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基幹論文 「病いの語り」再考

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はじめに

 医師が診断する「疾患(disease)」と病者やその家族 が経験する「病い(illness)」を対比的に用いたクライ ンマン(Kleinman, 1996/1988)の議論からも明らかなよ うに,「病いの語り(illness narrative)」は,近代医療が 看過してきた「患うこと(suffering)」の個別的な経験 を主題化しようとする視点である。近代医療の誕生以 降,病気は生物医学的な現象であり,専門家のみが理 解可能であると捉えられてきた。これに対して,1980 年代以降に蓄積された「病いの語り」研究は,治癒す るとは限らない慢性疾患の時代を生きる病者の固有の 苦しみや病いの意味を把握することの重要性を提示 し,今日に至るまで多大な影響を与えている。  しかし,今日の臨床現場を病者やその家族,医師, コメディカルなどの様々な語りが交錯する場として捉 えるならば,病者のみを病いの物語の語り手と想定す るだけでは十分ではないだろう。とりわけ,近年では 医師の側の苦悩が発信されていることを考慮すると, 病者(=物語の語り手)/医師(=物語の聞き手)とい う二分法的把握を再考し,「病いの語り」が意味する ものの射程を広げることには意義がある。  また,医療技術の進展にともない,種々の遺伝性疾 患が診断可能となった社会的状況においては,慢性疾 患に関してはみられなかった様々な新しい課題が出現 している。例えば,遺伝学的検査によって血縁関係に ある家族も発症の可能性があること(at risk)が明ら かになるが(日本医学会,2011),このとき家族は遺伝 性疾患患者の療養を見守り支援する立場でありなが ら,自らもまた発症に対する心理的不安を抱えること になる。  さらに,病いを受容して新たな信念を獲得するよう なポジティブな語りが強調され,そうした物語を語る ことが病者の「あるべき姿」として期待されるなか, かつてフランク(Frank, 2002/1995)が「病いの語り」 の理想型として提起した「探求の語り」には適合しな い病者の声が抑圧される恐れもある。  そこで本特集では,第一に,病者(=物語の語り手) /医師(=物語の聞き手)という二分法には収まらな い病者を取り巻く人々の経験に注目する。病者に長期 的かつ密接に関わらざるをえない立場であるからこそ の「苦悩の語り」とはどのようなものなのか,それぞ れのフィールドをもとに報告していただく。第二に, 慢性疾患以外の病いの経験に注目する。遺伝情報が個 人のプライバシーに属すると同時に血縁者とも共有さ れうるという遺伝性疾患の特性を踏まえると,もっぱ ら慢性疾患を対象にしてきた「病いの語り」研究はど

「病いの語り」再考

“Rethinking Illness Narrative”

西倉実季  

和歌山大学教育学部

NISHIKURA Miki Faculty of Education, Wakayama University

近藤恵  

大阪医科大学中山国際医学医療交流センター

KONDO Megumi Nakayama International Center for Medical Cooperation, Osaka Medical College

篠木絵理  

東京医療保健大学千葉看護学部

SHINOKI Eri Chiba Faculty of Nursing, Tokyo Healthcare University

キーワード:医師の語り,遺伝性疾患,探究の物語

Key words: doctor’s narrative, inherited disease, quest narrative

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のような更新が求められるのか,問題提起的な議論を 展開していただく。第三に,「探求の語り」からこぼ れ落ちる経験に注目する。ポジティブな病いの語りが 過度に強調されることで,誰の,どのような声が「語 られない」または「語れない」ものとなるのか,「探 求の語り」の理想化が孕む問題を検討していただく。 これらを通じて,質的心理学における「病いの語り」 研究の到達点を見定めると同時に,今後の新たな展開 を展望することが本特集のねらいである。

