の 政 府 が 新 領 土 の 人 々 の歌 を集 め,取 り纏 め た 理 由 の 一 端 は 本 文 で 記 した よ う な コ レ ク シ ョ ン行 為 の 政 治性 とい う観 点 か ら説 明 で きる だ ろ う。 15)山 本 正 秀 「近代 文体 発 生 の 史 的研 究』(岩 波 書 店,1965)

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明治 期 日本 の和歌 と 〈政治 〉 49 ん〉 ニー 変 させ る こ と,文 字 の 使 用 を 〈ほ ん らい の せ い しつ 〉 二本 来 の 性 質 で あ っ た くこ とば の ひ つ き〉=言 葉 の筆 記機 能 に返 す た め に,「 か な」 を使 用 す べ き とい う主 張 で あ る。 引 用 文 の 表 記 か ら もわか る とお り,こ の ア イデ ア は表 意 文 字 で あ る漢 字 を排 除(※ 但 し漢 数 字 を 除 く)し て お り,「耳 一 人 の 役 目」 で そ れ が 理 解 され る よ う に,表 音 文 字 で あ る仮 名 を尊重 してい る。 か つ て 江 戸 期 の 国学 者 ら も漢 字 の 意 味 性 を嫌 悪,排 除 し音 声 言 語 の 優 位 性 を 主 張 した わ け だが,「 か なの くわ い」 の主 張 もそ の意 味 で,か つ て の 国学 者 と 繋 が る もの とい え る16)。 さて,引 用 文 中で は 〈う た〉 もま た改 良 の 射 程 圏 内 にあ る。 そ こで 考 えて お きたい の は,こ こで もま た 〈ほ ん らい の せ い しつ 〉 の 喪 失 とそ の 回復 とい う テ ーマ が 繰 り返 され て い る点 で あ る。 今 は ほ とん ど失 われ たが,歌 は ナ ゲ キ コ ヱ 〈嵯歎 の声 音 〉 で あ らね ば な らず,ま た文 字 は音 声 と して の言 葉 を筆記 す る と い う機 能 に返 さ な くて は な らない 。 この 二 つ の 問 題 を重 ね,さ らに推 測 す る ナ ゲ キ な らば,高 崎 は,歌 の 生 まれ る始 発 点 に 〈嵯 歎 〉 を措 定 し,そ こか ら生 まれ コ ヱ る く声 音 〉 に対 して,音 声 をそ の ま ま に捉 え る とい う 「か な」 を用 い よ う と い う論 理 を保 持 して い たの で は なか っ たか 。 そ れ に よ り,歌 を詠 む人 々の 始 ナ ゲ キ 発 点 にあ る 〈嵯 歎 〉 とい う内 面 を,外 部 に十 全 に露 出 させ た歌,つ ま り 「ま こ との 歌 」 が 可 能 とな る。 高 崎 は こ う した思 惑 か ら 「か なの くわい 」 の 諸 活 動 に参 じたの で は なか っ たか 。 皿,「 ま こ と の 歌 」 と して の 「御 製 」 高 崎 が 人 々 の 内 面 そ の ま ま の 発 露 を 歌 の 理 想 と して い た こ と は,次 の よ う な 和 歌 くお もふ こ と もた し が た くて う ち い つ る 声 よ り外 の 歌 は う た か は 〉(題 「歌 」)17)か ら も 明 ら か で あ る 。 こ の 歌 で は,〈 お もふ こ と 〉 を 内 に 秘 め て は お 16)川 村 湊 『言 霊 と他 界』(講 談 社,1990),子 安 宣 邦 『本 居 宣 長』(岩 波 書 店,1992) 等 を参 照 。 17)高 崎 正風 「多津 か ね 集』(中 央 歌 道 会,1926)所 収 。