1. 病者/医師という二分法の問題

 「病いの語り」研究は,「病い」と「疾患」という 2 つの病気概念を区別し,病む側(病者)が経験するも のとしての病いは,治療する側(医師)が定義する疾 病とは異なることを示した。クラインマン(Kleinman, 1996/1988)が試みたのは,生物医学の視点からはこぼ れ落ちてしまう病者の主観的経験に迫り,その「病い の語り」を疾病に関する医学の知に対抗しうる「説明 モデル(explanatory model)」として確立することで あった。説明モデルとは,「患者や家族や治療者が, ある特定の病いのエピソードについていだく考え」の ことである(ibid., p.157)。病者と医師との説明モデル の齟齬を埋め,よりよい治療やケアを実現していくた めに,クラインマンは「病いの語り」を臨床の中心に 据えることを提唱したのであった。  このことを典型的に示しているのが,『病いの語り』 の冒頭に置かれた全身に及ぶ重篤な火傷を負った少女 と医学部生であるクラインマンのやり取りである。少 女の苦痛に絶望したクラインマンが「あなたはどのよ うに苦しみに耐えているのか」と語りかけたところ, それまで医師に自分の気持ちをたずねられることなど なかった彼女は驚いた様子であったが,率直に語りは じめる。病いの経験を語ることで,少女自身が厳しい 治療に耐えられるようになっただけでなく,無力感に 苛まれていたクラインマンもまた力を与えられた。こ うした経験を通して「病いの語り」が臨床において持 つ力を実感するようになったクラインマンは,病者は 自らの理解にもとづいて病いを経験しており,そのよ うな理解が実は治療効果や予後にも無視しえない影響 を及ぼしていると主張する。とするならば,治療やケ アにおいて病者の視点を採用することは重要であり, それは医師の「説明モデル」を相対化し,病者の「説 明モデル」をひとつの知として扱うことを意味する。  その後,医学を物語的活動(narrative activity)として 理解するモンゴメリーの『ドクターズ・ストーリー ズ』(Montgomery, 2016/1991)を手始めに,グリーンハ ルとハーウィッツ『ナラティブ・ベイスト・メディス ン』(Greenhalgh & Hurwitz, 2001/1998),シャロン『ナ

ラティブ・メディスン』(Charon, 2011/2006)のように, 医療者の側でも医学における物語の重要性への認識が 高まった。これらは,患者の世界を患者の視点から眺 め,疾患の診断・治療に傾倒する医療の現状を克服す ることで,より適切なケアの提供につなげようとする 動向である。「ナラティブ・コンピテンス(物語能力) を用いて実践される医療」である「ナラティブ・メ ディスン(物語医療学)」を提唱するシャロンによれ ば,医師に要請される専門性は「科学的な専門的知識 を持つ」と同時に,「患者の言葉に耳を傾け,病いと いう試練を可能な限り理解し,患者の語る病いのナラ ティブ(narrative: 物語)の意味づけを尊重し,目にし たことに心を動かされて患者のために行動できる」こ とである(Charon, 2011/2006, p.3)。「物語能力」とは, 患者のことを理解し,分かち合い,効果的なケアを提 供するために欠くことができないものである。  浮ヶ谷(2014a)によれば,患者の苦悩を主要なテー マに設定し,専門家の権力や権威,医師と患者の間の 不均衡な関係を批判的に検討した医療人類学は,患者 の権利獲得に貢献すると同時に,病むことをめぐる苦 悩の経験やその意味を明らかにするという成果を挙げ てきた。しかしその一方で,医療のあり方を患者の立 場からのみ検討するアプローチは,結果的に専門家批 判に帰結し,「批判にさらされる側の専門家自身の苦 悩」(浮ヶ谷,2014b, p.6)は見過ごされた。  加えて,澤野(2018)がハッチンソン(Hutchinson, 2016/2011)に言及しつつ指摘するように,「医療者が 自分自身の個人的なナラティヴを病者に聞かせること はしない」(澤野,2018, p.114)という問題もある。ハッ チンソンは「治療と癒しの統合」と定義される「全人

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的ケア」を提唱しており,そこでの医療者は「傷つい た 癒 し 人 」 で あ る こ と が 理 想 と さ れ て い る (Hutchinson, 2016/2011, p.151)。しかし澤野によれば, ハッチンソンが挙げる事例の医療者は「自分の傷を病 者には見せずに,なるべく自分が傷つかない位置から 弱者の語りを聞いてあげる人という印象を受ける」と いう1)。それは見方を変えれば,医療者の苦悩は病者 やその家族に伝えられず,「行き場を失っている」こ とを意味する(澤野,2018, p.114)。  このように医療者の苦悩が「行き場を失っている」 のは,まず,医師自身がその苦悩を医学的知識を用い て処理してしまうためである(Frank, 2010)。医師も患 者と同様の問題─持続する苦悩(suffering)ととも にどう生きるかという問題─を抱えている。しかし 医師は,そうした苦悩を疾患へと還元し,パターン化 された診断を下してしまうため,苦悩それ自体が顧み られることはない。  医療者の苦悩が「行き場を失っている」もうひとつ の理由は,様々な理由から医師が苦悩を「語れない」 状況に置かれているためである。たとえば「薬害 HIV」を経験したある医師は,患者や後輩医師からの 信頼を揺るがし,他の医師との競争において不利益を 被るのを回避するため「薬害 HIV」に関わる苦悩や 躊躇を語れずにいる(南山,2008)。小児がん医療に携 わるある医師は,治療という行為が不可避的に孕む暴 力性に苦悩しているが,それを他の医師や遺族と共有 し え な い と い う 別 様 の 苦 悩 も 抱 え て い る( 鷹 田, 2018)。  こうした事態は,単に医師が個人的苦悩を「語らな い 」 ま た は「 語 れ な い 」 の み な ら ず, フ ラ ン ク (Frank, 2002/1995)の言う「物語ることの相互性」が 成立していないことを意味するのではないか。フラン クによれば,物語は自分自身に対してと同時に,他者 のために語られる。語り手は,ただ自らのためだけで なく,他者の自己形成を導くために語る。そして,聴 き手の側がその導きを受け取ることは,語り手を承認 するだけでなく,価値づけることにもなる。このよう に,物語ることの道徳的な本質が「語り手と聴き手の それぞれが他者のための物語空間に入っていくこと」 (ibid., p.37)にあるにもかかわらず,医療者と病者と が「お互いの物語空間に真っ向から巻き込まれること はなく,そこに生々しい相互浸食を見出すことは難し い」(澤野,2018, p.114)とするならば2),それは両者 が道徳的関係を結べていないことに他ならないのでは ないか。  医療行為には高い不確定性が伴う。こうした行為に 従事するとき,医師は何に思い悩み,躊躇し,最終的 にどう判断を下すのか。南山が「薬害 HIV」につい て指摘するように,「医師の『思い』『とまどい』『悩み』 が表出された物語」は「多くの関係者にとって有用な 資源となり,『医学』『医療』,『医師』のあり方に対す るリフレクティヴな問いへと結びついていく可能性が あるのではないか」(南山,2008, p.66)。そうした問い への視野を閉ざさないためにも,医師の語りへの着目 は重要な課題である。

2. 慢性疾患以外の病いの経験への注目

 2000 年代以後の慢性疾患患者の療養支援に関する 研究では,個人史を基盤とする「病みの軌跡」の考え 方や「病気の不確かさ理論」等が臨床に活用されるよ うになった。また,個人史やライフストーリーを把握 するには,個人・家族の語りに耳を傾けることが重要 であり,個人・家族が自分たちの思いを語れる環境を 整えようとする努力が行われるようになった(黒江・ 藤澤,2016)。コービンとストラウスによって提示され た軌跡理論の枠組み trajectory framework は,病気の慢 性的状態は長い時間をかけて多様に変化していく一つ の 行 路 course を 示 す と い う 考 え に 基 づ い て い る (Cobin & Strauss, 1995/1992)。この「病みの行路 illness

course」モデルの慢性疾患看護への適用について,が ん,循環器疾患,精神疾患,糖尿病,多発性硬化症, HIV/HIDS を持つ人々の援助に関わる看護職者の見 解によると,疾患の特性は非常に多彩でありながら, 絶えず変化に直面しており,何度も何度も必要になる アイデンティティの適応プロセスとして「折り合いをつ ける」点が共通している(Cobin & Strauss, 1995/1992)。  一方,決定的な治療法のない遺伝性疾患家系の研究 では,患者には,子どもへの罪責感,哀しみ,将来へ

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の不安などがあり(柊中・中込・川崎,2014),その家 族も強い苦悩があることが明らかになっている(大久 保,2014)。では,遺伝性疾患の患者本人やその家族 の経験は,慢性疾患の患者本人やその家族の経験とど のように異なるのか。  一般的に遺伝といえば親以上の世代から,顔つきや 身体つき,体質といった「似ている」部分が受け継が れているものと認識されている。遺伝性疾患患者にお いては,遺伝性疾患を家系内で受け継ぐこととなる。 疾患を受け継ぐ経験は,従来の病いの経験とは異なる 経験であり,これまで十分に検討されてきたとは言い 難い。  また,診断・治療はそれを受ける時期により,予後 や疾患の概念が異なる。HIV 陽性者による HIV 感染 予 防 を め ぐ る 語 り の 分 析 に よ れ ば,1997 年 の HAART(highly active anti-retroviral therapy:多剤剤併用