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けず,遂 に発 して しま う 〈声 〉 こそ 歌 で あ る とい う,こ れ まで 記 して きた よ う な高 崎 の 理 想 と した和 歌 の 在 り方 が 詠 じ られ て い る。 だが い か な る歌 で あ って も,世 に現 れ る と きは記 号 で あ る言 語 に媒 介 され る以 外 に ない 。 た とえ 表 記 に 「か な」 を用 い た と して も,〈お もふ こ と〉 が そ の まま に歌 とな る こ と は,原 理 的 に実 現 不 可 能 なの だ。 しか し高 崎 はそ の よ う な 「ま こ との 歌 」 を 追 い,そ の 見 い だ し難 き理 想 を,や が て は明 治 天 皇 睦 仁 の 和 歌 「御 製 」 に投 影 して ゆ く。 歌 は 人 の 心 を 種 と して 詠 む の で あ る か ら,歌 其 の もの が,極 め て 力 あ り, 趣 味 あ る 教 訓 と な る の で あ り ま す …(中 略)… 陛 下 の 御 製 は,尽 く 人 に 何 と もい は れ ぬ 一 種 の 感 動 を 与 え られ る の で す 。 其 は 詠 ぜ ん と して 詠 じ給 ふ の で は な く,御 性 格 が 其 の ま ・自 然 に 発 揮 せ られ て,歌 に な る の で あ る か らで す 。 「御 製 『家 』」(「斯 民 」1910・4) 陛 下 の 御 製 を拝 唱 致 して 見 る と,ど う も此 貫 之 の 言 う た所 の,自 然 の 人 情 よ り発 す る と云 ふ こ とが 御 本 で は なか らうか と考 へ る。…(中 略)… 御 製 を拝 見 す る と,御 直 話 を伺 ふ よ り,陛 下 の 御 胸 中 に貯 へ られ た色 々 な 思 召 しが 換 発 して 居 る。 「御 製 に就 て 」(『国 民 教 育 東 京 講 演 』 丁 未 出版,1911) 「御 製 」 につ い て,前 の 引 用 で は睦 仁 の 性 格 が 〈自然 に発 揮 せ られ 〉 と言 い,後 の 引 用 で は,睦 仁 の 胸 中の 〈思 召 し〉 を,直 接 話 す よ りそ の 歌 か ら感 じ取 れ る と言 う。 どち らの 引 用 も 〈歌 は人 の 心 を種 と して 詠 む〉 とい う古 今 集 あ るい は紀 貫 之 の 以 来 の 作 歌 の 玉 条 を引 き,そ れ と 「御 製 」 との 符 合 が 確 認 され て い る。 ま た後 の 引 用 の 別 箇 所 で は,実 際 に 「御 製 」 を引 い て 次 の よ う に記 す 。

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明治 期 日本 の和歌 と 〈政治 〉 51 す な ほ な る大 和 心 をの べ よ とて か み や ひ ら き し言 の 葉 の 道 これ は天 真 燗 漫 の 素 直 な心,其 心 を述 べ よ とて,神 が 敷 島 の 道 を御 開 き遊 ば した と云 ふ 御 感 じで あ る。 そ れ で 此 裏 を 申す と,繊 言 綺 語 を選 び,意 を 屈 して 詠 む もの で は ない,真 直 に 自分 の う ち思 ふ 侭 を言 ふ もの で あ る と云 ふ こ とを御 感 じ遊 ば して,此 の御製 が 出来 たか と拝 察 す る。…(中 略)… ま た呉 竹 の 直 き心 の ゆ くま ・に述 べ し心 ぞ 床 しか りけ る これ は即 ち天 然 自然 の 情 を其 儘 に偽 は らず 飾 らず うつ し出せ る言 葉 が,自 分 が 見 て は床 し く思 ふ,巧 拙 に拘 は らず,巧 み 上 手 に 旨い 言 葉 を以 て 持 え た歌 は天 然 自然 で ない か ら面 白 くない,各 々の 心 を其 儘 うつ した す な ほ な 歌 が 誠 に床 しい,斯 う云 ふ こ とで あ る。 これ な どを拝 言甫して も,御 歌 始 め に,陛 下 が 人民 に歌 の 題 を賜 はつ て 御 詠 ませ に な るの は前 代 未 聞 の こ とで あ る。 どうか 此 直 き心 を其 儘 に述 べ る と宜 しい が,兎 角 意 を 曲 げて,巧 妙 に作 る方 に向 くの で,折 角 の 御 趣 意 に副 は ない 歌 が 多 か る は,返 す 返 す も 残 念 に思 ふ 。 こ こで は睦 仁 の 心 中が1寸度 され,睦 仁 自身 が 〈真 直 に 自分 の う ち思 ふ 侭 を 言 ふ もの 〉,〈天 然 自然 の 情 を其 儘 に偽 は らず 飾 らず うつ し出せ る言 葉 〉 を和 歌 の 理 想 と して い る と語 られ る。 睦 仁 は高 崎 に和 歌 の 教 え を受 け たか ら,高 崎 の 「ま こ との 歌 」 の 思 想 をそ の ま ま に引 き継 い で い る こ とは当 然 と も言 え る。 しか も高 崎 の 説 が,天 皇 の 名 にお い て 再 度 語 られ て い る こ とで,よ り権 威 付 け られ,正 当 化 され た と も言 え る だ ろ う。 そ して もう一 つ 注 意 した い の は,「 御 製 」 が 「ま こ と」 を存 分 に発 露 させ る 一 方 で,〈 人 民 〉 の 歌 が 〈兎 角 意 を 曲 げて,巧 妙 に作 る方 に向 く〉 と論 じ られ て い る こ とで あ る。 つ ま りこ こで な され て い るの は 「ま こ と」 の 発 露 を基 軸 と した序 列 化 で あ る。 存 分 に 「ま こ と」 を発 露 して い る 「御 製 」が 上 位 に,そ して 「ま こ と」 の 発露 が 足 り ない 点 で,〈 人民 〉 の詠 作 が そ の 下位 に位 置 づ け られ て い る。 こ う して,す で に帝 国憲 法 に 「神 聖 不 可 侵 」 と規 定 され て い た睦 仁 は,こ れ らの 論 が 書 か れ

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た1910年 前 後 に は,歌 道 の ヒ エ ラ ル キ ー に お い て も人 々 の 上 位 者 と し て 君 臨 す る こ と と な っ た 。 そ して 高 崎 ら 「旧 派 」 歌 人 に つ い て は 論 難 し え た 「新 派 」 歌 人 や,そ の 末 喬 で あ っ て も,こ の よ う な 「御 製 」 を 盾 と し た 高 崎 の 見 解 に つ い て は 批 判 し え ず,そ の 言 説 を ほ ぼ そ の ま ま に 追 認 し た の で あ る18)。 ].v,和 歌 一 〈君 臣 の 情 誼 を 繋 げ る 〉 メ デ ィ ア 前節 引用 で,高 崎 は 「御 製 」 の対 極 に 〈人民 〉 の歌 を見 い だ し,そ れ は 〈兎 角 意 を 曲 げて,巧 妙 に作 る方 に向 く〉 と論 じて い た。 これ は 「ま こ との 歌 」 を理 想 とす る歌 人 の 立 場 か ら,人 々の 作 歌 活 動 にお け る表 現 意 識 の 粉 飾 性 を 論 難 した もの と理 解 され る。 一 方 官 僚 社 会 活 動 家 と して の 高 崎 の 仕 事 を見 れ ば,和 歌 を詠 む う えで の 表 現 意 識 の 問 題 よ り も,更 に根 底 の レベ ルの 改 良 へ と,そ の精力が傾注 されてい たこ とが理解 され る。つ ま り人 々の心の在 り 方 そ の もの が,高 崎 に は問 題 視 され,そ れ を直 接 的 に陶 冶 す る こ とを,彼 は 目指 したの で あ る。 す で に見 た とお り宮 内 官 僚 と して の 高 崎 は,1880年 代前 後 期 か ら 『幼 学 綱 要 」 な どの 編 述 に加 わ って い た。 そ して 社 会 活 動 家 と して は,1898年 に彰 善 会 を,1908年 に一 徳 会 を組 織 して い る。 会 が い か な る人員 か ら成 り,ど の よ う な経 緯 で 設 立 され たか な ど詳 細 につ い て は,前 掲 宮 本 誉 士 の 詳 細 な研 究 が あ り再 説 を要 せ ぬ が,こ こで は一 徳 会 の 主 旨の み 高 崎 自身 の 発 言 か ら確 認 す る こ と と しよ う。 此 の 一 徳 会 と申す 者 は,明 治 二 十 三 年 十 月 三 十 日の 詔 勅 を我 が 国 民 が 実 行 せ ね ば な らぬ とい ふ 主 義 で ござ ります 。…(中 略)… 斯 の 如 く臣民 に 18)例 え ば斎 藤 茂 吉 「明 治 大 正 短 歌 史概 観 」(「現 代 短歌 集 現 代俳 句 集 』 改 造社,1929) は,〈 そ の 歌調 の 堂 々 た る,御 心 の ま まの 直 ぐな る,さ なが らを味 じた まひ て,毫 も巧 む こ とあ らせ られ ず 。 これ,御 製 の特 色 と拝 した て まつ る〉 と記 し,ま た 〈と も しび を さ しか ふ る まで 軍 人 お こせ しふ み を よみ 見 つ るか な〉 な どの 歌 を く流 派 を絶 し,時 代 を絶 し,た だ ち に和 歌 の 本 質 に貫 徹 した もの 〉 と激 賞 して い る。