による抗 HIV 療法)が導入されるようになって以降, HIV 陽性者の死亡率は激減しており,2012 年に陽性 であるとわかった者は「ある意味安心した」と語り, それは感染を恐れる必要がなくなったことを意味して いる(新ヶ江,2018)。この例では,治療可能な疾患と しての知識や経験が得られることによって,確実な治 療法がなく,発症すれば死に至ると認識されていた時 期とは異なる語りが得られている。医学研究の発展に より,診断・治療方法は数年単位で変化し続けてい る。前述の例のように世代間で診断の時期や治療の内 容が異なる場合では,患者の家族として経験した病い と,患者として経験した病いとで,その経験のあり様 が異なることになる。  また,例えば,常染色体優性遺伝形式をとる遺伝性 疾患では,家系内の一人に発症が認められれば,血縁 者は発症する可能性(at risk)を持ち,発症前診断に おいて遺伝子変異陽性と診断された場合には,発症可 能性はより高まる。しかし,未発症である限りは患者 ではない。家系内における発症した家族は,未発症者 の写像である。それゆえ,患者を抱える家族は,当の 病気が差し出す現実に関わらざるを得ない(Leite,

Dinis, Sequeiros, & Paúl, 2015)。未発症者は患者ではない が,いずれ自らも発症する可能性のある「病い」を患 者家族としての立場から経験すると同時に,いつか自 分も発症するかもしれないという不安を経験する。こ うした経験の語りは,慢性疾患の患者の語りとは異な り,「病い」に向き合う語りと言えるかもしれない。 このような経験を語ることは,いずれ患者になる可能 性のある未発症者自身にどのような意味をもたらすの か,後に患者となった者の「病いの語り」にどのよう な影響をもたらすのか。今後の病いの語り研究の課題 となるだろう。

3. 「探求の語り」からこぼれ落ちるもの

 フランク(Frank 2002/1995)は,病いの語りを「回

復の語り(restitution narrative)」,「混沌の語り(chaos narrative)」,「探求の語り(quest narrative)」の 3 つに類 型化した。「回復の語り」は「病気になって間もない 人々に顕著で,慢性疾患の場合にはその頻度が最も低 くなる」もので,健康を取り戻すという筋書きを持つ (ibid., p.114)。「混沌の語り」は現に苦しみの只中を生 きている人々によるもので,「時間を通じて互いに結 びつく出来事の継続性をうちに含む」という語りの要 件 を 著 し く 欠 く と い う 意 味 で「 反4 - 語 り4 4 (anti-narrative)」である(ibid., p.141)。「探求の語り」は,病 者が「苦しみに真っ向から立ち向かおうとするもの」 であり,病いは「出立・イニシエーション・帰還」と いう 3 つの段階を経る「英雄の旅」にたとえられる (ibid., p.163-8)。  フランクは「病いについての近代的経験」と「病い の脱近代的経験」を区別し,後者は「医学的物語に よって語りうる以上のものが自らの経験に含まれてい ると,病む人々が認識するところから始まる」(ibid., p.24)と述べる。医師によって語られる医学的物語が 他の何よりも優位に置かれる近代社会では,病者は患 者として医師の指示に従い,回復に対して責任を負う だけであった。そこでは医療の勝利についての物語で ある「回復の語り」が支配的であり,病者の個人的経 験に焦点が当てられることはなかった。これに対し て,長い時間を病いとともに生きる脱近代の病者は, 自らの経験が医学的物語に還元されること─「語り の譲り渡し(narrative surrender)」─を拒絶し,個人