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明治 期 日本 の和歌 と 〈政治 〉 53 対 して 御 懇 切 な有 り難 き詔 勅 は無 い と思 ひ ま して,詰 り心 を一 に し徳 を一 にす る と云 ふ 事 が 此 の 詔 勅 の 眼 目 と思 ひ ま したか ら,私 は一 徳 会 と云 ふ 名 を下 しま して,我 が 同胞 の 国 臣 と共 に是 非 共 一 つ 之 を躬 行 実 践 せ ね ば な ら ぬ と考 へ ま した(… 後 略) 「一徳 会 成 立 の趣 意 」(「史 談会 速 記 禄 」1908・8) つ ま り一 徳 会 は明 治 二 十三 年 の 詔勅,い わゆ る 「教 育 勅 語 」(1890)の 趣 旨 を人 々 に,教 え,実 行 させ る ため の 会 だ っ た。 各 地 に支 部 会,会 員 同士 の 勉 強 会 が 組 織 され,名 士 の 講 演 活 動 や さ らに は 「心 学 講 話 」 等 が 開 か れ,さ ら に雑 誌 「一 徳 」 の 発 行 な どを通 じて,そ の 趣 旨が 実 行 され て い っ た。 同資 料 の 別 の箇所 で は,高 崎 は殺 人 の増加,日 露戦 後 の 日比谷 焼 き討 ち事 件,「 露探 」, つ ま りロ シ アの ス パ イで あ る と呼 ばれ た 人 々の 存 在 に言 及 し,〈国 民 〉 と して の モ ラル の 低 下 を嘆 い て い る。 高 崎 の 歌 に 〈い か に して す きか へ さ ま し紙 よ りも薄 くな りぬ る人 の こ ・ろ を〉(「寄 紙 述懐 」 『多 津 か ね 集』 所 収 註17)参 照)が あ るが,ま さ し く高 崎 は 〈人 の こ ・ろ〉 を対 象 に,そ れ が 〈紙 〉 よ り も薄 くな っ た こ とを嘆 き,〈 す きかへ 〉 す こ と を願 っ た 。 〈す き〉 は 「漉 く」 あ るい は 「鋤 く」 の 意 で あ り,以 前 の 状 態 を改 め,作 り直 す こ とで あ ろ う。 つ ま り 〈人 の こ ・ろ〉 をそ の よ う な状 態 に仕 向 け る,教 化 実 践 へ の 意 思 を詠 ん だ歌 と考 え られ る'9)。 か か る彼 の 活 動 の なか で は,和 歌 の 理 想 の 姿 と して 彼 に見 い だ され た 「御 製 」 に も別 の 役 割 が 振 り当 て られ る こ と とな る。 19)彼 の作 歌 は 国 家 や社 会 の種 々相 を しば しば 表 現 対 象 とす る。 和 歌 に限 らず 唱 歌 制 作 も同 様 で,た とえ ば 「紀 元 節 の 歌 」 の 作 詞 な ど も彼 の 仕 事 で あ る。 なお 高 崎 ら 「旧派 」 歌 人 た ち と唱 歌 の 関わ りにつ いて は安 田寛 「唱 歌 の作歌 と御歌 所 人脈 」(「奈 良教 育 大 学 紀 要」2006・10)に 詳 しい 。 また長 志珠 絵 「国歌 と国楽 の位 相 」(「幕 末 ・ 明 治期 の 国 民 国 家 形 成 と文 化 変 容』 新 曜 社,1995)は,「 国 歌 」 の 形 成 に 「旧 派 」 歌 人 た ち が 参 与 した 経 緯 に つ い て 触 れ て い る。

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明 治 天 皇 の 御 製 が 新 聞 に 出て,世 問 に漏 れ 始 め た の は明 治 三 十 七 八 年 の 戦 役 の 頃 で は無 か つ たか 。 少 く と も此 頃 か ら新 聞 にあ らはれ る事 が 多 くなつ た。 これ は当 時 の 御 歌 所 長 高 崎 男 が 漏 され たの で あ る。…(中 略)… 或 時 天 皇 は御 製 の 頻 々 と して 新 聞 に 出 るの を にが にが し く思 召 され て 高 崎 男 を御 召 しに なつ て 軽 く御bに なつ た。 無 論 高 崎 男 は龍 顔 に対 して 奉 らず して 傭 伏 して 奉 答 す るの で あ る上 に カ ナ聾 で 御 言 葉 が よ く聞 こ えぬ か ら御 叱 りに なつ て 居 るの ちや とは気 が 付 か ず に 「御 製 を世 に漏 らす とい ふ 事 は 世 道 人 心 の 為 に非 常 に よい 事 と存 じま して 致 した事 で ご ざい ます 。 も し之 につ い て 御bが あ らば正 風 は切 腹 して 申訳 を致 します 」 と申 し上 げて,調 子 に乗 つ て 手 で 腹 を切 る まね を して 御 覧 に入 れ た。 「明 治 天 皇 御 集 編 纂 につ い て 」(『短 歌 講 座 十 巻 』 改 造 社,1932) 引 用 は井 上 通 泰 とい う歌 人 の 文 で 高 崎 自身 の 言 で は ない 。 しか しこの 言 が 事 実 な ら,日 露 戦 争 前 後 期 か ら高 崎 が した 「御 製 」 漏 洩 は,彼 自身 に 〈世 道 人 心 の 為 に非 常 に よい 事 〉 と認 識 され て い た。 高 崎 は,「 御 製 」 とい う天 皇 の 内 面 が そ の ま ま に発 露 され た とい う 「ま こ との 歌 」 を もって 人 々の 内 面 に働 きか け よ う と した。 人 心 陶 冶 の 具 と して の 「御 製 」 を発 見 したの で あ る。 「御 製 」 に は,〈 ち はや ふ る神 の こ ・う にか なふ らむ わ か くに民 の つ くす 誠 は〉(「国民 新 聞 」1904・1・7)の よ う な民 の 誠 忠 を認 め,さ らに一 層 の そ れ を促 す 歌 や,さ らに は 〈きた ひ た る剣 の 光 い ち じる く世 にか ぐや か せ 我 が 軍 人 〉(「読 売 新 聞 」1905・3・12)の よう な,あ か らさ まに 戦争 を支 持 し,軍 人 達 を督 励 す る内 容 の 歌 が 含 まれ て い る。 「御 製 」 は 日露 戦争 期 以 降 ア ジ ア ・ 太 平 洋 戦争 期 に至 る まで,多 く 「教 訓 的 な御 歌 」2°)として示 され た とい う。天 皇 の 意 思 をそ の ま ま に示 す もの とされ る 「ま こ との 歌 」 で あ る 「御 製 」 は, 20)佐 佐 木信 綱 『和 歌 百話 』(博 文館,1918)は,「 御 製 」 には 〈天皇 が 畏 き大 御 心 か ら して,或 は 国 家 を思 ひ,或 は祖 神 を敬 は れ,或 は 国 民 をお ぼ し,或 は修 養 の 意 を 詠 じ給 うた もの で,一 言 に い へ ば 教 訓 的 な御 歌 〉 が あ る と指摘 す る。