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的な苦しみの個別性が認識されることを要請する。こ のとき,病者は「病いが自己の人生の中で持つ意味に 対して責任を負わなければならない」(ibid., p.32)。フ ランクによると,こうした責任は,「その[=自らの] 苦しみを証言へと転じようとすることによって,物語 の語り手は道徳的行為へと参与する」脱近代に固有の 「探求の語り」を通して遂行される(ibid., p.38, [ ]内 は引用者による補足)。  フランクによれば,実際の語りはいずれかの類型に うまく適合するわけではなく,3 つの病いの物語は病 者の言葉を聴くことを助ける「聴くための道具4 4 4 4 4 4 4」(ibid., p.112)として用いられるべきである。とはいえ,「回 復の語り」における能動的な行為者はあくまで治療者 であり,「混沌の語り」においては語り手の声が喪失 されているのに対し,「探求の物語の中でのみ,語り 手は語るべき物語を持つ」ことからも(ibid., p.163), フランクが「探求の語り」を病いの語りの「理想型」 と し て 提 示 し て い る こ と は 明 ら か で あ る( 野 島, 2018)。  フランクのこうした議論は,「回復の語り」からこ ぼれ落ちる経験に注意を促し,脱近代社会における病 む人々の道徳的行為主体としての可能性を提起したも のではあるが,伊藤が指摘するように「病いをもつ者 は『探求の物語』を語るべきだ」という「道徳的要 請」として読まれうる(伊藤,2010, p.56)。またベリー は,「探求の語り」のような道徳的な語りが強調され るとき,そうした語りを語れる個人は賞賛され,そう でない人は暗に非難されるのではないかと警鐘を鳴ら している(Bury, 2001)。たしかに,フランク自身も 「探求の物語に伴う危険性」に注意を喚起してはいる が(Frank 2002/1995, p.189),かつての「回復の語り」 と同じように「探求の語り」がそれに沿わないという 理由で特定の病者の声を抑圧したり過小評価してはい ないか,慎重な見定めが必要である。  経験的研究を通じて「探求の語り」の批判的検討を 試みたものとしては,病いを「受け入れていない」線 維筋痛症患者の語りを扱った野島(2018)がある。野 島が病いを「受け入れていない」語り手に注目するの は,フランクの議論では病いの受容が「探求の語り」 の成立要件とみなされていることによる。線維筋痛症 患者の語りから浮かび上がるのは,第一に,病いの受 容という「『耳ざわりのいい』生き方」の物語が社会 に流通するなかで規範的な病者像がつくられ,そこか ら逸脱した病者の生き方が否定されうる事態である。 フランクは「探求の語り」の語り手を「英雄」として 描写しているが,そうした英雄が「あるべき病者像」 として規範化されていくのである。第二に,病いを受 け入れていなくとも,病いの経験を他者と分有しよう とする病者の姿である。「語る-聴く」が共同行為で あるならば,語り手が道徳的行為主体になるかどうか は,語り手のみならず聴き手の態度にも依存するはず である。つまり,たとえ「耳ざわりのよくない語り」 であったとしても,それが「『探求の語り』として読 まれるか否か,またどのように読まれるかは,他者の 物語を価値づける聴き手の倫理的責任4 4 4 4 4 4 4 4 4 の取り方次第で ある」と言える(ibid., p.102, 強調点は引用者による)。  線維筋痛症患者の語りを受けて,野島は「探求の語 り」がマスター・ナラティヴ化し,病者コミュニティ のモデル・ストーリーとなる社会に対しても批判的な まなざしを向ける3)。野島によれば,「探求の語り」 は実際のところ病者自身によってよりも,むしろ医療 者や一般の人々にとって望ましいものである。なぜな ら,どれだけ発展した現代医療をもってしても治らな い病いを受容し,苦しみに向き合うという個人化され た解決は「社会にとってはコストのかからない合理的 な語り」であるからだ(ibid., p.102)。ここで提示され ているのは,「探求の語り」を語る病者を欲望する社 会について考察すると同時に,病者の多様な声を排除 しない語りを生み出しうる「聴き手の倫理的責任」を 問うという課題の重要性である。  この点,「障害受容」をはじめとして「あるべき障 害 者 像 」 の 強 要 を 鋭 く 問 題 化 し て き た 障 害 学 (disability studies)の議論が参考になるだろう。たとえ ば田中(2005)は,「闘う障害者像」や「自立する障 害者像」といったアイデンティティの規範化に伴う抑 圧を指摘している。障害者運動はアイデンティティの 共有を通じて凝集性を高めてきた一方,それを共有し なかったりそこに到達できない人々を「誤った認識を 持つ障害者」,「植民地化された障害者」とラベリング し,障害当事者内部にヒエラルキーを持ち込む恐れも

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ある。  加えて,大出(2013)は,フランクによる語りの類 型を用いる際には,文化的相違に自覚的になる必要が あると指摘する。「探求の語り」においては「病いの 経験の意味を言語化する個人の存在」(ibid., p.93)が 前提とされているが,病いの経験の意味を言語化する のは「個人」という単位とは限らないし,言語とは別 の経験の表現方法もありうる。たとえば,「自分自身 で,共に」というキャッチフレーズが端的に示すよう に,浦河べてるの家の当事者研究は仲間とともにおこ なう共同行為である(浦河べてるの家,2005)。自分の 身に起きている困難の仕組みやその対処法を仲間の手 を借りながら探り当て,専門家もそれを側面からサ ポートするのであり,これは「個人」単位での言語化 とは異なる4)。また,とりわけ他者に向けて語ること が容易でない精神障害の領域では,アートや演劇と いった非言語活動を通じて言語化しえない痛みや苦し みを表現しようとする試みが蓄積されてきた(荒井, 2013; 藤澤,2014 など)。  このように,複雑な社会的・文化的プロセスのもと で生成される「病いの語り」の政治性に着目すること で,病者がいかなる言説に絡めとられ,誰の,どのよ うな生き方/あり方が抑圧されるのかについての考察 が求められる。