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明治 期 日本 の和歌 と 〈政治 〉 55 カ ル タや 唱 歌,習 字 手 本,ま た 国定 教 科 書 に収 録 され な ど して,人 々の 身 心 を律 す る規 矩 と して 社 会 に流 通 す るの だが,そ れ も,も とは高 崎 の 考 えか ら 始 ま っ たの で あ る21)。 さて,こ れ まで の 記 述 を一 端 ま とめ て お く と,高 崎 は,そ の 人 の 心 が そ の ま ま に現 れ た 「ま こ との 歌 」 を求 め,そ の 実 現 を志 した。 だが,歌 会 始 の 詠 進 歌 や 『埋 木 廼 花 』 な どの ア ン ソ ロ ジ ー を ま とめ る に際 して,高 崎 に苦 々 し く思 われ て い た の は,民 間の 人 々の 歌 に,そ う した 「ま こ との 歌 」 が なか な か 見 い だ し難 い 事 実 で あ る。 と りわ け詠 進 歌 にあ って は,人 々の 制 作 意 識 の 粉 飾 性 が 耐 え難 く感 じられ た よう だ。 一方,睦 仁 の 「御 製 」 はそ うで は ない 。 そ の 心 が そ の ま ま に表 現 され た 「ま こ との 歌 」 と して,高 崎 はそ れ を重 要 視 し,人 々 に示 したの で あ る。 これ らの 事 実 をふ ま え た う えで,な お 問 題 にす べ きは,高 崎が天皇 と人 々を 「まこ との歌」 を以て,相 互 に交通せ しめ よう と したそ の 構想 で あ ろ う。 構想 は,高 崎 自身 の 発 言 に よれ ば,既 に明 治 初 年 代 よ り企 図 され て い た。 此 歌 の 道 ばか りは,言 の 葉 の ま こ との 道 の 嬉 し きは高 きい や し きへ だて ざ りけ り と,云 はれ し如 く些 も上 下 尊 卑 の 差 別 無 く,上 天 子 よ り卿 大 夫,下 庶 民 に至 る まで,少 し も区別 が 無 い 。 そ こが 歌 の 尊 い とこ ろで あ る。 そ こ で 自分 は,之 れ は歌 の 道 を措 て は,外 に君 臣の 情 誼 を繋 ぐ もの は無 い と云 ふ 考 へ が 起 つ た。 高 崎正 風 述 ・遠 山稲 子 篇 『歌 もの が た り』(東 京 社,1912) 第 一 節 で 紹 介 し た 『埋 木 廼 花 』 を 編 む に 当 た り,高 崎 は 上 記 の よ う に 思 い 至 っ た 。 つ ま り 〈言 の 葉 の ま こ と の 道 〉,〈歌 の 道 〉 を 以 て,〈 君 臣 の 情 誼 〉 を 繋 げ る とい う の だ 。 21)「 御 製 」 の 近代 日本 に お け る種 々 の役 割 につ い て は拙 稿 「明治 天 皇 『御 製』 の ポ リ テ ィク ス 」(「日本 近代 文 学 」2008・ll)を 参 照 。