おわりに

 以上,「病いの語り」研究を再考する糸口として, 物語の語り手としての医師への注目,慢性疾患とは質 的に異なる病いの経験への注目,「探求の語り」には 適合的でない経験への注目という 3 つの観点について 検討してきた。これらの観点が,クラインマンやフラ ンクらの議論を基盤に蓄積されてきた研究が相対的に 見落としてきたものへの注意を促しつつ,「病いの語 り」研究にさらなる進展をもたらすのではないか。  最後に,3 つの観点に共通する問題として,「語り 手の倫理的責任以上に,これまでほとんど省みられて こなかった聴き手の倫理的責任」(野島,2018, p.103) がある。というのは,「行き場を失っている」苦悩が 語られるための回路を開けるか否か,at risk の不確か な状況を生きる苦悩を「病いの語り」として捉えられ るか否か,「耳ざわりのよい語り」には包摂しきれな い生のあり様を受けとめられるか否かは,他者の物語 を承認し,価値づける聴き手の側の問題であるから だ。これまで語られてこなかった,あるいは語られて きたけれども十分に聞かれてこなかった,そしてこれ から語られるであろう病いの語りに対する「聴き手の 倫理的責任」をめぐる議論は,質的心理学の重要な研 究課題である。 1) 北中(2016a)は,この問題を「病いの語り」と科学との融合 めぐる困難として論じている。とりわけ精神医学の領域では, 長期施設化や精神疾患のスティグマ化といった負の歴史があ るため,医師にとって当事者の語りは意見したり検証したり することが憚られる「不可侵領域」となる。客観性や普遍性 を重視する科学と,主観的で価値判断に満ちた「語り」とは 立場的に両立しがたい。「したがって,真摯に,相手を理解 したいと願っている患者と医師の間であっても─その語り のお作法や前提となる価値観が異なるために─不幸にもそ の思いがすれちがったまま,対話(ダイアローグ)が独話 (モノローグ)のまま終わる状況」(ibid., p.190)がありうる。 2) 澤野は,語りをめぐるこうした状況が調査者-調査協力者間 にも見出せると指摘している(澤野,2018)。とりわけ短期の 調査では「お互いに物語空間に真っ向から巻き込まれる」の とは異なる形式で語りが収集されることがありうる。 3) 桜井の用語である。桜井は,コミュニティのメンバーであれ ばただちに了解できるようなストーリーを「モデル・ストー リー」,特定のコミュニティを超えた全体社会において支配 的に語られており,「文化的慣習や社会規範を表現している ストーリー」を「マスター・ナラティヴ」と呼んでいる(桜 井,2002, p.103)。モデル・ストーリーは,マスター・ナラティ ヴと同一化することもあればそれに対抗する場合もある。 4) 当事者研究の中にもバリエーションがある。石原(2013)に よれば,綾屋・熊谷の『発達障害当事者研究』(2008)は, 体験の記述のみならず理論化までを志向する点,体験を共有 する仲間とともに研究する営みであると同時に,それを共有 しない者に向けて語る営みでもある点で,べてるの家とは異

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なる独自の進展を遂げている。北中は,この動向について, 「従来「主観性」や「語り」(いわゆるNBM: Narrative Based Medicine)の側に縛り付けられてきた当事者が,科学者が独 占してきた「客観性」や「エヴィデンス」(EBM: Evidence Based Medicine)の言語を学ぶことで受け身の存在を抜け出 し,医学知の生産者として能動性を獲得し,従来の二項対立 を乗り越える試みとしても,大きな可能性を秘めている」(北 中,2016b, pp.179-180)と評している。 引用文献 荒井裕樹 (2013) 生きていく絵. 亜紀書房. 綾屋紗月・熊谷晋一郎 (2008) 発達障害当事者研究─ゆっくりて いねいにつながりたい. 医学書院.

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参照

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