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和 歌 に この よ う な役 柄 が 振 り当 て られ た こ とで,そ の ジ ャ ンル は,明 治 国 家 の なか で 新 しい 意 味 を帯 び始 め る。 幕 府 時 代 を経 て,新 政 府 の 統 治 を受 け る こ と とな っ た民 衆 と,彼 らに は ま だ 目新 しい 君 主 とを媒 介 す る 「実 学 」 と して,和 歌 はそ の と き価 値 付 け られ たの で あ る。 そ して そ れ か らの 高 崎 は, 歌 論 の 著 述 活 動 な どで 和 歌 に よ る 「ま こ と」 の 発 露 を人 々 に促 した。 ま た官 僚,あ るい は社 会 活 動 家 と して の 高 崎 の 諸 活 動 も,そ う した国 家 の 構 想 と関 連 づ けて 考 え る こ と も可 能 で は ない だ ろ うか 。 例 え ば 「ま こ と」 を発 す る母 体 で あ る人 々の 心 そ の もの の 浄 化 活 動 あ るい は 「ま こ と」 を よ りよ く表 現 す る ため の 「か な」 使 用 を勧 め る運 動 等 と して,で あ る。 そ の 確 定 は,高 崎 の 他 面 に わ た る諸 活 動 の 更 な る詳 細 な検 討 を待 って な され な けれ ば な らない が,と もあ れ 高 崎 が 単 な る一 歌 人 で なか っ た こ とに は注 意 す る必 要 が あ る だ ろ う。 そ の 思 想 は単 な る机 上 の 歌 論 の 枠 に留 ま らず,彼 の 様 々 な立 場,実 力 を通 して 社 会 に広 め られ,現 実 化 され よ う と したの で は ない か 。 終 わ りに 一高 崎 正 風 を批 評 す る ため に 見 て きた よ う に,高 崎 は和 歌 に よ り天 皇 と人 々 を繋 ぐこ とを構 想 し,そ の 現 実 化 に努 め た。 言 う なれ ばそ れ は"和 歌 国 家"の 構 想 と も言 え よ うが,し か しそ れ は 高 崎 の言 う よ う に,〈 上 下 尊 卑 の差 別 無 〉 い,天 皇 か ら庶 民 まで 〈区 別 が 無 い 〉 ユ ー トピア とは,つ い に な りえ な い 。 そ の 国家 で は 〈君 臣〉 とい う上 下 の 関 係 は 自明 で あ り,そ こ に支 配/被 支 配 とい う権 力 の 非 対 称 性 は温存 され て い る。 両 者 を繋 ぐ とい う 「まこ との 歌 」 は,個 々人 が あ りの ま まの 心 情 を述 べ る とい う もの だが,し か し高 崎 が 日露 戦 争 後 の 人 々の モ ラ ルの 低 下 を嘆 い た よ う に,そ の 「ま こ と」 は 自ず と限 界 を孕 んで い る。 例 え ば 「新 派 」 歌 人 で あ っ た石 川 啄 木 が,朝 鮮 併 合 や 大 逆 事 件 に際 して 詠 出 した 国家 へ の 批 判 を含 む詩 歌 を高 崎 の い う 「ま こ と」 は包 含 しえ た ろ うか 。 高 崎 ら 「旧 派 」 の 歌 人 ・和 歌 が,若 者 の 支 持 を取 り付 け られ ず 「新 派 」 に凌 駕 され て い っ た理 由の 一 端 が,そ こ に も胚 胎 して い た とい え

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明治 期 日本 の和歌 と 〈政治 〉 57 る。 そ う して 高 崎 の 歌 人 と して の評 価 は,「 新 派」 の登 場 以 降 今 に至 る まで低 回 した ま ま だ。 だが 彼 を批 評 す る に は,そ の 歌 論 や 実 作 者 と して の 実 力 を再 審 す る だ けで は,恐 ら く足 りない 。 とい うの も,こ れ まで の 記 述 に明 らか な よ う に,高 崎 は 自身 が構想 した"和 歌 国家"の なか で,た と えば 『埋 木 廼花 』 な どの 人 々の 歌 の ア ン ソ ロ ジ ーの 編 者,あ るい は歌 会 始 の 点 者 と して 人 々の 歌 を取 り上 げて 天 皇 に呈 す る役 目を負 っ た。 ま た天 皇 睦 仁 の 「御 製 」 を しば しば人 々 に示 し,広 め よ う と した。 つ ま り自 らを 〈君 臣〉 の 中間 位 置 に位 置 づ け,両 者 の 「媒 介 者 」 とな る こ とが 彼 の 選 択 だ っ たか らで あ る。 彼 自身 , 歌 人 と して栄 達 す る よ り 「国 家 の事 」 に尽 力 した い と発言 してい るが22),その 意 味 で も,歌 人 と して の 枠 内 に彼 を留 め て 論 評 す る こ とは,さ ほ ど有 効 とは 思 われ ない 。 む しろ問 題 は 「媒 介 者 」 と しての 彼 の姿 であ る。 さ らに は現在 に至 る まで, 折 々の 天 皇 や 皇 后 が そ の 感 慨 を伝 え る とい う 「御 製 」 が 新 聞 や テ レビで 報 じ られ て い る こ と,ま た一 方 で は,歌 会 始 に は万 を超 え る人 々の 和 歌 が 寄 せ ら れ て い る とい う現 状 で あ る。 つ ま り高 崎 が 明 治 期 に構 想 した"和 歌 国 家"及 び和 歌 の在 り方 が形 を変 え なが ら も,し た た か に延 命 して い る とい う事 実23)こ そ が 問 われ るべ きなの だ。 高 崎 が プ ロ グ ラ ミン グ した,そ う した国 家 の 在 り 方,そ の よ う な役 割 を果 たす 和 歌 の 特 質 と功 罪 を問 う こ とで,は じめ て 問 題 は現 在 性 を帯 び,ま たそ の 人物 に も ク リテ ィ カル に迫 る こ とが 可 能 とな ろ う。 本 稿 はそ こ にい た る一 階 梯 で あ る。 ※本 稿 は,山 梨 大 学 に於 け る 日本 文 学 協 会 第28回 研 究発 表大 会(2008・6・ 22)高 崎 正風 述 ・遠 山稲 子 篇 『歌 もの が た り』(東 京社,1912) 23)た とえ ば2010年 に 天 皇,皇 后 は奄 美大 島 の豪 雨 災害,小 惑 星探 査 機 「はや ぶ さ」, ワ ー ル ドカ ップ 南 ア フ リカ 大 会 等 を材 と して 歌 を詠 出 した こ とが 宮 内 庁 よ り明 ら か に さ れて い る。 また 同 年 の歌 会 始 に寄 せ られた 歌 数 は20802首 。 と もに 「読売 新 聞 」(2011・1・1,同 年1・14)参 照 。

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29)で 「明 治 期 日本 の 和 歌 と政 治 一 歌 人 ・官 僚 高 崎 正 風 の 営 為 をめ ぐって 」 題 で 発 表 した草 稿 を加 筆 修 正 した もの で あ る。

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明治 期 日本 の和歌 と 〈政治 〉 59

PoetryintheWakeofImperialJapan:

PoliticsoftheTraditionalLiteratureSince1868

ShunjiMATSUZAWA TraditionalJapanesepoetry(waka)facedextremedifficultiesduetothe massiveinflowofwesternthoughtattheemergenceofImperialJapaninthe latenineteenthcentury.MasakazeTakasaki,awakapoet,whoservedEm- perorMeijiinagovernmentalcapacity,playedacrucialroleforthecontinu-ationofwakaduringthetimeofJapan'swesternization.HowdidJapanese traditionalliteraturesurviveinatimeofextraordinarysocio-culturalandpo-liticaltransformation?ThispaperexploresthehistoryofJapanesepoetry cultureandtheroleofTakasakiinitsstruggle,renewal,andstabilizationsince 1868.Historicalanalysesprovideanalternativeviewofthehistoryofpoetry inJapanTakasaki,asagovernmentbureaucratandsocialactivist,established theidealwakapoetrytypologyandplayedanimportantroleinthediffusion processoftherenewedtraditionalculture.Hispoetryworkattemptedtoturn theattentionofEmperorMeijiandpoliticalelitesintheImperialGovernment towardthemindsofthepeople.Asaresult,wakapoetrybecameanimpor-tantspiritualandpoliticalbindingbetweenEmperorMeijiandpeopleofJapan Thus,bybringingtheculturalstatusofpoetryintothepoliticalarena,Taka-sakicontributedtotherenewalandcontinuationofaculturaltraditionand literature.IntheemergenceofImperialJapan,MasakazeTakasakigavenew valuetotraditionalJapanesepoetry,whichoncethoughttobeunnecessary inarapidlymodernizingandwesternizingsociety. Keywords poetry,politics,ImperialJapan,MasakazeTakasaki, MeijiEmperor

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